4月20日説教「主イエス・キリストの死と復活にあずかる」

2025年4月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              復活日(イースター)礼拝

聖 書:詩編130編1~8節

    ローマの信徒への手紙6章1~11節

説教題:「主イエス・キリストの死と復活にあずかる」

 きょうの復活日(イースター)礼拝で朗読された聖書、ローマの信徒への手紙6章1~11節では、わたしたち人間の死ぬことと生きることが取り上げられています。ここには、死ぬという言葉と、生きるという言葉が何度も用いられています。しかも、その二つの言葉はいつでも一つの文章の中で一緒に連なって用いられています。いくつか読んでみましょう。2節、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」。それから、4節。【4節】。また、8節でも。【8節】。最後に、11節。【11節】。

 わたしたちが人間の死ぬことと生きることを考える場合、いつでもその二つのことを切り離さずに、それぞれの関連とつながりの中で考えなければならないということを聖書は教えています。死を考える場合には命と生きることとの関連の中で、命や生きることを考える場合には死と死ぬこととの関連の中で考えることが重要です。両者を切り離して、死や死ぬことだけを独自に考えるのではなく、また命や生きることだけを独自に考えるのでもなく、その両者が互いに分かちがたく結びついているものとしてとらえることが重要だということです。

 それから、きょうの箇所でのもう一つの特色は、先ほど挙げた4つの文章では、いつの場合にも、死と死ぬことが先に言われ、次に生きることが言われているということです。これは、人間の一生を考える場合、普通の順序ではないと言わなければなりません。わたしたちはだれもみな、生まれ、生きて、そして死んでいきます。生きることが先にあり、次に死ぬことが続きます。そして、死ぬことで最後となります。

 ところが、きょうの聖書の箇所では、それが全く逆になっています。しかも、4つの文章がみなそうなっています。死ぬことが先にあり、つぎに生きることが続いています。そして、最後は復活と新しい命に生きることが語られているのです。聖書は、はっきりと意識して、普通の順序を逆転させているということに気づきます。

 なぜ、意識的に逆転させているのでしょうか。その答えは、きょうの箇所で「わたしたち」という言葉と共に用いられている「キリスト・イエス」にあります。この方、主イエス・キリストが人間の、生きるから死ぬへと至る順序を、逆転させたからです。

 神のみ子である主イエスのご生涯は、わたしたち人間と同じように、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、赤ちゃんだった時があり、12歳だった時があり、30歳のころに、神の国の到来を告げる説教者として立ち、およそ3年余りの活動期間を経て、エルサレムでユダヤ人指導者たちによって捕らえられ、裁判にかけられ、ローマ帝国の地方総督ピラトによって十字架刑の判決を受け、受難週の金曜日に十字架上で息を引き取られました。

 ここまでは、わたしたち人間と同じ順序でした。ところが、主イエスは墓に葬られてから三日目の日曜日の朝早くに、墓から出て、復活されたのです。主イエスの亡骸は墓にはありませんでした。数人の婦人たちや弟子たちがその証人となりました。そのあと、40日間にわたって、主イエスは復活されたお姿を多くの人たちの前に現わされました。

 主イエスの復活の目撃証人となった弟子たちは、十字架につけられた主イエスが復活されたことを信じ、その復活信仰によって形成された教会の民となりました。主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、復活信仰から始まっています。死によっては終わらない、復活信仰によって生きる、新しい命に生きる教会の民が形成されたのです。それによって、生きるから死へと至る人間の一生とは違う、死から新しい命に生きるという、逆転が起こったのです。

 そこで、きょうの聖書の箇所の三つ目の大きな特徴に注目しなければなりません。ここでは、わたしたちの死ぬことと生きることとが、主イエス・キリストの死ぬこと、生きることとの密接な関係の中で語られているということです。主イエス・キリストご自身が生きるから死ぬへと至る順序を、死ぬから生きるへと逆転させてくださったのですから、わたしたちが主イエス・キリストと固く結ばれているならば、わたしたちもまた、主イエス・キリストと同じように、死ぬから生きることへと変えられることになるのです。

 では、それがどのようにして起こるのでしょうか。主イエス・キリストが起こしてくださった逆転が、どのようにしてわたしたちの逆転になるのでしょうか。そのことを探っていきましょう。

 この手紙の著者である使徒パウロは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、どのようにしてわたしたち信仰者の死と新しい命に生きることに結びつくのかを、洗礼という儀式で説明しています。洗礼は元来、ユダヤ教の改宗者の入会儀式であったと推測されています。ヨルダン川に身を沈めることによって、今まで信じてきた諸宗教の神々と死に別れ、川から上がってきた時にはユダヤ教の神を信じる新しい信仰者に生まれ変わるということを、言い表していました。そのユダヤ教の洗礼が、洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を経て、主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰を告白する儀式へと変わっていきました。それによって、洗礼には新しい意味が付け加えられたのです。

 キリスト教信仰による洗礼の第一の意味は、3節に書かれているように、「主イエス・キリストの死にあずかる洗礼」です。主イエス・キリストが十字架で死んでくださったその死が、洗礼によってわたしの死となり、罪に支配されていた古いわたしがそこで死ぬのです。それは単に象徴的な意味で死ぬということではなく、主イエス・キリストが十字架の死によってわたしの罪のために代わって神の裁きを受けてくださり、わたしに代わって死んでくださったという事実によるわたしの死なのです。主イエスご自身は罪のない神のみ子でしたから、本来裁かれることも死ぬこともあり得なかったのですが、主イエスは徹底してこのわたしのために、わたしの罪のために死んでくださったからです。4節の前半にこのように書かれています。【4節a】。

同じようにして、主イエス・キリストの復活もまた、わたしのための復活であり、わたしを新しい命へと生かすための復活であったことが、4節後半に書かれています。【4節b】。これがキリスト教信仰による洗礼の第二の意味です。主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって神の義を満たされ、神の救いのみわざを成就されました。それによって、主イエス・キリストは罪と死とに勝利されたのです。神は主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださいました。そして、洗礼によって、主イエス・キリストの罪と死に対する勝利が信仰者の勝利とされるのです。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰者は罪の支配から解放され、新しい命に生きる者とされるのです。

洗礼は、主イエス・キリストの死と復活を、洗礼を受ける信仰者、わたしたちの死と復活の命に固く結びつけます。そのことを言い表す言葉が、きょうの聖書箇所には数多く用いられています。3節では、「キリスト・イエスに結ばれる」、4節では、「キリストと共に」、5節では、「キリストと一体なって」、6節と8節でも、「キリストと共に」、11節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、これらの言葉によって二つのことが強調されています。

一つは、洗礼によって主イエス・キリストの出来事がわたしの出来事となるのですが、その出来事の主体は、常に主イエス・キリストの側にあるということです。主イエス・キリストのご生涯とご受難十字架の死、そして復活のすべてが、わたしのためであったということです。わたしはその救いの恵みを、洗礼をとおして、感謝をもって受け入れるのです。

もう一つには、その救いの恵みの大きさ、力の偉大さが強調されているのです。主イエス・キリストの神のみ子としての十字架と復活の出来事は、ただ一回で、完全で、永遠で、普遍の力と命を持っています。その救いの恵みは、すべての時代のすべての人に及ぶのです。だれであれ、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受ける信仰者に、この救いの恵みが与えられます。8節に書かれているように、【8節】という、この信仰によって、すべての信仰者は生きるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死すべきであったわたしたちのために、苦しみを受けられ死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストの救いの恵みを、どうかわたしたち一人一人に豊かに与えてください。また、多くの人々にも与えてください。

〇この後で行われる洗礼式、入会式の上に、あなたからの豊かな祝福がありますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月13日説教「ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王」

2025年4月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

              棕櫚の主日(受難週)

聖 書:詩編98編1~9節

    ルカによる福音書19章28~44節

説教題:「ロバに乗ってエルサレムに入場された平和の王」

 ルカ福音書19章28節にこのように書かれています。【28節】。主イエスのエルサレムへの最後の旅は、いよいよ終わりに近づきました。主イエスの地上の歩みの最後の1週間が、ここから始まります。それは、教会の暦で言えば、受難週の始まりです。主イエスは受難週の日曜日に、ろばに乗ってエルサレムに入場されました。それから、ほとんど毎日エルサレム神殿とその近くで説教されました。木曜日の夕方、弟子たちと一緒に過ぎ越しの食事をされ、その夜はゲツセマネの園で徹夜の祈りをされ、金曜日の朝方ユダヤの役人たちによって捕らえられ、裁判を受け、十字架につけられ、午後3時ころに十字架の上で息を引き取られました。その日のうちに墓に葬られ、翌日の安息日を挟んで3日目の日曜日の朝早くに、墓から復活されました。これが、主イエスの受難週から復活に至る1週間の歩みです。

 そのような主イエスの歩みを思いながら、28節の「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」というみ言葉を読むとき、ここに深い意味が込められていることに気づくのです。主イエスはご自身の受難と十字架への道を、これまでにもそうであったように、エルサレムに近づいていよいよ確かな決意をもって、弟子たちの先頭に立って進み行かれるのです。弟子たちだけでなく、わたしたちすべての人間の先頭に立って進み行かれるのです。なぜならば、ただお一人、神のみ子であり、また人の子となられた主イエスだけが、わたしたちの罪をゆるすことがお出来になるからであり、主イエスの十字架の死だけがわたしたち人間の罪を完全に贖うことができるからです。

 この世の人のうち、いったいだれが他の人のために自ら進んで苦難と十字架への道を選び取ろうとするでしょうか。人々の先頭に立ちたいと願う人はたくさんいるでしょう。多くの人は、列の先頭に立ちたい、だれよりも先に進みたいと願って、競い合っています。他の人よりも大きな名誉を得ようと、競争し合っています。けれども、困難な道、険しい道、屈辱と苦難の道では、だれも先頭に立ちたいとは願いません。ましてや、自分のためではなく、他の人のための苦難の道だとすれば、なおさらに、だれもがそれを避けたいと思うに違いありません。

 しかし、主イエスはそうではありませんでした。ご自身が進んで、強い決意をもって、そしてまた喜びつつ、ご受難と十字架への道を、先頭に立って進み行かれたのです。そして、わたしたちの罪のために、わたしたちをすべての罪から贖いだすために、ご自身の罪も汚れもない、神のみ子としての尊い血を流され、その命をおささげになったのです。ここにこそ、わたしたちを罪から救う主イエスの大きな愛があり、それゆえにまた、わたしたちのすべての罪をゆるし、神との豊かな交わりへと導く命と力があるのです。

 ご受難と十字架の死への道を先頭に立って進み行かれて主イエスは、また、わたしたち一人一人の人生の歩みの先頭に立って導いてくださいます。わたしたちが時として道に迷い、不安や恐れに襲われるとき、試練や困難に出合い悩むとき、大きな壁に突き当たって一歩も前に進めなくなるとき、主イエスはわたしの先頭に立って、わたしのために道を切り開いてくださり、最も良い道を備えてくださいます。わたしたちはどのような時にも、先頭に立って進み行かれる主イエスに従い、信頼して、わたしのすべてをお委ねすることができます。

 さて、主イエスはエルサレムに入場される際に、ろばの子にお乗りになりました。普通、王が戦いに勝利して凱旋帰国するするときや、新しい王が即位する式では、立派な軍馬にまたがって入場行進するのですが、この時の主イエスは軍馬ではなく、ろばの子に乗ってエルサレムに入られました。エルサレムは敵からの攻撃に備えて周囲を高い壁で囲まれていましたから、あたかも城の城壁のようなので、エルサレム市街に入るときには入場という表現を用います。

