9月25日説教「ステファノの殉教」

2022年9月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編31編2~9節

    使徒言行録7章54~60節

説教題:「ステファノの殉教」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノが、ユダヤ最高法院の法廷で語った弁明、または説教が使徒言行録7章1節から53節まで続いていますが、この説教は途中で中断されているような感じを受けます。52、53節でステファノは、あなたがたユダヤ人指導者たちは旧約聖書の預言者たちが預言した正しい方、神の律法を成就される方である主イエスを殺したのだと語りましたが、彼はこのあとさらに、主イエス・キリストの復活や救いへの招きについても語りたかったに違いありませんが、ユダヤ最高法院の71人の議員たちやその裁判を傍聴していたユダヤ人たちの怒りの声によって、彼の説教は中断させられたのではないかと思います。

 【54節】。たとえ、ステファノの説教が中断されたのだとしても、彼の説教の目的は十分果たされていたということが、ユダヤ人指導者たちの反応によって確認することができます。彼らはステファノの説教によって自分たちの罪の姿があらわにされたことを知らされました。しかし、その罪を悔い改めることはせずに、なおもその罪の中にとどまり続けようとしている、そのかたくなな罪がここで明らかになっているからです。自らの罪を知らされながらも、悔い改めることをしない人間の罪の本質を、わたしたちはここに見ることができます。ステファノと彼の説教に対する激しい怒りが、彼らの反応でした。

 それに対して、ステファノ自身については、55、56節にこのように書かれています。【55~56節】。ここでは、神に敵対する罪の人間の怒りに満ちた姿と、神に守られている殉教者の平安に満ちた姿とが対比されています。ステファノの目は怒り狂って自分を攻撃してくる人々に向けられていません。また、彼らの攻撃によって苦境に立たされている自分自身にも向けられていません。彼は、聖霊に満たされ、彼の目は天に向けられています。神の栄光を仰ぎ見ています。天にあるみ座で、父なる神の右に立っておられる主イエス・キリストの姿を仰ぎ見ています。わたしたちすべての罪びとたちのために、十字架で死なれ、その尊い血によってわたしたちを罪から贖い、三日目に死の墓から復活されて、罪と死とに勝利された主イエス・キリスト。天に昇られ、父なる神の右に座しておられ、神の国が完成される日まで、信じる人々のために執成しをされ、守り、導いておられる主イエス・キリストに、ステファノの目は注がれています。そして、平安と喜びと希望とに満たされています。

 55節と56節に、「神の右に立っておられるイエス」と書かれていますが、一般的には、その位に就き、支配者としての務めをしている場合には、「神の右に座す」という表現が用いられますが(『使徒信条』ではそのように告白されています)、ここで「神の右に立つ」と言われているのは、殉教者ステファノを天の勝利の教会に迎え入れるために、主イエスが両手を広げて立ち上がり、迎え入れてくださるお姿を強調しているためと思われます。ステファノは主イエス・キリストによって約束されていた信仰の勝利を確信して、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と叫んでいます。天におられる復活の主イエス・キリストは、死に至るまで忠実にご自身の証人となった信仰者に、最後の勝利を与え、神の国に迎え入れてくださるのです。

 使徒言行録に描かれているステファノの裁判と殉教の場面が、福音書に描かれている主イエス・キリストの裁判と十字架の死の場面と、共通している点がいくつかあることに注目したいと思います。第一の共通点は、主イエスおよびステファノと、二人を取り囲んでいる周囲のユダヤ人たちとの対比に共通点があります。主イエスを裁き、十字架につけたユダヤ人たちは、福音書に書かれているように、「彼を十字架につけよ、十字架につけよ」と叫びたて、主イエスをあざ笑い、憎しみと怒りをもって攻撃し、騒然としているのに対して、主イエスご自身は十字架につけられた肉体の痛みと人々の罪のためのお苦しみの中にあっても、すべてを父なる神にお委ねし、平安に満たされておられました。ステファノもまた、迫害と死の直前にあっても、泣き叫ぶことなく、恐れることなく、勝利者であられる主イエス・キリストにすべてを委ね、そのお姿を仰ぎ見つつ、平安に満たされています。このように、神の国の福音に仕える信仰者、主イエス・キリストの証し人として立つ信仰者は、聖霊によって強められ、最後の勝利を確信させられ、たとえ迫害と殉教によって地上の命が奪い取られようとも、その人には神の国での永遠の命が約束されていることを知るのです。

 第二の共通点は、マルコ福音書14章62節の主イエスのみ言葉と使徒言行録7章56節のステファノの告白との一致です。主イエスはユダヤ最高法院での裁判で、詩編110編1節のみ言葉を引用しながらこう言われました。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」。主イエスはこのみ言葉のとおりに、十字架の死の後、三日目に復活され、40日目に天に昇られ、父なる神の右のみ座につかれました。そして、終わりの日には、雲に乗って再びおいでになり、すべて信じる人たちの信仰を完成させ、神の国へとお招きになります。ステファのはその主イエスのみ言葉が今すでに成就しているのを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と告白しているのです。ステファノの地上の歩みは死によって終わるとしても、彼は地から天に移され、主イエスがいます天の勝利の教会へと招き入れられるのです。

