7月13日説教「エジプトでのしるしと奇跡(三)」

2025年7月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記11章1~10節

    ヨハネによる福音書12章37~43節

説教題:「エジプトでのしるしと奇跡(三)」

 神は、エジプトで400年余りにわたって寄留の民、奴隷の民として苦難の中にあったイスラエルの苦しみの叫びを聞かれ、彼らを奴隷の家から解放し、約束の地、カナンへと導き上ると言われ、その指導者としてモーセをお立てになりました。イスラエルのエジプト脱出という神の救いのご計画は、イスラエルのエジプト移住からさらにさかのぼって、紀元前1900年から1800年代の族長アブラハムに最初に語られた神の約束の言葉の成就でありました。神はアブラハムに言われました。「わたしはお前の子孫を永遠に祝福する。お前の子孫は星の数ほどに増える。わたしはお前と子孫を約束の地、カナンへと導き上り、その地を嗣業として与える」。これが、いわゆるアブラハム契約と言われる神の約束です。出エジプトはそのアブラハム契約の成就を目指していたのです。そしてさらに、この出エジプトの出来事は、それから千数百年のちに、神が主イエス・キリストによって全世界のすべての民のために成就されるであろう救いのみわざの予告であり、預言でありました。神がイスラエルの民のためになしたもうた出エジプトという救いのみわざは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によってなしたもうた全人類の救いのみわざによって、完全に成就されたのです。出エジプト記を読むとき、わたしたちは主イエスの福音をそこから読み取るのです。

 出エジプト記7章14節から10章29節までは、神がエジプトでなされた計9回のしるしと奇跡が書かれています。エジプトのナイル川とすべての水が血に変わり、飲めなくなったという奇跡。蛙、ぶよ、あぶが異常に発生し、エジプト人が苦しんだというしるし。疫病が大流行し、エジプトの家畜が多く死んだという奇跡など。そして9番目には、エジプト全土が大きな暗闇に覆われたというしるし。これは、そののちの10番目の、より恐ろしい、エジプト全土を襲うであろう大きな災害の前兆でもありました。

 神がこのように、何度も何度も繰り返してしるしと奇跡とをなされた理由について、もう一度振り返ってみましょう。モーセはエジプト王ファラオに対して、このような要求を告げました。「わが民イスラエルをエジプトから去らせ、自由に神を礼拝する民とさせてください。それがイスラエルの神のみ心だからです」と。その要求をファラオが簡単に受け入れるはずはありません。そこで、神はモーセとアロンによってエジプトに災いをもたらすしるしと奇跡とを行いました。それを見てファラオはイスラエルの神を恐れ、民を解放するから、この災いを取り去るように、モーセに懇願しましたが、しかし実際に災いが収まって一息つくと、ファラオは心を翻して、モーセの要求を再び拒否しました。それが何度も繰り返された結果、最後の10番目の災いへと至ったのでした。

 ここには、エジプト王ファラオのかたくなさ、神を恐れない傲慢さ、この世の権力にしがみつこうとする人間の罪が浮き彫りにされています。エジプトで行われた10のしるしと奇跡は、それに対する神の厳しい裁きなのです。他方、それはまたイスラエルの民にとっては神の忍耐と愛のしるしでもありました。神はご自身が選ばれた民イスラエルの救いのために、アブラハムへの契約の成就のために、エジプトの権力とファラオのかたくなさに勝利されます。これらの10のしるしと奇跡は、神の偉大さを表しています。また、どのような人間のかたくなさや罪によっても決して変更されることがない、神の救いのご計画の永遠性を表しているのです。

 きょう朗読された11章では、10番目の、最後の最も恐るべきしるしと奇跡の予告が語られています。【1~3節】。ここでは、まだ10番目の災いの内容については語られていませんが、その災いの持っている特別な意味について説明されています。その一つは、これまでファラオは何度も心を翻してイスラエルの民を去らせることを拒んできましたが、この最後のしるしと奇跡ののちには、むしろ彼らをエジプトから追い出すようになるであろうということ。それほどに偉大な神のみ力が現わされ、ファラオはイスラエルの民がエジプトにとどまることを恐れるようになるということです。この最後のしるしと奇跡は、エジプトにとっても、またイスラエルにとっても、決定的な意味を持つことになります。ファラオはイスラエルからの要求を聞いて彼らを去らせるようになるというのではなく、むしろファラオの方から彼らを追い出すようになるのだと、神は言われます。

 もう一つは、イスラエルの人々はエジプト人の好意を得て、彼らから金や銀の飾りを受け取るであろうとも言われています。このことについては、すでに3章21~22節で予告されていました。【21~22節】(98ページ)。また、12章36節では、【36節】(113ページ)と書かれています。これらの記述から、いくつかのことが読み取れます。第一には、イスラエルの民は寄留の地エジプトで、信仰の民としてエジプト人に好意をもって受け入れられていたので、その好意のしるしとして、金や銀をいわば餞別として受け取ったという意味。第二には、イスラエルがエジプトで強制的に奴隷としての労働を強いられていた、その当然受けるべき報酬として、金銀を受け取る権利があったという意味。第三に、エジプト人がイスラエルの民奴隷として虐待したことに対する刑罰として金銀を支払う義務があったという意味。

 イスラエルの民が出エジプトの際に金銀を携えて出たことの意味について、以上のことが考えられていますが、しかしここで重要なことは、それらの金銀はイスラエルの人々が自分たちの身を飾るために用いるではなく、やがて荒れ野を40年旅を続ける期間に、移動式の礼拝所である幕屋を製作する際に、礼拝の場に設置する器具として神にささげられるためであったということです。出エジプトは、イスラエルの民が真実の礼拝の民となることを最終的な目標としているのです。

 4節から10番目の災い、しるしと奇跡の予告が語られます。【4~6節】。これまでの9番目までしるしと奇跡は、モーセが手にしていた神の杖によって、自然界で起こった現象でした。しかし、今回のこの最後のしるしと奇跡は、神ご自身がエジプトの中に入って行かれ、神ご自身が行われる奇跡であると言われています。天におられる神が地に降って来られ、神が直接にご自身のみ手をもってエジプトをお裁きになる。そして、イスラエルの民をお救いになる。そのことを、神ご自身が具体的に行動されるのだと言われています。

 神が重要なみわざをなさるときには、しばしばこのように、ご自身が天から地に降って来られ、直接にご自身のみ手をもって行われるということを、わたしたちはこれまでも聞いてきました。創世記11章5節にはこう書かれていました。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見られた」。そして、神は天にまで高く至ろうとしていたバベルの塔の建設を中止させられました。また、創世記18章では、ソドムとゴモラの悪があまりにも大きいので、それを見届け、それに厳しい裁きを下すために、神は「わたしは降って行き、彼らのなしていることを見てこよう}と言われました(18章21節参照)。そして、出エジプト記3章7節以下にはこのように書かれていました。【7~8節】(97ページ)。

 その神が時満ちて、今一度天から降って来られ、み子イエス・キリストとして、人となってこの世においでになられたということを、わたしたちは知っています。そして、アブラハムとの契約を最終的に成就し、全人類を罪の奴隷から救い出してくださいました。

 「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中を進む」と神は言われます。すべての人が眠りに落ちている時にも、神はお一人目覚めておられ、ご自分が選ばれた民の救いのために、いわば敵地に乗り込んで、お働きになります。それゆえに、12章42節ではこう言われています。【42節】(113ページ)。

 10番目の災いは、エジプトの王ファラオの家から始めてすべての家に生まれた初子(すなわち長男)と、家畜の初子(最初に生まれたオス)が、すべて死ぬというしるし、奇跡です。そのためにエジプト全土に大いなる悲しみの叫び、驚き、嘆きの叫びが起こるであろうというのです。未だかつて一度も起こったことがないほどの大きな災いであり、しるし、奇跡であり、またこののちにも再び起こることがないほどの大きなしるし、奇跡であるとも言われています。

 しかし、その時に、イスラエルの家はみな主なる神によって守られるであろうと言われています。【7節】。エジプトに対する大きな災いは、イスラエルにとっては大いなる神の守りと救いのしるし、奇跡となるのです。それによって神はイスラエルに対する大きな愛をお示しになります。そのようにして、神はエジプトでの苦役のゆえのイスラエルの叫びと祈りをお聞きになられ、そしてまた、アブラハムとの契約を成就なさるのです。

 そこで、8節にはこのように書かれています。【8節】。神が全エジプトの家に下された大いなる災いに、彼らはみな恐れ、戸惑い、ついにはモーセとイスラエルの民にエジプトから出て行ってほしいと願い求めるようになるであろうと、モーセはファラオに語りました。イスラエルの神の完全な勝利を告げているのです。そして、事実そのようになったことが12章29節以下に書かれています。あらかじめ、その中の33節を読んで確認しておきましょう。【33節】。そのようにして、イスラエルの民はエジプトの奴隷の家を安全に、主なる神に守られて脱出することができたのです。神はイスラエルの民の救いのために必要なすべての道を完全に整えてくださったのです。

 神はまた、主イエス・キリストによって、わたしたち罪びとたちの救いに必要なすべての道を、完全に整えてくださいました。わたしたちはその道を喜びと感謝とをもって、神のみ名を賛美しながら進むことができるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは寄留の民、奴隷の民であったイスラエルをお選びになり、この民によって救いのみわざをお始めになられました。あなたはイスラエルの民の中にメシア・救い主をお与えになり、主イエス・キリストによって全世界のすべての人の救いを成し遂げてくださいました。そして今、わたしたち一人一人をその救いの民の中にお招きくださいました。感謝いたします。どうか、あなたの救いのみわざがさらに前進しますように。救われる民を増し加えてくださいますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月6日説教「キリスト・イエスの僕、パウロ」

2025年7月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~4節

    ローマの信徒への手1紙章1~7節

説教題:「キリスト・イエスの僕、パウロ」

 ローマの信徒への手紙は、使徒パウロがローマにある教会の信徒たちにあてて書いた手紙です。「ローマの手紙」とか「ローマ書」(ロマ書)と言ったりもします。ローマの教会がいつころ、どのようにして誕生したのかについは分かっていません。パウロ自身やパウロに関係した使徒のだれかが宣教活動をしてできたのではなく、他の町で福音を聞いた信仰者がローマに行って伝えたか、あるいはローマに移り住んだか、そのような信仰者が集まってできた教会と推測されます。「すべての道はローマに通じる」と言われていた時代ですから、パウロや他の使徒たちがローマに入る前に、各地から信仰者たちが集まって来て教会が誕生したとしても不思議ではありませんが、それ以上に、主イエス・キリストの福音そのものが持っている大きな力と命が、この世界の中心都市にまで、これほどまでに早く、主キリストの教会を建てさせたのだと言うべきでしょう。

 ローマの教会にはユダヤ人でキリスト者になった人たちもいたと思われますが、手紙の内容などから判断して、いわゆる異邦人キリスト者、広く言ってギリシャ人キリスト者が大半を占めていたようです。教会の規模は分かっていませんが、たとえ小さな群れであったとしても、ローマ帝国の首都であり、世界の中心都市であるローマに建てられたこの教会の存在意義は、パウロにとっても、初代教会全体にとっても、大きな意味があったのは言うまでもありません。

 パウロがいつごろこの手紙を書いたのかについては、これもはっきりとした年代は分かりませんが、パウロの第3回世界伝道旅行の終わりころ、紀元57年から58年にかけてと推測されます。

 この手紙を書くことになった直接的な動機については、15章22節以下などから読み取ることができます。パウロは計3回にわたる伝道旅行を行い、小アジア地方やギリシャまでの地中海沿岸の町々に教会が建てられていきました。今や、パウロの目は世界の首都であるローマへと向けられています。さらには、ローマから世界の西の果てと言われていたイスパニア(今のスペイン)へ主キリストの福音を宣べ伝えるという、壮大な計画を抱いていました。ローマの教会を拠点にしてイスパニア伝道をしたい、そのために、ローマの教会の協力を得たいというのが、この手紙を書いた動機の一つでした。

 それとともに、パウロはローマで主キリストの福音を語ることに特別な意味を見いだしていたことにも注目したいと思います。第3回世界伝道旅行の終わりころ、それはちょうどこのローマへの手紙が書かれた時期と同じですが、パウロがエフェソに滞在していた時に、彼はこのように言っています。使徒言行録19章21節ですが、【21節】(252ページ)。それから、彼が第3回伝道旅行を終えてエルサレムを訪問し、そこで捕らえられ、ユダヤ最高法院で裁判を受けていた夜に、彼は主なる神のみ声を聞きました。【23章11節】(260ページ)。世界の中心都市ローマで福音を語りたいというのは、パウロの切なる願いであっただけではなく、それはまた主なる神の深いみ心であったのです。

