5月24日説教「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

2020年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書4章1~15節

説教題:「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

 主イエスは公のご生涯のはじめに、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあとに、荒れ野で悪魔からの誘惑にあわれました。この二つのことは、時間的に続いているだけでなく、内容から言っても密接な関連があります。きょうはまずその関連について考えてみましょう。

 主イエスの洗礼の場面と荒れ野での誘惑の場面に共通している第一のことは、聖霊です。ルカ福音書3章21節には、主イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていましたが、4章1節でも、「イエスは聖霊に満ちて」とあります。主イエスは洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配とお導きによって、その公のご生涯をお始めになりました。荒野でも聖霊は主イエスから離れることはありません。いや、荒れ野で悪魔の誘惑と戦われたその時にこそ、主イエスは聖霊に満たされ、聖霊のご支配とお導きによって、その戦いに勝利されたのです。このことについては、あとでもう少し詳しく学ぶことにします。

 主イエスの受洗と誘惑の本質的な関連を考えてみましょう。主イエスは、すでに学んだように、罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人となられて、悔い改めの洗礼をお受けになりました。それによって、わたしたちが主イエスを救い主と信じ、自らの罪を悔い改めて洗礼を受け、キリスト者となる、その最初の道を主イエスはわたしたちのために開いてくださったのです。

 荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことも同様の意味を持っています。天におられる全能の父なる神のみ子・主イエスが、ご自身を低くされ、貧しくされて、人間のお姿でこの世に下って来られ、わたしたち人間が経験しなければならないすべての誘惑や試練をご自身もまたお受けになられたのです。そして、悪魔の誘惑に勝利なさったのです。それは、わたしたち人間をあらゆる誘惑や試練の中で守るため、救うためにほかなりません。主イエスが経験された試練や苦難の意味について、ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのように書かれています。【17~18節】(403ページ)。また、【4章15~16節】(405ページ)、さらに、【5章8~10節】(406ページ)。わたしたちの弱さをすべて知っておられる主イエス、ご自身がそのすべてを引き受けてくださった主イエスこそが、わたしたちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。

 主イエスの受洗と荒れ野での誘惑との密接なつながりから教えられるもう一つの重要なことは、まさにその二つは本質的に切り離すことができないものだということです。主イエスの洗礼のあとにすぐに悪魔の誘惑が続いています。洗礼を受けるということは、悪魔の誘惑から逃げたり、それを避けたりすることではなく、あるいはそれらとの戦いをしなくても済むという保証でもなく、それらと積極的に戦って、それに勝利することへとつながっていくことなのです。

 ある人は誤解して、洗礼を受けてクリスチャンになれば、人生の悩みや迷い、苦しみがなくなって、災いや試練にもあわなくて済む、平穏な生活が送れるようになると考えます。また、わたしたちの周囲にはそのような幸運と繁栄を約束する宗教がたくさんあります。それらの宗教は人間の願いや計画をいかにして実現するかを主たる目的にしています。けれども、キリスト教信仰はそうではありません。人間の願いや計画ではなく、神のみ心、神の救いのご計画が実現することこそが重要なのです。そもそも、人間の願いや好みのままに働く神は、人間が勝手に造りあげた偶像に過ぎません。人間が造ったものは人間以上ではあり得ず、したがって本当に人間を救うことはできません。

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰は、試練や苦難にあわない道を上手に選んで通るというのではなく、むしろどのような試練や苦難にあっても、それを恐れず、その中にあっても決して失望せず、主キリストが与えくださる勝利を信じて耐え忍び、戦い抜いていく勇気と力を与えるのです。それだけではありません。主キリストのため、信仰のため、福音宣教のためには、苦難や労苦をも喜んでわが身に引き受けるのです。信仰者として生きる時、それ以前には試練だとは思わなかったことが新たな試練となったり、それ以前には安易な妥協の道を選んでいたことが、新たな戦いを迫られたり、洗礼を受けたあとの方が苦しく辛い道になったりすることもあるでしょう。しかし、信仰者はそれらをも喜んで耐え忍び、その中にあってもなお、主キリストにある勝利を信じ続けるのです。主キリストご自身が、わたしに先立って、その道を進み行かれ、わたしのために罪と死と滅びに勝利しておられることを知っているからです。

 では、1~2節を読みましょう。【1~2節】。「イエスは聖霊に満ちて」の「聖霊」と、次の「霊」とは、同じ聖霊なる神のことです。14節の「霊」も同じです。きょうの悪魔の誘惑の場面では、悪魔が主人公であるように見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。主イエスを満たしているのは聖霊なる神であり、聖霊なる神が主イエスを荒れ野の中へと導いておられるのです。きょうの場面だけではありません。14節から始まる福音宣教の活動と主イエスのご生涯全体が、聖霊なる神に導かれています。聖霊なる神のみ力によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。

 そのことを強調しているのが40日間の断食です。主イエスは肉体的には空腹であっても、聖霊に満たされていました。主イエスが悪魔の誘惑と戦う力は、栄養ある食物をたくさん食べて得られる体力ではなく、どこかの学校で学んだ学力でもなく、この世での経験を積んだ人生の知恵でもありません。むしろ、それらのすべてが貧しくなり、むなしくなり、無力になった時にこそ働かれる聖霊なる神によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。主イエスが40日間断食されたのは、ご自分の弱さに徹するためであったのです。聖霊なる神にご自身を明け渡すためであったのです。

 もし、キリスト者の断食に信仰的な意味を見いだすとすれば、それはここにあると言えるのではないでしょうか。自分の意志や要求を実現するためとか、自分の意見や立場を表明したり、あるいはだれかにそれをアッピールしたりする手段のためと言うよりは、自らを神のみ前にあって貧しくし、無力にして、神に自分を明け渡して、神ご自身がわたしの中でお働きくださることを願う、そして神のみ心がなるように祈る、そこにキリスト教的断食の意味を見いだすことができるのではないでしょうか。

 ところで、ルカ福音書では、主イエスを誘惑するのは「悪魔」と呼ばれていますが、マタイ福音書4章3節では「誘惑する者」、マルコ福音書1章13節では「サタン」と呼ばれています。これらはみな同じものを指しています。悪魔とかサタンとか言われると、何か恐ろしい、恐怖を与える悪い存在を予想するかもしれませんが、ここに登場する悪魔は必ずしもそうではありません。このあとで展開される三つの誘惑の場面を見ても、悪魔はむしろ優しく、人間思いで、英雄のような存在です。人間の必要性や、願望や欲望、好奇心や信仰心までをも刺激して、人間に近づいてくるのが悪魔です。

 悪魔、サタン、誘惑者に共通しているのは、主イエスを、そしてわたしたち人間を、父なる神から引き離そうとすることにあります。神に従わなくても、神なしでも生きていくことができる、むしろ自分が神のような存在になれると思い込ませることに、悪魔の誘惑があります。それは、聖書が言う罪と共通点を持っています。悪魔とかサタンと言われるものと罪とが、聖書の中では全く同じであると考えられているのかどうかについては議論の余地があるところですが、両者が同じ働きをするということは確かです。

 では次に、第一の誘惑についてみていきましょう。【3~4節】。ここでは、主イエスにとって二重の誘惑があります。一つには、ご自身が空腹を覚えられ、ご自身の肉体の必要を満たしたいという誘惑です。もう一つは、こちらの方が主イエスにとってはより大きな誘惑ですが、人々のパンの必要を満たすために神の子としての使命を果たしたいという誘惑です。当時の困難な状況の中で苦しんでいた貧しい民衆のために、あるいは、いつの時代にも深刻な課題としてある食糧難、パンの問題を、一気に解決できる魔法の力があれば、それで世界を救えるのではないか、そのための力を神から授かったらどんなにか幸いなことか。

 けれども、主イエスはその誘惑を退けられました。パンの奇跡によっては、本当に人間を救うことはできない、パンの問題を解決することによっては、本当に世界を救うことはできないと、主イエスは言われます。また、それが神の子・メシア・救い主であるわたしの使命ではないと、主イエスは言われます。人間と世界の本当の救いは、神がお語りくださる命のみ言葉を聞き、信じることによってであると主イエスは言われます。

 ルカ福音書では、「人はパンだけで生きるものではない」の後半は省略されていますが、マタイ福音書4章では申命記8章3節の全体が引用されています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と主イエスはお答えになりました。パンは人間の朽ちる肉体を一時的に養うことしかできません。しかし、神のみ言葉は永遠に変わることなく、絶えず新しい命を注いでイスラエルの民を導き、全人類を神の国が完成されるまで導きます。主イエスはその神の国の福音を宣べ伝えるために、十字架への道を進み行かれたのです。

 第二、第三の誘惑に対しても、主イエスは神のみ言葉によってそれらを退けられます。【8節】。これは申命記6章13節のみ言葉です。【12節】。これは申命記6章16節からの引用です。主イエスは徹底して神のみ言葉によって誘惑と戦われます。そして、それに勝利されます。主イエスは神のみ言葉の前で、ご自身の権力と繁栄のすべてをお捨てになりました。主イエスは神のみ言葉に徹底して服従されました。フィリピの信徒への手紙2章8節にあるように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に」、父なる神に服従されました。それによって、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。荒れ野で悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利された主イエスのご生涯とその歩みは、十字架と復活へと向かって進んでいきます。

 3節と9節で、悪魔は「お前が神の子なら」という言葉で主イエスを誘惑します。同じような言葉をわたしたちは主イエスの十字架の場面でもう一度聞くことになります。十字架につけられた主イエスに向かって、「お前が神の子・メシアなら、自分を救ってみろ」(ルカ福音書23章36節、マタイ福音書27章40節を参照)、と人々は叫びました。悪魔の誘惑は、まさに主イエスを十字架から引き下ろし、主イエスの十字架を否定することにあったのです。

 けれども、主イエスはご自分を救うことはなさいませんでした。十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、わたしたちの救いを全うされたのです。それゆえに、十字架の主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、わたしたちもすべての悪の誘惑やサタンの試みに勝利することができるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを罪と悪魔の誘惑から守り、お救いください。わたし

たちがただあなたの命のみ言葉にのみ聞き従って、備えられたみ国への道を進み行くことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「カインの末裔-裁きではなくゆるしを」

マタイによる福音書18章21~35節

2020年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章13~26節

    マタイによる福音書18章21~35節

説教題:「カインの末裔―裁きではなくゆるしを」

 「カインの末裔」というきょうの説教題は、作家の有島武郎が1917年(大正6年)に発表した小説の題からつけたものです。創世記4章のカインとアベルの物語は、嫉妬や憎悪の思いに支配されて罪と復讐を繰り返していくというテーマで、多くの小説や映画の題材になりました。また、少し違った視点からカインとアベル物語を取り上げたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは『デミアン』という小説を書いています。わたくしは青年時代に、この二つの小説を同じ時期に読み、人生や信仰について真剣に考えるきっかけとなったことを思い起こします。

創世記に描かれている神によって最初に創造された人間とその子孫たち、アダムとエバ、カインとアベル、そしてノア、またアブラハム、これらの人物はまさにその末裔である今日のわたしたち人間一人一人の原型であるのだと言ってよいのではないでしょうか。そしてさらに、旧約聖書全体に描かれているすべての人間たちの罪の歴史と、その中での神の救いの歴史が、新約聖書に至って、主イエス・キリストに合流していると言ってよいでしょう。