 第三と第四の共通点は、主イエスの十字架上での七つの言葉のうち、二つがステファノの殉教の時に彼が語った言葉とほぼ同じであるという点です。59節の「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と60節の「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」、この二つがルカ福音書23章が伝える主イエスの十字架上での言葉とほぼ一致します。その二つの言葉の意味についてはあとで学ぶことにしますが、主イエスの十字架の場面と最初の殉教者ステファノの死の場面に以上のような共通点があることは偶然ではありません。主イエス・キリストを信じる信仰者は主イエスご自身が歩まれた道と同じ道を歩むであろうことは、当然だと言えるでしょう。主イエス・キリストと同じ道を進むということは、信仰者にとっては大きな喜びであり、誇りであり、栄誉であり、そして勝利なのです。

 では次に、57節以下を読みましょう。【57~60節】。ステファノはここで石打の刑によって処刑されたように思われる。あるいは、ユダヤ最高法院での正式な判決が下される前に、怒り狂った人たちによって、いわばリンチのようにして石打で殺されたのかもしれません。使徒言行録の記述からは正式な判決が下されたのかどうかはっきりしませんが、石打の刑の仕方によって処刑されていることは確かです。レビ記や申命記に定められている律法の規定によれば、神を冒涜したり、重大な罪で死刑となった犯罪人に対しては、証人となった人たちがまず初めに犯罪者に石を投げ、次にまわりにいる人々が一斉に石を投げ、犯罪人が死ぬまで石を投げ続けるというのが石打の刑でした。ユダヤ人の間では死刑は石打の刑が一般的でした。しかし、主イエスの場合、石打の刑ではなく十字架刑であったのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国の総督ピラトが最終的に主イエスに死刑判決を下したことから、ローマ帝国内で一般的であった十字架刑が執行されたことによります。

 57節に、「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ」と書かれていますが、これはおそらく、ステファノが55節と56節で、主イエスを神のみ子と告白したことが人間を神と等しい者として、神を冒涜したと受け取られたからであろうと推測されます。人々はステファノの神を冒涜した言葉を聞かないようにと大声を出し耳をふさいだのであろうと思われます。もしそれを聞けば、自分たちも神を冒涜したことになると考えたからです。ユダヤ人たちはそれほどまでにステファノの告白と証言を恐れていたことが分かります。彼が告白した人の子であり同時に神のみ子であられる主イエス・キリストの福音を恐れていたのです。ユダヤ人たちは神のみ子、主イエスの十字架につまずきました。

 58節にサウロという若者が登場します。サウロ、のちのパウロはステファノの迫害と殉教の場面ではほんのわき役として、石打の刑を執行する人たちの上着を監視する役として現れるにすぎませんが、彼がこのあとで自らキリスト教会迫害の急先鋒となり、しかしまたそののちには、キリスト教徒に回心し、熱心な伝道者となり、使徒言行録の中心人物となるということを、いったいだれが予想しえたでしょうか。

 最後に、ステファノが死の直前に語った二つの言葉に耳を傾けましょう。「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」(59節)。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(60節)。前にもふれたように、この二つは福音書に書かれている主イエスの十字架上でのみ言葉とほとんど同じです。ルカ福音書23章46節にはこう書かれています。「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』。こう言って息を引き取られた」。また、同じ福音書23章34節には、「その時、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです』」。

最初の殉教者ステファノはまさに主イエスが歩まれた道と同じ道を進んだということをわたしたちはここではっきりと確認することができます。それはただ単に、主イエスの生き方をまねて、同じように生きたと言うのではありません。主イエスが先だって開かれた道、主イエスによって備えられた道へとステファノは招かれていると言うべきでしょう。主イエスの十字架の死がステファノにこのような生き方を可能にしているのです。主イエスの十字架の死によって罪の贖いが完全に成し遂げられ、罪の支配から解放され、罪と死に対する勝利が約束されているゆえにこそ、ステファノはこの迫害と殉教の道を、全き服従をもって進み、しかも喜びと希望を抱きつつ、天のみ国へと招かれていることを告白しているのです。

「わたしの霊をお受けください」という祈りは、「わたしの命、わたしの存在のすべてをあなたにささげます」という祈りです。死に至るまで従順に服従した主なる神の僕(しもべ)であり、主イエス・キリストの証し人の最後の祈りです。それは救いと勝利と平安を確信した信仰者の最後の祈りです。わたしたち一人一人が地上の歩みを終える時の祈りです。

「この罪を彼らに負わせないでください」という祈りは、迫害する者や敵対する者をもゆるし、愛する祈りです。主イエス・キリストによってすべての罪をゆるされている信仰者はこのように祈ることができ、また祈るように命じられています。この祈りによって、信仰者はすべての罪と裁き合いと、憎しみと怒りに勝利していることを確信する祈りです。

「ステファノはこう言って、眠りについた」(60節)。新約聖書では信仰者の死を眠ると言います。それは復活の希望を暗示しています。信仰者の死は永遠の眠りではありません。信仰者にとって死は最後ではありません。復活への門です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちを従順な者にしてください。あなたのお招きのみ声を聞いたなら、直ちに悔い改め、喜んであなたに従っていく者としてください。

○天の神よ、多くの試練や苦難の中にあるこの世界を、どうかあなたが憐れんでくださり、あなたのみ心が行われ、人々に平和と希望とが与えられますように。また、あなたが全世界にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。なたの救いのみわざのために、わたしたちの教会をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月18日説教「風と荒波を静められた主イエス」

