5月28日説教「主キリストの霊によって生きよ」

2023年5月28日(日) 秋田教会聖霊降臨日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書37章1~14節

    ローマの信徒への手紙8章1~17節

説教題:「主キリストの霊によって生きよ」

 きょうは聖霊降臨日です。主イエスが十字架で死なれてから50日が過ぎたこの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、新しい力に満たされた弟子たちが語った説教によって、三千人余りの人が洗礼を受け、エルサレムに世界最初の教会が誕生した日です。その日以来、聖霊なる神は全世界に教会を誕生させ、またそれらの教会のすべての働き、務め、活動を導いておられます。今もそうです。きょうのわたしたちの礼拝もそうです。さらには、わたしたち一人一人の日々の信仰の歩みも、聖霊なる神によって導かれています。

 きょうの礼拝では、ローマの信徒への手紙8章のみ言葉から、聖霊なる神がわたしたち一人一人にどのように働いてくださるのか、また聖霊によって新しい命を与えられているわたしたちキリスト者はどのように生きるべきなのかについてご一緒に学びましょう。

 【8章1節】。冒頭の「従って」という言葉は、この手紙の著者であるパウロがこれまでに語ってきた内容を受けています。具体的には、3章21節から始まっている主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざと、それを信じる信仰によってすべての人は罪ゆるされ、救われるという福音です。主イエス・キリストはわたしたちすべての人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださいました。そして、三日目に復活されて、罪と死とに勝利されました。だから、その主イエス・キリストの十字架の福音を信じるあなたがたは、「罪に定められることはありません」と宣言されているのです。

 「定める」と訳されている言葉は、裁判で用いられる法廷用語です。「罪に定められることはありません」とは「無罪判決が下される」という意味です。しかも、パウロがこれまで語ってきたことから判断すれば、この判決はこの世の法廷ではなく、天にある神の法廷での無罪判決という意味になります。つまり、あなたがた、主イエス・キリストを救い主と信じるあなたは、神のみ前で罪をゆるされ、罪なし、無罪であるとの判決を神からいただいている。だから、あなたはもはや罪の奴隷ではない、罪から自由にされている。あなたは主キリストと固く結ばれているのだから、もはや神から見捨てられている罪びとではなく、神に愛されている神の子どもたちである。そのようにして、神によって罪ゆるされている人、神に愛され、受け入れられている人として、神はあなたを見ておられるという意味です。

それをさらに説明して、2節ではこう言われています。【2節】。「霊」とは、聖霊なる神のことです。9節では、「神の霊」また「キリストの霊」とも言われています。この「霊、神の霊、主キリストの霊」が、使徒言行録2章に書かれているペンテコステ・聖霊降臨日の教会誕生の出来事を起こされた聖霊なる神のことです。パウロはこれから、聖霊なる神がわたしたちキリスト者にどのように働いてくださるのかを語るのですが、その前に聖霊について少し確認をしておきたいと思います。

 聖書では、「聖霊」「神の霊」「キリストの霊」また旧約聖書では「主の霊」と言われているのはみな聖霊なる神のことですが、単に「霊」と言われている場合も、ほとんどが聖霊なる神を指しています。聖霊なる神は、父なる神、子なる神と同様に、唯一の、永遠なる、主なる神のことです。キリスト教教理では「三位一体論」と言いますが、唯一の主なる神が、父として、子として、聖霊としての、三つの位格を持ちながら、天地万物の創造のみわざ、罪からの救いのみわざ、救いの完成のみわざをなしておられるという教理です。

 したがって、聖霊は天地創造の初めから、父なる神とみ子なる神と同様に、唯一の神として永遠におられ、旧約聖書ではイスラエルの民の信仰を導かれましたが、ペンテコステの日からは、すべての人の目にはっきりと分かるように、イスラエルだけではなく、全世界の至る所で、力強いお働きを始められました。それが、使徒言行録2章以下に書かれている内容です。聖霊がエルサレムだけでなく、パレスチナ地方全土に、小アジア地方に、ギリシャ、ヨーロッパ全域に、教会を建てられたことがそこには記録されています。そのことから、使徒言行録は聖霊行伝とも呼ばれることがあります。

 旧約聖書の時代にイスラエルの民の信仰を導かれた聖霊には、ペンテコステ以後には新しいお働きが付け加えられました。それは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いのみわざを証しし、すべての人を信仰へと導く働きです。すなわち、主イエスが苦難の道を進まれ、十字架に付けられ、死んで葬られ、そして三日目に復活され、40日目に天に挙げられた、その主イエスのご生涯のすべてがわたしの罪のためであった、わたしを罪から救い出し、わたしが新しい復活の命に生きるためにあったということを、わたしに悟らせ、その主イエスをわたしの唯一の救い主として信じ、受け入れる決断を与え、わたしを洗礼へと導かれる、それが聖霊なる神のお働きだということです。