 なぜでしょうか。ローマ書や使徒言行録には具体的に書かれてはいませんが、わたしたちには直ちに推測ができます。すなわち、世界の巨大帝国ローマで、その中心都市であるローマで、そしてそこに君臨していたローマ皇帝の前で、世界の最高支配者はローマ皇帝ではなく、主イエス・キリストである、このこと語ることこそが、使徒パウロの最大の願いだったのです。全人類の罪のために十字架で死なれ、すべての人に罪のゆるしと永遠の命を与えるために、三日目に復活された主イエス・キリスト、今は天の父なる神の右に座しておられ、終わりの日には、来るべき神の国の永遠の王として君臨されるであろう主イエス・キリスト、この方こそが唯一の、まことの王であり、救い主であるという福音を語るためです。パウロがこの手紙を、そのローマの教会に書いたのもまた、同じ理由によるということは言うまでもありません。

 では、そのパウロの切なる願いはどのようにして実現するのでしょうか。わたしたちはさらに先に使徒言行録を読み進んでいくと、それが明らかになります。エルサレムで捕らえられ、裁判を受けたパウロは、神を冒涜した罪と民衆を扇動して暴動を起こそうとしたという罪で有罪判決を受けますが、彼はローマの市民権を持っていたことから、ローマ皇帝に上訴することにしました。それから数年後に、パウロはローマで裁判を受けるために、囚人の一人としてローマに護送されることになったのです。使徒言行録の終わりの箇所を読んでみましょう。【28章30~31節】(271ページ)。ここには、「まったく自由に何の妨げもなく」と書かれています。パウロは有罪判決を受けた囚人でしたが、しかし、この世のどのような鎖によっても彼と彼が携えている神の国の福音を縛りつけておくことは決してできないのだということを、わたしたちは世界の巨大帝国の首都ローマでも、はっきりと知らされるのです。

 わたしたちはこれから、ローマの信徒への手紙を主日礼拝で読んでいくことになりますが、それに先立って、もう一つのことを確認しておきたいと思います。ローマの手紙は、キリスト教会の歩みにおいて、最も強い影響力を持つ聖書であるということは否定できません。特に、キリスト教の教理を形成するうえで、ローマの手紙が果たした役割、今も果たし続けている役割は、どんなにに強調しても強調しすぎるということはありません。

 そしてまた、16世紀の宗教改革においては、ローマの手紙は教会改革と新しいプロテスタント教会の誕生の命と力の源泉となったということを、わたしたちは知っています。宗教改革者ルターもカルヴァンも、ローマの手紙の聖書研究をとおして、当時のローマカトリック教会の律法主義的で、人間のわざや働きを重んじる功利主義的な信仰を批判し、真の福音主義的信仰を再発見したのでした。

 ドイツ生まれのマルチン・ルターはローマの信徒への手紙について、「パウロのこの手紙は最も明らかな福音である」と言っています。ルターは1515年から翌年にかけて、ローマ書の注解書を書き、続いてガラテヤ書の注解書を書きましたが、それが1517年の宗教改革ののろしを上げる原動力となりました。また、フランス生まれのジャン・カルヴァンは「この手紙を理解する者は全聖書を理解する扉を開く」と言っています。

 20世紀の神学者カール・バルトは1919年の初版発行以来、何度か版を重ね、改定したローマ書の注解書を書いていますが、1956年のローマ書注解書の序文で、「ローマ書の場合、それを学びつくすということはあり得ない」と述べたあとで、こう続けています。「この意味で、ローマ書はこれからもなお『待ち続けている』。そして確かにこのわたしをも『待っている』」と。

 今日に至るまで2000年の教会の歩みの中で、どれほど多くの説教者や神学者、研究家がこのローマ書と真剣に、また情熱を傾けて、取り組んできたことでしょうか。どれほど豊かで、また喜ばしい主キリストの福音を、この書から読み取ってきたことでしょうか。そして確かに、ローマ書は、これからこの書を続けて読んでいこうとしているわたしたちをも待っています。あふれるばかりの豊かな福音の恵みを用意して、わたしたち一人一人によっても、読まれ、理解され、そして信じられることを待っています。わたしたちもまた大きな期待をもって、きょうから、ご一緒にこの書を学んでいくことにしましょう。

 まず、ローマ書の全体の構造を簡単にみていきましょう。1章1節から18節までは、手紙の序文にあたります。ここには、手紙の差し出し人からのあいさつと執筆の動機、またこの手紙の主題とも言える内容が書かれています。1章19節から3章20節までには、神のみ前にある人間の罪について書かれています。これを第一部と考えてよいでしょう。第二部は、3章21節から11章の終わりまで、主イエス・キリストによって成就された罪のゆるしの福音について詳しく書かれています。そして、第三部は、12章1節から16章の末尾までは、救われた人の感謝の生活、信仰者の実践についてと終わりのあいさつ。

 ローマ書のこのような3部形式は、宗教改革以後の信仰問答書や信仰告白文の構造に受け継がれていきました。代表的なものは、1563年に制定された『ハイデルベルク信仰問答』です。第一部、「人間の罪と悲惨について」、第二部「人間の救いについて」、第三部「救われた人の感謝の生活について」という構成になっています。その形式を受け継いだ『日本キリスト教会小信仰問答 1964年版』も同様の構造です。

 あと残された時間はわずかですが、この手紙の差し出し人であるパウロのあいさつの言葉の中の「キリスト・イエスの僕」について少し触れたいと思います。1節から7節のあいさつの部分は当時の手紙の書式にならっています。最初に手紙の差し出し人の名前と自己紹介、次に受け取り人の名前、そして差し出し人から受け取り人へのあいさつの言葉が続きます。

 1節の冒頭のギリシャ語は、「パウロ、僕、キリスト・イエスの」という語順になっています。「僕」とは文字通りには「奴隷」のことです。パウロはまず「自分はキリスト・イエスの奴隷である」と自己紹介しているのです。奴隷制度があった時代ですから、イスラエルでは奴隷の売買は禁じられていましたが、奴隷という言葉は、今日のわたしたちが考える以上に強い響きを持っていたことは確かでしょう。奴隷は社会の最も低い階級に属し、自ら何の権利をも与えられず、生殺与奪の権利は彼の所有者である主人にありました。主人の意のままに働き、行動し、時には主人のために命をも投げ出して、主人に徹底して仕え、服従する、しかも自らの誉れを一切求めない、それが奴隷です。

 そのような奴隷・僕という言葉は、聖書の中では、旧約聖書でも新約聖書でも同じですが、全く新しい、特別な意味を含んで用いられています。旧約聖書では、イスラエルの王や預言者などが「主なる神の僕」と呼ばれています。これには二つの意味が含まれていました。一つは、主なる神の所有とされ、主なる神のみに仕え、主なる神のみ言葉に徹底して服従する、文字通り神の奴隷であり、主人である神に自分の命と存在のすべてを握られているという意味です。

 もう一つには、主なる神が自分の命と存在のすべてを大いなる愛をもって支え、深いみ心で守っていてくださるという意味です。神はわたしの主、わたしの所有者として、わたしの体と魂にとって必要な一切のものをもって、わたしを満たし、養ってくださる。そして、わたしをあらゆる危険や誘惑から守ってくださる。神はわたしを他の何ものにも引き渡すことなく、永遠に唯一のわたしの主でいてくださる。それゆえに、わたしは他の一切のものの支配から自由であり、他の何ものの奴隷となることはない。それがもう一つの意味です。

 パウロが主イエス・キリストの福音を信じるキリスト者として、「わたしは主イエス・キリストの僕である」と告白するときには、その意味はより一層明確です。パウロにとって、またわたしたちすべてのキリスト者にとっても、「主キリストの僕」という告白は、最高に名誉ある、そしてまた感謝と喜びに満ちた自己紹介なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがご自身の一人子を賜わるほどにわたしたち一人一人を愛してくださったその大きな愛によって、わたしたちを主イエス・キリストの僕としてくださったことを覚え、感謝いたします。自由と喜びとをもって、わたしの唯一の救い主であられる主イエス・キリストにお仕えする者としてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月29日説教「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」

2025年6月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則)

聖 書:申命記8章1~10節
使徒言行録14章21~28節

説教題:「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならな
い」


パウロとバルナバによる第一回世界伝道旅行は、使徒言行録14章20節で名前が挙げられいるデルベという町が最後になります。そこから、もと来た道を引き返しながら、以前に福音を宣べ伝えた町々を再び訪れ、教会員を励ましたことが、きょうの箇所で語られています。【 14章21~22節】。
22節でパウロが諸教会の弟子たち、教会員たちを励まして語った言葉は、パウロたちの第一回世界伝道旅行の、いわばまとめであり、結論であり、パウロたちのこれまでの歩みの集大成を意味していると言ってよいのではないでしょうか。パウロたちは行く町行く町で、主にユダヤ人から迫害を受け、苦難と試練を経験しなければなりませんでした。その迫害と苦難の歩みを経験したのちの結論、あるいはそこで教えられた最終的な真理が、これであったのです。
「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。
きょうはこの真理を深く学びたいと思いますが、その前に、直前にパウロが経験した迫害について、振り返ってみましょう。パウロは14章8節以下に書かれているリストラという町で、生まれつき足が不自由だった男の人をいやし、歩けるようにしたという奇跡を行ったために、ギリシャの神々が人間となって下って来たのだと思われ、礼拝の対象にされそうになりました。パウロは彼らにイスラエルの神、主イエスの父なる神こそがまことの唯一の神であり、天地万物を創造され、それらを今もなおご支配しておられる神であることを証ししました。おそらくこの騒ぎを聞きつけて、前に宣教活動を行った町々でパウロたちを迫害したユダヤ人たちがリストラの町まで押しかけてきて、パウロをリンチにかけて殺そうとしました。
【19~20節】。アンティオキアとイコニオンからリストラまでは百数拾キロも離れていますが、彼らユダヤ人は何とかしてパウロをなき者にしようと追いかけてきたようです。「石を投げつけ」とは、ユダヤ人の処刑の仕方「石打ちの刑」と思われます。もちろん正式な裁判で死刑を宣告したのではなく、いわばリンチにかけたのですが、旧約聖書では最も重大な犯罪や神を冒涜する罪は石打ちの刑で処刑すべきと定められていました。使徒言行録7章54節以
下には、最初の殉教者ステファノも石打ちの刑で殺されました。また、パウロ自身コリントの信徒への手紙二11章で、彼が経験した数多くの迫害を列挙している中で、「死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度」(23~25節)と書いていますが、それがリストラでのことだと思われます。
群衆はパウロが死んだものと思い、町の外に引きずっていきましたが、しかしパウロは奇跡的に息を吹き返したと書かれています。石打ちの刑は、犯罪人を取り囲んで一斉に石を投げつけ、石に埋もれて犯罪人の体が見えなくなるまで石を投げ続けるのですから、そこから息を吹き返すということはほとんどあり得ません。弟子たちに取り囲まれている中で、パウロが起き上がったということは、神の奇跡としか言えません。しかも、20節には、翌日デルベに向か
ったと書かれていますから、石で打たれて深く傷ついた体で、パウロはどのようにして歩いて行ったのでしょうか。わたしたちには不思議としか言いようがありません。「パウロは起き上がって」と訳されている言葉は「復活する」という意味でも用いられます。まさに、パウロは神によって死から復活させられたのだと言うべきでしょう。
パウロとバルナバはリストラからさらに西へ百キロ余りにあるデルベという町に伝道旅行を続けました。その町での伝道活動については詳しくは書かれていませんが、「多くの人を弟子にした」とありますから、ここでも豊かな実りが与えられたことが分かります。激しい迫害と死の危険をも乗り越えて、主キリストの福音は前進していきました。その福音に仕えるパウロたちもまた、体に大きな痛みを伴いながらも、勇気と希望とをもって前進していきました。神
の言葉は、この世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。
わたしたちが何度も確認してきたように。
ちなみに、デルベからさらに西へ250キロ行くと、パウロの生まれ故郷であるタルソがありますが、パウロはそこまでは行かずに、デルベから帰路につくことにしました。その理由については何も書かれてはいません。デルベから引き返して、石打ちの刑で殺されそうになったリストラへ、そして迫害によって町を追い出されたイコニオン、アンティオキアを通って、それ
ぞれの町に再び立ち寄り、誕生して間もない教会の群れを励ましました。それらの町々を再び訪れることには、迫害の危険が待ち構えていましたが、パウロはそのことを全く恐れてはいません。自らの身に起こるかもしれない危険を顧みず、誕生した教会がこれからも経験するであろう迫害と試練の時に備えるために、教会の兄弟姉妹たちを強めることこそが、パウロの使命だったからです。
パウロはこう言って彼らを励ましました。「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」。パウロは誕生したばかりのまだ若い教会に、迫害も試練もない、安全な成長の道を約束するのではありません。いやむしろ、教会はこの世では、迫害や試練を避けては通ることはできないし、もっと多くの困難なことを経験しなければならないと言うのです。これが若い教会にとって励ましになるのでしょうか。不安や恐れを与えることになるのではないでしょうか。そのような疑問が当然起こるでしょう。けれどもパウロは言うのです。「あなたがたには神の国が約束されている。教会はこの世で得ることができる、どのような誉れや成功よりも、もっと大きな、豊かな、はるかにまさった永遠の宝を、「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を」(ペトロの手紙一1 章4節)神の国で受け継ぐという約束を与えられていると言うのです。そして、そのためにはさらに「多くの苦しみを経なくてはならない」と言うのです。「多くの苦しみ」の中には、パウロ自身が経験した迫害が含まれていることは確かでしょう。ピシディア州のアンティオキアで、イコニオンで、リストラで、彼自身が経験した迫害と石打ちの刑。それだけでなく、パウロ以前にわたしたちが使徒言行録で読んできたように、ペトロやヨハネなどの使徒たちが受けた迫害、ステファノの殉教、エルサレム教会に対する大迫害、ヨハネの兄弟ヤコブの殉教、それらの数々の迫害や殉教をも含んでいると理解できます。それらのすべての苦しみは、教会の民が神の国に入るためには必ず経験しなけれ
ばならないものだったのだと、パウロは言うのです。
過去に経験した苦しみのことだけではありません。パウロの言葉には、これから教会が経験するであろう迫害や苦難のことを含んでいるのは当然です。パウロ自身がユダヤ人から受けた迫害に加え、やがてローマ帝国によるキリスト教会全体に対する迫害が始まろうとしています。教会はそれらの試練にどうやって対処し、それを乗り越えていくことができるのでしょうか。
パウロは「信仰に踏みとどまるように励ました」と書かれています。教会が経験するすべての苦しみ、試練を乗り越えていくために必要なのは、信仰です。

