11月10日 説教「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

2019年11月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編90編1~12節

    ヨハネによる福音書14章1~7節

説教題:「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

 教会の古くからの伝統によると、11月1日は「諸聖人の日」と呼ばれ、カトリック教会で聖人とされた人たちや殉教した人たちを記念する日とされていました。それにならって、プロテスタント教会でも、11月の初めの主日に逝去者、あるいは召天者記念礼拝をささげるようになりました。信仰をもって地上の歩みを終えた教会員やその家族を覚えて記念礼拝をささげるということは、彼らの信仰と地上の歩みをお導きくださった主なる神を礼拝するということに他なりません。それと共に、今地上の歩みを続けているわたしたち一人一人をも神がすべての必要なものをもって、終わりの日まで導いておられるということを覚え、感謝する礼拝でもあります。

 きょうの秋田教会逝去者記念礼拝では、ヨハネによる福音書14章1~7節のみ言葉をご一緒に聞きましょう。前の13章から、主イエスの受難週の木曜日のことが書かれています。つまり、主イエスが十字架につけられる前日のことです。夕食の時(これは、共観福音書では、いわゆる最後の晩餐ですが)、主イエスは席から立ち上がって、12弟子一人一人の足を洗われました。主イエスのこの行為は、翌日の十字架の死の意味をあらかじめ予告しています。すなわち、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちの僕として、奴隷が主人に仕えるようにわたしたちのためにお仕えになられ、最後にはご自身の命をおささげくださるほどにお仕えになられ、それによってわたしたちの罪を洗い清めてくださったのです。わたしたちは主イエスの十字架の死によって罪をゆるされている人たちとして、この礼拝に集められているのです。

 そのあとで主イエスは言われました。「わたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。主イエスによって罪ゆるされているわたしたちは、罪ゆるされ救われている人たちの共同体を形成するために、互いに仕え合い、愛し合う共同体の一人一人として、この教会に集められているのです。だれもが、自分自身のためだけに生きるのではなく、むしろ、主イエスがわたしたちの足を洗われたように、お互いに仕え合い、喜んで他者のために仕えていく新しい愛の共同体を形成するのです。主イエスは13章34、35節で次のように言われました。【34~35節】(196ページ)。

 きょうの礼拝で朗読された14章からは、同じ木曜日の夕食の席で語られた主イエスの長い説教が17章の終わりまで続いています。一般に、主イエスの告別説教と言われています。説教が終わった翌日、金曜日に主イエスは裁判にかけられ、十字架刑を言い渡され、十字架上で息を引き取られることになります。

 主イエスは最後の夕食の時に、すでにご自身の死を予期しておられ、後に残される弟子たちのことを思って、彼らを励ましておられます。1節でこのように言われます。【1節】。尊敬する師であり、自分たちを導く主である方の死に直面して、弟子たちは恐れ、不安になり、失望するに違いありません。リーダーを失って、自分たちだけがこの世に取り残され、今なお罪と悪がはびこっているこの世での信仰の戦いを続けていかなければならない弟子たちを、主イエスは励まし、勇気づけ、なおも希望を失わずに前進していくために、力強い約束を与えておられます。

 【2~3節】。主イエスは弟子たちをお見捨てになるのではありません。主イエスの十字架の死によって、主イエスと弟子たちの関係が断ち切られてしまうのではありません。十字架の死は、主イエスと弟子たちとが永遠に共にいることの始まりとなるのだと主イエスは言われます。主イエスはここですでに、十字架の死のあとに続く復活と昇天を予告しておられます。金曜日に十字架上で死なれた主イエスは三日目の日曜日の朝に、死の墓から復活され、罪と死とに勝利されて、そののち天の父なる神のみもとへと凱旋帰国されるのです。

 主イエスが復活して天に昇られることは、主イエスご自身の罪と死に対する勝利のしるしであるだけでなく、主イエスを信じる弟子たちとわたしたちの罪と死に対する勝利の約束でもあるのです。主イエスが天に昇られるのは、わたしたちが永遠に住む場所を用意するためなのだと言われています。したがって、主イエスの十字架の死は弟子たちとわたしたちを見捨てることになることではなく、また、それによって主イエスと信仰者たちとを切り離すことになるのでもなく、むしろ、主イエスと信仰者たちが永遠に天の住まいで共にいることの約束であり、その始まりなのだというのです。

 これはどういう意味でしょうか。いつ、どのようにしてそのことが実現するのでしょうか。理解のポイントになるのが、3節の「戻って来て」という言葉が何を意味するかです。これには、3つの理解が可能ですが、いずれの理解であっても、キリスト教信仰が目指している目標は一致していますので、その共通点を考えながらみていきたいと思います。

 一つの理解は、主イエスの再臨の時、主イエスが再び地上に降りてこられ、わたしたちの救いを完成される終末のときを指しているという理解です。そのときには、信仰者はすべて墓から復活させられ、主イエスによって天へと引き上げられ、天にある神の国で永遠に主イエスと共にあって父なる神を礼拝する一つの民となるということが、テサロニケの信徒への手紙一4章15節以下等で教えられています。【15~17節】(378ページ)。

 二つめの理解は、信仰者の死のときを指しているという理解です。信仰者が地上の歩みを終えた時、主イエスが彼らを天の父なる神のみもとへと招き入れてくださることがここで約束されていると考えられます。信仰によって神と固く結ばれている信仰者は、死によっても神から引き離されることはありません。神は彼らを永遠にご自身のものとして守られ、支配しておられるゆえに、神との永遠の交わりは死によっても決して断ち切られることはないのです。

 16世紀の宗教改革者たちは、すでに天に召された信仰者たちを「勝利の教会」と呼び、地上で今なお信仰の戦いを続けている信仰者たちを「戦闘の教会」と呼び、それらはお一人の神によって集められている、一つの主イエス・キリストの教会なのだと理解しました。讃美歌29番の頌栄では、「天の民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ」と歌っています。すでに天に召された信仰者たち、わたしたちの教会の先輩たちも、主イエスによって天にある「勝利の教会」に招き入れられているのです。地上にあって今なお信仰の戦いを続けているわたしたちは、彼ら「勝利の教会」に移された信仰の先輩たちと共に、主なる神によって一つに結ばれ、一人の神を礼拝しているのです。

 三つめは、15節以下で語られる聖霊の派遣を指しているという理解です。16節ではこのように約束されています。【16~17節a】。また【26節】。そして【28節】。天に帰られた主イエスは、天から別の弁護者、助け主である聖霊をお遣わしになり、その聖霊なる神のお働きによって、地上に再び戻って来られるというのです。主イエスは弟子たちを、またわたしたち信仰者を地上に孤児としてお見捨てになることは決してありません。聖霊なる神として、教会を通して、永遠にわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの信仰の戦いを共に戦ってくださり、弱く迷いやすいわたしたちの地上の歩みを守り導いてくださり、終わりの日に救いが完成されるときまでわたしたちと共にいてくださるのです。

 以上の三つの理解は、主イエスが戻って来られるときはいつかという時期においては異なっていますが、天に昇られた主イエスが弟子たちと、またわたしたちと永遠に共にいてくださり、わたしたちの信仰を導き、完成させてくださるということにおいては一致しています。

 主イエスは金曜日の午後に十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝に復活され、40日目に天に昇られ、それから10日後のペンテコステのときに弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに最初の教会が誕生しました。それ以来、聖霊なる神は教会を通して常に信仰者の救いのために働いておられます。信仰者の死のときにも、聖霊なる神はその人から離れず、主イエスが先だって昇って行かれた天に、主イエスが備えてくださった永遠の住まいへと引き上げてくださいます。そこで、永遠に主と共にあって、父なる神を礼拝する一つの民とされるのです。

 主イエスは告別説教の中でこの約束を弟子たちとわたしたちにお与えになられた後で、6節でこのように言われます。【6節】。今やわたしたちは主イエスのこのみ言葉をよく理解することができます。わたしたち罪びとのために苦難を受けられ、十字架で死なれた主イエス、そして三日目に復活され、天に昇られた主イエスによってこそ、わたしたちは父なる神のみもとへと至ることができるのだということを、正しく知ることができます。

 「わたしは……である」という言い方はヨハネ福音書に特徴的な主イエスのみ言葉です。6章35節では、「わたしが命のパンである」と言われました。10章11節では、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。15章1節では、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。他にもいくつかあります。この言い方では、「わたし」という言葉が強調されています。つまり、「わたしこそが、わたしだけが」という意味です。

 わたしたちは主イエス以外に、わたしをまことの命へと導く命のパンを求める必要はないし、求めるべきではありません。わたしの人生を導く羊飼いを、主イエス以外に求める必要はないし、求めるべきではありません。まことのぶどうの木である主イエスにつながっているならば、わたしたちには豊かな実りが約束されています。わたしたちのためにご自身の命をささげて死んでくださったまことの羊飼いであられる主イエスこそが、また復活されて、罪と死とに勝利された主イエスこそが、わたしたちに新しい命を与え、まことの救いの道へと導いてくださるからです。

 主イエスは「わたしは道である」と言われました。この道は父なる神に至る道です。神と人とをつなぐ道はそれまでは閉ざされていました。人間の罪が神を遠ざけていたからです。主イエスは神と人との仲保者となってくださり、わたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちと神との交わりを回復してくださいました。主イエスは人間が神に至る道を、ご自身の死をもって開いてくださいました。それだけでなく、主イエスはわたしたちが神に至る道そのものでもあられます。聖霊によって、わたしたちを天の父なる神のもとへと引き上げてくださいます。わたしたちが地上の歩みを終えて死ぬときにも、主イエスはわたしの道であり続けてくださいます。

 主イエスはまた「わたしは真理である」と言われました。真理とは神の真理のことです。主イエスは神の真理をわたしたちに教えられただけでなく、主イエスこそが神の真理そのものであられました。主イエスが歩まれた十字架への道が、そのまま神の真理でした。神はご自身の独り子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛されました。ここにこそ、神の真理があり、神の愛があります。

 このようにして、道であり、真理であり、命であられる主イエス・キリストが、天におられ、わたしたちのために天の場所を用意して待っておられるのですから、わたしたちは地上にあって、さまざまな試練や厳しい信仰の戦いを経験しなければならないのですが、しかし、最後の勝利を約束されている人たちとして、かしらを挙げ、前の方に全身を向け、目標を目指して走り続けるのです。

 主イエスはまた「わたしは命である」と言われました。命とは、この世に誕生してやがて死んでいくしかない命のことではありません。復活の命のことであり、死から始まり復活に至る命のことです。主イエスご自身が復活され、まことの命に生きておられると同時に、信じる人々に朽ちることのない永遠の命をお与えくださる救い主であられます。

(祈り)

11月3日説教 「土のちりで造られた人間アダム」

2019年11月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章4~9節

    コリントの信徒への手紙二4章7~15節

説教題:「土のちりで造られた人間アダム」

 創世記1章1節から2章3節までに、一連の神の創造のみわざが描かれています。第一日目の光の創造に始まって第6日目の人間の創造までで天地万物が創造され、第七日目を神は安息日とされ、造られたすべてのものを祝福されました。これで、神の天地創造のみわざは完了しました。

 ところが、きょうの礼拝で朗読された2章4節以下では、新たに人間が土のちりで造られたということが語られています。これはどういうことなのでしょうか。きょうは初めにこのことについて少しお話ししたいと思います。

 今日の聖書の研究の結果から明らかになったことをいくつかご紹介します。一つは、創世記には二つの、多少ニュアンスの違った創造の記録があるということを、今日ほとんどの聖書学者は認めています。さらには、1章1節から2章3節までと2章4節から3章の終わりまでは二つの違った天地創造の記録であるけれども、しかし全く別々のことを語っているのではなくて、一つの神の創造のみわざを違った視点から語っているのであって、これによって神の創造のみわざの意味と意図、み心、神の救いのご計画が、より深く、より信仰的に、より神学的に語られているのだということで聖書学者の意見は一致しています。

 もう一つ付け加えておくならば、これは旧約聖書の民であるイスラエルの長い信仰の歴史の中で伝承されてきた資料の違いに由来しているということです。その資料の見分け方ですが、第一の天地創造の記録では、神は単に「神」と表記されています。1章1節から2章3節まではすべてそうなっていることが確認できます。この第一の天地創造の記録は、非常に整えられた文体と構造で描かれており、よく考え抜かれた神学的な内容になっています。これはエルサレム神殿で仕える祭司階級の学者が集め、編集した資料であり、祭司資料と呼び、英語のプリーストの頭文字を取ってP資料と呼びます。