 そのようにして、聖霊によって信仰へと導き入れられたキリスト者は、そののちのすべての信仰生活も聖霊によって導かれて生きるのです。それを、パウロは2節で、「霊の法則」によって生きることだと言います。「法則」とは、ある一定の原則に従って力を発揮し、支配することを言います。つまり、聖霊の力によって支配され、聖霊なる神の意志と導きに従って生きることです。主キリストに結ばれ、主キリストの救いの恵みをいただいている信仰者は、自分の意志や力、あるいは自分の好みや欲望のままに生きるのではなく、聖霊の力と働きによって、聖霊なる神のみ心に導かれて生きる者とされるのです。

 「霊の法則」と反対の意味を持つのが「肉の法則」です。それは「罪と死の法則」でもあります。生まれながらの人間はだれもみな「肉の法則」の中にあります。「罪と死の法則」に支配されています。そして、だれ一人として、この「罪と死の法則」から自分自身を解放することはできません。

でも、ほとんどの人は自分が「肉の法則」のもとにあり、「罪と死の法則」に支配されていることには気づいていません。聖書が語る神のみ言葉によって、人は初めてそのことを知らされます。そして、主イエス・キリストによって「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放されて初めて、わたしたちは自分がかつてはそのような「法則」のもとに支配されていたのだということに気づくのです。

神はわたしたちを「罪と死の法則」から解放するために、ご自身のみ子を肉のお姿でこの世にお遣わしになりました。3節に、「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と書かれてあるとおりです。神の御独り子なる主イエスは罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち人間と同じ肉のお姿となられ、わたしたち罪びとの一人となられました。そのようにして、わたしたち罪びとである全人類に代わって、ご自身が神の裁きを受けて、神に呪われた十字架で死んでくださったのです。主イエスはわたしたち肉にある人間が経験しなければならないすべての労苦と苦しみと痛みとをご自身に経験され、父なる神に見捨てられるほどの深い苦悩の中で、死を経験されました。主イエスは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。そのようにして、ご自身の命をかけて罪と戦われ、そしてついに、罪に勝利されたのです。父なる神はみ子主イエスを三日目に復活させ、天に引き上げられ、ご自身の右の座につかせたのです。そのようにして、罪と死とに勝利された神のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを「罪と死の法則」から解放することがおできになります。

11節で、パウロは主イエスによる救いのみわざをこのようにまとめています。【11節】。ここでは、「イエスを死者の中から復活させた方」という言葉が2度繰り返されています。死の中から命を生み出される神、無から有を呼び出される全能の神のみ力が強調されています。その神が、わたしたち一人ひとりにも聖霊を注いてくださり、わたしたちを「肉の法則」と「罪と死の法則」から解放してくださるとの、強い、確かな約束がここで語られているのです。

では、そのような固い約束を与えられているわたしたちはどのように生きるべきなのかを聞いていきましょう。9節に、「神の霊」「キリストの霊」とあり、また11節でも、「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と言われています。前に紹介したキリスト教教理の「三位一体論」では、「聖霊は父なる神と子なるキリストから出る霊」と説明されますが、その聖霊がわたしたちに注がれるということは、三位一体の神がその父としてのお働き、そのみ子としてのお働き、またその聖霊としてのお働き、そのすべてのお働きによってわたしたちの救いのために、わたしたちの救いが完成されるために、力を尽くしておられるということを意味しています。神はご自身の愛と恵みのすべてをお用いになって、ご自身の義と真実のすべてをお用いになって、わたしたち一人一人を強くとらえ、支配し、導いておられるということなのです。だから、そこには命と平和が満ちあふれています。たとえ、わたしがこの世で試練や災いにあう時にも、病や孤独と戦う時にも、全能の父なる神の霊と主キリストの霊がわたしと共にいてくださり、わたしを最後の勝利へと導いてくださるからです。

父なる神と主キリストが、すでに「肉の法則」と「罪と死の法則」に勝利しておられます。その支配からわたしを解放し、自由にしてくださいました。だから、自由にされた者として、聖霊によって生かされている者として、自分の中にある肉の働きを殺して生きるようにと13節では勧められています。【13節】。すでに、主イエス・キリストによってあなたは「肉の法則」「罪と死の法則」から解放されている。だから、そのように生きよと勧められているのです。そうであるから、いまだこの世を支配している「罪と死の法則」に対しては恐れずに信仰の戦いを挑み、主キリストの福音を語り伝える使命を果たすことができるのです。「だから、あなたがたは聖霊によって生きよ、また生きることが許されている」と聖書は語るのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは肉の弱さの中にあり、罪と死とに支配されています。どうか、わたしたちを憐んでください。わたしたちを罪と死からお救いください。

○主なる神よ、今わたしたちはあなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちを罪と死からお救いくださり、聖霊によって生きる新しい命の道へと導いておられることを聞きました。どうか、あなたのお招きに応えて、主キリストの福音を信じ、命と平和の道を歩む者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月21日説教「エジプトに売られたヨセフ」

2023年5月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記37章12~36節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「エジプトに売られたヨセフ」

