9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月20日説教「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

2020年9月20日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章3~11節

    ルカによる福音書4章38~44節

説教題:「神の国の福音を告げ知らせる主イエス」

 主イエスのガリラヤ伝道の拠点は、ガリラヤ湖北西の湖岸の町カファルナウムでした。主イエスは安息日にこの町の会堂で説教され、また悪霊にとりつかれた人から悪霊を追い出し、彼をいやされました。主イエスは安息日の主として、神の権威あるみ言葉を語られ、またそのみ言葉の力で悪霊に勝利されたということがルカ福音書4章31節以下に書かれていました。

 次の38節にはこうに書かれています。【38節】。主イエスは安息日の礼拝を終えて、シモンの家にお入りになりました。シモンとは5章で主イエスの12弟子の一人となるシモン・ペトロのことです。シモンはこの家で奥さんの母と同居していたようです。のちにはこの家が主イエス一行のガリラヤ伝道期間の宿となったのではないかと推測されています。奥さんの母は高熱が長く続く病気で苦しんでいました。たぶんマラリアのような病気だったと思われます。主イエスはこの家でしゅうとめの病気をいやされ、またその日の夕方からは多くの病気の人をいやされたということがここには書かれています。

 ここでまず初めに注目したいことは、主イエスは安息日の礼拝で神の権威あるみ言葉を説教され、またその力あるみ言葉によって悪霊に勝利されましたが、礼拝が終わって会堂を出てからも、シモンの家でもまた安息日の主として働かれたということです。礼拝が終われば、主イエスのお働きが終わり、どこかでくつろがれるというのではありませんでした。主イエスは安息日の会堂でも、礼拝が終わってからの家々でも、安息日の主として、メシア・キリスト・救い主として、神の救いのみわざをなし続けられます。それだけではありません。40節に「日が暮れると」とありますが、安息日の日没から次の日が始まります。新しい一日が始まります。安息日の翌日にも、主イエスはなおもお働きになります。その日にも、またその次の日にも、いつでも、毎日、主イエスはわたしたちの主として、救い主として、家々で、町々で、至る所で、すべての人の救い主として、神の救いのみわざをなし続けられるのです。主イエスは主の日の礼拝で主であるのみならず、礼拝堂を出てからのすべての時にも、家でも、職場でも、すべての場所でも、わたしたちの主であり続けられるのです。

 主イエスはシモンの家に入られました。彼のしゅうとめが高い熱で苦しんでいたと書かれていますが、苦しんでいたのは彼女だけではなく、おそらくシモンも彼の妻も苦しんでいたのだと思います。家族のだれかが重い病気になることはその家族全体にとって大きな痛みです。そのような家庭の中に主イエスが入って来られました。主イエスがその家庭の主となられます。その時、わたしたちは家族の重荷や痛みのすべてを主イエスに委ねることだできます。もし、自分の力で、家族だけの力でその重荷や痛みに耐えねばならないのだとしたら、時としてわたしたちは疲れ、絶望してしまうほかにないでしょう。けれども、わたしたちはそれを主イエスにお委ねすることができます。主イエスがわたしたちに代わってその重荷を負われ、その痛みを引き受けてくださいます。

 「人々は彼女のことをイエスに頼んだ」とあります。それまでおそらく医者や祈祷師などに頼って病気のいやしを願ったことでしょう。しかし、その願いは果たされませんでした。ところが、今や彼らの願いを聞き入れてくださる救い主がこの家に入って来られました。【39節】。主イエスは病める人の枕もとに立たれます。その病をいやす救い主として。主イエスはすべての病める人の枕もとにも立っておられます。その人の救い主として。

 ここでも、主イエスがお語りになるみ言葉の権威と力が強調されています。悪霊を追い出し支配された主イエスは、すべての病をも支配され、その病から解放されます。わたしたちはこのような主イエスのみ言葉を信じて、自分のすべての重荷やわずらい、病や苦しみを主イエスにお委ねすることができるのです。

 「彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした」。彼女がいやされたのは、いやされた健康な体で彼女自身が楽しむためではありませんでした。主イエスにお仕えし、すべての人に仕えるためでした。このことをわたしたちは見逃してはなりません。わたしたちが主イエスと出会い、主イエスの福音を聞いて救われ、あるいは病がいやされるのも、同じ目的を目指しています。また、同じ目的を目指して生きることこそが、本当の意味で救われ、いやされたことになるのです。「一同をもてなした」と書かれています。もしかしたらここには、のちになって主イエスと12人の弟子たちがガリラヤ伝道の期間中にシモンの家としゅうとめが主イエスの一行をもてなすようになったことをあらかじめ予想しているのかもしれません。

