12月26日説教「アブラハムのイサク奉献」

2021年12月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記22章1~19節

    ローマの信徒への手紙8章31~39節

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章には、アブラハムのイサク奉献のことが書かれています。神はアブラハムに神の約束の子であり、彼の独り子であるイサクを、焼き尽くす献げ物としてささげなさいとお命じになります。アブラハムは神の命令に黙々と従います。ここに描かれている内容は、非常に深刻であり、衝撃的であり、また感動的でもあり、しかも信仰的、神学的に大きな課題と問題点を多く含んでいます。

 デンマークの哲学者キェルケゴールは『恐れとおののき』という書物で、愛するひとり子イサクを神に燔祭としてささげる父アブラハムの信仰の試練と戦いのことを詳しく論じています。古代から、多くの画家たちがこの場面をテーマにして感動的な絵を描いています。わたしたちキリスト者はここから、ご自身の愛する独り子主イエス・キリストをさえも十字架に犠牲としておささげくださるほどにわたしたち罪びとを愛された神の偉大な愛を読み取ります。それらのさまざまな課題に思いを馳せながら、この個所を2回に分けて読んでいくことにしましょう。

 1、2節を読みましょう。【1~2節】。1節の冒頭に、「これらのことのあとで」と書かれています。「これらのこと」とは具体的に何を指しているのかを考えてみると、すぐ前の21章前半に書かれていたイサクの誕生のことだけを指すのではなく、これから起ころうとしている重大な出来事との関連で考えるならば、アブラハムの信仰の歩みがが始まった創世記12章からのすべてのことを含んでいると理解すべきではないかと思います。12章以下のアブラハムの歩みを簡単に振り返ってみましょう。神はアブラハムを選び、召して、彼と契約を結び、約束の地へと導かれました。「あなたとあなたの子孫とにこのカナンの地を永遠の嗣業として与える。あなたの子孫は星の数ほどに増え広がり、わたしが与える祝福を永遠に受け継ぐであろう」。これが神の約束でした。アブラハムは何度も神の約束を疑い、神に背き、罪を犯しましたが、神はそのたびにアブラハムをゆるされ、彼との契約を更新されました。彼が最初の神の約束を聞いてから25年後、彼が100歳になって、ようやくその約束の一つが成就し、彼に約束の子イサクが与えられました。そのようなアブラハムの信仰と迷いの生涯、神への服従と失敗の歩み、それらのすべてのあとで、これから新たな展開が始まるという意味で、「これらのことのあとで」と書かれていると考えられます。

 1節の次の言葉は「神は」ですが、この言葉は原文のヘブライ語のテキストでは非常に強調されています。これから起こる出来事はすべては神が主語となり、神が主導しておられるということなのです。もちろんわたしたちはここでアブラハムが受けている大きな信仰上の試練ということをも真剣にとらえなければなりませんが、それ以上に、神が主導権をもっておられ、神がここでは行動しておられる、神のみ心が行われているということを聖書は強調しているのです。

 「神はアブラハムを試された」とあります。神がアブラハムを試みておられる、神がアブラハムに信仰の訓練を与えておられるということがまず語られているのです。このことは、神は本気でアブラハムに子どもを犠牲としてささげること(いわゆる、人身御供)を命じておられるのかどうかという問題に一定の答えを与えているように思います。聖書では明らかに人身御供は神によって禁じられているのに、ここではそれをご自身が要求しておられるのだとしたら、神の側に何か不正があるのではないか、という神学的な疑問に対して答えていると言えましょう。聖書の神は他の神々のように、人間の命をご自身にささげるように命じることはありませんし、信仰の行為として人間の命を要求されることもありません。神は初めからすべてをご存じであられ、み心のままにアブラハムを導いておられるのです。そして、彼に信仰の訓練をお与えになるのです

 とはいえ、この神の命令がアブラハムにとっていかに厳粛な神の絶対的な命令であるか、そしてそれが彼をどれほどに苦しめ、厳しい信仰の戦いを強いるものであるかということが、否定されることは全くありません。彼には隠されている神のご計画がまだ全く見えていません。キェルケゴールが言うように、アブラハムは主なる神に対する大いなる恐れとおののきとをもって、この神の命令と向き合っているのです。ようやくにして与えられた彼の子どもイサクを神のみ手によって奪い取られようとしているという、避けられない厳しい現実に彼は恐れおののいています。

 「焼き尽くすささげ物」とは一般に燔祭と言われます。英語ではホロコーストと言います。のちに、イスラエルの礼拝の形式となりました。エルサレムの神殿では毎日燔祭の犠牲がささげられました。まず、聖別された家畜、羊や山羊、牛などの首をナイフで切り、その血を祭壇に注ぎます。血は命であり、本来神のものなので、それを神にお返しするのです。肉は内蔵とともにすべてを火で焼いて、その香ばしい香りを天におられる神にささげます。一頭の家畜のすべてを神にささげるのが燔祭です。

 ところが、ここで神がアブラハムに命じておられるのは家畜をではなく、彼の独り子イサクを燔祭としてささげよと言われるのです。これは何と厳しくまた理不尽とも言える命令ではないでしょうか。イサクは彼が長く待ち望んだ子どもでした。神はこの子を授けるまで、25年間も長い間アブラハムを待たせたのでした。彼が100歳になって、ようやくにして授かった子どもです。彼の生涯はイサクの誕生を待ち望み、この子の成長を見守ることがすべてであると言ってよいでしょう。イサクはアブラハムにとっての命そのものでした。しかし、神はその子を燔祭としてわたしにささげよと言われるのです。病気や事故で一人息子を失うということはすべての父親にとって大きな苦悩であり、試練であるのは言うまでもありません。しかし、ここでは父親であるアブラハム自身がわが子を自分の手でその首を切り、その体を火で焼かなければならないのです。今だかつて、アブラハムはこれほどの大きな試練を受けたことがあったでしょうか。これまでに幾度も信仰の戦いをしてきたアブラハム、年老いたアブラハムにとって、これはあまりにも過酷で、厳しい試練ではないでしょうか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるでしょうか。