主イエス・キリストの十字架の死と復活によって教会に与えられている救いの恵みと、神が約束してくださる終わりの日の勝利と完成の希望です。その信仰こそが、教会をあらゆる迫害や苦難の中でも、決して落胆せず、失望することなく、なおも前進させる力の源なのです。
「経なくてはならない」という個所の、「ねばならない」という意味のギリシャ語は「デイ」という小さな言葉ですが、これは福音書やその他の箇所でも非常に重要な意味を持つ言葉としてたびたび用いられています。その一つを読んでみましょう。【マタイ福音書16章21節】(32ページ)。これは主イエスによる第一回受難予告ですが、ここで「必ず……することになっている」というように、日本語の翻訳では別れて訳されているのが、ギリシャ語の「デイ」です。ほかの受難予告でも同様です。
この言葉は、神の必然を意味していると言われます。つまり、神がそのように計画しておられ、予定しておられ、それが神のみ心であり、必ずそのようになる、という意味です。そこには、神の永遠の救いのご計画と神の強い意志が言い表されています。わたしたちはここから二つの神のみ心を知らされます。一つには、神は教会の民をご自身の永遠の救いのご計画の中で、終わりの日に、神の国の民としてくださるという固い約束。もう一つには、教会が神の国の民とされるには、多くの苦しみを経験しなければならない、すなわち、教会が経験するであろう迫害や試練、苦難のすべては、教会が神の国の民とされるためにぜひとも通らなければならない道であり、いわば必要条件なのだということです。それが、神の永遠の救いのご計画なのである、神の強い意志なのだということです。
なぜそうなのでしょうか。先ほど、マタイ福音書16章で読んだように、来るべき神の国の王として君臨される主イエス・キリストご自身が、苦難と十字架への道を進み行かれることによって、わたしたちの救いを成し遂げてくださったからです。教会の主であられる主イエス・キリストが、試練と苦難の道をわたしたちに先立って進まれたからです。わたしたちはそのあとを辿るのです。
第二には、主イエスご自身が弟子たちに、また、のちの時代の教会に対して、苦難と迫害を予告しておられたからです。【ルカ福音書21章12~19節】(151ページ)。主イエスは世の終わりの終末が来る前に弟子たちや教会が経験しなければならない苦難や迫害を予告しておられました。しかしまた、その苦難と迫害の時こそが、信仰の証しの、最後の最も良い機会となるであろうと語っておられました。主イエスが苦しむ信仰者たちと共にいてくださり、必
要な助けを与えてくださり、言葉と知恵とを授けてくださると、約束しておられました。そして、最後の完全な勝利を約束しておられました。苦難と迫害は、わたしたちがより一層主イエス・キリストに信頼し、主イエス・キリストからすべての助けと恵みとを期待し、来るべき神の国に備えて、主イエス・キリストにある最後の勝利をいよいよ確信するためなのです。神の国のための苦しみは信仰者にとって幸いであり、祝福なのです。


(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、わたしたちの教会がこの世で経験しなければならない激しい嵐や試練の中で、あなたがいつもわたしたちと共にいてくださいますように。
また、あなたの確かな約束を固く信じ、終わりの日のみ国の完成を目指して、信仰の道を歩み続けることができますように、お導きください。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月22日説教「求めなさい。そうすれば、与えられる」

2025年6月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書557章6~11節

    ルカによる福音書11章5~13節

説教題:「求めなさい。そうすれば、与えられる」

 主イエスの弟子たちが、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とお願いしたとき、主イエスは祈りの模範として、『主の祈り』を教えられました。それに続いて、ルカ福音書11章5節からは、祈りの仕方、その実践について、一つのたとえを用いてお話になりました。弟子たちは、そしてわたしたちもそうですが、祈るべき言葉、何を祈るべきか、祈りの内容を主イエスから教えられなければならないとともに、祈りとは何か、祈りの本質について、あるいはなぜ祈らなければならないのかについても、主イエスから教えられなければなりません。

 5節以下のたとえ話は、一読したところ、熱心に祈り求めることの大切さを教えているように読めますが、本当の中心点は、求める側にあるのではなく、求められている側、つまり友人の願いにこたえて、その願いを聞いてあげる人の方に、あるのです。たとえ話の結論の部分の8節を読んでみましょう。【8節】。ここで言われている人は、真夜中に突然の来客を迎えて、もてなすパンがなくて困り果て、友だちに助けを求めた人ではなく、その友だちの願いに応えて、起き上がって必要なものを差し出した人のことが、ここで言われているのです。祈りの例に当てはめれば、祈り求める人の方ではなく、その祈りを聞いてくれる人の方に重点が置かれているのです。つまり、わたしたちの祈りの熱心さについて教えているというよりは、わたしたちの祈りに必ずや応えてくださる神の側に、わたしたちに必要なすべてのものを備えてくださる神の恵みについて教えているたとえ話なのです。

 同じことは、9節以下に語られる主イエスの説教についてもあてはまります。ここでも、わたしたちが熱心に求め、探し、門をたたくことが重要だと教えられているというよりは、わたしたちの祈りに必ず応えてくださる神の約束の確かさ語られているのです。【10節】。また【13節】。わたしたちが願い求めるものを、神は必ず与えてくださいます。わたしたちが探し求めるならば、神は必ず備えてくださいます。わたしたちが門をたたくなら、神は必ず道を開いてくださいます。そのような神の愛と恵みの大きさ、豊かさ、神の約束の確かさが、ここでは強調されているのです。そのような神の約束の確かさがあるからこそ、わたしたちは熱心に祈り続け、探し続け、門をたたき続けることができます。そして、その祈りが決して無駄に終わることはないと、信じることができるのです。

 まず、そのことを確認したうえで、さらに詳しくみていきましょう。【5~7節】。このたとえ話には、当時の生活様式がよく反映されていると言われます。パレスチナ地方では、日中は暑いので、旅をする人は夕方、涼しくなってから出かけることがあると言います。真夜中になってから目的地に着くこともあるようです。たとえ話のこの人は、おそらく予定していなかった急な旅行客を真夜中に迎えて、パンの用意がなかったために、友人の家の戸を叩いて、パンを3個貸してくれるようにお願いします。この友人ならば、真夜中でも自分の願いを聞いてくれるに違いないと、信頼と期待を持っていたことが推測できます。

 このような場面設定から、わたしたちはいくつかのことを知らされます。まず、神に選ばれた民であるイスラエルにおいては、旅人を厚くもてなし、客人を愛をこめてお迎えする習慣があったということです。旧約聖書でも新約聖書でも、そのことが神によって勧められていた、と言うよりは、命じられていたことが書かれています。なぜならば、イスラエルの民は族長時代から放浪の民であり、エジプトで寄留の民であったという経験から、本国を持たない寄留の民は互いに助け合うことの重要さを知らされていたからです。またそれ以上に、神が寄留の民を顧みてくださり、必要なものをすべて備えてくださったことを経験していたからです。急に客人を迎えたこの人も、また彼から真夜中にパンを貸してくれるように依頼された友人も、旅人を厚くもてなし、客人を愛をもってお迎えすることの大切さをよく心得ていたことが、このたとえ話全体を暖かく包んでいるように思われます。

 細かな点をも注意深くみていくと、さらにいくつかのことが分かります。一般の家では、夕方に次の日の家族の分のパン粉をこねて、一晩寝かせ、朝にパンを焼きます。その日のうちに食べ尽くすのが普通ですから、余分なパンを保存しておくことはありません。でも、その友人の家には何かしらの余裕があることを彼は知っていたのでしょう。真夜中にもかかわらず、彼はその友人を頼りにしています。当時の家の造りは、入り口の扉を角材や鉄の棒を渡して錠をしていましたから、それを取り外すのは力が要りますし、音も出ます。一部屋に家族みんなが寝ている家がほとんどですから、子どもが目をさましてしまうことも心配です。「パンを分けてくれ」と依頼されたその友人は初めのうちは「面倒をかけないでくれ」と言って断っていましたが、何度もしつようにお願いされて、彼は放っておくことをしないで、起き上がって必要なものを分け与えようとします。やはり、神に選ばれた民であるイスラエルは、隣人を愛することをおろそかにはしません。寝ている子どもや家族みんなに面倒をかけることになっても、その友人のために立ち上がって、必要なものを分け与えるのです。神の愛を知っている信仰者は、隣人への愛をおろそかにはしません。隣人への労苦を惜しむことはしません。

 「パンを三つ貸してください」とお願いしていますが、パン3個はたぶん一人分の量だと思われます。彼は必要以上の量を求めているのではありません。客人一人の一食分だけのパンを貸してくれとお願いしています。主イエスが『主の祈り』で教えられたことを思い起こします。「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」と祈るように、主イエスは教えられました。何日分も、何年分もではなく、きょう一日の必要なパンを、しかもわたしだけのパンでなく、わたしたちみんなのパンを、主なる神に祈り求めるようにと教えられているわたしたちは、世界中の人々がパンを分かち合うことの大切さをも教えられているのです。

 先ほども少しふれましたように、このたとえ話には、神に選ばれ、神に愛されているイスラエルの民の信仰と生活がしみ込んでいます。寄留の民、奴隷の民、苦難の民であったイスラエル、しかし、神に選ばれ、神に愛され、神の救いの恵みによって生かされてきたイスラエル。そして、その神の愛によって愛されている彼らの愛と分かち合いの生活。それがこのたとえ話全体を暖かく包んでいるのです。8節の結論部分をもう一度読んでみましょう。【8節】。どんなに無理なお願いでも、信じて熱心に頼めば、その願いを聞いてくれる信仰の友、友人がいるからこそ、困難や困窮の中にあっても、希望を失うことなく前進していくことができます。わたしたちのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる主なる神がおられるゆえに、わたしたちはいつでも、どのような時でも、熱心に神に祈り求めることができるのです。わたしたちの罪のゆるしのために、ご自身の一人子さえも惜しまずに、十字架におささげくださった主なる神がおられるゆえに、わたしたちは失望しないで絶えず祈り続けることができるのです。