2022年9月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編23~32節

ルカによる福音書8章22~25節

説教題:「風と荒波を静められた主イエス」

 ルカによる福音書8章22節からこの章の終わりまでには、主イエスによる4つの奇跡のみわざについて語られています。22~25節には、ガリラヤ湖の風と荒波を静められた奇跡。26~39節には、ガリラヤ湖対岸ゲラサ人の地方で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出し、いやされるという奇跡。次の40~56節には、12年間出血が止まらず、長血を患っていた婦人をいやされた奇跡と、会堂司ヤイロの娘を死からよみがえらせたという奇跡。

 主イエスはこれらの奇跡によって、ご自身が神のみ子としての主権と権威と力とを持っておられ、自然と世界のすべてを支配しておられること、また悪霊やすべての病気、そして人間の死をも支配しておられることをお示しになられました。それと同時に、神の国が、神の恵みのご支配が、主イエスの到来と共に始まったのだということをお示しになりました。

 きょうは、その最初の奇跡のみわざについて学んでいきましょう。【22節】。湖とはガリラヤ湖のことです。ガリラヤ湖の北西沿岸の町カファルナウムは主イエスのガリラヤ伝道の拠点でした。向こう岸とは、湖の東側の地方で、そこはデカポリス(10の都市という意味のギリシャ語)と呼ばれる地方で、多くはユダヤ人以外の異邦人が住んでおり、当時はローマ政府が直接支配していました。

 主イエスは何のためにこの地方へ行こうと言われたのでしょうか。続く26節以下には、「ガリラヤ湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」と書かれてあり、この地で悪霊に取りつかれている男の人から悪霊を追い出されたという奇跡のみわざが39節まで書かれていますので、これが主イエスの旅の目的であったと推測できます。主イエスが悪霊に取りつかれている男の人と出会ったのが偶然であったとしても、彼をおいやしになってからすぐにこの地方から立ち去っておられますので、結果的にはこの一人の人のいやしの奇跡を行うことが、この地にやって来られたことの目的であったことになります。

 ガリラヤ湖を舟で渡るという主イエスの旅は、観光目的とか、休息とか、何か他の目的のためではありません。主イエスが場所を移動される時、その目的は、ただ一つ、それは主イエスが天の父なる神のみもとからこの地に下って来られた目的と同じ、新しい地にも神の国の福音を宣べ伝えるため、人々を罪の支配から解放し、救うためにほかなりません。ガリラヤ湖の対岸がユダヤ人以外の異邦人の地であろうとも、そこではただ一人の人がいやされただけであろうとも、そこに救いを必要としている人が一人でもいる限り、主イエスはそこへと舟をこぎ出されます。たとえ、危険な航海が予想されるとしても、主イエスは一人の苦しむ人を救うために船出されます。

 ガリラヤ湖は海面よりも200メートルほど低い所にあり、夕方には周囲の山々から突然の吹き下ろしがあって、急激に気候が変化し、湖が荒れることがあると言います。そのような危険が待ち構えている海であっても、主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるため、一人の傷つき病める人の魂を救うために、船出されます。

 その際に、主イエスは弟子たちを伴われます。弟子たちも主イエスと共に危険が待ち構えている海へ船出しなければなりません。主イエスの弟子である教会は、静かで安全な港の中にとどまっていることはできません。この世の荒波へと漕ぎ出さなければなりません。主イエスの十字架の福音を宣べ伝えるために、罪びとが一人でも救われるために、不信仰なこの時代のただ中へと漕ぎ出し、厳しい信仰の戦いを続けていかなければなりません。もし、わたしたちの信仰が自分を守るためだけの信仰であるならば、危険な海へと漕ぎ出して行き、他の人の救いのために命をかけて仕える信仰でないなら、わたしたちは主イエスの弟子ではありませんし、そのような信仰はやがて衰え、あるいは歪み、ついには命を失ってしまうほかないでしょう。主イエスはわたしたちにも呼びかけて言われます。「わたしと一緒に向こう岸に渡ろう」と。

 【23節】。「イエスは眠られた」と書かれているのは聖書の中でここだけです。これは意味深い一節です。二つの意味を考えてみましょう。一つには、この一句は主イエスの人間性を言い表しています。主イエスは神のみ子であられますが、いわば超人的な強さや完全さをもってこの世においでになられたのではありません。主イエスはわたしたち人間と全く同じように、人間としての肉体を持ち、肉の弱さを持って生まれ、生きられました。主イエスはわたしたちの人間としての弱さや、疲れや、痛み、悲しみのすべてを知っておられました。時には、空腹を覚えられ、疲れて眠られ、時には涙を流され、時には怒り、叫ばれました。主イエスはまことの人間として、人の子として、わたしたち人間が持つすべての弱さを経験されました。それゆえに、主イエスはわたしたちの弱さを思いやることがおできになるのです。

 もう一つは、主イエスが眠られたということは、父なる神への全き信頼のお姿を表しています。詩編4編の詩人は、主なる神が苦難の中にあるわたしの祈りを聞いてくださるゆえに、「わたしは平和のうちに身を横たえ、眠ります」(詩編4編9節参照)と告白しています。安らかな眠りは神への全き信頼によります。神の守りと導きとを信じる信仰によって、主イエスは波風に揺れ動く舟の中で、すべてを神にお委ねして、安らかに眠っておられます。

