12月25日説教「闇の中に現れた大きな光」

2022年12月25日(日) 秋田教会降誕日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「闇の中に現れた大きな光」

 預言者イザヤは紀元前8世紀のイスラエルの暗い時代の中にあって、大きな光を見ています。9章1節にこのように書かれています。【1節】。この時代のイスラエルの「闇」とは、何を指しているのでしょうか。「死の陰の地に住む者」とはどういう人のことなのでしょうか。そしてさらには、その闇を照らす大いなる光とは? 死の影を歩んでいた人々の上に輝く光とは、どのような光のことなのでしょうか。なお、今一つの問いを、わたしたちは投げかけてみたいと思います。その光は、今現在も、この世界を、またこの世界に住むわたしたち一人一人を照らしているのでしょうか。きょうのクリスマス礼拝で、わたしたちはこの問いに対する答えを見いだしたいと願います。

 イザヤが預言者としての活動を開始したのは、イスラエル南王国ユダのウジヤ王が死んだ年、紀元前742年ころでした。ウジヤ王は40年以上もの長い間ユダ王国を統治し、この間、国は安定し、繁栄していましたが、彼の死後、国の内外に急速に混乱と危機が迫ってきました。そのころ、アッシリア帝国が近東地域全体を支配し、パレスチナにもその勢力が及び始めていました。北王国エフライムはこのアッシリアの脅威に対抗するために隣国であるシリアとシリア・エフライム同盟を結び、外国の軍事力に頼ろうとしました。

しかし、イザヤはこれに強く反対しました。外国と同盟を結ぶことは、神との契約を破ることだと考えられたからです。イスラエルは神と契約を結んだ神の民でした。いついかなる時でも、主なる神に信頼し、主なる神にのみ服従して生きるべき信仰の民でした。他の国と同盟を結ぶことは神との契約を破ることであり、神に対する信仰によって生きるのではなく、この世の人間の力や武力に頼って生きることであり、それは神に対する不信仰であり、罪だったのです。神はこの罪に対する厳しい裁きをお与えになるであろうとイザヤは語りました。

紀元前733年に、このイザヤの預言は一部実現しました。アッシリア軍が北王国エフライムの北東部に攻め入り、この地域をアッシリアの属州としました。イザヤ書8章23節に挙げられている地名、「ゼブルンの地、ナフタリの地、ガリラヤ」がその時にアッシリアに占領された地域と考えられています。そしてついには、紀元前721年になって、北王国の首都であったサマリアがアッシリア軍によって占領され、イスラエル北王国エフライムは滅びることとなりました。イザヤが預言したとおりです。それは、北王国エフライムの神への不従順と罪に対する神の裁きだったのです。

他方、南王国ユダはアッシリア帝国に対抗する道ではなく、アッシリアに貢物を送り、帝国の援助を受けることによって国の安泰を図る道を選択しました。けれども、これも神のみ心にかなった選択ではありませんでした。国内にアッシリアの異教的な宗教が入り込み、エルサレム神殿での礼拝にも異教的な偶像が持ち込まれました。預言者イザヤはこのような南王国ユダの不信仰と罪をも繰り返して非難しています。

そのようなイスラエル全体の混乱と危機の中で9章の預言が語られたと考えられています。この歴史的背景とイザヤの預言の内容から判断すると、「闇」とは、イスラエル北王国に迫っている滅亡の危機のことであり、それ以上に、南王国ユダの偶像礼拝と宗教的堕落のことであり、彼らの神に対する不従順と罪のことであると言うことができます。また、「死の陰の地に住む人」とは、主なる神に信頼することをせず、人間の知恵や力、武力によって国を守ろうとする愚かな国の指導者たちのことであり、預言者が語る神のみ言葉に耳を傾けず、この世の繁栄や安定にしがみつき、罪を悔い改めて神に立ち返ろうとしない、かたくなな人々のことであると理解されます。主なる神と共に歩もうとしないイスラエルの民は、もはや信仰によって生きる民ではなく、死んだ民なのです。

けれども、そのようなイスラエルの民が、今や大いなる光を見るであろう、彼らの上に光が照り輝くであろうと、イザヤはここで預言しています。「大いなる光」とは、この世界にあるもろもろの光とは違う、天からの、神からの特別な光のことを言い表しています。この世界の大小の光は一部の人々や一部の地域だけを照らしますが、天からの大いなる光は、すべての人を、すべての世界を照らし、すべての暗闇をその中に飲み込んでしまい、闇に勝利します。

では次に、どのようにしてその光がやってくるのかを見ていきましょう。2節には、「あなたが深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った」と書かれています。神は不従順で罪を悔い改めないイスラエルの民に大きな喜びと楽しみをお与えくださるのです。それは、神の側からの一方的に差し出される恵みであり、救いです。イスラエルの側には、神の怒りと裁きを受けて滅びるべき理由しかないにもかかわらず、神は罪のイスラエルをなおもお見捨てにならず、彼らを憐み、彼らの罪をゆるしてくださるというのです。

ここでも、「深い喜び」「大きな楽しみ」と言われています。これもまた、この世でわたしたちが経験するような大小の喜びや楽しみとは違って、他のすべてのものを、悲しみをも苦しみをも、あるいは不安や恐れをも、それらのすべてを飲み込んでしまうような特別な喜び、楽しみのことであり、それは天の神から与えられるものです。