 40節からは安息日の翌日のことが書かれています。安息日には歩く距離が制限され、また病人を運ぶことは安息日に禁じられている労働と見なされていましたので、夕方、日没になって安息日が終わってから、いろんな病気に苦しむ多くの人たちが主イエスのもとに、家族や友人に連れられてやって来ました。主イエスはその一人一人に手を置かれ、いやされました。安息日の救い主・主イエスは他のすべての日々にもすべての人にとっての、すべての病める人にとっての救い主であられます。主イエスはいつでも、どこでも、だれでも、病める人、いやされなければならない人、救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も、休みなく働かれます。

 【41節】。33節以下で悪霊に取りつかれた人の場合にもそうであったように、悪霊は人間以上の能力を持っていて、主イエスがメシア・キリスト・救い主であることを、この時点ですでに見抜いていました。「主イエスが神のみ子であり、メシア・キリストである」という信仰告白こそがわたしたちの信仰告白の中心であることは言うまでもないことですが、そのことをユダヤ人のだれ一人としてまだ悟っておらず、信じていなかったこの初期のころに、悪霊がすでに知っていたということは、驚くべきことでありまた注目すべきことです。けれども、悪霊は主イエスが自分たちを滅ぼすほどの権威と力とを持っていることを知って恐れているだけです。それは本当の信仰告白ではありません。主イエスは悪霊の真実の信仰を伴わない偽りの信仰告白をおゆるしにはなりませんでした。主イエスは悪霊を支配しておられます。

 次の42節以下は、わたしたちがきょう学んできた38節以下と密接に関連しています。【42節】。主イエスはおそらく一晩中、多くの病気の人たちをいやされ、朝になって「人里離れた所へ行かれた」とあります。人里離れた所とは、荒れ野、砂漠地帯を意味しています。何のためでしょうか。疲れた体を休めるためでしょうか。並行個所のマルコ福音書1章35節には、はっきりと祈るためであったと書かれています。ルカ福音書でもこのあとに、主イエスが人々から離れて山に登られ、一人で祈られるお姿をしばしば見ることができます。主イエスは多くの悩める人たちのために寝る間も惜しんでお働きになりますが、主イエスにとってそれ以上に大切な時間は、お一人で父なる神と対面し、祈ることでした。主イエスは父なる神のみ心なしには、何をもなさいません。父なる神からいただくみ言葉の権威と力によって、また聖霊によって、主イエスはすべての救いのみわざをなさいます。それゆえに、父なる神への祈りこそが主イエスのお働きの源なのです。

 ここにはもう一つの意図があったように思われます。それは人々から一時遠ざかるということです。人々は病気の人たちのいやしを求めて主イエスのもとへとやって来ます。主イエスはその人たちをおいやしになります。けれども、主イエスはその人たちを避けて、その人たちから遠ざかろうとしておられるのです。人々は主イエスを自分たちのそばに引き留めようとしていますが、主イエスは43節でこのようにお答えになりました。【43~44節】。

ここで二つのことが明らかになります。一つには、人々は主イエスのお働き、救いのみわざを誤解する恐れがあったということです。彼らは病気に苦しむ人を連れてきて、主イエスにいやしてもらうことを願っていました。自分たちの願いをかなえてもらうことが彼らの主たる目的でした。もちろん、主イエスは救い主として人々を苦しめていたすべての悪しき霊と病に勝利されます。人々をそれらの支配から解放されます。イザヤ書61章で預言されていたように、「貧しい人が福音を聞かされ、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられる」(4章18節以下参照)ために、主イエスは父なる神から派遣されたのです。しかし、病気のいやしを求めてくる人たちは、主イエスがメシア・キリスト・救い主であるということを十分に信じないまま、ただいやしの奇跡だけを求めてやって来ます。それを見た人たちも、主イエスのいやしの奇跡だけを期待するようになっていきます。主イエスは人々のこのような誤解を解かなければなりません。そのために、主イエスはひとたび人々から遠ざかり、主なる神のもとへと逃れます。父なる神のみ心が何であるのかをはっきりと確かめるためです。