 けれども、主イエスの眠りは怠けている人の惰眠ではありませんし、一緒に舟に乗っている弟子たちに無関心であったり、彼らをお見捨てになったのでもありません。主イエスは目覚めるべき時には、たとえ弟子たちがみな眠っていても、ただお一人目覚めておられます。わたしたちは受難週の木曜日の夜、ゲツセマネの園でのことを思い起こします。弟子たちは疲労と恐れと緊張のあまり、みな眠ってしまい、主イエスによって3度も起こされましたが、起きて祈っていることができませんでした。その間、主イエスだけがお一人目覚めておられ、汗を血の滴りのように流され、父なる神に祈られ、激しい信仰の戦いをされ、ご自身に備えられた十字架への道を進み行く決意をされました。主イエスはわたしたちがみな罪の中で眠りこけていた時に、ただお一人目覚めておられ、わたしたちの罪のために戦われ、祈られ、そして罪に勝利されたのです。

 23節から、もう一つのことを教えられます。わたしたちが主イエスと共に、主イエスに従って信仰の旅路に船出する時には、激しい嵐に出会うことがあるということです。キリスト者となって主イエスに従って生きるということは、人生の悩みや試練、苦難には決して出会わないという保証を得ることではありません。この世の偽りの宗教やご利益宗教は、この世での安全や繁栄を約束します。多くの人たちはそのような宗教に飛びつきます。けれども、それは人間の欲望や自己追及を満足させ、利己主義的な生き方を認めるだけであって、そこには本当の救いはありませんし、人間が共に生きる幸いや、互いに重荷を負い合う喜びはありません。

 わたしたちが主イエスに従い、信仰の道を歩むということは、むしろ荒波の中に漕ぎ出していくことであり、苦難や試練の中で主イエスが共にいてくださることを教えられ、希望と勇気を与えられ、また実際に主イエスの助けと守り、導きを経験し、いつもどのような時でも神に感謝することができる生き方に変えられ、主イエスのためには試練や苦難を少しも恐れず、それらに耐え、ついには主イエスの勝利にあずかる、これがわたしたちの信仰の歩みなのです。

 次に【24節】。激しい嵐の中でも目を覚まさなかった主イエスでしたが、弟子たちの助けを呼び求める声をお聞きになります。そして、目を覚まされ、起き上がられます。主イエスはいつまでも眠っておられるのではありません。わたしたちの苦悩の叫びをお聞きになられます。わたしたちを救うために、目覚め、立ち上がってくださいます。わたしたちをすべての苦難から、死の危険から、救い出してくださいます。

 弟子たちは嵐を恐れています。12弟子の中の少なくとも4人はこのガリラヤ湖の漁師でした。ここを仕事場にし、湖のことや舟の扱い方をよく知っていました。しかし、このような状況になって、彼らの経験や知識は少しも助けにはなりませんでした。死の危険の前で、彼らはあわてふためき、なすすべを失っていました。彼らを死の危険から救い出してくれるものは、何もないかのようでした。

 その時にこそ、主イエスは立ち上がられます。弟子たちの叫びにお答えになります。そして、彼らを死の危険から救い出されます。人間の知識や経験、知恵や力のすべてが無効になった時でも、いやその時にこそ、主イエスはわたしたちの救いとなってくださるのです。

 主イエスは直接に風と荒波にお命じになりました。ルカ福音書にはその時の主イエスのお言葉は書かれていませんが、マルコ福音書4章では、「黙れ、静まれ」とお命じになったとあります。すると、風も波も静まって、なぎになりました。これは、主イエスが主なる神と同じ権威と力とを持っておられ、自然を支配しておられる神であることを明らかにしています。

 古代社会では、旧約聖書と新約聖書の世界でもそうですが、海や水は人間がコントロールできない大きな魔力を持つと考えられ、恐れられていました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみわざの中で、神が第二日に天の水と地の水とを分けられ、第三日に陸と海とを分けられましたが、ここでは海とその水とを支配される神の偉大な力が暗示されています。また、詩編では、しばしば大きな苦難が「大水、大波」にたとえられ、神は信じる人をそのすべての大水、大波から守ってくださることが告白されています。

 主イエスはここで直接に風と荒波とのお命じになり、それを静められました。主イエスは神の権威と力とをもって、この世界とそこに住む人間たちを支配しておられ、救いのみわざを行ってくださるのです。

 最後に、【25節】。主イエスはここで弟子たちの信仰を問題にしておられます。重要なのは、人間の経験とか知識、あるいは知恵や技術ではありません。信仰こそがあらゆる試練と苦難の中で、わたしたちを恐れや不安から解放し、救うのです。主イエスがわたしと共にいてくださる、わたしの人生という舟に共に乗っていてくださる、わたしたちの福音宣教の旅路に伴っていてくださるという信仰が、わたしたちの険しい信仰の歩みを守り導くのです。主イエスがわたしと共にいてくださるのなら、わたしはすべての試練と苦難とにすでに勝利しているのです。死の危険にも勝利しているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、大きな試練と苦難の中にある世界の教会と、全世界のすべての国民とをお救いください。この地において、あなたのみ名があがめられ、み心が行われ、み国が来ますように。

○神よ、この秋田の地で、福音宣教を開始して130年目を迎えたわたしたちの教会を、あなたがいつの時代にも必要なものを備えてくださり、新しい信仰者を生み出してくださり、今日に至るまでお導きくださいましたことを、心から感謝いたします。さまざまな欠けや破れを持ち、弱く小さな群れですが、あなたがこの教会を憐れんでくださり、この教会をお用いくださって、み国の福音を宣べ伝える務めを果たさせてください。今集められているわたしたち一人一人を祝福し、恵みと平安をお与えください。さらに新しい信仰者を増し加えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月11日説教「ヤコブとラケルの結婚」