 9節以下の主イエスの教えでも、強調点は、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」にあるのではなく、それに続く「そうすれば、与えられる」「そうすれば、見つかる」「そうすれば、開かれる」の方がより強調されています。10節を読めば、それが直ちに明らかになります。【10節】。わたしたちが祈っている神は、「天におられるわたしたちの父なる神」です。わたしの祈りを聞いてくれるかどうかが疑わしい偶像の神ではありません。「わたしに、求めなさい。そうすれば、与えられる。わたしはあなたに今、何が必要かを最もよく知っている、あなたの魂の父であるゆえに、あなたになくてならないものを与えよう」と神は言われます。「わたしのところに来て、探しなさい。そうすれば、わたしはあなたに進むべき道を示し、あなたに真理が何であるかを教えよう」と神は言われます。「わたしの名によって神の国の門をたたきなさい。そうすれば、わたしはあなたを神の国の民として迎えよう」と神は言われます。重要なことは、神がこのように約束していてくださることです。神はわたしのすべての必要をご存じであられます。わたしはしばしば、不必要なものを求めたり、むしろ自分を滅ぼしてしまうことを欲しがったりする愚かな者です。しかし、主なる神はわたしをまことの命によって生かすために主イエス・キリストによって十字架の死と復活の福音をお示しくださいました。神はわたし以上に、わたしをよく知っておられます。神はわたしの弱さや貧しさ、わたしの重荷や苦悩、迷いや疑いのすべてをご存じであられます。そのようなわたしを、み子によって愛してくださいます。ですから、わたしたちはどのような時にも、希望を失わずに、あきらめずに、熱心に神に祈り、求め、探し、門をたたくことができるのです。

 11節以下では、もはや祈る側の熱心さについては全く語られず、わたしたちの祈りをお聞きくださる神ご自身のことだけが語られています。【11~13節】。ここでは、人間の父親と天におられるわたしたちの魂の父であられる神とが、比較、対象されています。本来、人間と神とが同じ平面で比べられることなどできませんが、主イエスはあえて神を、いわば人間の地平にまで引き下げるようにして、わたしたちに理解しやすいようにして両者を比較、対象しているのです。

 その際に、13節でははっきりと、「あなたがたは悪い者でありながらも」と言われています。人間はみな罪びとであり、邪悪であり、心がゆがんでいる。そういう人間であっても、父は子どもの求めを聞き、それに愛をもって応えようとするではないか。そうであるならば、天におられる神は聖なるお方であり、善なるお方、愛なるお方であるのだから、わたしたちの願いを聞いてくださらないことなどあり得ようか。いや、わたしたちの願いにはるかにまさった良い物を与えてくださるのだということを強調しているのです。

 その良い物とは、聖霊であると主イエスは言われます。聖霊こそが神から与えられる最高の贈り物なのです。聖霊はわたしたちに主イエス・キリストを指し示し、この主イエス・キリストこそがわたしの、わたしたちの唯一の救い主であるという信仰を与えます。聖霊はわたしたちに神のみ心が何であるかを教えます。わたしたちがその神のみ心に従って歩むことができるように、導かれます。聖霊は、主イエスの体なる教会を建て、教会をとおしてこの世界の救いのために働かれます。聖霊は終わりの日に神の国が完成される日まで、わたしたちと共におられ、わたしたちの信仰を導き、わたしたちに慰めと励ましを与え、希望と喜びとを与えてくださいます。この聖霊の賜物をいただくために、熱心に祈り続けましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたちの祈りにはるかにまさった恵みをもってお応えくださる愛の神であられます。どうか、わたしたちの祈りをいよいよ強めてください。この地に、あなたのみ心が行われるようにと、熱心に祈ることができますように、お導きください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月15日説教「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡(二)」

2025年6月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記7章14~24節

    ローマの信徒への手紙9章14~18節

説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡(二)」

 神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から脱出させるために、その指導者としてモーセと彼の兄アロンを協力者としてお立てになりました。モーセとアロンは神の代理者として、また代弁者として、エジプト王ファラオの前に進み出て、神に命じられた言葉を告げます。7章16節にこのように書かれています。【16節】。神はイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられます。イスラエルは400年以上の間、エジプトに寄留し、その後、奴隷の民としてエジプトでの建築作業のために過酷な労働を強いられてきました。けれども、彼らはファラオの民ではありません。神が族長アブラハムの時から選ばれた神の民です。今、神はアブラハムとの契約を実行され、彼らを約束の地へと導き入れようとされるのです。

わたしたちはここで、出エジプト記の中心的な主題の一つを再確認します。それは、族長アブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を神は決してお忘れにはならず、400数十年のちになって、しかも彼らが最も困難な現実を迎えているこの時になって、神はその約束を果たそうとしておられるということです。その神の強い意志と永遠のみ心、救いのご計画が、出エジプト記全体に貫かれている大きな主題だということです。そして、この主題は、旧約聖書全体にも貫かれ、新約聖書で主イエス・キリストによってその完全な成就を見るのです。そしてさらには、今日の教会の歩みの中にも神の永遠の救いのみ心が貫かれているのは言うまでもありません。

もう一つの出エジプト記の中心的な主題は、出エジプトは何を目指しているのかということと関連しています。16節に、「荒れ野でわたしに仕えさせよ」と言われています。3章18節、5章3節でも、「三日の道のりを荒野へ行かせて、主なる神に礼拝をささげさせてください」と言われていました。これは、おそらくはシナイ山での礼拝を意味していると考えられますが、最終的な目的は、約束の地カナンでの永続的な神礼拝が、出エジプトの主題であることは明らかです。イスラエルの出エジプトは真実の神礼拝へ向けての解放であったのです。イスラエルがエジプトの奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導かれたのは、彼らが神を礼拝する民となるためでした。今日、わたしたちが主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって罪から救われているのも、わたしたちが真実の礼拝する群れとなるためなのです。その最終目的は、来るべき神の国において全世界のすべての国、民族、すべての人が、神を礼拝する一つの民となることです。

出エジプトの時代は、エジプト第19王朝、紀元前13世紀ころと考えられていますが、その時代のエジプト王朝も、その王であるファラオも、絶大な権力を持っていました。その中で、寄留の民、奴隷の民であったイスラエルが一つの民族として独立するとか、本国から集団脱出するということが実際にできたのかどうかについては、政治的な力関係から言ってほとんど不可能であったと思われます。奴隷の民であったモーセやアロンが直接ファラオの前に出て交渉することができたということも、現実的にはほとんど考えられません。そのようは困難さをモーセ自身も自覚していたということを、彼がその指導者としての務めを神から託されたときに、自分にはそれができないと何度も断ったことからも推測されます。そして、きょう学ぶエジプトでの数々のしるしと奇跡が、その困難さをはっきりと物語っていると言えるのではないでしょうか。

つまり、7章14節から11章10節までには、エジプトでモーセが行った10の災いについて記されていますが、これらの数多くのしるしと奇跡はイスラエルの出エジプトという出来事がいかに困難であり、あり得ないことであり、まさに神の奇跡としてしか起こり得ない出来事であったということを物語っているのです。強大なエジプト王国とその王ファラオの力と権力に対抗するために、あるいはファラオのかたくなさと不信仰を打ち砕くために、さらにはエジプトの神々や魔術師たちに敗北を宣言するために、神が何度も何度もその偉大なみ力を発揮されて、これらのしるしと奇跡を行われたのでした。エジプト王国とファラオの権力が強大であればあるほどに、神はまたご自身のその偉大なみ力を何度も繰り返して現わされるのです。エジプトでの10の災いはそのような神の偉大なみ力の現われなのであり、それはまた同時に、神のイスラエルの民に対する愛の大きさ、その救いのみわざの大きさをも、わたしたちに語っているのです。

きょうは、7章14節から10章の終わりまでに書かれている9つの災いについてまとめて学ぶことにします。

一般には「エジプトでの10の災い」と言われますが、エジプトの国とその王ファラオにとっては当然それらは恐るべき災いであり、彼らに対する神の大いなる裁きなのですが、出エジプト記の中では「しるしと奇跡」と言われており、イスラエルにとっては、それは主なる神がその偉大なみ力によってイスラエルの民を守り、彼らを奴隷の家エジプトから解放し、救われる神の大いなる恵みのしるしであり、神の不思議なみわざ、奇跡のみわざなのです。

順を追ってみていきましょう。第一のしるしは、7章14~24節、モーセが神の杖でナイル川を打つと、ナイル川の水もその他エジプト全土の川や井戸の水も血に変わり、魚はみな死に、人々は飲み水がなくなったというしるし。第二は、7章25節~8章11節、ナイル川から上がってきたおびただしい数の蛙がエジプトの家々に入り込み、あらゆる場所に群がり、人々を悩ませたというしるし。第三は、8章12節~15節、エジプト全土にぶよが大量発生し、人と家畜を襲ったというしるし。第四は、8章16節~28節、あぶの大群がエジプト全国の家々に被害を与えたというしるし。第五は、9章1節~7節、恐ろしい家畜の疫病がエジプトで流行し、すべての家畜が死んだというしるし。第六は、9章8節~12節、エジプト全土の家畜と人に膿が出るはれ物が大流行したというしるし。第七は、9章13節~35節、大きな雹が降ってきて、地に生えているものすべてを打ち砕いたというしるし。第八は、10章1節~20節、イナゴが大発生し、雹の害を逃れた他のすべての野菜や草木を食べ尽くしたというしるし。そして第九は、10章21節~29節、濃い暗闇がエジプトの全地を覆い尽くし、だれもお互いの顔を見ることができず、だれも立って歩くこともできなくなったというしるし。

これらの9つのしるしには、段階的にいくつかの変化が見られます。初めに、エジプトの魔術師たちとの関連についてみていきましょう。8章8節以下で、10のしるしが始まる前の、いわば序曲として、モーセが持っていた杖が蛇に変わったとき、エジプトの魔術師たちも同じように杖を蛇に変えることができましたが、モーセの蛇が魔術師たちの蛇を飲み尽くしたことが書かれていました。第一のしるしと第二のしるしでは、エジプトの魔術師たちもモーセと同じように、水を血に変え、蛙を発生させるしるしを行うことができましたが、第三のしるしでは、エジプトの魔術師たちも秘術によってぶよを出そうとしましたか、彼らにはそれができなかったと書かれています。8章15節にこのように書かれています。【15節】(105ページ)。エジプトの魔術師たちはモーセが行ったしるしと奇跡はイスラエルの神が行った奇跡のみわざであるということを自ら認めざるを得なくなったのです。これ以降、彼らはモーセの真似をすることが完全にできなくなりました。第六のしるしの時、はれ物がエジプトに蔓延した際には、魔術師自らの体にもはれ物ができて、彼らはモーセの前に立つことができなくなったと、9章11節に書かれています。ここからは、彼らの姿がまったく消え去ります。イスラエルの神がエジプトの魔術と神々に完全に勝利したのです。

次に、8章18~19節を読んでみましょう。【18~19節】(106ページ)。同じように、【9章4節】、また、【9章26節】(108ページ)、そして、【10章23節】(110ページ)。このように、エジプト全国に下された災い、神の裁きは、イスラエルの人々が住むゴシェンの地には及ぶことはなく、エジプトでの災いの中でイスラエルの守り、救いがいよいよ明らかにされていったのです。エジプトに対する神の裁き、彼らに与えられた災いは、イスラエルの民にとっては神の守りであり、救いであり、恵みなのです。神はご自分が選ばれた民をこのようにして最後の救いの完成へとお導きくださいます。

最後に、ファラオの反応についてみていきましょう。出エジプト記の中では、エジプトの王ファラオがかたくなであったという表現と、神が彼をかたくなにされたという表現が入り交ざって用いられています。前者は7章22節など、後者は9章12節などです。主なる神はファラオのかたくなな心をもご自身のみ手に治めておられます。この世の権力と不信仰によって塗り固められているかのようなその心をも、神はご自身の救いのみわざのために自由にお用いになり、それによっていよいよそのみ力を発揮され、救いのみわざを力強く押し進められるのです。

第二のしるしが行われたとき、8章8節でファラオはモーセにこのように言いました。【8節】(105ページ)。しかし、災いが一段落すると、11節にはこう書かれています。【11節】。15節でも同様です。【15節】。ファラオは主なる神の奇跡を見せられても、神のみ力を認めようとはせず、かえって心をかたくなにして神に逆らいます。第七の災い、雹がエジプトの国中の植物、動物、家畜を打ってすべてが死に絶えたときには、9章27~28節でファラオはこう言います。【27~28節】(108ページ)。しかし、今回もまたファラオは心をかたくなにしました。【34~35節】(108ページ)。