 創世記37章から、族長ヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもの一人ヨセフを主人公にした、「ヨセフ物語」と言われる一連の長い物語が始まります。これは、創世記の終わりの50章まで続きます。そして、次の出エジプト記へと物語が続いていきます。つまり、ヨセフ物語は、なぜイスラエルの祖先がエジプトに移住することになったのか、そのいきさつについて語っていることになります。それはまた、なぜイスラエルがその地での長い寄留生活ののちに、主なる神の強いみ手によって、エジプトの奴隷の家から脱出するという救いの出来事を体験するようになったのか、どのようにしてイスラエルが神の契約の民とされたのかという大きな主題へと発展していくことにもなるのです。ヨセフ物語はヨセフを主人公にしていますが、本来ヨセフの歩みと生涯を導き、支配しておられるのは主なる神であり、これもまた主なる神の救いの出来事であり、神の永遠の救いの歴史の一コマなのです。

 きょうは12節から読んでいきましょう。【12~14節】。ここから、まず分かることは、兄たちが外で羊の群れを養う仕事についていたのに対して、11番目に生まれた子ヨセフは父のところにとどまっていたということです。末の子ベニヤミンがどうしていたのかは不明ですが、ここでもわたしたちは、父ヤコブが年取ってから愛する妻ラケルに生まれた子ヨセフを特別扱いをし、仕事をさせていなかったということに気づきます。3節に、【3節】と書かれてあったのと同様です。このような父の偏愛が子どもたちの間に亀裂を生じさせ、不幸な分断と悲劇を生み出すのは当然です。

 兄たちはシケムで羊の群れを飼っていたとあり、ヨセフは父の家にいて、その場所がヘブロンであったと書かれています。実は、シケムとヘブロンの間の距離は100キロメートル以上あります。たぶん兄たちはテント生活をしながら牧草を求めて移動していたのだろうと推測されます。では、なぜその兄たちのいる遠くの地にかわいい息子ヨセフを派遣したのかの理由はよくわかりません。兄たちの手伝いのためではなかったことは確かです。14節で父ヤコブ・イスラエルは「兄たちの様子を見てきて、報告してくれ」と依頼しているからです。ここでもまだ、ヨセフに対する父の偏愛ぶりは変わっていません。父の代わりに、兄たちの仕事を監視するという意図があったのかもしれません。

 そうであればなおさら、父は兄たちがヨセフを憎んでいたことを知っていたはずなのに、なぜあえてその兄たちのところに最愛の子ヨセフを一人で派遣したのか、ヨセフが兄たちから何らかの仕返しをされるのではという危険性を理解していなかったのかという疑問が生じます。いずれにしても、父ヤコブのヨセフに対する偏愛がやがて不幸を招くことになるのは避けられません。

 ヨセフはシケムの町に着きましたが、兄たちを探しあてることはなかなかできませんでした。ようやくにして、シケムからさらに北20キロメートルのドタンで兄たちの一行を見つけました。

 ところが、兄たちはヨセフの姿を遠くに見つけると、まだ彼が近づかないうちに、セフを殺そうと相談します。【20節】。兄たちはヨセフを「夢見るお方」と呼んでいます。もとのヘブライ語を直訳すれば、「夢の主人」となります。この呼び方には、軽蔑や嘲笑(あざ笑い)の意味と、一種の恐れの念も含まれています。兄たちの考えでは、ヨセフは夢ばっかり見ている夢想家であり、現実をしっかりと見ていない、一種の甘えん坊でありわがままだという見方がある一方で、ヨセフが見た夢の背後には主なる神がおられるのではないか、もしそうだとすれば、ヨセフが見た夢のように、その内容は7節と9節に書かれていましたが、将来自分たちが弟ヨセフに支配されるようになるのではないか、それは自分たちにとっては不幸で災いだ、そんなことが起こってはならない、あるいは、起こるかもしれないという恐怖心も彼らにはありました。そこで、ヨセフを殺してしまえば、彼が見た夢も実現しなくなるに違いない、あるいは、そうなってほしいと兄たちは考えました。

 その時、12人の兄弟のうちヤコブとレアの間に生まれた長男ルベンとレアの4番目の子どもユダが、他の兄弟たちを説得して、ヨセフを殺さないでも済むように提案します。【21~24節】。また、【26~27節】。最年長のルベンが冷静な判断をし、またユダもそれに同意したことから、兄たちはユセフの命を奪うことだけはとどまりました。

 聖書はそのあたりのいきさつについて淡々と描いていて、読者であるわたしたちは、なるほど兄弟の中の最年長であるルベンは冷静な判断をしたから、ヨセフは助かったんだと納得するのですが、ここにもまた確かに、見えない神のみ手が働いていたことを読み取ることができるように思います。神は、父ヤコブ・イスラエルのヨセフにたいする偏愛によって兄弟たちの間に生じた憎しみや敵意、さらには殺意をすらも超えて、あるいはまた兄たちによってその運命を翻弄され、あわや殺されそうになったヨセフをその危機からお救いになり、彼の数奇な生涯をとおして、イスラエルの民をお救いくださるという、永遠なる救いのご計画を、神は着々と進めておられるということを、わたしたちはここから読み取ることができるのです。