2022年9月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記29章1~30節

    ローマの信徒への手紙5章1~11節

説教題:「ヤコブとラケルの結婚」

 創世記29章1節にこのように書かれています。【1節】。「東方の人々の土地」とは、28章2節などではパダン・アラムと言われ、27章43節などではハランと言われている地のことで、ユーフラテス川の上流の地域で、パレスチナからは北東へ7、800キロメートル離れています。ヤコブは双子の兄エサウの殺害計画から逃れるために、母リベカの勧めに従って、母の兄ラバンの家に身を寄せようとして、一人で長く困難な旅を続け、今ようやくその地ハランに近づいてきました。

 きょう朗読された29章から31章までは、ラバンの家でのヤコブの20年間について語っています。当初は、この逃亡の旅は少しの間で終わるはずでした。27章43節以下で母リベカはこう言っていました。【43~45節】。ヤコブ自身もそう思っていたに違いありません。けれども、母と息子の予想に反して、少しの期間のつもりが20年間になりました。「あとでまたお前の顔を見よう」と願っていた母は再び愛するわが子に会うことはありませんでした。

 ヤコブの20年間のうちの最初の7年間は、愛するラケルとの結婚のために働いていたので、20節には、「ほんの数日のように思われた」と書かれているように、あっと言うに過ぎました。しかし、彼はさらに7年間、姉のレアのために働かなければならなくなり、それからさらにラバンの家畜のために6年間、計20年間、ヤコブはラバンの家で労苦し、忍耐して働き続けたのでした。

 この20年間はヤコブにとってどのような意味を持つのかということを、わたしたちはあらかじめ確認おきたいと思います。叔父ラバンの家とは言え、故郷を遠く離れて一人、ラバンの思惑通りに働かされてきたこの20年間は、ヤコブにとっては信仰の訓練の時だったと言えるのではないでしょうか。これまで父イサクの家では、何でも自分の思いどおりになる、わがままな子でした。母の愛を一身に受けて、ついには母と組んで父と兄とを欺き、長男の特権を自分の手に入れました。けれども、これからのヤコブは、ラバンの家ではすべてが自分の思いどおりには運ばないのだということを学ばなければなりません。彼のわがままと傲慢が打ち砕かれなければなりません。

そして何よりも、あらゆる人間の思いをはるかに超えて、神のご計画が進められていくということを学ばなければなりません。叔父ラバンの家で労苦して働き、ラバンのたび重なる欺きにも忍耐して、彼に忠実に仕え、そうすることによって、彼が最後に仕えるべきお方が主なる神であるのだということを学ばなければなりません。また、彼のすべての労苦を顧みてくださるお方が主なる神であるということを学ばなければなりません。そのために、ヤコブにとってはこの20年間の訓練の期間がぜひとも必要だったのです。主なる神が愛する者を訓練し、愛するすべての子らをムチ打たれるとヘブライ人への手紙12章に書かれているとおりです。

 さて、ヤコブの旅には兄エサウから逃れるということと同時に、もう一つの目的がありました。28章1節以下に書かれてあるように、カナン地方の娘と結婚することを避けて、母の兄ラバンの娘の一人と結婚するということでした。父イサク自身もラバンの妹であるリベカと結婚していました。29章2~24節に描かれているヤコブの花嫁探しの光景は24章の父イサクの花嫁探しの時とよく似ています。いずれの場合にも、二人の出会いの場所は村の郊外にある井戸の周辺。家畜に水を飲ませる時が旅人と娘との出会いの機会となります。娘は親切な旅人と出会い、走って家に帰り、ラバンにそのことを報告します。ラバンが二人の結婚に際しての条件を出します。イサクの場合もヤコブの場合も、ラバンは抜け目のない計算高い人物として描かれています。24章では、妹リベカを嫁がせる時にはたくさんの金銀を手に入れました。今度は娘を嫁がせるにあたって20年間のヤコブの労働力を手に入れることになります。

 しかし、両者の共通点とともに、違う点もいくつかあります。イサクの花嫁探しの時には、彼自身ではなく、アブラハムの家の年長の奴隷がその役を担いますが、ヤコブの場合には、彼自身が、しかも逃亡の身となって、一人寂しく孤独で困難な旅に出なければなりませんでした。また、イサクの花嫁探しの場合には、金銀などたくさんの贈り物を持参したのに対して、ヤコブの場合には、つえ一本のほかには何も持たずに家を出ました。そのために、結婚するには彼自身の労働力を差し出さなければならず、しかもその期間が20年間にもなることが必要でした。おそらく、ここには、わたしたちが先に確認したように、ヤコブに対する神の試練と訓練の意図が反映されているように思われます。ヤコブはラバンの家での彼の結婚をとおして、彼のわがままで傲慢な思いが神によって打ち砕かれ、すべては自分の思いどおりにいくと考えていた彼の人生に神の試練が与えられることによって、彼は神のみ前に謙遜にされ、彼の思いを超えて、神ご自身の計画が実現していくのだということを学ばされているのです。

 家畜の水飲み場での場面には当時の遊牧民の慣習が描かれています。井戸の口には大きな石が置かれていました。これは強い太陽光線や汚染から井戸の水を守るためであり、家畜や旅人が誤って井戸に落ちないためでもあり、またほかのグループに水を奪われないための役割もありました。大きな石のふたであったので、数人がかりでないと動かせません。その井戸の権利を持つグループがみな集合してから、石のふたを動かす決まりになっていました。

