10月6日「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝える教会」

2024年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(36)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    テモテへの手紙二4章1~8節

説教題:「主の委託により正しくみ言葉を宣べ伝える教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は、キリストの体、神に召された世々の聖徒の……待ち望みます」。

この箇所は、キリスト教教理では「教会論」と言われますが、きょうは教会の務め、教会の使命とは何かということについて、「主の委託により正しく御言(みことば)を宣べ伝え」という個所を、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいきます。

ここには、教会の務め、使命について3つが挙げられています。一つは、「み言を宣べ伝えること」、二つには「聖礼典を行うこと」、三つめは「信徒を訓練すること」です。この三つのことすべてに「主の委託により」とう言葉がかかっているのか。それとも、初めの二つのこと、すなわち「み言を宣べ伝えること」と「聖礼典を行う」ことだけが主の委託によることと考えるべきなのか、理解が分かれるところですが、わたくしは3つすべてが主の委託によると理解するのがよいと考えます。これから何回かにわたって、これら3つの教会の務めについて学んでいきますが、そのいずれも、主、すなわち主イエス・キリストによって直接に、あるいはまた間接的に命じられ、委託されているということを福音書などから確認できるからです。

16世紀の宗教改革者カルヴァンは『キリスト教綱要』という書物の中で、真実の教会の目印として二つを挙げています。一つは、神の言葉が正しく説教され、また聞かれていること。二つには、聖礼典(洗礼式と聖餐式を指します)が主の委託に従って執行されていること、この二つです。カルヴァンは信徒の訓練については教会の本質的な目印からは区別しているように思われますが、一般に改革教会は、『日本キリスト教会信仰の告白』のように、三つ目の信徒の訓練も教会の目印として加えています。

1560年に制定された『スコットランド信仰告白』第18条ではこのように告白されています。「真の教会の目印は、……まず第一に神の言葉の真の説教であって、その言葉によって神はご自身をわれわれに啓示される。第二に、イエス・キリストの聖礼典の正しい執行であるが、それは神の言葉と約束をわれわれの心に封印し、確かにするために神の言葉と結びついていなければならない。最後に、神の言葉の命令に従った教会訓練の厳しい遵守であって、それによって悪徳が抑制され、善い行いが養われるのである」。1561年に制定された『ベルギー信仰告白』でも同様です。わたしたちの教会の信仰告白でも、これらの伝統的な信仰告白と同様に、主から委託された務め、使命として、「正しくみ言を宣べ伝えること」、「聖礼典を行うこと」、そして「信徒を訓練すること」を挙げているのです。

ではまず、「主の委託により」という告白について学んでいきましょう。第一に重要なポイントは、教会は主イエス・キリストからの委託を受け、その委託に応え、主イエス・キリストに委託されたことを行うことによって存在しており、生きているのだということです。教会に集まって来ている人たちが協議をして、教会でどんな活動を行うかとか、どんな事業を展開し、何を語り、何を教えるべきかを考えだすのではありませんし、そうしなければならないのでもありません。教会がなすべきことはすべて主イエス・キリストがお命じになり、お示しくださいます。このことは、教会にとってどんなにか大きな恵みであり幸いであることでしょうか。たとえ、時代がどのように変わろうとも、民族や言語が違っていても、あるいは教会の教派や指導者が違っていても、教会は迷うことなく、ためらうことなく、主イエス・キリストから託されたことを一筋に励むべきであり、またそうしてよいのです。

もし、教会が主イエス・キリストの委託に不忠実であったり、委託されていること以外によって生きようとするならば、教会は真実の主キリストの体なる教会ではなくなるでしょう。まことの命を失った、単なる人間集団になってしまうほかにないでしょう。教会は主イエス・キリストの委託に応えることによってこそ、またそのようにしてのみ、真実の教会となり、生きた教会となるのです。

次に、主によって委託されている内容についてみていきましょう。第一に挙げられているのが、「正しくみ言を宣べ伝えること」です。主イエスがどのようにしてこの委託をされたのかを聖書から確認していきましょう。

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書をそう呼びます)では、復活された主イエスが弟子たちに、全世界のすべての人々に福音を宣べ伝えなさいとお命じになったことが、それぞれ多少違った表現で語られています。マタイ福音書28章16節以下、マルコ福音書16章15節以下、ルカ福音書24章44節以下です。ルカ福音書24章44節以下を読んでみましょう。【44~48節】(161ページ)、もう1か所、使徒言行録1章8節を読みましょう。この箇所は、主イエスが十字架で死んでから三日目に復活され、さらに40日目に天に昇られる直前に語られたみ言葉です。【8節】(213ページ)。このほかにも、主イエスがみ言葉を宣べ伝えなさいと弟子たちに、また教会にお命じになったことを記している個所はいくつもあります。