それに対して、第二の創造の記録では「主なる神」となっています。2章4節からすべてそうなっていることが分かります。日本語で「主」と訳されている箇所には神のお名前が書かれているのですが、今日神のお名前をどう発音するのかが分からなくなってしまったので、神のお名前が書かれている箇所は「主」、ヘブライ語では「アドナイ」ですが、そう読むことに決められています。これをJ資料と呼びます。神のお名前をヤーヴェと推測して、その頭文字を取っています。J資料は前のP資料と違って、文体はのびのびとしており、簡潔で生き生きとした表現によって神学的に深い内容が言い表されているという特徴があります。それぞれの資料には特徴がり、そこに描かれている神のお姿と強調されている神学的内容の違いがあり、それによって旧約聖書の信仰がより深く、より幅広く表現されているのです。

 そうしますと、2章4節の2行目は「主なる神」が主語になっていますので、これはJ資料ということになります。4節の1行目は、前の創造の記録の締めくくりと理解して、P資料とするのが一般的です。

 では、【4節b~6節】。この第二の天地創造の記録では、一日目、二日目という区切りはありません。また、人間を除く他の被造物が1日目から6日目の前半までに創造されて、最後に人間が創造されるという第一の創造の記録とは順序も違っているように思われます。第二の天地創造の記録では、まだ何も造られていないときに、7節に書かれてるように、人間が最初に創造されています。人間が造られた後で、9節になって木を生えさせられ、10節で川の流れができ、19節以下で野のけものや空の鳥などの生き物を神はお造りになります。

 このように、第一の創造の記録と第二の創造の記録は大きな違いがあるように思われますが、そこで語られている中心的なこと、神が天地万物と人間を創造された深いみ心は、全く一致していることをわたしたちは確認することができます。すなわち、第一の創造の記録では、人間はすべての被造物の頂点として、その頭として、最後に創造されており、また、人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っており、そこには人間に対する神の深い愛とご配慮、永遠の救いのみ心が語られていましたが、第二の創造の記録では、人間はすべての被造物の中心に置かれており、人間を中心にして他のすべての被造物が造られていきますが、ここでも人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っています。神はこれほどまでに人間を愛され、み心に留められ、神のみ前で、神と共に生きる者として、神のみ前で責任ある者として創造されたのだということが、同様に強調されていることが分かります。

 5節の最後に、「また土を耕す人もいなかった」と書かれています。人間の存在なしには、地上の生き物と他のすべて被造物の存在もない。それほどまでに、神は人間に特別に深く大きな存在の意味をお与えになったのであり、人間を被造世界の中心に据えておられ、人間の存在と命を全世界よりも重いものとされ、この人間の救いのために神はすべての愛を注がれるのだということが、この創造の記録から読み取ることができます。

 【7節】。第一の創造の記録では、1章26節に書かれていたように、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言われて、神のみ言葉に言い表された強い神の意志と神の決意によって人間は創造されたということが強調されていましたが、第二の創造の記録ではむしろ人間が創造された際に用いられた素材の貧しさが強調されているように思われます。人間は土のちりで造られました。ここではどのような神の人間創造の意図が語られているのでしょうか。

 まず、第一の創造の記録と第二の創造の記録に共通していることを確認しておきましょう。それは、いずれも神が人間を創造されたということです。神が人間の造り主だということです。人間は偶然にこの世に生まれ落ちたのではありません。両親の所有物として生まれたのでもありません。国家のためとか、家の働き手のためとか、少子化を防ぐためとかに生まれるのでもありません。神がそのように望まれ、神の意志と決意のもと、神にその命の根源を持ち、神がその命と存在の主である者として、すべての人間は創造され、今あるのです。このことは、戦争やテロや飢餓によって多くの命が無意味にあるいは無残にあるいは無造作に失われていく時代の中にあって、また人間の命が他の何かと比較されては軽々しく投げ捨てられていく時代の中にあって、本当の意味での人間の命の尊厳さや重さや尊さを思い起こし、再確認するために、決して忘れてはならないことです。他のどのような思想であれ、信条であれ、宗教の教理であれ、聖書が語っているこのこと、すなわち神がすべての人間の命と存在の創造主であり、所有者であるという真理を超えるものはないのだということを、わたしたちキリスト者はもっと力を込めて発言し、証ししていかなければなりません。人間の命と存在は、だれのものでもなく、わたしのものでもなく、造り主なる神のものなのだということを、わたしたちは厳粛な思いで告白しなければなりません。

 ここで語られている第二のことは、人間は土のちりで造られたということです。ここには、ヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。ヘブライ語で人間は「アーダーム」と言います。現在用いられているモダン・ヘブリュー(現代へブライ語)では長母音は原則ないので、新共同訳では「アダム」と書いてありますが、聖書のヘブライ語では長母音がありますので、正確には、人間は「アーダーム」、土は「アダーマ―」と発音します。人間は土「アダーマ―」から造られたゆえに人「アーダーム」なのです。またそれゆえに、3章19節に書かれているように、罪を犯して神の命の息を失ってしまった人間は、人「アーダーム」であるゆえに土「アダーマ―」に返るほかないのです。

 旧約聖書の民イスラエルの人々は、人間とは何者かを考える際に、人間「アーダーム」と発音する時にはいつも、土「アダーマ―」を同時に思いおこしたのです。人間は土から造られた者に過ぎず、やがて死んで土に返っていくほかない弱く、はかなく、貧しいものであるということを決して忘れませんでした。そうであるからこそ、命の息を吹き入れて人間を生きたものとしてくださった造り主なる神から決して離れることなく、神との生きた交わりを持ち続けるためにはどうしたらよいかを深く、真剣に考えたのでした。

 「塵」とは、日本語でも「ちりあくた」という言葉があるように、無価値なもの、ごみやほこりのようなもの、取るに足りないつまらないものを言い表しています。人間はそれ自体としてはこのようなものに過ぎません。人間にはいかなる誇るべきものも称賛されるべきものもありません。人間は神ではありません。神にはなり得ません。人間は土のちりから造られ、やがて土に返っていく者です。このことをわたしたちは何の幻想も抱かず、何のごまかしもなく、そしてまた決してそのことを隠すことなく、あるいはまた決して恥じることもなく、造り主なる神のみ前で認めるべきですし、認めてよいのです。神はそのような人間に、ご自身の命の息を吹き入れ、生きた者としてくださるのです。

 「形づくる」という言葉は、陶器師(土で器を作る人)が粘土を手でこねながら器を作っていく動作を言い表しています。また「鼻から命の息を吹き入れられた」と書かれています。あたかも神がかがんで人の鼻にご自身の口をつけられ、息を吹き込まれるかのようなリアルで生き生きとした表現が、ある意味で人間の動作に近いような表現が用いられています。これがJ資料が描く神の大きな特徴です。神はこのようにして、非常に具体的な動作をなさりながら、直接にご自身の手をかけながら、ご自身の思いを込めながら、人間を創造されたのです。

 7節の終わりに、「人はこうして生きる者となった」とあります。土のちりから造られた人間が、神の命の息を吹き入れられ、その朽ちていくしかない肉の体に神の霊が注入されることによって、人間は初めて生きる者となるのです。人間の命は直接に神の命の息である霊が人間の中に吹き入れられた命なのです。その命は100パーセント神から与えられた命であり、神に属する命なのです。人間の自由によって処理されるべきでは決してありません。また、神の命の息によらなければ、だれも本当の命を生きることはできません。

 人間は土のちりから造られた者であり、神によって命の息を吹き入れられて生きる者となるという人間理解は、旧約聖書全体に貫かれており、また新約聖書にまで貫かれています。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一Ⅰ5章45節で、創世記2章7節のみ言葉に触れながら次のように語っています。【45(「最後のアダム」とは主イエス・キリストのこと)~49節】(322ぺーじ)。土に属し、死んで朽ち果てるほかないわたしたちが、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、天に属する霊の体をお持ちの主キリストの似姿に変えられていくと約束されています。

 また、コリントの信徒への手紙二4章7節以下では、土の器であるわたしたち人間に永遠の命のみ言葉である主キリストの福音が託されていることを、使徒パウロは驚きをもって語っています。【7~11節】(329ページ)。これは何という大きな恵みでしょうか。土に属する者であるわたしたち人間に、この取るに足りない小さきもの、貧しきもの、滅ぶべき者に、全世界の人を罪から救う命のみ言葉である主キリストの福音を託され、持ち運ぶ使命が与えられているとは。  (祈り

10月27日説教「マリアの賛歌」

2019年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上2章1~11節

    ルカによる福音書1章46~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章46節以下は「マリアの賛歌」と言われています。ラテン語訳聖書の冒頭の「あがめる」という言葉から「マグニフィカート」と呼ばれ、古代から教会音楽の中で歌われてきました。きょうはこのみ言葉から、主イエスの誕生の意味と主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 【46~47節】。このマリアの賛歌は、すぐ前のエリサベトの祝福の言葉に対するマリアの応答として歌われています。前の場面で、洗礼者ヨハネの母となるエリサベトと主イエスの母となるマリアとの出会いが描かれていました。その中で、二人の母になろうとしている婦人の胎内にいる洗礼者ヨハネと救い主・主イエスとがすでに出会い、あいさつを交わしているという驚くべき出来事が起こっていることをわたしたちは聞きました。そのときエリサベトは42節以下でこのように告白します。【42~45節】。このエリサベトの信仰告白に対するマリアの応答としての信仰告白が46節以下のマリアの賛歌です。

 日本語の翻訳では、45節と46節との間に数行の空間が設けられ、46節からのマリアの賛歌が独立してあるような印象を受けますが、これもまだ二人の婦人の出会いの場面の続きです。神に選ばれて、全世界の救い主・主イエスの母となろうとしているマリアが聖霊によって身ごもったことの確かなしるしとして、すでに神の奇跡によって洗礼者ヨハネを身ごもっている親族のエリサベトと出会い、二人の胎内にいるヨハネと主イエスとが出会うという出来事を通して、45節に書かれているように、「主なる神のみ言葉が必ず実現すると信じた人の幸い」をマリアはここで歌っているのです。マリア自身は、自分のおなかの中に新しい命が芽生え始めたという自覚はまだ全くないけれども、親族エリサベトにすでに起こっている奇跡を見て、まだ実現していない神の約束のみ言葉を信じた、それがマリアの幸いなのです。まだ見ていない事実を確認すること、それがマリアの信仰なのです。

 したがって、46節以下のマリアの賛歌は、まだ起こっていない神のご計画、まだ成就していない神の救いのみわざが、すでに起こっている確かな事実であるということを告白しているのです。わたしたちもまた、マリアの賛歌のみ言葉を聞いて、「神がお語りになったみ言葉が必ず成就する」と信じる、幸いな信仰へと招かれています。

 賛歌の冒頭で、「わたしの魂は、わたしの霊は」と繰り返していますが、これは強調する言い方です。わたしの心も体も、わたしの全身で主をあがめる。わたしの全存在をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしの生活全体を通して、わたしの命をかけて、主なる神をあがめ、喜びたたえるという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。

 「あがめる」とは大きくするという意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくし、他のすべてを小さくするということであり、わたしを含めてわたしの周囲にあるすべてのものを、主なる神のみ前で限りなく小さくするということです。特に、わたし自身を主なる神のみ前に小さくする、自らを貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけをあがめ、喜びたたえる。そうすることによって、すべての良きものを主なる神から期待し、神が最も良き道をわたしのために備えてくださることを信じ、神の約束のみ言葉がすべて成就することを信じる。それが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。またそれが、主イエス・キリストの救いに招かれているわたしたちがなすべきことです。わたしたちが自らを小さくし、低くすればするほどに、神はわたしたちによってあがめられるようになり、また神から与えられる恵みと祝福は豊かになり、神からの幸いに満たされるようになるのです。

 47節でマリアは神を「救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つは、マリアは救い主を必要としている罪びとであるという告白です。マリアは全世界の唯一のメシア・救い主である主イエスの母となるために神によって選ばれました。それゆえに、42節にあったように、「女の中で祝福された方」であり、マリア自身も48節で、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌っていますが、しかし、彼女が祝福された人であるのは、彼女の胎内に宿っている神のみ子・救い主なる主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、むしろ彼女自身は38節と48節で「わたしは主のはしためです」、わたしは貧しく低きに住む者、罪びとに過ぎませんと繰り返し告白しているのです。このようなマリアの謙遜な信仰こそが、彼女を祝福された、幸いな人としているのです。