 主イエスはなぜ軍馬ではなくロバの子に乗ってエルサレムに入場されたのでしょうか。マタイ福音書21章4節には、それは旧約聖書の預言が成就されるためであったと書かれています。その預言の箇所を読んでみましょう。【ゼカリヤ書9章9~11節】(1489ページ)。ここに預言されている王は、柔和で謙遜な王であり、戦いのために武器をもって軍馬にまたがる王ではなく、むしろ戦いのための戦車や武器をすべて投げ捨てて、もはや戦いのことを学ぶことのない真の平和をもたらす王であり、そして永遠の契約を守り実行するために、捕らわれていた人々を解放する王であると言われています。主イエスはまさにそのような柔和で謙遜な王として、平和の王として、救いの王として、この受難週の日曜日に、エルサレムに入場されたのです。

 当時のイスラエルはローマ帝国の支配下にありました。エルサレムの住民の多くは、神の民であるユダヤ人が異邦人ローマの支配から解放されて、自由の民となることを願っていました。一部の人たちは、武器を持ってでも、ローマの支配に立ち向かう、勇敢で英雄的な王を期待していました。そのような王ならば、たくましい軍馬に乗ってエルサレムに入場されるかもしれません。あるいはまた、支配者階級にある指導者たちの多くは、強大なローマと戦っても勝ち目がないので、その支配に甘んじ、抵抗しないで、今の状態の平和を選び取るべきだと考えていました。だれかがローマの支配に抵抗して暴動を起こしたら、かえってローマ政府の締め付けが厳しくなることを恐れてもいました。そのような状況の中で、主イエスはエルサレムに入場されたのです。

 37節で、「弟子たちの群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた」と書かれてあり、それに続いて38節では詩編118編26節のみ言葉から、【38節】と書かれてありますが、この賛美がロバの子に乗られた主イエスのことを正しく理解したうえでの賛美であったのかどうかについては、いくつかの解釈が可能です。

 一つには、この弟子の群れは、12弟子をも含んで、ガリラヤ地方から主イエスと共に過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムに上って来た人々全体を指しているようですが、彼らは主イエスの驚くべき奇跡のみわざを多く見ていましたので、主イエスこそが神がイスラエルの救いのためにお遣わしになったメシア・救い主であると信じて、その救いのみわざがこれからエルサレムで完成されるのではないかという期待をもって、主イエスのエルサレム入場を歓迎していると理解することができます。

 また、39節では、ファリサイ派の人たちがその群衆の歓声を抑えようとしたことが書かれていますが、彼らは群衆が騒ぎを起こして暴動にでも発展したら、ローマ政府からより厳しく弾圧されるかもしれないと恐れていたと思われます。もしそうなれば、自分たちの宗教活動が自由にできなくなるからです。

 あるいはまた、他の福音書を読むと、エルサレムの住民の多くが主イエスをローマの支配から解放してくれる政治的メシアと理解して、熱狂的に歓迎していたことが分かります。

 以上のように、ガリラヤ地方から主イエスについてきた弟子たちと、ファリサ派に代表されるイスラエルの宗教指導者たちと、そしてローマからの解放を期待する民衆と、三者三様に、主イエスのエルサレム入場を理解していたと推測されます。

 けれども、結論的に言えば、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死をあらかじめ予想してはいなかったし、彼らのだれも、主イエスのご受難と十字架の死を正しく受け止めることができなかった、その意味を正しく理解できてはいなかったということが、このあと福音書を読み進んでいけば明らかになるのです。したがって、ここでも、だれ一人として、主イエスがロバの子に乗ってエルサレムに入場されたことの本当の意味を理解してはいなかったのだと言わなければなりません。主イエスは確かに、12弟子たちからも見捨てられ、ユダヤ人指導者たちからは神を冒涜する者だと訴えられ、民衆からは、メシアならまず自分自身を十字架刑から救い出してみよ、そうしたら信じようと侮られ、すべての人に見捨てられ、ただお一人でご受難と十字架への道を進み行かれたのです。そして、父かる神のみ心に従順に従い、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に服従され、それによって父なる神の救いのみ心を完全に成し遂げられたのです。

 主イエスはご自身が乗るろばの子を、ご自身で用意されました。30節から34節には、不思議なことが書かれています。主イエスが二人の弟子たちに、向こうの村に行ってロバの子を連れてくるようにとお命じになりました。顔見知りとは思えない人に、「主がお入り用なのです」と言えば、その人はそのろばの子を提供してくれるからと言われました。そして、実際にそのようになりました。ある人は、主イエスがあらかじめその人と打ち合わせをしておられたと考えます。でも、そうだとすれば、そのことをなぜ弟子たちに話さなかったのか疑問が残ります。主イエスはその人が知り合いかどうかということは全く問題にしておられません。

「主イエスが言われる。『主がお入り用なのです』」。このことだけが重要なのです。主イエスはご自身に託された神の権威と主権をもって、ご自分が乗られるロバの子を選ばれたのです。そこには、柔和と謙遜によってこの世界にまことの平和をもたらすために、十字架の死に至るまでご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされる道を選ばれた主イエスの固い決意が表されているように思われます。まだだれをも乗せたことのないロバの子が、ご受難と十字架の道を進まれる主イエスを初めて乗せるために用いられます。

主イエスは平和の王として、ろばの子に乗って、この受難週にわたしたちのところにおいでくださいました。ご受難と十字架の主として、わたしたちのところにおいでくださいました。それは、神とわたしたち人間との間の、まことの平和、永遠の平和をもたらすためです。神が永遠にわたしたち人間と共にいてくださることによって与えられる平和、神との豊かな交わりの中に招き入れられている平和、平安、祝福を、わたしたち一人一人に与えるためです。この神と間の平和こそが、わたしたちの日々の生活全体の平和の基礎であり、この社会と国家、また全世界のまことの平和の基礎でもあるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、み子主イエス・キリストのご受難を思い、自らの深い罪をみ前に告白するとともに、あなたがみ子の血によってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださいましたことを、大きな喜びと感謝とをもって信じ、告白いたします。願わくは、主よ、あなたの大いなる愛とゆるしの福音が、罪と分断と争いに覆われ、闇に閉ざされているこの世界に、まことの光と平和をもたらしますように、切に祈ります。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月6日説教「わたしたちの罪を赦してください(二)」

2025年4月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編51編1~14節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪を赦してください(二)」

 主イエスが弟子たちに教えられた、祈りの模範である「主の祈り」は、マタイ福音書6章とルカ福音書11章で、少し違った形で書かれています。式文の主の祈りは、マタイ福音書6章をもとにしていますが、「新共同訳聖書」と式文では、日本語の翻訳が違っています。きょうは、マタイ福音書、ルカ福音書、そして式文の三つの違いに注目しながら、わたしたちの罪のゆるしの祈りについて、深く学んでいきたいと思います。

 まず、これは言うまでもないことですが、わたしたちは自分たちの罪のゆるしについて、主なる神に祈り求めなければならないということを、あらためて確認しておきましょう。罪のゆるしについて、だれかほかの人に願い求めるとか、何かほかの手段や方法を願い求めるのではなく、ただ主なる神にのみ祈り求めなければなりません。なぜならば、主なる神だけがわたしたちの罪をゆるすことがおできになる唯一の方だからです。

と言うよりは、そもそも罪とは、主なる神に対する罪だからです。わたしたち人間は造り主なる神のみ心を悟らず、そのみ言葉に背き、また、神から与えられている恵みに気づくこと遅く、それに感謝すること少なく、神の栄誉と栄光を神から奪い取って自らのものとしている罪びとであり、神に対して無限の負債を負っている罪多き者、それがわたしたち人間なのだと聖書は教えています。それゆえに、主イエスは「神よ、わたしたちの罪を赦したまえ」と祈るように教えておられるのです。

 マタイ福音書6章12節の「新共同訳聖書」では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」となっていますが、ルカ福音書11章4節では、前半は「わたしたちの罪を赦してください」となっているのに対して、後半では、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていて、前半と後半で罪と負い目を使い分けているように思われるかもしれませんが、前回にも説明したように、罪と負い目は全く同じ意味で用いられていると考えるべきで、罪の性質の違いとかその特徴を二つの言葉で言い表していると理解すべきだと思います。マタイ福音書6章をテキストにしている式文の主の祈りも、同じような意味で、負い目を罪と言い換えています。

 人間の罪を神に対する負い目、すなわち借金と考えることの背景には、わたしたち人間は神から多くの恵みを不断にいただいているという考えがあります。わたしたち人間がそのことにはまったく気づいていないとしても、神はいつでも、ずっと前から、使徒パウロの言葉で言えば、「わたしを母の胎内にあるときから、選び分け、恵みによって召し出してくださった神」(ガラテヤの信徒への手紙1章15節)に、わたしたちはのちになって初めて気づかされるのですが、そのように、神の恵みはすでにわたしにも豊かに与えられているのです。

 けれども、わたしたちは不信仰であって、神の多くの恵みに気づかず、その恵みを無駄に投げ捨てたり、それをあたかも自分の手で得たかのようにして、神から奪い取って、日々に神に対する負債を増し加えているのです。それが人間の罪です。しかも、人間は神に背き、神から離れて生きていることには気づかずに、本来目指すべき的からそれて、いよいよ自らの努力と力とをふり絞って、神から遠い所へと向かっていくしかないのです。これが、生まれつき罪に傾いている人間の姿です。

 その罪をゆるしてくださるのは、神お一人です。主なる神以外のだれも、もちろんわたし自身も、わたしの罪をゆるすことはできません。神がお遣わしになった神のひとり子、わたしたちの罪のゆるしのために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト以外に、わたしたちの救い主はどこにもいません。使徒言行録4章12節で使徒ペトロが説教しているように、「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないからです」。それゆえに、わたしたちは主イエス・キリストのみ名をとおして、父なる神に、「わたしたちの罪をおゆるしください」と祈り求めるのです。

 次に、罪のゆるしの祈りは前半と後半に分かれています。式文の主の祈りでは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」が先にあり、「我らの罪をも赦したまえ」が後になっていますが、マタイ福音書でもルカ福音書でも、「新共同訳聖書」では、「わたしたちの罪を赦してください」が先にあり、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」、あるいは、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という順次になっています。実は、この聖書の翻訳の方が原文のギリシャ語に忠実な訳し方です。

 ここからまず確認されることは、主なる神に対して、「わたしたちがあなたに対して犯した罪をどうぞゆるしてください」というのが中心的な祈りであるということです。すなわち、後半の、「わたしたちが他の人の罪をゆるします」は、前半の祈りの条件になっているのではなく、むしろその結果、その次に続くこととして理解されねばならないということです。

式文の祈りではその順序が反対になっているので、時に、わたしたちが他の人の罪をゆるすことが、神から罪をゆるされることの条件のように誤解されがちですが、聖書の原典では、まず神に対する罪のゆるしの祈りがあり、その次に隣人に対する罪と負債のゆるしが語られているという順序になっていますので、そのような誤解が避けられます。「神よ、わたしたちの罪をおゆるしください」がこの文章の主文であり、「わたしたちもまた……」は従たる文です。したがって、わたしの隣人に対する罪のゆるしや負債の免除が、神からいただく罪のゆるしの条件になるようなことは、全くあり得ないということが、二つの文章の主と従の関係からも明らかです。また、その両者の質と量とを同じ平面では比較できないほどの、まったく比べものにはならないほどの違いからみてもそのことが明らかです。

そのことについて、少し詳しくみていくことにしましょう。主イエスは罪のゆるしについて教えておられる説教で、王さまから1万タラントンの借金をしていてゆるされた人が、隣人に貸していた100デナリオンの借金をゆるしてあげなかったというたとえを、マタイ福音書18章21節以下でしておられます。このたとえで、王さまに1万タラントンの借金をしていると言われているのは、わたしたち人間が神に対して莫大な負債を負っている罪びとであることを言い表しているのです。それに対して、100デナリオンの借金とは、わたしたち人間が隣人に対して負っている借金のことです。1タラントンは6000デナリオンに相当しますから、その両者の借金、負債額の差は、何百憶倍にもなります。わたしたちが神に対して負っている借金、負債は無限に大きいのです。とても、一生働いても、あるいは、どんなにしても返済できる額ではまったくないことを強調しています。神に対する借金と隣人に対する借金の額はまったくくらべものにはなりませんし、したがってまた、わたしたち人間が隣人に対する借金をゆるすことが、神に対する借金の返済のために何らかの役に立つということも全くあり得ません。

