2月15日説教「主イエスを受け入れる人は、主イエスに受け入れられる」

2026年2月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編103編1~13節

    ルカによる福音書12章8~12節

説教題:「主イエスを受け入れる人は、主イエスに受け入れられる」

 主イエスは地上の歩みをしておられるときすでに、弟子たちがのちになって経験するであろう迫害について、しばしば語っておられました。前回学んだルカによる福音書12章4~7節ときょう朗読された8~12節でも、弟子たちを待ち受けている迫害に備えるべきことが教えられています。4~7節で、主イエスは言われます。「あなたがたはこの世の権力者たちによって命を奪い取られるほどの迫害を経験するかもしれない。でも、体の命を奪い取る者はそれ以上のことはできない。だから、恐れるには及ばない。本当に恐れるべきは、剣によって命を奪い取るこの世の権力者ではなく、人間を永遠の滅びに定める権威を持っておられる天の神である。最後の審判をなさる天の神をこそ恐れよ。この神は、あなたがたを愛し、あなたの髪の毛一本をも残らず数えておられるからだ」と。

 また、主イエスはご自身が弟子たちに先立ってユダヤ人指導者たちから迫害を受け、排斥され、殺されるであろうと予告されたした。マタイ、マルコ、ルカの共観福音書にはそれぞれ3回の受難予告が語られています。ルカ福音書の1回目は9章22節です。【22節】(122ページ)。この時から、エルサレムに向かっての主イエスのご受難の道が、十字架への道が始まります。そして、更にこのあと、9章44節と18章31節以下で、主イエスはご自身の受難予告をされます。

 この主イエスの受難予告と弟子たちの迫害予告とは密接に関連しています。主イエスはイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストとして神から遣わされましたが、ユダヤ人指導者たちは彼を救い主として受け入れず、主イエスを偽りの裁判で裁き、十字架に引き渡しました。主イエスを信じ、従う弟子たちもまた、主イエスと同じ道を歩まざるを得ません。弟子たちは、不信仰でかたくななユダヤ人とこの世の権力を誇るローマ帝国から厳しい弾圧と迫害を受け、命の危険にさらされなければなりません。主イエス・キリストを信じる信仰者はいつの時代にも、罪と不信仰に支配されているこの世から敵視され、排斥されるのです。

 主イエスと弟子たちとの共通点は、同じような苦難と迫害の道を歩むということだけではありません。主イエスはご自身の受難と十字架への道をご存じでしたが、それが父なる神のみ心であり、神が備えられた道であると信じて、その道を避けようとはなさらず、むしろ喜びをもってその道を進み行かれました。また、主イエスが弟子たちに迫害の予告をされた際にも、彼らがどうしたら迫害を避けて通ることができるかを話されたのではなく、むしろそれを当然のこととして、神のみ心として受け入れるべきであるということ。いや、それだけでなく、彼らがどのような苦難や試練の中にあっても、神は強いみ手と大きな愛をもって彼らをお守りくださるということを、主イエスは何度も強調されたのです。一羽の雀すらも、それを創造された神のみ心なしには地に落ちることがないように、いや、それ以上の大きな神の愛が人間に注がれているのであるから、神のみ心なしには一本の髪の毛すらも地に落ちることはない。それゆに、弟子たちは、またわたしたち信仰者は主なる神をこそ恐れるべきなのであり、それゆえにまた、主なる神以外のいかなるものをも恐れるべきではない、恐れる必要はないのだと、主イエスは言われるのです。

 8節から、主イエスは続けてこのように言われます。【8~9節】。ここでも、弟子たちの迫害の状況が予想されているように思われます。弟子たちはこの世の人たちの前で、「おまえはイエスの仲間か。イエスを信じるのか」と問われます。また、時には、この世の法廷に立たされ、「おまえはイエスを主と告白するのか。もし、そのように告白するなら、おまえの命はないぞ」と迫られます。そのような迫害と命の危機の中で、弟子たちが、そしてわたしたちが、主イエスこそがわたしの主であり、わたしの救い主であり、また全世界の唯一の主であると告白する信仰が、ここでは求められているのです。

 8節で「言い表す」と訳されているもとのギリシャ語は、他の箇所では多く「告白する」と訳されます。人々の前で、あるいはこの世の法廷で、自分の信仰を公に言い表す、告白するという意味です。2節と3節でも同じようなことが言われていました。主イエスの福音は今や隠されてはいません。神の国の福音は、人となられた主イエスによってこの世界に現れ、誰の目にも確認できるようにはっきりと現わされました。そのことは、すでに8章16節以下でも、ともし火のたとえで語られていました。罪のこの世を照らし、すべての人のまことの光なる主イエス・キリストの福音は、燭台の上に高く掲げられ、すべての人に公にされていると、主イエスは語られました。それゆえに、主イエスを信じ従う弟子たちは、またわたしたち信仰者は、いついかなる時にも、どのよう場所や場面でも、「わたしは主イエスの仲間である。主イエスを信じる者である。主イエスに従う者である」と告白するように、招かれているのです。