 「救い主」のもう一つの意味は、マリアがあがめ、喜びたたえている神は救いの神であるということです。もちろん、マリアにとってそうであるだけではありません。全世界のすべての人にとって、わたしたちにとっても、神は救いの神であり、わたしたちを罪から救ってくださる神であるからこそ、主イエスの父なる神は人々によってあがめられ、喜びたたえられるのです。わたしたちが信じている主イエス・キリストの父なる神は救いの神です。他の何らかの神ではありません。商売繁盛の神とか、地の豊作をもたらす神とか、健康や交通安全の神とか、そのような類(たぐい)の神ではありません。そのような神々は、一時的に、一部の人に、あがめられることがあるとしても、すべての人にとっての永遠なる、そして唯一の神ではありません。わたしたちが全生涯を貫いて、わたしの全存在をもって、わたしの命をかけてあがめるべき神は、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される神であり、そのために独り子なる主イエスをこの世にお送りくださり、その尊いみ子を十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪びとを愛してくださる救いの神、この神をこそわたしたちはあがめ、喜びたたえるべきです。また、そうするようにと招かれています。

 次に、マリアは神をあがめる理由を具体的に語ります。【48~50節】。「身分が低い」とは、マリアの社会的な地位の低さ、あるいは経済的な貧しさを指していると思われます。マリアは26節にあるようにガリラヤ地方のナザレの町の出身の、おそらくは農家の娘でした。神はそのようなマリアをみ心にとめ、メシア・救い主の母としてお選びになったのです。

 当時、ガリラヤ地方は多くの異邦人(ユダヤ人以外をこう呼ぶ)が住み、民族と宗教の純粋性を重んじるユダヤ人からは異邦人の地と呼ばれ(イザヤ書8章23節、マタイ福音書4章15節参照)、軽蔑されていました。神はイスラエルの首都であったエルサレムの都に住む、王家の娘とか、宗教家、政治家の娘ではなく、低く貧しいナザレのマリアをお選びになったのです。ここに、51節以下で語られる大いなる逆転が、すでにマリア自身の選びの中で起こっていることに気づかされます。【51~53節】。

 神はマリアを救い主の母としてお選びになることによって、そして、このマリアからお生まれになる主イエスの誕生によって、この世界とわたしたちの人生に、大いなる逆転を起こしたもうのです。神を恐れることなく、思い上がる者たちや、自らを誇っている傲慢な者たちが主なる神のみ力によってその所から追い散らされ、この世の権力にしがみついている者たちはその座から引き下ろされ、富に頼る者たちが空腹のままで追い返されるということが起こり、反対に、身分の低い人、この世で誇るべきものを何一つ持たない人が神の所にまで引き上げられ、飢え、乾き、ひたすらに神を慕い求めるほかにない人が、神から与えられる最も良きもので満たされるという、大きな逆転が起きるのです。このことについては、後でまた触れることにしましょう。

 48節でマリアは、彼女自身に大きな逆転が起こったのは「主がわたしに目を留めてくださったからだ」と告白しています。目を留めるとは、神がみ心にかけてくださり、顧みてくださったということです。だれも目を留めることがないような、小さく貧しいものに、神は目を留めてくださいます。人間の目は多くの場合、大きなもの、高いもの、華やかなものに向けられます。そうでないものは見捨てられ、時に目を背けられます。けれども神の目は隠されているもの、この世にあっては虐げられているもの、低きにあるものに注がれます。そのようなものを神は見いだしてくださるのです。神の目には何も隠されてはいません。そして、そのようにして神の目によって見出された人こそが、いつの世にあっても幸いな人と言われるのです。

 48、49節ではマリア個人に与えられた神の恵み、慈しみについて歌われていますが、50節からはイスラエルと全世界のすべての人に与えられる神の恵みと慈しみが歌われます。マリアの信仰は旧約聖書の民イスラエルから、新約聖書の民教会へと受け継がれます。それは、マリアの胎内に宿っておられるメシア・救い主であられる主イエスが、旧約聖書の民イスラエルによって長く待ち望まれ、新約聖書の民教会によってその救いの福音が全世界に告げ知らされていくことに似ています。

 【50節と54節】。「神の憐れみ」とは、神の恵みと同様に、それを受けるに値しない人に無償で与えられる神の愛に満ちたご配慮のことです。それゆえに、だれもがマリアのように、神への大きな感謝と恐れとをもってそれを受け取るほかにありません。神を恐れ、神のみ前に自らを低く貧しくする人こそが、いよいよ豊かな神の恵みと憐れみとを受け取ることがゆるされるのです。

 わたしたちはだれもが神の憐れみを必要としています。マリアは今はまだ年が若く、貧しいけれども、やがて成長して豊かになり、神の憐れみを必要としないときがくるというのでは決してありません。いやむしろ、信仰の道を進めば進むほどに、礼拝の回数を増せば増すほどに、頭に白髪が増えるごとに、いよいよ神の憐れみを必要としている自分であることを悟り、神の憐れみなしにはきょうの一日がないことを知って、神を恐れる人となる、そのような信仰へとわたしたちは招かれているのです。

 最後に、51~53節で歌われていた大いなる逆転について、それがいつどのようにして起こるのかを考えてみましょう。先にわたしたちは、マリアの選びの中ですでにそのことが起こっていると言いましたが、そのことが決定的に起こるのは主イエスのご生涯と十字架の死によってであるということを付け加えなければなりません。

 主イエスはルカ福音書6章の弟子たちへの説教の中でこのように言われました。【6章20節b~26節】(112ページ)。主イエスは幸いがないところに天の神からの幸いを創り出してくださいます。しかし、この世の幸いを求め、それで満足する者からは神は遠ざかるほかありません。

 もう一か所を読んでみましょう。【フィリピの信徒への手紙2章6~11節】(363ページ)。これこそが、神が起こしたもうた最も偉大なる逆転です。この主イエス・キリストの十字架の福音を信じる人に、神は滅びから救いへ、死から命への大いなる逆転の恵みをお与えくださるのです。

 (祈り)

10月20日(日)説教「福音の信仰のための戦い」

2019年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編24篇1~10節

    フィリピの信徒への手紙1章27~30節

説教題:「福音の信仰のための戦い」

 フィリピの信徒への手紙1章27節で、パウロはフィリピ教会の信徒たちに対する勧めの言葉を語ります。【27節a】。12~26節では、パウロは自分の身に起こったことについて語ってきましたが、ここからはフィリピ教会に対して語りかけます。パウロ自身のこととフィリピ教会のこと、この両者に共通しているもの、この両者を固く結びつけているもの、それは主キリストであり、主キリストの福音です。

パウロは主キリストの福音を宣べ伝えたために、迫害を受け、捕らえられ、今は獄の中に縛られています。しかし、パウロはこの迫害と試練のときを喜んでいます。なぜならば、彼が受けた迫害と試練を通して、主キリストの福音がより前進することとなったからです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれてはいないということが、不思議な仕方で証しされたからです。パウロはいつでも、どのような状況の中でも、自分を主キリストの福音との関連の中で見ています。自分の楽しみとか、自分の人生の計画の実行とか、自分の名誉や満足のためではなく、主キリストの福音がどうであるのか、自分が主キリストの福音のためにどう仕えたかという視点で自分を見ています。

フィリピ教会もまたそうあるべきです。主キリストの福音にふさわしく生きるべきです。もちろん、投獄されているパウロのことが心配です。教会の外からの攻撃や内からの誘惑にどう備えるかということも大きな課題です。教会員一人一人の日常の生活の中でも、多くの労苦があります。しかし、そうであっても、「あなたがたはひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」とパウロは勧めているのです。「わたしがそうであるように、あなたがたも、そしてすべてのキリスト者はそのようでありなさい。なぜなら、わたしたちが今あるのは主キリストの福音によるのであり、これからのちにも主キリストの福音によってあり続けるのだから」。パウロはすべてのキリスト者の生と死、生きることと死ぬこととを、主キリストの福音とのつながりの中で見ているのです。それがキリスト者の生と死の原点なのです。

「ひたすらに」とは、「ただこのこと一つだけに集中して」という意味です。他にも、多くの課題やなすべきことがあるかもしれないが、何よりもまず、このことを第一として考えなさい。それは、主キリストの福音にふさわしく生きることだとパウロは言います。主キリストの福音とのつながりの中でわたしの生と死を考える、これがキリスト者の生と死の原点である。それと同様に、主キリストの福音にふさわしく生きる、これがわたしたちキリスト者の生活原理であると言ってよいでしょう。ほかにどのような人生の課題があろうとも、今取り組まなければならない仕事や解決しなければならない問題があろうとも、それらを第一にするのではなく、主キリストの福音にふさわしく生きることを中心に据えて、その中心から他のもろもろの課題を考えていく、それがキリスト者の生活原理なのです。

他の書簡では別の表現も用いられています。テサロニケの信徒への手紙一2章12節では、「神の御心にそって歩む」、コロサイの信徒への手紙1章10節では、「主に従って歩む」、エフェソの信徒への手紙4章1節では、「神の招きにふさわしく歩む」とも言われています。いずれにしても、自分の価値判断とか、だれかが立てた基準とか、この世の価値基準に従って生きるのではなく、神のみ心、主キリストの福音を基準にして生きる、生活する、またそれを中心にして他のすべての課題を考える、それがわたしたちキリスト者の生活原理です。

主イエスは金持ちで立派な行いを誇っていた人に、「あなたに欠けているものが一つある。行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とお命じになりました(マルコ福音書10章17節以下参照)。また、ルカ福音書10章42節では、せわしく立ち働いていて心を乱していたマルタに、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。主イエスのみ言葉を聞くことに集中することこそが、他の何にもまして重要なのです。そこから、すべてが始まるのです。

では、フィリピの信徒への手紙の中で「主キリストの福音にふさわしい生活を送る」とは具体的にどのような生き方なのかを考えてみましょう。「生活を送る」という言葉は「市民生活をする」という意味であり、3章20節ではこの言葉の名詞形が「本国」と訳されています。これは「国籍」という意味です。パウロはこの言葉を用いることによって、天に本国があり、神の国に市民権を持つキリスト者が、神の国の市民にふさわしい生活をするようにということを暗示しているように思われます。わたしたちキリスト者は今はこの世に住み、この国の国民として、この町の市民として生活していますが、主キリストの十字架の福音によって、この罪の世から贖いだされ、神の国に属する者とされました。わたしたちの本来の国籍は天にあります。それゆえに、地上の過ぎ去りゆくものを追い求めず、朽ち果てるべきこの世の宝に目を奪われず、心と目を天に向け、来るべき神の国の到来を待ち望みつつ、永遠なるものを追い求めて生きるようにと招かれているのです。

天に国籍を持つキリスト者は「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と27、28節に続けて書かれています。ここでは、主キリストの共同体である教会のことが言われています。主キリストの福音を信じて救われている共同体である教会は、一つの霊、聖霊によって固く立つことができます。使徒言行録2章に書かれているように、最初の教会は聖霊の降臨によって建てられました。教会は絶えず注がれる聖霊によって立ち続けます。自分たちの足で立つのではなく、立つことができるのでもありません。教会に集められている人の数とか経済力とかによって立つのでもありません。聖霊なる神が弱く貧しい一人一人をお用いになられ、その信仰を養ってくださり、その交わりを強めてくださり、一つのみ言葉のもとに、一つの信仰告白のもとに集めてくださることによって、教会はいつの時代にも、どのような試練のときにも、固く立つことができるのです。聖霊は教会の一致を与える神であり、また教会の足を固くする神であられます。

さらに、聖霊なる神は教会の民を福音の信仰のための共同の戦いへと赴かせると言われています。聖霊は信仰の戦いを導く神であられます。エフェソの信徒への手紙6章17節では、「霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。聖霊は神のみ言葉と共に働き、敵を打ち破り、悪を打ち負かし、罪を滅ぼします。教会の民は聖霊なる神と共に、神のみ言葉を携えてこの世での信仰の戦いに出陣するのです。

ここには、天に国籍を持つ神の民である教会のこの世における戦いの姿勢が強調されています。教会はその信仰を教会内部にだけ閉じ込めておくことはできません。なぜなら、教会を生かし、教会を強めてくださる聖霊なる神と神のみ言葉が鋭い剣として罪のこの世を切り裂き、新しくされた命を創造し、神の義と神の国を建設してくださることを、教会は知っているからです。教会は自らの中に安住していることはできません。「聖霊の剣である神のみ言葉」を携えて、この世での信仰の戦いへと赴くようにと召されています。

宗教改革者カルヴァンは地上の教会を「戦闘の教会、戦い続けている教会」と呼び、天に召された信仰者の群れを「勝利の教会、戦いを終えて勝利を手にしている教会」と呼びました。主イエス・キリストご自身がその地上での全ご生涯が罪との戦いであり、十字架のご受難に向かう戦いであったように、キリスト者も地上にあっては主キリストにある信仰の戦いを続けるのです。そして、主イエスの戦いが復活と昇天の勝利であったように、キリスト者にも最後の勝利が約束されているのであり、地上の信仰の戦いを終えて天に召された信仰者たちはその勝利へとすでに招き入れられているのです。