そのことを確認するとともに、わたしたちはここで、人間は確かに隣人に対してお互いが負債を負っている、借金をしている者だということをも知らされるのです。神に対して大きな負債を負っている人間、神との関係で罪びとであり、神との関係が歪み、壊れてしまっている人間は、隣人との関係においても、正しい関係を築くことはできないのです。神に対して返すべき借金を返すことができていない人間は、隣人に対しても、果たすべき愛の関係を正しく果たすことができなくなっているからです。互いに相手のものをむさぼり取ったり、奪い取ったり、傷つけあったりするほかにないからです。罪に支配されている人間は、共に生きることも、互いに協同することも与え合うことも、互いにゆるし合うこともできません。それは、人間の歴史と現実が、あるいはわたしたちの日々の歩みが証明していると言ってよいのではないでしょうか。

したがって、わたしたちの神に対する罪がまず先にゆるされなければならないのは当然のことです。その次に、隣人の負債をゆるすことが続きます。その二つの順序を逆転させることはできません。それと同時に、主イエスがたとえ話で教えておられることは、その二つのことは互いに切り離すことはできないということです。神によった大きな負債をゆるされた人は、隣人の小さな負債をゆるさないことはあり得ないということです。もし、後者のあり得ないことが起こっているとすれば、前者のことは起こっていなかったことになります。そこで、主イエスはこのように言われました。「隣人のわずかな借金をゆるしてあげなかった不届きな者よ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。お前の1万タラントンの借金をわたしに返すまで、お前は牢獄に入れられねばならない」と(マタイ福音書18章32~34節参照)。

神に対する大きな罪を無償で、無条件でゆるされている人は、そのゆるしの大きな恵みに心から感謝をし、隣人の負債を喜んでゆるしてあげることができるようにされるのです。神の大きな憐れみを受けて、神の一方的な恵みによって罪ゆるされている人は、隣人に対して憐れみをもってゆるし、仕え、分かち与えることでできるようにされるのです。主の祈りはわたしたちをそのような生き方へと導くのです。

宗教改革者Ḿ.ルターはこう言いました。「信仰によってのみ、人間は罪びとになる」と。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、人間の罪を知らされ、また同時にその罪がゆるされていることを信じている人は、罪の奴隷から解放され、自由にされて、喜んで隣人をゆるし、愛することができるようにされます。したがって、隣人をゆるし愛することもまた信仰によって可能になるのであり、それもまた主イエス・キリストによってわたしたちのすべての罪をおゆるしくださる神のみわざなのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちを罪から救うために御ひとり子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたちを愛してくださいました。その大きな恵みによって、わたしたちは今あるを得ています。願わくは主よ、わたしたちを日々新しく造り変えてくださり、あなたの大きな愛によって生かされ、またその愛に応答して生きる者としてください。どうか、罪のゆるしの福音が全世界のすべての人に届けられますように。そして、この世界があなたの愛によって造り変えられますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月30日説教「アブラハムとの契約を実行される神」

2025年3月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記6章1~13節

    ローマの信徒への手紙4章13~25節

説教題:「アブラハムとの契約を実行される神」

 イスラエルの民が奴隷の家エジプトから脱出して、神の約束の地カナンへと導かれたという出エジプトの出来事には、聖書全体を貫いている大きなテーマがいくつも盛り込まれています。

第一には、出エジプトは神の民であり旧約聖書の民であるイスラエルの誕生という出来事です。それは、イスラエルの民の中から出た一人のメシア・救い主の誕生と、新約聖書の民、教会の誕生へと続いていきます。

第二には、出エジプトの出来事はエジプトで奴隷であった民がその奴隷状態から解放されて自由の民とされたということにとどまらず、主なる神によって贖われ、救われ、真実の神を礼拝する民とされたということでもあります。それは、主イエス・キリストの十字架と復活によって罪の奴隷から解放され、救われ、自由な礼拝の民とされた教会へと受け継がれていきます。

第三には、出エジプトの出来事は、神の救いのみわざを信じるイスラエルの信仰を生み出します。出エジプトの出来事は最初から最後まで神ご自身の救いのみわざですが、それは同時にイスラエルの信仰と服従を求めます。そこではまず、イスラエルの不従順、不信仰、かたくなさが明らかにされます。しかしまた、神はそのようなイスラエルの罪を克服し、彼らを信仰の民とするために、さまざまなしるしと奇跡とを行ってくださいます。それによって、イスラエルはただ信仰によって真実の救いの道を生きる民とされていくのです。これもまた、新約聖書の民・教会へと受け継がれていきます。

そして第四に、神はご自身の救いのみわざである出エジプトの出来事のために、モーセという奉仕者、働き人を備えられます。モーセは、自分が神の働き人となるには全くふさわしくない欠けと破れだらけの人間であることを自覚していましたが、神はあえてそのような弱さをもったモーセをお選びになり、彼をお用いになり、ご自身の出エジプトという偉大なる救いのみわざをなさるのです。そしてこのこともまた、主イエス・キリストの救いのみわざのために仕える教会の民、わたしたち一人一人へと受け継がれていきます。

以上のことを念頭に置きながら、きょうの聖書のみ言葉を読んでいくことにしましょう。【出エジプト記6章1節】。これまで4章、5章で読んできた内容から、エジプト王ファラオとイスラエルの民とモーセの、三者の立場と考え方をまとめてみましょう。ファラオはエジプト王国の絶対的権威者として、奴隷にしているイスラエルの民を自国の経済発展に利用する労働力としか考えていません。イスラエルの神の言葉にも、その神の僕(しもべ)として仕えるモーセの言い分にも、全く耳を傾けようとはしません。イスラエルの民が、「自分たちが神を礼拝するために少しの期間、休みをください」と要求したのに対して、「お前たちは怠け者だ。働きたくないから、神を礼拝する時間をくれなどと要求しているのではないか。そんな怠け者には、もっと重い労働を課してやるのがよい」というのがファラオの答えでした。

イスラエルの民は、自分たちの労働の量がより増えた現状を見て、「こんなに労苦が増し加わったのはモーセよ、お前のせいだ。お前がファラオに我々を嫌わせるようなことをしたからだ。お前は我々の命を殺す剣をファラオに渡したようなものだ」と、指導者モーセを非難します。イスラエルの民は自分たちの肉体的な命や現実的な労苦のことしか頭にありません。真の救いと平安がどこにあるのかを考えてはいません。それを求めようとはしていません。

そのような両者の間に挟まれて、モーセは苦悩しています。彼の苦悩について、5章の終わりに書かれていました。【22~23節】。モーセはファラオの絶対的権力の前で、自分の無力さを嘆いています。神の約束のみ言葉を聞いてはいたが、それが直ちに実行されないことにいら立ってもいます。我が民イスラエルが自分を信頼せず、この世の現実に縛り付けられている様を見て、失望しています。そして、彼は主なる神に助けを求め、訴えるほかにありません。

そのモーセの訴えに、主なる神はお答えになります。それが6章1節です。神はここで言われます。「ファラオは、今はかたくなにイスラエルの民を去らせることを拒んでいるが、やがて主なる神であるわたしが強い手によって彼を動かすことによって、彼は最終的にはイスラエルの民をエジプトから追い出すようになるであろう」と。神の強いみ手の働きが、奴隷の民イスラエルの解放をかたくなに拒んでいたファラオを、ついには自ら進んで彼らを追い出すようにさせるであろうと言うのです。

ここには、人間の予想や願いや可能性をはるかに超える、神の不思議な救いのみわざが語られています。イスラエルの民が自分たちに課せられた重い労働を嘆き、指導者モーセを非難したのでしたが、その彼らに増し加えられた試練もまた、彼らを救われる神の偉大なみ力をよりはっきりと証明するために役立てられるのです。あるいはまた、「なぜあなたはこの民により厳しい災いをくだされるのですか」というモーセの嘆きを、神の救いのみわざの驚くべき偉大さを知るモーセの喜びと感謝へと変えるのです。そのようにして、出エジプトという神の救いの出来事は、イスラエルの民のより困難で試練の多い状況の中でこそ、その救いの恵みの大きさを明らかにするのです。また、その救いのみわざに仕える指導者モーセのより困難で試練の多い状況の中でこそ、彼の使命の重さが自覚されるのです。

さらには、出エジプトという出来事が、単に奴隷の民イスラエルがその重い労働の苦役から解放されるための神のみわざなのではなく、彼らが真実な神の民とされ、神に救われた民とされ、神を礼拝する民とされるための、神の偉大な救いのみわざなのだということを、わたしたちに理解させるのです。そのために、イスラエルの民と指導者モーセは、ファラオから「仕事をさぼるために神礼拝をさせろと要求する怠け者だ」とあざけられねばならなかったのであり、より重い労働を強いられ、より大きな試練を経験しなければならなかったのであり、命の危険すらも経験するようにされたのです。そのようにして、真実の神礼拝に向けての解放と救いは、まさにまことの命に向けての解放であり、救いなのだということが明らかにされるのです。

次に、2~4節を読みましょう。【2~4節】。2節で神は、「わたしは主である」と言われます。同じ表現は、6節8節、28節でも繰り返されています。これは神の自己紹介であり、自己宣言、自己啓示です。主と訳されている個所には神のお名前が書かれています。そのお名前については3章14節で、初めて神はモーセにお告げになりました。【3章14節】(97ページ)。「わたしはある」というのがそのお名前です。これをヘブライ語でどう発音するのかは、忘れられてしまったので、そのお名前が書かれている個所は、ヘブライ語で主を意味する「アドナイ」と発音するしきたりになりました。「わたしはある」とは、イスラエルの神こそが唯一の永遠なる存在者であり、すべての存在するものの存在の根源であり、すべてを存在へと至らしめ、その存在を支える、存在の主であられる神であるということです。その神が、今新たにモーセにそのお名前を告げられ、エジプトの地でその存在を失っているイスラエルの民に、新たに神の民、礼拝の民としての存在をお与えになるということが、ここで語られています。

それは、神がすでに創世記で族長アブラハム、イサク、ヤコブに対して約束された契約を成就するためであったと、4節に、またこのあと8節にも語られています。わたしたちはここでもまた、創世記から出エジプト記に至るまでのおよそ400数十年の時間の空白を埋めることができるでしょう。創世記の終わりは、ヤコブ、すなわちイスラエルの12人の子どもたちがその家族を連れてエジプトに移住した記録で終わっています。族長時代は、およそ紀元前18世紀から17世紀にかけてと考えられます。次の出エジプト記はそれから400数十年後の紀元前13世紀後半の出来事が描かれています。その間の400数十年については、聖書にとっての空白の時代です。

しかし今ここで、族長時代の神、全能の神として族長たちに現れ、彼らと契約を結ばれた神が、今モーセに対して「主」(わたしはある)というお名前でご自身を啓示された神と同じ神であることを証ししておられるのです。それだけでなく、族長たちと結ばれた契約を今ここで成就されることによって、同じ神であることを証しすると言われるのです。

神と族長たちとの契約の内容は主に三つありました。一つは、アブラハムとその子孫に神の祝福が永遠に受け継がれるということ。二つめは、アブラハムの信仰を受け継ぐ子孫は空の星の数ほどに増えるであろうという約束。三つめは、アブラハムが寄留していた地、カナンの地をその子孫が永遠に受け継ぐであろうという約束。神は400周十年を経て、この契約をエジプトで奴隷として苦しむイスラエルの民に対して成就すると言われます。