 きょうは前回の説教の最後で触れた10節のみ言葉をもう一度取り上げてみます。【10節】。カインは弟アベルに対する連帯責任、共に生きるという責任を果たすことができなかっただけでなく、嫉妬と憎悪によって殺害した弟のことを神に問われた時に、9節では「わたしは弟の番人でしょうか」とまで言っていました。カインは弟の血の責任を負うことはもちろんできません。その上に、彼は自分が犯した罪を神のみ前に隠そうとさえしています。ここに、人間の罪の最も悲惨で恐ろしい姿が現れています。また、人間の罪によって破壊された隣人関係のあわれで、またおぞましくもある姿が現れています。

 しかし、神はカインによって見捨てられ、土の下に覆い隠されたアベルの血の叫びを確かに聞いておられます。ヘブライ人の手紙12章24節のみ言葉を前回紹介しました。そこには「アベルの血よりも力強く語るイエスの血」と書かれています。主イエス・キリストが十字架で流された神のみ子の清く尊い血の叫びを、神は聞いてくださり、それによってわたしたちの罪をすべて、永遠に洗い流し、罪から清めてくださったのです。

 もう一つ、ヨハネの黙示録では、殉教者たちが流した血の報いを神が終わりの日に必ず果たしてくださるであろうと約束されています。死に至るまで忠実に主なる神に仕えた信仰者たちを、神は終わりの日の神の国が完成されるときに、輝く清い衣を着せられた花嫁として花婿なる主キリストのもとへと連れていかれると約束されています(ヨハネの黙示録19章、他参照)。神は信じる者たちの血の一滴をも、あるいはまた福音のための戦いで流された汗と涙の一滴をもすべて覚えてくださいます。そして、それに報いてくださいます。

 では、きょうの個所を読んでいきましょう。【13~15節】。神との正しい関係が壊れ、隣人との関係も壊れ、しかも悔い改めることをしなかったカインは神に呪われた者となりました。神の裁きが11~12節に書かれていました。神の裁きは二重にカインを苦しめました。彼が土を耕してももはや彼のために作物を生み出さず、彼自身も定住の地を持たず、地上をあてもなくさまよう放浪の身となりました。ここに至って、カインは初めて自らの罪の大きさに気づき始めたように見えます。彼は自分の罪の重さに耐えきれないことを告白しなければなりません。彼は神の憐れみを乞い求めざるを得ません。

 ここでわたしたちは重要なことに気づきます。あれほどに傲慢で、神をも恐れず、神に逆らっていたカインが、ここでは神から見捨てられることの重大さに気づき始めているということを。地上の放浪者となり、しかも神なき世界で生きていかなければならなくなったカインには、自分の身を守るすべが何一つないのだということを。それゆえに、神が恐るべき呪いによって厳しい裁きを彼にお与えになったのは、実は、彼にこのことを気づかせるためであったのだということを。そして、神はなおも罪と死と滅びの中にあるカインをお見捨てにはならず、ご自身へとお招きなっておられるということを、わたしたちは気づかされるのです。カインは恐れおののきながら、神の憐れみを願い求めます。

 そこで、神はカインに言われます。【15節】。神は殺されたアベルの血の叫びを聞かれただけでなく、殺人者カインの願いをも聞かれます。神はカインを復讐者の手から守ると約束されました。そのために、カインに一つのしるしをつけられました。それがどのようなしるしであったのかについては書かれていません。入れ墨とか大きなほくろとか、そのようものであったと推測されます。だれであれ、カインが意図的殺人によって流した血の復讐をすることは許されず、カインは神によって守られることになったのです。カインが犯した大きな罪によっても、神の憐れみと救いのみ手は決して消えることはありません。

 カインはエデンの東、ノドの地に住んだと16節に書かれています。「ノド」とは「さすらい」「動揺」という意味を持ちます。カインはまことの救い主に出会うまでは、帰るべき故郷を持たずに放浪とさすらい、動揺と不安の中で生きていかなければなりません。4世紀の偉大な神学者アウグスチヌスは彼自身の長い放浪生活の後でこのように言いました。「人は、まことの創り主なる神を見いだすまでは、その魂に真の安らぎを得ることはできない」と。神を見失い、神から離れたカインの末裔である人間は、真の故郷をも見失い、確固とした足場を持たず、あてもなく地をさまよい、さすらいと動揺と不安の中で生きるほかにありません。

 次に、17節からは、カインの子孫について書かれています。放浪を続けるカインはやがて結婚をし、子どもを産み、家庭を築き、その地に定住して町を建て、多くの子孫が住み着くようになりましから。20節からはいくつかの職業が挙げられています。家畜を飼い天幕に住む民族、竪琴や笛を奏でる民族、青銅や鉄で道具を作る民族など、農業や芸術、工業、文化と言われるものが発達し、大きな都市計画が進められていきました。そのようにして、カインの末裔たちはさすらいと動揺から何とかして抜け出そうと、今日まで歩みを続けてきたのでした。

 けれども、カインの末裔たちは町を作り、都市計画を進めることによって、神から追放されて放浪の身となったことを、ほんとうに忘れることができるのでしょうか。自分たちが造り上げた近代的な都市の中で、ほんとうの魂の安らぎを見いだすことができるのでしょうか。あるいは、神から与えられた厳しい刑罰を忘れ、いつかは神なしでも自分たちだけで立派にやっていけることを証明し、神を見返してやることができると考えているのでしょうか。町々に多くの人間を寄せ集めて、肩を寄せ合って生きることによって、失われた人間の交わりを取り戻すことができると考えているのでしょうか。都市の快適な生活が心の痛みや罪の意識やさすらいの孤独、動揺、不安のすべてを解決してくれると考えているのでしょうか。カインとカインの末裔たちのこの試みは果たして成功するのでしょうか。

 その答えは、23節、24節に、恐るべき結末になることが、カインの子孫レメクの歌として書かれています。【23~24節】。レメクは復讐の歌を歌っています。自分が受けた傷のために77倍もの復讐をしてやるぞと歌うのです。いや、ここで言われていることは、人間への復讐だけではありません。むしろそれは、神への反逆の歌と言うべきです。15節で、神はカインを殺す者には7倍の復讐をすると言われ、殺人者カインをも神は守ってくださるという神の憐れみが示されていましたが、しかしレメクはその憐れみ深い神に反逆するかのように、神の憐れみを投げ捨てるかのように、自分が神に代わって、神以上の復讐者になるのだというのです。レメクの復讐の歌は、神への反逆の歌であり、自らが神以上のものになろうとする、人間の傲慢で不遜で、限りない残忍さを歌った歌なのです。これが、神に背き、神なしで生きるカインの末裔たちの行き着く姿なのだということを、聖書はここであらかじめ予告しているのです。

 アダムとエバから始まった人間の罪、カインの兄弟殺しへと発展していく人間の罪は、やがて人々が集団を形成し、町を建設し、文化や芸術、産業が発展し、人間が高度な文化的生活、社会的生活を営むようになっても、その罪は小さくなることも、消え去ることもなく、いやむしる、人間の罪はいよいよ悲惨さを増していくしかないのです。

 だれがこの罪の世からわたしたちを救ってくれるのでしょうか。だれが人間のこの罪の歯車を、復讐の連鎖を止めることができるのでしょうか。

 主イエスはマタイ福音書18章21節以下で、ゆるしの回数を聞いた弟子のペトロにこのようにお答えになりました。【21~22節】(35ページ)。

レメクの歌は徹底的な復讐の歌でしたが、主イエスの教えは徹底的なゆるしの福音です。主イエスのゆるしには限界がありません。主イエスのゆるしは完全であり、永遠です。主イエスこそが、人間の罪の歴史を、復讐の連鎖を、ゆるしの福音によって終わらせるのです。わたしたち人間の罪のために、ご自身が苦しみを受けられ、十字架への道を進み行かれ、わたしたちの罪の贖いのためにご自身の尊く清い血を流してくださった主イエス、それによってわたしたちのすべての罪を永遠にゆるしてくださった主イエスこそが、わたしたちを再び神に愛されている神の民とし、神にある平安と慰め、喜びと希望へと招き入れてくださったのです。主イエスによって与えられたこの罪のゆるしから、わたしたちもまた互いにゆるし合い、愛し合い、共に一つの神の民とされていることを感謝しつつ、ゆるしの共同体、愛の共同体として生きる道が備えられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちは造り主なるあなたを離れては、牧者を失った羊のよう

に、地をさまようほかにありません。神よ、どうかわたしたちをあなたのもとへと連れ戻してください。わたしたちのために命を捨ててくださった真実の牧者であられる主イエス・キリストによって、わたしたちを見いだしてください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「主にあって常に喜びなさい」

2020年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書57章14~21節

    フィリピの信徒への手紙4章1~9節

説教題:「主にあって常に喜びなさい」

 「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙の中には「喜び」という言葉が二十数回用いられています。もう一つ、この手紙の中で頻繁に繰り返される言葉があります。それは「主において」あるいは「主イエス・キリストにおいて(これは「主イエス・キリストに結ばれて」と訳されたりします)という言葉です。フィリピの信徒への手紙では21回用いられています。パウロの他の手紙でも、「主にあって」あるいは、それに似た表現は数多く用いられており、パウロの神学、パウロの信仰の大きな特徴を表す言葉です。きょうはまず初めに「主にあって」という言葉について学んでいきたいと思います。

 きょう朗読された箇所からそれを抜き出してみましょう。1節、「主によってしっかりと立ちなさい」、2節「主において同じ思いを抱きなさい」、4節「主において常に喜びなさい」、7節「キリスト・イエスによって守るでしょう」。この個所だけでも4回繰り返されています。ギリシャ語では「エン」(英語の「イン」にあたる)は「~の中で」という意味を持っており、聖書では「~にあって、~によって、~において、~に結ばれて」などと、それぞれの文脈で違った訳が付けられています。

 では、具体的にどのような意味を持つのでしょうか。「主キリストにあって」とは、最も広い意味で理解するならば、主キリストとの交わりの中でということになるでしょう。主キリストを信じる信仰によって、主キリストにつながれて、主キリストの十字架と復活の福音を聞き、主キリストの救いの恵みを受け取り、主キリストに支えられ、導かれながら、主キリストが先立ち行かれた天のみ国、神の国への旅路を続ける、そのような信仰者の生き方全体を規定する言葉が「主キリストにあって」であると言ってよいでしょう。つまり、わたしたち信仰者の存在と命と生活の起源、出発点が主キリストにあるということ、また、わたしたちの今、現在が主キリストにあり、さらには、わたしたちの将来、目的地もまた主キリストにある、そのすべてを含んで、パウロは「主キリストにあって」と表現していると理解できます。

 1節では「だから……このように主によってしっかりと立ちなさい」とパウロは勧めています。フィリピの教会が、教会の内と外からの攻撃や誘惑の中でも、決して動揺することなく、恐れることなく、固く立ち続けることができるために、前の個所、3章21、22節で書いたように、今は天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストとの聖霊による豊かな交わりの中にあって、主キリストの十字架の福音を信じつつ、主キリストの再臨を待ち望みつつ、天に国籍を持つ者として生きるようにとパウロは勧めています。これが、「主にあって」という短い言葉の中に含まれている大きな、そして豊かな内容なのです。主こそが、主イエス・キリストこそが、フィリピ教会の、そしてわたしたち一人一人の、生きる根拠、土台、基礎であり、また、今の時を生きる支え、導きであり、そしてまた、生きる目標、目的、完成なのです。たとえ、今の時がどれほどに厳しい時代であれ、混乱と不安に覆われた時代であるとしても、「主キリストにあって」堅く立ち続けることができるのです。