パウロはそのことを28節の後半でこのように言っています。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。教会の民がこの世の反対者からどのような脅しや攻撃を受けようとも、決してたじろがず、後退せず、恥じることなく、主キリストの福音の信仰に固く立ち続けているならば、神はそのような教会の民に勝利を約束していてくださいます。その勝利を信じて信仰の戦いを続けるならば、それは敵対者たちにとっては敗北であり、滅びのしるしとなります。それは神ご自身がなさるみわざです。

29~30節では、キリスト者の信仰の戦いのさらに積極的な意味が語られます。【29~30節】。信仰の戦いは反対者たちからの攻撃に対して立ち向かうという、外からの必要に迫られて、いわば、いやいやながらも避けられないでしなければならない戦いなのではなく、キリスト者の信仰の戦いは主キリストを信じることに当然に伴っている戦いであり、いやそれのみか、それは神から与えられた恵みと言うべき戦いなのだとパウロは言うのです。それだけではありません。この戦いは主キリストのために苦しむ戦いなのです。もっと明確に言うならば、主イエス・キリストご自身の苦しみに共にあずかること、主キリストのご受難の歩みを共にすることなのです。

今パウロが福音宣教のために迫害を受け、捕らえられ、獄につながれているように、またフィリピの町で最初に福音を宣べ伝えたときに、パウロとシラスが投獄されて鞭打たれたように(使徒言行録16章16節以下)、信仰の戦いは苦難と試練の連続です。フィリピ教会はそのようなパウロの信仰の戦いを実際に見、今またそのことを聞き、そしてパウロのためにあつい祈りをささげ、支援物資を送り、また教会の外部と内部からの反対者たちと信仰の戦いをすることによって、フィリピ教会はパウロと同じ戦いをしているのだとパウロは言っています。パウロもフィリピ教会も共に主キリストご自身の苦難と戦いにあずかっているのです。ここに、キリスト者の豊かな交わりと一致があり、光栄があり、誇りがあり、豊かな恵みがあるのです。

聖書には、信仰による苦難は信仰者にとっては神から与えられた大きな恵みであると言われている箇所が数多くあります。ペトロの手紙一2章19節以下を読んでみましょう。【19~21節】(431ページ)。また、4章12節以下をも読んでみましょう。【12~14節】(433ページ)。使徒言行録14章22節には、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というパウロの言葉があります。

キリスト者にとって、信仰の戦いは、それは多くの場合苦しみや痛みを伴うものではあるけれども、しかしそれはわたしたちの信仰の道にとって決して損失とか禍とかではなく、むしろそれは神からの恵みの賜物なのです。わたしたちを神の国へとお導きになる神の恵みなのです。わたしたちは主キリストを信じる信仰を恵みとして神から賜ったように、主キリストのための苦難をも恵みの賜物として神から与えられているのです。

(祈り)

10月13日(日)説教「神のかたちに似せて創造された人間」

2019年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

   エフェソの信徒への手紙4章17~24節

説教題:「神のかたちに似せて創造された人間」

 神は天地創造の第6日目に、すべての被造物の最後として人間を創造されました。神は人間が生きるために必要な舞台をすべて整えてから、人間を被造世界の頂点として、全被造物の冠として、創造されました。そこには、人間に対する神の深い愛と特別な配慮があるように思われます。そして、このことの中に、わたしたちがきょうの礼拝で学ぼうとしている神の像、すなわち、人間が神のお姿に似せて創造されたというキリスト教教理の中心的な意味が含まれています。

 創世記1章26~27節にこのように書かれています。【26~27節】。このみ言葉から、キリスト教会は「神の像」という教理を形成しました。ラテン語では「イマゴ・デイ」と言います。「神の像、イマゴ・デイ」の教理は、神の創造に関する教理である創造論の中での重要な教えであるだけでなく、人間の罪に関する教えである堕罪論、あるいは、人間の救いに関する教え、救済論とも深く関連しています。それらとの関連を考えながら、神の像、人間が神のお姿に似せて創造されたとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきましょう。

 まず、27節に「創造された」という言葉が3回続けて用いられていることに注目しましょう。以前にも1章1節で学びましたように、「創造する」、ヘブライ語で「バーラー」という言葉は、神が主語のときにしか用いられない特別な用語であり、これは、神がみ言葉をお語りになることによって、その創造的な力強い命のみ言葉によって、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造されることを強調しています。これは、神だけがなさる、なすことがお出来になる、特別な創造のみわざのことです。人間やこの世のものには限界があり、不可能があります。けれども、神にはできないことは一つもありません。神のみ言葉には不可能はありません。神がお語りになるとそのようになり、神がなさることはすべて完全です。神は全能であり、永遠であり、完全です。わたしたちはそのような神のみ言葉を信じるようにと招かれているのです。

 その特別な用語である創造するという言葉が、1章1節の後しばらく保留されていたのですが、この日、第6日目の人間創造の日に、3回も続けて用いられるということから、わたしたちはここからも人間創造に対する神の特別なみ心を読み取ることができます。第6日目の人間創造によって、神の創造のみわざは最終目的に達したと言えます。

 次に、26、27節に、「かたどり」と「似せて」という言葉が用いられています。しかも、「かたどって」が3回も続けて用いられています。非常に強調されています。人間だけが、他の被造物ではなくてただ人間だけが、神にかたどって、神に似せて創造されたということが何重にも強調されているのです。ここでもまた、人間創造に対する神の特別なみ心が言い表されているのです。では、その神の像とは何か。それを探っていきましょう。

 「かたどって」と「似せて」は、元のヘブライ語でも違った言葉ですが、両者の意味の違いがあるのかどうかについては、意見が分かれます。わたくしは違いはないと考えてよいと思いますが、ローマ・カトリック教会では違うと考えます。そして、そのことが人間の罪と救いの教理にも微妙に影響してきます。神のみ言葉に背いて罪を犯した人間は、神の像をどの程度失ったのか、またそれをどのようにして回復するのかという議論が展開されます。このことについては、後ほど触れることにします。

 では、神の像とは具体的に何か。どのような点で、人間は神に似ているのか。そこに神のどのようなみ心があるのか? 2千年のキリスト教会の歴史の中で、またそれ以前のユダヤ教、イスラエル宗教の中で、多くの学者が、さまざまな角度から、この問いに対する答えを見いだそうと研究を重ねてきました。ある学者が数えたところによれば、その答えは二百数十にものぼると言います。皆さんも是非考えてみてください。わたしたち人間が他の生き物とは違って、ただ人間だけが神のかたちに似せて創造されている、その人間だけに備えられている神のかたちとは何か?

 その答えは大きく二つの種類に分類できます。一つは、外見上の姿、形、あるいは目に見えるかたちでの人間の能力において神に似ている点。二つには、精神的、抽象的な意味での類似点。前者の代表的な答えのいくつかを紹介してみましょう。ある人は、人間が二本の足で立って歩く、二足歩行の姿が神に似ていると考えました。あるいは、頭があり、手と足が二本あり、目、耳、鼻、それらの体の機能をうまく使いながら細かい運動や作業をする能力があること、道具を器用に活用できる能力、あるいはまた、複雑な言語で互いに情報を交信したり、高度な文化や技術、科学を発達させる能力があることを挙げる人もいます。

 けれども、それらの外見上の類似点は、確かに人間にだけ与えられている優れた能力であることは認められるとしても、それが神のかたちであると言うには決定的な説得力に欠けると言わざるを得ません。なぜなら、そもそも聖書で証しされている神は、人間の目に見られる何らかの形を持っておられる神ではなく、また、モーセの十戒の第二戒で、神の存在を刻んだ像で表現してはならないと命じられているからです。神ご自身の外形は人間にはわからないのですから、神と人間の外見上の類似点は比較されようがありません。

 二つ目の精神的、抽象的な類似点で第一に挙げられるのは、人間には理性や悟性が備わっているということです。他の生き物はすべて本能のままに行動するのに対して、人間は本能を理性でコントロールし、自分と周囲とを総合的に判断して行動することができる、この点において人間は神に似ていると考えます。あるいは、だれかを、何かを愛する、同情する、悲しみや喜びを表現する、感情や心を持っている、等々。そういったことも、他の生き物にはない、人間独自の優れた点であると言えるかもしれません。しかし、まだ決定的な答えであるとの確証はありません。

 近年の神学者は、今まで挙げたような哲学的、動物学的なアプローチではなく、聖書のみ言葉そのものから理解しようとしています。28節に、【28節】と書かれています。ここから、人間が他の被造物、宇宙や自然界、生き物を治め、統治する務めを神から委託されていることに注目して、神が人間をも含めたすべての被造物を治めておられ、それらの主権者であられるように、人間はこの地上にあって、天の神からその統治権を委託されている、それが神のかたちであると理解することができます。詩編8編の詩人もそのようにとらえていたと推測できます。【4~9節】(840ページ)。人間は地上での神の代理者として、神が創造されたこの世界を神のみ心に適って治めるという尊い使命、課題を与えられているのです。それによって、人間は天地万物を創造された神の栄光をこの世界で具体的にあらわし、証ししていく務めを果たすのです。

 もう一つの近年の神学者の理解を紹介します。それは、27節のみ言葉そのものの中に答えを見いだすことができると考えます。つまり、神のかたちに、神に似せて創造されたとは、すなわち、男と女とに創造されたことであると理解します。神は人間を男だけではなく、また女だけでもなく、男と女という、一対の人間として創造された、それが神のかたちであるという理解です。神ご自身、孤独な存在ではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、三位一体なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるように、人間もまた一人の個としての人間ではなく、互いに交わりを持ち、共に生きる人間として、連帯的人間として創造されている。しかも、男と女という違った性質をもった人間が、その違いを保有しつつ、その違いを認め合いつつ、尊重し合いながら共に生きる連帯的人間として生きる。そこに、神のかたち、神の像があるとその神学者は言います。この理解にわたしたちは最も共感できます。

 以上、神の像とはなにかという問いに対する答えをいくつか紹介してきました。それらのいずれもが、人間がいかに神の大きな愛と深いご配慮によって、他のすべての生き物よりもはるかに勝る者として創造されているかを強調し、表現しようとしていることが分かります。人間はサルや犬と同じものとして創造されたのではありません。空の鳥や野の花と同じものとして創造されたのでもありません。主イエスご自身が福音書の山上の説教で教えられたように、それらのすべてよりもはるかに価値あるものとして創造されているのです。それらよりもはるかに大きな神の愛と恵みとを与えられているのです。実に、神のみ子の十字架の尊い血によって贖い取られた人間たちなのです。わたしたちはそのことを知らされ、そのことを神に感謝し、ただ神の義と神の真理とを求めて生きるように、神が他のすべての必要を満たしてくださることを信じ、神の国の到来を信じて生きるようにと招かれているのです。

 では最後に、神の像の教理を人間の罪、堕罪論、また人間の救い、救済論との関連で少し考えてみたいと思います。ローマ・カトリック教会は、26節の「神にかたどって」と「神に似せて」とを区別して理解します。前者は、人間に生まれながらに与えられている特別なもの、それが他の生き物と人間とを区別しているのですが、たとえば理性とか、知性とかであり、これは罪によっても人間から失われていない。後者は、神との霊的な交わりを可能にするものであり、またそれによって形造られる神に似た姿のこと、これは罪によって失われたが、神を信じて洗礼を受けることにより回復されると教えています。

 そこから、人間が救われるためには主イエス・キリストの福音を信じることと同時に、人間の良きわざもまた必要であると教えます。罪によっても神の像の一部は失われていないと理解することによって、どこかに人間の可能性を残そうとする意図が感じられます。

 それに対して、宗教改革者は両者を区別せず、罪によって神の像は完全に失われてしまったと考えました。人類全体が、また一人の人間全体が、全的に堕落していると理解しました。それゆえに、人間の中には救いのかけらもなく、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってのみ救われるという、福音信仰を確立したのです。人間に少しの可能性を残すことによってではなく、主イエス・キリストの福音にすべての救いの恵みがあるとすることによってこそ、確かで完全な救いがあると、宗教改革は教えました。わたしたちの教会はその信仰を受け継いでいます。

 新約聖書では、罪によって神の像を完全に失ってしまった人間は、まことの神の像であられる主イエス・キリストによって、神に似たものとされると教えられています。コリントの信徒への手紙二4章4節では、キリストは神の似姿であるとあり、またコロサイの信徒への手紙1章15節でも、み子は見えない神の姿であると書かれています。神の像はみ子主イエス・キリストにこそ最も鮮やかに現わされました。わたしたちは主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、主イエスのお姿に似たもの(ローマの信徒への手紙8章29節)とされていき、エフェソの信徒への手紙4章24節で教えられているように、「神にかたどって造られた新しい人」に再創造さていくのです。