 「人の子」とは主イエスご自身を指しています。主イエスがご自分のことを「人の子」と言われる場合には、ご自分が旧約聖書の中で神が約束しておられたメシア・キリスト・救い主であるということを強調していると思われます。先ほど読んだ主イエスの第1回目の受難予告である9章21節でも、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」と言われていました。主イエスは神のみ子であられましたが、人間となられ、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの日にこの世界に誕生されました。主イエスはわたしたち罪びとと同じ人間となられ、わたしたち人間の罪をご自身が担ってくださり、わたしたち罪びとの一人に数えられ、裁かれ、十字架で死んでくださったのです。そのようにして、神の救いのみわざを成し遂げてくださったのです。「人の子」という表現には、そのような救いのみわざが暗示されています。

 ここでも一つ重要なポイントは、「人々の前で」と「神の天使たちの前で」とが対比されていることです。「人々の前」でとは、この世界で、今の時代の中でという意味であり、「神の天使たちの前で」とは、終末の時の神の最後の審判の場でという意味です。「神の天使たち」とは、最後の裁きの法廷で裁判長であられる神の傍らで仕える天使たちを指しています。主イエスはここで、すべての人間は終わりの日に、終末の時に、主なる神のみ前に引き出され、それぞれの地上の歩みに応じて神の最後の審判を受けるという、終末信仰について語っておられます。このような主イエスの終末信仰は、福音書の中に数多くみられます。最もよく知られているのが、マタイ福音書25章31節以下で語られている最後の審判に様子です。その時には、羊飼いが羊と山羊を右と左に分けるように、永遠の祝福を受ける者と永遠の呪いを受ける者とに分けるであろうと教えられています。この主イエスの終末信仰は、新約聖書全体に貫かれており、使徒言行録と書簡でも詳しく教えられています。

 わたしたちの信仰の歩みは、この世の、この世界での、わたしの地上の生涯と歩みだけで完結するのではありません。わたしの地上の歩みが他の人と比べて少しばかり幸いであったとか不幸であったとか、そのような評価でわたしの信仰の歩みのすべてが測られるのではありません。あるいはまた、わたしの信仰の歩みがすべて順調であり、幸いであったとか、わたしの信仰の歩みは苦難と試練の連続であり、迫害の苦しみの連続であったとか、そのような評価によっても、最終的に測られるのでもありません。最後の審判は主なる神がなさいます。主なる神がわたしの信仰を完成させてくださり、わたしを永遠のみ国へと招き入れてくださいます。そして、主イエスがその最後の審判の席で、わたしの傍らに弁護人として立ってくださるのです。

 それゆえに、地上の信仰の歩みにおいて主イエスを救い主と告白する信仰者を、終わりの日の最後の審判の時には、天の裁判官たちの前で、主イエスは「あなたはわたしのもの、わたしの仲間である。だから、永遠のみ国を受け継ぎなさい」と言ってくださるのです。この時までは、わたしたちの信仰は未完成です。未完成ではありますが、完成を目指しています。最後の日に、神から賜る永遠に朽ちることのない天の宝を目指して、その約束を信じて、信仰の歩みを続けるのです。

 次の10節は非常に難解な聖句であると言われます。人の子、すなわち主イエスに対してはどのような悪口を言っても許されるけれども、聖霊なる神を冒涜する者は許されないとは、どういう意味なのか。さまざまな理解がなされていますが、最も一般的な理解を一つ紹介します。主イエスが人の子・メシア・救い主であるということは、主イエスの地上のご生涯においては、ある意味で隠されていたと言えます。主イエスの十字架の死と復活、そして聖霊降臨までは、誰もはっきりとその信仰を告白することはできませんでした。12弟子たちも、そのリーダーであったペトロも、みな主イエスの十字架につまずき、主イエスを見捨てて十字架から逃げてしまいました。それは、主イエスご自身がある意味でご自分がメシアであることを秘密にしておられたからでもあります。

 しかし、主イエスの十字架と復活の出来事があり、聖霊が降ってからは、誰でも聖霊に導かれ、信仰を持って主イエスの十字架と復活の福音を信じ受けいれるならば、誰でも主イエスこそがメシア・救い主であると告白することができるようになったのであるから、それでもなおも主イエスの福音を信じないなら、それは聖霊なる神のお働きを否定することであって、それは許されることはなく、神の最後の裁きを招くことになる、という理解です。主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨によって、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることが、もはや隠されることなく、はっきりと啓示されたのであるから、その福音を信じないことは聖霊なる神のお働きを否定することになります。それは神の最後の裁きと永遠の滅びをその身に招くことになるという意味です。わたしたちはこの10節のみ言葉から、そのような厳しさを読み取るべきです。

 しかし、聖霊は裁きの神であるのではありません。【11~12節】。聖霊はわたしたちに主イエス・キリストを告白する力と勇気とをお与えくださり、信仰の道を導いてくださいます。また、聖霊はわたしたちの助け主、慰め主であられます。聖霊はわたしたちの信仰を、終わりの日の救いの完成の時に至るまで導いてくださいます。わたしたちが試練や迫害にあう時にも、常にわたしの傍らに共にいてくださり、必要な助けと励ましをお与えくださいます。聖霊はわたしたちを天の父なる神、そして主イエス・キリストと固く結びつけ、そこから与えられるすべての恵みを、わたしたちに分かち与えてくださる神です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰告白をいよいよ強くしてください。邪悪や不義がはびこり、不信仰と罪とに覆われているこの世界に、あなたのみ名を力強く告白し、証ししていくことができますように。あなたのご栄光と主イエス・キリストの救いの恵みを高く掲げて歩む教会としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの地に行われますように。世界の為政者たちが唯一の主なるあなたを恐れる者となり、あなたのみ心を行う者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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