7月26日説教「大洪水とノアの箱舟」

2020年7月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記7章1~24節

    ペトロの手紙一3章13~22節

説教題:「大洪水とノアの箱舟」

 創世記7章1~5節にこのように書かれています。【1~5節】。ここには、神がこれから全地に対して何をなそうとしておられるか、またその目的、意図が何であるのか、そしてその神のご計画に備えて、ノアとノアの家族が何をなすべきなのかについて書かれています。

ここでわたしたちが第一に注目したいことは、1節冒頭の「主はノアに言われた」というみ言葉です。前回にも確認したことですが、6章~9章までの「大洪水物語」とか「ノアの箱舟」と言われる個所では、終始一貫して、ただ主なる神だけがお語りになり、主人公であるノアは一言も発言していないということ、ノアは黙して、主なる神のみ言葉に聞き従っているということ、このことこそが、大洪水物語りで神がわたしたちに語ろうとしておられる最も重要なメッセージなのだということを、わたしたちは今一度確認しておきたいと思います。6章22節にはこのように書かれていました。【6章22節】。また、7章5節には【5節】と書かれています。それゆえに、1節後半で「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と言われているとおりです。また、6章8節で、「しかし、ノアは神の好意を得た」と言われ、9節では「この世代の中で、ノアは神に従う

無垢な人であった」と言われているのは、同じ意味からです。

新約聖書の証言も同じです。主イエスはマタイによる福音書24章37節以下でこのように言われました。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。ヘブライ人への手紙11章7節にはこう書かれています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。そして、今日の礼拝で朗読されたペトロの手紙一3章20~21節にはこう書かれています。「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」。

それゆえに、主イエス・キリストの福音によって救われているわたしたちは、いまだ罪が世にはびこり、不義と暴虐、悪と偽りに満ちているこの時代にあって、主の日の礼拝ごとに神を礼拝し、神のみ言葉に耳を澄まし、黙々とそれに聞き従いつつ、来るべきみ国の完成の時を待ち望むのです。神はわたしたちの信仰の歩みを最後まで支え、導いてくださり、わたしたちの信仰を完成させてくださいます。

7章1節に再び目を戻しましょう。「あなただけはわたしに従う人だ」と訳されている箇所は、ヘブライ語原典を直訳すると「あなたはわたしの前で義なる人だ」となります。「口語訳聖書」では「わたしの前に正しい人」と訳されていました。6章9節でも「神に従う」と訳されている箇所は本来は「義なる人、正しい人」という言葉です。「新共同訳聖書」は神のみ前で義なる人、正しい人とは、神のみ言葉に聞き従う人であるという理解で、そのように翻訳しています。ノアの場合はそのことがよく当てはまります。

けれども、神のみ言葉に聞き従うということは多くの人にとって、特にノアにとっては、快いことではありませんし、納得できることでもありません。人々は飲み食いし、日々を楽しんでいます。神のみ言葉に聞き従うことよりも、もっと自分を満足させてくれること、あるいは世のためになること、今の時代にふさわしいことに励んだ方がよいと多くの人は考えます。でもノアだけは、世の人々の生き方に反して、あるいは周囲の状況にも反して、巨大で奇妙な形の箱船づくりに集中しています。陸地のど真ん中で、太陽が照る中で、人々追いが求める楽しみとは違った道を一人歩き続けています。「ノアはすべて主が命じられたとおりにした」と書かれているように。それが、神のみ前で義なる人、正しい人と言われるノアの生き方です。そのようなノアの生き方が、結果的に、罪の世を裁くことになり、信仰の義を受け継ぐことになったのだとヘブライ人への手紙は言っています。

そのような意味で、教会はしばしば箱舟にたとえられます。教会の民はこの世の罪の大洪水の中で、箱舟に招き入れられ、神の救いを与えられているノアの家族の一員です。しかし、箱舟はこの世から逃れるための隠れ家ではありません。むしろ、この世にあっての神の義の証し人であり、自らは神のみ言葉に聞き従うことによって結果的に罪のこの世を裁く務めをも果たすのです。いずれにしても、教会において最も重要なことは、言うまでもなく、そこで神のみ言葉が語られ、聞かれるということです。