 2節では、フィリピ教会の二人の婦人の名前が挙げられています。【2節】。この二人の婦人は教会でよき働きをし、パウロと共に福音宣教のための戦いをしてきたと3節に書かれていますので、パウロ自身もよく知っている婦人だったと思われます。二人の婦人たちの間に何かトラブルがあったのでしょう。パウロはこの二人に「主にある」和解と一致を勧めています。「主において同じ思いを抱く」とは、主キリストにあって一つの同じことに思いを集中するという意味です。人はそれぞれ考え方や意見の違いがあり、行動の仕方も違うでしょう。そのような個性を認めないような一致は、悪しき全体主義です。主キリストにある真実の一致とは、人間やこの世界にあるさまざまな違いを認めつつ、そのすべて超えた所にある一致です。共に主キリストによって罪をゆるされ、共に主キリストの体なる教会の交わりの中に招き入れられ、共に主キリストの福音宣教のための証し人、働き人として召されているという一致です。ここから、真実の和解が与えられます。

 4節の「主において」については最後に取り上げることにして、7節を先に読んでみましょう。【6~7節】。「キリスト・イエスにおいて」という言葉は、原文のギリシャ語では7節の文章の最後に置かれ、強調されています。そこから理解すると、この言葉は7節全体、あるいは6節にも関連していると思われます。すなわち、「人知を超える神の平和」と、「感謝を込めて祈りと願いをささげる」ことと、「思いわずらわない」ことのすべてが、主イエス・キリストにあってこそ与えられるのであり、可能になる、可能にされているということです。

 まず、「神の平和」は人知を超えたものと言われています。人間がこの地上で実現したり築き上げたりできるような平和とは全く違った、主イエス・キリストによって与えられた神の平和ということです。人間が考えたり実現したりできる平和がいかにもろく、頼りない平和であるかということは、だれもが気づいています。しかし、それでもなおも人間は真実の平和を願い求め続けます。それができるのは、神がお与えくださる永遠の平和があると聖書に証しされ、約束されているからです。人間が持つすべての武器を農具に変え、人間たちの貪欲や怒り、背きや争いをすべて終わらせ、神が全世界とすべての国民の唯一の主として崇められる、神の国の平和を神ご自身が創造してくださると言われているからです。そして、神はそのような永遠の平和を主キリストの十字架と復活の福音によって、今すでに現実にお始めになっておられるということを、わたしたちは信じるからです。神がわたしたち人間の罪をゆるされ、神と人間との間の完全な和解をお与えくださった。そして、わたしたちを一つの神の民としてお招きくださり、み国の民として下さった。この神の平和によって、わたしたちは守られているのです。

 それゆえに、わたしたちは思い煩う必要はありませんし、思い煩うべきではありません。思い煩いは神の平和に対する不信仰であり、神の平和を否定し、破壊することでもあります。主イエスはマタイ福音書6章の山上の説教でこう言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らの命をも養い、育てておられる。ましてや、あなたがた人間のためにはなおさらではないか」と。わたしたち一人一人の罪のゆるしのために、ご自身の独り子さえも惜しまずに十字架の死に引き渡された神が、その大きな愛によってわたしたちを愛していてくださるのであるならば、何ものであれ、だれであれ、わたしたちをこの神の愛から引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

 そうであるからこそ、わたしたちは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」ことができます。神はわたしたちが求めない先から、わたしたちに必要なものを知っておられます。否それのみか、神はわたしたちが求めるよりもはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださいます。このことについてもまた、主イエスはマタイ福音書6章で繰り返して教え、約束しておられます。

 最後に4節の「主において」を学びましょう。【4~5節】。この4節には、フィリピの信徒への手紙で特徴的な二つの言葉である「喜び」と「主にあって」とが結びつき、さらには「常に」という言葉が付け加えられています。この手紙でパウロが強調して語っている「喜び」とはどのようなものであるのかということが、ここには最も的確に言い表されていると言ってよいでしょう。主イエス・キリストにある喜びこそが本当の喜びであり、いつでも、どのような時にでも、どのような状況の中でも喜ぶことができる、永遠の喜びであるということです。なぜならば、主キリストにある喜びとは、主キリストが与えてくださる喜びであり、主キリストと共にあることによって与えられる喜びであり、主キリストが絶えずいつもわたしと共におられ、わたしのために新しく作り出してくださる喜びであるからです。

 当時のフィリピ教会とパウロの状況を考えてみましょう。紀元50年代、フィリピ教会は誕生してまだ10年足らずの若く弱い群れでした。外からはユダヤ人とローマ帝国からの迫害があり、内からは異端的な教えの誘惑がありました。パウロはと言えば、今牢獄に捕らえられ、最終的な判決を待っています。死刑も予想されます。そのような状況の中で、パウロはそれにもかかわらず、「わたしは喜んでいる。あなたがたも喜びなさい。いつも喜びなさい」と繰り返して言うのです。主キリストを信じる信仰者にとっては、いつでも、どのような時にでも、主キリストにある喜びに生きることができる。いや、そうであるだけでなく、迫害や試練の中にある時にこそ、主キリストにある喜びがその真価を発揮するのだ。この世の人々が恐れや不安に襲われ、悲しみや嘆きに心が閉ざされる時にこそ、主キリストを信じる信仰者に与えられる主にある喜びは、その輝きを増し加え、信じる者たちに力と勇気とを与え、この世界がどのように揺れ動くとも、信仰によって固く立たせてくれる、そのような喜びなのだということです。

 次の5節で「主はすぐ近くにおられる」ということが、その喜びをより確かなもの、より力強いものにします。「主が近くにおられる」とは、主イエス・キリストが信仰によってわたしの近くいてくださるという意味だけではなく、その意味をも含みますが、主キリストの再臨の時が近いという意味です。主キリストが再臨する時、信仰者は天に引き上げられ、神の国へと招き入れられます。神の国においては、もはや悲しみも痛みも死もなく、永遠に神と共にあり、消えることがない最高の喜びに満たされます。主イエスは福音書の終わりの個所で、神の国が完成されるときの盛大な晩餐会、結婚式の喜びについて何度も語っておられます。今信仰者に与えられている「主にある喜び」は、終わりの日の主キリストの再臨の時に与えられる大きな喜びの先取りと言ってよいでしょう。

 「主は近い」。だから「主において常に喜びなさい」。これがフィリピ教会に与えられている喜びであり、またわたしたちの群れにも与えられている喜びなのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたがみ子によってわたしたちにお与えくださった平和と喜

びをわたしたちの中に満たしてください。また、全世界とすべての人々をも、あなたの真実の平和と喜びで満たしたください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月3日説教「主イエスが受けられた洗礼」

2020年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~24節

    ルカによる福音書3章21~22節

説教題:「主イエスが受けられた洗礼」

 ルカによる福音書は主イエスのために道を整える先駆者ヨハネと、彼に半年遅れて登場されるメシア・キリストである主イエスとを、交互に並べて記述しています。彼らの誕生予告と誕生について1~2章で語られていましたが、3章では彼らの公の活動について、1~20節ではヨハネの活動がまず語られ、そして21節からは主イエスの公の活動が続けて語られます。ヨハネに関する記述の最後の19、20節では、彼が領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)によって捕らえられたことが書かれています。このことについてはマタイ福音書14章とマルコ福音書6章に詳しく書かれていますが、ルカ福音書ではここであらかじめそのことに触れています。それによってルカ福音書が強調していることは、先駆者であるヨハネとメシアである主イエスとのこれまでの並行関係、つながりは、ヨハネの逮捕と死によっても決して途絶えることなく続いていくということなのです。

 つまり、神がこの終わりの時に至って、ご自身の救いのみわざを完成されるために先駆者として遣わしたヨハネによって備えられた道を、そのあとにおいでになるメシア・救い主なる主イエスがその道を確かに進まれる。そして、神の救いのご計画を成就される。この世のどのような悪の力や人間たちの罪の力によっても、神の救いのご計画は決して変更されることも中止されることもない。神はそれらのすべてを貫いて、ご自身の救いのお働きを、ヨハネの時代にも、いつの時代にも、そして今日のこの時代にも、力強く進めておられるのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。

 ヨハネは16節で来るべきメシアである主イエスについて、このように証言しています。「わたしは水で洗礼を授けるが、わたしよりの優れた方が来られる。わたしは、そのかたの履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネのその証言が直ちに実現を見ます。

【21節】。主イエスの公の活動、福音宣教のお働きがここから始まります。23節には、「イエスが宣教を始められた時はおよそ三十歳であった」と書かれていますが、その公の宣教活動を開始された時の最初のお姿が、ここに描かれているように、洗礼をお受けになり祈っているお姿です。これは非常に印象的な光景です。民衆の中にまじって、ヨルダン川で洗礼をお受けになり、祈っておられるお姿を、多くの画家たちが絵にしてきました。主イエスはこのようにして、民衆の中に入られ、この罪の世においでになって、罪びとたちと共に洗礼を受けておられます。 

わたしたちはここから何を学ぶでしょうか。主イエスはおそらくは粗末な衣装を身にまとい、生活苦や多くの悩みを抱えた民衆と同じお姿で、もっとも多くの画家たちが描いた主イエスのお姿は何か光輝いて見えるのですが、それは画家の信仰の表れであって、実際の主イエスのお姿は粗末でみすぼらしい身なりだったに違いありませんが、主イエスはそのようにして民衆と全く同じお姿で、民衆の中の一人として、この世においでになられたのです。主イエスは神のみ子であられましたが、罪びとの一人として、この罪の世にくだってこられたのです。当時の政治家たちや宗教家たち、ヘロデ王家や貴族、祭司やファリサイ派、律法学者たちのようにではなく、彼らは生活に疲れた民衆を神から見放された「地の民」と呼んでいましたが、彼らの一人としてではなく、むしろ見捨てられ、見失われ、疲れ、倒れている人たちの一人として、主イエスはこの世においでになられ、この世での福音宣教のお働きを始められました。そのような主イエスの歩みは、そのご生涯の終わりのご受難と十字架の死へと向かっていくのです。

ヨハネが授けていた洗礼は、3節にあるように「罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼」でした。ヨハネは来るべきメシア・救い主の到来に備えて、人々が罪を悔い改めて神に立ち帰り、罪のゆるしを得るようにと、洗礼を授けていました。けれども、主イエスの場合、罪を悔い改める必要などあるのでしょうか。主イエスは罪のゆるしを必要とするのでしょうか。いいえ、そうではありません。主イエスは神のみ子で、罪なき方、聖なる方です。主イエスはヨハネが証しし、旧約聖書の預言者たちが待ち望んでいたメシア・救い主、わたしたちの罪をゆるす方です。マタイ福音書3章14節では、ヨハネが主イエスに対して、「わたしこそがあなたから洗礼を受けるべきなのに」と驚きの声を挙げています。

これはどういうことでしょうか。どうして主イエスは罪びとが受けるべき洗礼をお受けになったのでしょうか。わたしたちはここで、神のみ子であられた主イエスが、人のお姿でこの世のおいでになられたことの意味をはっきりと知るでしょう。主イエスはご自身罪なき神のみ子でありながら、ご自身を低くされ、卑しくされて、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人に数えられるまでに、わたしたちと連帯してくださったのだということを。主イエスはそのようにして、罪びとが受けるべき神の裁きと呪いとを忍び通され、ご受難と十字架への道を進み行かれたのです。

さらに言うならば、主イエスご自身が受けられた洗礼は、わたしたちの洗礼への招きであり、わたしたちが主イエスを信じて洗礼を受けることへの招きです。わたしたちが受けるべき洗礼は、主イエスご自身の洗礼にその出発点を持ち、根拠と土台を持ち、またその完成も主イエスの洗礼にあるのです。ある人はこう考えます。信仰は心の中の問題だから、洗礼を受けるという儀式は必要ない。わたしが心の中で信じていればそれで十分なのではないかと。でもそれは、主イエスご自身の洗礼を軽視することにもなるのではないか。それは、主イエスがわたしたち罪びとの一人となってお受けになった洗礼を否定することになるのではないか。わたしたちはだれであっても、主イエスのお招きに応えるべきですし、応えてよいのです。

