2025年4月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
復活日(イースター)礼拝
聖 書:詩編130編1~8節
ローマの信徒への手紙6章1~11節
説教題:「主イエス・キリストの死と復活にあずかる」
きょうの復活日(イースター)礼拝で朗読された聖書、ローマの信徒への手紙6章1~11節では、わたしたち人間の死ぬことと生きることが取り上げられています。ここには、死ぬという言葉と、生きるという言葉が何度も用いられています。しかも、その二つの言葉はいつでも一つの文章の中で一緒に連なって用いられています。いくつか読んでみましょう。2節、「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょうか」。それから、4節。【4節】。また、8節でも。【8節】。最後に、11節。【11節】。
わたしたちが人間の死ぬことと生きることを考える場合、いつでもその二つのことを切り離さずに、それぞれの関連とつながりの中で考えなければならないということを聖書は教えています。死を考える場合には命と生きることとの関連の中で、命や生きることを考える場合には死と死ぬこととの関連の中で考えることが重要です。両者を切り離して、死や死ぬことだけを独自に考えるのではなく、また命や生きることだけを独自に考えるのでもなく、その両者が互いに分かちがたく結びついているものとしてとらえることが重要だということです。
それから、きょうの箇所でのもう一つの特色は、先ほど挙げた4つの文章では、いつの場合にも、死と死ぬことが先に言われ、次に生きることが言われているということです。これは、人間の一生を考える場合、普通の順序ではないと言わなければなりません。わたしたちはだれもみな、生まれ、生きて、そして死んでいきます。生きることが先にあり、次に死ぬことが続きます。そして、死ぬことで最後となります。
ところが、きょうの聖書の箇所では、それが全く逆になっています。しかも、4つの文章がみなそうなっています。死ぬことが先にあり、つぎに生きることが続いています。そして、最後は復活と新しい命に生きることが語られているのです。聖書は、はっきりと意識して、普通の順序を逆転させているということに気づきます。
なぜ、意識的に逆転させているのでしょうか。その答えは、きょうの箇所で「わたしたち」という言葉と共に用いられている「キリスト・イエス」にあります。この方、主イエス・キリストが人間の、生きるから死ぬへと至る順序を、逆転させたからです。
神のみ子である主イエスのご生涯は、わたしたち人間と同じように、ヨセフとマリアの子としてお生まれになり、赤ちゃんだった時があり、12歳だった時があり、30歳のころに、神の国の到来を告げる説教者として立ち、およそ3年余りの活動期間を経て、エルサレムでユダヤ人指導者たちによって捕らえられ、裁判にかけられ、ローマ帝国の地方総督ピラトによって十字架刑の判決を受け、受難週の金曜日に十字架上で息を引き取られました。
ここまでは、わたしたち人間と同じ順序でした。ところが、主イエスは墓に葬られてから三日目の日曜日の朝早くに、墓から出て、復活されたのです。主イエスの亡骸は墓にはありませんでした。数人の婦人たちや弟子たちがその証人となりました。そのあと、40日間にわたって、主イエスは復活されたお姿を多くの人たちの前に現わされました。
主イエスの復活の目撃証人となった弟子たちは、十字架につけられた主イエスが復活されたことを信じ、その復活信仰によって形成された教会の民となりました。主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、復活信仰から始まっています。死によっては終わらない、復活信仰によって生きる、新しい命に生きる教会の民が形成されたのです。それによって、生きるから死へと至る人間の一生とは違う、死から新しい命に生きるという、逆転が起こったのです。
そこで、きょうの聖書の箇所の三つ目の大きな特徴に注目しなければなりません。ここでは、わたしたちの死ぬことと生きることとが、主イエス・キリストの死ぬこと、生きることとの密接な関係の中で語られているということです。主イエス・キリストご自身が生きるから死ぬへと至る順序を、死ぬから生きるへと逆転させてくださったのですから、わたしたちが主イエス・キリストと固く結ばれているならば、わたしたちもまた、主イエス・キリストと同じように、死ぬから生きることへと変えられることになるのです。
では、それがどのようにして起こるのでしょうか。主イエス・キリストが起こしてくださった逆転が、どのようにしてわたしたちの逆転になるのでしょうか。そのことを探っていきましょう。