2節からは、箱舟の中に連れていくべき動物や鳥などの生き物のことが書かれています。同じような内容が、13~16節でも繰り返されています。このような重複、繰り返しは、創世記を構成している元の資料の違いによると、今日の聖書学では説明されます。以前にも、1章~2章3節までの天地万物と人間創造の記録と2章4節からのもう一つの人間とその他のものの創造の記録とが、二つの違った資料に由来しているらしいという研究について少し触れました。このノアの大洪水の記録においても、二つあるいはそれ以上の資料が編集されたのではないかと考えられています。その資料の違いが一目で判別できるのが、「主」という言葉と「神」という言葉です。1節と16節後半では「主」とあり、9節と16節前半では「神」となっています。同じ神のことを一方の資料では「主」と呼び、他方の資料では「神」と呼んでいます。それにしても、資料の違いがあるとしても、わたしたちが一読してその違いを判別できないほどに密接に結びついていますし、それらが一つの神の救いのみわざを語っているということは言うまでもありません。

さて、ノアは神に命じられたとおりに、彼の妻と三人の息子とその妻たち、計八人、それに動物の雄と雌とを取って箱舟に入りました。これを見ていた当時の人々にとっては、何と愚かなことのように思われたに違いありません。まだ洪水が起こる前の乾いた地上に造られた箱舟と、その中に入るノアの家族。人々は日々の暮らしに忙しく、時に家族でレジャーを楽しみ、趣味に興じている。その中で、「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」のです。

前に、ノアの箱舟とよく似ている大洪水物語が世界各地に伝えられているということを紹介しましたが、その中でもバビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」に描かれている大洪水物語がノアの箱舟と非常によく似ています。けれども、両者には決定的に違う点がいくつかあります。その一つが、船に乗り込むにあたって、何を一緒に持っていくかということです。「ギルガメシュ叙事詩」では、その人が所有しているすべての金銀であったと書かれていますが、ノアの場合には違います。ノアは神のお命じになったものだけ、洪水の後の新しい世界に住むべきノアの家族と生き物のつがいだけです。それらの生き物の中の清い生き物は、8章20節に書かれているように、洪水の後で神にささげられるためのものです。神礼拝に必要なもの以外には、食料とか着替えとかの必需品についても、聖書には何も書かれていません。ましてや、これまでの思い出の品とか預金通帳とか、緊急避難用品、あるいは新しい生活に備えての生活設計とかも、何一つ持っていくに及びません。新しい世界ではすべては神が備えてくださるからです。

主イエスは言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。神はあなたに必要なものをすべて知っていてくださる。だから、まず神の国と神の義とを求めなさい」と。

【10~12節】。創世記1章6~7節で、神は天地創造の二日目に、大空の下の水と上の水とを二つに分けられたと書かれていました。神は大空の上の水がためられている窓を時々開いて地に雨を降らせると考えられていました。ところがこの時には、天の窓全体が一気に開かれ、地に大量の雨が落ちてきて、それが40日間も続いたとあります。神の裁きの時の始まりです。地を覆っている罪と悪をすべて洗い流すための神の徹底的な裁きの時です。地にあるすべてのものは、高い建物も山も、人も他の生き物も、すべてがその形を失い、その命を失いました。

雨が降り続いた40日間は、ノアにとっては試練の時、苦難の時でした。しかしまた、その40日間は神の憐れみによって生きることを知らされるまでの訓練の時でもありました。エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地に到着するまでの40年間の荒れ野での生活を主なる神によって導かれたこと、また主イエスが荒れ野で40日間の断食の後で悪魔の誘惑と戦われ、勝利されたこと、そしてまた主イエスの40日間の復活の顕現、これらに共通しているテーマをみることができるでしょう。