3節以下で、その光の到来についてさらに説明されます。一つには、その天からの光がイスラエルの民が負っていたすべてのくびきを折り、彼らを全く自由にする光であり、もはや兵士が履いていた靴も彼らが着ていた軍服も焼き払われ、彼らが敵の血を流すために持っていた武器も必要なくなる、そのような完全な平和をもたらす光であると言われています。

そして5節以下では、その大いなる光の到来がひとりの男の子の誕生と関係づけられています。その子の名前は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれ、その子がダビデの王国を平和と公平と義によって永遠に支配するであろうと預言されています。

紀元前8世紀前半の混乱と危機の中にあったイスラエルの時代の中で、預言者イザヤが語ったこの大いなる光の到来、その光をもたらすためにやがて誕生するであろうひとりの男の子とは、いったいだれを暗示しているのか。多くの旧約聖書研究者が具体的な名前を挙げています。預言者自身のことだとか、イザヤの子どもの一人、あるいはイスラエル南王国の歴代の王のだれかとかの名前が挙げられていますが、だれかに決定する決論には至っていません。というのも、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるにふさわしい人物、そして神がダビデ王に約束された平和と公平と義とをもって永遠に王国を支配する王にふさわしい人物は、イスラエルのその後の歴史の中では見いだせないからです。

その問いに最終的に答えが与えられるのは、イザヤの時代から700年以上の時を経て、新約聖書になってからからです。すなわち、すべての人を照らす天からのまことの光として、クリスマスの時にこの世においでになった神のみ子・主イエス・キリストこそが、すべての問いに対する答えであるということを、わたしたちは新約聖書から教えられるのです。

きょうの礼拝で朗読されたヨハネによる福音書1章もそうですが、他の3つの福音書と使徒言行録、そして多くの書簡、最後のヨハネの黙示録に至るまで、すべての新約聖書はその全ページの中で、ただ一人の救い主・主イエス・キリストを証ししています。この主イエス・キリストこそが、預言者イザヤが待ち望んでいた、闇を照らす大いなる光であり、死の陰の地に住む人々にまことの命をお与えになる救い主であり、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」であり、そして永遠に神の国を支配される王であられます。この主イエス・キリストこそが、全旧約聖書の預言の成就なのです。そして、全世界の唯一の、まことの救い主なのです。これがクリスマスの中心的なメッセージです。

ヨハネ福音書1章9節にこのように書かれています。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。この短いみ言葉の中に、主イエス・キリストの救いの恵みが豊かに言い表されています。

まず、「世に来て」とは、神がこの世を救うためにご自身のみ子を世に遣わされたことを言っています。神はこの世が神から離れ、神なしで滅びの道を行くことを望まれませんでした。神は罪に支配されて神を失っているこの世界を憐れまれ、愛されました。この世界と全人類を罪から救うためにご自身の一人子を人間のお姿でお遣わしになりました。その一人子を十字架の死に引き渡されるほどに、神は罪びとを愛されました。それは、だれ一人として罪の中で滅びることがないためです。この福音書の3章16~17節にこのように書かれています。【16~17節】(167ページ)。

「まことの光」とは、暗い場所を照らす何らかの光、たとえばろうそくの光とか、太陽の光、電球の光ではなく、その光に照らされた人をまことの命によって生かす光、命を与える光のことです。わたしたちが人生の歩みの中で、時に道を見失ったり、生きる希望を失ったりする時に、わたしに新しい道を指し示し、生きる希望を与える光のことであり、さらに言うならば、わたしがこの地上の歩みを終えて死に赴くときにも、なおもわたしを離さず、わたしの神であり続け、わたしに朽ちることのない永遠の命を約束してくださる光、死をも照らす光、それがまことの光です。

「すべての人を照らす」とは二つの意味を持ちます。一つは、だれもこの光によって照られなくてもよい人はいない、すべての人がこの光によって照らされることを必要としているということです。なぜならば、すべての人が、神なしではまことの命を生きることができない罪びとだからです。クリスマスの時に語られるひとつの大きなメッセージがここにあります。わたしたち人間は、この世界の全人類は、クリスマスのこの時に神のみ前に自らの罪と破れと貧しさとを告白しなければなりません。そして、主なる神の憐みとゆるしとを願わなければなりません。この世界は、またすべての人は神の憐みとゆるしなしにはまことの命を生きることができないからです。

もう一つは、すべての人がこのまことの光に照らされているということです。まことの光なる主イエス・キリストは、すべての人の救い主としてこの世においでになりました。すべての人の罪のゆるしと救いのために十字架で死んでくださいました。だれ一人として滅びることがないように、すべての人が救われるように、これがクリスマスの時にわたしたちに現わされた神のみ心なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、独り子を十字架におささげくださるほどにわたしたち一人一人を愛してくださいましたことを覚え、心から感謝いたします。どうか、この世界があなたのみ心に背いて滅びることがありませんように。主なる神であるあなたを恐れ、あなたのみ心が行われるように祈り願う世界となりますように。この世界にまことの救いと平和をお与えください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月18日説教「恐れるな。ただ信じなさい」

