3月22日説教「まず初めに、神に感謝します」

2026年3月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編136編1~9節

    ローマの信徒への手紙1章8~15節

説教題:「まず初めに、神に感謝します」

 ローマの信徒への手紙1章8節から、手紙の本文に入ります。差し出し人であるパウロはこのように書き始めます。【8節】。この8節を原典のギリシャ語の語順に従って直訳すれば、次のようになります。「まず初めに、わたしはわたしの神に感謝します。イエス・キリストを通して、あなたがたみんなについて。なぜなら、あなたがたの信仰が全世界に語り伝えられているからです。」

 この直訳からも確認できるように、「わたしは感謝する」という言葉が、この手紙の本文の最初にあることが分かります。パウロは、まだ訪問したことがなく、教会員のほとんどもまだ会ったことがない、初対面で未知の相手であるローマの教会にあてたこの手紙の冒頭を、「わたしは感謝する」という言葉をもって書き始めていることに、まず注目したいと思います。

手紙の初めを神への感謝の言葉から書くというのは、当時の一般的な書き方であったとも言われます。また、パウロ自身の他の手紙でも、コリントの信徒への手紙一1章4節では、「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と書いています。フィリピの信徒への手紙1章3節では、「わたしは、あなたがたまのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と書いています。その他の手紙でも同様です。パウロも当時の一般的な手紙の書き方にならっていたと言えますが、しかしそれは手紙を書く際の一般的なの儀礼として言っているのではないことは明らかです。感謝のあとには必ず、感謝する理由が具体的に書かれており、パウロの感謝の思いが強く伝わってくるからです。と言うのも、コリントの教会もフィリピの教会も、彼自身がその誕生に深くかかわっており、何度もその教会を訪問しており、親しい友人たちが多数いたからです。

でも、ローマの教会の場合には少し事情が違います。彼はその教会の内情についてほとんど知識がありませんでした。そうであるのに、パウロが手紙の冒頭で「まず初めに、わたしはわたしの神に感謝します」と書くのはなぜでしょうか。その理由を探っていく前に、「まず初めに」という言葉にも注目したいと思います。「まず初めに」とは、「何を差し置いても、第一に重要なこととして」という意味が込められています。ほかに重要な案件がたくさんあり、話したいことが山ほどあるけれども、それらのすべてに先立って、真っ先に、これを書かなければいけない、という思いが込められています。パウロの他の手紙の冒頭でも、同じような思いが込められていたということを、わたしたちはすでにコリント書、フィリピ書でも確認しました。

パウロが手紙の冒頭に込めたこの強い思いに、わたしたちもならいたいと思います。わたしたちが何かをなすにあたって、まず初めに、第一に、神に感謝する、神への感謝からすべてのことを始めるということ、これは実は、一般的な生活習慣の一つとしてというのではなく、まさに信仰者に許されている、あるいは信仰者に与えられている大きな恵みなのだと言えるのではないでしょうか。わたしたち信仰者に許されている、あるいは命じられてもいる生き方そのものなのではないでしょうか。

朝、目覚めてきょう一日の歩みを始めるとき、まず神に感謝をする。神が、夜寝ている間もわたしを死と暗闇から守ってくださった、新しい朝をお与えくださった、この日も神の恵みと導きとを信じて一日を始めることが許されている、そのことをまず神に感謝する。きょうの一日、どんなに困難な課題がわたしを待っていようとも、不安や恐れを抱かせる問題が山積していようとも、神がわたしに最も善き道を備えてくださることを信じて、神に感謝してきょうの一歩を踏み出す。そうすることが許されている。そうすることを命じられてもいる。それは、わたしたち信仰者に与えられている、大きな幸いなのです。

そしてまた、わたしたちが日々の食卓を囲むとき、何か新しい人生の歩みを選択するとき、きょうのこの世の務めにつくとき、あるいは誰かに会うとき、そしてきょうの眠りにつくとき、すべてのわたしの歩みの初めに、またその終わりにも、そうすることが許されているのであり、また命じられてもいるのです。神への感謝は、わたしたちの新しい歩みを導き、また新しい道を切り開く力となるでしょう。

次に、パウロは「わたしの神に感謝します」と言います。神を「わたしの神」と呼ぶことは、旧約聖書ではほとんどありませんでした。多くは「わたしたちの神、イスラエルの神」と表現するのが一般的でした。その理由は、旧約聖書の民イスラエルにとっての神は、天におられる聖なる神であり、地に住む罪びとである人間とは全くかけ離れた存在であり、大きな恐れをもって神のみ名を呼ぶほかになかったからです。その神を「わたしの神」と呼んで、神と親しく近い関係を言い表すことをためらったからです。神と人間との絶対的な違い、神の絶対他者性が、イスラエルの民が神を「わたしの神」と呼ぶことを避けるようにさせたと考えられています。

しかし、そうであるのに、パウロは神を「わたしの神」と呼んでいます。先ほど読んだコリント書でもフィリピ書でもそうでした。なぜでしょうか。それは言うまでもなく、主イエス・キリストによってそのように呼ぶことが可能にされているからです。8節で「イエス・キリストを通して」と書かれています。この言葉には多くの意味が含まれています。その一つが、神を「わたしの神」と呼ぶことが許されている、そのことが主イエス・キリストによって可能にされたということに関連しているのです。主イエスご自身が父なる神を「わたしの神」とお呼びになられ、わたしたちもまた主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神との親しい交わりを回復され、神の子どもたちとされ、神を「わたしの神」と呼ぶことを許されているからです。パウロがここで神を「わたしの神」と呼んでいることの中に、すでに主キリストの福音が含まれているのです。