 いや、ここにある問題の深刻さは、それだけではありません。アブラハムにそのことを命じるのが、ほかならない神なのです。アブラハムにその子を与えると約束され、事実その約束を成就された神ご自身が、その子を燔祭としてささげよと言われるのです。イサクはほかでもない、神の約束の子です。その子を通して、後の時代のすべての民が神の祝福を受け継ぐと約束されている子です。神は今、ご自身の約束を、ご自身の手で廃棄されるというのでしょうか。アブラハムはこの大きな試練の前で恐れおののいています。

 次に、3節を読みましょう。【3節】。アブラハムは無言で神の命令に従い、旅立ちの準備をします。わが子イサクを燔祭の犠牲としてささげるための旅に、無言で、黙々として、出発します。「朝早く」とは、アブラハムの決断と服従の素早さ、その堅さ、断固とした姿勢を言い表しています。彼は、何のためらいも迷いもなく(わたしたちにはそのように見えるのですが)、神の命令に服従しています。これが、後の世のすべての信仰者たちの信仰の父と呼ばれるようになるアブラハムの信仰です。

 神はなぜ、アブラハムに対してこのようなむごいとも思えるような試練をお与えになるのでしょうか。2節で、神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを」と言われます。神はアブラハムがイサクをどれほどの愛しているか、彼にとって独り子イサクがどれほどにかけがえのない大切な存在であるかを、よくご存じです。そうでありつつ、いや、そうであるがゆえにこそ、神はアブラハムに「あなたのその最愛の子をわたしにささげなさい」とお命じになるのです。

 それはなぜでしょうか。なぜ神はアブラハムに過酷とも思えるほどの、あるいはだれの目から見ても理不尽としか言えないような、大きな試練をお与えになるのでしょうか。その答えは、2節の神のみ言葉の中に暗示されています。「あなたの息子、あなたの愛する、あなたの独り子イサク」、ここに「あなたの」という言葉が3度繰り返されています。イサクはアブラハムにとっての最愛の子です。神はまさにそのアブラハムのイサクに対する愛を問題にしておられるのです。わが子イサクに対する愛が神を愛する愛よりも大きくなることを問題にしておられるのです。もし、イサクに対する彼の愛が、神に対する愛よりも大きくなるとすれば、それは彼にとっての大きな信仰の危機となるかもしれないからです。

 イサクはアブラハムの最愛の子ですが、それ以上にイサクは神の約束の子です。イサクによって後の世のすべての信仰の民が祝福されるのです。父アブラハムに約束された神の祝福が、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、ついには主イエス・キリストによって全世界のすべての教会の民へと受け継がれていく、これが神の救いのご計画です。この神の救いのご計画のために、アブラハムもイサクも、そしてすべての信仰者は仕えるのです。神はアブラハムに、「あなたは最愛の子イサクをささげるほどにわたしを愛するか。あなたの最愛の子イサクをもわたしの救いの計画のためにささげる用意があるか」と問われるのです。

 わたしたちはここで16節の神のみ言葉をあらかじめ先取りするようにして理解することができます。「わたしは自らにかけて誓う。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子をすら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。……あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(16~18節参照)。

 わたしたちはまたここで主イエスのみ言葉を思い起こします。マタイによる福音書10章37節以下を読みましょう。【37~39節】(19ページ)。

 さらにわたしたちは、ヨハネ福音書3章16節以下のみ言葉を思い起こします。【16~17節】(167ページ)。アブラハムのイサク奉献の出来事は、主イエス・キリストの十字架の死と、そこで表わされた神の偉大な愛を指し示しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。あなたがこの一年間、豊かな恵みと憐れみとをもってわたしたちの教会とわたしたち一人一人をお導きくださったことを覚えて、心から感謝いたします。わたしたちの不忠実や怠惰や傲慢で悔い改めることをしなかった罪を、どうぞおゆるしください。

〇主なる神よ、さまざまな困難な課題をかかえながら苦悩するこの世界の民を顧み、憐れんでください。あなたのみ心が行われ、義と平和が地において実現しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月19日説教「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

2021年12月19日(日) 秋田教会礼拝説教(クリスマス礼拝)

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章6~18節

説教題:「すべての人を照らすまことの光が世に来た」

 ヨハネによる福音書はクリスマスの出来事を1章9節で、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と表現しています。『口語訳聖書』の翻訳の方が分かりやすいので紹介します。「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」。また、14節では、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。この二つのみ言葉から、ヨハネ福音書が語るクリスマスの意味についてご一緒に学んでいきましょう。

 クリスマスは神のみ子であり、全世界のすべての人の救い主としてこの世に誕生された主イエスの誕生を祝う日です。ヨハネ福音書はその主イエスを「まことの光」、また「言(ことば)」として言い表しています。先に、「言」について少し説明を加えながら、14節のみ言葉の意味を考えていきたいと思います。新約聖書の言語であるギリシャ語では「ロゴス」と言います。一般的な意味として、言葉のほかに道理、理性、理由などの広い意味を持っています。そのロゴスという単語に、特定の意味を持った単語につけられる定冠詞「ホ」、英語では「the」をつけて、「ホ・ロゴス」という言葉で、聖書は主イエス・キリストを言い表しているのです。日本語の翻訳では「言葉(ことのは)」の「こと・げん」一字で「ことば」とルビをつけるのが一般的です。

 その「言」(ホ・ロゴス)が肉となって、わたしたち人間の間に宿られた、この世界に来られたと14節は語っています。キリスト教の用語ではこれを「受肉」と言います。天におられる永遠なる神が人間の肉をまとわれ、人間となってこの世界に、時の中に入って来られた、神が人間になられたということです。それがクリスマスの出来事、主イエス誕生の出来事です。それは、何を意味しているでしょうか。