2022年12月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編23編1~6節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「恐れるな、ただ信じなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、時間の経過を追って、主イエスの二つの奇跡が並べて記述されています。初めに、会堂長ヤイロが主イエスのもとにやってきて、自分の一人娘が重病で死にそうなので、急いで家に来てくださいとお願いをします。主イエスが弟子たちとヤイロの家に向かっている途中で、12年間出血が止まらずに苦しんでいた婦人が群集の中に紛れて主イエスに触り、それによって出血が止まってたちまちに健康になり、今度はこの婦人が主イエスによって救われたことを群集に向かって証しをしたというのが、第一の奇跡です。

 ところが、この婦人のことで時間を費やしている間に、ヤイロの家に行くのが遅くなり、家に着く前に娘がなくなったとの知らせが、主イエスに届けられます。その人は娘がなくなってしまったので、もう主イエスに来ていただく必要がありませんと伝えますが、主イエスはヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる」と言われ、彼の家に入られました。そして、その娘を生き返らせました。これが第二の奇跡です。

 この二つの奇跡は、時間が連続しているので二つが並んで記述されているというだけではなく、そこにはもっと深い連続性があり、その連続性には重要な意味が含まれています。時間の経過から見るならば、12年間出血が止まらなかった婦人のために主イエスが時間を費やし、そのことでヤイロの家に到着するのが遅くなり、主イエスの到着を待たずに彼の娘が息を引き取ったということであるならば、ヤイロにとっては何とも残念なことだったに違いありません。聖書にはそのことについては何も書かれていませんが、ヤイロの気持ちとしては、主イエスはなぜもっと急いでくださらなかったのか、途中で時間を取らずにまっすぐに家に向かっていれば、娘がまだ生きているうちに主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができたかもしれないのに、という思いがあったと推測できます。

 けれども、そのようにはなりませんでした。ヤイロの願いと期待は裏切られたことになるのでしょうか。ヤイロの家に向かう主イエスの歩みはここで終わってしまうのでしょうか。そうではありません。主イエスの歩みはなおも続けられます。ヤイロはもっと偉大なる主イエスの奇跡を見るのです。彼は主イエスが死にかけている彼の娘をいやしてくださる神の力をお持ちであると信じ、期待しています。彼はまた今目の前で、病気の婦人が主イエスによっていやされたという奇跡を見ました。しかし、彼が見るべき奇跡はそれだけにとどまりません。彼は主イエスと共にさらに先へと進むようにと招かれているのです。すでに息を引き取った彼の娘が、主イエスによって死から生き返るというさらに偉大なる奇跡を見るようにされるのです。そのために、ヤイロはしばらくの時の経過を待たなければなりません。

 これが、二つの奇跡が時間の経過とともに連続していることの隠された意味です。前回もそのことについて少しお話ししましたが、きょう改めて今一度そのことを確認しておきたいと思います。主イエスはわたしたちの願いや期待にはるかにまさった豊かな恵みをもって、わたしたちの祈りにお答えくださる救い主であるということをここで改めて教えられるのです。

わたしたちはヨハネ福音書11章のラザロの死と復活の出来事を思い起こします。主イエスはラザロが病気だとの知らせをお聞きになってからもなおも二日間もその場所に滞在しておられ、ついにラザロが死んだあとになって、ようやく彼の家に向かわれました。その時、主イエスはこう言われました。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」(14~15節)。主イエスは重病のラザロのところに、あえてすぐには行かれませんでした。それは、「神の栄光のため、神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました(4節参照)。そして、ラザロが墓に葬られて四日たってから、主イエスは彼を墓の中から起き上がらせました。

わたしたちはヤイロの娘の生き返りとラザロの生き返りの奇跡によって、神のみ子であられる主イエス・キリストの十字架の死と、三日目の復活とを信じる信仰へと招かれているのです。そして、罪のゆるしによる救いへと招かれているのです。

では、第二の奇跡の序文にあたる40~42節を読みましょう。【40~42節】。主イエスの一行はガリラヤ湖の対岸のデカポリス地方からカファルナウムに戻ってきました。群衆が主イエスを迎えました。彼らは主イエスに何を求めて集まってきたのでしょうか。ここではそれは明らかにされていませんが、はっきりしていることは、これから起こる二つの奇跡はいずれも群衆の中から飛び出して主イエスのみ前に進み出た人に対しての奇跡だったということです。群衆の中にとどまっているだけでは、群衆の中に身を隠しているだけでは、その人の奇跡は起こりません。信仰は生み出されません。

会堂長ヤイロは主イエスの足もとにひれ伏したと書かれています。ひれ伏すという姿勢は、礼拝の姿勢であり、完全な服従と謙遜の表明であり、また打ち砕かれた魂を表しています。今ヤイロが直面している危機がいかに重大であるか、それとともに主イエスに対する信頼と期待がいかに大きいかをここから知ることができます。

カファルナウムは大きな町であり、ユダヤ人の会堂(シナゴーグ)がいくつもありました。ヤイロはその中の一つの会堂の指導者、管理者でしたので、社会的にも宗教的にも高い地位にあり、人々から尊敬を受ける立場にありました。けれども今、彼はそれらのすべてを捨てるようにして、主イエスのみ前にひれ伏し、ひたすらに主イエスの助けを願う以外にありません。主イエスのみ前にくずおれるほかありません。主イエスの奇跡はそのようなヤイロに現わされるのです。

