4月5日説教「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

2026年4月5日(日) 復活日(イースター礼拝)

秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    コリントの信徒への手紙一15章12~20節

説教題:「主キリストの死と復活から始まる新しい命」

 きょうは主イエス・キリストの復活を記念する復活日、イースターです。教会で日曜日に礼拝がささげられるようになったのは、主イエスが復活された日が日曜日の朝であったので、それまではユダヤ人の安息日は土曜日でしたが、この日に変更されたということは知っておられると思います。いつからそうなったのかについては、正確な記録は見つかっていませんが、紀元30年ころに教会が誕生してから、そんなに期間を置かずに、日曜日の礼拝が定着したのではないかと推測されます。というのも、ヨハネ福音書の終わりの箇所に書かれているように、日曜日の朝に最初に墓で主イエスの復活の知らせを聞いた婦人に続いて、その日の夕方には弟子たちが集まっている場所に復活された主イエスがそのお姿を現わされ、そして1週間後の日曜日にも、また弟子たちの集まっていた場所に復活の主イエスが現れたということがあったからです。主イエスが復活されてから天に上られる昇天の日まで、40日間にわたって、主イエスは多くの弟子たちに復活のお姿を現わされました。その経験から、日曜日にはまた復活の主イエスにお会いできるであろうという期待、願い、信仰が自然に生じてきたことが、容易に推測できるからです。

 コリントの信徒への手紙一15章で、使徒パウロは初代教会の信仰告白を引用して、こう書いています。【3節b~8節】。主イエスの復活という出来事はこのような多くの、多種多様な証人たちの証言と信仰によって支えられ、証明され、証しされているのです。そして、それから2千年の世界の教会の歩みの中で、事実、多くの信仰者が、日曜日、主の日の礼拝の中で、復活された主イエス・キリストと、信仰によって、霊的な体験によって、生きた出会いを経験してきたのです。主イエス・キリストの復活はキリスト教信仰と教会誕生の土台であり基礎であると言えます。それだけでなく、主キリストの復活はわたしたちの信仰と教会の存在、そしてその命のすべてを支える土台であり基礎でもあります。

きょうの礼拝で朗読された14節にこのように書かれています。【14節】。また、【17節】。先ほど述べたように、キリスト教の信仰と教会の存在が主キリストの復活にその土台と基礎を持っているということが、ここではその反対側から語られています。それによって、その事実がより強調されているのです。すなわち、もし主キリストの復活がなければ、キリスト教の信仰も教会の誕生もあり得なかったではないか。しかし、今現在、コリントの町に教会が建てられ、あなたがた信仰者が存在し、そして主の日ごとに礼拝がささげられているという確かな現実をあなたがたは見ており、経験しているではないか。そうであるとすれば、いったい誰が、どのようにして、主キリストの復活なんてなかったなどと言うことができるであろうか。パウロはそのように言って、主キリストの復活の確かさを再確認しているのです。

 いつの時代でも、主イエスの復活を信じきれない、そんなことが実際にあったなどとは考えられないという意見を言う人がおります。主イエスの時代も、今日でも同様です。おそらくは、人間はみなそれほどに死に支配され、死の恐怖から逃れられないからでしょう。あるいは、死に敗北せざるを得ないからでしょう。32節にこのように書かれています。「もし、死者が復活しないとしたら……」【32節】。人間は誰も死に勝利することはできません。死の前では、諦めるか、無視するかしかできません。

 でも、パウロは15章の終わりで、ただお一人、死に勝利された主イエス・キリストを仰ぎ見ながら、このように勝利宣言をしています。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか……」【54~57節】。主イエス・キリストは十字架の死と三日目の復活によって、死のとげである罪に勝利されました。人間を死の中に閉じ込めていた罪を取り除き、神との生ける交わりを回復してくださったのです。そのようにして、主イエスを信じる信仰者たちにも勝利の約束をしてくださったのだと、パウロはこの復活の章と言われている15章を締めくくっています。そのようにして、主キリストの復活を信じきれないわたしたち人間に、復活信仰を持つことができるように、希望を与えてくださったのです。

 さて、パウロがこの手紙で取り上げている復活信仰をめぐる問題点のもう一つの課題は、12節に書かれてあるように、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などないと言っている」こと、つまり、主キリストの復活は教会の信仰告白として受け継がれてきたのだから、そのことは信じるとしても、わたしたち人間が死んでから復活するということは信じられない、という人がコリントの教会の中にいたということです。

 この人たちがなぜ死者の復活を否定していたのかについては、いくつかの推測がなされています。この人たちは主イエス・キリストの十字架の死と復活を信じている信仰者ですから、彼らが信仰者の復活、人間の復活を信じないことには特別な理由があったと考えられます。その一つが、当時一般的であったギリシャ思想によって、霊魂不滅を信じていたという理由です。人間が死んで肉体は朽ちていくが、霊魂は永遠に生きるのだから、肉体の復活には重要な意味を見いだしていなかったからです。それが、哲学者プラトン以来のギリシャ思想の流れでした。キリスト教会にもそれが影響を与えました。