【21~23節】。ここでは、「ことごとく息絶えた」「ことごとく死んだ」「ぬぐい去られた」と繰り返され、神の裁きの徹底している様子が強調されています。多くの登山家や冒険家たちをの挑戦をはねのけてきた世界の最高峰であれ、あるいは人間が知恵と技術で築き上げた堅固で高い建物であれ、強大な国家であれ、高性能の武器であれ、大洪水の中にあっては、神の徹底した裁きの前では、全く無に帰してしまうほかにありません。高度な文明、科学、技術を競ってきた人類は、このことを決して忘れてはなりません。あるいはまた、どれほどに邪悪と暴虐と悲惨に満ちている世界であれ、そこにも神の裁きのみ手があることを覚えるべきです。

「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」。神の大いなる裁きの中で、しかし、神の憐れみによってわずかに残されたものがあると、聖書は語ります。神の大いなる裁きをくぐり抜けてきたものたちを、神は残してくださいます。それゆえに、ノアの箱舟に招き入れられ人たちは、ただ神の憐れみによって生きることをゆるされていることを忘れてはなりません。わたしたちもただ神の憐れみによって生かされている者たちとして、この教会に招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、あなたの大いなる憐れみとゆるしとを心から感謝いたします。どう

か、あなたの憐れみによって生かされている者として、あなたのみ言葉に喜んで聞き従っていくことができますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月19日説教「主イエスの昇天」

2020年7月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編30編1~13節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの昇天」

 わたしたちは毎週の礼拝で『使徒信条』を告白していますが、その中で、「主は……三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しています。その主イエスの昇天の出来事を記しているのが、きょうの使徒言行録1章のみ言葉です。主イエスの昇天はわたしたちの信仰にとって非常に大きな意味を持っています。そのことを考えながらきょうのみ言葉を読んでいきたいと思います。

 【6節】。「使徒たちが集まって」いた日は、3節から推測すれば、主イエスが復活されて40日目であろうと思われます。主イエスは十字架につけられて、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現わされました。これを復活の顕現と言います。6節は4節と同じ日、復活の顕現の最後の日、弟子たちと共に食事をしていた時だと考えてよいと思います。

 その席で、弟子たちはイスラエルの再建の時が今なのかと主イエスに問いました。イスラエル再建の時とは、旧約聖書に預言されているように、神は終わりの時、メシア・救い主をイスラエルのために送ってくださり、このメシアによって全世界の民を一つに集め、すべての民がイスラエルと共に一人の神を礼拝する民となる。その時、イスラエルはすべての鎖から解き放たれて自由にされ、神の栄光を仰ぎ見る。そのようなメシア待望の希望が、イスラエルの信仰深い人たちの間に広がっていました。

ルカ福音書24章に描かれているエマオに向かう道で復活の主イエスと出会った二人の弟子たちも同じような希望を抱いていました。【ルカ福音書24章19~23節】(160ページ)。彼等のメシア待望は主イエスの死によって水泡に帰してしまったかに見えました。しかし今、主イエスが死の墓から復活されたという天使たちのみ告げが、新しい希望の光であるように感じられました。そして、確かに主イエスが復活されて、そのお姿を何度も弟子たちに現わされたことによって、弟子たちの期待がより強められていったのです。

 弟子たちの期待をさらに確信へと変えたのは、5節で主イエスが彼らに聖霊が注がれる時がすぐにでも来るからエルサレムで待っているようにと言われたことでした。神は終わりの日イスラエルの民をすべての束縛から解放される時に、神の霊、聖霊を注がれると、ヨエル書やハバクク書、またエレミヤ書に預言されていたからです。聖霊が注がれる時、それがイスラエル解放の時であり、神の国が完成される時だと弟子たちは理解したようです。

イスラエルの民は長い苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅び、紀元前587年には南王国ユダもバビロンによって倒され、国家としての独立は完全に失われていました。主イエスの時代にはローマ帝国の支配下にありました。神の民イスラエルにとって、異教徒の王に支配され、自分たちの信仰の自由が脅かされていることは、大きな屈辱であり、重荷でした。人々はイスラエルが宗教的にも政治的にも自由とされる解放の時を切に待ち望んでいたのです。