主イエスはカファルナウムの諸会堂で説教をしておられましたから、ヤイロは何度か主イエスの説教を聞いていたと推測できます。彼はおそらく、会堂長として礼拝の準備をし、会衆を迎え入れ、安息日の礼拝が神のみ心にかなって執り行われるように配慮していたと思われます。主イエスの説教を聞いた時には、彼は礼拝者の一人でした。けれども、その時には彼はまだ真実の礼拝者ではありませんでした。主イエスが語られる神の国の説教を、本当の意味で聞いてはいませんでしたし、信じてもいなかったと言わざるをえません。主イエスのみ前に、自らの弱さと破れをさらけだし、罪を告白し、悔い改め、主イエスの救いを呼び求める真実の礼拝者ではありませんでした。

けれども今、ヤイロは一人娘が病気で死にかけているという危機的な状況の中で、主イエスの足もとにひれ伏し、主イエスを礼拝し、この主イエスにこそわたしの最後の希望があることを信じて、主イエスの助けを願い求めています。ここに、真実の礼拝者の姿があります。ヤイロは一人娘を失うかもしれないという試練と不安、恐れの中で、主イエスに対する信仰へと導かれ、主イエスによる死から命を生み出す奇跡を見ることへと導かれたのです。

ユダヤ社会では12歳で成人となります。ヤイロがこれまでどれほどの愛情を注いでこの一人娘を育て、その成長を楽しみにしていたかは想像できます。ところが突然の病気と危篤状態に、ヤイロは動揺し、不安と恐れ、絶望の淵に立たされます。彼がこれまで娘に注いできた愛情の何倍もの愛情を注いでも、この事態をどうすることもできません。彼がこれまで築いてきた社会的地位や財産のすべてをもってしても、またその他どのような高価なものをもってしても、娘を死の危険から救い出すことはできません。死の前では,それらのすべては力を失い、空しいものでしかないことが明らかになります。その時ヤイロは真剣に主イエスに助けを求めました。主イエスにこそ救いがあるということを信じ始めました。

49節から、会堂長ヤイロの娘の奇跡の出来事についての記述が再開されます。【49~50節】。ヤイロの家から来た人は、娘さんが息を引き取ったのでもう主イエスに来ていただく必要はないと考えました。ヤイロ自身もそのように考えたに違いありません。まだ息があるうちなら、主イエスによって祈っていただき、手を置いていただくかして、いやしてもらう希望がありましたが、死んでしまえば、もはやだれにも手の施しようがなくなり、だれもが死の前でくずおれるほかにありません。

しかし、主イエスは死の中を、死を超えて、さらに先に進まれます。人々がもはやだれにも何も期待できなくなって、絶望するほかになくなったその先へ、主イエスはなおも進んでいかれます。死を打ち破る救い主として、死に勝利される復活の主として。

主イエスはヤイロに言われます。「恐れるな」と。これは強い命令です。恐れを否定する命令です。恐れを取り除く命令です。恐れに勝利する命令です。人はみな死の前で恐れざるをえません。死の前で立ち尽くし、くずおれるほかありません。死の前ではなすすべを失い、ただ泣き悲しみ、死に対して屈服するほかありません。そのようなわたしたちに、主イエスは「恐れるな」とお命じになるのです。死に対して勝利される主イエスだけが、このようにお命じになることができ、また実際わたしたちが死をもはや恐れる必要がない信仰へと、わたしたちを招き入れてくださるのです。

主イエスは「ただ信じなさい」とお命じになります。これも強い命令です。ただ、主イエスを信じる信仰によってこそ、死の恐れから解放されるからです。なぜならば、主イエスご自身が死に勝利される救い主だからです。主イエスはわたしたちを罪と死から救うために、十字架への道を進まれ、死んで三日目に復活されました。この主イエスをわたしの救い主と信じる信仰によって、わたしたちもまた罪と死の支配から解放され、神の国での永遠の命に生きる希望が与えられるのです。

ヤイロの家ではすでに葬儀が始まっていました。【52~56節】。52節の「泣くな」。これも強い命令です。54節の「娘よ、起きよ」。これも主イエスの強い命令です。わたしたちはこの場面で何度も主イエスの強い命令を聞きます。「恐れるな」。「信じよ」。「泣くな」。そして「起きよ」。わたしたちにこのようにお命じくださる主イエスは、事実ご自身のご受難と十字架の死、そして復活によって、わたしたちからすべての恐れを取り除き、わたしたちを信仰の道へと導き入れ、わたしたちの目から涙をぬぐい取ってくださり、死ぬべきわたしたちの体を新しい命に生かしてくださる唯一の救い主であられます。わたしたちは待降節の今、すべての人にこの救いをもたらしてくださる主イエスが、全世界の主としておいでくださるのを待ち望んでいるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、み子の十字架の死と復活によって、罪から救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちが再び罪の奴隷になることがありませんように、あなたの命のみ言葉でわたしたちを導いてください。

〇神よ、この世界を憐み、顧みてください。戦争や殺戮、飢えや飢餓、憎しみや恐れが、この世界に満ちています。どうか、あなたが天からまことの光で照らしてくださり、すべての人に平安と慰めをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月11日説教「ヤコブからイスラエルへ」

2022年12月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記32章23~33節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ヤコブからイスラエルへ」