十字架で死なれ三日目に復活された主イエスは、弟子たちに、またのちの教会に、主イエスご自身が宣べ伝えられた神のみ言葉、神の国の福音、またその成就のみわざを、全世界のすべての人々に語り伝えなさいとお命じになりました。教会はこの主イエスのご命令に従うことによって、いわば主イエスのみわざを受け継ぎ、主イエスのみわざに仕えるのです。

それでは、宣べ伝えるべき「み言(ことば)」とは具体的にどのような内容を言うのでしょうか。『信仰告白』では、尊敬や丁寧を意味する「み」と、漢字の「言葉」の「言(げん)」とを組み合わせて、「みことば」と読ませています。つまりこの言葉とは、人間が語る人間の言葉ではなく、「神の言葉」であるということを意味しているのです。「神の言葉」とは、旧約聖書と新約聖書に書かれている神の言葉のことです。教会は「神の言葉」を宣べ伝える務め、使命を主から委託されているのです。それは、なんと重く、また光栄ある務めであることでしょう。しかも、教会はその神の言葉を宣べ伝える務めを、人間の言葉をもってなすのです。それは、主の委託がなければ到底果たしうる務めではありません。教会はその委託に大きな恐れと感謝とをもって応えるのです。

宣べ伝えるべき言葉は神の言葉ですが、より具体的には、肉となられた神の言葉である主イエス・キリストを宣べ伝えることであり、主イエス・キリストの救いのみわざを語ることです。新約聖書では様々な言い方がなされています。「主イエスの福音」「罪のゆるしと悔い改めの福音」「十字架と復活の福音」「和解の福音」などです。これらの神の言葉は、ただ教会だけが語ることができ、宣べ伝えることができる「福音」です。主なる神がみ子・主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざなのです。教会以外では、その福音を聞くことはできません。そのような、特別な「神の言」を宣べ伝える務めを教会は委託されているのです。その務めの重さ、また光栄を覚えざるを得ません。

「正しく」とはどのような意味を持つのでしょうか。第一には、それが神の言葉であるゆえに、神の言葉であるにふさわしく語り、また聞かれなければならないということです。聖書の言葉、主イエス・キリストの福音は、永遠に変わらない、生きた、命を持つ、人を生かす、救いの恵みに満ちた言葉ですから、そのような言葉として宣べ伝えられなければなりません。したがって、み言葉が宣べ伝えられるときに、そこで罪のゆるしという出来事が起こり、罪に死んでいた人が新しい命に復活するという出来事が起こり、滅びいくこの世に属する者が永遠なる神の国の民とされるという出来事が起こるのです。

しかし、そもそも人間は神の言葉を語ることができるのか、人間の集まりである教会が神の言葉を宣べ伝えることができるのかという疑問が生じるかもしれません。その疑問に対しては、多くの神学的な議論がなされなければなりませんが、きょうは単純明快な答えとして、それが教会に対する主の委託だからと答えるにとどまりましょう。天から下って来られ、人となられた主イエス・キリストが、わたしたち肉に過ぎない者たちに、永遠なる神のみ言葉を、ご自身の尊い福音という宝を、委託されたからです。教会はその委託によって、神の言葉を、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという務めを果たすことができるし、また果たすべきです。当然、そこには神の言葉に対する恐れと慎み、感謝と喜びがあり、それとともに、いなそれ以上に、聖霊なる神のお導きがなければ、教会はその務めを果たすことはできません。

「正しく」とは、神のみ心に従ってということでもあります。人間の勝手な判断や理解を持ち込むのではなく、神がお語りになったその意図に従って、それに何も付け加えず、それから何も差し引かずに語るということです。そうは言っても、教会の長い歴史の中では、神の言葉が人間の思想とかこの世の価値観とかによってねじ曲げられ、ゆがめられるということが幾度も起こりました。今でもその危険が付きまとっています。

そこで、教会は神学という学問に真剣に取り組んできました。何が正しい神の教えであり、何が正しい聖書の理解であるかを、教会は絶えず吟味し、学びなおし、研究を積み重ねることに努力してきました。そのようにして形成された聖書の教えを「キリスト教教理」と言います。教会の宣教活動は、その正統的な教理に合致していなければなりません。

最後に、神のみ言葉を宣教する方法、手段についてです。これも「正しく」なければなりません。旧約聖書の時代には、モーセの十戒の第二戒で、神の像を造ることを禁止しています。目に見える像や形で神を表現したり、それを礼拝するのではなく、神のみ言葉を聞き、それを聞いて信じるという信仰によって、教会は神のみ言葉の命と力とを証しする以外にありません。それゆえに、わたしたちは主の日ごとに教会の礼拝堂に集い、共に神を礼拝しつつ、神の言葉の説教を聞くのです。主の日ごとの礼拝こそが、「正しく神のみ言を宣べ伝える」という教会の務め、使命の中心であり、基礎であり、出発点なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なるみ言葉は、世が移り、草木が枯れようとも、決して変わることなく、わたしたちの命の源です。どうか、教会があなたのみ言葉を正しく語り、信じ、そのみ言葉に従っていくことができますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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