次に主イエスの祈りのお姿に注目したいと思います。ルカ福音書は特に主イエスの祈りのお姿を強調しています。ルカ福音書は受洗の時をはじめ、5章16節では一日の終わりに人里を離れてお一人で父なる神に祈られ、6章では12弟子をお選びになる時にも祈られ、その他、重要な場面ではいつも主イエスの祈りのお姿を描いています。主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスはわたしたちをも祈りの生活への招いておられます。感謝の時、喜びの時に天の神に心を向けて祈る。苦難の時、試練の時に、天の神からの助けを信じて祈る。悲しみの時、恐れや不安の時に、天の神にわが身をゆだねて祈る。すべての時を神がご支配しておられることを信じ、すべてのことに神の深いみ心があることを信じて祈る。主イエスはわたしたちと共に、わたしたちに先立って、わたしたちのために祈っていてくださるのです。ここに、わたしたちの祈りの確かさがあり、力と希望があります。

「天が開いた」と書かれています。天におられる神と地に住むわたしたち人間との間に道が開かれました。主イエスの受洗によって、主イエスがわたしたち罪びとの世界に入ってきてくださったことによって、それまでは人間の罪によって天の門は閉じられており、神と人間との間には厚い壁があったのですが、主イエスによってその門が開かれ、その壁が打ち砕かれたからです。わたしたちは、道であり、真理であり、命であられる主イエスによって、天の父なる神との聖霊による、豊かな命の交わりへと招かれています。主イエスによって、わたしたちもまた神に愛されている神の国の民の一人一人とされているのです。

23節以下の系図について少し触れておきます。この系図は主イエスの父となるヨセフから始まって、最初に神によって創造されたアダムまで77人の名前が連ねられています。きょうの礼拝で朗読された創世記5章を始め、旧約聖書には数多くの系図が書かれています。創世記5章の系図はルカ福音書36節のセムから38節のアダムまでと、時間的には逆になっていますが、その名前はほぼ一致します。旧約聖書にはこのほかにも数多くの系図があります。イスラエルの民は系図を重んじました。聖書の中で系図はどんな意味があるのでしょうか。

第一にそれは、神の選びの歴史であり、神の救いの歴史です。神はアダムとエバを創造され、彼らが罪に堕ちると直ちに救いのみわざをお始めになりました。神はその救いのみわざを、選ばれた民、イスラエルによって継続されました。そのためにイスラエルと契約を結ばれ、この民に救いのみ言葉をお語りになりました。時にイスラエルが神に不従順であった時にも、神はご自身の契約を忠実に守られ、この民を愛し、導かれました。そして、ついにイスラエルの民の中からメシア・救い主を誕生させられました。このメシア・キリストである主イエスによって、神はイスラエルの民だけでなく、全人類のための救いのみわざを成就されたのです。

したがって、旧約聖書に記されているすべての系図は、またルカ福音書とマタイ福音書に記されている系図も当然そうですが、それらの系図はすべて主イエス・キリストを目指しています。主イエス・キリストですべての系図は完成するのです。それゆえにまた、主イエス以後には、聖書の中には、また教会の歴史の中では、系図が新たに書かれることは全くありません。主イエス・キリストを信じるわたしたちはすべて、国籍に関係なく、身分や職業に関係なく、家柄とか能力とかにも関係なく、すべての人は神の国の民として登録されるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子なる主イエス・キリストによって、わたしたちをあなたの民

としてお招きくださいますことを感謝いたします。あなたの招きのみ声を聞くとき、喜んで、従順に聞き従うことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

4月26日説教「カインとアベル」

2020年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章1~12節

    ヨハネの手紙一3章11~18節

説教題:「カインとアベル」

 創世記3章では、人間の罪について、いわゆる「原罪」について語っていますが、それに続く4章では、人間の罪の具体的な現れ、あるいは罪の発展について描いていると言えます。「カインとアベルの物語」と一般に呼ばれるこの4章は、人間の罪、「原罪」がこの人間社会においてどのようにして具体化されていくか、現実化されていくかという、その過程について語っており、それはまさに、今わたしたちが住んでいるこの人間社会で、今もなお繰り広げられている人間の罪の現実の、その原点なのだと、言ってよいでしょう。わたしたちはこの個所に、わたしの中に潜んでいる罪の原点を見るのだと言ってよいでしょう。だれもが非常に重苦しい思いを持ちながら、人類史上最初の殺人、しかも兄弟殺しという、恐ろしい殺人事件を扱ったこの個所を読まざるを得ないのですが、しかし、そうであっても、この個所もまた天地万物と人間を、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造された主なる神のみ言葉であるということを、わたしたちは忘れることはありません。

 わたしたちはここでまず、人間の罪の本質について基本的なことを教えられます。しれは、人間の罪が、その根源は神と人間との関係が壊れることなのですが、それが直ちに人間と人間の関係が壊れることへと進展していくということです。すでに3章12節以下で、神の戒めを破って罪を犯したアダムとエバが互いに責任を押し付け合っていたことにそれは表れていましたが、ここではよりはっきりと、より刺激的に最初の兄弟殺しへと発展していくのです。神と人間との関係が正しくなければ、人間と人間の関係をも正しく築いていくことはできません。

 それゆえに、主イエスは旧約聖書の律法のすべてを、神を愛することと隣人を愛することという、愛の二重の戒めにまとめられました。【マタイ福音書22章36~40節】(44ページ)。神から人間へと広がっていく罪の連鎖を食い止めるために、主イエスがわたしたちのために開いてくださった新しい道、すなわち神から隣人へと広がっていく愛の戒めに生きる道を、わたしたちは進まなければなりません。進むように招かれているのです。

 では、4章1節から読んでいきましょう。【1節】。エデン(喜び)の園を追い出されたアダムとエバの夫婦にも、なお喜びの時が残されていました。子どもの誕生です。「わたしは主によって男児を得た」と、エバは歓喜の声を挙げています。エバという名前は、3章20節で説明されているように「命」という意味です。罪に対する神の厳しい裁きを受けなければならなかった女エバは母となることをゆるされたのです。罪と死に支配されるようになったアダムとエバ、けれども、彼らは新しい命の誕生を見ることをゆるされ、その子の親となることがゆるされたのです。1章27節で、人間が創造された際に与えられた神の祝福、「産めよ、増えよ。地に満ちよ」という神の祝福は、なおも彼らから取り去られてはいませんでした。彼らはエデンの東に追い出されても、なおもそこで神の祝福を受けた、喜びに満ちた何かを始めることをゆるされていたのです。人間に対する神の恵みと憐れみは、罪の世界にあっても、なおも消えることはありません。

 「主によって」という言葉がキー・ワードです。罪の人間にゆるされているそれらのことはすべて「主によって」与えられているのです。エバの喜びは、男の子が誕生したということによるだけではなく、神が「母となる」という約束を彼女に果たしてくださったからにほかなりません。エデンの東の罪の世界でも、神はなおも彼らと共におられ、彼らのために新しい命を創造され、彼らのために喜びの時をお与えになられ、彼らのために新しいみわざをお始めくださったのです。エデンの東の世界にあっても、わたしたち人間は「主によって」何かをなすことがゆるされているのであり、「主によって」すべての事をなすべきなのです。主なる神と共に歩み、主なる神に聞きつつ、すべてのわざをなすべきなのです。そうすれば、果てしなく続くかのような人間の罪の歴史に、光が差し込んでくるに違いないのです。

 【2節】。兄カインの名前は「やり、弓矢、鍛冶屋」という意味を持つと考えられています。弟アベルは「息、蒸気、はかなさ」という意味を持っています。アベルの不運な、短くはかない生涯を暗示しているように思われます。カインは農夫になり、アベルは羊飼いになりました。そして、二人はそれぞれの働きで得たものを神にささげました。自分たちの働きで得たものはすべて主なる神から賜ったものであり、それを感謝して、その最初の収穫や最も良いものを神にささげるということは人間の義務と考えられていました。

 ところが、その時に全く理解に苦しむ事態が生じました。【3~5節】。なぜ神がそうされたのかについては、ここには全く書かれていません。わたしたちには正確には分かりません。聖書研究家たちはさまざまな推測を試みています。神は地の産物よりも羊を好まれたから、あるいは神は血があるささげものを喜ばれたから、イスラエルが遊牧民であったからなど……。しかし、そもそも神の好みは人間には分かりませんし、イスラエルは初期には遊牧民でしたが、後には定着してからは農耕にも携わっていますから、それも決定的な理由にはなりません。また、カインは地の産物を無造作に選んだが、アベルは群れの中の肥えた羊を選んだからという説明も、聖書の記述からだけでは確かであるとは言えません。

 結局は、その理由は人間にはわからない、それは神の自由によるのだとしか言えないように思われます。神はあるものを受け入れ、あるものを受け入れないという自由をお持ちです。出エジプト記33章19節で神はこのように言われます。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。これが神の自由です。創世記25章に書かれているように、神は兄のエサウではなく、弟のヤコブを選ばれました。神は世界の多くの民の中から最も小さく弱い民、奴隷の民であったイスラエルをお選びになりました。それはみな神の自由な選びです。

 使徒パウロはこのような神の自由な選びについて、ローマの信徒への手紙9章11節以下でこのように書いています。【11~16節】(286ページ)。神の自由な選びとは、神のわがままで思いつきの選びなのではなく、神の恵みと憐れみに満ちた選びなのです。神はその自由な選びによって、わたしたち罪びとを選ばれたのです。取るに足りない、小さな欠けの多いこのわたしを選ばれたのです。

 「主はカインとその献げ物に目を留められた」。これは神の恵みと憐れみによる選びです。人間の側には、カインとアベルの側には、選ばれる理由、選ばれなかった理由は一切ありません。わたしたちは神の恵みと憐れみによる選びを、信仰をもって受け入れ、喜びと感謝とをもって、神に選ばれていることを選び取るのです。

 しかし、カインは神に選ばれなかったことを不満の思い、激しく怒って顔を伏せたました。カインは弟アベルのささげ物が神に顧みられたことを妬んで、怒りました。神が弟アベルを選ばれたことに憤りました。神の恵みと憐れみによる自由な選びを拒み、それを怒り、神の決定に逆らいました。ここに、カインの罪があります。カインは弟アベルが神に顧みられ、神に選ばれたことを、共に喜ぶことができませんでした。ここに、カインの罪があります。

神はカインに語りかけられます。【6~7節】。ここで、カインの罪が明らかにされます。神の選びに対する不満、神の決定に対する反逆、これがカインの罪です。彼は神のみ顔を見ることができません。今や、罪がカインを支配しています。

 そして、その罪は兄弟の命の破壊へと進みます。【8節】。神から離れ、神に背き、神なき者となって罪に支配された人間は、自分の感情や欲望のままに暴走するほかありません。そしてついには命の破壊、殺人へと至ります。ヨハネの手紙一3章5節に、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」と書かれているとおりです。

 野のだれもいない場所で、カインは弟アベルを殺しました。しかし、神はすべてを見ておられます。【9~12節】。神はカインに「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われます。前に、3章9節で、最初に罪を犯して神のみ前から姿を隠そうとしていたアダムに対して、神は「あなたはどこにいるのか」と問われました。そこでは、人間アダムが神のみ前での責任を問われていました。ここでは、カインは兄弟に対する責任を問われています。人間は、このように、神に対して責任ある者であり、同時に兄弟に対して、隣人に対しても責任ある者なのだということを教えられます。