5節に、「わたしの契約を思い起こした」とありますが、これは、忘れていたけれども今になって思いだしたという意味ではありません。本来は、「覚えている」という意味の言葉で、神はアブラハムの時代から500年、600年が過ぎたその間も、今も、アブラハムとの契約を決して忘れることなく、いつも覚えたおられたという意味です。アブラハムも、イサクもヤコブも、飢饉のときには神との契約を忘れ、食料を求めてエジプトに移住したことがありました。エジプト滞在400数十年のイスラエルの民も、神との契約を忘れていたかもしれません。しかし、その時でも、神は決してアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。そして、今、彼らの苦難の時に、彼らの死が迫っているその時に、神は彼らとの契約を成就されるのです。彼らを死から命へと導かれるためです。

最後に、【6節】。ここでは、神のみわざが三つの動詞で言い表されています。「導き出す」「救い出す」「贖う」。この三つの言葉に、出エジプトの出来事の意味が言い表されています。それは、新約聖書の民であるわたしたちにも受け継がれています。この三つを、今日のわたしたちに当てはめてみましょう。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音はわたしたちをこの世での束縛や、重荷や、思い煩いから導き出し、わたしたちを神の福音と恵みの中へと招き、わたしたちを真実の自由に生きることを可能にします。

主イエスの十字架と復活の福音は、わたしたちを罪の奴隷から救い出し、まことの命に生かし、神のもとにある平安と慰めへと招き入れます。

主イエス・キリストの十字架と復活の福音は、わたしたちを主キリストに属する者とし、滅びゆくしかないこの世から贖いだされ、神の国の民とされた祝福に生きる者とします。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は今に至るまで、また終わりの日に至るまで続けられていることを信じさせてください。わたしたち一人一人をもその救いのご計画の中にお招きくださいますことを感謝いたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月16日説教「主イエスの再臨を待ち望む教会」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(41)

聖 書:ダニエル書7章11~14節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの再臨を待ち望む教会」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。きょうはその後半、「主が来られるのを待ち望みます」という告白について学びます。

 『使徒信条』では、第二項目の主イエスについての告白の最後で、「かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審き給はん」と告白されています。第三項目の聖霊についての告白の最後にある、「体の復活、永遠の生命を信ず」も終末論です。

 このように、終末論は、『日本キリスト教会信仰の告白』の前文の最後でも、また『使徒信条』の第二項と第三項の最後でも、重要な告白として取り上げられていることが分かります。終末論は、終わりの日のこと、最後のことに関する教えですから、キリスト教教理の最後で取り扱われるのが一般的ですが、しかし終末論は最後の付録のようなものではありません。キリスト教教理全体を締めくくり、完成させる、くさびのような役割を果たすとともに、キリスト教教理と信仰を基礎づける役割をも果たす、土台であり、出発点であるとも言えます。

 ある人はこのような言い方をしています。「キリスト者は終末論によって生きる者である。あるいは、終わりから生きる者である。終わりの日に完成される神の国を基準にして、その終わりの日に向かって、その終わりの日の救いの完成を確信しながら、その終わりの日の約束の希望の中で生き続ける者だ」と。「主が来られるのを待ち望みます」という告白は、まさにそのようなわたしたちの信仰を言い表しているのです。

 では、終末論について教えられている聖書の箇所を読んでいきましょう。使徒言行録1章6節以下には、主イエスの昇天のことが書かれています。主イエスは受難週の金曜日、十字架につけられて死なれ、すぐに墓に葬られました。三日目に、墓から復活され、それから40日間にわたって、弟子たちに復活のお姿を現されました。そして、9節に書かれてあるように、天に昇られ、父なる神のみもとへとお帰りになりました。その時、神のみ使いがこのように言われました。【11節】。

 「またおいでになる」と言われているように、主イエスが再び地上においでになるとき、つまり主イエスの再臨の時、それが終末の時です。主イエスが最初に地上においでになられたとき、それがクリスマスの誕生の時です。これが第一の来臨です。旧約聖書の民イスラエルは、この第一の来臨の時を、メシア・救い主の到来を待ち望む神の民でした。新約聖書の民であるわたしたち教会の民は、主イエス・キリストの第二の来臨のとき、すらわち、わたしたちの救いが完成され、神の国が完成される主イエスの来臨の時を待ち望む神の民です。このように言ってもよいでしょう。「教会の民、わたしたちキリスト者は、主イエスの第一の来臨の時から第二の来臨の時、すなわち再臨の時までの時の間を生きている神の民である。神の救いの完成を目指して、その時を待ちつつ、またその完成に向かって急ぎつつ、生きている者たちであるのだ」と。

 主イエスの来臨の教えと約束は、主イエスご自身にまでさかのぼることができます。主イエスは福音書の中で、特に神の国のたとえの中で、人の子であられる主イエスが終わりの日に再臨され、最後の審判を下される、そして救いを完成されるということを繰り返してお話しされました。マタイ福音書24章、25章は、福音書の黙示録と言われる箇所ですが、ここで主イエスは終末の時についての教えを説教しておられます。25章では、10人のおとめがともし火を持って花婿を迎えるたとえや、主人からタラントンを預けられた僕たちのたとえによって、終末の時の主イエスの再臨に備えて生きるべきことを教えておられます。その最後の箇所で、31節以下にはこのように教えられています。【31~33節】(50ページ)。このみ言葉は、『使徒信条』で「そこか来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という告白と関連します。終末の時、主イエスはすべての信じる者たちに永遠の救いを、信じない人たちには永遠の滅びを宣言なさいます。

 また、マルコ福音書13章24節以下をも読みましょう。【24~27節】(89ページ)。終わりの時、人の子・主イエスは全世界に散らされていたご自身の民、教会の民を呼び集められ、一つのみ国の民とされます。主イエスは、ご自身の十字架の死と復活によって全人類を罪から救い出してくださいました。その救いを信じる信仰によって、わたしたち一人一人を教会の民としてお招きになり、わたしたちの信仰を導かれました。そして、終わりの日には、すべての教会の民を一つの神の民としてくださり、救いを完成させてくださいます。もはや何ものも、わたしたちを父なる神との交わりから引き離すものはありません。神が永遠にわたしたちと共にいてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの傍らに立たれ、そのことを保証していてくださるからです。主イエスご自身がわたしたちの信仰の完成者となってくださるからです。

 わたしたち信仰者にはこの約束と保証があるゆえに、今がどのような困難な時であれ、今どのような苦しい信仰の闘いのただ中にいようとも、あるいは多くの弱さや欠けや破れの中にあろうとも、決して失望することなく、喜びと希望とをもって、再臨の主イエスを待ち望むことが許されているのです。終末の信仰は、いついかなる状況にあろうとも、わたしたち信仰者にとっては、希望の信仰です。喜びの信仰です。わたしたちの信仰の闘いには、再臨の主イエスによる最後の勝利が約束されているからです。

 福音書で主イエスが語られた人の子の再臨の教えは、初代教会と使徒パウロたちに受け継がれました。しかも、強く、生き生きとした、切迫感を持った信仰として受け継がれていたことを、わたしたちは初代教会の祈りで確認することができます。コリントの信徒への手紙一の終わりの16章22節にはこう書かれています。「マラナ・タ」、これはアラム語で「主よ、来てください」という意味です。ヨハネの黙示録22章20節、これはヨハネの黙示録の最後の言葉であり、聖書全巻の最後の言葉でもありますが、そこにはこう書かれています。「以上すべてを証しする方が、言われる、『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください」。

 「主よ、来てください。マラナ・タ」が初代教会の切なる祈りであったことが分かります。初代教会は、すでに教会誕生の紀元30年代から、ユダヤ教からの迫害を受けました。紀元60年代からは、ローマ帝国による迫害が始まりました。紀元90年代になると、多くの殉教者を出すようになっていきました。そのような厳しい信仰の闘いの中で、彼らの「主イエスよ、来たりませ」という祈りは、いわば命をかけた、殉教の血をふり絞るかのような祈りであったのでした。

 このほかにも、初代教会の信仰者たちが主イエスの再臨を熱心に待ち望んでいたことを表す聖書の箇所は数多くあります。彼らは、きょうかあすか、すぐにでも主イエスの再臨があり、終わりの日が来て、神の国が完成されるという信仰を強く持っていました。そして、主イエスの再臨に備えた生き方をしていました。日々に、主イエスの再臨を待ち望む生活をすることが、彼らの信仰生活の基本であり、あるいはすべてであったと言ってもよいかもしれません。

 すべて信じる人たちの罪のゆるしのために、ご受難と十字架の死の道を進まれた主イエス、そして三日目に復活されて罪と死とに勝利された主イエス。今は、天の父なる神の右に座しておられ、我らのために執り成しておられる主イエス。その主イエス・キリストが、終わりの日に再び地上においでくださり、わたしたちの信仰と救いを完成してくださる。その主イエスの再臨を待ち望みつつ、その再臨の時に備えて生きる。これが、使徒パウロや初代教会の信仰者たちの生き方でありました。これが、それ以来2千年の世界の教会の生き方でした。また、今日のわたしたちの生き方でもあります。

 主イエスの再臨を待ち望むという初代教会の信仰に、ある問題が生じることになりました。それは、終末の遅延、主イエスの再臨の遅延ということでした。ある人たちは強く熱心な信仰によって、主イエスの再臨を待ち望みつつ、厳しい信仰の闘いに取り組んでいましたが、他方では、主イエスの十字架と復活、昇天から20年、30年、50年が経過していくにつれて、「わたしはすぐに来る」と言われた主イエスの約束が、まだ実現していない、いったい、いつまで待てばよいのか、もう待つのに疲れた。あるいは、主イエスの再臨はもしかしたらないのではないか、という疑いを持つ人たちが増えてきたのです。

 そのような、終末の遅延、再臨の遅延という問題についても、新約聖書の中には少なからず語られています。その一か所を読んでみましょう。ペトロの第二の手紙3章です。【3~4節】(439ページ)。また、【8~13節】。

 ここでは、終末の遅延、主の再臨の遅延について、積極的な意味が語られています。それは、すべての人が救われることを望んでおられる神の忍耐なのだと。その神の愛による忍耐は、今に至るまで続いているのです。神は全世界のすべての人が罪を悔い改め、主イエスの救いを信じ、救われるために、きょうの日も忍耐しておられます。それゆえに、わたしたちは希望と喜びをもって、主イエスが来られるのをきょうも待ち続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、「主よ、来たりませ」というわたしたちの祈りを、いよいよ強く、熱心なものとしてください。わたしたちの目と心とを、終わりの日のみ国の完成の時に向けさせてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月16日説教「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

2025年3月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編100編1~5節

    使徒言行録13章42~52節

説教題:「神の言葉はユダヤ人から全世界へと広げられる」

 パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、地中海北部の、小アジアと今日一般に呼ばれている地域、今のトルコ共和国ですが、当時のローマ帝国ではピシディア州のアンティオキアでの活動について、使徒言行録13章14節から記されています。その町でのユダヤ人会堂でのパウロの説教が16~41節まで続きます。パウロはその説教の終わりで、主イエスの復活と、その主イエスによる罪のゆるしの福音を信じる信仰によってすべての人に与えられる神の義と救いについて語りました。このような福音の説教を、その町の人はまだだれも聞いたことがありませんでした。そこで、多くの人たちは驚きと感謝とをもって、パウロたちの福音の説教を、また次の安息日の礼拝でも聞きたいと願い出ました。42節に、このように書かれています。【42節】。