 ここにおいてこそ、人間が神の像に似せて創造されたことの神のみ心と意図がはっきりしたように思われます。すなわち、わたしたちが神を礼拝し、神のみ言葉を信じ、主イエス・キリストの福音によって救われているという福音を聞いて信じることがゆるされている、これこそが人間に与えられている神の像であり、最も尊い神の賜物というべきです。

(祈り)

10月6日説教 「マリアとエリサベトの出会い」

2019年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章39~45節

説教題:「マリアとエリサベトの出会い」

 ルカによる福音書1章39節以下には、マリアとエリサベトの出会いの場面が描かれています。36節によれば、二人は親類関係にありました。それ以上に二人を結びつけ、接近させているものがあります。それは、二人とも、神の奇跡によって母になろうとしていることです。神からの特別の恵みによって、やがて母になろうとしている二人の婦人、年老いたエリサベトと若いおとめマリアが、ここで出会っているのです。いや、それだけではありません。一人の人間と一人の人間とが出会っているというだけではなく、ここではもっと別の何かが、目には見えないけれど、何か特別なものが、特別なことが出会っているのです。

 キリスト教美術の中で、何人かの画家によって、この二人の出会いの場面が非常に感動的に描かれているのを、わたしたちは見ることができます。世界史の中では、歴史を大きく変えた偉大な出会いというものもありました。それらと比較すれば、マリアとエリサベトの出会いは、世界史を直接に動かす力など全くない、ごく小さな、目立たない出会いであるように思われます。そうであるのに、それらの画家たちはこの二人の婦人たちの出会いを、輝かしい光の中で、非常に感動的に描いています。この二人の婦人たちの出会いの中に、何が隠されているのでしょうか。わたしたちはそれをきょうの聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 【39~40節】。「このころ」とは、26節の「六か月目に」と関連しています。つまり、洗礼者ヨハネの父となる年老いた祭司ザカリアが、「あなたは男の子を生む。その名をヨハネと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6か月目に、今度はガリラヤ地方のナザレの町に住むおとめマリアが、「あなたは男の子を生む。その名をイエスと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞いて、その胎内に新しい命を宿し始めた、そのころにということです。

 「マリアは出かけて、急いで」とは、マリアの堅い決断と即座に行動したことを言い表しています。彼女はなぜにこれほどまでに急いでいるのでしょうか。それは、神がお示しくださるしるしを見るためです。【36~37節】。マリアは神の約束のみ言葉を直ちに信じることができませんでした。34節でマリアはこのように言います。【34節】。神の奇跡はだれにとっても信じることが困難です。けれども、信じることができなかったマリアに、神はしるしをお与えくださいます。マリアの信仰を助けてくださいます。それゆえに、マリアはしるしを見るために急ぐのです。自分に語られた神の約束のみ言葉を信じることができるために、「お言葉どおり、この身に成るように」(38節参照)、この信仰への道を彼女は急いでいるのです。

 祭司ザカリアの住まいはエルサレム郊外の山里にありました。エルサレム神殿での務めがあるときには、そこから出かけていきます。マリアが住むガリラヤのナザレからエルサレムまでは、直線距離で100キロメートル余り、ヨルダン川の東側を迂回して通る通常の道のりだとどんなに急いでも4、5日はかかるでしょう。マリアにとっては大変な道のりです。けれども、マリアは少しもためらわずに、すぐに決断して立ち上がり、大急ぎで目的地へと向かいます。神が彼女をそこへとお招きになるからです。そこに、彼女が見るべきもう一つの神の奇跡があるからです。そしてそのしるしを見て、彼女に語られた神の約束のみ言葉が確かであることを信じるために、彼女の身に今起こっている奇跡が確かであることを確認するために、彼女は急ぐのです。

 マリアはザカリアの家に入ってエリサベトにあいさつします。彼女たちの出会いとあいさつは、単に親類同士が久しぶりに顔を合わせたというのではなく、神によって導かれている出会い、神によって固く結びつけられている二人の出会いであり、あいさつです。そのとき、全く不思議なことが起こりました。41節以下を読んでみましょう。【41~45節】。ここで起こっている不思議なこと、母になろうとしている二人の婦人の感動的な出会い、いや、それだけではありません。二人の胎内に宿っている二つの新しい命の不思議な、感動的な、驚くべき出会い。ここでは何が起こっているのでしょうか。その意味を更に探っていきましょう。

 この二人の婦人の出会いの意味を、ルカによる福音書がこれまでに記してきた物語全体の中で考えてみましょう。わたしたちはこれまで二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。5~25節では、洗礼者ヨハネの誕生予告が、そして26~38節では、主イエスの誕生予告が語られていました。この二つの誕生予告が、きょうの39節以下に記されているマリアとエリサベトの、二人の母となるべき婦人の出会いによって、ここで一つに結び合わされているということに、わたしたちは気づかされるのです。

 この二つの誕生予告は、一つは、エルサレム郊外に住む、長い間子どもが与えられなかった年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトに与えられた約束であり、もう一つは、ガリラヤのナザレに住む、まだ一緒になっていない婚約者、ヨセフとマリアに与えられた約束であって、エリサベトとマリアが親戚関係にあったということのほかには、何一つ結びつきがない、二つの別々の誕生予告と思われていたのですが、その二つの誕生予告が今ここでマリアとエリサベトが出会うということによって、いやそれのみか、二人の胎内に宿っている新しい二つの命の感動的な、不思議な出会いをすることによって、一つに結合されているのです。二つの誕生予告が一つの神の救いのみわざであるということが、二人の母となろうとしている婦人の出会いによって、目に見える形で明らかにされたているのです。すなわち、神がわたしたち全人類を罪と死と滅びから救い出すためにこの世にお遣わしになるメシア・キリスト・救い主のために道を備える先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生予告と、その先駆者によって整えられた道を通ってこの世においでになり、神の永遠の救いのみわざを成就されるメシア・キリスト・救い主なる主イエスの誕生予告とが、今ここで一つに結ばれ、神の一つの救いのみわざがこのようにして開始されたということを告げ知らせているのです。二人の母となるべく選ばれたマリアとエリサベトは、共にこの神の救いのみわざのために用いられ、仕えているのです。そのことこそが、この二人の婦人を固く結びつけているのであり、ここでの美しく、感動的な出会いを経験させているのです。

 この特別な出会いの意味を更に探ってみましょう。ここで出会っている二人の婦人、マリアとエリサベトは共に神の奇跡によって母になろうとしているということに注目しましょう。ここでは、神の特別な恵みをいただいて、神の奇跡によって、胎内に子どもを宿している二人の婦人が出会っています。あるいは、こう言ってもよいでしょう。ここでは、神の恵みと神の恵みとが出会っている、神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのだと。

 人間と人間との出会い、美しく、感動的な出会いは、このようにして起こるのです。共に神の恵みと祝福とを受けている者同士の出会い、共に神の奇跡を体験している者同士の出会い、共に神の救いのみわざのために仕えている者同士の出会い、そして、共に神の約束のみ言葉の成就を信じ、待ち望んでいる者同士の出会い、ここにこそ、人間として最も感動的で、真実な出会いがあるのです。

 そのような出会いは、わたしたちの礼拝においてこそ実現しているのだということを、まず覚えたいと思います。わたしたちは主の日ごとにこの世から選び出され、礼拝に集められ、礼拝の民の中に加えられます。共に神の選びと招きとを受け、神の恵みを与えられ、神の憐れみによって罪ゆるされた者としてここに集まっています。共に神のみ言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りをささげています。共に一つの主の食卓を囲み、聖霊なる神の交わりの中に一つとされています。礼拝でのこのような交わり、出会いこそが、わたしたちの真実な出会いの原点なのです。この礼拝で神と出会うこと、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストと出会うこと、そして共に神の救いの恵みに招き入れられている兄弟姉妹として交わり、出会うこと、これがわたしたちの真実の出会いの原点であり、中心なのです。

 マリアとエリサベトの出会いの更に大きな、最も重要な意味は、ここでは、神の奇跡によって母になろうとしている二人の婦人が出会っているだけでなく、二人の胎内に宿っている主イエスと洗礼者ヨハネとが出会っているということです。その不思議な出会いについて41節でこのように語られています。【41節a】。これは何という不思議な、驚くべき出会いでしょうか。

 このときにはエリサベトの胎内の子どもは6カ月になっていますから、胎動が感じられる、おなかの中の赤ちゃんが動くということは、わたしたちもよく知っています。けれども、今ここで起こっておることは、一般的な胎動ではもちろんありません。マリアのあいさつの声をエリサベトが聞いたときに、エリサベトの胎内の子どもにまでその声が届いたということのようです。いやもっと的確に言うとすれば、ここではマリアの胎内の子どもとエリサベトの胎内の子どもが出会っているのです。メシア・キリスト・救い主であられる主イエスと、メシアのために道を整える先駆者である洗礼者ヨハネとが出会っているのだと言うべきです。これが、マリアとエリサベトの出会いの中心的な意味です。

 洗礼者ヨハネは、神が旧約聖書の民イスラエルに約束された全世界のメシア・キリスト・救い主の到来を、最も近くで預言し、その救い主のために道を備える先駆者です。主イエスは旧約聖書の約束の成就そのものであられ、長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられます。そのヨハネと主イエスとがここでは出会っているのです。あるいはこう言ってもよいでしょう。ここでは、預言と成就とが出会っているのだと。旧約聖書と新約聖書とが出会っているのだと。そして、待降節・アドヴェントと降誕日・クリスマスが出会っているのだと。エリサベトの胎内でその子が喜び踊ったのは、このような偉大な神の救いのみわざが起こっているからなのです。

 エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福する言葉を語ります。エリサベトはマリアよりもずっと年上ですが、彼女は最大級の言葉でマリアをほめたたえています。けれども、ここからローマ・カトリック教会がマリアを特別視して、聖母マリアとして崇拝したり、マリアに関するさまざまな根拠のない教理を創り出していったことについては、宗教改革以来、わたしたちプロテスタント教会は異議を唱えざるを得ません。マリアがどんな理由からほめたたえられているのかを正しく読み取らなければなりません。

 それは42節にはっきりと書かれているように、マリアが女性の中で祝福された方であるのは、マリア自身の何らかの特質や能力によるのでは全くなく、それはひとえにマリアの胎の実が、すなわち主イエスが祝福されたお方であるからにほかなりません。また。45節に書かれているように、マリアが幸いな人であるのは、マリア自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、それはひとえに、マリアが神のみ言葉を信じ、従順に従ったからにほかなりません。重要なことは、神が約束のみ言葉をマリアに語ってくださり、神がそのみ言葉を確かに成就されたということにあるのです。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このみ言葉は、きょうの礼拝に招かれているわたしたち一人ひとりにも語られています。わたしたちが本当に幸いな人となり、幸いな人生を歩むことができるのは、主なる神のみ言葉を聞き、その成就を信じつつ、主イエスが再び来たりたもう日を待ち望むことによってです。

(祈り)

9月29日(日)説教「主キリストにある生と死」

2019年9月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    フィリピの信徒への手紙1章19~26節

説教題:「主キリストにある生と死」

 パウロの「獄中書簡」また「喜びの書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいますが、1章18節に「喜ぶ」という言葉が2度用いられています。この二つの「喜ぶ」という動詞は日本語の翻訳でははっきりしませんが、文法的に言えば、前の喜ぶは現在形で、今喜んでいるという意味で、後の方は未来形で、これからもずっと喜び続けるであろうという意味です。4節で最初に出てきた「喜び」は名詞形ですが、「いつも喜びをもって祈っている」と言われています。

これらの3つの「喜ぶ、喜び」の言葉の用い方からも推測できるように、パウロがこの手紙で語っている喜びは、わたしたちが日常で感じる喜びとは何か違う、特別な喜びであるように思われます。パウロの喜びは、いつでも、どのようなときでも、変わることのない喜びであり、今がどのように困難であれ、これからどんな困難が予想されるとしても、それでもなおも決して変わらない喜びなのです。つまり、パウロの周囲を取り巻いている現実やパウロ自身の現実には全く左右されない喜びなのです。その喜びは、わたしたちがすでに聞いてきたように、この地上でわたしたちが経験したり見たり聞いたりしている喜びではなく、天から、天の父なる神から与えられる喜びなのであり、したがってその喜びは、地上のいかなるものによっても変化したり消えたりすることがない永遠の喜びなのです。

そのようなパウロの特別な喜びを、きょうの礼拝で朗読された19節以下のみ言葉からも、わたしたちは聞くことができます。18節の前の方の今喜んでいることの内容は、18節までに書かれていたことを指し、後の方のこれからも喜ぶであろうと言われていることの内容は19節以下で書かれていることを指すと考えられます。