 けれども、カインは「知らない」と答えました。神に対しての責任を自覚しない人間は、隣人に対する責任を負うこともできません。これが罪によって神と分断され、隣人と分断されてしまった人間の姿です。

 ただお一人、神だけがそのすべての責任を負ってくださいます。神は「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われます。神は殺されたアベルの血の叫び声を聞かれます。神はアベルの血の責任を負ってくださるのです。ヘブライ人への手紙12章24節にこのように書かれています。「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」。神は主イエス・キリストの十字架の死によって注がれた汚れのない、尊い血の大いなる叫びを聞いてくださり、主イエス・キリストの血によってわたしたちの罪を贖い、清め、ゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、み子の尊い血潮によって、わたしたちのすべての罪を洗い清めてくださ

い。罪ゆるされているわたしたちが神と隣人とに仕えて生きる者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月19日説教「わたしたちの本国は天にある」

2020年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの本国は天にある」

 フィリピの信徒への手紙3章17節で、この手紙の著者である使徒パウロは次のように勧めています。【17節】。「自分に倣う者になりなさい」というこの勧めは、いかにも傲慢で、大胆であるように思われます。わたしたちの多くは、「わたしのようになってください」とか「わたしを模範にしてください」と、だれかに勧めるにはあまりにも多くの欠点や未熟さを持っていることを知っています。むしろ、「この点はわたしの真似をしないでください、わたしのようにはならないでください」と言わなければならないことを知っています。でも、パウロはよっぽど自信家で、あるいは立派な人間だと自負して、「みな、わたしに倣え」と言っているのでしょうか。いや、おそらくそうではないと思います。では、どのような意味でパウロはこのように言うのでしょうか。

 また、17節後半では、わたし・パウロに倣えと言うだけでなく、パウロや他の多くの使徒たちをも模範として、彼らに目を向けなさいとも勧めています。おそらくは、彼らのだれもが多かれ少なかれ欠点を持ち、時には失敗をする人間であるには違いないのに、そのような指導者たちをも尊敬し、彼らに倣う者になりなさいと勧めているのです。なぜ、パウロは誤解される恐れがあるような大胆な言い方でそのことを強調するのでしょうか。

 パウロは他の手紙でも、「わたしに倣え」「わたしたちに倣え」と何度か書いていますが、それと並んで、エフェソの信徒への手紙5章1節では「神に倣え」、テサロニケの信徒への手紙一1章6節では「主に倣う」「主キリストに倣う」と言っています。そして、コリントの信徒への手紙一11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、二つを一緒にしています。ここから分かるように、「わたしに倣え」とは、究極的には、「わたしが倣っている主キリストに倣え」ということなのです。主キリストと出会ってから、主キリストに倣って生きているわたし、もはや以前のわたしではなくなったわたし、主キリストによって新しくされているわたし、そのようなわたしに倣え、わたしをそのように変えてくださった主キリストに倣えとパウロは言っているのです。

 わたし・パウロが、十字架につけられた主イエス・キリストに倣って、それまでユダヤ人としてのわたしが誇っていた肉にある特権や誉れや業績のすべてを塵あくたとみなして投げ捨てたわたし、そのわたしに倣え。また、それまで自分の義のわざによって救われようとした道からひるがえって、ただ信仰によって神から義と認められる道へと方向転換をするようにされたわたし。わたし自身の中には救いの可能性が全くなく、ただ主キリストの十字架と復活の福音にこそわたしの救いのすべてがあることを信じているわたし。そのようにして、罪に死んでいたこの体が主キリストの復活の命によって生かされているこのわたし。そのわたしに倣うようになってほしいとパウロは言っているのです。

 パウロがそのことを強調する理由が、次の18節に書かれています。【18節】。3章1節でも、これまで何度も同じことを言ってきたが今また繰り返して言うと書いていましたが、ここでもそれを繰り返します。しかも、ここでは「涙を流しながら」、激しい感情と精いっぱいの思いを込めて、今の時代の不信仰と不従順を嘆き悲しみ、それに必死になって抵抗し、戦っています。

 この世は、いつの時代も、主キリストの十字架に敵対して歩む者が多く、キリスト者はそのような人たちに取り囲まれており、彼らからの様々な攻撃や誘惑やあざけりの対象にされています。パウロの時代には、教会の身近には二つの大きな敵対勢力があったと考えられています。一つは、ユダヤ教の律法主義です。教会の中にもその勢力がはびこっていました。主キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでは救いは不十分である、律法を重んじ、イスラエルの古くからの伝統をも守るべきであるとするユダヤ主義的キリスト者が教会を分断させていました。また、霊的グノーシス主義者と言われる人たちは、自分たちには特別な神の知識、グノーシスが与えられ、すでに救いは完成し、完全な人間となった。だから、もうキリストの十字架は必要ないと彼らは考えたのでした。いずれも、主キリストの十字架の福音を軽んじ、否定していました。

 もう一つ、教会の外からの敵対勢力を挙げるとすれば、偶像の神々を礼拝している異教徒たちや、この世の過ぎゆくものを追い求め、肉のパンだけで生きることができると考える神なき人たちも多くおりました。

 しかし、19節で続けてパウロはこう言います。【19節】。パウロは彼らの滅びを悲しんでいます。彼が「今また涙を流しながら」言うのは、教会が受けている彼らからの攻撃と教会の戦いの厳しさを嘆いたり、憂いたりしているからであるよりも、パウロの涙は彼ら神なき者たちの滅びを悲しみ、悼んでいる涙なのです。滅び行かんとするこの世への切なる愛のゆえの涙なのです。この涙をもって、パウロは懸命に、福音宣教の務めにわが身をささげているのです。

 彼ら主キリストの十字架に敵対している歩んでいる人たちが、神なき世界で、罪の中で死と滅びに向かって進むことがないために、パウロは彼らに主キリストの福音を語らずにはおれません。彼らに罪のゆるしと主キリストにある新しい命のみ言葉を語らざるを得ません。彼らこの世のパンだけを追い求め、朽ち果てるに過ぎないもののために生き、死んでいくしかない、神を知らない人たちのために、天から与えられる命のパンと命の水を指し示そうとしているのです。彼らの一人も滅びることがないために、パウロは祈りと涙とをもって、主キリストの十字架の福音を語り続けるのです。それはまた、今の時代に召されているわたしたち一人一人の務めでもあります。

 そこでパウロは、わたしたちの目と心とを、今主キリストがいます天へと向けるのです。天にこそ、わたしたちの本国、国籍があるからです。【20~21節】。主イエスは地上の王国を打ち立てるためのメシアではありません。そうであれば、主イエスは地上にとどまっておられたはずでしょう。使徒言行録1章によれば、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスは、40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされ、福音を宣べ伝えるようにと命令され、40日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。雲が主イエスのお姿を隠しました。主イエスは雲の向こう側に、父なる神の側におられます。そして、終わりの日に再び地に下って来られ、信じる人々を天に引き上げてくださいます。それが神の国の完成です。わたしたちの信仰の歩みはその神の国の完成を目指しているのです。したがって、この地上のどこかにわたしたちの生きる目標があるのではありません。この地上の何かを追い求め、それを目標にして生きているのでもありません。地上にあるものすべては、時と共に流れ去り、消えゆき、朽ち果てるしかありません。

 天には、罪と死とに勝利され、全地と万物とを支配しておられる勝利者なる主イエス・キリストがおられます。それに対して、わたしたちは今なお地上に住んでいます。けれども、わたしたちの本国、国籍、その市民権は天にあります。主イエス・キリストがご自身の十字架と復活、そして昇天によって、わたしたちにその国籍、市民権をお与えくださったからです。それゆえに、わたしたちキリスト者はこの世では寄留者であり、旅人であると告白するのです。そして、どのような困難な時代にも、どのような試練の時にも、幸いの時にも災いの時にも、地上の事柄に心を奪われるのではなく、かしらを上にあげ、目を天に向け、天に備えられている永遠の命と輝くばかりの栄光を待ち望むのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのご栄光を仰ぎ見ることができるように、わたしたち

の信仰の目を開いてください。打ちひしがれているわたしたちの心を、あなたに向けて引き上げてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「主キリストの復活を信じる」

020年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日・イースター)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「主キリストの復活を信じる」

 きょうの復活日礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章は「復活の章」と呼ばれています。この長い1章には、主イエス・キリストの復活の出来事と、それを信じるわたしたち信仰者に約束されている終わりの日の体の復活について語られています。この章はこの手紙全体の頂点、または中心であると言えます。それはまた、使徒パウロの信仰と神学、キリスト教の神学と教理の頂点、または中心でもあり、さらにはわたしたちキリスト者の信仰と信仰告白の頂点、中心でもあります。

きょうは1~11節のみ言葉を学びますが、その終わりの部分の10節で、パウロの次のように言います。【10節】。「わたしがきょうあるのは、神の恵みによる。すなわち、神が主キリストの十字架と復活によって人類の罪をゆるしてくださった。そして、この取るに足りない、いと小さなものに過ぎないわたしにも、復活の主キリストが現れてくださった。それによって、以前は教会の迫害者であったこのわたしを、今は主キリストの福音を宣べ伝える使徒として働く者に造り変えてくださった。この大きな神の恵みによって、わたしは今あるを得ている」。そのようにパウロは言うのです。

わたしたちがここから知らされる重要なことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じ、復活の主キリストとの出会いを経験することによって、わたしのすべてが変えられ、わたしが神から託された新しい務めに生きるようにされるのだということです。主キリストの十字架と復活を信じる信仰は、古いわたしの死と、新しいわたしの創造という、驚くべき出来事を信じる人の中に、わたしの中に生み出していくのだということです。

したがって、主キリストの十字架と復活の出来事それ自体を、どれほど深く学び、探求していっても、それを信じるということなしには、そして復活の主キリストとの生ける出会いの経験なしでは、だれもその恵みを十分に受け取ることができないということでもあります。復活日の礼拝に招かれているわたしたち一人一人が、神の命のみ言葉を聞き、聖霊によって復活の主キリストとの真実の出会いを経験し、神から差し出されている大きな恵みを共に受け取りたいと願います。

パウロは彼が受けた恵みについて語るに当たって、3節でこのように言います。【3節a】。神から与えられた恵みのもととなっている主キリストの福音はパウロ自身が初めに考え出したものではなく、彼はそれを「自分も受け取ったもの」であると言います。つまり、パウロはその福音を彼が宣教を始める前に初代教会の中で受け継がれてきた福音であると言っています。パウロがコリントの町で福音宣教を開始したのは、第二回世界伝道旅行の後半の紀元51年ころと推測されています。そして、この手紙を書いているのは紀元55年ころと考えられますが、それ以前にすでに初代教会の伝承によって受け継がれてきた福音の内容を、パウロはここで引用しています。

その内容が3節後半からです。【3節b~5節】。この個所を読んですぐに気づくことは、この内容はわたしたちが今日礼拝で告白している「使徒信条」に非常によく似ているということです。「使徒信条」ではこうです。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って……」。これと同じように、ここに引用されている初代教会の信仰告白では、主イエス・キリストの死、葬り、復活、そして顕現(復活された主イエス・キリストがご自身のお姿を弟子たちに現わされたこと)という4つの内容が言い表されています。これが初代教会で最初に作成された信仰告白と考えられ、それがもととなって紀元4世紀ころになって、今日わたしたちが告白している「使徒信条」にまとめられたのであろうと考えられています。