 一つには、天におられた神が地に下って来られ、わたしたち人間が住むこの地上においでくださった、わたしたち人間のごく近くに、わたしたち人間と共におられる神となってくださったということです。マタイ福音書ではこれを「インマヌエル、神我らと共にいます」という言葉で表現しています。しかし、天におられる神と地に住む人間との間には無限の隔たりがありました。神は聖なる神、罪も汚れもなく、全能の神、永遠の神であられたにもかかわらず、神に背き、罪ゆえに死すべきものとなった人間のただ中においでくださったのです。それは、人間を罪から救うためでした。

 わたしたちはもはや神を求めて天に登る努力をする必要はありません。救いを求めて、あれこれと探し回ったり、何らかの宗教的・信仰的な訓練を積み重ねたりする必要も全くありません。神ご自身の方からわたしたちに近づいて来てくださったからです。わたしたちがその神を信じて受け入れるなら、主イエスによる罪のゆるしが与えられ、救われるのです。

 神が人間になられたことの第二の意味は、ヨハネ福音書では主イエスを「ホ・ロゴス」、神の言葉と言い、その神の言葉が肉となられた、受肉したと表現することによって、神の言葉が現実となり、成就したということを言い表しています。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に約束されたメシア・キリスト・救い主が今クリスマスの出来事によって、主イエスの誕生によって、出来事となった。神の救いの預言が成就した。神の言葉、神のみ心、神の救いのご計画がわたしたちの間で実現した。わたしたちはそれを確かにこの目で見て、信じることができるようにされているということを意味しています。

 もう一つの意味を付け加えることができます。聖書では「肉」という言葉は、弱く、はかなく、朽ち果てるものという性質を言い表します。天におられる神は、聖なる神、永遠なる存在であられるにもかかわらず、人間の肉を身にまとわれ、弱く、朽ち果てるもの、死すべきものとなられたと、ヨハネ福音書は語っているのです。

 宗教改革者カルヴァンはこのように言っています。「神のみ子がその天的な高みから、我々のために、それほどに低い、打ち捨てられた状態にまで下って来られたのだ」と。天におられる罪も汚れもない聖なる神が地に下って来られ、罪の中に入ってきてくださり、死すべきわたしたち人間と同じお姿になるほどまでに、ご自身を低くされ、貧しくされ、卑しくされて、わたしたち一人一人と共におられる神となられたということです。

 この神の低さは、主イエスの十字架の死に至るまで続きます。神は罪びとの一人に数えられ、わたしたちの死をも共にされたのです。それは、罪ゆえに死すべきわたしたちを罪と死から救い出すためでした。これほどまでにわたしたち罪びとと共にいてくださる神の偉大な愛について、ローマの信徒への手紙5章ではこのように教えられています。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。……わたしは確信します。死も、命も、天使も、支配するもの、現在のもの、未来のもの、力あるもの、高い所にいるもの、低い所にいるもの、他のどんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(5章32節以下参照)。わたしたちはこれほどまでに強い愛によって神と結ばれているのです。

 これまで学んだことから明らかなように、クリスマスの出来事の意味を正しく理解するためには、わたしたちは人間の罪とその罪からわたしたちを救う主イエス・キリストの十字架の死という出来事と、その二つと主イエスの誕生という出来事とを結びつけて考えなければなりません。ヨハネ福音書1章9節のみ言葉がそのことを教えています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。これが、ヨハネ福音書が語るもう一つのクリスマスの意味です。

この日に誕生した主イエスは、まことの光であると言われています。光は闇を照らし、闇の中で輝きます。明るい場所では、光には気づきませんし、光を必要ともしません。「まことの光が世に来て、すべての人を照らす」とは、この世が暗闇であり、すべての人が暗闇の中に住んでいるということを暗示しています。あるいはこうも言えるでしょう。まことの光に照らされる時、この世は、またすべての人は、今まで自分たちが暗闇の中におり、暗闇の中を歩んでいたのだということに気づかされるということです。

 聖書では、暗闇とはしばしば神を失っている世界、罪に支配されている世界と人間を象徴する言葉として用いられます。イザヤ書9章1節にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。紀元前7世紀の預言者イザヤの時代だけでなく、主イエスの時代も、そして今日も、世界はまことの神を失い、神無き暗黒の中を歩んでいます。

 けれども、神はこの世界をなおも愛しておられます。この世界が罪の中で滅びることをおゆるしにはなりません。神は世界のすべての人を上から照らすために、まことの光なる主イエスをお遣わしになりました。最初のクリスマスの夜に、羊飼いたちは天からの神のみ声を聞きました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」と。

クリスマスの日に天から与えられたこの光は、イスラエルの一部の地域だけを照らすのではありません。イスラエルの民だけが救われるのではありません。「すべての人を」とあります。すべての人を照らす光です。すべての人が主イエス・キリストの十字架の福音によって罪をゆるされ、神の民とされます。この光で照らされない人は一人もいません。主イエス・キリストの福音派すべての人に与えられ、すべての人がその救いの恵みへと招かれています。

また、この光は「まことの光」と言われています。この光は罪に支配されているこの世の暗闇を照らし、その中に住む一人一人を光の中に導き、神の真理へと導き、わたしたちにまことの命を与えます。主イエスの十字架の死による罪のゆるしと、主イエスの復活にあずかる永遠の命を与えます。

(執り成しの祈り)

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

12月12日説教「迫害の中で命の言葉を語る」

2021年12月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録5章17~26節

説教題:「迫害の中で命の言葉を語る」

 きょうの礼拝で朗読された使徒言行録5章17節以下には、初代エルサレム教会が経験した2回目の迫害のことが書かれています。最初の迫害については4章1節以下に書かれていました。4章では、ユダヤ人指導者たちによって逮捕されたのはエルサレム教会の代表者ペトロとヨハネでしたが、5章では18節に「使徒たちをとらえて」とありますから、ペトロを始めとして主イエスの12人の弟子たち全員が捕らえられたのではないかと推測されます。迫害の規模が拡大しています。初代教会の宣教の範囲が拡大されるとともに、迫害の規模もまた拡大していきます。