 パウロの説教を聞いた人たちは、それまで安息日ごとにユダヤ人会堂で聞いてきた説教とは、根本的に、まったくと言ってよいほどに違っていると感じたのでした。当時のユダヤ人会堂での説教は旧約聖書の解き明かしでした。その点においては、両者は同じでした。けれども、その中味はまったく違っていました。パウロの説教は旧約聖書のみ言葉に示された神の預言や約束を説きあかし、そのみ言葉によって神が今わたしたちに何を語ろうとしておられるかを明らかにするだけでなく、その旧約聖書のみ言葉が、今や主イエス・キリストによって完全に成就されたのだということを語ったのです。34~37節を読んでみましょう。【34~37節】。旧約聖書のダビデに約束されていた復活の命、朽ち果てることのない永遠の命が、今や主イエスによって成就したのだとパウロは語ったのです。また、【38~39節】。旧約聖書の律法によってはだれ一人として神のみ前で義とはされ得なかったのに、今や主イエスを信じる信仰によってすべての人が義とされ、罪ゆるされ、救われるのだとパウロは語ったのです。

 このような旧約聖書の解き明かしは、これまでだれも聞いたことがありませんでした。神が旧約聖書をとおして語られた預言と約束のみ言葉が、今や、主イエス・キリストによって成就されたのです。神の救いのみわざが主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって成就されたのです。この初めて聞く驚くべき福音に接した多くの人たちが、次の安息日の礼拝でもまたこれと同じ説教を聞きたい、そして救いの確信を強めたいと願ったのでした。このように、神の救いのみ言葉を心から慕い求めて、また次の礼拝でも神のみ言葉を聞きたい、神の救いの恵みにあずかり、自分の信仰を強めたいと熱心に願う、そのような思いを、わたしたちもまた持ち続けたいものです。

 42節に、「次の安息日にも」と書かれていますが、ユダヤ人会堂では、彼らの安息日である土曜日に礼拝がささげられていました。パウロたちも最初はその習慣を受け継ぎました。しかし、初代教会では次第に、主イエスが復活された日曜日を主の日として、この日に礼拝するように変わっていきました。

 次に、43節を読みましょう。【43節】。安息日の礼拝が終わってからも、多くの人たちがパウロたちの周りに集まってきました、これは、いわば、礼拝後に開かれた聖書研究会のようなものと考えてよいでしょう。パウロはそこで、神の恵みのもとに生き続けるように勧めました。礼拝からこの世へと出ていくと、たくさんの誘惑が待ち構えています。信仰者を神の恵みから引き離そうとする悪しき力が多く働いています。教会で開かれる聖書研究会やその他の勉強会、研修会は、わたしたちがこの世の誘惑に負けることなく、礼拝で聞いた福音の説教のもとにとどまり続け、その恵みによって生き続けるための、訓練の機会となります。

 では次に、【44~45節】。「ほとんど町中の人」とありますが、当時このアンティオキアの町の人口がどれくらいあったのかは分かりませんが、そんなに大きくもなかったと思われるユダヤ人の会堂にあふれるほどの人たちが、そのほとんどはユダヤ人以外のギリシャ人だったと思われますが、多く集まってきたのを見て、ユダヤ人は自分たちの会堂が異邦人たち占領されていると感じたのかもしれません。

 ユダヤ人たちの妬みや怒りにはいくつかの原因があったと思われます。第一に、自分たちの神聖な礼拝場所が異邦人に占領されているという不満、それだけでなく、自分たちがユダヤ教の宣教活動をしてもこれほどの人々が集まらないのに、よそ者のパウロたちがたくさんの人を集めているのとへの妬み、さらには、パウロが語った説教の内容に対する不満や反対も大きかったと思われます。ユダヤ教では、律法を守ることによって人は救われ、神の国に入ることができると教えられていたのに、パウロが語った福音は、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる人はすべて、律法のわざなしに救われると教えている。これはユダヤ教が重んじている律法を否定することだと、かたくなで悔い改めることをしないユダヤ人は考えたと思われます。

 実は、これこそがまさに、主イエスご自身がエルサレムでユダヤ人指導者によって捕らえられた原因でもあったのです。そして、わたしたちがこれまで読んできたように、初代教会がユダヤ人から迫害を受けた主たる原因であったのでした。さらには、パウロの世界伝道旅行で幾度も繰り返されるユダヤ人による迫害の原因でもありました。

 しかしながら、パウロたちはユダヤ人の反対や攻撃に決して屈することはありませんでした。というのは、彼らは主なる神のみ言葉に仕えているという確信があったからです。自分たちの考えや主張を語っているのではありません。自分たちの利益を求めて活動しているのでもありません。主イエス・キリストの福音に仕えているからです。パウロたちを支えているのは主なる神ご自身であり、罪と死とに勝利された主イエス・キリストであるからです。

 【46~47節】。パウロとバルナバはまず神の選びの秩序について語ります。神が全世界の民の中からイスラエルの民、ユダヤ人をお選びになられ、この民と契約を結ばれ、この民にみ言葉をお語りになって、ご自身の救いのみわざを始められました。この神の選びの秩序は重んじられます。パウロはすでに16節以下の説教でもそのことを語っていました。【17節】。46節では、「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした」と言われていますが、「はずである」と訳されているギリシャ語は、本来は「ねばならない」という強い意味を持つ言葉であり、神の強い意志と永遠のご計画を意味しています。

 ところが、彼らユダヤ人は神から与えられた特別の恵みを拒否し、自ら投げ捨ててしまったのです。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主であられる主イエスを受け入れず、十字架につけて処刑することによってそのことが明らかになりました。そして、今またパウロたちが語った主イエスの福音を受け入れず、その活動を妨害しようとしていることによって、いよいよユダヤ人のかたくなさと罪とが明らかにされたのです。

 彼らユダヤ人には「永遠の命」を約束されていました。彼らが主イエスを救い主と信じて、主イエスの福音を受け入れるならば、約束されていた永遠の命が彼らに与えられるはずでした。しかし、彼らは最後の目標の前でつまずき、神の恵みを拒絶し、自らを滅びの道へと誘いこんでしまったのです。

 けれども、イスラエルの民・ユダヤ人が神の救いの恵みを拒絶したことによって、神の救いのみわざそのものが終わってしまうのではありません。いやむしろ、イスラエルのかたくなさによって、主イエス・キリストによって与えられる永遠の命への道が、異邦人にも開かれるようになったのだと、パウロが語ります。

 47節に引用されている旧約聖書のみ言葉は、イザヤ書49章6節と思われます。イザヤ書49章1~6節は、イザヤ書の中で特別に重要な意味を持つ「主の僕(しもべ)の歌」と言われている4つの歌の中の第二の歌です。その箇所を読んでみましょう。【49章1~6節】(1142ページ)。この歌で、神から直接に「わたしの僕(しもべ)」と呼びかけられているのが、神によって特別な使命を託されて選び出された「主の僕」です。この主の僕は「いたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たし」たけれども、しかし、それによって主の僕は諸国民の光としての務めを果たし、神の救いを地の果てにまで、全世界へと告げ知らせるようになると預言されています。

 実は、このイザヤ書のみ言葉は、ルカ福音書2章28節以下では、エルサレムの神殿で、幼な子・主イエスを抱き上げたシメオンが語った言葉の中にも引用されています。シメオンはイザヤが預言した主の僕が今エルサレム神殿に現れたのだと告白しています。パウロもまたイザヤ書に預言されていたこの主の僕こそが主イエス・キリストのことであると理解し、それゆえに主イエスの福音が今や自分たちによって異邦人へと、全世界のすべての民へと宣べ伝えられるのだと語っているのです。

 わたしたちがこれまで使徒言行録を読んできて何度も見てきたことでしたが、主イエスの福音がユダヤ人だけにではなく、ユダヤ人以外の異邦人にも宣べ伝えられ、彼らもまた主の教会の民へと加えられていったことを確認してきましたが、今やここでよりはっきりと、ユダヤ人からの迫害をきっかけにして、パウロが異邦人の使徒パウロとしての自覚をいよいよ強くし、異邦人に主イエスの福音を宣教する使命をより強く決意させたのでした。

 【48~49節】、ユダヤ人たちのつまずきと不信仰にもかかわらず、またそれによってより激しくなるユダヤ人による迫害にもかかわらず、神のみ言葉が前進していきます。新しい救いと命とを生み出していきます。

 パウロたちは反対者たちの迫害によって、アンティオキアの町を追い出されることになりました。しかし、52節にはこう書かれています。【52節】。ここには、主イエスの福音を聞いて信じた人たちが「弟子たち」と呼ばれ、ユダヤ人会堂からは独立して、主イエスの教会を建てたことが暗示されています。神の言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはなく、新しい弟子たち、新しい信仰者たちを誕生させ、新しい教会を生み出していくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのご計画は、この世の反対や不信仰にもかかわらず、いつの世にも、力強く前進していくことをわたしたちに信じさせてください。その希望をもって、どのように困難は時代にあっても、み言葉を宣べ伝える務めにいそしむことができますように、わたしたちを支え、導いてください。

〇主なる神よ、重荷を負っている人、試練の中にある人、病んでいる人、道に迷っている人を、どうぞあなたが助けてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とが、この世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月9日説教「わたしたちの罪をゆるしてください」

2025年3月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編130編1~8節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちの罪をゆるしてください」

 ルカによる福音書11章で教えられている主の祈りをテキストに学んでいます。きょうは4節の、「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも……赦しますから」、この主の祈りの後半の二つ目の祈りについて学びます。マタイ福音書6章では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と、ルカ福音書とは少し違っている個所があります。マタイ福音書をテキストにした式文の「主の祈り」では、「我らに罪を犯す者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」となっています。それぞれの違いについては、のちほど説明をします。

 すでに学んできましたように、主の祈りの後半の初めで、わたしたちの日々のパンについての祈りがまず挙げられていました。わたしたちはパンなしでは生きていけない、肉なる者であり、飢え乾く者、弱い存在であることを、まず自覚させられます。しかし、そのような肉なる者、弱い存在であるからこそ、その命を支えてくださる主なる神に、熱心にパンを求める祈りをささげるように、主イエスは教えておられます。

そして、ここで注目したいことは、後半の最初の祈りであるパンを求める祈りと、次の罪のゆるしを求める祈りの間に、日本語では訳されてはいませんが、「そして」という接続詞(ギリシャ語ではカイという言葉です)があって、二つの文章をつないでいるのです。

このことは、二つの文章が関連性を持っていることを意味しています。わたしたち人間がこの地上で肉体の命を維持していくためにはパンを必要としているように、わたしたちが神から与えられている霊の命を維持していくために、罪のゆるしを必要としているということを、わたしたちはここから教えられるのです。わたしたちがきょう生きるために「主よ、きょうのパンをお与えください」と、真剣に祈るように、それと同じ真剣さと、現実性と、緊急性とをもって、「主よ、わたしの罪をおゆるしください」と祈るべきだと、主イエスは言われるのです。わたしの肉体が生きていくためにパンを必要としているのとまったく同様に、わたしの魂が生きていくために常に罪のゆるしを必要としているのです。そしてまた、主なる神はきょうの体の命のためにわたしにパンを備えてくださり、わたしの魂の命のために罪のゆるしをお与えくださると、主イエスは約束しておられるのです。

パンを求める祈りと罪のゆるしを求める祈りとが密接に関連しているもう一つの重要なポイントは、わたしたちはこの二つの祈りをいずれも神に向かって祈るのだということです。天の父なる神に向かって、「どうぞ、パンをお与えください」と祈り、同じ神に「どうぞ、罪をおゆるしください」と祈るのです。

パンを求めるために、食料を提供してくれる生産者とか食料を販売している店に行きなさいと、主イエスは言われたのではありません。パンを手に入れるために熱心に働きなさとお命じになったのでもありません。天の父なる神に、あなたのパンを求めなさいとお命じになられたのです。なぜ、パンを神に求めるべきなのか、その隠された理由を、わたしたちはここで教えられるのです。