 その後ヨセフがどうなったのか、ここには二つの違った内容が描かれているように思われます。一つは、25節から27節に書かれているように、ヨセフをイシュマエル人の隊商に売ろうとしたユダの提案です。この提案がどうなったのかについては、そのあと具体的に書かれていません。もう一つが、28節のミディアン人の商人たちがヨセフを穴から引き揚げて、彼を銀20枚でイシュマエル人に売り渡したということです。これから判断すれば、銀20枚を受け取ったのはミディアンの商人たちで、ルベンや兄弟たちではなかったことになります。

 ここには、もとの資料に何らかの混乱があったのではないかと考えられています。それを整理すると、ヨセフは兄たちによってイシュマエル人の隊商に売り飛ばされたという資料があり、それとは別に、ヨセフは兄たちが気づかないうちにミディアン人の商人たちが穴から引き揚げて連れ去ったという資料があり、この二つの資料がここでは結合されていると説明されています。

 物語の流れから見ると、29、30節には、【29~30節】と書かれてあるように、後者の資料に物語が続いていきます。ルベンは長男として、他の兄弟たちを説得して、ヨセフの命を助けてあげて、父のもとへと返してあげたいと願っていたのに、彼を投げ入れた穴をあとで見てみると、ヨセフの姿が見つからないので、彼がどうなってしまったのかを、本気で心配しています。長男として弟ヨセフを守り、父のところに連れ戻す責任があったのに、それができないでいる自分の無念さと弟ヨセフを失ってしまった失意の大きさで、「自分の衣を引き裂き」、悲しんでいます。ルベンはユセフが最終的にはイシュマエル人の隊商に売られてエジプトへと連れていかれたことは全く知らなかったようです。他の兄弟たちがそのことに気づいていたのかについては、何も具体的な記述はありません。

 【31~32節】。兄弟たちが行ったこの工作の背景には、当時の慣習があったと言われています。出エジプト記22章12節に、だれかが隣人の家畜を預かり、「もし、野獣にかみ殺された場合は、証拠を持って行く。かみ殺されたものに対しては、償う必要はない」と定められているように、他の人の家畜を預かって養っているときに、野獣に襲われたなら、その襲われた家畜の一部を持って帰れば、弁償する必要はなく、羊飼いとしての責任を免除されることになっていました。兄弟たちが、ヨセフが身に着けていた晴れ着に動物の血を塗って父に見せたことによって、ヨセフが確かに死んだことの証拠となっただけでなく、ヨセフが野獣に襲われた時に、自分たちはヨセフを見捨ててその場から逃げたのではなく、彼を守るためにできるだけのことをしたという証拠にもなったのです。兄弟たちがヨセフの無事を知っていてそのような工作をしたのか、それとも長男ルベンと同様に他の兄弟たちも、ヨセフがもしかしたら野獣にかみ殺されたのかもしれないと考えていたのかは、この箇所からははっきりと断定はできません。

 でも、父ヤコブ・イスラエルは、愛する息子ヨセフが野獣にかみ殺されたのだと判断する以外にありません。【33~35節】。ここには、父ヤコブ・イスラエルの深い、深い嘆き、悲しみが印象的に描かれています。それがあまりにもリアルであり、もはや何ものによっても慰められないほどの、深く、大きく、深刻な嘆き悲しみであることが強調されているので、その出来事の本当の中味を知っているわたしたちにとっては、何か滑稽で、しかし笑うに笑えない、複雑な思いを抱かせます。

 ある人はこう表現しています。「ヨセフ物語の冒頭のこの出来事の中には、まだ父ヤコブ・イスラエルがかつて犯した罪の影が残っている。それは彼ヤコブがまだ若いころから老人になるまで、彼に付きまとってきたものである。かつて彼が自分の父を欺き、父が自分よりも愛していた兄エサウの祝福を横領したように、今や彼の最愛の息子を厄介払いした他の息子たちによって欺かれているのだ」と。

かつて欺いた者が、今欺かれている、そして深く、いやしがたい嘆き悲しみに沈んでいるという、人間たちの罪と偽りの現実をわたしたちはここに見るのです。しかも、その罪と欺きが人間の存在そのものを根底から揺さぶり、あるいは否定し、拒絶すらするほどの、深い苦悩となって、「わたしも嘆きながら陰府に下って行こう」と人間に言わせているほどの、大きな、深刻な罪の現実がここにあるのを、わたしたちは知らされるのです。

そして、神はそのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実を超えて、エジプトでのヨセフの歩みをなおも導いていかれます。そしてついには、そのような人間たちの罪の現実の中で、その罪の現実をはるかに超えて、神のみ子、主イエス・キリストによる罪からの救いのみわざを神はわたしたちのために成就なさったのです。わたしたちが『使徒信条』で「陰府に下り」と告白しているように、神のみ子主イエス・キリストは、「わたしは嘆きながら陰府へ下って行こう」と言ったヤコブ・イスラエルを陰府から救い出すために、そしてまた、わたしたちを罪のどん底と陰府の苦しみから救い出すために、十字架で死なれ、陰府に下られたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが旧約聖書の族長たちを導かれ、イスラエルの民を導かれ、そして、あなたの独り子なる主イエス・キリストの十字架の贖いによって全人類のための救いのみわざを成就してくださいましたことを、心から感謝いたします。主なる神よ、どうか罪多く、滅びにしか値しないこのわたしをも、あなたの御愛と御憐みによって、罪と死と滅びからお救いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月14日説教「聖霊なる神」