この手紙の著者である使徒パウロは、主イエス・キリストの十字架の死と復活が、どのようにしてわたしたち信仰者の死と新しい命に生きることに結びつくのかを、洗礼という儀式で説明しています。洗礼は元来、ユダヤ教の改宗者の入会儀式であったと推測されています。ヨルダン川に身を沈めることによって、今まで信じてきた諸宗教の神々と死に別れ、川から上がってきた時にはユダヤ教の神を信じる新しい信仰者に生まれ変わるということを、言い表していました。そのユダヤ教の洗礼が、洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を経て、主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰を告白する儀式へと変わっていきました。それによって、洗礼には新しい意味が付け加えられたのです。
キリスト教信仰による洗礼の第一の意味は、3節に書かれているように、「主イエス・キリストの死にあずかる洗礼」です。主イエス・キリストが十字架で死んでくださったその死が、洗礼によってわたしの死となり、罪に支配されていた古いわたしがそこで死ぬのです。それは単に象徴的な意味で死ぬということではなく、主イエス・キリストが十字架の死によってわたしの罪のために代わって神の裁きを受けてくださり、わたしに代わって死んでくださったという事実によるわたしの死なのです。主イエスご自身は罪のない神のみ子でしたから、本来裁かれることも死ぬこともあり得なかったのですが、主イエスは徹底してこのわたしのために、わたしの罪のために死んでくださったからです。4節の前半にこのように書かれています。【4節a】。
同じようにして、主イエス・キリストの復活もまた、わたしのための復活であり、わたしを新しい命へと生かすための復活であったことが、4節後半に書かれています。【4節b】。これがキリスト教信仰による洗礼の第二の意味です。主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって神の義を満たされ、神の救いのみわざを成就されました。それによって、主イエス・キリストは罪と死とに勝利されたのです。神は主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださいました。そして、洗礼によって、主イエス・キリストの罪と死に対する勝利が信仰者の勝利とされるのです。主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰者は罪の支配から解放され、新しい命に生きる者とされるのです。
洗礼は、主イエス・キリストの死と復活を、洗礼を受ける信仰者、わたしたちの死と復活の命に固く結びつけます。そのことを言い表す言葉が、きょうの聖書箇所には数多く用いられています。3節では、「キリスト・イエスに結ばれる」、4節では、「キリストと共に」、5節では、「キリストと一体なって」、6節と8節でも、「キリストと共に」、11節では、「キリスト・イエスに結ばれて」、これらの言葉によって二つのことが強調されています。
一つは、洗礼によって主イエス・キリストの出来事がわたしの出来事となるのですが、その出来事の主体は、常に主イエス・キリストの側にあるということです。主イエス・キリストのご生涯とご受難十字架の死、そして復活のすべてが、わたしのためであったということです。わたしはその救いの恵みを、洗礼をとおして、感謝をもって受け入れるのです。
もう一つには、その救いの恵みの大きさ、力の偉大さが強調されているのです。主イエス・キリストの神のみ子としての十字架と復活の出来事は、ただ一回で、完全で、永遠で、普遍の力と命を持っています。その救いの恵みは、すべての時代のすべての人に及ぶのです。だれであれ、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受ける信仰者に、この救いの恵みが与えられます。8節に書かれているように、【8節】という、この信仰によって、すべての信仰者は生きるのです。
(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、罪の中にあって死すべきであったわたしたちのために、苦しみを受けられ死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストの救いの恵みを、どうかわたしたち一人一人に豊かに与えてください。また、多くの人々にも与えてください。
〇この後で行われる洗礼式、入会式の上に、あなたからの豊かな祝福がありますように。
〇主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界に実現しますように。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。