 その時主イエスは言われました。【7~8節】。主イエスは弟子たちとその時代の人々のメシア待望、神の国の到来を待ち望む信仰を否定はされません。そのことは確かに旧約聖書に預言されていました。神がお選びになった神の民は決して見捨てられてはいません。けれども主イエスは、弟子たちのメシア待望、いわゆる終末信仰を三つの点で修正されます。

 その一つは、終末の時がいつ来るのか、神の国の完成の時がいつであるのかを人間が計算したり、人間が自分の力や何らかの仕方でそれを強引に引き寄せることができるという考えに反対されます。終末の出来事はすべて父なる神のみ手の中にあります。神が時期と場所をお定めになるのであって、人間が判断したり、人間がそれを造り出すことはできません。

 このような弟子たちの誤りはいつの時代にもありました。初代教会でも、16世紀の宗教改革の時代にも、今日にも、終末のことを少しでも人間の手に引き入れたいという誘惑にかられ、その時を計算したり、それを自分たちの宗教的活動と結びつけるということをしています。特に、熱心に布教活動をする教派や聖霊を強調する教派にその傾向があります。しかし、それは神の絶対的な権威と永遠の救いのご計画を侵害することです。終末は神が来たらせ、神がすべてを完成されます。信仰者はそのことを信じて、いつも終わりの日に備えて祈りつつ、待つのみです。

 第二には、弟子たちはイスラエルの国の復興のことだけを考えていましたが、しかしそれは狭い民族主義的な信仰です。イスラエルを選ばれた主なる神は、天地万物の創造者であられ、全世界とすべての国、民族の神でもあられます。全世界の完成者であられます。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主は、イスラエルの救い主であられるだけでなく、全世界の、全人類の、すべての人の救い主であられます。

 では、イスラエルだけが先に選ばれたのはなぜでしょうか。それは、彼らが全世界の人々のための証人として、そのことをすべての人々に証しするためなのです。それが、主イエスが指摘される第三のことです。主イエスは8節で、イスラエルと弟子たちの証人としての務めについて語っておられます。神に選ばれたイスラエルは、また主イエスによって選ばれた弟子たちは、聖霊を注がれて、神からの力を与えられて、イスラエルの地だけでなく、全世界へ出て行って、主イエス・キリストの証人として、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるという、新しい務めを授けられるのです。この務めを果たすことによって、終末の時に備えるのです。

 9節からは主イエスの昇天のことが描かれます。【9~11節】。復活された主イエスは天に引きあげられました。この個所には、「天に」「天を」という言葉が5回用いら、天が強調されています。天とは、人間が住む地からは遠くかけ離れている、地とは別の世界、父なる神がいます場所のことです。そこには、神のみ座があり、神の栄光と権威と全能の力とが満ちている所です。また、天とは、主イエスがそこから地に下って来られた所でもあります。主イエスはそこへとお帰りになられたのです。主イエスの昇天の第一の意味がこれです。主イエスは地上でのすべての救いのみわざをなし終えられ、十字架の死と復活によって罪と死に勝利され、勝利者として天に凱旋されたのです。そして、天の父なる神のもとへ帰還されたのです。

9節に「雲に覆われて」とあり、10節には「白い衣を着た二人の人」とあります。雲は、聖書では神の現臨を表します。白い衣を着た人は神のみ使い、天使のことです。主イエスは父なる神の栄光のうちに迎えられ、今は神の右に座しておられ、全地とすべての人を永遠に支配しておられます。これが主イエスの昇天の第一の意味です。