けれども、神はこのように何度も心を翻し、かたくなにして、モーセの要求を拒み続けたファラオのかたくなさをお用いになって、ご自身が全地を支配しておられる全能の神であることを証しされ、またご自身の民であるイスラエルを必ずやお救いくださることを明らかにされたのです。人々のかたくなさや罪の中で神の救いのみわざは進められていきます。そのことを信じましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは、どのような人間の悪や罪やかたくなさにであっても、決して変更されることを中止されることもありません。今のこの時代の中でも、あなたはご自身の救いのご計画を力強く進めておられます。わたしたちにそのことを信じさせてください。そして、あなたの救いのみわざのためにお仕えする者とされますように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。世界の為政者たちが主なる唯一の神であるあなたを恐れる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月8日説教「真理の霊が降るとき、あなたがたは自由を与えられる」

2025年6月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    ヨハネによる福音書16章1~15節

説教題:「真理の霊が降るとき、あなたがたは自由を与えられる」

 きょうは聖霊降臨日、ペンテコステ礼拝です。主イエスのご受難と十字架の死と葬り、三日目の復活と復活の顕現、そして40日目の昇天、50日目の聖霊降臨と教会の誕生、これらの一連の出来事が、わたしたちの信仰と救いの原点となっています。きょうはヨハネによる福音書16章のみ言葉を中心にして、聖霊降臨の出来事と聖霊なる神のお働きについて学んでいきたいと思います。

 まず確認しておきたいことは、聖霊は三位一体の神であるということです。父なる神、み子なる神、そして聖霊なる神は、それぞれの位格を持ち、それぞれのお働きと特徴を持ちつつ、一つの実体を持った一人の神であり、永遠の神であるという、三位一体論がキリスト教信仰の基本です。旧約聖書では、子なる神と聖霊なる神はまだはっきりとはお姿を現してはいませんでしたが、天地創造の始めから父なる神と共に存在しておられ、共に働いておられ、預言者たちによって預言されていました。新約聖書において、み子なる神が主イエス・キリストとして実際に人間のお姿で現れ、また聖霊なる神として実際に洗礼をお受けになられたれた主イエスの上に鳩の姿で現れ、そしてペンテコステの日には、激しい風と炎のような形で弟子たちの上に注がれました。聖書の中で、「聖霊」または時には単に「霊」と書かれている聖霊は、父なる神、み子なる神と同じ唯一の神、三位一体の神です。

 次に、共観福音書および使徒言行録に書かれている聖霊のお働きと、ヨハネによる福音書に書かれている聖霊のお働きは若干違っていますので、その点を確認しておきましょう。マタイ福音書28章19節以下にはこのように書かれています。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがっとともにいる」。復活された主イエスは弟子たちにこのようのお命じになりました。

 使徒言行録1章8節では、主イエスが天に昇られる直前に弟子たちにこのように言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤやとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。そして、そののち10日ほどしてから、実際に弟子たちに聖霊が注がれ、聖霊を受けた彼らが主イエス・キリストの福音を力強く語りだしました。それを聞いて信じた人々が、その日に3千人ほどが洗礼を受け、世界最初の教会、エルサレム教会が誕生しました。これが、最初のペンテコステの日の記録です。

 このようにみてくると、共観福音書と使徒言行録に書かれている聖霊は、弟子たちに主イエス・キリストの福音を語る力と勇気とを与え、また、それを聞いた人に信仰を与え、教会の宣教の働きを導かれる神であるということができます。そして、これは旧約聖書のヨエル書で預言されていた聖霊のお働きと共通していると言えます。ヨエル書3章1節にはこのように書かれています。「そののち、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る」。この預言が、主イエスの十字架の死と復活ののちに、ペンテコステの日に成就したのです。

これに対して、ヨハネ福音書で語られている聖霊は少し趣を異にしています。

ヨハネ福音書14~16章は、主イエスの告別説教と言われ、主イエスが十字架につけられる直前の木曜日に弟子たちと共にした夕食、最後の晩餐の席で語られた説教がまとめられていますが、その中で主イエスは何度も、ご自分がこの世から取り去られたあと、聖霊をあなたがたに送ると約束されました。その聖霊の特徴を見ていきましょう。

 14章16節では、聖霊は「別の弁護者」と言われています。人々の不信仰と暴力によって主イエスが地上から取り去られても、主イエスは弟子たちを孤児にはしない、聖霊がいつまでも弟子たちと共にいてくださる、だから安心せよ、と主イエスは約束しておられます。

 「別の弁護者」、つまり、主イエスのあとに、主イエスとは別の弁護者である聖霊と言われていますが、この弁護者という言葉(ギリシャ語ではパラクレートス、直訳すると、「そばに呼び出された者」ですが)、これは「助けぬし」とか「慰めぬし」と訳されることもありますが、『新共同訳聖書』では本来の意味を考慮して「弁護者」と訳しています。主イエスが地上におられたときには、弟子たちにとっては、主イエスが彼らの弁護者、いつも彼らのそばに立って、彼らをあらゆる危険から守ってくださる助けぬしでした。ガリラヤ湖で乗っていた船が嵐にあって沈みそうになって時に、主イエスその力強いみ言葉で嵐を沈めてくださいました。主イエスはいつでも弟子たちと共におられ、すべての必要なものをもって彼らを養ってくださいました。そして、最後には、彼らに代わって罪の裁きを受け、十字架で死んでくださいました。彼らに永遠の命の保証を与えるために、復活なさいました。その主イエスが、天に昇られ、弟子たちの前からその姿もその存在も消えてしまったあとでも、「わたしはいつまでも、世の終わりまであなたがたと共にいる」と言われた約束を果たすために、主イエスは別の弁護者として聖霊を弟子たちに派遣すると言われたのです。

 このようにして、聖霊は、今は天におられる主イエスを弟子たちと、またわたしたちとを固く結びつける働きをしてくださるのです。特に、「弁護者」と訳された言葉に注目するならば、わたしたちは次のことを確認することができます。すなわち、聖霊は終わりの日の最後の裁きの時に、神の法廷でわたしたちの傍らに立ってくださり、わたしたちを主イエスの忠実な弟子たち、僕(しもべ)たちとして弁護してくださり、わたしたちに永遠の救いと命を受け継ぐにふさわしい者としての判決を導くためにお働くださるという約束が、ここには含まれているのです。

 また、同じ14章26節にはこのように書かれています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。ここでは、聖霊は主イエスのみ言葉とわたしたちとを固く結びつけ、主イエスがお語りくださったすべての救いのみ言葉とその恵みとを、わたしたちにもたらす働きをされることが語られています。聖霊は父なる神がみ子なる主イエスによってわたしたちのためになしてくださった救いのみわざのすべてを、わたしたちに教え、悟らせ、また信じさせてくださる働きをされます。神がこの罪の世を愛され、救おうとされ、ご自身が人間のお姿によってこの世においでくださったこと、そのみ子の十字架と復活の福音によって全人類を罪から救い、神の国の民としてくださったこと、そして終わりの日に、すべての信じる人を永遠のみ国で永遠に神と共におらせてくださること、そのことをわたしたちに悟らせ、信じさせてくださる、それが聖霊のお働きなのです。

 15章26節でも、同じようなことが語られています。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」。ここで注目したいことは、ここでは主イエスが聖霊を遣わすと言われていることです。14章26節では、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」と言われていましたが、ここでは「主イエスが父なる神のもとから遣わす聖霊」と言われています。聖霊は、父なる神からとみ子なる主イエスから、すなわち両者から派遣されると読むことができます。

このように理解しているのが、西方教会、ローマ・カトリック教会です。プロテスタント教会の多くは、わたしたち日本キリスト教会もこの理解に立っています。それに対して、東方教会、ギリシャ正教は父なるかからのみ聖霊が派遣されると考えます。日本ではハリストス正教会と呼ばれています。函館ハリストス正教会や東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)などがギリシャ正教に属しています。

それから、ここでも聖霊が「真理の霊」と言われています。14章17節でもそうでした。また、16章13節でもそうです。【16章13節】。聖霊が真理の霊と言われていることが、ヨハネ福音書の大きな特徴です。では、「真理の霊」とは、聖霊のどのような本質を言うのでしょうか。また、どのようなお働きを言うのでしょうか。

「真理の霊はあなたがたを真理へと導く」と言われています。この真理とは、神の真理のことであるのは言うまでもありません。哲学的な真理とか、化学とかその他の学問の真理のことではありません。それらの真理は、人間を賢い生き物にし、さまざまな技術の進歩には役立つでしょうが、人間の罪をゆるすとか、人間の魂を救うことはできません。

神の真理は、人間の本質的な命に迫ります。人間が本当に生きるとはどういうことなのかに迫ります。神の真理は人間の体の命と魂の命に迫ります。そして、人間のまことの救い、まことの平安、幸い、喜び、希望に迫ります。

ここでまず思い起こすのは、主イエスが14章6節で言われたみ言葉です。【14章6節】。主イエスこそが、神に至る唯一の道であり、神の真理へとわたしたちを導く唯一の主であり、まことの救い、まことの命へとわたしたちを導き入れる唯一の救い主です。弟子たちはそのことを主イエスから日々に教えられていましたが、彼らはそれを理解できませんでした。主イエスを信じませんでした。主イエスの十字架から逃亡し、十字架の主イエスにつまずきました。彼らは自分たちの命を守ろうとして、十字架の主イエスを見捨てたのです。

けれども、復活された主イエスは別の弁護者、助け主である聖霊を彼らに送り、主イエスの十字架の死にこそ、罪びとたちを救う父なる神の大きな愛があったことを悟らせ、そこにこそ真の罪のゆるしと救いがあることを信じさせたのです。聖霊を注がれて、弟子たちは自分たちのつまずき、失敗に気づかされました。このような弱い自分たちの罪をゆるされ、再びお招きくださった主イエスの愛を知らされました。聖霊によって弟子たちは再び立ち上がることがゆるされました。これが主イエスによって明らかにされた神の真理です。

主イエスは8章31節以下でこのように言われました。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。神のみ言葉を聞かず、主イエスのみ言葉から離れるならば、その人は罪の奴隷になるほかありません。人間は生まれながらに神を知らず、神に背く罪びとだからです。罪に支配されているならば、だれも自由ではありません。

罪を犯す人は罪の奴隷です。しかし、主なる神の僕(奴隷)となるとき、罪の奴隷から解放されます。聖霊によって、主イエスをわたしの救い主と信じる信仰を与えられるとき、わたしたちも罪の支配から解放され、自由にされ、神の真理に生きる者とされるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの聖なる霊をわたしたちに注いでください。わたしたちの罪の思いや、すべての不安、恐れから解放してください。あなたがみ子を十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛してくださったその大いなる愛を信じて、真の自由の中を歩ませてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月1日説教「使徒的信仰の伝統にしたがって」

2025年6月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(43)

聖 書:詩編135編1~21節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「使徒的信仰の伝統にしたがって」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んできました。きょうは『使徒信条』の前に付けられた「前文」の最後の文章、「わたしたちもまた、使徒的信仰の伝統にしたがい、讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」、この箇所について学びます。

まず、「使徒的信仰」という言葉についてですが、古い時代には『使徒信条』は主イエスの12弟子たちによって書かれたと言い伝えられていました。12弟子たちが、もちろんこの12弟子とは、主イエスを裏切って死んだユダではなく、その後に選ばれたマティアを含んだ12弟子ですが、彼らが『使徒信条』の一項目ずつを書いたと考えられていました。しかし、16世紀の宗教改革の時代のころには、「使徒的信仰」とは12弟子たちが直接に書いたというのではなく、初代教会の指導者であった12弟子たちや他の使徒たちの信仰を正確に受け継いでいるという意味に理解されるようになりました。前回もお話ししたように、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一15章で書いているように、彼が他の教会から受け取り、それをコリント伝道の際に彼らに伝えた、1世紀中ごろのごく初期の信仰告白や、また紀元2世紀ころにローマにある教会で洗礼式の際に告白していたと考えられる『ローマ信条』などを土台にして、初代教会のオリジナルな、正統的な信仰が正確に言い表され、告白されているという意味で、「使徒的信仰」と表現されているのです。