また、17節によれば、今回も迫害のきっかけをつくったのはサドカイ派の人たちでした。【17~18節】。サドカイ派はファリサイ派と並んで当時のユダヤ教の二大教派でした。サドカイ派は祭司や貴族階級によって構成されており、保守的で現実主義者でした。彼らは復活や奇跡や天使の存在などを信じていませんでした。4章ではペトロとヨハネが主イエスの復活について説教しているのを聞いたサドカイ派の人たちは、自分たちが否定している復活について語っているのを聞いて、腹立たしく思ってペトロとヨハネを捕え、牢に入れたと書かれていましたが、ここでは使徒たちによってなされていた病気のいやしや奇跡などの不思議なしるしによって民衆の多くがエルサレム教会に関心を寄せているのを見て、それを妬ましく思い、またもや使徒たちを捕えたのでした。

保守的で現実主義的な考えを持っていたサドカイ派の人たちにとっては、主イエス・キリストの十字架と復活の福音は自分たちの存在や信仰を根本的に否定するほどの脅威だったと推測されます。彼らはエルサレム神殿を中心とした当時のユダヤ教の制度の中で安定した地位と生活を営んでいました。その生活基盤が変えられることを望んでいません。新しい信仰や教えによって今の現実が変えられることは、彼らの生活が脅かされることになります。この時にはまだ彼らははっきりと悟ってはいませんでしたが、主イエス・キリストの十字架によって、エルサレム神殿で彼らが行っていた動物犠牲の礼拝がもはや不要になったのです。したがって、神殿での祭司の職も終わりになったのです。主イエス・キリストの十字架の死によって、完全で永遠の罪の贖いが完成されたからです。彼らはやがてそのことに気づくでしょう。そして、彼らに新しい救いの道が用意されていることにも気づくでしょう。けれども、彼らの多くは自らその救いの道を閉ざしていたのです。

ところが、牢に捕らえられている使徒たちに不思議なことが起こりました。【19~21節a】。公の牢は大祭司の官邸の地下にありました。投獄した犯罪人の逃亡を防ぐための厳重な構造と監視体制が整っていました。けれども、神の命のみ言葉、神の救いのみ言葉は、どのように太い鎖によっても、地下の頑丈な鉄格子によっても、つなぎとめておくことはできません。不思議な奇跡によって、使徒たちは牢獄から解放され、自由にされました。主の天使とは、主なる神がお遣わしになった天使で、神が地上で力強いお働きをなさる時にはしばしばこのようなお姿で行動されます。使徒たちは鉄格子に囲まれて、行動の自由を失っていました。しかし、神が彼らのためにみわざを行ってくださいます。神が牢獄の戸を開け、厳しい監視を打ち破り、彼らに自由をお与えになります。

ここで注目すべきは、天使によって使徒たちに語られた神のみ言葉です。神は使徒たちに、「神殿に行って、命のみこ言葉を、主イエス・キリストの福音を語れ」とお命じになります。使徒たちが牢獄から解放されたのは、彼らの身の安全のためではありません。彼らが迫害にあわないように、敵の手から逃亡させるためでもありません。いやむしろ、彼らが捕らえられたまさにその現場に彼らを派遣するためです。しかも、最も人目につきやすい神殿の境内に行きなさいと命じるのです。それだけではありません。彼らが捕らえられた原因となった神の命のみ言葉を再び語るために、主イエス・キリストの十字架の福音をユダヤ人に語るために、そこへ行けと命じるのです。彼らをまさに迫害のただ中へと派遣するのです。

そこで、使徒たちはその命令に従い、朝早くに神殿に行き、朝の祈りのために集まってきたユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を語ります。そのことは、当然彼らの再逮捕に通じる道であり、事実そのようになるのですが、神はあえて使徒たちを迫害のただ中へと派遣されました。それが神のみ心であり、ご計画なのです。そして、それが使徒たちの服従の道なのです。これによって、神の命のみ言葉が決してこの世の鎖によってつながれることはないことを神は明らかにされるのです。また、使徒たちの福音宣教の働きがこの世の権力によっても決して中止されることはないことを神は彼らに悟らせたもうのです。

ここにはもう一つのことが暗示されているように思われます。主イエス・キリストの福音が「この命の言葉」と言われています。それを彼らはエルサレム神殿で語れと命じられているのです。エルサレム神殿での古い礼拝に終わりが告げられ、ユダヤ教の律法によって生きる道が閉ざされ、その死が宣告されるのです。そして、すべての人の罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストを救い主と信じることによって生きる信仰者たちの新しい礼拝が教会で始まるということがここでは暗示されています。

【21節~26節】。大祭司を議長としたユダヤ最高議会のメンバー70人が集合し、使徒たちの裁判を行おうとしましたが、彼らは牢の中にはいません。自分たちが裁こうとしていた使徒たちが何か不思議な力によって牢獄から姿を消してしまったという報告を受けて、ユダヤ最高議会の議員たちや民の指導者たちは困惑し、心を乱しています。そこへ、使徒たちが神殿で人々の前で説教しているとの報告が入りました。そこで、再び彼らを逮捕します。その様子が、ここには臨場感あふれる筆致で描かれています。

ここでは、迫害する側であるユダヤ最高議会の議員たちと、迫害される側にいる使徒たちの姿とが対照的に描かれています。一方では、ユダヤ教の中での自分たちの立場や地位、古い律法による信仰を守ろうと躍起になり、そのためにこの世の権力を用いて使徒たちと主イエス・キリストの福音を消し去ろうとしているユダヤ最高議会のメンバーたち。大祭司、祭司長、長老などのユダヤ教指導者たち。しかし、自分たちが捕らえて獄に投げ込んだ使徒たちがそこにいないと知って、あわてふためいておろおろしている彼ら。また、この世の権力を持ち、それを行使していながら、使徒たちの説教に耳を傾けている民衆を恐れている彼ら。