 ヤコブは羊飼いたちがハランから来たと聞いて、早速ラバンの消息を尋ねます。幸運にもすぐにラバンの情報が手に入っただけでなく、彼の娘ラケルが羊の群れを連れてこれからやってくるとのこと、それは何という幸運でしょうか。ヤコブはラケルが羊の群を連れてやってくるのを見るとすぐに、重い大きな石を一人で持ち上げて井戸から取り除き、彼女の羊たちに水を飲ませます。

 11節に、【11節】と書かれています。ヤコブの感動の大きさが表現されています。長い孤独な逃亡の旅を続けてきたヤコブ、そしてようやく親族に会うことができた安心感と喜び。また、もしかしたらこの娘が自分の結婚相手かもしれない人と出会った感動、芽生え始めた娘への愛、そのようなヤコブの興奮がこの感動的な場面を創り出しているように思われます。

 やがて、ヤコブはラバンの家に着きます。ラバンは身内としてヤコブをあたたかく迎えます。一カ月が過ぎてから、計算高いラバンがヤコブに話しかけます。【15~20節】。ヤコブは愛するラケルと結婚するために7年という長い年月の労働をラバンに提供することを申し出ました。古代社会では、いわゆる花嫁料が支払われる習慣があったとはいえ、これはずいぶん高い値のように思われます。ラケルの父ラバンからの欲深い提案であったとはいえ、これはまたヤコブのラケルに対する愛の大きさをも表していると言えるでしょう。しかも、その愛の大きさのゆえに、ヤコブにとってはその7年間の労働提供はほんの数日のように思われたと書かれています。愛とはこのようなものなのでしょう。神への愛もまたそのようなものでしょう。神への愛の大きさのゆえに、生涯神に仕え、多くの労苦を重ね、数々の試練をも経験しながら、振り返ってその長い信仰の生涯がわずか数日のように思えるほどに、神を愛し、神に仕えることに熱中する、それが真実の愛いというものでしょう。

 ところが、その期間が満ちた時、新しい事態が生じます。ラバンはヤコブが愛したラケルではなく、姉の娘レアを彼の妻として与えました。結婚の祝宴が終わった翌日の朝になって、ヤコブはラバンにだまされたことを知りました。でも、ラバンはそれが約束違反ではなく、この地方の習慣では妹を姉より先に嫁がせることはしないと言い訳をします。その説明を聞いたヤコブは、きっと自分自身のことを思い出したに違いありません。と言うのも、彼自身一般的は慣習を意図的に破って、父と兄とを欺いて、長男の権利を兄から奪った経験があったからです。かつて父と兄とを欺いたヤコブが、今同じように、身内のラバンによって欺かれているのです。

 この世の人間的な知恵によって勝利しようとする人は、やがてはさらに大きなこの世の知恵によって打ち負かされるほかにないのだということを、神はラケルの悪知恵をお用いになってヤコブに知らしめ、彼をムチ打ち、懲らしめ、教育されるのです。ヤコブがこの世の知恵によって生きるのではなく、神の恵みと導きによって生きるべきであることを悟らしめるのです。

 ヤコブはラケルと正式に結婚するために、さらに7年間働かなければならなくされます。ヤコブはラバンの言うとおりに、服従します。それによって、ヤコブは彼の魂の父であられる主なる神に従順に服従し、仕えるべきであることを学んでいくのです。

 最後に、31節以下に目を注ぎたいと思います。ここにはヤコブ(のちにイスラエルと改名しますが)とレアとの間に生まれた4人の子どもたちのことが書かれています。のちにイスラエル12部族を形成することになる4つの部族の子孫です。ヤコブはここにおいても、事が自分の思いどおりには運ばないことを、いやただ神のみ心だけが行われるということを学ばなければなりません。ラケルに対する彼の大きな愛によっても、彼の願いどおりに、ラケルには子どもが与えられません。彼の願いに逆らうようにして、神は疎んじられているレアの方を顧みられ、彼女に多くの子どもをお授けになりました。

 いや、それのみか、レアから生まれたユダの子孫から、のちにダビデ王が生まれ、ダビデの子孫から、死にかけた木の切り株から芽が出るように、ガリラヤに住むヨセフが生まれ、彼の子として主イエス・キリストがお生まれになったのだということを、わたしたちは知っています。アブラハムから受け継がれた神との契約は、その子イサク、その子ヤコブへと受け継がれ、ヤコブとレアの子として生まれたユダからダビデ王へと、そして主イエス・キリストへと至って、神と全人類との救いの契約が成就したのです。ラバンの策略と欺きも、またラケルに対するヤコブの大きな愛も、神の救いのご計画を変えることはできません。それらのすべてを貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、神の救いのご計画は前進していきます。人間たちのすべての罪を貫いて、それらのすべてをはるかに超えて、終わりの日のみ国の完成に至るまで、神の救いのご計画は前進していきます。

(執り成しの祈り)

○天に父なる神よ、あなたの恵みと慈しみは天地創造の初めから世の終わりに至るまで、変わることなく、すべての人に豊かに注がれています。どうか、わたしたちがそのことを覚え、感謝し、あなたの恵みと慈しみとに応えて、あなたと隣人とに心から喜んで仕える者としてください。