では、初代教会の「使徒的信仰の伝統を受け継ぐ」とは、具体的にどのような信仰の内容を含んでいるのか、二つのポイントを挙げて、さらに考えてみましょう。第一点は、使徒的信仰とは、地上を歩まれた主イエスと行動を共にし、主イエスから直接に教えを受け、そして主イエスの十字架の死と復活、昇天を自らの目で直接に目撃した12弟子たちの体験と証言に基づき、また12弟子たちと共に初代教会の形成に仕えたパウロやその他の使徒たち、それらの使徒たちの信仰が『使徒信条』に告白されているということです。

そして、第二点は、わたしたちの教会、日本キリスト教会はその使徒的信仰を受け継ぎ、それを正確に、正しく受け止めながら、今日の日本の地でどのような教会であろうとしているのか、どのように主キリストの福音を宣教し、どのように主キリストの体なる教会を建て、どのようにわたしたちの信仰を養っていこうとしているのか、そのことが『日本キリスト教会信仰の告白』で表明されているということです。そして、特にその使徒的信仰がこれまで学んできた「前文」の中で告白されていたということを、ここで改めて振り返っているのです。

この二つのポイントを中心にして、『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴についてより深く学んでいきたいと思います。

前回にも学んだことですが、信仰告白とは、聖書に書かれている神の言葉、神の救いの出来事の記録を、短く、その中心点をまとめたものです。宗教改革時代までの信仰告白を、一般に「信条」と言い、それ以後に作成されたプロテスタント諸教派の告白文書を「信仰告白」と呼ぶのが習わしになっています。その信条、信仰告白の源泉は言うまでもなく聖書ですが、その聖書は、その時代の信仰者が実際に体験し、目撃し、聞いた出来事を記しているのであって、その人が体験したその出来事が、その人にとってある特別な重要な意味を持ち、その人の人生を大きく変えるほどの信仰の体験となった、その記録を神のお導きによって書いたのが、今日、聖書として保存されているわけです。

つまり、聖書、またそれをもとにして作成された信仰告白は、その時代の信仰者の実際の体験と目撃証言が記録されているということです。だれかが机の上で考えたり、議論してまとめたり、書物を読んで研究したものではないということです。したがって、今の時代のわたしたちが聖書を読む、また信仰告白を告白するということは、わたし自身がその出来事と、その出来事を体験した信仰者の信仰を、追体験することが大切であると言えます。しかも、その追体験はわたしの人生に大きな衝撃を与え、時にそれまでの古いわたしを根本から破壊し、時にわたしを新しいわたしに造り変え、時に暗闇に迷うわたしを希望の光で照らし、時に打ちひしがれているわたしを新しい命に生き返らせるような、そのような信仰による救いの体験を与える、そのような追体験をわたしたちに可能にするのです。

『使徒信条』やその他の『信仰告白』の中心として告白されている主イエス・キリストのご受難、十字架の死、三日目の復活、そして40日目の主イエスの昇天という出来事を例に挙げてみましょう。主イエスの12弟子たち、初代教会の使徒たちは実際にその目撃者となりました。実際に、復活された主イエスのお姿をその目で見、主イエスの言葉をその耳で聞きました。そして、そこで驚くべき信仰の体験をしました。ペトロをはじめとする12弟子たちは、最後の最後になって躓き、主イエスを見捨てて、十字架から逃げ去ったのでした。ところが、愛し、慕っていた主イエスを失って失意のどん底にあった弟子たちに、復活の主イエスが現れて、彼らの罪をゆるし、彼らに平安を与え、罪と死の力に打ち勝った勝利の言葉をお語りになった主イエスに出会ったのです。とのとき、弟子たちは自らの罪を悟り、悔い改めへと導かれたのでした。そして、復活された主イエスを信じる信仰へと導き入れられたのです。

そのような使徒たちの生き生きとした目撃証言と信仰体験が、福音書や書簡として、聖書にまとめられました。そして、その聖書を短くまとめたそれぞれの時代の信仰者たちも、同じ信仰体験を繰り返しながら、信仰告白としてまとめました。そしてまた、その信仰告白を今礼拝で告白しているわたしたちもまた、同じような信仰体験を繰り返し、追体験しながら、「主イエスはポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、三日目に復活し、天に上られた」と告白しているのです。『信仰告白』を共に告白することによって、わたしたちは同じ信仰の体験をこの礼拝の場で共有しているのです。信仰告白は信仰共同体を形成すると言われるのは、まさにそのことを言うのです。

では次に、日本キリスト教会が「使徒的信仰の伝統」を受け継いでいるということについてもう少し詳しくみていくことにしましょう。日本キリスト教会の歴史は、1872年(明治5年)の日本最初のプロテスタント教会である横浜公会(現横浜海岸教会)にまでさかのぼることができますが、今日と同じ名称の教会として出発したのは1890年(明治23年)になります。この年に、日本基督教会として、現在の信仰告白とほぼ同じ内容の『信仰告白』を制定して、誕生しました。この時に誕生した教会は、この時点で、だれかが新しい運動を起こして教会を造ったというのではなく、紀元1世紀の初代教会時代の使徒たちの信仰の伝統を受け継いで、その使徒的信仰を土台として建てた教会であるということを、その時代の先輩たちは強く意識していたのです。それは、日本基督教会が公同の教会であるということです。

この点が、異端的キリスト教会との決定的な違いです。いわゆる統一教会やエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、その他の異端と言われるキリスト教新興宗教は、19世紀、20世紀になって、一人の創始者が直接に神からの啓示を受けて、活動を始めています。彼らは一様に、初代教会からの信仰の伝統や宗教改革の信仰や神学をほとんど無視します。したがって、『使徒信条』やその他の信条、信仰告白などを告白することもしません。自分たちが新しく創作した教理や組織、秩序だけを重んじます。しかし、それはキリスト教信仰の根源である聖書と使徒的信仰の伝統からはかけ離れたものであることは疑いえません。正統的なキリスト教会は、かたくななまでに、聖書そのものと、聖書を生み出した使徒的信仰の伝統に固執し、そこへと帰り、またそこから出発します。

「讃美と感謝とをもってこれを共に告白します」という告白で「前文」は終わります。この「讃美と感謝」は、もう少し言葉を補えば、「神のみ名とその救いのみわざ、またその救いの恵みに対する讃美と感謝とをもって」となります。つまり、信仰告白とは、神の救いのみわざに対する信仰者の応答であり、それは神賛美と神への感謝とならざるを得ません。もちろん、信仰告白の中には、人間の罪の告白も含まれます。神への悔い改めも含まれます。人間の信仰の応答とか神への奉仕とかも含まれます。それらのすべてをも含んで、最終的には神賛美であり、神への感謝のささげものとしての信仰告白なのです。

詩編135編を読みました。ここには旧約聖書の民イスラエルの信仰告白が表明されています。神が族長ヤコブをお選びになり、ヤコブ、すなわちイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されてご自身の宝の民とされたこと、約束の地カナンへと導かれ、彼らの嗣業としてその土地を与え、シオン、すなわちエルサレムを神の家と定め、そこに神殿を建てさせ、その神殿での礼拝をとおして、ご自身のみ名を賛美させ、主なる神の救いの恵みを感謝させ、そのようにして信仰の民イスラエルを養い育てられたことが告白されています。

わたしたちもまた信仰告白によって、すべての栄光と誉れとを主なる神に帰し、ただ神のみ名だけを崇め、神のみ名のみに服従し、わたしたちを罪から救ってくださった主イエス・キリストの父なる神に、すべての感謝をささげて礼拝するのです。

最後に、「共に告白する」という言葉についてですが、使徒パウロはローマの信徒への手紙10章9節以下で、信仰告白についてこのように書いています。【9~13節】(288ページ)。9節と10節で「公に言い表す」と訳されているもとのギリシャがは「ホモロゲイン」という言葉で、「ホモ」は「同じ、共に」という意味、「ロゲイン」は「ロゴス」すなわち言葉を語るという意味です。一人で、その人の心の中で信じている信仰は、まだ本物の信仰ではありません。だれかと一緒に、公の場で、信仰を言い表す、告白する、そうすることによって、心の中で信じていることが実体を伴うものとなり、現実となり、主イエス・キリストの救いのみわざがわたし自身のものなる、そのようにしてわたしの救いが出来事となるのです。教会とはそのような信仰告白共同体なのです。

【執り成しの祈り】

〇天の父なる神よ、わたしたちをきょうの礼拝へとお招きくださり、あなたの命と救いのみ言葉を聞くことがゆるされ、主イエス・キリストによって与えられた救いを受け取ることができましたことを、心から感謝いたします。この救いのみ言葉を携えて、この世へと出ていくわたしたち一人一人を、どうぞお導きください。あなたへの讃美と感謝とをもって、歩んでいけますように。

〇主なる神よ、どうかこの世界にあなたの義と平和が実現しますように。世界の為政者たちに、主なる神を恐れる信仰をお与えください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月25日説教「生ける神に立ち帰りなさい」

2025年5月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記11章13~21節

    使徒言行録14章8~20」節

説教題:「生ける神に立ち帰りなさい」

 使徒パウロとバルナバの第一回世界伝道旅行の舞台は、地中海の北、小アジアと言われる地域、今のトルコ共和国になりますが、当時はローマ帝国のいくつかの州に分けられていた地域が、その舞台になっています。最初の伝道地はピシディア州のアンティオキアでした。そこから東に130キロにあるイコニオン、さらにそこから南に30キロにあるリストラでの伝道活動が、きょう読んだ14章8節以下に書かれています。

これまでの彼らの道のりを振り返ってみると、ある共通点が見えます。それは、迫害が彼らの次の新しい伝道地を切り開いてきたということです。13章50~51節にこのように書かれていました。【50~51節】(240ページ)。また、【14章5~7節】。そして、きょうの箇所の終わりでも、【19~20節】。その町でパウロたちを襲ってきた迫害、そして命の危険から逃れることが、彼らの次の伝道地を用意していた、生み出していたということが分かります。彼らが自分たちで相談して、次の伝道地を決めていたのではありませんでした。迫害を逃れて、というよりはむしろ、迫害を契機として、迫害をばねとして、迫害を新しいエネルギーとして、彼らは世界伝道を続けていったのでした。

そして、そのたびごとにわたしたちが確認してきた二つのことを、きょうももう一度思い起こしてみましょう。一つは、主なる神の言葉、主イエスの福音は、この世のどのような圧力によっても、人々の不信仰と攻撃によっても、決してその力を失うことはないということ、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないということです。神の言葉をそれらのすべてを打ち砕き、突き破って、前進していく、命と力とを持つ、永遠の言葉であるのだということです。

二つには、使徒たちはその神の言葉を固く信じて、どのような困難や迫害の中でも、神の言葉だけにより頼み、恐れることなく、むしろますます大胆に、熱心に神の言葉を語り続けたということです。

迫害や試練、困難にあるときほど、わたしたちは真剣に、また忠実に、神の言葉に聞くことが大切です。すべての力と希望は、神の言葉から与えられるからです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音こそが、罪と死と滅びに支配されているこの世を救い、変革し、また主キリストの教会を固く立てることができるからです。

では、きょうの8節以下を読んでいくことにしましょう。【8~10節】。リストラにはユダヤ人住民が少なく、ユダヤ教の会堂がなかったのかもしれません。13節には、「町の外にゼウスの神殿があった」と書かれていますので、ギリシャの神々を信奉する人が多かったと推測されます。

ここでは、生まれつき足が不自由で一度も立って歩いたことがない人を、パウロが立ち上がらせたという一つの奇跡がクローズアップされていますが、その奇跡の根本にはパウロが語った神の言葉、主イエス・キリストの福音があったということに注目しなければなりません。9節に、「この人が、パウロが話すのを聞いていた」と書かれてあるように、この奇跡が起こったのはパウロの説教が語られ、それを信じた信仰者がいたということにその始まりがあったのです。ここにはパウロの説教は具体的に記されてはいませんが、彼が主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語ったことは疑う余地はありません。

13章16節~41節までには、パウロの長い説教が書かれていました。そして、それを多くの異邦人が信じたと48節に書かれていました。14章3節には、パウロとバルナバが勇敢に語り、その説教と彼らが行ったしるしと不思議なわざのことが書かれていました。そこでは常に、使徒たちが語った神の言葉と信仰、そしてしるしと不思議なわざとが結びつけられています。きょうの箇所でも同様です。使徒たちが行ったしるしと不思議なわざは、彼らが語った神の言葉の命と力が具体的な出来事となって現れた実例なのであり、主イエス・キリストの救いの恵みが信じる人を新しい命によって生きる者とする具体的な実例なのです。