 ヤコブはハランにいる叔父ラバンの家で過ごした20年間の逃亡生活を終えて、故郷の地カナンに帰ろうとしています。創世記32章1~22節までには、ハランから長い道のりを旅して、ヤボク川の近くのマハナイムまでやってきたヤコブが、その地で兄のエサウとの再会の準備をしていることが描かれています。後半の23節からは、ヤボク川を渡ろうとしたヤコブが何者かと一晩中格闘したことと、その時に彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたことが書かれています。きょうはこの32章全体のみ言葉から学びたいと思います。

 【2~3節】。「マハナイム」とは「二組の陣営」という意味だと2節で説明されていますが、なぜその名がつけられたのかについては8節と11節に暗示されています。マハナイムはヨルダン川の東側のヤボク川のそばにある町です。ハランからは直線距離でも800キロメートル以上あり、兄のエサウが住むエドムまでは100キロメートル足らずです。その場所に到着した時に、神のみ使いたちがヤコブに現れたと書かれています。ヤコブをその地へと導かれたのが、主なる神であることを示しています。ヤコブは20年前に、兄のエサウを欺いて長男の特権を奪い、そのことでエサウの怒りを買って、殺されそうになったために逃亡したのですが、ヤコブは兄と和解しようとして故郷の地へと帰ってきました。

 でも、兄と和解することだけがカナンの地に帰ってきたことの理由ではないということを、わたしたちはここから知らされます。この地は、神の約束の地なのです。「この地を、アブラハム・イサク・ヤコブに永遠の嗣業として受け継がせる」と約束された神のみ言葉が成就されるために、ヤコブはこの地に、神によって導かれてきたのです。神の約束は、人間たちのすべての偽りや憎しみ、争い、そして罪を超えて、必ずや成就していきます。

 ヤコブは20年ぶりで兄のエサウに再会するにあたり、あらかじめ使いの者を遣わして、ヤコブのご機嫌を伺おうとしています。その使いの者が帰ってきてヤコブに報告します。【7~9節】。ヤコブはエサウの怒りがまだ解けていないことを恐れています。自分や家族の命、また財産が奪われることを恐れています。ヤコブはここで、ハランに引き返してもよかったのかもしれません。これからもラバンの家で労苦することになるとしても、ここでエサウにすべてを奪い取られるよりはましかもしれません。

 しかし、ヤコブはそうしませんでした。あえて危険を冒してまでも、兄エサウがいるカナンへ帰る決意を変えません。なぜならば、そこが神の約束の地であるから、神の約束が成就される地であるからです。31章3節と13節で、神が彼に「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい、わたしはあなたと共にいる」とお命じになった神のみ言葉に従うべきだからです。「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」と8節に書かれているにもかかわらず、彼をこのような決断へと至らせたのは、この神の約束のみ言葉だったのです。

 兄エサウに対する恐れを取り除くために、ヤコブは知恵を発揮し、彼の一行を二組に分けました。しかし、この知恵は神やだれかを欺くための知恵ではありません。神から与えられた豊かな恵みを神に感謝し、その神のみ前に自らの貧しさを告白し、自分がそのような神の恵みを受け取るに値しない者であることを知らされるという、信仰による知恵だということが次のヤコブの祈りによって明らかになります。【10~13節】。

 あのヤコブの口からこのような告白を聞くとは、まったくの驚きというほかありません。わたしたちはヤコブがどのような人間であったかを知っています。彼は生まれたとき、先に生まれ出た兄エサウのかかとをつかんでいました。ヤコブという名前はヘブライ語の「かかと」の意味であり、実際に彼はそのかかとで兄のエサウを「押しのけ」ました。彼は母と組んで父イサクと兄エサウとを欺き、長男の特権を奪い取りました。ラバンの家に逃亡してからも、彼以上に悪賢いラバンと競いながら、互いにだましあいを続けていました。

 そのヤコブが、ラバンの家での20年間の試練の時を経て、また故郷に帰るにあたって、神の約束のみ言葉を何度も聞くことによって、傲慢で、人間的な知恵によって生きていたヤコブがこのように変えられていくのです。「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りないものです」。今や、ヤコブはこのように神のみ前で告白するのです。神から与えられた大きな恵みを、信仰をもって受け取り、それを心から感謝する人は、自分がその恵みを受け取るに値しない罪びとであることを知らされます。神の豊かな恵みと永遠に変わらない神の約束のみ言葉が、ヤコブを神のみ前でへりくだる者とし、罪を告白する信仰者としたのです。ヤコブの20年間の労苦に満ちた逃亡生活は、神が彼にお与えになった信仰の訓練の期間であったのだということが、今わたしたちにも明らかにされました。

 ヤコブが彼の家族と財産を二組に分けたのは、エサウに襲われた時に、どちらかが生き残るための知恵であったと8節に書かれていましたが、11節では、一本の杖だけを持ってこの地を出た自分が、今や二組の陣営を持つまでになったという、神の恵みの豊かさを強調するための知恵に変化しているのです。このようにして、ヤコブの人間的な知恵が、今や清められて、神から与えられた信仰による知恵へと変えられていったということに、わたしたちは気づかされます。

 次に、23節以下を見てみましょう。【23~25節】。ヤボク川はヨルダン川の支流であり、ヨルダン川東側を南北に分けている深い渓谷を流れる川です。その川を多くの家族や家畜を渡らせるのは大変な労苦でした。ヤコブは彼の家族や家畜を先にヤボク川を渡らせ、彼らが安全に渡り終えたことを見届けたのちに、彼は最後に渡りました。