それとともに、主イエスは43節でご自身の主たる目的をはっきりとお語りになりました。それは、神の国の福音を多くの町々村々で告げ知らせることです。このために主イエスはこの世へと派遣されたのです。主イエスのすべての説教、いやしの奇跡、あるいは他の様々な奇跡も、神の国の福音を全世界に宣べ伝えるためなのです。そのために、主イエスは十字架への道を進み行かれました。主イエスの神の国の福音宣教の使命、務めは十字架によってその最終目的に達し、成就するのです。

わたしたちはここで、福音書を読むにあたっての、最も基本的で重要な姿勢を確認しておかなければなりません。それは、福音書に書かれているすべてのことは、福音書だけでなく他の聖書もそうなのですが、主イエスの十字架の光の下で読まなければならないということです。特に、病気のいやしや他の奇跡のみわざは十字架の光なしには正しく理解されません。多くの人は奇跡だけに目を奪われて、十字架を見ようとはしません。奇跡は神の国の福音の目に見えるしるしです。重要なのはしるしではなく、神の国の福音、十字架の福音そのものです。

主イエスは十字架の死によって、すべての悪しき霊や悪や罪を打ち破り、それらに勝利され、神の新しいご支配である神の国を開始されました。そして、信じる人たちの罪をゆるし、神の国の民の一員としてお招きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちをすべての悪と罪から解放してくださり、主キリストに

ある自由へとお招きください。そして、喜んで神と隣人のために仕える人にしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月13日説教「神の祝福と契約」

2020年9月13日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記9章1~17節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「神の祝福と契約」

 創世記8章の終わりに書かれていたように、大洪水のあと地が乾いた時、神はノアに箱舟から出るように命じました。ノアは神に命じられたとおりに、彼の家族、動物たちと一緒に箱舟を出ました。大洪水のあと、新しい世界に住むノアとその子孫との第一歩は、神の言葉によって始められました。創世記6章から9章に描かれている大洪水物語りの中でノアの態度で一貫していること、すなわちノアは一言も言葉を発せず、ただ主なる神だけが語り、ノアは黙々として神の言葉に聞き従う、このノアの姿勢は、当然洪水以後も貫かれます。そのノアが、箱舟から出てまず最初にしたことは、祭壇を築いて神を礼拝することでした。神礼拝こそが、新しい世界で生きるノアとその子孫の生きる基本であると聖書は教えています。きょうの主の日に、わたしたちが教会に集い、神を礼拝することから新しい一週の歩みを開始するということは、この聖書の教えに従うことなのです。

 ではさらに、大洪水以後の新しい世界に住んでいるわたしたちがどのように生きるべきなのかを9章のみ言葉から聞いていきましょう。【1節】。これは創世記1章28節のみ言葉とほとんど同じです。神が最初に人間を創造された時、人間アダムに祝福のみ言葉を語られたように、大洪水以後の新しい世界においても、ノアとその家族に同じように祝福の言葉をお語りになります。人間に対する神の祝福の言葉は、神の厳しい裁きのあとでもなおも失われることありません。神は大洪水以後も、人間が生み、増え、地に広がることを望んでおられます。神は大洪水以後も人間の命の主であられます。ノアの大洪水以後のすべての人間の命には、この神の祝福と恵みがあります。あるいはこう言うこともできるでしょう。人間はこの神の祝福がなければ、その命をながらえることも、増やすこともできないのだと。

 次の2節も1章28節で語られていた内容と一致します。【2節】。人間は大洪水以後も、神が創られたすべての生き物と被造世界全体を造り主なる神のみ心に従って治め、管理する務めを神から託されています。人間はここでもすべての被造物のかしらであり頂点であるという、その立場は失っていません。

 ただ、ここでは新しい内容が付け加えられています。【3節】。大洪水前の人間は1章29節に書かれていたように、穀物や果実が食物として与えられていましたが、洪水後は動物の肉が新たな食物として与えられました。なぜこのような変更がなされたのかについては書かれていませんが、ただはっきりしていることは、これは神の許可であり、神から与えられた恵みだということです。人間は自分の欲望のままに動物の命を奪ってよいということではなく、動物の肉を食べてよいということではありません。それは神から与えられた許可なのであり、賜物なのです。すべての生き物の命の主は神のみであるということを決して忘れてはなりません。