2023年5月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(23回)

聖 書:イザヤ書44章1~5節

    ヨハネによる福音書14章16~31節

説教題:「聖霊なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』は古代教会の信仰告白である『使徒信条』に前文を付けた「簡単信条」と言われるものであり、短い文章の中に豊かな内容のキリスト教教理、聖書の教えが凝縮されています。これまで学んできましたように、わたしたちの教会の『信仰告白』は、使徒たちの信仰を受け継いだ古代教会(あるいは初代教会)の正統的な信仰を土台にして、16世紀の宗教改革時代、特にカルヴァンの神学を柱に、その後の改革教会の神学を中心に据えた信仰を言い表しています。わたしたちの教会は「神の言葉によって、絶えず改革され続けていく教会」をこの日本の地に建てること目指してきました。

 座席前のポケットに備えられている印刷物では、2段落の2行目、「また、父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は、信じる人を聖化し、御心を行なわせてくださいます」。きょうから数回にわたってこの箇所を学んでいくことにします。ここでは、聖霊なる神が、父なる神、子なる神と同じく神であるということと、その聖霊なる神のお働きについて告白されています。

 まず、「父と子とともにあがめられ礼拝される聖霊は」という文章は、古代信条の一つである『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』に由来していることを確認しておきたいと思います。古代教会では、様々な異端的な教えが広がったために、紀元325年に、小アジア地方、現在のトルコにあるニカイアという町で第1回世界教会会議を開催しました。その会議で、アリウス派などの間違った教えを排除し、正統的なキリスト教の教えとして『ニカイア信条』を採択しました。続いて、紀元381年にコンスタンティノポリスで開催された世界教会会議では、『ニカイア信条』に聖霊なる神の項目が付け加えられて、『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』が採択されました。

 その中で、聖霊なる神についてこのように告白されています。「わたしは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、また預言者をとおして語られました」。この告白の中の「父と子とともに礼拝され、あがめられ」がそのまま(「礼拝され」と「あがめられ」の順序が反対になっていますが)『日本キリスト教会信仰の告白』に取り入れられています。

 そこで今回は、『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』を参照しながら、聖霊なる神について告白されている内容について、ここでは何が教えられ、何が強調されているのかを学んでいくことにします。

 第一の重要なポイントは、聖霊は、天地の創造主である父なる神と、わたしたちの唯一の救い主である神の御独り子、主イエス・キリストとまったく同様に、神であることが告白されています。またその聖霊は、わたしたちが信じ、礼拝し、あがめ、賛美し、服従すべき神であるということが強調されています。

 と言うのは、古代教会の時代から、今もなおそうですが、聖霊を神とは考えなかったり、あるいは父なる神、子なる神から一段低い神のように考える誤った理解があるからです。たとえば、聖霊を人間の感情とか意志とか、あるいは霊魂と同じに考え、聖霊が神であることを否定して、人間の感情や意志を重んじる人々、古代教会ではアリウス主義という異端、今日ではエホバの証人(ものみの塔)や統一協会などの異端的な教派も、そのような考えに基づいて聖霊が神であることを否定し、また三位一体論をも否定しています。

 聖霊が神であることを否定し、人間の感情や意志、努力、また行為を強調する異端的キリスト教からは、必然的に主イエス・キリストの救いのみわざを不完全なものにするという結論が生じます。そして、主イエスの救いのみわざの不完全な部分を人間が補うという考えに発展していきます。それが、信者の霊的な働きとか、強い意志とか、熱心な活動によってなされていくようになります。異端的なキリスト教会が献金や布教活動に異常なまでに熱心になるのはそのためです。

 けれども、そのような考え方は、わたしたちがこれまで学んできたことに照らし合わせてみるならば、間違った信仰の理解であることが直ちに明らかになります。すなわち、神の主導的な選びの教えと信仰義認の教えとは矛盾することが分ります。神はわたしたち人間の意志とか努力とかに先立って、このわたしを選ばれ、わたしを救いの道へとお招きくださいました。わたしは罪びとの仲間であり、何一つ神のみ心を行うことができないにもかかわらず、み子主イエス・キリストがわたしのためになしてくださった救いのみわざによって、神はわたしを義と認め、わたしの罪をゆるしてくださいました。わたしの救いは、100パーセント神のみわざによるのであり、人間のあらゆる意志や行動に先立つ、神の側からの一方的な恵み、恩恵によってわたしは救われているのです。そこには、人間の感情とか意志、あるいは熱心さとかは全く入り込む余地がないことが明らかです。

 いや、それだけでなく、わたしたちが聖霊なる神を信じ、告白することによって、聖霊なる神もまた、父なる神、み子なる神と共に、わたしたち人間の救いのために、先行的に、主導的に働いてくださるということを知らされます。神は、父なる神として、み子なる神として、そして聖霊なる神として、神ご自身の全ご人格によって、わたしたちの救いのためにお働きくださいます。神の全存在、神のすべての力、恵み、知恵、愛、それらをお用いになって、わたしたちのための救いのみわざを完全になしてくださいます。神の救いのみわざは完全であり、永遠であり、人間や他の何ものかによって補われなければならないことは全くありません。