語られた神の言葉から分離して、奇跡そのものだけを特別視することは誤りであり、また、奇跡を行った使徒たちを、神の言葉から分離して特別視するのも誤りです。初代教会も、またその後の2千年間の教会においても、奇跡のわざそのものを教会の宣教の課題にしたり、伝道の道具のように利用したりすることは決してありえませんでした。

パウロはこのリストラの町でも神の言葉を語ります。主イエス・キリストの福音を語ります。そして、その説教を聞いて信じる信仰者が起こされます。そこから、奇跡が始まるのです。

9節に、「パウロは彼を見つめ」と書かれています。「見つめる」という言葉は、3章4節でも用いられていました。そこでは、「じっと見る」と訳されていました。その箇所で起こった奇跡ときょうの奇跡とは非常によく似ていますので、そこを読んでみましょう。【3章4~7節】(217ページ)。

「見つめる」「じっと見る」というこの言葉は、その人の顔や外見を肉の目で見るのではなく、その人のこれまでの苦悩に満ちた歩みのすべてを感じ取り、今神の言葉の説教を聞いて、彼に救いの道が開かれていることを知らされ、信仰を受け入れる備えが彼にできていることを見る、そして彼がこれからも主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じて歩み続けようとするする決意があることを見る、そのように、その人の過去、現在、未来のすべてを、その人の全体を見ることを意味しています。

実は、この言葉は福音書の中では、主イエスが12弟子たちを召されたときにもたびたび用いられていました。主イエスはガリラヤ湖で漁をしていたペトロとアンデレをご覧になり、「わたしについて来なさい」とお命じになりました。また、ヤコブとヨハネが船の中で網の手入れをしているのをご覧になり、彼らをお呼びになりました。すると、彼らはすぐに主イエスの招きに応えて、すべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています(マタイ福音書4章18節以下参照)。弟子たちをご覧になり、ご自身の弟子としてお招きになられた主イエスの目が、使徒ペトロとパウロにも与えられているのです。もちろん、この目もまた、信仰の目であり、霊の目であり、神の言葉、主イエス・キリストの福音の宣教と固く結びついている目であることは言うまでもありません。神の言葉の説教者であるペトロとパウロは、説教を聞いていたその人の中に芽生えつつある信仰を見て取り、そして実際に、その人の信仰が豊かな救いの恵みを受け取ることを可能にするのです。

パウロは、「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と命じます。すると、その人がすぐに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起こったのです。これはパウロの口を通して語られた言葉ですが、その言葉の中で実際に働いておられたのは主なる神です。神は、神の言葉の宣教のために仕える人たちの口と言葉とをお用いになって、今もこのような救いのわざをなしてくださいます。

ところが、この奇跡がパウロたちに大きな問題を引き起こす原因となりました。【11~13節】。リストラにはゼウス神殿があり、ギリシャの神々が礼拝されていました。ゼウスはギリシャ神話の最高の位にある主神であり、ヘルメスはゼウスの子どもであり、神々の使いとされていました。町の人々はパウロとバルナバをゼウスとヘルメスの神々が人間の姿をとって下って来たのだと考え、彼らに犠牲をささげようとしました。最初のうちは、パウロたちにとっては現地の言葉が理解できずに、何が起こっているのか分からなかったようですが、犠牲にささげる動物や花輪を目の前に差し出されて、二人は初めて事の成り行きを察し、あわてて、驚きと怒りをあらわにして、人々の行動を必死にやめさせようとしました。

【14~15節】。14節では、「使徒たち」という言葉が用いられています。5節でも用いられていました。いずれの場合にも、パウロとバルナバが主なる神から遣わされた神の仕え人であることが強調されています。14節では、二人は旧約聖書の神、イスラエルの神を信じ、その神にお仕えし、その神によってこの町に伝道者として派遣されているということが意識されているように思われます。

すなわち、イスラエルの神、また主イエス・キリストの父なる神を信じている信仰者にとっては、その主なる神以外には神はいない、その主なる神以外は礼拝しない、他の神々と言われているものはすべて偶像に過ぎないという信仰が当然だということです。それゆえに、神ではない偶像の神々を礼拝することは最も神を冒涜する罪であり、神の厳しい裁きを受けねばなりません。天地万物と人間を創造された主なる神のみが唯一の、信じ、仕え、礼拝すべき神です。他のものはすべて、自然であれ、宇宙であれ、あるいは人間であれ、それらはみな神によって創造された被造物なのであって、神にはなり得ないのです。礼拝の対象にはなり得ないのです。これが旧約聖書以来、今日の教会へと受け継がれている信仰の土台です。

パウロとバルナバはギリシャの神々を信じている人々に対して、「このような偶像礼拝から離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」と語ります。天地万物の創造者なる神、また主イエス・キリストの父なる神こそが、全世界に唯一の生ける神です。

「生ける神」という言葉には二つの意味が込められています。一つには、ご自身が唯一の生ける神、命の神、永遠に生きている神であるということです。他のものはすべて、過ぎ去り行くもの、朽ち果てる者もの、死ぬべきものです。

もう一つには、生かす神であるということ、この世界に存在するすべてのものに命を与え、その命を支え、その命を導く神であるということです。主なる神は、無から有を呼び出だすようにして新しい命を生み出し、また死から命を生み出すようにして、死すべきものに復活の命をお与えになります。

その生ける主なる神が、十字架につけられた主イエスを墓から復活させ、罪と死とに勝利した復活の命をお与えになり、また、罪の中にあって死すべきであるわたしたち一人一人にも、罪のゆるしと永遠の祈りの保証をお与えくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをすべての偶像礼拝からお救いください。唯一の生ける神であられるあなただけを礼拝し、お仕えする者となりますように。また、罪と死とに勝利され、今は天におられてわたしたちのために執り成していてくださる主イエス・キリストを、わたしの唯一の救い主と信じて、どのような時にも、信仰の上に固く立つことができますように、お支えください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月18日説教「わたしたちを誘惑にあわせないでください」

2025年5月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記3章1~7節

    ルカによる福音書11章1~4節

説教題:「わたしたちを誘惑にあわせないでください」

 ルカによる福音書11章で教えられている「主の祈り」を学んできました。きょうはその最後になります。4節後半の「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」、この祈りは、マタイ福音書6章13節では、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」となっており、マタイ福音書をテキストにしている式文の「主の祈り」では「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」となっています。少しずつ違いがありますのが、その違いについてはのちほど説明をします。

 「わたしたちを誘惑にあわせないでください」。この祈りによって、わたしたち人間とはどのような者であるのかについて、二つのことをわたしたちは告白します。一つは、わたしたち人間はだれもみな、多くの誘惑、試み、試練に取り囲まれているということです。わたしたちの人生は危険に満ちています。だれにとっても、それは決して安易な道のりではありません。特にも、主イエスを信じて歩む信仰者の道は、そうでない人に比べても、より多くの危険に満ちており、信仰者は他の人よりも多くの誘惑や試みとの戦いを強いられるかもしれません。主イエスはそのことをよくご存じであられます。だから、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられます。

 さらに、わたしたち人間はそのような誘惑や試みに対して、自分の知恵や力で立ち向かい、勝利することができない、弱い者であるということを、この祈りによって告白するのです。わたしたちは小さな誘惑や試練にあっても、すぐに心を乱し、悩み、迷い、あるいは泣き言を言い、不安に襲われます。どんなに頭脳や体力を鍛えても、ささいなことでつまずき、弱音を吐き、くずおれてしまいます。主イエスもまた、わたしたちがそのように弱い者であることをよく知っておられます。それゆえに、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈ってよいと言われるのです。わたしたちは英雄的な信仰者である必要はありません。自ら進んで危険と冒険の道を選び取っていく必要もありません。日本の戦国時代の武士、山中鹿之助のように、「我に七難八苦を与えたまえ」と祈るのではなく、「我を試みにあわせないでください」と祈りなさいと、主イエスはお命じなっておられます。

 16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「わたしたち人間はだれもみな周囲を危険な試みに取り囲まれ、だれもみな自分の力ではその試みに勝つことができない弱い人間なのだ」と言っています。彼は、当時の腐敗した教会に対して、迫害や死をも恐れずに、その誤りを告発し、国家の指導者たちの脅迫に対しても決して屈せず、聖書の真理と福音を証し続け、ついにはローマ教会から破門されたのでしたが、彼は決して改革の英雄として立ち上がったのではなく、ただひたすら忠実な主イエスの僕(しもべ)たろうとしたのであって、彼自身は自分の弱さを最もよく知っていたのです。それゆえに、「主よ、我を試みにあわせないでください」と、主なる神の守りと導きとを信じて、真剣に祈ったのでした。

 主イエス・キリストを救い主と信じてキリスト者になるということは、誘惑や試みが全くない、平穏無事で楽な人生を歩む保証を得たということでは決してありません。ご利益主義の宗教はそれを約束します。しかし、主イエスはマタイ福音書10章16節で、弟子たちのこのように言われました。「わたしがあなたがたを遣わすのは、羊を狼の群れに送り込むようなものである」と。また、ヨハネ福音書16章33節では、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。さらに、ペトロの手紙一1章4節などでは、キリスト者が経験する試練は、信仰がためされ、鍛えられるためのものであるから、むしろそれを喜びなさいとも、勧められています。

 したがって、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」という祈りは、試みを避けて、安全な道だけを通ることができるようにと願っているのではありません。この祈りは、どのような誘惑や試練、あるいはそこからやってくる迷いや悩みの中でも、それがわたしを神から引き離す原因とさせないでください。むしろ、わたしがそれらに勝利することができるように、わたしを守り、導いてくださいということを願う祈りなのです。「次々にわたしを襲ってくる試み、試練、災い、不安、恐れの中で、わたしを守るのは、主なる神よ、ただお一人、あなただけなのですから、わたしはあなたのもとに逃れ、あなたにわたしのすべてをお委ねする以外にありません。わたしにはそれらからわが身を守る知恵も力もありません。しかし、主よ、あなたにはすべての力と知恵とがあります。あなたはわたしたちを耐えられないような試練にあわせることをなさらないだけでなく、それに耐えることができるように、逃れの道を備えてくださいます。それゆえに、わたしはあなたにこう祈ります。どうか、わたしを試みにあわせないでください」と。

 では次に、わたしたち信仰者にとっての誘惑、試み、試練とはどのようなものなのかを聖書からさぐっていきましょう。実は、主イエスご自身が宣教活動を始められる前に、悪魔の誘惑にあわれたということを、マタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書が一致して伝えています。ルカ福音書では4章1節から記されています。そこに記されている悪魔の誘惑をみると、それは必ずしも、最初から悪意に満ちたものではなかったということが分かります。悪魔は表面的には優しい顔をして、人の同情をかうかのようにして近づいて来て、思いやりのある言葉を語り、相手の興味や関心、心の中に眠っている欲望を引き出すように語ります。

 「イエスよ、お前が神の子ならば、この石にパンになるように命じたらどうだ。お前自身の空腹が満たされるだけでなく、多くの人たちを飢餓から救うことだってできるのだから」。また、悪魔は誘惑します。「イエスよ、お前にこの国の一切の権力と繁栄とを与えよう。もしお前がわたしに仕えるならば、すべてはお前のものになる」。悪魔は続けます。「お前が神の子ならば、神殿の屋根から飛び降りてみよ。神は天使たちによってお前を助けるだろから。そして、多くの人々の前でお前が神の子であることを証明して見せよ」。

そのようにして、悪魔は最終的には人間が神なしでも生きていけるように錯覚させ、人間が自ら神のようになれると思いこませるのです。そのようにして、人間をついには神から引き離そうとするのです。これが悪魔の試みの最も恐るべき実体なのです。創世記3章に書かれている誘惑者蛇もまた同様だったことを思い起こします。

 わたしたちが信仰者として生きていくとき、日々の信仰の歩みの中でもまた同じような誘惑や試みがわたしたちを襲ってきます。わたしが願っていなかった苦しみとか重荷、突然にやってくる災いや試練が、わたしの信仰を脅かすことがありますが、それ以上に、悪魔は時として好ましい姿で、優しい顔でわたしと神との間に入り込み、わたしを神から引き離そうとすることがあります。あるいはまた、この世の栄誉や地位への誘惑が、あるいは人間の正義感や倫理、道徳、勤勉であること、健康志向や理想を追い求めること、その他あらゆることが、わたしを神なしでも生きていくことができるという誤った自信や傲慢な思いを生み出す原因となるのです。