したがって、全く無条件で人間が肉を食べてもよいとされているわけではありません。神は制限を設けられます。【4節】。血には命があると考えられていました。命はすべて神のものであり、神にお返ししなければなりません。それゆえに、人間は肉を血を含んだままで食べてはならないと命じられています。人間は動物の肉を食べることは許されていますが、その場合でもすべての命が本来神に属するものであるということを忘れてはなりません。

そのことは、ことさら人間の命に当てはまります。【5~7節】。神はここで人間の命が特別に神のものであるということを強調しています。すべての生き物の命がそうであるように、いやそれ以上に、人間の命は神の所有であり、神のみ手の中にあるのです。神は人間の命をご自身のみ手をもって守られます。もし人間の命を奪うものがあれば、神ご自身が報復されると言われています。

人間の命の尊厳性とか、不可侵性というのは、人間自身の中にその理由があるのではなく、神にあります。神が人間に命を与え、しかも人間をご自身のかたちに似せて創造されたゆえに、人間の命は限りなく尊く、重く、だれもそれを侵害してはならないのです。

ここでは、人間の命はただ人間の命だけによって賠償され、償われ、支払われるということが強調されています。これは、人間の命は他のいかなるものによっても代用されない、取り変えられないほどに尊く、値が高く、かけがえのないものであるということを強調しているのです。人間の命は、例えば何か経済的な価値観で測られたり、商取引の対象にされたり、他の何かと取り換えることは決してできません。人間の命はそれ自体で人間の命ほどに尊く、他と比べ物にならないほどに値が高いということです。

問題となるのは6節のみ言葉です。【6節a】。これを、殺人者には人間の手によってその人を殺してもよいという神からの委託と理解し、後の死刑制度を容認するものと単純にとらえてよいかどうか議論されています。あるいは、この個所からもっと積極的な意味を読み取って、わたしたち人間が他者の命をかけがえのない尊いものとして守り、保護すべきであり、もし他者の命が奪われるような時には、それに抵抗し、その命を取り戻すために努めるべきことを教えていると理解する人もいます。いずれにせよ、このみ言葉から、人間が人間の命を自由に操作することができるという結論を読み取ることはすべきではありません。ここで言われている中心的なことは、神はすべての人間の命をみ手に握っておられ、見守っておられるということです。

わたしたちはここで、さらにこう付け加えなければなりません。人間の命は神のみ子主イエス・キリストの十字架の血によって贖い取られた命であるゆえに、その命はより一層限りなく尊く、重いものであるのだと。主イエスはご自身の神のみ子としての汚れなき尊き御血をもって、わたしたちを罪の奴隷から買い戻してくださいました。それゆえに、わたしたちは人間の命を、自分の命をも他人の命をも、他の何ものにも勝って尊く、重いものとして、それを守り、助け、支え、養うべきであり、もしそれを軽視したり傷つけたり、奪い取ったりするならば、それは神ご自身に対する重大な罪なのだということを忘れてはなりません。

8節からは、神がノアとのちの子孫、全人類と結ばれた契約のことが語られています。これはノアの契約と呼ばれています。ノアの契約は、聖書の中に書かれている神が人間と結ばれた最初の契約です。このあとの主な契約を挙げてみましょう。創世記12章以下には神が族長アブラハムと結ばれた契約、すなわち、神はアブラハムとその子孫とを祝福され、その子孫を増やすという契約、これをアブラハム契約と言います。次には、出エジプト記20章以下で神がシナイ山でモーセを通してイスラエルの民と結ばれた契約、すなわち、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をご自身の民とされるという契約、これをシナイ契約と言います。さらには、サムエル記上7章で神が預言者ナタンを通してダビデと結ばれた契約、すなわち、神はダビデの王位をその子孫に継がせ、ダビデの王座は永遠に続くであろうという契約、これをダビデ契約と言います。これらの旧約聖書のすべての契約は、やがて主イエス・キリストによってすべてが完全に成就され、新しい契約、すなわち新約聖書の名前のもとになった新約となりました。すなわち、神がご自身のみ子なる主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結んでくださった救いの契約です。創世記9章のノアの契約もこの主イエス・キリストの十字架による契約を目指しているのです。