しかし、他方では、この世のいかなる権力をも恐れず、迫害や投獄をも恐れず、神殿の中で大胆に主イエス・キリストの福音を語り続けている使徒たち。そして、民衆の心をとらえている使徒たち。ここには、人間の声に聞き従う者たちの姿と、神のみ声に聞き従う信仰者たちの姿が、対照的に描かれています。

ここでもう一度、20節の「この命の言葉を残らず民衆に語りなさい」というみ言葉を思い起こしたいと思います。このみ言葉は、すでに学んだように、神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても、権力や暴力、迫害によっても、決してその命を奪い取られることはない。またその命の力、生命力といったものを失うことはない。それらの敵対する勢力の中でなおも神のみ言葉はその命を発揮するということを意味している。これが第一の意味です。

第二には、神の命のみ言葉がエルサレム神殿で語られることによって、律法によって生きるユダヤ教の信仰がもはやその役割を終えて死を迎えた。主イエス・キリストの十字架の福音によってこそ、この福音を信じる信仰によってこそ、神のまことの命が信仰者に与えられるようになった。エルサレム神殿で行われていた動物を犠牲としてささげる礼拝はもはやその役割を終えて、死を迎えた。主イエス・キリストによる十字架の死の贖いによって完全な罪の贖いが成就した。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、すべての信仰者にまことの命が与えられるようになった。これが第二の意味です。

それに加えて、わたしたちはもう一つの意味をここから読み取ることができます。それは、2回の迫害を経験した初代エルサレム教会と使徒たちがまさにこの神の命のみ言葉によってこそ生きるべきであるということ、今現実に、迫害の中で生かされているということを、彼らはここで強く教えられたということです。使徒言行録ではこの後、教会の宣教活動が全世界に拡大されていくにしたがって、いよいよ激しくこの世の抵抗にあい、迫害を経験するということを繰り返して語ります。

この章の終わりの41、42節には次のような興味深いみ言葉が書かれています。【41~42節】。使徒たちは主イエスのみ名のために迫害を受けることをむしろ喜び、誇りさえしているのです。ある古代の神学者はこう言いました。「教会は殉教者たちの血によって生きている」と。正確に言うならば、「殉教者たちが流した血にもかかわらず」とか「彼らの血を超えて」、神の命のみ言葉によって教会は生きてきたと言うべきでしょう。教会は2千年の歩みの中で、幾度も厳しい迫害を経験してきました。日本の地でもそうでした。しかし、教会は迫害の中で繰り返して教えられました。神の命のみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれない。その命の力を失うことはない。いやむしろ、その中でこそ、まことの命の力を発揮し、教会を生かし、信仰者たちを強めるのだということを。

わたしたちもまた、この神の命のみ言葉を信じ続け、さまざまな困難や労苦や試練の中で、また弱さや欠けを覚えつつも、主キリストの教会のために希望をもってお仕えしていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、主イエスのご降誕を待ち望む待降節のこの時に、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を、あなたの命にみ言葉で養い、強め、その福音宣教の務めをいよいよ忠実に果たしていくことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうか、あなたが天からのみ光によって、暗闇に閉ざされているこの世界を明るく照らしてください。病んでいる人たち、その看護にあたっている人たち、重荷を負って疲れている人たち、試練や困窮の中にある人たち、道に迷っている人たち、孤独な人たち、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがその一人一人の近くにいてくださり、助けと救いのみ手を差し伸べてくださいますように。

〇主なる神よ、わたしたちは先週に愛する教会員の一人をみもとに送りました。あなたが兄弟をこの教会へとお導きくださり、彼に信仰の道を備えてくださいましたことを感謝いたします。どうか、悲しみと寂しさの中にあるご遺族のお一人お一人にあなたにある慰めをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月5日説教「神の永遠の計画に従い、人となられた主イエス」

2021年12月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑧(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    ガラテヤの信徒への手紙4章1~7節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい、人となられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、なぜ『信仰告白』を説教で取り上げるのか、『信仰告白』について学ぶことの意義は何かということを絶えず確認しておくことが大切です。というのは、日本キリスト教会が1951年に日本基督教団から離脱して、39個の教会で新しい日本キリスト教会を建設した際の主な動機が、まさに『信仰告白』にあったからです。『信仰告白』を学ぶということは、わたしたちの秋田教会が日本キリスト教会に属する教会であることの原点なのです。

 戦時中の1941年に、日本のプロテスタント教会はほとんどすべてが日本基督教団に合同しました。これは、長老派の旧日本基督教会をはじめ、組合教会、メソヂスト派、バプテスト派など、多種多様な教派・教会の集合体でしたから、統一した信仰告白を持っていませんでしたし、政治形態も違っていました。そこで、戦後、信仰告白によって教会形成をしなければ真実の教会は建たないと考えた旧日本基督教会に属していた一部の教会が日本基督教団を離脱する決意をし、1951年(昭和26年)に新しい日本キリスト教会を建設し、ただちに信仰告白の制定に取りかかったのでした。

 日本キリスト教会が信仰告白によって立ち、宣教活動を行い、教会の一致と交わりを強める教会であるということの具体的な例は、わたし自身の信仰そのものがこの『信仰告白』を土台としていることにあります。わたしたちが信仰を告白し、キリスト者・信仰者となり、秋田教会の会員となった時、わたしは洗礼式で『日本キリスト教会信仰の告白』を誠実に受け入れると誓約しました。長老・執事に任職された時、日曜学校教師に就職した時にも『日本キリスト教会信仰の告白』に誠実に従うことを誓約しました。牧師が教師の職に就く時、教会に就職する時、あるいは教会を建設する時、あらゆるときに、わたしたちは『日本キリスト教会信仰の告白』を共に告白し、この告白のもとでの一致を確認します。『日本キリスト教会信仰の告白』を学ぶということは、わたしたちの信仰の原点、土台について確認することであり、またわたしたちが信仰告白のもとになっている神のみ言葉によって生きている群れであり、そこで告白されている主キリストを頭とする一つの群れであることを確認することでもあるのです。