そのような理解から、ある翻訳では、18節の最後の文章「これからも喜びます」、直訳すると「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」となりますが、ここから新しい段落にしているものがあります。ちなみに、今日の聖書につけられている章や節の区分、段落などは、最終的には宗教改革時代に定着しましたが、元来のヘブライ語とギリシャ語の原典にはそれらはありませんでした。日本語訳の口語訳聖書でも新共同訳聖書でも18節のところに段落はつけていませんが、英語やその他の翻訳では、「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう。というのは……」から新しい段落が始まるようにしているものがいくつかあります。

では、前の方の、今喜んでいることの内容を、前回学んだ箇所ですが、それをもう一度確認しておきましょう。一つは、パウロが迫害を受けて捕らえられ、公の裁判が開かれることになり、パウロが証言台に立つことによって、その町の役人たちや市民たちの多くが、主キリストの福音について聞く機会が与えられた、そのことをパウロは喜んでいるというのです。第二には、パウロが獄に拘束されるようになったために、他の伝道者の中には、自分たちの伝道の機会と範囲がより広げられるチャンスだと考え、パウロに対する競争心をより強くしている人もいるが、パウロはそのことをも喜ぶと言います。いずれの場合も、パウロ自身にとっては、とても喜びであるはずのないことが、しかしそれにもかかわらず、主キリストの福音の前進になっているのだから、わたしは喜んでいる、とパウロは言うのです。パウロの喜びは、彼自身が今経験している迫害、束縛、苦難、恐れ、不安、彼に対する妬みや敵対心、それらのすべてを超えて、それらのすべてを貫いて、彼を喜びで満たしています。それが、天の神から与えられている主イエス・キリストの福音からくる喜びなのです。

次に、後の方の「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」の内容は、19節の「というのは」以下によって説明されています。ここには、これから将来にわたってもパウロが喜び続けることの理由が書かれています。その理由は、「このことがわたしの救いになる」からです。このこととは、パウロの投獄が予想に反して福音の前進になったということ、それがパウロ自身の救いになるからだというのです。パウロの投獄と福音の前進、それが彼自身の救いになることとはどのように結びつくのでしょうか。

そのことを考えるうえで重要なポイントは、「あなたがたの祈り」です。フィリピ教会は獄中のパウロのために熱心に祈り、また支援の物資を送り届けるために教会員のエパフロディトを派遣しました。パウロもまたフィリピ教会のためにいつも祈っていることが4節と9節に書かれていました。パウロとフィリピ教会とは祈りによって固く結ばれています。そこには聖霊なる神が働くからです。キリスト者の祈りには聖霊なる神が執り成してくださり、祈りの霊と祈りの言葉とを授け、祈りが確かに聞かれるという確信をお与えくださり、さらには祈りによる交わりを与え、時と場所を超えて祈る群れを一つに結びつけてくださいます。獄中にあるパウロとフィリピの町にある教会とが祈りによって一つに結び合わされ、それによってフィリピ教会はパウロの福音宣教の働きに具体的に参加しているのです。福音宣教によって迫害され、獄につながれ、この世の悪しき勢力と信仰の戦いをしているパウロの戦いに、フィリピ教会も共に祈りによって参戦しているのです。ある人は、「祈りは、使徒パウロと教会との共同戦線である」と言っています。パウロは30節でこのように言います。【30節】。

そして、そのことこそが、パウロ自身の救いになるのだと彼は言うのです。この世の悪しき力や迫害や試練によっても、主キリストの福音は決して後退せず、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれず、それゆえに主キリストの教会もまた迫害や試練を乗り越えて前進していく希望が与えられている。そのことを、パウロとフィリピ教会との祈りによる共同の戦いによって証ししている。それによって、獄中のパウロの信仰はいよいよ強められ、救いの確信が与えられている。多くの教会とキリスト者にとっても、福音の前進のときとなり、福音宣教の機会となる。だから、わたしはこれからもずっと喜び続けるのだとパウロの言うのです。たとえ、この後の判決で死刑を言い渡されることになろうとも、わたしはそれを喜ぶであろうとパウロの言うのです。

【20節】。「恥をかかず」とは、神のみ前でという意味です。主キリストの僕として、証し人として、その務めを果たし得ないで、神からの恥を受け、神に裁かれ、見捨てられることが決してないようにというのが、パウロの切なる願いだというのです。もし、神のみ前で恥を受けるのならば、この世でどれほどの誉れを受けても、それが何になるでしょうか。しかしもし、人間から受ける恥を恐れて主の証し人であることをためらうならば、神からの恥を受けなければならないでしょう。わたしたちが神からの恥を受けないことを願うならば、すなわちどのようなときにも神のみ言葉の証人として語り続けるならば、人間のどのような辱めの中でも、固く立って倒れることなく、喜び続けることができるでしょう。

さらに20節の後半では、より積極的に自分の生と死、生きることと死ぬこととを通して、主キリストが崇められることこそがわたしの唯一の願いであり、希望であると言います。パウロは今生と死の瀬戸際にいます。どんな人間にとっても、生きるか死ぬかという分岐点に立たされるということは、重大で深刻な事態であることは言うまでもありません。ある人は生きることをすべてに優先させて考えます。そして、自分が生きるために、かなりのことをすることができます。人はまたある時には、生きることよりも死ぬことに意味を見いだすこともあります。彼にとって死はおそらくは何の価値もないに違いないのに、それでも生きるよりは死ぬ方がまだましだと思えるから、彼は生きることを捨てて死ぬことを選びます。かつて、生と死とを真剣に考えた劇中の人物は「生きるべきか、それとも死ぬべきか、それが問題だ」と叫びました。

しかしながら、パウロにとっての生か死かは、彼自身のための選択なのではありません。彼自身の価値判断とか、彼自身の願いとか、彼自身の利益のための選択なのではありません。彼の生と死によって主キリストが崇められること、そのことだけがパウロの切なる願いであり希望なのです。パウロの生死は、もはやここでは重要ではありません。主キリストが崇められるということの中では、彼の生死の問題はどちらでも構わない小さなことになっています。パウロが死の判決を受けて死ぬことになろうとも、あるいは無罪放免になってさらに宣教活動を続けることになろうとも、そのどちらであっても、彼にとってはどちらでも構わない。そこで主キリストのみ名が崇められ、主キリストの福音が前進すること、それがパウロにとっての最大の関心事であり、目指すべき目標なのです。

人がもし自分の名誉を守ることとか自分の正義のためとかを第一に考えている場合には、彼の生死を天秤にかけて、どちらを選ぶべきか迷うでしょう。しかし、パウロにとっては、彼の生死の二つを一緒にしても、それよりもさらに重いものがあると告白しています。それが主キリストです。パウロの生死がそれよりもはるかに大きく重い主キリストの中に包み込まれていることを、彼は知っています。だから、パウロは生きることからも死ぬことからも自由にされています。生きることへの執着からくる人間の欲望から、生きるつらさや苦しみからも、そして死の恐怖からも、生きることに絶望して死を選ぶ誘惑からも、自由にされています。主キリストにある信仰者の生と死は、人間を本当の意味で自由にするのです。

ただし、主キリストにある生と死は、どちらも意味がないから、どちらでも構わないということではありません。その逆であって、人が主キリストにあって生きることと死ぬことから自由にされたときには、その両方が共に、それまでとは違った、より積極的で大きな意味をもってくるようになります。

【21~26節】。パウロはここで生と死の二つの道のどちらを選ぶべきか迷っています。しかしそれは、どちらが自分にとって好ましいか好ましくないかということを問題にしているのではなく、またどちらも意味がないからというのでもなく、そのどちらもが有益であり、望ましい道だからです。パウロのこの迷いは、生と死のはざまに立たされている人の不安や恐れや思い煩いによる迷いではなく、喜びながらの、主キリストにある信仰者の迷いです。このような両方が共に望ましい二つの道の板挟みや迷いならば、わたしたちもぜひとも経験したいものです。

パウロは23節で、わずかに彼自身の願いを言います。彼にとっての死は、最後の終わりでも敗北でもなく、主キリストと永遠に共にいることであり、その方を望んでいると言います。たとえ獄中で殉教の死を迎えることになっても、それは彼にとって少しも恐怖ではなく、むしろ望ましいと言います。死は彼を支配していません。死は主キリストの復活によって勝利に飲み込まれてしまったからです。主キリストによって死のとげは抜かれてしまったからです。主キリストにある死は、勝利への入り口だからです。

でも、24節以下でパウロは肉のうちにとどまり、生きながらえることもまた、あなたがたのためにはもっと必要だとも言います。24節以下では、「あなたがた」という言葉が繰り返されています。パウロが自分のためにこの道を選ぶのではありません。わたしのための生ではなく、わたしのために生きるのではなく、あなたがたのために生きる生、命がここにあるのです。

主キリストにある死を信じる信仰者には、そして死の恐れや不安から解放されている人には、新しい積極的な生の道が開かれます。「生きているのはもはやわたしではない。主キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)という生があります。主キリストがわたしたちのためにお生まれになり、わたしたちのために生きられ、わたしたちのために十字架で死なれ、そしてわたしたちのために復活されたゆえに、わたしはこのよみがえられた主キリストのために生き、主キリストによって生かされている他者のために生きるという、新しい生を与えられているのです。

(祈り)

9月22日(日)説教「第七日の安息」

2019年9月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章1~3節

    マタイによる福音書12章9~14節

説教題:「第七日の安息」

 神の天地創造のみわざは、第六日目の人間創造を最後に、完了しました。1章31節にこう書かれています。【31節】。これまでにも、一日の創造のみわざの終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されてきましたが、ここでは「見よ、極めて良かった」と言われています。「見よ」とは、注意をうながしたり強調したりするときに用いられる言葉です。「極めて」も強調していますから、二重に強調されていることになります。

 神が創造されたすべてのものは、第一日目の光から第六日目の人間に至るまで、そのすべてが神のみ心に適い、神の良き創造のみわざであり、しかも創られたもの全体としても、構造や秩序、調和、互いの関係、あらゆる点において完璧であり、美しく、何一つとして欠点なく、不足もなく、汚れや歪み、悪もなく、「極めて良かった」と聖書は語っています。

 聖書がそのことを強調する理由は何でしょうか。また、わたしたちがそのことを信じる意義はどこにあるのでしょうか。それは、3章で人間の堕落、罪について語っている箇所でより明らかになるのですが、ここでいくつかのことを挙げておきましょう。第一に重要な点は、神は全能の神であられ、全く善であり完全であり、神には汚れとか悪とか欠点や不足というものが全くないということをわたしたちが信じるためです。したがって、神の創造のみわざはもちろん、神がなさるすべてのみわざは良きものであり、少しの欠点も不足もないということを、わたしたちが信じるためです。

 第二には、しかしながら現実にわたしたちが見たり経験したりしている現実世界では、さまざまな混乱や破れ、悪や罪があふれているとするならば、それは神以外のところから出てきたのであり、まさに人間の罪に起因しているのだということをわたしたちが知り、認め、その罪を神のみ前に告白して、悔い改め、神のゆるしを願い求める者となるためです。

 第三には、すべての被造物の頭として創造され、神のかたちに似せて創造された人間が、神から託された他の被造物を治める務めを忠実に果たすためです。この被造世界、自然、地球、宇宙全体の混乱や破壊、破れに対して、責任を自覚しつつ、神が創造された良き世界を回復するために、世界の平和を創り出し、社会秩序を正しく維持し、自然環境を守るという務めを果たすことがわたしたち人間に求められています。

 そして第四に、神が創造された良き世界を、神は終わりの日に必ずや完成させてくださることを信じ、神の国を待ち望む信仰を持ち続けるためです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。

 2章1節からは、第七日目について語られます。【1~3節】。ここでまず確認しておくべきことは、第七日目にも神が主語となられ、ただ神だけが行動されるということです。2節に「神は」「神は」と2度繰り返され、3節でも「神は」「神は」とあり、すべて神が主語の文章です。被造物である人間も他の生き物も、ここではまだ全く姿を現していません。何の活動もしていません。これまでの六日間にも、すべて神が主語となって、神がみ言葉をお語りになってすべてのものを創造されましたが、この第七日目にも、神が主語となられ、神が創られたすべてのものを支配しておられます。このことは、このあとで安息日について考える際に重要な意味を持ってきます。

 もう一つここで確認しておくべきことは、神の創造のみわざは第七日目で完成されるということです。1節に「完成された」とあり、2節でも「神はご自分の仕事を完成された」と書かれています。神の創造のみわざは、第七日目に神が創造のみわざを終えて休まれたことによって、またこの日を祝福され、聖別されたことによって、完成されたのです。つまり、6日間にわたって創造されたものがすべてそろって、そこに存在していたとしても、それで終わりではなく、まだ完成ではなく、神が第七日目に創造のわざを終えて休息され、その日を神の特別な日として祝福され、聖別されることによって、そのようにして初めて神の創造のみわざは完成されるのだということです。このこともまた、わたしたちが安息日の意味を考える際に深い意味を持ってきます。