 それは、天の父なる神こそがわたしたち人間の罪をゆるすことができる唯一のお方だからです。そして、事実、わたしたちの罪をゆるすためにご自身のみ子を十字架に犠牲としておささげくださったからです。ご自身の一人子さえも惜しまれずに、わたしたちの罪のゆるしのためにみ子をおささげくださった方は、み子のみならず、万物をもお与えくださるのは当然だからです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。それゆえに、わたしたちの罪をおゆるしになる神にこそ、「きょうのパンをお与えください」と祈るようにと命じられているのです。

 では次に、罪のゆるしの祈りは、キリスト教信仰の中心的な主題であることについて考えてみましょう。キリスト教は他のどの宗教よりも、人間の罪を問題にし、その罪のゆるしこそがわたしたちの本当の救いであると教えています。また、罪のゆるしは主イエスのご生涯全体、その説教、みわざ全体とも関連しています。主イエスの誕生から十字架の死と復活に至るまでのすべてが、わたしたちの罪のゆるしのためであったと言うことができるでしょう。

 わたしたちが主イエスの誕生の時にクリスマスのメッセージとして聞く、マタイ福音書1章21節のみ言葉はこうです。「マリアは男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。また、主イエスは中風の人をいやされたあとでこのように言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪はゆるされる」(マタイ福音書9章2節)。そして、マタイ福音書9章13節では、主イエスはこのように言われました。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」と。さらに、主イエスは十字架の上でこう祈られました。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのかを知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と。最後に、復活されて弟子たちにそのお姿を現された主イエスはこう言われました。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」ルカ福音書24章46~48節参照)と。

 このように、罪のゆるしは主イエスのご生涯の中心であり、また全体です。それはキリスト教信仰の中心です。主の祈りが主イエスの福音の要約であると言われるのは、まさにそのとおりです。わたしたちが「我らの罪をゆるしたまえ」と祈ることによって、わたしがキリスト者であるということをまさに自覚し、告白するのです。

 それでは、罪とは何か、また罪のゆるしとは何かという、より中心的なテーマに入りましょう。キリスト教は人間の罪を最も真剣に取り上げ、問題にします。また、罪のゆるしを救いの中心とします。でも、一部の人はそれが日本でのキリスト教の成長を妨げていると言います。人間の罪という、いわば暗い、じめじめしたテーマを表に出さないで、人間の理想とか可能性、人生の幸せとか喜びの方を強調する方が、教会に人が集まるのにと言う人がいます。実際、そのようなことを説く新興宗教や人間開発セミナーのような集会に多くの若者が集まったりします。

 しかし、わたしたちはそのような意見には賛成しません。もし、教会が罪と救いを抜きにした別のテーマを掲げて人集めをしたとしても、それは真実の教会形成にはならないからです。もし、教会が罪を語らず、罪のゆるしを語らなくなれば、主イエスがこの世においでになられたことは無意味になりますし、主イエスの十字架の死も復活も、すべてが無意味になってしまうからです。

 むしろ、わたしたちはこう考えるべきでしょう。人間の罪について真剣に考えることが少ない日本だからこそ、罪について、丁寧に、また力を込めて語らなければならないでしょう。罪の意識が薄く、罪のゆるしを真剣に求める人が少なく、それよりは、人生の幸福とか繁栄、健康といったものを求めるに熱心なこの国の人たちに対して、正しく人間の罪について語り、罪のゆるしの福音のすばらしさを語らなければならないでしょう。罪のゆるしを願い求める祈りの重要さを語らなければならないでしょう。罪のゆるしの福音こそが、わたしたちの本当の救いであり、命であり、祝福なのだということを語らなければならないでしょう。

 さて、聖書で罪という言葉は、旧約聖書が書かれているヘブライ語でも、新約聖書が書かれているギリシャ語でも、元来は「的を外す」という意味を持っています。この言葉は罪の本質というものをよく言い表していると言えます。的とは、神に向かうことです。人間は神によって創造され、神と共に歩む者、また隣人と共に歩む者として創造されました。けれども、人間はその神に背き、神から離れて生きる罪びととなりました。人間が一生懸命に、努力して生きようとすればするほど、人間は気づかないうちにますます神から離れ、的から離れて、罪に落ちていくしかありません。また、的からそれている人間の歩みは、神から離れるだけでなく、そのすべてが、隣人との関係においても、社会生活においても、自然との関係も、すべてがゆがんでいくしかありません。聖書は、そのような罪の人間の歴史を描いています。人間はだれもがみな、的から外れ、罪と死と滅びへと向かっていると聖書は教えています。

 そのような人間の罪は、負債という言葉でも表現されます。ルカ福音書11章では、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」となっていますが、マタイ福音書6章12節では、「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも負い目のある人を赦しましたように」と、前半でも後半でも「負い目」(これは負債という意味ですが)という言葉を用いています。罪と、負い目(負債)は全く同じ意味と考えてよいでしょう。

 負債とは借金のことです。つまり、わたしたち人間は神に対して負債を負っている、借金がある、神に返すべきものを返していない、むしろ日々に借金を増やしているというのです。この考え方の背景には、人間は本来、神から多くの恵みと賜物とをいただいている、そうであるのに、その恵みに気づかず、気づこうともせず、それゆえに感謝もせず、神の恵みに応えることをせず、かえって神から与えられた恵みを自らの欲望のままに浪費している。本来神からいただいたものである恵みを、自らの手で獲得したものだと主張し、いよいよ神から奪い取っている。だから、それは神に対する無限の負債なのだという考えです。

 わたしたちはここから、神に対する人間の罪と負債がいかに大きいかということを教えられるのですが、また同時に、わたしたち人間にはすでに神からの多くの恵みが与えられているのだということにも気づかされるのです。「我らの罪をゆるしたまえ」と祈るときに、わたしたちがすでに神から多くの恵みを与えられており、今また主イエス・キリストの十字架の福音によって、すべて信じる人に与えられている罪のゆるしの恵みがいかに大きいかということを、わたしたちは知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは罪の中で滅びようとしていたわたしたちを顧みてくださり、わたしたちを罪から救うために、み子の尊い十字架の血を流されるほどにわたしたちを愛してくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちが再び罪の奴隷のくびきにつながれることがありませんように、あなたから与えられた罪のゆるしの恵みに、心からの感謝をささげて、その恵みの応答し、あなたと隣人とに喜んでお仕えする者となりますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とがこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月2日説教「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

2025年3月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記5章1~23節

    ローマの信徒への手紙9章6~18節

説教題:「モーセとエジプト王ファラオとイスラエルの民」

 イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すという、神の大いなる救いのみわざに仕えるために、神の召命を受けたモーセは、兄弟のアロンと一緒にエジプトの王ファラオのもとへと出かけていき、王に直接に自分たちの要求を申し出ました。出エジプト記5章1節を読みましょう。【1節】。

 エジプト王ファラオは絶大な権力を持っていましたので、奴隷の民であったヘブライ人のモーセとアロンが、簡単に面会ができたかどうかという疑問は残りますが、モーセは生まれてから40年間は王宮でファラオの娘の子として育てられたということが2章に書かれていましたから、そのような王宮との関係があったから、容易に面会できたのかもしれません。

 とは言っても、奴隷の民の一員であったモーセとアロンがファラオの前に立つのには、大きな勇気がいることであったことは間違いありません。しかも、モーセは2章15節に書かれてあったように、エジプト人の監督を殺したことでその当時の王から命を狙われていましたから、自らの命の危険を覚悟しての行動でもあったのです。

 にもかかわらず、モーセもアロンも少しも恐れずにファラオの前に立っています。そして、自分たちの要求を申し出ています。それは、自分たちの要求と言うよりは、イスラエルの主なる神のご計画でした。また、前の3章と4章で何度も繰り返して語られていた、神の約束があったからにほかなんりません。3章12節で神はモーセにこのように言われました。【12節】(97ページ)。4章12節では、【12節】(99ページ)。主なる神がモーセと共にいてくださる。主なる神が彼に語るべき言葉を授けてくださる。そして、語る勇気と力をお与えくださる。それゆえに、彼らは少しも恐れることなく、ファラオの前に立ち、語ることができたのです。

 モーセとアロンは、「イスラエルの神、主がこう言われました」とファラオに告げています。彼らは自分たちの意見とか願いを言うのではありません。神が語れとお命じになった言葉を語るのです。神の命令は、3章18節にもう少し詳しく語られていました。【18節】(97ページ)。5章3節でも同じように語られています。【3節】。

 「荒れ野への3日の道のり」とは、おそらくシナイ半島のホレブの山、シナイ山を指していると思われます。とすれば、神が計画しておられたのはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出し、彼らを「乳と密の流れる土地」、族長たちに約束されたカナンの地へと導き上ることであったのか。それとも少しの間だけ、シナイ山で神を礼拝するために一時的な自由を与えることが、当初の神の計画であったのか。これまで読んできた出エジプト記の記述では、その両方の理解が可能です。あるいは、エジプトからの解放と新しい土地への導きが神の最終的な計画であったのだが、ファラオに初めからそのように要求したら拒否されることが分かりきっていたから、神を礼拝するための一時的な自由を、はじめに要求したと考えられるかもしれません。

 いずれにしても、ここで重要なことは、イスラエルの真の解放、救いとは、ただ単にエジプトの国から政治的、経済的に独立することにあるのではなく、また苦しい労役から解放されることでもなく、イスラエルが神を礼拝する民になるということ、このことこそが彼らの真の解放であり、救いなのだということ、神はそのことを目指しておられたのだということです。

 モーセとアロンの要求に対して、それがイスラエルの主なる神の要求であるとしても、エジプト王ファラオの答えは当然このように予想されます。【2節】。エジプトではファラオは神の子と考えられ、エジプトの最高神である太陽神アトンの化身として、絶対的権力を持っていました。そのファラオがイスラエルの神が言うことに服従するのは、ファラオの神の子としての地位を失うことでもあったので、モーセとアロンの要求に答えることはできません。ファラオはイスラエルの神をも否定します。

わたしたちはここで、主なる神を中心として、三つの立場の違ったグループが取り巻いている構図を見ることができます。一つのグループは、神の救いのみわざのために選び出され、神の使者として仕えているモーセとアロン、二つ目のグループはモーセとアロンの要求を聞いて、それを拒否するエジプト王ファラオとその民、三つ目のグループはエジプトでの重労働に苦しんで、神に助けを呼び求めているイスラエルの民、この三者によって、これから神の救いのみわざが行われていくことになります。

まず、モーセとアロンに焦点を当ててみましょう。彼らはエジプト王ファラオの前では奴隷の民の一員にすぎません。何の力も権力をも持ってはいません。しかし、彼らはこの世の権力を決して恐れていません。神が彼らと共におられるゆえに、彼らは固く立つことができます。彼らが神の救いのみわざに仕えるときに、神は必要な勇気と語るべき言葉を彼らに与えられます。彼らが主なる神の命令に従うとき、彼らはこの世のいかなる権力をも恐れません。恐れる必要はありません。

次に、エジプト王ファラオを見ていきましょう。ファラオはここでモーセ、アロンと面会しています。でも、ファラオ自身もすでに最初から気づいていたように、彼はイスラエルの主なる神と対峙しているのです。というのも、モーセとアロンは主なる神のみ名によって語っているからです。3節後半では、神の要求を拒むならば、ファラオに対して神の厳しい裁きが降るであろうとも語られています。ファラオはイスラエルの主なる神のみ前で決断することを迫られているのです。

ファラオはどのように決断するでしょうか。【4~9節】。ファラオはモーセとアロンの要求を拒みます。イスラエルの神の命令をも拒絶します。かえって、奴隷の民に、より厳しい労働を強いるように命じます。このファラオの反応をモーセたちの行動と比較してみたらどうでしょうか。ファラオは明らかにモーセたちを恐れています。彼らが信じ、従っているイスラエルの主なる神を恐れています。奴隷の民イスラエルの数が増えていることを恐れています。彼らの労働力が失われることを恐れています。彼の神の化身としての地位が脅かされていることを恐れています。この世の権力を誇り、それにしがみつこうとする者はみなこのように、恐れるに値しないものを恐れざるを得ません。