○天の神よ、重荷を負っている人を顧みてくださり、その重荷をあなたが取り除いてくださいますように。病んでいる人の傍らにあなたが共にいてくださり、励ましといやしとをお与えください。悲しんでいる人、孤独な人、道に迷っている人、すべてあなたの助けを必要としている人たちに、あなたがみ手を差し伸べてくださり、希望と光をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月4日説教「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

2022年9月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:列王記上8章27~34節

    使徒言行録7章44~53節

説教題:「ステファノの説教(五)荒れ野の幕屋」

 キリスト教会最初の殉教者となったステファノがユダヤ最高議会の法廷の被告席で語った弁明、説教が、使徒言行録7章に書かれています。きょうはその最後の個所44節以下のみ言葉を学びます。

 ステファノがユダヤの長老たちや律法学者たちによって逮捕されることになった理由は主イエス・キリストを宣べ伝えたことにありますが、具体的には6章13節以下にあるように、エルサレムの聖なる場所である神殿を打ち壊すと語って神殿と神を冒涜した罪、また旧約聖書の律法を軽視した発言をしたという罪であったが、きょうの個所でステファノは彼が裁かれている告発と罪状に触れながら語っています。

彼の説教の結論を先取りして言うならば、ステファノは神殿と律法を汚したという罪で告発され、裁判を受けているのですが、ステファノが旧約聖書のみ言葉に導かれながら語った説教によれば、その罪を告発され、神の裁きを受けなければならないのは、むしろ彼らユダヤ人指導者たちの方であり、彼らこそが神殿の本来の役割を理解しておらず、神の律法を語った預言者たちを迫害した先祖と同じように、神が預言の成就としてお遣わしになったメシア・キリストを十字架につけて殺したではないかという、彼らユダヤ人の罪がここでは明らかにされているのです。ここでは、裁判官の席に座っているユダヤ人指導者たちが裁かれており、被告の席に立たされているステファノが神のみ言葉によって彼らを裁いているという逆転が起こっているということをわたしたちは気づかされるのです。

 同じような立場の逆転は、4章5節以下のペトロとヨハネが裁かれた法廷でも、また5章27節以下の使徒たちが裁かれた法廷でも起こっていたことをわたしたちはすでに確認してきました。神のみ言葉の証人として立つ信仰者が迫害を受け、この世の法廷に引き出されることがあっても、信仰者は少しも恐れる必要はありません。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によってもつながれることがないからです。それゆえに、神のみ言葉の証人として立つ信仰者は、この世のいかなる裁きをも恐れる必要はなく、この世のいかなる権力によっても決して倒れることがないのです。

 さて、ステファノはこれまで族長アブラハムから始まるイスラエルの救いの歴史について、旧約聖書のみ言葉を解き明かしながら語ってきたのですが、44節からは荒れ野での証しの幕屋について語ります。出エジプト記によれば、モーセはエジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が荒れ野の40年間の旅を始めるにあたって、神のご命令によって幕屋を造りました。神はモーセにこのように言われました。「わたしはその所であなたに会い、あなたと語るであろう。またその所でわたしはイスラエル人々と会うであろう」と。幕屋の中には、神のご臨在のしるしとして契約の箱と十戒を刻んだ証しの板2枚が収められていました。これは臨在の幕屋とか証しの幕屋、また会見の幕屋とも呼ばれました。

 証しの幕屋は木材を組み合わせ、それを布で覆って造られる移動式の礼拝所でした。イスラエルの民は荒れ野を40年間移動しながら旅を続けましたが、幕屋も彼らと共に移動しました。主なる神がイスラエルの民がいる場所に常に伴ってくださり、荒れ野の旅を導かれ、彼らに必要なものすべてを備えてくださることを信じながら神を礼拝する場所、それが幕屋であったのです。

 神がイスラエルの民を奴隷の家エジプトから救い出し、すぐに約束のカナンへと導かれなかった理由は、彼らが荒れ野の何もない場所でただ主なる神だけに頼り、主なる神からすべてを期待して、ただひたすらに神を礼拝する民として生きる訓練のためだったのです。申命記8章3節で神が言われたように、「人はパンだけで生きる者ではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」のです。

 モーセは荒れ野の旅の終わりに約束の地を踏まずして死にましたが、ヨシュアが証しの幕屋を引き継ぎ、約束の地カナンに入ってからもイスラエルの民は証しの幕屋を礼拝の場とし、そこで生ける神と出会い、神のみ言葉を聞き、祈りの場として、士師の時代からイスラエルの最初の王サウルと次のダビデ王の時代に至るまで、幕屋はイスラエルの民の礼拝の場でした。

 ダビデ王の終わりの時代になって、神のためにもっと立派な宮、神殿を建てようとする機運が出てきました。そのことについて、ステファノは46節以下で次のように語っています。【46~50節】ここには、神の家である神殿を建設することの是非について、つまり、神殿建設は神の本来のみ心なのか、それとも神殿は永遠で普遍な存在である神をその中に閉じ込めておこうとして人間が勝手に造ったものなのかという、旧約聖書の中にある難しい神学的な問題があるように思われます。

サムエル記や列王記には、神殿を建設することが神のみ心であるのかどうかという議論が当初からあったことをうかがわせる記述がいくつかあり、49~50節でステファノが引用しているイザヤ書66章でも、神は人間の手で造った神殿の中に住まうことはないと言われているように読めます。神は確かに、神殿という建物の中に縛り付けられることはありませんし、エルサレムという一か所だけにとどまっておられる神でもありません。そのことは、エジプトを脱出したモーセ時代から荒れ野の40年間、そしてカナンに入ってからダビデ王の時代に至るまでの300年あまりの間、イスラエルは移動式の幕屋で礼拝をしていたという過去の事実に照らしても明らかであると、ステファノは語っているのです。