 さらにもう一つのことを確認しておきたいと思います。それは、神の創造のみわざは完成したということです。1節と2節に2度「完成された」と繰り返されているように、神の創造のみわざは未完成ではなく、途中で終わったのでもなく、神がご計画なさったように、その最終目的に達したということです。神の創造のみわざは他の何かによって補われなければならないのではありません。神の創造のみわざが未熟なために、この世界に欠けや不足や歪みがあるのでもありません。1章31節でも言われていたように、神の創造のみわざは第一日目の光から始まって第六日目の人間に至るまで、すべてが神のみ心に適い、神のご栄光を現すものとして完成されているのです。

 以上3つの点をあらかじめ確認したうえで、第七日目の中心的な意味について学んでいきましょう。神は第七日目に、すべての創造のわざを終えて休まれました。2節でも3節でも「安息された」と翻訳されているように、この言葉は単に疲れたから休むとか、仕事を終えて息抜きをするという意味ではありません。わたしたちがあらかじめ確認してきたように、神はこの日、第七日目に安息されることによって、ご自身の創造のみわざを完成されたのです。ある意味では、神はこの第七日目にこそ、最も力強くみわざをなさるのです。そのみわざは「祝福する」と「聖別する」です。

 「祝福する」という言葉は1章22節と28節にもありました。22節では、空と地と海の生き物たちの命の繁殖に対して神の祝福が与えられていました。28節では、人間の命が増え広がることに対して、神の祝福が与えられていました。いずれも、神から与えられた命が満ち溢れることが神の祝福です。そこには神の特別な喜びがあり、愛があり、神から与えられた力があり、満ち足りた平安があります。神によって創造された命は、この第七日目の安息日に、神の祝福を与えられて最終的に完成するのです。命あるものは、この神の祝福なしにはその命を長らえることはできませんし、命を次の世代に受け継ぐこともできません。安息日はこの神の祝福が特別に満ち溢れる日です。

 のちの時代に、イスラエルの民は家の長男が家督権とともにこの神の祝福を受け継ぐと考えました。族長アブラハムの祝福がその子イサクに受け継がれ、イサクの祝福がその子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの祝福がイスラエルの民へと受け継がれていきました。そして、イスラエルの民の中からお生まれになった主イエス・キリストによって、今日のすべての教会の民へと神の祝福は受け継がれています。わたしたちは安息日ごとの礼拝でその祝福を受け取るのです。

 安息日の神のみわざのもう一つは「聖別する」です。聖別とは、他のものから区別して、神にささげられるために、神のために取り分けることを言います。この第七日目は、神のための日であり、神に属する日であり、神にささげられる日だということです。この第七日目の聖別によって、それまでに創造されたすべての被造物が、いま改めて神に属するもの、神にささげられたものとされました。すべての被造物は神のために存在し、すべての命は神のために生きるのです。これによって、神の創造のみわざは最終的に完成しました。

 のちの時代、紀元前13世紀ころ、エジプトの奴隷の家から神によって導き出されたイスラエルの民はシナイ山で神と契約を結び、神の民とされたとき、神はこの第七日目をイスラエルの安息日と定められました。出エジプト記20章8節以下に記されている十戒の第三戒で、神はこのように命じられました。【8~11節】(126ページ)。10節には「主の安息日であるから」と言われています。安息日はイスラエルの民のために定められたのですが、本来は主なる神の安息日であるということがここでも忘れられていません。主なる神がこの日に主語となられ、主なる神がこの日に創造のみわざを完成され、主なる神がこの日を祝福され、聖別されるのです。主なる神がこの日に造られたすべての被造物をみ手に治め、ご支配され、命をお与えになるのです。契約の民イスラエルはこの神の安息へと招かれています。

 今日のわたしたちにとっての安息日も同様です。旧約の民イスラエルにとっての安息日は第七日目、土曜日でしたが、新しい契約の民、教会にとっての安息日は、主イエス・キリストが週の初めの日の日曜日に墓から復活されたことを記念して日曜日が新しい安息日となりましたが、この日が神ご自身の安息日であり、神のための日であり、神にささげられるべき日であるという意味はそのまま受け継がれています。日曜日はわたしたち人間が自由に用いてよい人間のための安息日なのではありません。週日に働いて、日曜日に疲れた体を休めるとか、自分の自由な時間として用いるということではありません。そこには造り主なる神はおられません。そこには祝福はありません。まことの命はありません。

 安息日は何よりの第一に主なる神のための安息日です。主なる神が安息日に人間をも含めたすべての被造物の主となられるのです。マタイによる福音書12章8節で、主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。そして、続く9節以下では、主イエスは安息日の主として、病める人をいやされ、罪びとたちの罪をゆるされました。主イエスは安息日にこそわたしたち人間のために働かれます。人の子としてこの世においでになった神のみ子、主イエス・キリストこそが、安息日の主として、この日に礼拝に集められているわたしたち一人一人のために、救いのみわざと新しい創造のみわざをなしてくださいます。神の創造のみ心に背き、罪の中で死と滅びとに支配されていたわたしたちを、ご自身の汚れのない聖なる十字架の血によって罪から贖い、新しい復活の命を注ぎ込んでくださる主イエス・キリストが、わたしたちにとっての安息日の主です。

 初代教会は、十字架につけられた主イエスが週の初めの日、日曜日の朝に復活され、弟子たちに復活のお姿を現され、また次の日曜日にも弟子たちに現れてくださったという経験から、旧約聖書時代の安息日であった土曜日から日曜日に安息日を変更し、この日に礼拝をささげるようになりました。復活され、罪と死とに勝利された主イエスは、今もみ言葉と聖霊とによってわたしたちの安息日の礼拝で、わたしたちに出会ってくださいます。

 主の日ごとの安息日の礼拝は、さらに、終わりの日の永遠の安息日を目指しています。終わりの日には、わたしたちは何の妨げもなく、主なる神と永遠に共にいることがゆるされます。もはや、死もなく、悲しみも痛みも叫びもない新しい天と地とが創造されます。そのとき、永遠の安息がわたしたちに与えられるのです。

(祈り)

9月15日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネの誕生と救い主、主イエスの誕生とを互いに関連づけながら語っています。きょうもそのことに注目しながら、30節以下のみ言葉を学んでいきたいと思います。【30~31節】。これは、ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生予告の13節に対応しています。【13節】。いずれも、神の奇跡によって、神の大きな恵みによって、子どもが与えられるはずがない二人の婦人から、男の子が生まれると予告され、またその子の名前があらかじめ告げられます。

 当時の習慣によれば、生まれて8日目に、男子であれば割礼の儀式を行い、父親が名前を付けます。ところが、この二人の場合にはそうではありません。生まれる前に神によってすでにその名前が決められているのです。親は、この子が将来このような人間に成長してほしいという願いを込めて子どもに名をつけます。それと同じように、否それ以上に、ここには名づけ親であられる主なる神の強い意志と深いみ心が示されているのです。イエスという名は、「神は救いである」という意味です。神は、ご自身がイエス「神は救いである」と名づけられたご自身の独り子によって、実際に全人類を、わたしたちすべての人間を、罪と死と滅びから救い出されるというみわざを成就し、完成してくださるのです。わたしたちがこの救い主、主イエスのお名前を信じ告白するならば、この主こそがわたしの唯一の、永遠の救い主であると信じ告白するならば、わたしたち一人ひとりにも神の強い意志と深いみ心が働き、神の救いのみわざがわたしにとって現実となり、成就するのです。

 32、33節では、主イエスがどのような方であるのかが語られています。【32~33節】。この個所も15~17節と対応しています。洗礼者ヨハネの場合には、彼の先駆者としての役割、すなわち彼の後に来られるメシア・救い主のために道を整え、人々を救い主を迎えるために準備させるという役割でしたが、主イエスの場合は、彼こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就し、完成されるということが強調されています。

 「いと高き方」とは神のことです。つまり、主イエスが神のみ子であると言われています。洗礼者ヨハネは「神のみ前に偉大な人」となると15節にありましたが、主イエスは神のみ子です。ヨハネは最も近くで来るべきメシアを預言し、証ししているゆえに人間の中で最も偉大な人ですが、彼は人間です。メシア・救い主ではありません。ヨハネはただひたすらに来るべきメシア・救い主を証し、このメシアのためにお仕えすることによって、彼に神から託された尊い務めを果たすことができるのです。彼はのちに、3章16節でこのように告白しています。【3章15~16節】(106ページ)。

 主イエスは神のみ子であり、神の独り子であり、その務めは、父ダビデの王座を受け継ぎ、その王国を永遠に支配するであろうと言われています。これは、主イエスこそが旧約聖書全体が預言しているメシア・救い主であり、イスラエルの民が待ち望んでいた永遠なる神の国の王であるということです。地上の王国を支配する王は、どれほどに偉大であっても、永遠であることはできません。地上の王国には終わりがあります。けれども、神の国の王である主イエスのご支配は永遠に続きます。主イエスは罪と死とに勝利する王だからです。復活して永遠の命に生きておられる王だからです。主イエスは永遠なる神の国で、神の民のために愛と救いの恵みとをもってお仕えくださり、またその民を治められます。地上の王たちは権力や武力によって民を治め、支配し、民によって仕えられることを喜びとします。けれども、神の国の王であられる主イエスは、民のためにお仕えくださることを喜びとされ、民のためにご自身の命を十字架におささげくださるほどに、ご自身の民を愛される王です。権力や武力によって支配する王国はやがて倒れます。けれども、愛によって互いに仕え合う王国は豊かに祝福され、永遠に続きます。主イエスはこのような永遠なる神の国を完成される王としてこの世においでになったのです。

 「神は彼に父ダビデの王座をくださる」と書かれているのは、いわゆる「ダビデ契約」の成就です。サムエル記下7章12~13節を読んでみましょう。【12~13節】(旧約聖書490ページ)。これが預言者ナタンによって語られた「ダビデ契約」と言われる神の契約です。旧約聖書の民イスラエルはこの神の約束を信じて、やがてダビデ王家から永遠の王であるメシア・油注がれた王・キリストが出現することを待ち望んでいました。今や、その約束の成就のときが来たのです。

 主イエスがダビデ王家に連なるダビデの子孫であるということは、母親のマリアの側から確認することはできません。36節によれば、マリアは洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの妻エリサベトと親類関係にあったと書かれていますので、もしかしたらマリアも祭司家系に属していたということが考えられますが、ダビデの家系だとは言われていません。主イエスの父ヨセフは27節でダビデ家に属すると書かれていますし、3章23節以下の系図でもそうなっています。また、マタイ福音書1章の系図でもヨセフはダビデの家系に連なっています。主イエスは父ヨセフによってダビデ家に連なっているということは確認できますが、しかし、ヨセフは主イエスの誕生には人間として全く関与していませんから、つまり主イエスはマリアがまだヨセフと一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもったのですから、厳密に言えば、人間的な血縁関係としてはダビデの家系に連なっているとは言えないことになります。

 そうであるとしても、主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになったと聖書は告白しています。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」とパウロは書いています。神はこのようにして、ご自身の永遠の救いのみわざを、人間の思いや肉のつながりをはるかに超えて、しかもそれをお用いになって、不思議な仕方で、実現されたのです。

 神の救いのみわざの不思議さは、ダビデ契約の実現の過程にも見ることができます。神がダビデ王とこの契約を結ばれたのは紀元前10世紀の前半、主イエス誕生のおよそ1000年前でした。しかも、ダビデ王家は紀元前587年のエルサレム滅亡で完全に途絶えてしまいました。神は切り倒され、ほとんど死にかけていたダビデの木の切り株から、奇跡によって、新しい芽を生え出させるようにして、その契約を成就されました。主イエスの誕生には、いくつもの神の奇跡が重なっています。

 では次に、主イエス誕生の中での最も大きな奇跡である「おとめマリアからの誕生」についてみていきましょう。わたしたちが礼拝で告白している『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白していますが、この告白は主にルカ福音書のきょうの個所とマタイ福音書1章18節以下のみ言葉に基づいています。【ルカ福音書1章34~35節】。【マタイ福音書1章18節】(1ページ)。

いわゆる「処女降誕」という告白は主イエスの十字架の福音と密接に結びついているということを見落としてはなりません。「処女降誕」という奇跡だけを十字架の福音から切り離して取り上げても正しい理解を得ることはできません。その両者の関連を考えてみましょう。