では、ノアの契約の内容を見ていきましょう。まず、神とノアとの契約は神が立てる契約であるということが何度も強調されている点に注目したいと思います。9節「わたしはあなたたちと契約を立てる」、10節も主語は神です。「わたしが地のすべての獣と契約を立てる」。11節「わたしがあなたたちと契約を立てたならば」、12節「わたしが立てる契約のしるしは」、14節、16節、17節でも、すべて神が主語、神が契約を立てると言われています。

一般的に契約とは、AとBとが相互に約束事を決め、相互にその約束を守り、実行することを誓い合うのですが、神の契約の場合には、最初のノアの契約もそうですが、アブラハム契約もダビデ契約もシナイ契約も、そしてまた新しい契約でも、すべて神が立て、神が締結され、神がその約束を守られ、そして実行されるという点に大きな特徴があります。ノアとその家族は、またわたしたちすべての人間はその神の契約に招きいれられていると言うべきでしょう。ここに、神がお立てくださった契約の最も大きな恵みがあるのです。たとえ人間たちがその契約を忘れたり、それに違反したりすることがあっても、神は常にこれをみ心に留められ、思い起こされ、契約を実行するために人間たちを呼び求め続けられるのです。

ノアの契約の中心は11節と15節に繰り返されています。【11節、15節】。神はノアの時代に起こしたような大洪水によっては、地とそこに住む生き物をことごとく滅ぼすようなことは二度と決してなさらないと言われます。それは神の固い決意です。洪水後も、人間は生まれながらにして罪と悪に染まっていると、8章21節に書かれていました。しかしながら、どれほどに人間の罪が地に満ちても、再び大洪水を超すことはなさらないと言われます。神は忍耐をもって罪と悪に満ちたこの世が滅びることがないように支え、見守っていてくださるのです。

ノアの契約のもう一つの特徴は、これが永遠の契約であるということです。12節には「代々とこしえにわたしが立てる契約である」と言われ、16節では「永遠の契約」と言われています。この契約は現代のわたしたちにも有効です。終わりの日に神の国が完成される時まで有効です。

ノアの契約にはしるしが伴っています。【13~15節a】。ノアの契約のしるしは虹です。虹は人間にとっての目に見えるしるしであり、神の契約の保証であるとともに、それはまた神ご自身の決意の固さ、神の決断と神の強い意志のしるしでもあります。神は二度と地を滅ぼすことはなさらないという約束をお忘れにならないためのしるしでもあるのです。大雨はいつまでも降り続くことはありません。雨の後には必ず太陽が昇り、虹が出ます。神は終わりの日に神の国が完成される日まで、この地とこの地に住むすべての生き物たちを、み手をもって守っておられます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神様、あなたがみ子の十字架によってわたしたちと結んでくださった救いの契約に、どうかわたしたちがいつまでもとどまり続けますように。そして、多くの人々がこの契約の中に招きいれられますように。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月6日説教「主イエスの復活の証人となる」

2020年9月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編103編1~13節

    使徒言行録1章15~26節

説教題:「主イエスの証人になる」

 使徒言行録1章には、主イエスが天に昇られてから弟子たちに聖霊が注がれてエルサレムに最初の教会が誕生するまでの10日間のことが書かれています。主なテーマは二つあります。一つは、弟子たちが主イエスの約束のみ言葉を信じ、聖霊が注がれるまでエルサレムから離れないで、祈りつつ待っているべきであるということ。そして、神が天から聖霊を注がれる時、彼らは新しい力を受けて、主イエスの福音を全世界に宣べ伝えるようにされるということ。もう一つは、12弟子の欠けを補う補充選挙をして、やがて誕生する教会のために備えるということ。そして、主イエスが地上での宣教活動を共に担うために12人の弟子たちを選ばれたように、やがて到来する教会の時代には、新しく選ばれた使徒たち、兄弟姉妹たちが全世界に福音を宣べ伝えるために、主イエスの復活の証人として選ばれるということ。

 きょうの礼拝で朗読された1章15節以下は、その第二のテーマを語っています。12弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、主イエスを裏切って、ユダヤ人指導者に引き渡し、主イエスを十字架刑にするための手引をしました。ユダはそのことを悔いて、自ら命を絶ち、悲惨な死を遂げました。そのことを弟子の代表ペトロは15節以下で詳しく説明しています。そこでペトロは、欠けた12番目の弟子を補充する提案をします。なぜ、ユダの代わりを補充しなければならないのか、この補充選挙の意味は何か。そのことを知るために、主イエスがどのような意図で12弟子を選ばれたのかを、すこし振り返ってみたいと思います。