そこできょうは、ここで告白されている4つの内容を、主イエスの死と葬り、復活と顕現の二組に分けて、それぞれの関係を見ながら学んでいきたいと思います。

まず、主イエスの死と葬りは彼がまさにわたしたち人間と全く同じ人間となられたことを語っています。わたしたちのだれもがこの生涯の終わりに死んで墓に葬られるのと同じ道を主イエスが歩まれたことを言い表しています。主イエスは十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られ、確かに死なれ、そしてその死がわたしたち人間の死と全く同じであることの確かなしるしとして、墓に葬られました。主イエスの死と葬りは、彼がまさにわたしたち罪びとたちと同じ人間の一人となられ、わたしたち罪びとたちと同じ道を歩まれ、死に至るまでわたしたちと共にいてくださったことの確かなしるしなのです。

それとともに、3節に「聖書に書いてあるとおり」とあるように、主イエスの死と葬りは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主の死と葬りであったことがここでは告白されています。彼の死と葬りは旧約聖書の預言の成就だったのです。主なる神の永遠の救いのご計画の成就だったのです。

では、その預言は旧約聖書のどの個所を指しているのかは、ここには書かれていませんが、わたしたちは先週の受難週礼拝で聞いたイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)」の歌」を直ちに思い起こします。【イザヤ書53章7~8節】(1150ページ)。続けて9節では僕の死について預言されています。【9節】。主イエスの死と葬りとは、旧約聖書の預言者たちをとおして神が預言されたメシア・キリスト・全世界の救い主の死と葬りだったのです。それゆえに彼の死と葬りとは、死すべきわたしたち人間の救いの出来事だったのです。

それが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」という告白の中に、「わたしたちの罪のために」という言葉が挿入されていることの意味です。主イエスのご生涯のすべて、特にそのご受難と十字架の死、そして葬りは、すべてがわたしたちの罪のためであったのです。わたしたちを罪の奴隷から救い出し、神との和解と交わりへと導き入れる救いのためだったのです。

次の復活についても、それが旧約聖書の成就であったと4節で告白されています。では、メシアの復活について預言されている旧約聖書はどこを指しているのか、それもここには書かれていません。いくつかの個所を挙げることができます。きょうの礼拝で朗読されたヨブ記19章が挙げられます。25節には「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と書かれています。詩編16編10~11節にはこう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」。また、ホセア書6章1~2節ではこう預言されています。わたしたちが礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」です。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々はみ前に生きる」。

主イエスの復活は、主イエスが罪と死とに勝利されたことの確かなしるしです。主イエスは死の墓をふさいでいた大きな石を取り除き、墓から出て、墓を空にされました。墓はもはや人間が最後に行きつく終わりの場所なのではなく、そこから復活の命が始まる場所となったのです。

「復活した」と訳されている箇所は正確には「復活させられている」であり、文法的には受動態の現在完了形です。受動態は全能の父なる神が主イエスを復活させてくださったことを言い表し、現在完了形はそのことがずっと続いていることを言い表しています。主イエスは罪と死の勝利者として、今も生きておられ、主イエスを信じる者たちをご自身の体なる教会に呼び集め、その体の頭として、わたしたち信じる者たちの救い主として、君臨しておられることが告白されているのです。教会の歩みとわたしたち一人一人の信仰の歩みは主イエス・キリストの復活から始まっています。その歩みは、すべて命あるものの歩みがそうであるのと同じに、生まれてから死へと向かっていく歩みであるのではなく、死から命へと向かっていく歩みであり、死に勝利されて復活された主イエス・キリストが新しくお始めくださった歩みであり、終わりの日の永遠の命の完成へと向かっていく歩みです。

主イエスの復活に続いて、復活された主イエスがご自身の姿を弟子たちに現わされた顕現のことが告白されています。ケファは12弟子の一人、また初代教会のリーダーとなったペトロのこと、それから12弟子、また6節からは五百人以上の人たち、それから主イエスの兄弟であるヤコブ、その他の使徒たちが復活の主イエスの顕現を経験した人としてあげられています。これらの顕現の一部については福音書の最後の部分と使徒言行録の初めの個所に描かれていますが、これらの人たちが最初の教会、初代教会の基礎を形成していったことが分かります。教会は主イエス・キリストの復活の証人たちを土台として形成されています。

そして、パウロは8節で復活の顕現を経験した人たちの最後に、自分自身を挙げています。パウロの場合は、厳密な意味での復活の顕現とは違っていると理解しなければなりません。使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、そののち天に昇って行かれたからです。そのあとでは、直接に主イエスの姿を目で見ることはだれにもできません。パウロの場合には、主イエスの復活から数か月後、あるいは数年後に経験したことを言っているのですが、パウロはそれをあえてここでは他の弟子たちと同じ復活の顕現に加えています。彼にとって、主イエスとの出会いの経験は、それほどに強烈で、現実的で、鮮明で、あたかも復活の主イエス・キリストご自身がそのお姿を彼に現わされたように思われたのでした。

そして、復活の主イエス・キリストとの出会いが、教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音を宣べ伝えるための教会の働き人として造り変え、ユダヤ教の律法によって生きていたパウロを、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって生きるパウロに造り変えたのです。主イエス・キリストの復活の命と恵みが、きょうの礼拝に集められたわたしたち一人ひとりにも豊かに与えられるようにと祈り求めましょう。

(執り成しの祈り)

○命の主なる神よ、わたしたちの朽ちいく体に復活の命を注いでください。主イ

エス・キリストの復活の命に満たされて、あなたのご栄光のために仕える者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月5日説教「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

2020年4月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヘブライ人への手紙12章1~3節

    イザヤ書53章1~12節

説教題:「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

 教会の暦では、きょうは棕櫚(しゅろ)の主日と言い、今週は受難週です。主イエスの地上での最後の一週間の歩みが始まります。主イエスはこの日に、ロバに乗ってエルサレムに入場され、人々は棕櫚の枝を手に持ってお迎えしたと福音書に書かれていることから、そう呼ばれることになりました。四つの福音書はいずれも全体の半分近くのページで、この最後の一週間の歩みを記録しています。主イエスのお働き、その救いのみわざは、この最後の一週間に集中しています。主イエスのご受難と十字架の死にわたしたちの救いの中心があります。きょうはイザヤ書53章のみ言葉から、主イエスのご受難とわたしたちの救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 イザヤ書には「主の僕(しもべ)の歌」と言われている箇所が4つあります。42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、そしてきょうの個所です。4つ目の「主の僕の歌」は実は52章13節から始まっています。【13節】。他の3つの「主の僕の歌」でもすべてそうですが、神はここで預言されている人物を直接に「わたしの僕」と呼んでおられます。僕とは奴隷のことです。奴隷は当時は主人の所有物と考えられていました。奴隷の命と持ち物、彼の人生のすべては主人のものであり、奴隷は主人のために生き、仕え、働き、そして主人のために死ぬのです。奴隷はそのように生き、死ぬことを彼の最高の喜びとします。彼の全生涯とその歩みのすべてが主人によって守られ、導かれているからです。それゆえに、信仰者が神から「わが僕」と呼ばれることは最高に名誉ある、光栄に満ちたことなのです。

 イザヤ書の4つの「主の僕の歌」では、主なる神によって選ばれて神の所有とされ、神から託された使命を果たし、神の救いのみわざのためにその生涯をささげ尽くす信仰者が描かれています。特にその中の4番目の歌は、「苦難の主の僕の歌」と言われ、彼は自らの苦難の生涯を通して主人である神に仕えるということが強調されています。僕の弱さと貧しさ、苦しみと痛み、そしてまた屈辱と迫害の中で、自分の命を犠牲にし、そのすべてをささげ尽くすことによって、主なる神の救いのみわざを完成することが強調されています。この苦難の主の僕は旧約聖書の中で最もはっきりと、最も強烈に、主イエス・キリストのご生涯を、その苦難と十字架の死を預言するみ言葉であることは言うまでもありません。イザヤが預言したこの苦難の主の僕こそが、わたしたち罪びとのために苦しみを受けられ、十字架につけられ、そして三日目に復活された主イエス・キリストにほかなりません。

 イザヤ書53章を内容から見て5つの部分に分けることができます。第一は1~3節、ここでは僕が貧しさと人々の軽蔑の中で生まれ育ったことが語られ、第二の4~6節では他者のための病と苦痛に耐え忍んだことが、7~8節では苦役の中でその命を奪い取られ、死んだことが、9節では屈辱と共に葬られたことが語られており、そして最後の10節以下では、彼の苦難と死が多くの罪びとたちの罪を贖い、救いとなって神のみ心を成し遂げたことが、信仰告白として語られています。この順序とこの内容をみると、わたしたちはここに『使徒信条』によって告白されている主イエスのご生涯と重なり合うことに気づかされます。「主は……おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につかられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し」という主イエスのご生涯がここに預言されていることに気づかされます。

 では、第一の、主の僕の見栄えのしない貧しさの中での誕生とその軽蔑された生涯についてのみ言葉を読んでみましょう。【1~3節】。1節の「誰が信じえようか」。「誰に示されたことがあろうか」という二つの疑問形は、全くだれもそう信じることができない、だれもそのことに気づくことはないということを強調しています。つまり、神のみわざは人間の目には全く理解できず、予想もできないかたちで現わされるということです。罪びとである人間の目には神の救いのみわざは隠されています。人間はだれも自らの知恵や能力や努力では神を知ることはできません。神に近づくことはできません。神は全く新しい救いの道を備えられました。人間が期待するような力強さや高さや誇りある英雄の姿によってではなく、貧しく低く、否それのみか、だれもが忌み嫌い、避けて通るような屈辱的な道によって、神は救いの恵みを差し出そうとされたのです。

 それは、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章19節以下で書いているように、救いが人間の知恵によらず、ただ十字架の福音を宣教するという愚かな手段によって、信じる人々を救うためであり、だれも神のみ前では誇ることがなく、ただ主イエス・キリストだけを誇るためです。それによって、ユダヤ人だけでなくすべての民が救われるため、また知恵ある者や力ある者たちを辱め、無力な者たちをこそ救うためです。

 わたしたちは福音書に記されている主イエスの誕生の情景を思い起こします。ガリラヤ地方のナザレに住むヨセフとマリア、聖霊によって身ごもったおとめマリア、家畜小屋での誕生、夜の羊飼いたち、そして布にくるまって飼い葉おけの中に寝かされた幼子、それらはみな、そこで起こっている出来事の低さ、貧しさを言い表しています。天におられる主なる神は、わたしたち罪びとたちを救うために、ご自身が徹底して貧しく低くなられ、人間のお姿となられて、この世においでくださったのです。そして、わたしたち罪びとの一人となってくださったのです。そして、すべての人のための救いの道を開かれたのです。

 次の4~6節を読みましょう。【4~6節】。ここでは、主の苦難はわたしたちのための苦難であったことが繰り返して語られています。「わたしたちの」「わたしたちのため」「わたしたちに」「わたしたちは」という言葉が何度も用いられています。主の僕の生涯は徹底してわたしたちのためにあったのです。彼の病と痛みとは本来わたしたちが受けるべき病と痛みであったのに、それを彼がわたしたちに代わって担ってくださったのです。彼が神に打たれ、苦しめられ、傷を負ったのは、わたしたちの罪と背きのためであり、本来わたしたちが受けるべきであった神の裁きを、彼がわたしたちに代わって引き受けてくださったのです。そして、彼が受けた懲らしめ、彼が受けた傷によって、わたしたちに平和が与えられ、神との和解が与えられ、わたしたちはいやされたのです。彼の苦難に満ちた生涯のすべては、わたしたち罪びとたちのためであり、わたしたちの罪のゆるしのためだったのです。神はそのようにして、わたしたちを罪から救おうとされたのです。これが主イエス・キリストのご受難の意味です。