その時、何者かが夜明けまで彼と格闘したと書かれています。この何者かとは、この場面では正体は明らかにされていませんが、これが神のみ使いであったということは、29節の「お前は神と人と闘って勝ったからだ」というその人自身の言葉から暗示されています。また、31節では、ヤコブ自身が「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と告白しています。ホセア書12章4~5節では、この場面を背景にしてこう語られています。「ヤコブは母の胎内にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた」。この何者かとは、神のみ使いであり、それは神ご自身を表しています。

 では、「ヤボクの渡しでの神との格闘」と言われるこの場面にはどのような意味が含まれているのでしょうか。いくつかのポイントにまとめてみましょう。一つには、ヤコブは今20年間の逃亡生活を終えて、兄エサウと再会し、彼と和解するという大きな課題を抱えて苦悩しているのですが、しかし本当に和解しなければならない相手はエサウなのではなく、神なのだということがここで明らかにされているのです。ヤコブは父イサクや兄エサウを欺き長男が受けるべき神の祝福を奪い取りました。しかし、それはイサクやエサウを欺いたというだけではなく、神ご自身を欺いていたのです。彼の傲慢でわがままな性格は、神に対する不従順であったのです。ヤコブはエサウと和解する前に、神と和解しなければなりません。神のみ前に立ち、神と向かい合い、神のみ前に自らのすべてをささげて、一晩中かけて、神の真実と取組まなければなりません。神と真実の、真剣な出会いをしなければなりません。それが、「ヤボクの渡しでの神との格闘」の第一の意味です。

 第二には、ヤコブは神との格闘の末に、自らの弱さと欠けを知らされたということです。ヤコブが怪力の持ち主であったことが29章10節で暗示されていました。そこには、数人で動かす大きな石をヤコブは一人で動かしたと書かれています。きょうの箇所でも、神のみ使いであるこの人はヤコブと格闘して勝ち目がなかったと26節に書かれています。さらに29節では、「神と人と闘って勝った」とも言われています。それほどの怪力の持ち主であったヤコブですが、最終的な結果としては神のみ使いによって腿の関節を外されました。32節には、「ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた」と書かれています。怪力の持ち主であったヤコブは、今や肉体の痛みと欠けを持つ人になりました。自らの弱さと破れを知る人とされたのです。

 使徒パウロは神から何かの肉体のとげを与えられていましたが、彼はそれを自分が思い上がらないために神から与えられた痛みだと、コリントの信徒への手紙二12章で書いています。そして、彼は続けて、「神の力は自分の弱さの中でこそ発揮されるのだから、わたしはむしろ自分の弱さを誇る。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからだ」とも言っています(12章7~10参照)。

 第三には、ヤコブはかつて父と兄を欺き、長男が受けるべき祝福を自分に奪い取りました。しかし、ここでは、ヤコブは神の祝福を受け取るために一晩中神のみ使いと格闘し、勝敗がついてからもなおもみ使いを離さず、ついに神の祝福を受け取りました。ヤコブの戦いは神の祝福を受け継ぐための戦いであったといってよいでしょう。これによって、ヤコブは事実上、神が初めにアブラハムに約束された万民のための祝福を受け継ぐ者となったのです。

最後にもう一つ、それは、ここで彼の名前がヤコブからイスラエルに変えられたということです。神によって名前が付けられること、また途中で変更されることは大きな意味を持っていました。その人自身が、その人の全体が、神によって変えられ、新しい人間とされ、新しい使命を与えられるということです。

ヤコブとはヘブライ語で「かかと」あるいは「押しのける者」という意味でした。その名のように、彼は兄エサウのかかとつかんで生まれ、彼を押しのけて長男の権利を奪いました。自己中心的に、自分の意思を押しとおし、自分の願いをかなえることが彼の生きる目的でした。けれども、これからはイスラエルという新しい名前が与えられます。イスラエルとはヘブライ語では、本来「神が支配されるように」という意味だと推測されていますが、ここでは、「神と闘う」あるいは「神が闘う」という意味で説明されています。いずれがより正確な意味なのかははっきりしていませんが、いずれにしても、彼の名前の中に「エル」すなわち「神」という名が付け加えられました。これからは、彼自身が彼の人生の主となるのではなく、神が彼の主となり、彼の人生のすべてがより明確に神のための人生となるのです。そして、彼の12人の子どもたちが神に選ばれた聖なる民、イスラエルとなり、イスラエルから出たメシア・キリストによって、教会の民が誕生するのです。

わたしたちが主イエス・キリストを救い主と信じて洗礼を受け、キリスト者という新しい名が与えられたこともまた、わたしが主キリストのものとなったということなのであり、パウロがガラテヤの信徒への手紙2章20節で言っているように、「生きているのはもはやわたしではなく、主キリストがわたしのうちに生きておられるのです」。わたしのために十字架に付けられ、死んで復活された主イエス・キリストにあって,主イエス・キリストのために生きるように召されているのが、わたしたちキリスト者です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって滅びにしか値しないこのわたしを、あなたがみ子の血によって罪と死から救い出してくださったことを、感謝いたします。どうか、わたしたちがあなたの救いの恵みにお答えし、あなたの栄光のためにお仕えするものとしてください。