 死者の復活を否定したもう一つの理由として考えられているのが、初期のキリスト教会の中で起こった熱狂的な信仰運動で、今日グノーシス派と呼ばれている人たちの考えです。彼らは、洗礼を受けてキリスト者となったときに神の霊を受けて、神との深い霊的な交わりの中に招き入れられているので、すでにその時に復活が済んでいる。だから、終末の時の復活を期待する必要はないと考えていました。

 死者の復活を否定している彼らに対して、パウロはここで具体的な反論はしていません。パウロが彼らの考えが間違っている理由として挙げているのは、ただ一つ、主キリストご自身の復活の事実です。また、その主キリストの復活の事実が死者の復活と切り離しがたく、密接に結びついているということだけを語ります。【13節】。もし、死者の復活を否定するならば、主キリストご自身の復活をも否定することになるではないか、と。そうなれば、主キリストの復活を信じる信仰から始まったあなたがたの信仰生活と教会の存在は、何ら根拠のない偽りの証言によって始められたことになり、そのすべては全く空しくなってしまうのではないか、と。また、【14節】。そのようなことはあり得ないのだから、主キリストの復活を信じているあなたがたは、死者の復活をも信じる信仰へと招かれているのであり、それを信じるべきなのだ、と。

 わたしたちはここで死者の復活を否定していた理由として挙げた、ギリシャ思想の霊魂不滅の考えと、グノーシス派の復活はすでに済んだという考えの誤りについて少し考えてみたいと思います。この二つの考え方に共通している誤りは、そこでは人間の罪と死という事実が真剣にとらえられていないということです。人間の霊魂が永遠に生きるとか、神との直接的・霊的交わりによって永遠の命をすでに獲得しているという神秘的な考えは、人間の罪と死の現実を軽視させることになります。それは聖書の本来の教えではありませんし、キリスト教の正しい信仰でもありません。もし、彼らの考えのとおりだとするならば、なぜ天におられる神が人となられ、肉体をまとわれてこの世においでになられたのでしょうか。なぜ、神のみ子・主イエス・キリストが十字架で苦しまれ、血を流され、死なれたのでしょうか。それは、人間の罪のためであり、人間の罪に対する神の裁きとしての死を、罪なき神のみ子が経験されるためでした。主イエスはわたしたち人間の罪と取り組んで戦われ、わたしたちを罪の支配から救い出すために、十字架で苦しまれ、そして死なれたのです。ご自身の神のみ子としての尊い命をささげ尽くして、わたしたちの罪を贖ってくださったのです。罪の支配から買い戻してくださったのです。そして、主イエスは三日目に復活され、わたしたち人間の最後の最も恐るべき敵である罪と死に勝利されたのです。神のみ子である主イエス・キリストの十字架の死と復活こそが、ただそれのみが、わたしたちの罪と死の問題に正面から取り組み、文字どおりに命をかけて取り組み、またその解決と救いの道をわたしたちに与えるのです。

 では、どのようにして、主イエスの罪と死に対する勝利が、わたしたちの勝利となるのでしょうか。【20節】。旧約聖書のレビ記23章によれば、イスラエルの民は神の約束の地に到着して、春に大麦の収穫をするときに、その最初の穂を神にささげなさいと命じられています。初穂の祭りと言われます。それは、約束の地へと導かれ、その地を祝福して収穫をお与えくださった神に感謝するとともに、その初穂に続いて次々と豊かな収穫をお与えくださる神の約束を信じ、感謝するためです。初穂には、次の収穫が確かに続くという神の約束を伴っています。それと同じように、主キリストの復活には、わたしたち信仰者の復活がそれに続くという確かな約束を伴っているのです。

 パウロはその約束の実現の時について、23節以下で次のようにいます。【23~26節】。そのようにして、最後の敵である死が完全に滅ぼされるときに、主キリストの復活を信じる信仰者に主キリストと同じ勝利が与えられるのです。

 キリスト教信仰と教会の歩みは、主キリストの死と復活から始まっています。罪と死に対する主キリストの勝利から始まっています。わたしたちの信仰の歩みも同様です。それゆえに、わたしたちはどのような試練の時にも、苦しみや痛み、悲しみの中にあっても、そして死に臨んでも、決して希望を失うことなく、落胆することなく、神が約束しておられる終わりの日の勝利を目指して、歩み続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、主イエス・キリストの復活を記念するこの日の礼拝に、わたしたち一人一人をお招きくださいました幸いを心から感謝いたします。わたしたちの周辺には、あなたのみ心を痛めるような、さまざまな混乱や分断、争いがあり、悪と不正義が弱く貧しい人々を不安と困窮におとしいれています。主よどうか、この罪に支配されている世を憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストの十字架と復活の福音が全世界に宣べ伝えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。