 そのことを、旧約聖書の中から確認してみたいと思います。サムエル記上7章を読んでみましょう。【7章1~7節】(490ページ)。神はここで明らかに、荒れ野の時代からの移動式の礼拝所であった幕屋に言及しつつ、「人間が造った

家は、それがどんなに立派な家であれ、わたしはその中には住まない。だから、神殿を建てるには及ばない」、とダビデ王に言っておられると理解されます。

 もう一カ所は、列王記上8章27節以下です。この個所は、神殿が完成して、それを神にささげる奉献式の時のソロモンの祈りです。【27~30節】(542ページ)。ソロモンは自分が造った神殿の中に、永遠で普遍の存在である神がお住まいになることはないと告白しつつも、この神殿でささげるイスラエルの民の祈りを神がお聞きくださるようにと、そしてイスラエルの罪をおゆるしくださるようにと必死に祈り求めています。ここにも、エルサレム神殿建設に対する否定的な考えが反映されているように思われます。

 これらの聖書の記述から、神殿建築が果たして神のみ心にかなっていたのか、それがイスラエルの信仰にとって有益なのかどうかという議論、葛藤が当初からあったということは確かだと言えます。しかし、神は最終的にはソロモンの神殿建築を容認され、その神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をイスラエルの民のために備えられたのでした。イスラエルの民はエルサレム神殿で動物を犠牲としてささげる礼拝をとおして、信仰の民として生き続けたのでした。そのようにして、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来を待ち望んだのです。

 では、エルサレム神殿とそこで行われていた礼拝は何を目指していたのでしょうか。わたしたちはそれを主イエスご自身がなされたみわざによって知ることができます。主イエスが受難週の最初の日、棕櫚の日曜日にエルサレムに入場された時、神殿の境内に入って、そこで神にささげる動物の売り買いをしていた商売人をみな追い出され、神殿でささげる貨幣に両替する両替人の台を倒されたことが福音書に書かれています。また、主イエスは「人間の手で造った神殿を打ち倒し、三日目には人間の手によらない新しい神殿を建てる」と言われました(マタイ福音書26章61節参照)。

 これは何を意味しているでしょうか。主イエスは当時の神殿での礼拝が商売人のお金もうけのために利用されたり、礼拝そのものが偽善的になり、神に対する真実の服従と献身を伴わない形式的な礼拝になっているという現実を批判されただけではありませんでした。主イエスはエルサレム神殿での礼拝そのものを、またエルサレム神殿そのものの役割を終わらせたのです。神の救いの恵みをエルサレム神殿だけに集中させ、その中に閉じ込めてしまっていた彼らの信仰を終わらせ、また動物を犠牲としてささげ、動物の血による贖いによって罪のゆるしを与えられるという神殿での礼拝を終わらせたのです。

 主イエスはご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架でおささげくださることによって、その血の贖いによって、すべての人の罪を永遠におゆるしくださったのです。もはや、繰り返して動物の血を犠牲としてささげる必要はありません。また、主イエスは世界の至る所に、ご自身の体である教会をお建てくださり、すべての人を教会へとお招きくださいます。主イエスは教会の礼拝をとおして、み言葉と聖霊とによってすべての人に、すべてのところで出会ってくださり、救いの恵みをお与えくださいます。

 ステファノの説教はエルサレム神殿とその神殿での神礼拝が主イエス・キリストによってその最終目的に達した、神が計画しておられた救いが成就したということを語っています。そうであるのに、すでにその役目を終えたエルサレム神殿にしがみつき、古い律法に縛られているユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさを明らかにしているのです。

 律法について、ステファノは51節以下でこう語ります。【51~53節】。イスラエルは神から律法を与えられ、その律法に心から喜んで聞き従うことによって神との契約関係に生きる民とされたのでしたが、彼らはかたくなで不従順であり、神が遣わした預言者たちを迫害したと、ステファノは彼らの罪を告発します。それだけでなく、神がすべての預言の成就としてこの時にイスラエルに派遣されたメシア・救い主であられる主イエスを殺すという大きな罪を犯しているではないかと、厳しく彼らを告発します。

 52節の「正しい方」とは、神の律法を完全に成就された義なる方、主イエス・キリストのことです。主イエスこそが旧約聖書のすべての預言者たちが証しし、待ち望んだ神の律法の成就者、完成者であられます。その主イエスを十字架につけて殺したあなたがたユダヤ人指導者たちこそが律法の違反者なのではないかと、ステファノは言うのです。

 主イエス・キリストの十字架の福音の証人としてユダヤ最高議会の法廷に立つステファノが語った説教は、その後の2千年間のキリスト教会が語るべき福音の原型であり、基本であると言えます。教会での真実の神礼拝をとおして、わたしたちは生ける神と出会い、神の命のみ言葉を聞き、終わりの日の完成を目指しながら、この世での荒れ野の旅を続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の人生の歩みに常に伴ってくださり、すべての必要な物を備えて、わたしたちの道をお導きくださいます。どのような試練や苦難の時にも、ただあなたにより頼みながら、心安んじてあなたの服従する道を進ませてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。