3月29日説教「弟子たちの足を洗われた主イエス」

2026年3月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章1~14節

    ヨハネによる福音書13章1~20節

説教題:「弟子たちの足を洗われた主イエス」

 過越祭は旧約聖書の民イスラエルの最大の祭りでした。それは、信仰の民であるイスラエル誕生の原点であり、彼らの救いの原点でもありました。出エジプト記12章には、エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が主なる神の強いみ手によってそこから解放される夜に、最初に祝った過越祭について書かれています。イスラエルの民はそののち毎年同じ日に、同じようにして過越祭を祝ってきました。出エジプトの時代から1200年余りのちの主イエスの時代も同様でした。

 出エジプト記12章の定めによれば、イスラエルの新年、アビブの月、主イエスの時代にはニサンの月と言われていましたが、その月の14日の夕方に、子羊を屠り、家族ごとに集まってその肉を、苦菜やパン粉が入っていない固いパンと一緒に食べて、エジプトの奴隷の家から救い出されたことを覚え、神の救いのみわざに感謝するというのが過越祭の守り方でした。

 主イエスがエルサレムで地上の最後の1週間を歩まれた受難週が、ちょうどこの過越祭の時期であったと、福音書は語っています。それは単に、偶然時期が同じであったというのではなく、主なる神の永遠なる救いのご計画の中で、かつての出エジプトの出来事によってなされたイスラエルの民の救いのみわざが、主イエスのご受難と十字架の死によって、全世界のすべての人の救いのみわざとして成就されたということを、聖書は語っているのです。神がかつてイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出されることによって始められたご自身の救いのみわざが、今や、ご自身のみ子である主イエス・キリストのご受難と十字架の死によって、わたしたちすべてを罪の奴隷からお救いくださる救いのみわざとして完成されたのです。

 新約聖書の4つの福音書は、主イエスのご受難と十字架の死が過越祭の時期であったこと、そして、過越祭で祝われていた神の救いのみわざが主イエス・キリストのご受難と十字架の死によって、その成就と完成に至ったという中心的なメッセージは一致していますが、その日付については、共観福音書とヨハネ福音書では1日のずれがあります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)では、受難週の木曜日、ニサンの月14日の夕方、主イエスと弟子たちは共に集まり、過越の夕食を囲みました。その席で、主イエスはパンを取り、「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われ、ぶどう酒を注いだ杯を取り、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約である」と言われました。それは、次の日のご自身の十字架の死を指し示していました。これが、のちの聖餐式の制定語となったのです。

 ところが、ヨハネ福音書13章1節には、「過越祭の前のことである」と書かれています。ここから17章の終わりまでは、主イエスと弟子たちの最後の夕食の席での主イエスの最後の長い説教が語られていますが、この中には過越の食事のことも、聖餐式の制定後にあたる言葉も書かれていません。実は、ヨハネ福音書では、翌日の金曜日、主イエスが十字架に付けられたその日が、ニサンの月の14日、子羊が屠られる日と考えられているのです。そのことから、ヨハネ福音書では主イエスご自身が過越しの小羊、世の罪と取り除く神の小羊(ヨハネ福音書1章29節)と呼ばれています。主イエスは過越しの小羊が屠られるまさにその同じ時刻、ニサンの月の14日、午後に、十字架でご自身の命をおささげになられ、人々の罪の贖いを成し遂げられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 共観福音書とヨハネ福音書の1日の日付のずれがどうして生じたのかについては、分かっていませんが、それぞれの強調点の違いと理解すべきでしょう。いずれの福音書も、また新約聖書全体も、主イエスのご受難と十字架の死が、わたしたちを罪から救うという中心的なメッセージは全く変わりません。

 ヨハネ福音書13章に書かれている、主イエスが弟子たちの足を洗われたというこの行為も、同じメッセージをわたしたちに語っているということを、まず確認しておきましょう。主イエスが弟子たちの足を洗われたことをまねて、司祭や教師が教会員の足を洗うという、いわゆる「洗足式」をこの日に儀式として行っている一部の教派があるようですが、わたしたちはこの出来事を主イエスによる罪のゆるし、罪の贖い、罪からの清めという、あくまでも主イエスご自身の救いのみわざとして理解すべきであると考えます。

1節から読んでいきましょう。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と書かれています。ここにはヨハネ福音書の特徴がよく表現されています。ヨハネ福音書では、主イエスのご受難と十字架の死は、それに続く三日目の復活、更に40日後の召天、そして50日目のペンテコステ・聖霊降臨、これらのすべてが一続きの出来事であり、神のみ子である主イエスがご栄光を受ける時であり、救いが完成される時であり、天の父なる神のみもとへの凱旋帰国であると考えられているのです。そして、主イエスは神のみ子として、ご自身の最後の目的に向かって、自覚的に、喜んで、進んで行かれるのです。それはまさに、「御自分の時が来た」ということなのです。