 では、きょうは前回に引き続き「主は、神の永遠の計画にしたがい」から「人となって」までを取り挙げます。まず、この文章の主語を改めて確認しておきましょう。主語は「主」、「主イエス・キリスト」です。主イエス・キリストが神の永遠のご計画に従われたということがここでは告白されているのです。「神の永遠のご計画」と言えば、多くの人は神が教会や世界の歴史を、またわたしたち一人一人の信仰の歩みを永遠の救いのご計画にしたがって導いておられると考えるかもしれませんが、もちろんそうであることには間違いないのですが、ここでは主イエス・キリストご自身が何よりもまず第一に神の永遠のご計画に従われたと告白されているのです。神の永遠の救いのご計画は何よりもまず主イエス・キリストご自身に現わされている、主イエス・キリストが人となられたことに最もよく現わされていると告白されている点が重要なのです。

 ここではまだ、わたしたち人間のこととか、教会、世界のことは問題にされていません。もっぱら主イエス・キリストのことが語られています。このあとに続く告白もすべて主イエスが主語です。主イエスが誕生から十字架の死に至るまでの全ご生涯において、また復活と昇天、更には終わりの日の再臨に至るまで、そのすべてが父なる神の永遠なる救いのご計画に基づいていることであり、主イエスはその父なる神が備えたもうた救いの道を従順に歩まれた。そこにこそ、神の永遠のご計画が、文語体の『信仰告白』の言葉では、「永遠なる神の経綸」が、別の言葉では神の摂理、神の配剤が最もよく現わされていると、ここでは告白されているのです。

 この信仰から、それゆえにまた、わたしたちはこの世界と教会の、そしてわたしたち一人一人の神の摂理・配剤を固く信じることができるようにされているのです。なぜならば、主イエス・キリストご自身の歩みの中ですでに神の永遠なる救いのご計画が実現し、神の摂理、配済が確実に行われたゆえに、主イエス・キリストを救い主と信じるわたしたちにも神は確かに最も良き道を備えたもうからです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちにとっては、偶然とか、得体のしれない不気味な運命とかは全くなく、すべてのことが神の国の完成を目指していると固く信じることができるのです。ローマの信徒への手紙8章でパウロが語っているとおりです。【8章28~30節】(285ページ)。

 神は永遠の救いのご計画にしたがって、神の摂理と配済によって、世が始まる前から、わたしがこの世に誕生するはるか以前から、わたしを選び、わたしを救いの道へと招き入れ、終わりの日には栄光のみ国へ入れてくださり、わたしの信仰を完成させてくださる。それゆえに、わたしのすべての日々は、幸いな日も災いの日も、健康な時にも病める時にも、富も貧しさも、神の永遠の救いのご計画の中にあるのであり、神のみ心がなければ、わたしの髪の毛一本すらも地に落ちることがないと信じることができるのです。

 宗教改革の時代、1563年に制定された「ハイデルベルク信仰問答」の第28問では次のように教えられています。「神の創造と摂理を知ることから、わたしたちはどのような益を受けるのでしょうか」。答「どんな逆境の中でも忍耐強く、順境では感謝し、将来については、わたしの忠実な父によく信頼し、どの被造物も一つとしてわたしをかれの愛から引き離すことはないと確信するのです。というのは、すべての被造物がかれの御手の中にあって、かれの御意志がなければ、立ち上がることも身動きすることさえも、できないからです」(登家勝也訳)。永遠なる神の救いのご計画に従われた主イエス・キリストのご生涯が、まさにそのことをわたしたちに明らかにしています。

 次に、「人となって」という箇所を学びます。「人となって」とは、主イエス・キリストが人間としてこの世に来られたこと、すなわち主イエスの誕生のことを言います。神が人となられたことを言います。わたしたちは今その日を待ち望む待降節の中を歩んでいます。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」と続きますから、神の永遠の計画は神が人となられたことによってその頂点に達した。主イエスがこの世に誕生されたことこそが、神の永遠の救いのご計画の最も重要な出来事であり、その第一の目的であった、あるいは最終目的であったということです。神の永遠の救いのご計画、神の摂理、神の配済は、主イエスがこの世に到来されたことによって成就した、その最終目的に達したということが、ここでは告白されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたガラテヤの信徒への手紙4章4~5節にはこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。「時が満ちる」とは、神ご自身が救いのご計画の中で定めておられた時、その頂点、その最終目的に今到達して、という意味であることが理解されます。マルコによる福音書1章15節によれば、主イエスご自身もまたそのことを知っておられ、ガリラヤでの福音宣教の初めにこう言われました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。主イエスのこの世への到来と主イエスの神の国の福音の宣教が、神が永遠から計画しておられた救いのみわざを満たしたのです。いや、このことなしには、時は満たされることはありません。世界の歴史は満たされることはありません。わたしたちの人生も満たされることはありません。ただ、すべての時は過去という闇の中に消え去ってしまうだけです。「神の永遠の計画にしたがい、人となって」この世においでくださった主イエス・キリストだけが、すべての時を満たすことがおできになります。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエス・キリスト、そして三日目に復活され、今も天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリスト、終わりの日に再びこの地においでくださる主イエス・キリストだけが、世界とわたしたちひとり一人の時を本当の意味で満たすことがおできになるのです。

 神が人となられたことを、マタイによる福音書とルカ福音書は、主イエスが誕生するクリスマスの出来事として描いていますが、ヨハネ福音書1章では、言葉(ギリシャ語ではロゴス)が肉となったという表現をしています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(14節)。永遠の昔から神と共におられた言葉(ロゴス)が肉となってこの世に、わたしたちのところにおいでくださいました。また、1章29節では主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」と言われています。世の罪を取り除く神の小羊であられる主イエス・キリストによって、神の永遠の救いのご計画が満たされ、成就したのです。