 6節には、主の僕の徹底した他者のための生き方とは対照的な、徹底して自分自身のための生き方をしていたわたしたち人間の罪の姿が描かれています。【6節】。罪の人間はみなおのれ自身に向かっています。自己追及の生き方であり、自己中心的で、自己目的で、自己実現の道を目指しています。自分の楽しみや喜び、満足を追い求める生き方です。しばしば、隣で傷つき苦しむ人を見過ごしにし、時には他の人を踏みつけ、押しのけ、また自己を誇り、他者をねたみ、そのようにしてすべては自分を中心にして、自分を目的にした生き方です。

 けれども、ある人は言うかもしれません。「そのような生き方がなぜ悪い。自分の利益を求めることが悪なのか。人はみな自分のために生きてよいのではないか」と反論するかもしれません。しかし、わたしたちは今、目の前に映し出された苦難の僕の姿を見る時、彼が徹底して他者のために生き、苦しみ、そして砕かれた苦難の僕の姿を見る時に、そのような自己中心的な生き方が裁かれているということにわたしたちは気づかされるのです。わたしたちはみなそのような真実の牧者を失ってさまよっていた失われた羊たちであったのだということに気づかされるのです。

 7~8節では、苦しめられ、虐げられながらも、死に至るまで従順に、しかも沈黙を守り通された苦難の僕の姿が描かれます。【7~8節】。わたしたちはこの個所まで読み進んでくると、これこそがまさにわたしたちの罪のために十字架への道を進み行かれた主イエス・キリスト、そのお方に他ならないとはっきりと知らされます。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、罪人の一人に数えられ、裁かれ、しかもご自身を少しも弁護なさらず、ご自身を救おうとはなさらずに、ポンティオ・ピラトの前で沈黙を貫きとおされ、人々のあざけりの中を、ゴルゴタの丘まで十字架を背負われ、苦しみと恥と無力さの極みの中で死なれた主イエス。十字架の死に至るまで罪びとたちのためにご自身のすべてをささげ尽くされ、死の極みまで罪びとと共にあろうとされた主イエス。この主イエス・キリストこそがわたしたちの罪を贖い、わたしたちの病める魂をいやし、わたしたちに永遠の平安をお与えくださる唯一の救い主であられます。

 9節は主の僕の葬りについて言及されています。【9節】。わたしたちはゴルゴタの丘の上に立つ3本の十字架、二人の犯罪人の真ん中に立っている主イエスの十字架を思い浮かべます。主イエスはまさに罪びとの一人に数えられ、わたしたち罪びとたちのまっただ中に立っておられます。わたしの死のただ中にも主イエスの十字架は立っています。死に赴くわたしと主は共にいてくださいます。

 最後に、10~12節では、僕の苦難と死が神のみ旨であったこと、そして僕の苦難と死が多くの人を義とし、豊かな実りをもたらすことが告白されています。ここでは、主イエスの復活が暗示されているように思われます。主イエスの復活は罪と死に対する勝利のしるしです。12節にこのように書かれています。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪びとの一人に数えられたからだ」。主の僕は何かの理想のために命をかけた英雄ではありません。むしろ、自らの罪ゆえに死にしか値しなかったわたしたち罪びとたちのために、ご自身のすべてを投げ捨てられ、ご自身の命のすべてを注ぎつくして、消耗しつくすまでにして、わたしたちを愛されたのです。わたしたちはこの苦難の主の僕であられる主イエス・キリストによって救われているのです。「わたしたちの信仰の創始者であられ、また完成者であられる主イエス・キリスト」を仰ぎ見ながら、信仰の馳せ場を、忍耐強く走りぬいていきましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子の十字架のお苦しみを思い、またその愛と救いの恵みを覚え、

心から感謝いたします。どうか、この受難週のわたしたち一人一人の歩みをお導きください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よどうか憐れんでください。全世界の

民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

3月29日説教「洗礼者ヨハネの説教」

2020年3月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章6~14節

    ルカによる福音書3章1~14節

説教題:「洗礼者ヨハネの説教」

 ルカによる福音書3章では、洗礼者ヨハネの登場と預言者イザヤの預言とを結びつけています。イザヤ書40章に預言されていた荒れ野で叫ぶ者の声が、洗礼者ヨハネの悔い改めのバプテスマの宣教として成就したと語っています。では、ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとイザヤ書40章の預言とはどのように関連しているのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。この4節のみ言葉はイザヤ書40章3節からの引用ですが、イザヤ書40章3節では「主のために」「わたしたちの神のために」と繰り返されており、ルカ福音書では「主の道を」となっていることからも明らかなように、この道は主なる神ご自身が通られる道のことです。主なる神が通られるゆえに、主なる神のために平らでまっすぐな道を整えよと命じられています。それは、すべての人が神の救いを見ることができるためです。

 そうであるとすれば、谷や山、曲がった道やでこぼこの道とは、神が通られることを妨げ、神の救いを見ることを妨げている人間の罪、神に対する背きや不従順、かたくなさや傲慢のことであり、それを取り除けと命じられていることになります。それが、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えるヨハネの使命だと言われているのです。そのヨハネの使命について、さらに考えてみましょう。

 本来、イザヤ書40章の預言は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代を背景に語られていると、多くの聖書学者は理解しています。神の民であるイスラエルは、神のみ言葉に聞き従わず、偶像礼拝や偽りの礼拝によって罪に罪を重ね、ついに紀元前587年に首都エルサレムがバビロン軍によって陥落させられ、神殿が焼き落され、王と指導者たち、民の多くが異教の地バビロンに捕虜として連れ去られました。それは、罪を悔い改めることをしなかったイスラエルの民に対する神の厳しい裁きでした。けれども、ご自身の民との契約を最後まで守られる神は、やがて裁きの期間が満ちて、彼らが約束の地へと帰還することがゆるされるであろうとイザヤは預言しました。それが、イザヤ書40章の預言の本来の内容だと考えられています。

 ルカ福音書はそのイザヤの預言を洗礼者ヨハネの登場に当てはめているのです。ここにはどのような意味があるのでしょうか。一つは、バビロン捕囚からの帰還と悔い改めのバプテスマとの関連についてです。バビロンの捕囚の地から民を連れ帰るのは神です。バビロンからエルサレムまでは砂漠地帯や、いくつもの丘陵地帯を超えて、およそ1000キロメートルの道のりです。その困難で遠い道を旅するのはイスラエルの民なのですが、ここでは「主なる神の道」と言われ、山や丘が削られ、谷が埋められ、道がまっすぐにされるのは「主なる神のため」であると言われているのです。神ご自身がその道を通られ、神ご自身が民を連れ帰られるのです。そうすることが可能になるために、イスラエルの民の罪や不従順、傲慢さやかたくなさが取り除かれなければならないと語られていることが分かります。洗礼者ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとは、このことなのです。

つまり、悔い改めとは、人間の側が心や態度を改めて罪の道から引き返すということなのですが、本来は神の側から人間の方へと近づいてこられ、神の側からの一方的な憐れみと恵みによって罪のゆるしが差し出されるということなのであって、人間はその神に対して心を開き、従順な思いで神を迎え入れ、無償で差し出される罪のゆるしを、感謝と恐れとをもって受け取ること、それが、悔い改めなのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。洗礼者ヨハネが宣べ伝えている悔い改めのバプテスマとは、まさにそのような悔い改めのことであり、そして、そのような罪のゆるしの恵みこそが、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられている福音なのです。

 もう一つここで教えられることは、ヨハネの登場はイザヤ書の預言の成就と考えられているということ、すなわちヨハネはすでに預言の成就の時、新約聖書の時代に属しているということです。そうであるとともに、しかし、ヨハネはまだ預言の成就のすべてではありません。ヨハネはなおわずかに残っている預言の時代の最後の預言者として、彼のすぐ後においでになるメシア・キリスト・救い主の到来を預言しているのです。ヨハネによってすべての人が「神の救いを仰ぎ見る」のではありません。彼は、来るべきメシアに備えて、すべての人がメシアを迎え入れ、真実の悔い改めをもってメシアをわが救い主と信じ、迎え入れるように、その道を整えることが彼の務めです。

 7節からはヨハネの説教が語られます。この当時の洗礼(バプテスマ)は一般的にユダヤ人以外の異教徒がユダヤ教に改宗する際に行われていました。ヨルダン川に身を沈めてひとたび古い自分に死ぬ、偶像の神々を信じていた自分がそこで死んで、再びヨルダン川から立ち上がる時には新しい、イスラエルの唯一の神を信じる自分に生まれ変わっていることのしるしとして、バプテスマが行われていました。

 けれども、ヨハネのバプテスマは多くの点でそれとは違っていました。ヨハネのもとにバプテスマを授けてもらおうと集まってきたのは、神に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人でした。彼らは本来バプテスマを受ける必要はないと思われていました。しかし、ヨハネのバプテスマはイスラエルの民であれ、だれであれ、すべての人が神のみ前では罪びとであり、その罪を悔い改めて神に立ち帰らなければならないということを前提にしているように思われます。ヨハネのバプテスマは、来るべきメシア・救い主である主イエスの十字架の福音を前提にしており、その福音を信じる信仰によってのみすべての人は救われるという、唯一の救いの道へと人々を導いているのです。

 その唯一の救いの道をよりはっきりさせるために、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕きます。【7節b~8節】。ユダヤ人のいわゆる選民思想(自分たちは神に選ばれている民であるという優越感をもつこと)は、旧約聖書の時代からすでにありました。「自分たちには神の聖なる都エルサレムがある。神の家である神殿がある。だから自分たちは安全だ」とイスラエルの多くの指導者たちも考えていました。イザヤやエレミヤなどの預言者たちは、真実の神礼拝と神への服従を伴わない信仰は偽りの信仰であり、神はその民をお見捨てになる、その民はやがて滅びるであろうと預言しましたが、彼らはその預言に耳を傾けず、悔い改めることをしませんでした。その結果として、イスラエルはバビロン捕囚という悲劇を経験したのでしたが、それでもなおも、彼らは「我々には偉大な信仰の父アブラハムがいる。自分たちはその子孫だから神の救いが約束されている」という選民思想から抜け出すことができず、真実の悔い改めをしようとしませんでした。

 洗礼者ヨハネはそのようなイスラエルの民・ユダヤ人に厳しい裁きの言葉を語ります。「神の怒りからだれも逃れることはできない」と。だから、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と。ヨハネのこのような厳しい裁きの言葉は、彼のあとにおいでになるメシア・キリストである主イエスの救いの福音をあらかじめ前提にしているということにわたしたちは注目したいと思います。つまり、神が主イエス・キリストによって最終的に救いを成就されるその時にこそ、人間の罪もまた明らかにされるのだということです。ヨハネの厳しい裁きの言葉は主イエス・キリストの十字架の福音を証ししているのだということです。来るべきメシアである主イエス・キリストの福音を聞くときに、ユダヤ人であれ、だれであれ、その人自身が生まれつき持っている何かとか、その人が蓄えた何かとか、その人が努力した何かとかによって救われるのではない。だれもが、主イエス・キリストの十字架の福音の前では、自らの罪を告白しなければならないし、自らの生きる道の方向転換をして神に立ち帰らなければ救われないということを、ヨハネの説教は明らかにしているのです。ヨハネの説教は主イエス・キリストの福音への招きなのです。