 わたしたちの人生は、日々に多くの危険に取り囲まれています。そうであるからこそ、主イエスは、「わたしたちを誘惑にあわせないでください」と祈るように命じておられるのです。この祈りなしには、わたしたちは一歩も安全に信仰の道を進むことができないのです。主なる神の助けと導きとを祈り求めることなしには、わたしたちはだれもみな信仰の歩みを全うすることはできません。

 エフェソの信徒への手紙6章10節以下では、厳しい信仰の戦いの中で苦闘する信仰者を、このように励まし、勇気づけています。【10~18節】(359ページ)。わたしたちが悪魔の誘惑に打ち勝って、固く立つことができるために、神はこのように多くの信仰の武具をわたしたちに授けてくださいます。その中でも祈りは最大、最強の武具です。なぜなら、祈りは神ご自身がわたしのために戦ってくださることだからです。祈りによって、わたしたちは神に結ばれます。祈りによって神に結ばれることで、わたしを神から引き離そうとする悪魔の誘惑をすぐに悟ることができるようになります。祈りによって、わたしたちは悪魔の誘惑の正体を正しく知ることができるようになるからです。

 ここで、マタイ福音書とルカ福音書、また式文の違いについて少しふれておきましょう。ルカ福音書では、マタイ福音書にある「悪い者から救ってください」が省略されています。なぜ省略されたのかは、はっきりとは分かっておりませんが、たぶんルカ福音書では「わたしたちを誘惑にあわせないでください」の中に「悪い者から救ってください」という祈りも含まれていると理解したからではないかと、推測されています。また、マタイ福音書では「悪い者」となっているのに対して、式文では「悪より」となっているのは、翻訳の違いです。もとのギリシャ語では、中性名詞と男性名詞とが同じ表記になるために、どちらに訳すことも可能です。ただし、今日多くの学者は男性名詞と理解し「悪しき者」と訳すべきだと主張しています。聖書の悪は、抽象的なものではなく、人格的な、生き物のような存在として人間を襲ってくるように描かれているからです。

 最後に、わたしたちは主イエスがその宣教活動の始めに悪魔の誘惑にあわれ、それに勝利されたことを思い起こしながら、主イエスはまたそのご生涯の最後には、最も恐るべき悪魔と罪の誘惑に最終的に勝利されたことを確認しておきたいと思います。ヘブライ人への手紙4章15節にこのように書かれています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」。

また、2章18節には、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けているいる人たちを助けることがおできになるのです」。

主イエスはわたしたちを罪と死から救い出すために、ご自身が十字架の死という大きな試み、試練を経験されました。そして、父なる神への全き服従によって、罪と死に勝利されました。この主イエス・キリストが共にいてくださるならば、どのような試練も災いも、死すらも、わたしたちを神から引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くの悪しき者や罪の誘惑にさらされています。また、その誘惑に負けてしまう弱い者たちです。神よどうか、わたしたちをお守りください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月11日説教「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡」

2025年5月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記7章1~13節

    使徒言行録7章35~38節

説教題:「エジプトでモーセが行ったしるしと奇跡」

 出エジプト記3章から6章までは、モーセが出エジプトという神の偉大なる救いのみわざのために仕える指導者として選ばれ、立てられるという、モーセの召命について、かなり長く、詳しく書かれていました。これを、預言者が預言者の務めに召される召命の記録と比べてみますと、たとえばイザヤ、エレミヤが神に選ばれて預言者として立てられる召命の記録がそれぞれの書に書かれていますが、そのいずれも、このモーセの召命の記録ほどには長くはありません。イザヤは自分が罪に汚れているので預言者としてはふさわしくないと言って神の招きを拒みました。エレミヤは、自分は年が若いから預言者にはふさわしくないと言って断りました。でも、その二人の預言者の召命の記録はこのモーセの召命の記録ほどには長くはありません。モーセは、神の招きに対して何度も何度も、数えてみれば実に5回も、自分は口が重く、臆病者で、指導者としては向いていないなどと理由を並べて、神の招きを拒みました。それが、モーセの召命の記録がこれほどに長くなった理由でした。

 そのモーセに対して、7章1節で、神はこのように言われます。【1節】。神はここで、モーセをファラオに対して神の代わりとすると言われます。これはどういうことでしょうか。この箇所のヘブライ語原典を直訳するとこうなります。「主はモーセにこのように言われた。見よ、わたしはあなたをファラオに対して神とした。あなたの兄弟アロンはあなたの預言者となるであろう」。これは驚くべき神の言葉です。神はモーセをファラオに対して、あるいはファラオのために、神としたと言われたのです。『新共同訳聖書』では「神の代わりとする」と翻訳し、他の日本語でも「神のように」と訳すことによって、モーセが直接神になるという誤解を生まないように工夫しています。けれども、「……の代わりに」とか「……のように」という言葉は本来はありませんから、「モーセを神とする、神と任じる」と言われているのであって、しかも動詞は完了形になっていますから、「わたしはあなたを神として立てた」という意味で言われているのです。さらに、冒頭には「見よ」という強調する言葉があって、その神のみわざが強調されているのです。わたしたちは驚くべきこの神のみ言葉をどう理解すべきなのでしょうか。いくつかの視点から考えていきましょう。

 一つは、神の召命を受けながらも何度も躊躇し、拒絶し、その務めから逃れようとしていた弱く、貧しく、頼りないモーセを、神はまさに神として立て、エジプト王ファラオの前でイスラエルの神として立つようにお招きになった、あるいはそうなるようにお命じになったということです。モーセをそのようにされるのは主なる神です。モーセに、そのようになれ、とお命じになるのは主なる神です。たとえ、モーセ自身がどのように欠けや破れの多い人間であっても、神はそのモーセをお用いになって、神の働きをなさしめるのだと言われるのです。すべては神がなさることです。モーセはその神に黙って服従するのです。

 エジプト王「ファラオに対して」とあるのは、エジプトではファラオが神の化身、すなわち現人神と信じられていたことと関連すると考えられます。そのエジプトの神の化身であるファラオの前に立ち、その王と対峙し、しかもそのエジプトの神が偽りの神であり、偶像の神であることを明らかにするために、そして、イスラエルの神こそがまことの唯一の真実なる神であることを示すために、モーセはファラオの前にイスラエルの主なる神として立つようにと命じられているのだということです。

 もう一つ考えておかなければならないことは、人間が神となることの危険性についてです。創世記3章に書かれているように、最初に創造された人間アダムとエヴァは、その実を食べたら神のようになれるよとの誘惑者蛇の誘いにのって、神に食べるなと禁じられていた木の実を食べ、神の戒めを破りました。これが人間の罪の根源、原罪です。そこには、人間が神のようになるという誘惑がありました。人間が自ら神のようになることによって、もは神を必要としなくなること、それが人間の罪の根源です。

 神がここでモーセを神とすると言われることには、その危険性はないのでしょうか。しかし、わたしたちはこれまでのモーセの召命の記録を読んできて何度も確認したように、これはモーセ自身の願いとか意志によるのではなく、神からの招きであり、神の命令だということは、はっきりしています。モーセ自身が自ら神になろうとしているのではなく、むしろモーセは人間の中でも能力に欠け、意欲も野心もなく、取るに足りない者であることを自覚しているのです。彼は自分の無力さに絶望していました。彼はただ神の招きと命令によって、ファラオの前にイスラエルの神の代理として立つことができるのです。

 1節の神の招きのみ言葉は、これまでにも何度か語られていました。【4章14~16節】(99ページ)。神はモーセの弱さや不安、迷いを取り除くために、何度も繰り返してみ言葉をお語りになり、彼を励まし、彼に力をお与えになりました。神が常にモーセと共におられ、またアロンと共におられ、彼らにみ言葉をお語りになり、彼らになすべきことをお示しになるという、この神の約束のみ言葉こそが、モーセを神としてファラオの前に立たせ、またアロンを預言者として立てるのです。

 7章1節でもう一つ注目したい言葉があります。「預言者」という言葉が出エジプト記の中でここに最初に用いられています。旧約聖書の時代で最も早くに預言者と呼ばれているのがモーセの兄アロンです。のちの時代のイスラエルのいわば専門職としての預言者とは多少違いますが、ここには預言者の務めの基本が語られています。2節に書かれているように、主なる神がまずモーセにみ言葉を語り、次にモーセがアロンに神が語られてように語り、それをアロンがそのようにファラオに語る、そのようにして神の言葉がファラオにもたらされるというのです。先ほど読んだ4章14節以下にも同じようなことが言われていました。

 つまり、預言者とは神が語った言葉をそのまま他の人に、イスラエルの民やエジプト王ファラオの語る、そうすれば、そこで神の言葉が出来事となり、神の裁きと救いのみわざがなされる、それが預言者の務めであるということです。預言者とは、神の言葉を聞き、それを預かり、それをそのままに他者に、民に語り、そこで神の出来事を引き起こすのがその務めです。、モーセとアロン以後、イスラエルは千年以上の期間、神によって召された預言者たちが語った神の言葉によって導かれてきました。そしてついに、まことの預言者であられ、神の言葉そのものが受肉された主イエス・キリストによって、神の救いのみわざが、成就されたのです。

 次に、【7章3~7節】。モーセがファラオの前で神として立てられるという神の約束は、モーセがこれからのち試練や苦難に遭遇しないということではありません。むしろ、3節では、主なる神ご自身がファラオの心をかたくなにするから、モーセが語る言葉を彼は簡単には聞かないであろうと言われています。イスラエルの民を解放するようにとのモーセの要求は、エジプトの国で行われる多くのしるしと奇跡を見ても、ファラオはかたくなに拒み続けるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは、多くの困難に直面し、神は二人を困窮させるであろうと言われているのです。モーセとアロンの務めは容易ではありません。

 神がこれほどまでして、ファラオの心をかたくなにし、モーセとアロンの務めを困難にされるのはなぜでしょうか。5節後半に、このように書かれています。「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」と。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出されるという本来の救いのみわざをなさるだけでなく、エジプト王ファラオのかたくなさによって、より偉大なる神のみ力を表され、それによって異邦人である不信仰なジプト人もまたイスラエルの神こそが全地の唯一の主であることを知るようになるのだと言われます。神はエジプト王ファラオのかたくなな心をも支配しておられます。それだけでなく、神はイスラエルの民ユダヤ人と異邦人であるギリシャ人のすべての人間の不信仰と罪の中で、主イエス・キリストによる救いのみわざを成就なさるのです。

 7節には、モーセがファラオの前に立ったのは80歳であったと書かれています。申命記34章7節によれば、出エジプト後のイスラエルが荒れ野の40年の旅を終えて約束の地を前に、120歳でモーセは世を去ったとありますから、その記録と合致します。また、使徒言行録7章のステファノの説教によれば、モーセは誕生してから40年間はエジプトの王宮でファラオの娘の子として育ち、その後40年間はアラビヤのミディアンの地で過し、80歳の時に神の召命を受けてイスラエルの指導者として立てられたという内容とも一致します。モーセはそれぞれの年代と時代に、神によって定められた人生を歩み、神の僕(しもべ)、神の預言者としての務めを全うしたのです。

 8節以下には、モーセに与えられた「神の杖」によって、モーセとアロンがファラオの前で奇跡を行ったことが書かれています。【8~13節】。この箇所の重要なポイントを二つにまとめてみましょう。一つには、この奇跡によって、イスラエルの神がエジプトの魔術師たちや神々に勝利したということが語られています。イスラエルの主なる神は、エジプトの神々や神の化身と自称する王ファラオとに勝利され、ご自身が選ばれたイスラエルの民をその全能のみ力によってエジプトから導き出されるということがここですでに暗示されているのです。

 もう一つは、エジプトの魔術師たちは人間の能力を超えた力を発揮したり、人々を驚かせたりすることはできるけれども、それはエジプトや世界の歴史を変えることも、人々にまことの救いをもたらすことはできないのに対して、神がモーセとアロンに与えた「神の杖」は、数々のしるしや奇跡を起こし、それによって主なる神の偉大さを示し、ついにはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出すであろうことをも、あらかじめ暗示されています。モーセとアロンはその「神の杖」によって、これから7章14節以下に記されているように、エジプトの地で数々のしるしと奇跡を行って、神の救いのみわざのためにお仕えするのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出され、また、今この時には、み子主イエス・キリストの十字架と復活によって、全人類を罪と死から救い出されました。あなたの救いのみわざは今もなお続けられています。どうか、迷いと悩みの中にあるこの世界をお救いください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。