 ここで、古代から中世にかけて教会で論争されてきた聖霊発出論争について簡単に触れておきたいと思います。『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』では「聖霊は父と子とから出る」と告白されていました。ところが、聖霊が父なる神と子なる神の両方から出るのか、それとも父なる神からのみ出るのかをめぐって西方教会と東方教会がその後も長く論争を続けました。西方教会(ローマ教会)は「聖霊は父と子から発出する」という説をとり、東方教会(ギリシャ教会、日本ではハリストス正教会)は「父から」(のみ)という説を主張し、この違いが東西教会の分裂の大きな原因となったと言われます。

 では、聖書ではどのように教えられているでしょうか。ヨハネによる福音書14章16、17節を読んでみましょう。【16~17節a】(197ページ)。ここでは、聖霊は父なる神が遣わすと言われています。次に、ヨハネ福音書15章26節では、【26節】。ここでは、わたし(主イエス)が聖霊をあなたがたに遣わすと言われていると理解できます。これらのみ言葉から、わたしたちプロテスタント教会は正方教会(ローマ教会)と同じく、聖霊は「父と子とから出る」と告白しています。

 では、聖霊なる神とはどのような神なのか、どのようなお働きをするのかを見ていきましょう。聖霊なる神のお働きは、旧約聖書でも新約聖書でも数多く語られています。『ニカイア・コンスタンティノス信条』では、「聖霊は預言者をとおして語られた」と告白されていました。旧約聖書の天地創造の時から、聖霊は永遠なる神として存在しておられましたが、特に預言者たちの活動をとおして、彼らが語った神のみ言葉の説教と共に聖霊は働かれ、イスラエルの民の信仰を導かれました。

新約聖書から、ヨハネ福音書と使徒言行録のみ言葉を取り上げます。先ほど読んだヨハネ福音書14章16節でも15章26節でも、聖霊は「弁護者」と呼ばれています。元来の意味は「かたわらに呼び出された人」であり、日本語では弁護者、助け主、慰め主とも訳されます。

 主イエスが十字架につけられ、死んで葬られ、40日目に天に昇られたあとに、主イエスは弟子たちを決して孤児のようにはさせないと約束されました。そして、天に昇られてから父なる神と共に、聖霊をこの世に、弟子たちの上に、またわたしたちの上に派遣してくださいました。聖霊はいつでも、どこでも、常に弟子たち、またわたしたち信仰者と共にいてくださる神です。わたしたちを罪の攻撃や誘惑から守り、助け、弁護し、時に信仰の戦いに疲れるわたしたちを慰め、励まし、わたしたちの信仰を終わりの日の完成の時まで導かれる神、それが聖霊です。

 また、ヨハネ福音書14章26節では、聖霊が弟子たちに、主イエスが語られた神の国の福音が生ける神のみ言葉であることを思い起こさせるであろうと言われています。聖霊は主イエスがお語りになった神の国の福音がすべての人を救う命と力とを持っていることを信じさせ、弟子たちを、またわたしたちを救いへと導き入れる働きをされます。聖霊が働く時、聖書のみ言葉とその解き明かしがわたしの救いとなってわたしに響き、わたしを救いへと導くのです。

 同じヨハネ福音書15章26節では、聖霊は「真理の霊」とも呼ばれ、主イエスについて証しをするであろうと言われています。聖霊は教会の福音宣教を導く神でもあられます。聖霊は神の真理をこの世に対して証しをし、主イエスの十字架の福音をこの世に宣べ伝える教会の務めを導きます。

 その教会の使命を果たすために、神はペンテコステの日に聖霊を弟子たちの上に豊かに注ぎ、エルサレムに世界最初の教会をお建てくださいました。使徒言行録2章に書かれているとおりです。主イエスは天に挙げられる直前に弟子たちにこのように約束されました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1章8節)。その約束が10日後のペンテコステの日に成就したのです。

 聖霊は今や全世界のあらゆる町々村々に教会を建て、その教会をとおして今も働いておられ、すべての人を主キリストの福音へと招いておられます。わたしたちの福音宣教の務めと奉仕を支え、導いておられます。また、わたしたち一人一人の信仰の歩みを導いておられます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会の上に、またわたしたち一人一人の上にも、聖霊を豊かに注いでください。わたしたちを聖霊の器としてお用いくださり、主イエス・キリストの体なる教会を建てるために、また全世界のすべての人々に主キリストの福音を宣べ伝えるために、わたしたちをお用いください。

○主なる神よ、どうかこの世界を顧みてください。戦争や紛争が絶えない地域、不正義と不平等によって略奪や飢餓に苦しむ弱い人たち、差別や格差の中で取り残されている孤独で病んでいる人たち、いま世界は主なる神であるあなたからの和解と平和、癒しと希望を切望しています。どうかこの世界に救いを与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月7日説教「ダマスコで宣教したパウロ」