パウロが「わたしの神」と呼ぶことには、もう一つの、彼自身の個人的な信仰体験があるように思われます。彼はかつて熱心なユダヤ教ファリサイ派として、主キリストの教会を激しく迫害していました。ところが、神がそのパウロを捕らえて、復活の主イエス・キリストとの衝撃的な出会いによって、彼を信仰者とし、主キリストの福音を宣べ伝える使徒として召してくださったのでした。パウロが1節で書いていたとおりです。教会の迫害者であったパウロを主キリストの福音に仕える使徒として召してくださった神との出会い、神との深い霊的な交わりと恵みによって自分は今あるを得ているという、パウロの強い信仰が、「わたしの神」という呼びかけに込められているように思われます。

「イエス・キリストを通して」という言葉の中にはさらに深い意味が含まれます。わたしたちが神を「わたしの神」と呼ぶことができるのも、またわたしたちが神に感謝するのも、主イエス・キリストによってであるとパウロは言っています。すべての善きもの、すべての恵みは、主イエス・キリストを通して、神からわたしたちに与えられているからです。救いの恵みと来るべきみ国における永遠の命の約束をはじめ、きょうのわたしの命と存在、日々の糧とわたしが生きるために必要なすべてのもの、わたしが愛すべき家族や友人、わたしの務めと奉仕、そのすべてが主イエス・キリストを通して神からわたしに与えられています。そのことを神に感謝するのです。

わたしたちは皆、主イエス・キリストを知るまでは、主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされるまでは、神の恵みに気づくことはありませんでした。したがって、それに感謝することもありませんでした。生まれながらの人間は誰もみな、神を神としてあがめることをせず、感謝することもしませんでした。神から遠く離れ、神に心を閉ざし、神のみ心に背いて生きていました。罪がわたしたちを神から引き離し、わたしたちの目や耳や心を神に対してふさいでいたからです。

そのような罪びとであったわたしたちが、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、罪から救い出され、神との交わりが回復されて初めて、神の恵みによってわたしたちの心が開かれ、目と耳とが神のみ言葉に対して開かれていくのです。そして、何よりも、神がこの貧しく弱いわたしをみ心にとめてくださり、わたしを罪から救いだすために、御独り子を十字架の死に犠牲としておささげくださるほどにわたしを愛してくださったという、大きな救いの恵みに気づかされるのです。そして、そこから、罪ゆるされた者としての信仰の歩みが、感謝の歩みが始まるのです。

「あなたがた一同について」という言葉の中にはローマ教会のための執り成しの祈りが込められています。執り成しの祈りは、次の9節で具体的に書かれていますが、ここにすでに彼らのことを覚えての祈りがあります。ローマの教会が今大きな困難の中にあるとしても、たくさんの課題を抱えているとしても、パウロは彼らに与えられている恵みを覚えて、彼らのために神に感謝をささげているのです。それによって、彼らもまた神の恵みに気づかされ、神への感謝へと導かれていきます。パウロが手紙の冒頭で、すべてのことについてまず神への感謝をささげるのは、すべての人を感謝へと招くためでもあるのです。神への感謝は、共に神の恵みを感謝する人々を一つにし、群れを形成します。教会はそのようにして建てられ、感謝によって結合されている人たちの群れです。

8節後半の「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」は、パウロが感謝する具体的は理由、内容を語っています。ローマの教会がどのようにして誕生したのかは、またその規模についても、わたしたちには知られていませんが、パウロがこの手紙を書いた紀元58年ころには、組織だった教会が形成されていました。そのメンバーにどんな人がいたかをパウロも多少は知っていたということが、手紙の終わりの部分から分かります。

それにしても、「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている」という表現は大げさなように思われます。しかし、パウロがこう言うのには理由があるのです。当時、ローマ帝国はヨーロッパから近東諸国まで、ほとんど全世界を支配していました。そして、ローマはその中心都市でした。そこには、ローマ帝国の支配者、つまり全世界の支配者である皇帝カイサルが君臨していました。そのローマにあって、主キリストの教会はこのように告白していました。「自分たちの国籍はこの地上にあるのではない。天の神の国にある。自分たちの主は、ローマ皇帝であるのではなく、人類の罪のための十字架につけられ、三日目に復活された主イエス・キリストこそが、自分たちが生と死とをかけて聞き従うべき唯一の主である」、と告白している信仰者の群れ、教会がそこに建てられている、その大きな事実に、パウロは目を注いでいるのです。主イエス・キリストはローマにもおられるという事実、そのことのゆえに、パウロはほかの何にも先だって、まず初めに、神に感謝をささげているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みはわたしたち一人一人に豊かに与えられています。でも、わたしたちはそれに気づくこと遅く、それに感謝することが少ない者です。どうか、わたしたちの信仰の目を開いてください。あなたへの感謝の思いを日々に増し加えてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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