 マリアは婚約していたヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもり、神の奇跡によって、神のみ子主イエスを生むであろうと35節に予告されています。そして次の36節では、マリアの親類エリサベトも神の奇跡によってすでに身重になり、6カ月になっていると言われています。この二つの神の奇跡による子どもの誕生は、旧約聖書に記されている神の奇跡による子どもの誕生、年老いたアブラハムとサラの子イサクの誕生や、イサクの子ヤコブの誕生、あるいは預言者サムエルの誕生と共通しています。それらの子どもの誕生は、人間的には子どもが授かる可能性が全くないときに、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによって、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神の奇跡のみ力による誕生でした。主イエスの誕生は、それらのイサク、ヤコブ、サムエル、そして洗礼者ヨハネという一連の神の奇跡による子どもの誕生の、いわば頂点にあるのです。

 しかも、イサクからヨハネに至る子どもの誕生は、人間の営みが全くなかったわけではありませんが、主イエスの誕生の場合には、マリアもヨセフも人間的なかかわりが全くなく、いわば100パーセント神の奇跡なのです。マリアは34節で、そのような神の奇跡に驚きをもって答えています。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そこには人間の関与は一切ありません。これは神の奇跡の中の奇跡です。神は命を生み出す可能性が全くないところに、新しい命を創造し、しかも最も尊く、光輝き、すべての命の源となる命を、創造されるのです。

 このような奇跡によって誕生した人は、その命の源をすべて神に由来しているゆえに、その人の生涯全体も神のものであり、神にささげられます。これが奇跡による誕生の意味であり、目的です。その人の命は神の恵みによって与えられたのですから、その人は与えられた命を神に感謝して、神に仕える生涯を歩む者となるのです。主イエスのご生涯は、この点においても、アブラハムの子イサクから洗礼者ヨハネに至るまでの奇跡によって誕生した人たちの頂点に立っています。主イエスはそのご生涯を父なる神にお仕えし、最後にはその尊い命そのものを、わたしたち罪びとの罪をあがなうための供え物として、与え主であられる父なる神におささげになりました。

 「処女(おとめ)マリアから生まれた」という信仰告白のもう一つの重要なポイントは、主イエスは、人間の営みが一切なく、聖霊なる神のみ力によって誕生された聖なる神のみ子であるということです。この点においては、洗礼者ヨハネやイサクとは全く違っています。彼らは神の奇跡によって誕生し、生涯神に仕えましたが、しかし彼らは罪びとたちの一人でした、。生涯を神にささげ、神の救いのみわざのために仕えましたが、自らは罪びとであり、他の人を罪から救う力をもってはいませんでした。

 しかし、主イエスは聖霊なる神のみ力によって誕生された神のみ子です。聖なる、罪なき方です。わたしたち人間のすべての弱さや貧しさを知っておられ、ご自身もすべての試練や苦難を経験され、わたしたち罪びとの一人となられましたが、罪なき神のみ子として、それらのすべてに勝利されました。そのような聖なる神のみ子だけが、わたしたち人間の罪を贖い、罪から救うことができます。

 最後に、主イエス誕生の予告を聞かされたマリアの反応についてみてみましょう。【38節】。マリアにとってこの奇跡は信じがたいことでした。あり得ないことでした。しかし、そうであるにもかかわらず、マリアは神のみ言葉を信じます。ただ信仰によって、神のみ前にひれ伏し、神のみ言葉の成就を待ち望む者となりました。ここに、マリアの祝福された道があります。神の約束のみ言葉を聞きつつ、その成就に向かって進み行くマリアの幸いな信仰の歩みがあります。

(祈り)

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教 説教題:「福音の前進のために」

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記26章5~11節

    フィリピの信徒への手紙1章12~18節

説教題:「福音の前進のために」

 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。そのことが、きょう朗読された箇所で明らかになります。【12~14節】。パウロは今主キリストのために監禁されています。「キリストのため」とは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために迫害を受けてという意味です。主イエス・キリストが全世界の唯一の救い主であり、だれでも主イエスの十字架の福音を信じるならば、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるという十字架の福音を宣べ伝えために、パウロは捕らえられ、獄につながれています。

パウロを訴えた人たち、迫害している人たちがだれであるのかは、この手紙からははっきりしませんが、使徒言行録やパウロの他の手紙から推測すれば、二つの勢力が考えられます。一つには、ユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ教では、罪びとである人間が救われるのは、神の律法に従い、律法の一つ一つを守り、神の要求に応えることによってであると教えます。けれども、パウロが語る主キリストの福音はこうです。「だれも律法をその一つをも完全に守ることはできない。ただ主キリストの十字架の福音を信じるなら、その信仰によってすべての人は救われる。なぜならば、主キリストが罪びとたちに代わって神の律法のすべてを完全に成就されたから。それによって、信じる人をすべての罪から解放してくださったから」。このパウロが語る主キリストの福音は、ユダヤ教からみれば律法を軽んじ、神を冒涜するものだと考えられました。それが、パウロが、また初代教会がユダヤ人から迫害を受けた理由でした。主イエスご自身も同じ理由からユダヤ人指導者たちによって十字架へと引き渡されました。

もう一つは、ローマ帝国の指導者たちです。パウロが宣べ伝えている新しい宗教は、ローマ皇帝の権威を傷つけるもの、国家に反逆するものだと考えられました。「ローマ皇帝カイザルだけが全世界の主であり、すべての民はこの主のもとにひれ伏さなければならない。けれども、キリスト教はカイザル以外に主がいると教えている。国家の秩序を乱す新しい宗教は禁止されねばならない」。それがもう一つのキリスト教迫害の理由でした。パウロの時代以後、紀元1世紀の終わりからは、ローマ帝国による国家的な迫害が初代教会を大いに苦しめるようになりました。

ところで、パウロがどこの町で監禁されていたのかについても、確かなことはわかっていません。13節に「兵営全体」と書かれていますが、この兵営という言葉は、ローマの都にある皇帝の親衛隊の兵舎を指す場合も、あるいは地方都市にある総督の官邸を指す場合もあり、パウロの監禁場所がローマであるのか、エフェソかカイサリアか、特定できません。

いずれにしても、パウロはここから「わたしの身に起こったこと」を語りだします。パウロは自分が今どのような状態にあるのかをフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいと願っています。というのは、フィリピ教会が獄中のパウロを心配して教会員のエパフロディトを派遣し、支援物資などの贈り物を届けてくれたので、それに対するお礼とともに、パウロの今の様子をフィリピ教会に伝える必要があると考えたからです。エパフロディトの派遣と贈り物については2章19節以下と4章10節以下に詳しく書かれています。

パウロはここで自分の身に起こったことを語っているのですが、しかしその内容は、パウロ自身のことというよりは、彼が宣べ伝えている主キリストの福音のことです。彼は主キリストの福音を宣べ伝えたために捕らえられ、獄につながれ、裁判を受けています。しかし、そのような彼自身の境遇のことを語ろうとしているのではなく、そのことが主キリストの福音の前進となったということ、そのことをこそパウロはフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいのだと語っているのです。

12節の「かえって」という言葉の内容について考えてみたいと思います。パウロが当初予想していたこと、つまり、自分が獄に捕らえられることによって、福音を語る機会が失われるのではないか、福音の停滞になるのではないかという彼自身の不安や恐れに反して、しかし実際にはそのことが彼の予想に反して福音の前進となったという意味に理解できます。二つには、フィリピ教会の人たちがパウロのことを心配し、投獄されたことによって彼自身の気力や体力が低下したり、彼の福音宣教の働きが妨害されることになるのではないかという不安に反して、あるいは、一般的に、迫害を受けて獄につながれれば、だれであってもそのように思うであろうという予想に反して、「かえって」パウロの投獄が福音の前進となったとパウロは言うのです。

どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。13~14節にその理由が書かれています。3つにまとめましょう。第一には、パウロが監禁されているのは主キリストのためであるということがローマ帝国の兵営に勤務するローマの官憲たち全員に知れ渡るようになったからです。彼らはローマ皇帝を主と崇め、ローマ皇帝に仕えている人たちです。しかしながら、今自分たちの管理下にあるこの男、パウロという人物は、ローマ皇帝以外にキリストと言われる方が全世界の主であると主張し、そのキリストのために自らの命を懸けて証しているではないか。彼らは今までに聞いたことがない、予想したこともない新しい教えに驚かざるを得ません。

第二には、兵営の外にいるこの町の人々も、パウロの裁判の席に連なり、パウロがなぜ捕らえられ、裁判を受けているのかを知ることとなったということです。エルサレムで十字架につけられ処刑された主キリストが、三日目に復活し、すべての人たちの罪の贖いとなってくださった、すべて信じる人たちに新しい永遠の命を約束していてくださるということを、この町の人々もパウロの裁判と証言によって聞くことができたのでした。

第三には、パウロが捕らえられている町の周辺に建てられている教会やその他の信仰の仲間たちが、パウロが法廷で力強く証している様子を知り、またそれによって主キリストの福音がローマ帝国の至る所で語られている事実を見て、主キリストの福音の力、広がり、豊かさを実感するようになった。そして、落胆したり、沈黙したりすることなく、以前よりももっと大胆に、勇敢に福音を語るようになったというのです。

神がなさる救いのみわざは人間の予想をくつがえし、それをはるかに超えて進みます。主キリストの福音は人間と世界のあらゆる妨害や抵抗にもかかわらず、前進していきます。神の言葉は決してつながれてはいません。

次に、15節からはもう一つの福音の前進のことが語られます。【15~18節】。この個所は前の14節と関連しています。14節で「兄弟たちの中で多くの者」と言われていたのは、「善意でキリストを宣べ伝える者」(15節)、また「愛の動機からそうする者」(16節)のことであり、数としてはその方が多いのですが、そうでない者たちもいくらかはいた。その人たちは「妬みと争いから」(15節)、「自分の利益を求めて、獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝えている者たち」(17節)である。しかし、たとえそうであっても、いずれの場合にも主キリストの福音が宣べ伝えられているのであるから、わたしはそれを喜んでいる、とパウロは語っています。パウロはここで、人間たちの不純な、悪意に満ちた行動からでも、主キリストの福音はなおも力強く前進していくのだという事実を見ています。

初代教会においては、使徒パウロが福音宣教の中心的な働き人でしたが、パウロとそのグループ以外にも、エルサレム教会の指導者であった12弟子のひとりペトロや雄弁な説教家として知られていたアポロといった伝道者たちが各地を巡り歩いて福音宣教のために仕えていました。その中の一部のグループはパウロに対抗意識を持ち、自分たちの伝道の範囲を拡張しようとする熱意のあまり、ときにはパウロを敵対視したりしていたのではないかと推測されます。彼らにとっては、パウロが獄に捕らえられたことは、自分たちの勢力を広げる良い機会と考えていたようです。

そのことは、獄に捕らわれているパウロにとっては、心を痛めることであり、彼の苦しみをより大きくすることであることは言うまでもありません。同じ伝道者として、パウロに同情したり、獄中のパウロを何らかの形で支援したりすることが求められているのにもかかわらず、彼らの福音宣教の動機は妬みや争いであり、不純で悪意すら感じられます。

けれどもパウロはそのことに対して腹を立てたり、怒ったりしてはいません。彼自身の個人的な感情によってそのことをとらえてはいません。パウロはひたすらに主キリストの福音そのものに目を向けています。主キリストの福音そのものの力、その中にある命、それが持っている豊かさを信じています。そして、悪意や嫉妬から福音を宣べ伝えている人たちがいるとしても、そこで主キリストの福音が宣べ伝えられているという事実にこそ注目するのです。

もちろん、パウロは偽りの福音が語られたり、福音の真理がゆがめられる場合には、決してこれに妥協することはありませんでした。厳しくその誤りを指摘します。たとえば、この手紙の中では、【3章2節】、また【18~19節】。パウロは他の手紙の中でも、繰り返して、偽りの福音との激しい戦いをしています。

けれども、この場合には、不純な動機からであっても、あるいはそこにパウロに対する嫉妬心や競争心、または敵対心があったとしても、パウロは「それが何であろう」と言います。パウロはそのような個人的な感情に捕らわれて、彼らを批判したり、その働きをやめさせようとはしません。いや、むしろ喜んでいるのです。自分に向けられている悪意や敵意をすらも主キリストの福音のゆえに受け入れ、そのことが福音の前進になっていることを喜ぶのです。ある人はこういいます。「主キリストはその使者たち、仕え人たちよりも偉大である」と。また「主キリストの福音はその宣教者たちを超えて、みずからが圧倒的な力を発揮する真理である」と。

わたしたちもまたそのことを信じるべきであり、信じてよいのです。わたしたちが主キリストの福音のために仕えるとき、神はわたしたちの小さな奉仕をも、あるいは時として欠けや破れの多い働きをも、豊かにお用いくださいます。そのことを信じて、どんな困難や険しい道があろうとも、主キリストの福音の力と豊かさを信じ、パウロと共に喜んで福音宣教のためにお仕えしていきましょう。

(祈り)