 第二は、主イエスのお体は今は地上にはなく、天にあるということです。天にある主イエスのお体を何らかの仕方によって地に引き下ろすということをわたしたちはすべきではありません。宗教改革者たちはこのことからローマ・カトリック教会の実体変化と言われる聖餐論に反対しました。彼らの考えによれば、聖餐式の、彼等の言葉では「聖体拝領、ミサ」ですが、その時のパンとぶどう酒は司祭の号令によって主イエスの肉と血とに実体が変化すると言います。しかし、主イエスのお体は地上にではなく天にあるのですから、ミサの時に天から地に降りてくるということはあり得ませんし、またそうすべきでもありません。それは、宗教改革者たちが激しく批判したように、主イエスのお体をミサのたびごとに十字架につけることになります。それは、聖書に書かれているあの一回限りの主イエスの十字架によっては、救いは不完全であるということにもつながります。そのことから、プロテスタント教会はカトリック教会のミサの考え方には、特に実体変化説には強く反対しています。また、同じ理由から、教会堂の中から主イエスのお姿を連想させる像や絵画を取り去りました。わたしたちが主イエスと出会い交わりを持つことができるのは、あくまでも信仰によってであり、み言葉と聖霊なる神によるのであって、肉の目や肉の体によってではありません。

 では、主イエスが今は地上にはおいでにならないのだとすれば、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節参照)と言われた主イエスのお約束は果たされないということなのでしょうか。いや、そうではありません。否、むしろ、その反対に、主イエスのお体が天に移されたことによって、主イエスはわたしたちすべての人と永遠に共にいてくださるという約束がより確かになったのです。主イエスのお体が地上にあった時には、主イエスはそこにいた限られた弟子たちと共におられましたが、今は天におられ、すべての人と、永遠に共にいてくださるようになったのです。わたしたちは信仰によって、聖霊に導かれて、主イエスがいつもわたしと共におられ、わたしを導いてくださることを信じることができるのです。これが主イエスの昇天の第三の意味です。

 主イエスはそのことの確かなしるしとして、また保障として、聖霊をわたしたちに送ってくださいます。これが昇天の第四の意味です。5節と8節で約束されたように、天に上げられた主イエスは、聖霊なる神をわたしたちのもとに送ってくださいました。聖霊によって、わたしたちは主イエスがわたしと共におられるという信仰を持つことができ、主イエスの十字架の死と復活が、このわたしの救いのためであったことを信じることができるのです。

 もう一つのことを付け加えなければなりません。11節に、【11節】と書かれています。主イエスは世の終わりの時、終末の時、再び地上においでくださり、信じる人たちを天の神のみ国へと迎え入れてくださいます。その時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成し、朽ちることのない永遠の命が与えられるのです。その時に至るまで、主イエスは天におられて、地のすべてをご覧になり、お導きくださり、信じる人たちをお守りくださいます。それゆえに、わたしたちも目と心と体のすべてを天に向けて、主イエスの再臨を待ち望むのです。

教会の民は、主イエスの昇天と再臨の二つの時の間に生きている群れです。それゆえに、たしかな保障と約束を与えられ、終わりの日の完成に向かっているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神様、わたしたちは今この地上にあって、さまざまな恐れや不安、混乱と

動揺の中におります。けれども、わたしたちの信仰の完成者であられる主イエスが天におられ、わたしたちのすべての歩みを導いておられます。どうぞ、わたしたちがかしらを上げて、天におられるあなたのみ心が行われることを信じさせてください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

7月12日説教「主の恵みの年を告げる福音」

2020年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書4章18~21節

説教題:「主の恵みの年を告げ知らせる」

 主イエスはイスラエル北部のガリラヤ地方で公の宣教活動を始められました。ガリラヤ地方の南部、ガリラヤ湖から南西に25キロメートルにナザレという町があり、そこが主イエスがお育ちになった町でした。ルカ福音書4章16節から、そのナザレでの主イエスの活動について記されています。

【16節】。ユダヤ教の安息日は土曜日です。創世記に書かれているように、神が六日の間天地万物を創造され、七日目に休まれたから、この日、人はみな手の働きを休め、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝する日と定められていました主イエスは安息日に主なる神を礼拝するためにナザレの会堂に入られました。