〇待降節の中にあって、全世界があなたのみ子のご降誕を心から待ち望んでいます。どうか、この世界をお救いください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月4日説教「神の選びと召命」

2022年12月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章1~10節

    ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節

説教題:「神の選びと召命」

 日本キリスト教会は信仰告白を重んじる教会であり、信仰告白によって立つ教会であるということを、最も大きな特徴にしています。1951年5月に新日本キリスト教会が創立されてすぐに、信仰告白の制定に取りかかり、2年後の1953年10月の第3回大会で現在の『日本キリスト教会信仰の告白」』を制定しました。教会の礼拝の中で、会衆一同が共に声を合わせて告白するほか、洗礼式と聖餐式のある礼拝では必ず告白されます。また、大会、中会の会議の開会礼拝で、教会建設式や牧師就職式などでも告白されます。もちろん、わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になり、この教会の教会員になるときにも、「あなたはこの信仰告白を誠実に受け入れますか」と問われます。わたしたちの教会は信仰告白によって一つにされている教会です。

 きょうは「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな」の冒頭の部分、「神に選ばれて」という告白について、前回に続いて学びます。キリスト教教理では「神の選び」というテーマになります。今回は、神の選びに加えて、それと結びついている「召命」ということについても、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 神の選びの教理が、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革教会の神学と信仰の特徴の一つであることを前回もお話ししましたが、神の選びにおいては、神の主権的な自由や神の先行的な恵みが強調されます。わたしたち人間の側の行動や判断、決断、あるいは知恵とか知識とかのすべてに先立って、神の恵みの選びがあり、その神の側での一方的な、自由な選びこそが、わたしたちの信仰を生み出し、またわたしたちの信仰を支え、導いているというのが改革教会の選びの教理の大きな特徴です。

 このことをより具体的に理解するために、他の教派の教えと比較してみるのがよいでしょう。たとえば、バプテスト派と一般に呼ばれている教派では、本人の自覚的な信仰体験が重んじられます。神の主権や神の自由、神の恵みの選びよりも、人間の側の決断や応答が重視されます。そのために、自分がどのような劇的な回心の体験をしたかとか、どれほど困難な状況の中で洗礼を受ける決心をしたかなどが好んで語られます。またそのようなことが、その人の信仰を計るバロメーターにされたりします。本人の決断が決定的な意味を持ちますので、まだ自分で決断ができない小児には洗礼を授けることはできません。小児洗礼は否定されます。

 それに対して、カルヴァンやその流れを汲む改革教会は、旧約聖書時代のイスラエルの民から新約聖書の初代教会と中世の教会から受け継がれてきた伝統的な小児洗礼を重んじてきました。それは、人間の側の判断や決断に先立つ神の選びと契約を強調するからです。わたしたち人間は信仰の家庭に生まれるや否や、いや、生まれる以前から、神との契約の民の中に招き入れられており、またすべての人は神の永遠なる予定のうちに恵みによって選ばれているからです。わたしたちが洗礼を受けてキリスト者になるということは、その神の主権的自由と神の先行する恵みの選びを信じ、それを受け入れることにほかなりません。

 でも、そうなれば、神の主権的な自由が強調されて、人間の自由な意志が無視されるのではないかという反論が予想されるかもしれません。しかし、人間の自由意志とは何でしょうか。それは、神を信じるために働く自由意志ではなくて、神の戒めに背き、神に反逆し、神から遠ざかろうとする自由意志なのではないでしょうか。最初に創造されたアダムとエヴァがそうであったように。それは、自ら罪の奴隷になろうとする自由意志なのではないでしょうか。人間がだれもが、そのような意志しか持っていないのではないでしょうか。それは本当の自由意志なのでしょうか。いやそうではなく、それはむしろ奴隷意志なのではないかと、宗教改革者カルヴァンが言っているとおりです。

 神の主権的な自由と神の先行する恵みによる予定と選びを信じるときにこそ、わたしたち人間に本当の自由が与えられ、感謝と喜びとをもって神のお招きに応える自由な意志が与えられるのです。

 では、きょうの礼拝で朗読された二か所の聖書のみ言葉に目を向けてみましょう。エレミヤ書1章は預言者エレミヤの召命の箇所です。【4~5節】。次に、ガラテヤの信徒への手紙1章はパウロが復活の主イエスと出会い、異邦人の使徒として召されたときのことが記されています。【15~16節】。

 きょうのテーマと関連して、この両者に共通している点があることにすぐに気づきます。それは、聖書の他の多くの箇所でも見いだすことができる共通点ですが、エレミヤが預言者として神に選ばれ、立てられたことも、またパウロが異邦人の使徒として選ばれ、立てられたことも、神の永遠なる予定によることであり、神の先行する恵みの選びによることであるということです。エレミヤが将来どんな人物に成長するかがまだ全く分からない時に、まだ母の胎に造られる前から、神がエレミヤを選び、彼を万国の預言者となるべく定められたと書かれています。また、パウロの場合には、彼がまだ母の胎内にいるときから、彼がのちにキリスト教会の迫害者になるであろうことがあらかじめ分かっていたのにもかかわらず、神が主権的な自由と恵みによってパウロを選び、彼を異邦人の使徒となるべく定められたと書かれています。