それにしても、ここでファラオが語っている言葉に、今日わたしたちが様々なところから聞く声と共通点があることに気づかされるのです。「おまえたちは怠け者だ。おまえたちは働きたくないから、自分たちに神を礼拝する時間を与えてくれなどと言うのだ」(8節参照)。17節でもファラオはこう言います。「この怠け者めが。お前たちは怠け者なのだ。だから、主に犠牲をささげに行かせてくださいなどと言うのだ」と。神なき世界に住むこの世の多くの人たちがこのように言うのを、わたしたちはしばしば耳にするのです。モーセの時代、今から3千年以上も前のエジプトにあっても、今日のこの国やこの世界の神を知らない人たちの中にあっても、わたしたちは同じような声を、至る所で聞くのです。国の政治の指導者たちから、経済界のリーダーたちから、あるいは職場の上司や同僚から、時に家族から、もしかしたらそれは自分自身にささやく内なる声であったりもするのです。わたしたちはいたる所で、あらゆる時に、あらゆる機会に、同じような誘惑の声、ささやきの声として、時に厳しい命令として聞くのです。わたしたちはどのようにしてそのような誘惑や試練と戦うのでしょうか。どのようにしてその戦いに勝利するのでしょうか。

一方には、神のみ心と招きに応えて、神を礼拝する生活を中心に据えて生きる神の民がおり、他方には、レンガ造りに汗を流し、高いビルを建設することを生きがいとする神なき民がいて、神を礼拝することを非生産的で、愚かな時間つぶしとみなし、宗教よりはミサイルや爆弾が大事で、信仰よりもパンの方が先と考え、神礼拝よりも日曜日の行楽が重要だと考える人たちがいる。しかも、後者の方が圧倒的な多数を占めるわたしたちの社会にあって、さて、モーセとアロンは、そしてわたしたちはいったいどうするのでしょうか。

ここで、先に挙げた主なる神を中心にした三つの目のグループ、イスラエルの民について見ていきましょう。モーセたちの申し出に反対したファラオは、イスラエルの民により過酷な重労働を強いるようになりました。それまでは、レンガに入れるわらはエジプト側から提供されていましたが、これからはわらも自分たちで集め、しかもレンガの生産量は少しも減らすなという命令をファラオは与えました。

奴隷の民イスラエルは、モーセたちのおかげで自分たちがより厳しい労働を強いられるようになったことを知り、二人を激しく非難します。【21節】。モーセとアロンは異教の王ファラオとの戦いには勝利することはできても、同胞の民イスラエルの不信仰との戦いには勝利することはできるのでしょうか。さて、モーセとアロンはいったいどうするのでしょうか。

22節の冒頭に、「モーセは主のもとに帰って、訴えた」と書かれています。モーセは彼を遣わされた神のもとへと帰ります。神の約束のみ言葉へと立ち返ります。神の約束のみ言葉こそが彼の出発点であり、また彼が目指すべき目的地点でもあるからです。神はモーセに再び神の使命に生きる道を備えてくださり、その使命を果たすために新しい約束をお与えくださいます。6章以下でそのことが語られます。

わたしたちもまた、わたしの歩みの出発点である礼拝から始め、またそこへと戻っていきます。たとえ、この世にあってのわたしたちの信仰の戦いがどれほどに厳しく、労苦が多いものであったとしても、わたしたちは帰るべき礼拝という場所があるのです。また、そこから新しい歩みを始めることが許されているのです。

奴隷の民イスラエルにとって、神礼拝こそが奴隷の家からの解放と救いへと向かう確かな道であったように、わたしたちにとっては神礼拝こそが主イエス・キリストの十字架と復活の福音による罪の奴隷からの解放と救いへと向かう唯一の道なのです。イスラエルの民が奴隷の家エジプトで腹いっぱいに肉鍋を食べることができたとしても、そこには真の救いも慰めもなく、真の喜びも祝福もないように、わたしたちにとって主イエスによる罪のゆるしがないならば、どんなにレンガを高く積み上げても、ミサイルやロケットを飛ばしても、そこには真の平和も共存もなく、真の喜びも祝福もありません。神礼拝こそが、わたしたちが目指すべき目的地であり、またわたしたちが生きるべき真実の命の道への出発点なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子の尊い十字架の血によってわたしたちを罪の奴隷から救い出してくださいましたことを感謝いたします。この大きな喜びと感謝と祝福とを、いよいよわたしたちに増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月23日説教「終わりの日に備えて生きる」

2025年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(40)

聖 書:マラキ書3章19~24節

    マタイによる福音書24章29~44節

説教題:「終わりの日に備えて生きる」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の4段落目の文章、「教会は」から始まる文章では、キリスト教教理で「教会論」と言われる教理が告白されていますが、その終わりの部分、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」。この箇所はキリスト教教理では「終末論」と言われます。終末論とは、終わりの日、終わりの時、最後のことに関する教えです。キリスト教の時の理解は、時には初めがあり、終わりがあるという理解です。これと対比されるのが、一般的に言われる輪廻思想です。輪廻思想では時の流れは円周のように、またはらせん状のように繰り返しますから、はじめも終わりもありません。キリスト教では、聖書の構造がそうであるように、初めに神の天地創造があり、終わりに神の国の完成であるヨハネの黙示録があることからも分かるように、すべての時の初めがあり、そしてすべての時の終わりがある。そして、そのすべての時を神がご支配しておられるというのが、キリスト教の時の理解です。

 では、わたしたちの『信仰告白』では、終末論はどのように取り扱われているのかを次に見ていきましょう。最初にも言いましたように、『信仰告白』の前文では、大きな項目の「教会論」と言われている教理の中で、終末論が取り扱われています。『信仰告白』の後半の『使徒信条』では、第2項の「キリスト論」の中の最後で、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」と告白されている個所が終末論になります。また第3項の「聖霊論」あるいは{教会論}の中では、「体の復活、永遠のいのちを信じます」も終末論に属します。『使徒信条』では「キリスト論」と「聖霊論」の中で「終末論」が取り扱われているということが分かります。このように、終末論はいずれの場合にも、それが単独で論じられているのではなくて、「教会論」の中で、「キリスト論」「聖霊論」との関連の中で語られているのです。

 その理由は、おそらくは他の諸宗教で一般的に論じられる終末論と混同されることを避けるためであろうと推測されます。いつの時代でも、世界や社会が混乱し、世情が不安定になってくると、さまざまな終末論が盛んに論じられるようになります。世紀末の終末論と言われたりします。しかし、キリスト教の終末論は、世界や社会の動向には左右されず、聖書そのものから導き出された終末論ですから、それらの一般的な終末論と混同されないように、キリスト教教理全体との関連の中で、創造論やキリスト論、救済論、教会論、聖霊論との関連の中で、終末論を考えることが重要になります。

 では次に、『日本キリスト教会信仰の告白』で終末論が教会論の中で告白されていることの意義について考えていくことにしましょう。「終わりの日に備えつつ、主が来られるの待ち望みます」。この文章の主語はこの段落の冒頭にある教会です。つまり、教会とは、終末の時に備えて生きている信仰者の群れであり、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるキリスト者の群れであるということが告白されているのです。一般的に、キリスト教の終末論とは何かとか、わたしたちがどのような終末信仰を持つべきだとかが教えられているのではなく、教会とは、また教会に集められているわたしたち一人一人は、そもそも終末論的な共同体であり、終末論的な存在なのだということが告白されているのです。

 教会はこの世に建てられています。今の時代の中で、今のこの場所に生きています。しかし、教会は今のこの世を基準にして生きているのではありません。今のこの時代にある目標を目指して生きているのではありません。教会は終末の時に備えて、終末の時に完成される神の国を基準にして、それを目標にして生きています。教会は終末論的存在であり、終末論的共同体なのです。

 ヘブライ人への手紙11章では、旧約聖書の族長たちもまたそのような終末論的な信仰を持ち、終末論的な信仰に生きていたということが語られています。11章13節以下を読んでみましょう。【13~16節】(415ページ)。族長たちはアブラハムもヤコブもイサクも、だれもまだ神の約束の地を実際には取得してはいませんでしたが、神の約束の言葉を信じながら、地上では旅人、寄留者として信仰の歩みを続けました。この手紙の著者はその彼らの信仰を、彼らがこの地上をはるかに超えた「天の故郷を熱望していた」からだと言います。そして、神は彼らに確かに天の都を用意しておられたのだと言います。フィリピの信徒への手紙3章20節で使徒パウロはこう書いています。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」と。わたしたち教会の民は、終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ、神の約束の言葉によって今すでに神の国に生きている者として、この地上では旅人、寄留者としての信仰の歩みを続けるのです。

 わたしたちが天に本来の国籍を持ち、地上では旅人、寄留者として生きるとは、具体的にどのような生き方を言うのでしょうか。第一には、わたしたちがこの世で見たり経験したりするすべての出来事、すべての現象は、それは最後の究極的なものではなく、それらは過ぎ去り行くもの、暫定的なものであり、途中のものであるということを、わたしたちに悟らせるのです。なぜならば、終わりの日に、神の国が完成されるときにこそ、最後のもの、究極的なものが現れるからです。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙7章29節以下で、「定められた時が迫ってきている。だから、今持っている人は持っていない人のように、今泣いている人は泣かない人のように、今喜んでいる人は喜ばない人のように、今この世とかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。なぜならば、この世のありさまはみな過ぎ去るからです」と言っています。

 したがって、終末信仰に生きる人は今の現実によって束縛されることはありません。たとえ、わたしが今この世で絶望とどん底に突き落とされたような艱難や災いにあうとしても、それがわたしの最終的は敗北でも最後でもありません。あるいは、たとえわたしがこの世のすべての繁栄と名誉とを手に入れることができたとしても、それがわたしの最終的な勝利でも幸いでもありません。最終的な判断は、終わりの日に、最後の審判者であられる主イエス・キリストが羊と山羊とを右と左に分けるように、すべての人を救いと滅びにお分けくださるのですから、その時まで待たなければなりません。

 それと同時に、たとえわたしが絶望の淵に突き落とされるようなときにも、わたしはなおも再び立ち上がり、わたしの救い主であられる主イエス・キリストに向かって頭を高く上げ、すべての艱難や災いをも忍耐強く耐え忍ぶことができるのであり、あるいはわたしがどれほどの繁栄を手に入れようと、それに頼ることなく、主イエス・キリストのみ前に謙遜にお仕えしていくことができるのです。

 終わりの日に備えて生きるキリスト者の生き方の第二の特徴は、未来に向かって常に目覚めていることです。ローマの信徒への手紙13章で、使徒パウロはこう言っています。「更に、あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。」(11~12節)と。終わりの日に備えて生きる信仰者は、たとえ今がどんなに暗い闇に閉ざされていても、夜明けが近いことを知っているゆえに、眠っていることはできません。目覚めて朝を待つのです。

 また、主イエスは小黙示録と言われるマタイによる福音書24章、25章の終わりの日についての説教の中で、繰り返して「目を覚ましていなさい」と呼びかけておられます。24章42節では、「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られられるか、あなたがたには分からないからである」。また、25章13節でも、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」

 目を覚ましているとは、過ぎ去り行くこの世からは目を離して、永遠に変わることのない主イエスのみ言葉を聞きながら、終わりの日の主の再臨を待ち望んでいることです。主イエスが再びおいでになるときには、主の約束のみ言葉はすべて主ご自身によって成し遂げられるでしょう。その時には、わたしたちの救いは完成し、永遠に主なる神がわたしたちと共にいてくださり、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)神の国での永遠の命をわたしたちに授けてくださるでしょう。