2023年5月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書18章1~10節

    使徒言行録9章19b~25節

説教題:「ダマスコで宣教したパウロ」

 キリスト教会の迫害者であったサウロ、のちのパウロは、ユダヤ教の大祭司からの委任状を携えて、エルサレムから北へ200キロメートルも離れているシリア州ダマスコへ向かいました。その町に住むキリスト者を捕らえて、エルサレムへ連行するためでした。ところが、ダマスコの町の入口で、突然天からの強い光に照らされたパウロは地に倒れ、復活された主イエスのみ声を聞きました。これが、迫害者パウロと迫害されていた主イエスとの劇的な出会いでした。この時から、パウロはキリスト教会の迫害者からキリスト教会の宣教者、使徒パウロに変えられたのです。わたしたちの罪のための十字架に付けられ、三日目に復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリストが、古いユダヤ教の律法に生きていたパウロをひとたび滅ぼし、死なせ、新しく主キリストの福音によって生きるパウロとして、再び生き返らせてくださったのです。ユダヤ教の律法の奴隷であったパウロを、主キリストの福音によって開放し、自由と喜びをもって主キリストの福音を宣べ伝える宣教者、使徒としてくださったのです。

 使徒言行録9章19節後半から20節にはこのように書かれています。【19節b~20節】。19節から30節によれば、パウロは復活の主イエスと出会って使徒となってからしばらくの間、ダマスコにとどまり、主イエスの福音を語り伝え、そののち、その町でユダヤ人によって命を狙われるようになり、ダマスコを脱出してエルサレムに向かい、それからカイサリアで船に乗り、パウロの故郷である小アジア地方タルソスへ行ったと書かれています。

 ところが、ガラテヤの信徒への手紙1章13節以下では、ダマスコで復活の主イエスによって異邦人のための宣教者とされた時、パウロはすぐにアラビヤへ行き、それからダマスコに戻ってきて、その後3年してからエルサレムの使徒たちに会ったと彼自身が書いています。

 使徒言行録とガラテヤの信徒への手紙には調整することができない違いがありますが、この違いはそれぞれの強調点の違いと見ることができると思います。使徒言行録では、キリスト教会の迫害者であったパウロが、突然に180度方向転換をしてキリスト教の宣教者となり、ユダヤ人キリスト者を迫害するために行った町で、すぐに主イエス・キリストの福音をその町にいるユダヤ人に宣べ伝えたということが強調されています。それに対して、ガラテヤの信徒への手紙では、ユダヤ人以外の異邦人のための使徒として召されたパウロが、主イエスご命令を受けてすぐに異邦人の地アラビヤにでかけて行き、そこで福音を宣教したということが強調されています。

 では、使徒言行録で強調されている迫害者パウロが迫害されるパウロに変わっていった次第について学んでいきましょう。19節に、「ダマスコの弟子たち」とあることから明らかなように、この町はシリア州にあり、イスラエルの外の異邦人の地ですが、そこにはかなりのキリスト者がいたことが分ります。8章1節に書かれていたエルサレム教会に起こった大迫害で、エルサレム市内から追放されたキリスト者もその中にはいたと推測されます。もっとも、よく考えてみますと、パウロはそのキリスト者を迫害するためにダマスコに来たわけですから、それは当然と言えば当然なのですが、さらに続けて、パウロは彼らと「一緒にいて」と書かれていることは、実は驚くべき情況であることに気づかされます。迫害しようとしていた人と迫害されるべきであった人たちが、今や一緒にいるからです。共に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えているからです。主イエスの福音が敵対していた人間たちを一つに結びつけ、共に福音のために仕える同労者とするという実例を、ここで確認することができます。

 20節の「会堂」(ギリシャ語ではシュナゴーゲー、シナゴーグですが)はキリスト者の集会を指す場合もありますが、ここではユダヤ教の会堂と理解すべきです。ダマスコには離散のユダヤ人(デアスポラ)がたくさん住んでいて、ユダヤ教の会堂がいくつもあったことが分ります。パウロはまずそこで主キリストの福音を語りました。それは、13章以下で、パウロが計3回の世界伝道旅行にでかけて、町々で宣教活動を開始する際と同じやり方です。世界の至る地域にデアスポラのユダヤ人がいましたから、パウロは新しい町に入ると、まずユダヤ人会堂を探して、そこで福音を語りました。

 パウロは異邦人伝道の使徒として召されたという強い自覚をもっていました。また、それが復活の主イエスと出会った時の主のご命令であったということが15節に書かれていました。そうであるにもかかわらず、彼がまずユダヤ人に主キリストの福音を語ったことには理由がありました。それは、神がまず全世界の中からイスラエルの民ユダヤ人をお選びになり、ご自身の契約の民とされたからです。パウロは神のこのような救いの秩序、救いのご計画を重んじました。先に選ばれたユダヤ人をとおして,あるいは、彼らのつまずきをとおして、神はさらにユダヤ人以外の異邦人へと救いのみ手を広げられたのです。そして今や、主イエス・キリストの十字架の福音によって、全世界のすべての人が救いへと招かれているのです。