ここでは、エレミヤの自由意志とか、エレミヤの決断とかについては全く語られてはいません。いやむしろ、エレミヤは彼の意志によって、6節で「わたしは若者にすぎませんから」と神の招きに抵抗しています。パウロの場合も、彼はキリスト教会の迫害者として神の永遠の選びに抵抗し続けていました。にもかかわらず、そのようなエレミヤやパウロの抵抗よりもはるかに強い神の主権的自由による、神の断固とした選びの意志によって、二人は共に、いわば神によって強引にねじ伏せられるようにして、信仰者とされ、神の特別の使命につく者とされたのでした。これが、聖書が語る神の選びであり、『日本キリスト教会信仰の告白』によって告白されている「神の選び」なのです。

 では、このような神の選びは、わたしたち信仰者として選ばれた者にとって、どのような意味を持つのでしょうか。三つの点にまとめてみましょう。

 第一点は、ここにこそ、わたしたちの選びの確かさがあるということです。永遠から永遠にいます神が、永遠なる予定と主権的自由の意志とによって、人間のすべてのわざに先行する恵みの選びによって、このわたしを選ばれ、わたしをこの教会へと招き、信仰の道へと導き入れてくださった。ここにこそ、わたしの選びとわたしの信仰の確かな保証があるのだということです。わたしの決断や選択は、時として誤ることがあります。時として変わることがあります。しかし、神の選びは永遠であり、確固として、不動であり、不変です。わたしの死のときにも、死ののちにも、変わることはありません。主なる神ご自身がわたしの選びを永遠に保証してくださるのであり、わたしの信仰の道を終わりまで導いてくださるのです。そして、わたしが地上の歩みを終えるときにも、わたしと共にいてくださり、「あなたが選んだ信仰の道は正しかった。わたしがあなたの信仰の道を完成させる」と言ってくださり、わたしを永遠なる神のみ国へと導き入れてくださるのです。

 第二点は、神によって選ばれた者を、神のみ前で謙遜な者にするということです。わたしの側には神の選ばれる理由となるべきものは一切ありません。ただ、神の一方的に与えられる恵みによって選ばれたからです。それゆえに、わたしは神のみ前で何ら誇るべきものを持ちません。ただ、神の恵みの選びに感謝するのみです。すべてはただ神の栄光のため、神の誉れのためであることを告白するのみです。神の選びはわたしたちの中にあるごう慢な思いと誇りや高ぶりを取り除き、あるいはそれとは反対の、卑屈な思いや、不安、恐れ、絶望のすべてをも取り除き、わたしたちに救われた者に対する真の平安を与えるのです。

 第三点は、神の選びは、選ばれた者に強い召命感を与えます。エレミヤが神に選ばれ、万国の預言者として立てられたように、パウロが神に選ばれ、異邦人の使徒として、主イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝える伝道者として立てられたように、神に選ばれた者は神からの特別な務めを授けられます。神の選びはただちに召命につながっていきます。神の選びと召命の結合が重要です。神は選んだ人を特別な務めへと召すのです。

その召命と務めの種類や内容は、必ずしもその人の能力とか意志とか、あるいは努力とかによって決められるのではなく、それもまた、お選びくださった神から与えられる賜物です。神は年若い預言者エレミヤに、「あなたはだれをも恐れるな。あなたが語るべき言葉はわたしが授けるから。わたしがいつもあなたと共にいて、必ずあなたを救うから」と7、8節で約束しておられます。エレミヤは神に選ばれ、万国の預言者として立てられたとき、その務めを担うことができるように、神から賜物と力とを同時に与えられたのです。神の選びと召命は固く結びついています。

 教会の迫害者であったパウロの場合はどうだったでしょうか。彼が迫害の息を弾ませながら、ダマスコの近くまで来たとき、突然天からの強い光に打たれて地に倒れ、復活の主イエスと出会いました。そのとき彼は「血肉に相談するようなことはせずに」と16節で言っています。自分自身をも含めて、自分の家族や友人、またエルサレムにいる先輩の使徒たちにも、全く相談しなかったと彼は言うのです。それらのすべては、やがて滅び朽ち果てるしかない血肉であり、永遠なる神の選び前では、なんら力を持たないからです。彼はただひたすら、神の恵みの選びに彼の全生涯をかけたのです。迫害者であった自分を選び、それまで迫害していたまさにその主イエス・キリストのために仕える使徒としてお立てくださった神の驚くべき恵みの選びに、彼の生涯のすべてをかけたのです。

 パウロはコリントの信徒への手紙一15章9~10節でこうも言っています。「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。神の恵みの選びによって主キリストの福音を宣べ伝える使徒として召されたパウロは、その務めを担うための恵みをも豊かに与えられました。

 神はわたしたちひとり一人をも恵みの選びによって主イエス・キリストを信じる信仰者としてくださいました。また、それぞれに賜物を与え、それぞれの務めに召していてくださいます。わたしたちはもはや自分自身のためだけに生きるのでありません。わたしのために死んでくださった主イエス・キリストと主キリストによって愛されている隣人のために生きる者とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがとるに足りないこのわたしをお選びくださり、あなたのみ子主イエス・キリストの救いにあずからせてくださいました幸いと大きな恵みとを覚えて、心からの感謝をささげます。どうか、あなたから与えられたこの信仰の道を全うさせてください。あなたがいつも共にいてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。