 主イエスがマタイ福音書24章、25章で教えておられる、終末に備えて生きる生き方の特徴の第三は、主イエスから託された務めを忠実に果たすということです。目覚めるとは、単に目を覚まして起きていることではありません。主イエスがいくつものたとえ話で教えておられるように、旅に出る前にご主人から託された務めを忠実に果たす僕(しもべ)であるということです。24章45~47節を読んでみましょう。【45~47節】(49ページ)。このたとえでは、家の主人が留守の間、家の使用人たちに時間どおりに食事を与える務めを僕に託したことが語られています。また、25章14節以下では、旅行に出る主人が僕たちにタラントンを預けるたとえが語られています。

 主イエスは復活されてから40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされたあとで、天に昇られました。その際に、弟子たちに務めをお与えになりました。マタイ福音書28章19節以下ではこのように命じられています。【19~20節】(60ページ)。また、使徒言行録1章8節ではこのように命じられています。【8節】(213ページ)。わたしたち教会の民は主イエスから託された福音宣教の務めを果たしながら、終わりの日に備えて、再び来られる主イエス・キリストを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地万物を創造されてお始めになったこの世界の歴史を、あなたは終わりの日の完成に向かって、この日もまたみ心のままに進めてくださいます。あなたの救いのご計画は、どのような人間たちの罪や不信仰によっても、決して変更されることも止まることもありません。どうかわたしたちがそのことを固く信じて、どのような困難な時代にあっても、あなたの忠実な僕として、あなたから託されている務めをこの日もまた果たしていくことができますように、聖霊の導きをお与えください。

〇主なる神よ、この世界にあなたの義と平和とが実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月16日説教「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたしたちに与えられた」

2025年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録13章26~41節

説教題:「イスラエルに与えられた神の救いの言葉は主イエスによってわたし

たちに与えられた」

 使徒言行録に記録されている初代教会の説教は、2章のペンテコステの日のペトロの説教をはじめ、7章の殉教者ステファノの説教も、そして今学んでいる13章のパウロの説教も、すべては同じ構造になっています。つまり、まず旧約聖書に描かれている神の救いのみわざが語られ、次にその旧約聖書の神の救いのみわざが、主イエス・キリストによって今ここで最終的に、完全なかたちで、成就している、神の救いが完成している、と語っています。今日のわたしたちの言葉で表現すれば、旧約聖書は来るべき主イエス・キリストを預言し、待ち望んでいる旧約聖書の民イスラエルの救いの歴史であり、新約聖書は預言と約束の成就としてこの世においでになられた主イエス・キリストの十字架と復活によって、神の救いのみわざが今や全世界のすべての人々の救いの出来事として、その最終目的に達したことを語っている。そのようにまとめることができるでしょう。

 きょうの箇所で説教者パウロは、旧約聖書の出エジプトの出来事から始まるイスラエルのすべての救いの言葉が、主イエスの直前に現れた洗礼者ヨハネの登場を経て、今やこの世においでになった主イエス・キリストによって、この時代に生きるわたしたちに送られている神の救いの言葉であると、26節で語ります。【26節】。「アブラハムの子孫の方々」と「神を畏れる人たち」という呼びかけは、説教の冒頭の16節にもありました。この呼びかけもまた、主イエス・キリストによって成就された救いの完全性を言い表しています。「アブラハムの子孫」とは、神に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人のこと、「神を畏れる人たち」とは、まだ正式にユダヤ教には改宗していないが、旧約聖書の神をあがめ、聖書の言葉の真理を信じている、ユダヤ人以外の信奉者のことです。すなわち、選ばれて民ユダヤ人だけでなく、他のすべての人々、異邦人と言われる全世界の人々も、主イエスの福音によって、神の救いの恵みへと招き入れられているということを、この二つの呼びかけは意味しているのです。

 次にパウロは27節以下で、主イエスご自身によって成就された救いの出来事について語ります。パウロの説教の内容を順にみていくと、27~28節では、ユダヤ人指導者たちによる主イエスに対する偽りの裁判と十字架による処刑のこと、29節では主イエスの墓への葬り、30節では主イエスの復活、31節では、復活された主イエスがそのお姿を弟子たちに現わされた復活の顕現、そして32節では、教会による主イエスの福音の宣教活動へと続きます。これを見ると、パウロの説教はわたしたちが今日、礼拝で告白している『使徒信条』の内容とほとんど一致していることに気づきます。『使徒信条』では、「主は……ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちより復活し……」と告白されています。パウロの説教の内容とほとんど一致しています。

 パウロの第一回世界伝道旅行でのこの説教は、紀元40年代の後半と考えられています。『使徒信条』がまとめられたのは紀元3~4世紀ころと推測されますから、パウロのこの説教から2、300年の初代教会の神学的な研鑽の時を経て、今日の『使徒信条』が完成したと言えます。パウロのこの説教が『使徒信条』が形成されていく一つの原形となったのかもしれません。

 では、この箇所でのパウロの説教の特徴をいくつか見ていくことにしましょう。27~29節までの、主イエスのご受難を語る箇所の主語は、27節冒頭の「エルサレムに住む人々やその指導者たち」です。彼らが、主イエスに対する妬みや憎しみ、誤解や不信仰によって、主イエスを偽りの裁判で裁き、主イエスには死に値する罪を全く見いだせなかったにもかかわらず、ローマ総督ピラトに頼み込んで、死刑の宣告をしてもらい、主イエスを十字架につけ、そして主イエスのお体を十字架から降ろし、墓に葬りました。それらの行為のすべての主人公は、彼らエルサレムの指導者たちです。彼らは、神から遣わされたメシア・救い主である主イエスを受け入れず、拒絶するという大きな罪を犯しているのですが、彼ら自身はまだそのことには気づいてはいませんでした。

 この箇所の文章の主語はすべて「彼ら」です。しかし注意深く読むと、そこには隠された神のみ心が働いていたことをパウロは何度も語っているのです。27節では、「(彼らは)預言者の言葉を理解せず、……その言葉を成就させたのです」と言われています。29節では、「イエスについて書かれていることがすべて実現した」とも言われています。彼らユダヤ人指導者たちの無理解と不信仰という罪の中で、しかし旧約聖書に預言されていた神の言葉が不思議にも成就されていき、神の救いのみ心とご計画が成就されていったのだと、パウロは強調しています。

 主イエスのご受難の歩みにおいて主導権を握っているのは、彼らユダヤ人指導者ではなく、ピラトでもなく、十字架の下で主イエスをあざ笑っていた民衆でもなく、主なる神の言葉なのです。神がお遣わしになったメシア・救い主を受け入れない彼らユダヤ人たちの無理解やかたくなさの中で、罪のない神のみ子を裁こうとした人間の傲慢や罪の中で、そのすべてを貫いて、神の救いのみ心が行われ、神の言葉が実現されていったのです。

 パウロの説教のもう一つの特徴は、30節から突然に主語が変わり、「しかし、神は」という、力強い言葉で始められていることです。【30節】。ある人は、これは「偉大なる、しかし、だ」と表現しています。人間たちの考え、行動、歩み、歴史、そのすべてが罪に傾いて、罪に向かって進んでいくときに、「しかし、神は」という言葉が、その罪の歩みをとどめ、罪と死から人間を救い出す、神の命の言葉が語られていくのです。天地万物を創造された全能の神、無から有を呼び出だし、死から命を生み出される神が、主イエスを死者の中から復活させてくださったのです。そのようにして、新しい人間の歩みを、世界の新しい歴史を、神は始めさせてくださるのです。

 30節で語られている「しかし、神は」という、強い響きを持った言い方が、このあとも余韻を残しながら繰り返されています。33節では、「神はイエスを復活させ」、34節でも「イエスを死者の中から復活させ」、そして37節では、「神が復活させたこの方は」と、神が主イエスを復活させたことが3度も強調されて繰り返されているのです。まさに、神は死から命を生み出される神であられます。罪と滅びから救いと新しい歩みを始めさせてくださる神です。主イエスを死から復活させてくださった偉大なる神は、わたしたち罪びとをも、罪と死と滅びから救い出してくださることを信じる信仰へと、わたしたちは招き入れられているのです。

 30節から始まる神の新しい救いのみわざの展開を見ていきましょう。31節では、主イエスの復活の顕現と、神が主イエスの復活の証人たちをお立てくださったことが語られています。復活された主イエスは、12弟子をはじめ、ガリラヤやエルサレムで主イエスに従った多くの信仰者たちに、40日間にわたってご自分のお姿を現されました。十字架で死なれた主イエスが確かに復活されたことを多くの人々にお示しになりました。彼らが主イエスの復活の証人として立てられ、教会が形成されたのです。教会は彼ら復活の証人たちの証言を土台にして建てられています。教会は彼らの証言を信じる信仰によって、その後も生き続けています。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないで信じる人は幸いである」と言われました。わたしたちは主イエスの復活のお姿を直接に見てはいませんが、初代教会の彼ら目撃証人たちの証言を聖書で聞き、主イエスの復活を信じる幸いへと招かれているのです。

次の32節も、主イエスの復活の証人たちの働きについて語っています。【32節】。ここでは、復活の証人たちの宣教の働きについて語られます。彼らが復活の証人として立てられたのは、彼らが次の世代の人々に主イエスの十字架と復活の福音を宣べ伝えるためなのです。

「証人」という言葉が使徒言行録全体で非常に重要な意味を持つ言葉として繰り返して用いられていることをもう一度確認しておきましょう。最初は1章8節です。【8節】(213ページ)。次に、1章22節では、イスカリオテのユダに変わる12使徒を選ぶ際には、「主の復活の証人になるべきです」と言われています。2章32節では、【32節】(216ページ)とあります。この後にも、何度も証人という言葉が用いられます。この言葉は、紀元1世紀終わりころに、ローマ帝国による組織的な教会迫害が始まる時代になると、「殉教者」という意味が付け加えられるようになりました。そして、今日、このギリシャ語から造られた英語のmartyr(マーター)という言葉は、証人とか目撃者という本来の意味はほとんど薄れて、殉教者という意味で用いられます。

わたしたちが主イエスの復活の証人として立てられるということは、究極的な意味合いで、わたしたちが殉教者となるということに他なりません。「たとえわたしの命が脅かされることがあろうとも、わたしはこの証言を変えません。なぜならば、死から復活された主イエスこそが、わたしにまことの命をお与えくださる唯一の主だからです」と告白するのが、主イエスの証人だからです。

33節以下でパウロは、主イエスの復活の出来事の大きな、そして深い意味について、旧約聖書のみ言葉を引用しながら語ります。【33~37節】。主イエスの復活は、死者がもう一度生き返った蘇生ではありません。罪と死に対する完全な勝利です。それゆえに、主イエスを信じるわたしたちに、朽ち果てることのない永遠の命の保証を与えるのです。

パウロの説教の三つ目の大きな特徴は、38節以下で語られています。【38~39節】。ここで語られていることは、わたしたちプロテスタント教会の中心的な教えである「信仰義認」のことです。のちにパウロがローマの信徒への手紙などで詳しく展開していく教え、16世紀の宗教改革者たちが再発見したプロテスタント教会の教え、信じる人はだれであれ、ただその信仰によってのみ神に義とされ、罪ゆるされ、救われるという、「信仰義認」の教えが、ここですでに語られているのです。わたしの救いに必要なことはすべて主イエスによって成し遂げられています。たとえ、わたしには神の律法の一つをも守り行うことができなくても、罪多く、欠けや破れに満ちている人間であったとしても、わたしのために救いのみわざを成し遂げてくださった主イエスを、わたしの救い主と信じる信仰によって、神はわたしのすべての罪をゆるしてくださり、わたしを神のみ前で罪なき者とみなしてくださり、ただ神から差し出される一方的な恵みによって、神はわたしを義と認めてくだるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたから差し出されている救いの恵みを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの恵みに応えて、復活の主イエスを証しする者とされますように。

〇この世界にあなたの義と平和が実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。