2026年3月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:詩編52編1~11節
ルカによる福音書12章13~21節
説教題:「愚かな金持ちのたとえ」
きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書12章13節以下の「愚かな金持ちのたとえ」では、この世の富の問題が扱われています。この箇所は、マタイとマルコ福音書にはない、ルカ福音書特有の記事です。これは、ルカ福音書の特色を表しています。ルカ福音書ではこのあと16章19節以下には、ある金持ちと貧しいラザロの物語があり、19章1節以下には、金持ちの徴税人ザアカイの物語があります。そのいずれもがルカ福音書特有の記事です。その中で主イエスはこの世の富の問題を取り上げておられ、人間の中にある果てしない所有欲とか、現世主義や快楽主義的な生き方などを、厳しく非難しておられます。そして同時に、主イエスはわたしたちをこの世の富や所有欲から解放し、この世の多くの思い煩いに支配されているわたしたちを自由にされるのです。
ルカ福音書は、この意味で、今日の富や豊かさを追い求める時代、物質中心の時代、あるいはあくなき自己追及の社会に生きているわたしたちに対する、厳しい挑戦状であり、また真実の自由と豊かさへの招きの書であるのです。
では、13節を読みましょう。【13節】。群衆の一人が主イエスに「先生」と呼びかけています。当時のユダヤ人社会では、ラビと呼ばれる教師は、人々の民事的なもめごとの調停役をしていました。結婚や離婚に関する問題、財産争いに関する問題、あるいはここで問題になっている遺産相続に関することなど、ラビは民事訴訟の調停役を担っていました。民衆は主イエスを律法学者と同じように、ラビ、教師としての権威を持っていると認めていたようです。
けれども、わたしたちがすでに前の箇所で学んだように、主イエスは律法学者よりもはるかにまさった大きな権威、天の神から授かった権威によって、律法学者たちの偽善的信仰を見抜き、彼らを厳しくさばかれたということを、わたしたちは知っています。本当の意味で主イエスが尊敬されるのは、父なる神から授かった権威を持っておられるからであり、更には、主イエスはその神から賜った権威を、ご自身を救うためには少しもお用いにならず、わたしたち罪びとを救うためにすべてをお用いになられたということにあります。群衆はまだそのことには気づいていませんでした。
【14節】。人々からラビ、先生と呼ばれることは、一般的には大きな名誉でしたが、主イエスはそう呼ばれることを拒否なさいました。「誰がわたしを……任命したのか」という疑問形は、強い否定を意味します。「いや、わたしはあなたの、あるいはこの世の、財産争いを調停する裁判官でも調停人でも決してない」という、強い否定です。主イエスはこの世の人々からの尊敬や名誉を求めて行動されることは全くありません。むしろ、わたしたちが知っているように、主イエスは最後にはこの世からは見捨てられ、あざけられ、ただお一人で十字架の苦難の道をお選びになられました。ただひたすらに、父なる神のご栄光のために、ご自身のすべてを、その命をも、おささげになられました。それによって、わたしたちを罪から救う神のみわざを成し遂げられたのです。
主イエスは人々の財産争いの調停人としてこの世においでになられたのではありません。主イエスは、天におられる主なる神と地に住むわたしたち人間の間の関係を修復するために、神と人間との仲保者として、おいでになられたのです。神と人間との関係が正しくなければ、人間たちの関係を正しく築くことはできません。人間の所有欲や自己主張、傲慢が支配している社会には、義も公平も、自由も分かち合いも、喜びも慰めもありません。
主イエスがここで明らかにしておられる真理は、主イエスの使命がこの世の財産の所有権がだれにあるかを決定することにあるのではなく、わたしたちが神のみ前でどのような裁きを受けるのか、滅びか救いかを明らかにすることであり、また同時に、わたしたちがこの世の財産を受け継ぐために生きるのではなく、神の国を受け継ぐために、神の嗣業を受け継ぐためにこそ生きるべきであることを明らかにしておられるのです。そして、わたしたちを救いへと導き、神の国へと導くことが、主イエス使命であることを明らかにされるのです。
旧約聖書の律法では、その家の長男は他の兄弟たちの2倍の財産を受け継ぐことが定められていました。主イエスに調停を頼みに来たこの人は、自分が受け継ぐべき財産を他の兄弟たちに横取りされてしまったために、それを取り戻そうとやって来たのだと思われます。そのこと自体は律法で定められている相続権、所有権を主張することですから、なんら責められるべき罪ではなく、当然の権利だと言えるでしょう。人間は所有権を認められており、また自分の所有しているものを守る権利も認められています。あるいは正当に手に入れたものを増やしていっても、それが悪ではなく、それで罪を指摘されることもないでしょう。
けれども、主イエスはそのようにしてわたしたちが自分の所有権や様々な権利を主張し合うところに潜んでいる人間のどん欲を見抜いておられます。15節でこう言われます。【15節】。主イエスに財産相続争いの調停役を依頼しに来たこの人は、どん欲に支配され、多くの物を持つことによって自分の命を養うことができるという、間違った考えに陥る危険があるから、注意しなさいと警告しておられます。なぜならば、今あなたの目の前に立っておられる主イエスは、あなたを罪から救い、あなたに天のみ国を受け継がせ、朽ちることがない永遠の命をお与えくださる救い主であるのに、そのことに気づかずに、主イエスが差し出そうとしておられる救いの恵みを求めることをしない、あなたのあやまち、あなたの愚かさを気づかせようとしておられるのです。この世の財産を受け継ぐことよりも、主イエスから与えられる神の国の嗣業を受け継ぐことの方が、はるかに重要なのです。