ここから主イエスの受難物語が始まりますが、その内容は共観福音書とほとんど同じです。主イエスは弟子のユダに裏切られ、弟子のリーダーであるペトロによって3度も「あの人は知らない」と拒絶され、この世の指導者たちによって裁かれ、すべてのユダヤ人から見捨てられ、民衆からはののしられて、ただお一人でご受難と屈辱と悲惨で非業な十字架での死を遂げられる主イエスのお姿がそこで描かれています。しかしヨハネ福音書は、そこに神のみ子主イエス・キリストのご栄光と勝利とを見ているのです。

2節と11節には、12弟子のひとり、イスカリオテのユダの裏切りについて書かれていますが、このユダの裏切りをも含めて、ペトロの拒絶、この世の支配者たちによる偽りの裁判、民衆の「十字架につけよ」という叫び、それらのすべての人間の罪の中で、それらの人間たちの罪を貫き、それをはるかに超えて、神の救いのみわざが成し遂げられていくのであり、主イエスはその父なる神が定められた道を決然としてお進みになるのです。

13章1節をさらに読み進むと、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と書かれています。「この上なく愛し抜かれた」という個所は、「最後に至るまで、極みまで、完成に至るまで、愛された」という意味を持ちます。ここから、いくつかの深い意味を読み取ることができます。第一には、文字どおり、最後に至るまで、主イエスのご生涯の初めから、弟子たちをお選びになられたその時から、目の前に迫っている十字架の死に至るまで、ご自身の命をかけて、ご自身の命のすべてを注ぎ込んで、弟子たちを、またわたしたちを愛されたという意味です。これが、主イエスのわたしたちに対する愛です。

第二には、愛の極みまで、愛の最高の高さ、深さ、真剣さを強調する意味です。聖書は至る所でこのような主イエスの愛、父なる神の愛について語っています。ローマの信徒への手紙8章にはこう書かれています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜わらないはずがありましょうか。……艱難であれ、迫害であれ、死であれ、どんなものであっても、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8章31~39節参照)。また、ヨハネ福音書3章16節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。これが神の最高の愛であり、主イエス・キリストの愛の極みです。これこそが、唯一愛の名に値する真実の愛です。それゆえに、「神は愛である」(ヨハネの第一の手紙4章16節)と言われます。

第三の意味として、最後の完成に至る愛、その本来の目的に到達した愛ということです。主イエスのご受難と十字架の死は、わたしたち罪びとに対する主イエスの愛の最後の目的地です。わたしたちに対する主イエスの愛の完成です。それゆえに、それがわたしたちをすべての罪から贖い、解放し、救う力を持つのです。主イエスの十字架による愛がわたしたちを罪から救うのです。他の何ものによっても、他のどのような方法によってもゆるされることがないわたしたちの罪が、このようにして、完全に贖われ、ゆるされ、わたしたちは罪と死と滅びとから解放されているのです。

以上のような主イエスの特別な愛と救いのみわざとして、ご受難と十字架の死があります。したがってまた、そのような特別な愛と救いのみわざとしての主イエスが弟子たちの足を洗われたという洗足の行為があります。ここから離れて、主イエスのこの行為を単なる謙遜とか、安っぽい隣人愛、奉仕として理解することはできませんし、すべきではありません。

【3~6節】。3節でも1節と同様に、主イエスの誕生からご受難、十字架の死、復活、昇天、聖霊降臨までが一続きの父なる神の救いのみわざであることが強調されています。主イエスはその父なる神のみ心に忠実に服従され、父なる神から託された救いのみわざを成し遂げられるために、弟子たちの足を洗われたことがここでも明らかにされています。ここで特に重要なポイントは、父なる神から託された救いのみわざを、主イエスはご受難と十字架の死によって成し遂げられようとしておられることです。そして、それゆえにまた、神からすべての権限を委託された神のみ子であられる主イエスが、奴隷のようになられ、弟子たちの足を洗われることによって、その神から託された権限を果たそうとしておられるのです。

ここには、神のみ子の完全なる自己否定、自己犠牲があります。人間社会の中で見られる、少しばかり身を低くして謙遜になって他者に仕えるというような教えや模範行為というのではなく、ご自身の命のすべてを注ぎだされ、神のみ子としての権威や栄光のすべてを投げ捨てられ、まさに奴隷となって罪びとにお仕えくださる主イエスの完全なる自己放棄があるのです。それによって、わたしたちの罪がゆるされているのです。その罪のゆるしがあって初めて、わたしたちもまた互いに仕え合う愛の奉仕へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが独り子主イエス・キリストをご受難と十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛してくださったことを覚え、深い感謝をささげます。あなたの大きな愛によって罪ゆるされているという救いの恵みに応える愛の心をわたしたちにお与えください。互いに許し合い、愛し合うことによって、あなたのご栄光を現わすことができますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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