 ユダヤ人の礼拝の中心は首都エルサレムにある神殿でした。動物を犠牲としてささげる礼拝はエルサレム神殿だけに限定されていました。地方にある会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていました。ユダヤ人男子10人以上が住む町には会堂(シナゴーグ)を建てるべしと定めれており、ナザレにも会堂がありました。主イエスはある安息日にナザレの会堂に入られました。神を礼拝するためです。16節に「イエスはお育ちになってナザレに来て」とありますが、主イエスが故郷のナザレに来られたのは、実家でしばらく休養するためとか、両親の顔を見るためとかではありません。会堂で神を礼拝するためです。それ以上に、ナザレの人々に福音を宣べ伝えるためです。

 当時の会堂での安息日の礼拝の式準がおおよそ分かっています。まず礼拝の冒頭で、申命記6章4節以下の「イスラエルよ、聞け」(ヘブライ語では「シェマー・イスラーエル」)で始まる信仰告白が唱えられます。次に、司会者によって祈祷がささげられ、聖書朗読がなされます。聖書朗読は司会者か、あるいはだれかを指名する場合もあります。その日の聖書の個所を解きあかした説教が長老によってなされます。その後、祈祷、施し、というプログラムですが、その中での中心は聖書朗読です。旧約聖書全体が3年サイクルで読み終えるような聖書日課が定められていました。この時代の聖書は、羊などの動物の皮をなめしてそれをつなぎ合わせて作ったものが、創世記、出エジプト記など各書に分けられて巻物にされていました。聖書の巻物は貴重品であり、丁寧に扱われました。

 ユダヤ教会堂での礼拝では聖書朗読が最も重要視されていました。そのことは、わたしたちの礼拝においても学ぶべきと思われます。今日のほとんどのプロテスタント教会の礼拝では、説教が重んじられる余り、聖書朗読は軽んじられている傾向があります。説教のテキストとして聖書が朗読されることから、聖書朗読そのものの意味が見失われがちになります。わたしたちの礼拝では説教が中心であることはもちろんですが、聖書朗読もまた重要な要素であることを忘れてはなりません。聖書朗読はたんに何かの文章を朗読して聞かせるということではなく、神のみ言葉の朗読です。聖書朗読それ自体が神のみ言葉の語りかけであり、福音の宣教なのです。聖書を朗読する人も、またそれを聞く人も、神のみ言葉の前に恐れを持ちつつ、神のみ言葉の恵みと力と命を覚えつつ、そして聖霊なる神のお働きを信じつつ、朗読し、また聞かなければなりません。

 ナザレの会堂で、この日の安息日に主イエスは聖書朗読の役を指名されて会衆の前に立ちあがりました。【17~19節】。聖書朗読の個所はあらかじめ聖書日課で決められているのが普通でしたから、それがイザヤ書61章1~2節のこの個所であったのか、たまたま主イエスが開かれたページがその個所だったのか、あるいは主イエスがご自分でこの個所を選ばれたのか、それは定かではありませんが、そこには主なる神のお導きがあったのだと言うべきでしょう。そして、聖書朗読のあとで主イエスは、21節に書かれているように、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われました。それはどういう意味でしょうか。

 第一に、主イエスはイザヤの預言で「わたし」と言われている人物を主イエスご自身のことであると言われました。イザヤが彼の時代の中で、自分は預言者として神から派遣されている、神の霊を注がれて、福音を宣べ伝え、人々を捕らわれている鎖から解放し、まことの自由を与え、主なる神の恵みのご支配が始まったことを告げ知らせる務めを神から授かった、と語ったのですが、その務めを今の時代に神から授かっているのが、実にこのわたしなのだと、主イエスは言われたのです。