 したがって、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕くとともに、先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、すべての国民、すべての人が主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われるということをも語っています。それまでは異邦人がユダヤ教に改宗する際の儀式であったバプテスマが、ユダヤ人の悔い改めをしるしづけるバプテスマとなったことによって、すべての人に救いの道が開かれました。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とヨハネが語ったように、神は不従順でかたくなな民であったユダヤ人から真実の信仰を生み出すことがおできになり、また神を知らず、偶像礼拝や偽りの神々に支配されていた異邦人からも、真実の信仰を生み出すことができるのです。神は無から有を呼び出だすことができ、死から命を生み出すことがおできになります。来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストの福音は、ユダヤ人をはじめ、異邦人をも、すべての人を救いへと招く神の全能の力と命とを持っていることを、ヨハネの説教は語っています。

 ヨハネの説教のもう一つの特徴は、神の怒りと裁きとが目前に迫ってきているという緊迫感です。これを終末論的と表現してよいでしょう。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(7節b)。そして【9節】。来るべきメシア・キリストの到来とその福音は救いの成就の時であると同時に、それはまた終末の時の神の最後の審判が迫っていることのしるしでもあります。主イエスご自身も説教の中でしばしば神の国の完成と終末の裁きについて語っておられます。主イエス・キリストの到来とその福音は、その説教を聞く人に終末論的な決断を迫るのです。その福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰り、救われ、永遠の命を受け取るか、それとも、それを拒み、かたくなに罪と滅びの道を進み、神の最後の裁きを滅びとを受け取るのか、その二つの道の一つを選び取る決断を迫るのです。わたしたちが毎週の主の日に礼拝をささげ神のみ言葉と説教を聞くということはその選択の時でもあるのです。

 けれども、ここで重要なことは、終末の時が近い、神の最後の裁きの時が迫っているというヨハネの説教は、脅しではなく、強制でもなく、わたしたちを恐怖心を抱かせるためのものでは決してありません。また、不信仰な人を切り捨て、見捨てることでもありません。「斧は既に木の根元に置かれている」、けれども、それはまだ振り落とされてはいません。木はまだ切り倒されてはいません。なおも神の憐れみの時、招きの時が残されているのです。主の日の礼拝は、その神の憐れみの時、救いへの招きの時なのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちに従順な悔い改めの心をお与えください。あなたの招

きのみ言葉を聞くとき、直ちに、喜んで、招きに応える信仰の決断をお与えください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月22日説教「エデンの園を追い出された人間」

2020年3月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章20~24節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「エデンの園を追い出された人間」

 創世記1章から3章まで、神の天地創造と人間創造、そして人間の罪、原罪について語るみ言葉を読んできましたが、きょうはその最後の個所を学びます。これまで学んできたように、聖書はここで、神が人間をどのように創造されたか、その人間がどのようにして罪に落ちたのか、そして神は罪の人間をどのように扱われたのかということを、深い信仰の洞察をもって語っています。わたしたちはここから、人間の原型、人間とは本来どのような生き物なのかについて、また人間の罪の原型、罪とは何かについて、そして神の救いの原型について、神は罪の人間をどのようにして救おうとされたのかを、聞き取ることができます。

 きょうの最後の個所では、神の戒めに背いて罪を犯した人間がエデンの園を追い出されることが描かれています。いわゆる楽園追放とか失楽園について語られています。この個所でも、今確認した3つのこと、人間とはそもそも何者なのか、人間の原型について、また人間の罪の原型について、そして神の救いの恵みの原型について、非常に意味深いみ言葉が語られています。

 では、20節から読んでいきましょう。【20節】。ここで初めて女の名前がエバと名づけられます。ちなみに、アダム(ヘブライ語ではアーダーム)は人間を総称する場合と男を意味する場合と両方の用い方があります。エバはヘブライ語の発音では「ハッヴァー」で「生きる者」とか「命」という意味を持っています。前に2章23節には、アダムが自分のあばら骨の一部から造られた女をイシャーと名づけたと書かれていました。【2章23節】。

 女に今また新しい名前が付けられました。「エバ」、「すべて命あるものの母」とは、何とも名誉ある名前であることでしょうか。神の戒めを破って罪を犯し、神の裁きを受なければならない女に対して、このような名前が付けられるとは! 神は2章17節でこうお命じになりました。「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と。その神の命令に背いた女に対しては、命ではなく、死こそがふさわしいのではないのか。

 しかし、ここではなおも生きることをゆるされています。しかも、「すべて命あるものの母」という名誉ある名前を与えられています。神は直ちに最終的な裁きを執行されませんでした。3章16節では、神は女に罰をお与えになりました。【16節】。ここでは、生みの苦しみは罪を犯した女に対する神の罰と考えられています。けれども、この神の罰は最終的な裁きではなく、いやそれどころか、この神の裁きは今や新しい命を生み出すという命の誕生と喜びに変えられていくのです。エバは自ら生きることをゆるされているだけでなく、母として新しい命を生み出すという光栄ある務めを与えられることになったのです。

 そのようにして、罪という暗い影に脅かされながらも、なおも人間はその命を保たれ、母たちによって次の世代へと命を受け継いでいくことをゆるされているのです。これはなんという大きな神の憐れみであり、恵みであることでしょうか。わたしたちが今生きているということ、今生きることをゆるされているということ、そしてわたしたちの家に、あるいはわたしの隣の家に、新しい命が誕生するということには、実にこのような大きな神の憐れみと恵みがあり、神から与えられている豊かな命の祝福と喜びがあるのだということを、わたしたちは改めて深く思い起こしたいのです。

 次の21節にも罪を犯した人間に対する神の大きな恵みが示されています。【21節】。先に3章7節には、アダムとエバは自分たちの罪と恥を隠すためにいちじくの葉をつづり合わせて腰に巻いたと書かれていましたが、今や神ご自身が彼らに皮の衣をお与えになります。人間は自分では罪をも罪から生じた恥をも覆い隠すことはできません。けれども、今や神はご自身が皮の衣で人間の罪の体を覆ってくださいます。

 ある人はこれを、楽園追放のための旅支度を神がしてくださったのだと言っています。これからアダムとエバはエデンの園を追い出され、この罪の世界で罪と恥とをさらしながら、労苦の多い旅路を続けていかなければなりません。その人間に対して神はあたたかい配慮をしてくださるのです。神は人間の造り主であられるだけでなく、罪に落ちた人間をなおも守り、その歩みを支えられる神でもあられます。神はわたしたち人間のこの地での困難で労苦の多い旅路に伴ってくださり、必要なものを備えてくださるのです。

 わたしたちはここで主イエスがルカ福音書15章で話された放蕩息子のたとえを思い起こします。放蕩に身を持ち崩して、何もかも失い、絶望して「雇い人の一人にでもしてください」と言って帰ってきた息子を憐れんで家に迎え入れた父親は、「さあ、いちばん良い衣服を持ってきて、この子に着せなさい。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」(22~24節参照)と言った場面を思い起こします。エデンの園を追放されようとしている最初の人間アダムとエバのために、この世での困難な旅路に備えて旅支度をしてくださった神は、主イエス・キリストによってわたしたちを神の国での祝宴へと招き入れるために最上の晴れ着を用意してくださるのです。

 22節をどう理解するか、いくつかの難しい問題があります。まず、「我々の一人のように」とはどう意味なのかですが、この「我々」とは、聖書の唯一の神を指していると理解してよいと思われます。1章26節でも神はご自身のことを「我々」と表現しておられます。これは一般に尊厳の複数形と言われる表現で、神がご自身の尊厳、威厳を強調するために、「わたしは」と言うべきところを「我々は」と言われる個所は、聖書の中で他にもいくつかあります。ここもその一つと理解できます。

 そうするとこの個所は、善悪の知識の木から取って食べた人間が神と同じように、神と肩を並べる者となったという意味になります。それは、罪を犯した人間の傲慢を語っているように思われます。神によって創造された人間アダムは、エデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられた自由と恵みの中で喜びのうちに生きていくことをゆるされていました。けれども、蛇の誘惑に負け、自ら神のようになろうとして、禁じられていた善悪の知識の木から取って食べ、今や自らの意志によって神から独立して立ち、それだけでなく、自ら神のようにすべてのことを自らの知恵で判断し、決定して生きる者となり、もはや神を必要としない者となり、それだけでもなく、神を自分の世界から追い出して生きる者となったのです。そのような人間の罪の現実の姿を、神はここで語っておられます。

 神はそのような罪の人間をそのままにしておかれるのでしょうか。22節の後半で神はこのように言われます。「今は、手を伸ばして命の木から取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」。ここには神のどのようなみ心が言い表されているのでしょうか。

 罪を犯したために神の裁きを受けて死すべき者となった人間が命の木から取って食べることによって、永遠に生き続けることを神は恐れているように思われます。神は2章17節で、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死ぬ」とお命じになりました。しかし、その戒めに背いて罪を犯した男アダムに、神は3章17~19節で裁きをお語りになりました。「お前は顔に汗してパンを食べ、ついには土にかえるのだ」と。その神の裁きがここではもう一度確認されているように思われます。ひとたび死の判決を受けた人間が、それでもなおも不死への強い願望を持ち、永遠に生きようとして命の木に手を伸ばし、神の領域にまで侵入しようとする不遜な人間となることを神は恐れておられるのではないか、その可能性を人間に残しておく道を完全にふさぐ必要があると神はお考えになられた、それが次に記されている楽園追放の意図であり意味であると理解できます。

 【23~24節】。神は罪を犯した人間が今後決して命の木に手を伸ばすことができないように、人間をエデンの園から追放されました。この楽園追放の意味をもう一度まとめてみましょう。一つには、先に見たように、罪を犯した人間に対する神の裁きが、ここで最終的に確定したということです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言っているように、「罪の支払う報酬は死である」ということが動かしがたい神の裁きとして実行されたのです。人間はだれもその神が定められた死の判決から逃れることはできません。人間はみな神の定めに従って死すべき者であることを知らなければなりません。

 楽園追放の意味を別の側面から考えてみましょう。罪の人間に対して死の定めをお与えになった神のもう一つの意図、神の隠された、深い憐れみとも言うべきものを、わたしたちは知らされます。それは、人間が罪びとのままで、自分では負いきれない罪の重荷を背負ったままで、永遠に神なき世界で生き続けることを神は良しとはされなかったということです。死はある意味では人間を罪の重荷から解放することでもあると言えるのではないでしょうか。そして、その最終的な答えとして、神はみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、罪の道を完全に終わらせ、死に最終的に勝利されたのだということを、わたしたちは新約聖書から知らされるのです。

 その新約聖書の福音を24節からも確認できるように思います。人間はエデンの園を追い出され、エデンの東のやせた地を耕しながら生きていく者とされましたが、エデンの園そのものと命の木に至る道はまだ残されています。そこはだれによっても略奪されないように神の使いたちによって厳重に管理されています。神はなおも罪びとたちをこの楽園に連れ戻そうとしておられます。命の木に至る道を再び開こうとしておられます。その可能性がまだ残されているということを、わたしたちは知らされます。

 主イエスは十字架の上で、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人にこう言われました。「はっきり言っておく。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と(ルカ福音書23章43節)。また、ヨハネの黙示録2章7節にはこのように書かれています。「耳のある者は、霊が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」使徒パウロはローマの信徒への手紙5章21節でこのように書いています。「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰者には、命の木に至る道が開かれ、来るべき神の国での永遠の命が約束されているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちを罪と死の法則から解放し、罪のゆるしと永遠の命に至

る道へとお導きください。わたしたちがその道を信仰をもって進み行くことができますように。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。