 神は人となってこの世に来てくださったという出来事が、いかに驚くべき、大きな出来事であるかということ、またそこに神の偉大な愛が現わされているということを、聖書は至る所で証言しています。ヨハネ福音書3章16~17節にはこうあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、フィリピの信徒への手紙2章6~11節にはこう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」。

 神は天にとどまってはおられませんでした。また、罪のこの世をお見捨てにもなりませんでした。天におられる、永遠で全能なる神、罪なく汚れなき聖なる神が、この世に降って来られ、罪の世に入ってきてくださり、わたしたち罪びとたちと歩みを共にされ、それのみならず、わたしたちの罪をご自身に担われ、わたしたちに代わって十字架で死んでくださった。それによってわたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださったのです。神が人となったということには、なんと大きく深い神の愛があることでしょうか。わたしたちはその大きな神の愛の中に招き入れられているのです。その神の愛に応答して、わたしたちも神と隣人とを愛し、仕えていくことが、わたしたち信仰者の歩みです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世界を顧みてくださり、愛してくだり、み子を人間のお姿でお遣わしくださったことを心から感謝いたします。あなたが常にわたしたちと共にいてくださるインマヌエルなる神であることを信じます。どうぞ、この地であなたの永遠の救いのご計画が成就しますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月28日説教「ナインの若者の生き返り」

2021年11月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記下4章30~37節

    ルカによる福音書7章11~17節

説教題:「ナインの若者の生き返り」

 ルカによる福音書7章1節以下には、主イエスがカファルナウムの百人隊長の部下が死ぬほどの重病であったのを、遠く離れた場所から、いわば遠隔治療によっていやされたという奇跡が書かれていました。それに続くきょうの11節以下の個所では、ナインという町で、死んでから数日後の若者を主イエスが生き返えらせたという、更に大きな奇跡が語られています。この二つの奇跡が並べて書かれていることには理由があります。

実は、このあとの18節以下に書かれている洗礼者ヨハネの問いに対する主イエスのお答えが、ここにあらかじめ準備されているのです。ヨハネの問いはこうです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」(20節参照)。主イエスのお答えはこうです。【「22節」】。カファルナウムとナインでの二つの奇跡は、主イエスのこのお答えを準備しています。主イエスこそが、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた来るべきメシア・キリスト・救い主であることのしるしがここにあらかじめ準備されているのです。今まさに、人々が見ている主イエスの奇跡のみわざこそが、主イエスが来るべきメシアであることの確かなしるしなのです。わたしたちはこの二つの奇跡のみわざをとおして、来るべきメシア・キリストと出会うのです。

わたしたちはきょうの主の日からアドヴェント・待降節に入ります。来るべきメシア・キリスト・救い主を待ち望む4週間です。イスラエルの預言者たちが預言し、民が待ち続けたメシア・キリストが、今この時、全世界の、唯一の、まことの救い主としてこの世においでくださったことを覚えつつ、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される主イエスとの真実の出会いをきょうの礼拝で体験したいと願います。

【11~12節】。ナインという町はカファルナウムから南西に35キロメートルほど離れており、「町の門」と書かれてあることから、この町は周囲を城壁で囲まれた、かなり大きな町であったようです。この町の未亡人である婦人の一人息子が亡くなって、葬儀が行われている所でした。当時の葬儀は墓への埋葬の儀式が中心でした。未亡人の母親を先頭にして、泣き女と言われる悲しみの儀式を盛り上げる婦人たちと大勢の町の人たちがその葬列に加わり、一人息子を亡くした母親の深い悲しみと痛みとを共有していました。墓は町の城壁の外にあります。棺を担いだ葬列がひとたび町の門から出れば、その棺は再び門から入ることはできません。町を囲む城壁は、いわば生きている人と死んだ人とを隔てている厚い壁であり、ひとたび町の門をくぐって壁の外に出された死者の棺は再び門の中に入ることはできません。だれも、生きている人と死んだ人とを隔てているこの厚い壁を突き破ることはできません。一人息子を亡くした婦人を始め、葬儀に参列している人たちの悲しみ、嘆きは、人間の力ではどうすることもできないこの厚い壁の前での人間の無力さ、無抵抗、あるいは諦めの表れだと言えるかもしれません。

特に、この婦人にとっての悲しみ、痛み、失意はいかに大きかったことかを思います。彼女はすでに夫を亡くしています。死んだ子どもは一人息子でした。当時の社会では今日以上に、夫を亡くした婦人は社会的・経済的な弱者でした。生活の糧を得ることができず、他の人の憐みにすがって生きていくしかありません。ただ一つの望みは一人息子でした。この息子の成長だけが彼女の生きがいだったかもしれません。けれども、その息子が死んでしまったのです。もはや最後の望みも断たれたてしまいました。

その時でした。主イエスが町の門に近づかれました。生きている人と死んだ人とを隔てている、その境である門、棺がいったんその外に出れば再び死者は戻って来ることができない門、主イエスは今その門の傍らに立っておられます。そして、門の外に出ようとする埋葬の列に、いわば「待った」をかけられます。死の世界に無抵抗のままに入っていくしかない人間たちのその行列をストップさせられます。もし、主イエスがこの門の傍らに立っておられなかったならば、埋葬の列はそのまま墓に向かって行くしかなかったでしょう。主イエス以外のだれも、その行列を止めることができる人間はいません。主イエス以外のだれも、一人息子を亡くした母親とその葬儀に参列した人たちの悲しみ、嘆きを止めることができる人間はいません。

【13節】。主イエスは「この母親を見た」と書かれています。主イエスがだれかを見るという表現はルカ福音書の中にこれまでもたびたび出てきました。わたしたちが学んできたように、この表現には非常に特徴的な、深い意味が込められています。主イエスが一人の悲しみ絶望した婦人に目をお留めになります。その時、救いの出来事が起こります。この婦人の人生に大きな変化が起こります。この婦人にだけではなく、彼女の一人息子にも、いやそれのみか、すべての人間の生涯と命に、決定的な変化が起こります。