ルカ福音書6章12節以下に主イエスが12弟子を選ばれたことについて書かれています。主イエスは12弟子を選ばれるにあたって、山に入って一晩中祈られたと12節に書かれています。徹夜の祈りの結果として、12弟子の選びがあるのです。12弟子の選びが主イエスの福音宣教の働きにとっていかに重要であったのかが分かります。また、12弟子として選ばれたのは、彼らが人間的に、あるいは信仰的に優れていたからではなく、主なる神のみ心に適っていたからであるということが、ここから分かります。

そのことは、続けて13節に「弟子たちを呼び集め」と書かれていることからも確認できます。徹夜で祈られ、父なる神のみ心を尋ね求められた主イエスが、弟子の一人一人をみ前に呼び集められるのです。主イエスが選び、主イエスが呼び集められます。「呼び集める」という言葉は、のちにギリシャ語で教会を意味するエクレーシアのもとになった言葉です。主イエスによる12弟子の選びは、多くの点でのちの教会の民の選びに類似しています。すなわち、わたしたちがなぜどのようにしてこの教会に集められ、この教会の一員とされているのかの原型が12弟子の選びにあるのです。

13節には「彼らを使徒と名づけられた」とあります。本来ならば、使徒言行録のこの個所で初めて用いられるべきである「使徒」という言葉を、ルカは福音書ですでに用いていたということが分かります。福音書の12弟子の選びと使徒言行録での12使徒の補充選挙とは深く関連しているのです。

使徒とは「遣わされた者」という意味です。主イエスの使者として、全権大使として、主イエスから託された福音を携え、それを宣べ伝えるのが使徒の務めです。主イエスが地上で生きておられた時には、弟子たちは主イエスと共に行動し、時に町々村々へと遣わされましたが、主イエスが復活され、天に昇られてからは、彼らはどうするのでしょうか。それが使徒言行録のきょうのみ言葉で語られます。

では、ユダが欠けたあとの弟子の補充はどのような意味を持つのかということについて考えてみましょう。まず、12という数字の象徴的な意味が受け継がれているということです。26節に、「この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」と書かれています。福音書で12弟子と言われていましたが、使徒言行録では12使徒として受け継がれていきます。福音書で12弟子と言われていたのは、イスラエル12部族の象徴として、神の選びの民であるイスラエル全体から選ばれた弟子であることを意味していたと考えられています。使徒言行録の12使徒は、それを受け継ぎながら、イスラエルの民だけでなく、全世界のすべての民を象徴的に意味していると考えられます。15節には「百二十人ほどの人々」とあり、12の10陪の数の兄弟姉妹たちの集団が、全世界に広がっていく教会の民を暗示しているように思われます。

けれども、数は同じでも、その中身は全く違っています。12弟子の場合は、イスラエルの民として生まれたユダヤ人12人でしたが、12使徒の場合は、民族とかの人間の肉によるつながりの中から選ばれるのではなく、主イエスを救い主と信じる信仰によって結ばれ、神の霊によって結ばれた新しい神の家族なのです。終わりの日に完成される神の国の家族として選ばれているのです。

ところで、12弟子の補充がなされるのはこの時だけです。12章2節で12弟子の一人、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデ・アグリッパ一世によって殺されたことが書かれていますが、この時教会はヤコブの補充をすることはありませんでした。このあとでも、ほとんどの12弟子たちは殉教していったのですが、補充することはありませんでした。なぜなら、イスカリオテのユダは途中でつまずき、弟子としての務めを放棄し、その務めに欠けが生じたために、神のみ心が成就されるために補充されなければならなかったのですが、ヤコブを始め殉教した使徒たちは、自らの務めを、死に至るまで忠実に全うしたからです。このことは、新しく立てられた12使徒の選びと、その務めを理解するうえで大切なポイントです。