この人に限らず、だれであれすべての人間は地上の富や宝をより多く所有したいという欲望に支配されています。また、そのような地上の富や宝が自分の命をより豊かにし、自分の命に役立つと考えます。けれども、主イエスは「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と言われます。なぜならば、人の命は本来その人のものではなく、神のものだからです。神から与えられた命であるからです。だれもその命を自分の自由にはできませんし、他の何かによって奪うことも、また増し加えることもできず、他の何かによって保証することもできません。
主イエスはそのことを悟らせるためにたとえをお語りになります。愚かな金持ちのたとえと言われています。20節で、神ご自身がその金持ちの農夫に「愚か者よ」と呼びかけておられるからです。彼のどこが愚かであったのか、彼の人生設計の何が間違っていたのかを聞き取りましょう。そして、主イエスがわたしたちを、この愚かな金持ちのようにではなく、本当の意味で豊かな人生と真実な命を生きる道へと導いておられることを聞き取りましょう。
【16~19節】。この農夫はごく一般的な、善良な人物として描かれています。彼が何か不正なことをして富を得たとか、小作人や使用人を酷使していたのでもありません。畑が豊作であったのは、彼が一生懸命に働いたからでしょう。天候が良かったからかもしれません。多くの収穫物をしまっておくために大きな倉庫を造ろうとしたのも当然でしょう。彼は他人に責められるようなことは何もしていません。自分が働いて得た物を自分で食べようとしているのですから、何らの悪意も不正もありません。豊かな収穫物を蓄え、自分の将来のことまで考えている、賢い人のようにさえ思われます。けれども、彼は神によって「愚か者よ」と言われているのです。彼のどこが愚かなのでしょうか。彼の人生設計のどこが間違っているのでしょうか。
改めて17節から19節に書かれている彼の言葉を吟味してみましょう。この箇所には、日本語の翻訳では省略されていますが、「わたし」という言葉が何回も繰り返されています。17節では、「わたしはどうしようか。わたしはわたしの作物をしまっておく場所を持っていない」。ここだけでも3回「わたし」が出てきます。18節にはもっと多くあります。「わたしはこうしよう。わたしは蔵を壊して、わたしはもっと大きいのを建てよう。そこに、わたしはわたしの穀物やわたしの財産をみなしまおう」。そして、「わたしはわたしの魂に言おう。わたしは……、わたしは……」と続きます。彼の考えの中心にはいつもわたしがあり、彼の人生設計の中心にもいつもわたしがいるのです。
ところが、20節で突然に神が登場されます。【20~21節】。「しかし神は」。そうです。ここで初めてわたしたちは気づかされるのです。彼の考えや彼の人生設計に欠けていた決定的なこと、それは神の存在であったということ。神のみ心、神のご計画を彼は全く考慮に入れていなかったということを。彼の愚かさがここにあったのだということを。そして、その愚かさは、少し考え方が間違っていたとか、わずかばかり人生設計がそれてしまったとか、そのようなことにとどまらず、それが彼自身の命と死とを分けることになったのであり、彼を滅びへと導くことになったのだということを。
彼の考えや人生設計には、神は一度も出てきません。隣人も出てきません。いつも自分の考え、自分の人生、自分の財産、自分のためにだけ生きています。それがどん欲に支配されている人間の生き方であり、それは神のみ前では愚かな、そして滅びへと向かう生き方なのです。
「今夜、お前の命は取り上げられる」。この文章は受動態です。意味上の主語は神です。神が神のみ心によって彼の命を取り上げられるのです。ここに聖書全体に貫かれている信仰があります。わたしたち人間の命は神がお与えくださるのであり、また神がそれをみ心のままにお取りになるという信仰です。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」というヨブの信仰です。そのことを忘れ、あたかも自分の思いのままになるかのように誤解して、「わが魂よ、わたしの人生を楽しめ」と、神無き人生設計をしていたところに、金持ちの農夫の愚かさがあったのであり、それは愚かであるだけでなく、神に対する罪であり、死であり、滅びなのです。
わたしたち人間の命も、またわたしたちに与えられているすべてのものも、神からのものです。神からの賜物です。それゆえに、わたしたちはそのすべてを神に感謝し、それを隣人と互いに分かち合い、神のご栄光のために用いるのです。その時、わたしたちの命と人生の歩みが、またわたしたちに与えられているすべてのものが、豊かに祝福されるのです。
(執り成しの祈り)
〇天の父なる神よ、わたしたちの中にあるどん欲や傲慢な思いを取り去ってください。この世の朽ち行くものを追い求め、あなたが差し出してくださる永遠の祝福を見失うことがありませんように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。