 「この人こそ神の子である」。これがダマスコでの、キリスト者となって最初のパウロの宣教の中心的メッセージでした。これはパウロの最初の信仰告白であると言えます。ナザレで生まれ育ち、ガリラヤで神の国の福音を説教し、エルサレムで捕らえられ、十字架で裁かれ、死んで葬られ、三日目に復活された主イエス、この方こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就された方であるという告白です。これまで、ユダヤ教ファリサイ派の指導者として、律法に生きてきたパウロが、今や「主イエスこそが神のみ子である」という信仰告白によって生きるキリスト者とされているのです。

22節には、「イエスがメシアである」という信仰告白があります。これらの告白と共に、「イエスは主である」という告白が、パウロと初代教会の信仰告白の中心、骨格を形成しています。「イエスは主である」。「イエスは神の子である」。「イエスはメシアである」。これらの告白を土台にして、のちに『使徒信条』が形成され、また『日本キリスト教会信仰の告白』が作成されています。

次に、【21節】。人々の驚きは、まさに神の奇跡を見た驚きであると言ってよいでしょう。神は、十字架に付けられ、復活された主イエスによって、教会の迫害者であったパウロを、教会の宣教者パウロへと造り替えてくださったのです。さらにはまた、ユダヤ教の律法に違反し、エルサレム神殿を汚し、神を冒涜した罪で裁かれた主イエスを、その裁いた側に立っていたパウロによって、神のみ心を行う神のみ子であると告白されていることへの驚きでもありました。それは、主イエスを十字架につけて裁こうとしたユダヤ人指導者たちの行動が間違っていたことを暗示するものでもありました。

「この名を呼び求める者たち」とはキリスト者たち、クリスチャンの別名です。キリスト者以外のユダヤ人は、イエスとかキリストというお名前を口に出すことを恐れて、「この名」と表現しました。うっかり、イエスとかキリストというお名前を口にしたら、その方の力が自分に及んでくるかもしれないと考えたからです。主イエス・キリストというお名前にはそのような偉大な神の力が働いていると考えられていました。主イエスを信じないユダヤ人はそのことを恐れていました。けれども、わたしたちキリスト者はこの方のお名前が持つ救いの力を信じ、この方のお名前によって洗礼を授けられました。

 【22節】。パウロはユダヤ人の不信仰と批判や攻撃を少しも恐れません。それによって、福音を語ることをやめることは決してありません。むしろ、彼は日々に新たな力を与えられて、主イエス・キリストの福音を語り続けました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれることはないからです。

 「イエスはメシアである」という告白についてもう少し詳しく見ていきましょう。メシアとは、以前にもお話ししましたように「油注がれた者」という意味のヘブライ語です。キリストはそのギリシャ語訳です。日本語では「救い主」と訳されます。旧約聖書の民イスラエルは,長い苦難と迫害の歴史の中で、神は終わりの日に、イスラエルと全世界のすべての民のためのまことの救い主をこの世にお遣わしくださるであろうということを信じ、待ち望んでいました。その救い主を、まことの、永遠の預言者であり、まことの、永遠の祭司であり、そして、まことの、永遠の王である「油注がれた者」・メシアと呼びました。主イエスこそが旧約聖書で預言されたそのメシアであるという信仰告白です。このメシア・キリスト・救い主によって、神の永遠の救いのご計画が成就されたのです。このメシア・キリスト・救い主に、すべての人の、わたしの救いがあるのです。

 パウロはこれまで熱心なユダヤ教徒そして、ファリサイ派律法学者として、神の律法を一つ一つ守り行うことによって救われる、神の国に入ることができると考えていました。そのために努力してきました。けれども、そうではない。わたしがわたしの力や知恵や努力によってわたしの救いを手に入れるのではない。わたしの救いのために、わたしに代わって、十字架で死んでくださり、ご自身の尊い命をわたしのためにささげつくされた主イエス・キリストによってこそ、またこの主イエス・キリストによってのみ、わたしは罪ゆるされ、神の国での永遠の命の保証が与えられている、この信仰こそがわたしの確かな、そして唯一の救いなのです。

 【23~25節】。サウロ、のちのパウロはユダヤ人にとっては裏切り者のように映ったに違いありません。もしこの時に、彼の周囲のキリスト者たちが知恵を働かせ、勇気をもってパウロを助け出さなければ、ステファノに続いて二人目の殉教者を出すことになっていたかもしれません。もしそうなれば、それは初代教会にとってのみならず、のちの世界の教会にとってどんなにか大きな損失になったことでしょうか。しかし、神はそれをお許しにはなりませんでした。神はパウロを死の危険から救い出されました。

 そのようにして、かつて熱心なユダヤ教ファリサイ派の一人としてキリスト者の命を奪おうと迫害の息をはずませていたパウロが、今や熱心なキリスト者となり、ユダヤ人から命を狙われる者となりました。16節で復活の主イエスが言われたように、「わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示そう」、このみ言葉が、早くも成就し、実現することとなったのです。神は神にお仕えする使徒パウロを、その生涯にわたってみ心のままに導かれ、彼の多くの苦難、試練、迫害をとおして、ご自身の救いのみわざを前進させられたのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、かつて初代教会の使徒たちが主キリストの福音を宣べ伝えるために、すべての苦難や試練を喜んで耐え忍んだように、わたしたちをも喜んで福音にお仕えする一人一人としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。