次に、弟子のリーダーであるペトロのことです。15節に、「ペトロは兄弟たちの中に立って言った」と書かれています。ペトロは12弟子のリーダーでしたが、主イエスの十字架の死と復活のあとでも、彼は12使徒の代表者として、ユダに代わる弟子の補充の提案をしています。ペトロは主イエスの十字架の直前に「わたしはあの男を知らない、わたしとあの男とは関係ない」と言って、主イエスとのかかわりを断ち切りました。彼は十字架の前でつまずきました。ひとたび信仰を失いました。けれども、復活された主イエスと出会って、ペトロはそのつまずきと失敗をゆるされ、より一層主イエスを愛する忠実な僕(しもべ)として生まれ変わりました。今やペトロは主イエスの復活の証人として、殉教の死に至るまでも忠実に仕える12使徒のリーダーとなったのです。

16節のペトロの言葉に注目したいと思います。「この聖書の言葉は実現しなければならなかったのです」と彼は言います。ここで、「ねばならない」と訳されているのと同じ言葉が22節では、「主の復活の証人になるべきです」の「べきです」と訳されています。この言葉は福音書の中では主イエスの受難予告の中で用いられています。ルカ福音書9章22節を読んでみましょう。【22節】(122ページ)。ここでは、「必ず……ことになっている」と訳されています。この言葉は「神の必然をあらわしている」とよく言われます。神がご計画しておられること、神の意図、神のみ心、それを強調して、神のみ心によって必ずそうなるということを言い表す言葉です。

そうすると、使徒言行録1章16節では、イスカリオテのユダの裏切りと彼の悲惨な死とは、旧約聖書の詩編に預言されている神のみ言葉が成就するための神のご計画、神の必然であったのだということになります。主イエスがお選びになった12弟子の一人であるユダが主イエスを裏切り、主イエスが捕らえられる手引きをしたこと、そしてユダが悲惨な死を遂げたこと、それはわたしたちにはよく理解できない衝撃的な出来事でしたが、実はそこにも目には見えない神の深いみ心が働いていたのだ。神はそのような人間の反逆やつまずきや災いを通しても、ご自身の救いのご計画を進めてくださるのだ。ペトロはそのように言うのです。

また、22節では、ユダが欠けたあとを補充して12人の使徒の数を充たすこと、そしてこの12使徒たちが主イエス・キリストの復活の証人となって、全世界に福音を宣べ伝えていく使命を果たすこと、これもまた神の永遠の救いのご計画なのだとペトロは言います。神の救いのご計画は主イエスの十字架の死と復活のあと、聖霊を注がれた12使徒たちを中心にして、全世界の教会へと継承されていく。終わりの日の神の国の完成を目指して。それは神の必然であり、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画なのです。神は人間たちの罪や不従順の中を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのみわざを前進させたもうのです。

ここでは、使徒として選ばれる条件について、主イエスと歩みを共にした人であり、主イエスの復活の証人であることが挙げられています。「主の復活の証人」という言葉は、2章32節のペトロのペンテコステの説教でも用いられており、使徒言行録の中で、また初代教会とそののちのすべての時代の教会にとって、もちろんわたしたちの信仰にとっても、非常に重要な意味を持っています。なぜなら、初代教会以来のすべての時代の教会の信仰は、彼ら復活の証人たちの証言に基づいているからです。彼ら復活の証人たち、すなわち、地上の主イエスと共に歩んだ人たち、主イエスの口から直接に神の国の福音を聞き、主イエスの奇跡のみわざを目撃し、そして主イエスの十字架の死と復活と昇天を実際に目撃し、体験した人たち、彼らの確かな証言の上にわたしたちの信仰はあるのだということです。福音書に書かれている主イエスのご生涯、十字架の死と復活、また使徒言行録に書かれている教会の誕生とその拡大、それはだれかが空想したり、創作した物語ではありません。彼ら証人たちの確かな証言なのです。

もう一つ重要なことは、「証人」という言葉、ギリシャ語では「マルトゥリア」ですが、この言葉は紀元1世紀の終わり、ロ-マ帝国によるキリスト教迫害が本格化したころには、証人という意味よりも「殉教」と意味に代わっていきました。今日、英語の「martyrマーター」はもっぱら殉教という意味になりました。キリスト教迫害の時代には、主イエスの復活の証人となるということは主イエスのために殉教するということと同じでした。その本質的な意味は、今でも変わりません。わたしたちもまた、自分の存在と命のすべてを注いで、死に至るまで忠実に、主イエス・キリストの復活の証人としての務めを果たすように託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたち一人一人が、それぞれの遣わされている場で、主イエ

ス・キリストの復活の証人として固く立つことができますように、わたしたちに聖霊を注いで、強め、励まし、導いてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。

争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。