主イエスの目は何を見ておられるのでしょうか。多くの町の人たちもこの婦人を見ていました。彼女を気の毒に思い、悲しみと同情の目で見ていました。これから先の彼女の人生がどうなるのか、その生活はどうなるのかという不安な思いで見ていました。けれども、彼らの目がどれほど多くあっても、そこには何も決定的なことは起こりません。

主イエスの目が彼女をとらえる時、主イエスの目は彼女のすべてを、過去も現在も将来も、彼女のすべてをご覧になり、彼女のすべてを受け入れ、彼女のすべてをみ手のうちに引き受けられます。彼女のこれまでの労苦と今の深い悲しみ、失意、そして将来への不安や恐れのすべてを主イエスはご存じであられます。また、主イエスの目は、死の前では自らの無力をさらけ出すほかにない人間たち、死の前に首をうなだれて屈服するほかにない人間たちの現実をありのままにご覧になり、しかしそれだけでなく、その現実と戦い、その現実を打ち破り、その現実の中で救いのみわざを開始され、死の前でたたずんでいる人間たちに新しい歩みを開始させるのです。

13節にはもう一つ新約聖書で特徴的な言葉が用いられています。それは「憐れに思う」です。何度かお話したように、この言葉は主イエスが主語の時にしか用いられない専門用語です。ギリシャ語で内臓を意味するスプランクスという名詞の動詞形スプランクニゾマイという言葉です。深く強く激しい感情を言い表す言葉です。日本語で言えば、「五臓六腑に染み渡る」とか「肝をつぶす」というような言い方と同じです。内臓を抉り出すほどの強く激しく感情です。この言葉の意味を正しく理解するために、わたしたちは主イエスの十字架の愛を思い起こすのがよいでしょう。主イエスはわたしたち罪びとに対する大きな、深く激しい愛を、実際にご自身の肉を裂き血を流されるほどの十字架の愛として表してくださいました。これが主イエスの「憐れに思う」の意味であり、内容です。

主イエスは婦人に「もう泣かなくともよい」と言われました。直訳すれば「泣くな」という命令です。主イエスはこの婦人に対して、一人息子を亡くして悲嘆に暮れているこの婦人に対して、「泣くな」とお命じになるのです。「泣くな」とは泣くことの禁止であり、また泣く必要がないということをも意味しています。

なぜならば、泣く原因が主イエスによって取り除かれるからです。主イエスがだれも超えることができない死という厚い壁を打ち破られるからです。あなたを悲しませ、絶望させている死という、人間にはどうすることもできない死という敵を主イエスが打ち破り、それに勝利されるからです。これが主イエスの「憐れに思う」ことの内容であり、またその結果です。主イエスの「憐れみ」、十字架の愛は、この婦人の悲しみ嘆きを禁止するとともに、その悲しみ嘆きを感謝と神賛美とに変えるのです。

 きょうの個所で不思議に思われることは、この婦人の方からは主イエスに対して何もお願いしていないという点です。前のカファルナウムでの百人隊長の部下のいやしの奇跡では、百人隊長が主イエスに病気のいやしを熱心に、しかし謙遜にお願いをしていました。また彼の異邦人としての信仰が主イエスによって称賛されていました。しかし、きょうの個所では婦人は一言も言葉を発していませんし、主イエスに何かをお願いすることもありません。彼女は息子の死の前でただ泣き崩れるほかにありません。そうであるのに、主イエスの方からこの婦人に一方的に目を注がれ、深い憐れみをかけられ、み言葉を語られました。そして、彼女の一人息子を死から生き返らせるという偉大な奇跡をなされました。すべては、主イエスの方かの一方的な働きかけであり、行為です。この婦人はそのような主イエスの深い憐れみと救いの恵みをただ受け身で、受け取るだけです。そして、彼女はその主イエスの救いの恵みによってこれから生きることがゆるされているのです。これが主イエスの十字架の愛の大きな特徴なのです。わたしたちもまたそのようにして主イエスの十字架の愛と救いを受け取るのです。

 【14~17節】。主イエスは死者を葬る行列に近づかれます。死者を納めた棺に近づかれ、その棺に触れられます。すると、棺を担いでいた人たちの歩みが止まります。主イエスは人間たちの死に向かう歩みを、墓へと向かう歩みを止められます。主イエスご自身が死者に近づいてこられ、死者に手を触れることによって、死に向かう人間の歩みを、また死そのものにストップをかけられたのです。そして、主イエスは死を打ち破り、新しい命を生み出されました。若者は棺の中から起き上がりました。

 「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。「すると、死人は起き上がってものを言い始めた」。主イエスのみ言葉が死者に新しい命を生み出します。主イエスのみ言葉によって死んでいた者が起き上がります。主イエスのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出します。

 ナインの若者の生き返りの奇跡は、主イエスの十字架の死と復活を指し示しています。この奇跡は、一人の若者が生き返ったというだけの出来事ではありません。最初にも確認しましたように、ここでわたしたちは来るべきメシア・キリスト・救い主であられる主イエスに出会うのです。主イエスご自身が罪びとたちの一人となられ、死ぬ者となられました。そして、死に勝利され、復活されました。主イエスを信じる信仰者たちに神の国での朽ちることのない永遠の命を約束してくださいます。この主イエスがいつもわたしたちと共におられ、わたしたちのすべての悲しみや嘆き、痛み、悩み、苦しみと共におられ、そしてわたしの死の時にも共にいてくださいます。それらのすべてからわたしを救い出されるメシア・救い主・キリストとして。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、ひとり子イエス・キリストをメシア・救い主としてお遣わしくださいましたことを感謝いたします。どうか、主イエスの愛と真実によって、暗い闇の中をさまようこの世に人々を明るく照らしてください。罪と死と滅びに支配されているすべての人々にまことの救いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。