 イザヤ書のこの預言は、紀元前6世紀のバビロン捕囚を背景にしていると考えられています。イスラエルの民は神との契約を破り、偶像礼拝や不従順を続けたために、神の裁きを受け、紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされ、王と指導者、また民の多くが遠く西へ一千キロも離れたバビロンの地へ捕虜として連れ去られました。彼等は異教の地で50年余りの間、捕らわれの身となりました。いわゆるバビロン捕囚です。預言者イザヤはその捕囚の民に解放を告げる預言者として神に立てられました。イザヤ書40章からは捕囚の民に向けて語られた解放と救いの預言で満ちています。きょうの礼拝で朗読された42章1節以下では、預言者は「わたしの僕(しもべ)」つまり、主なる神の僕と呼ばれています。また、52章13節でも「主の僕」と呼ばれており、特に53章にかけては「苦難の主の僕の歌」と呼ばれ、主イエスのご受難と十字架の死を預言していると考えられています。

 神は、罪ゆえに自ら滅びの道をたどったイスラエルの民を憐れみ、彼等を異教徒の鎖から解き放ち、異教の地の汚れから彼らを洗い清め、彼等を再び約束の地カナンへと、神の都エルサレムへと連れ戻し、彼らが神に贖われた新しい民として、心から喜んで神を礼拝し、神にお仕えしていく民として再建される、そのための働き人として、その喜ばしい解放の福音を告げる預言者として、イザヤをお召しになったのでした。主イエスはその預言者イザヤの働きを、ご自身が今この時代の人々になすために、神はわたしをこの世界へ、このガリラヤへ派遣されたのだと説教されたのです。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。この主イエスの説教は、さらに大きな意味を含んでいます。預言者イザヤの預言は、紀元前538年にバビロンに代わって世界を支配したペルシャ帝国の王キュロスから出された捕囚民の解放令と第一次帰還、その後のエルサレム神殿再建によってすでに成就したと言えます。したがって、主イエスが説教された解放と自由の福音は実際にはイスラエルの民のバビロン捕囚からの帰還のことではあるというよりは、全世界のすべての人々の罪の奴隷からの解放の福音なのです。全人類が神から離れ、神なき世界で罪と死と滅びに閉じ込められ、罪の奴隷となって、太く重い鎖につながれ、未来への希望がない暗黒の世界にさまよっている、その人々に罪のゆるしと新しい命を与える神の喜ばしいおとずれ、救いの福音を、主イエスは説教なさったのです。

 では次に、イザヤの預言と主イエスの福音との関連性をさらに詳しく見ていきましょう。18節に「主の霊がわたしの上におられる」とあります。主なる神の霊、聖霊がイザヤに注がれる時、彼は預言者とされます。彼は聖霊によって、人間の目にはまだ見えていない神のご計画、神の救いのみわざをすでに見ることをゆるされ、だれの耳にも聞こえない神のみ言葉を彼は聞き取り、それをイスラエルの民に語ります。聖霊なる神がそのことを可能にするのです。

 主イエスのご生涯が、その誕生から神の霊に満たされていたということをルカ福音書は強調しています。3章22節の受洗の時もそうでした。4章1節の荒れ野の誘惑の場面でもそうでした。4章14節の宣教活動開始の時にもそうでした。主イエスはすべての活動、福音宣教のお働きを、聖霊なる神によってなさいます。キリスト教の教理である三位一体論の表現をすれば、父なる神と子なる神・主イエスと聖霊なる神とは、常に一体です。それによって、主イエスはわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。

 18節の「主がわたしに油を注がれた」はメシアという言葉の本来の意味を言い表しています。メシアは本来ヘブライ語で、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王を始め、祭司や預言者がその職に任じられる際に、頭からオリブ油を注がれる儀式を行う習慣がありました。それは、神に選ばれたしるしであり、神によってその職に任じられたしるし、また神の霊によってその務めを果たすしるしでもありました。やがてイスラエルの民は、神が終わりの日に理想的な、また永遠の王として、預言者、祭司として、救い主をイスラエルのためにお遣わしになるという希望を抱くようになり、その救い主を「油注がれた者」・メシア(ギリシャ語ではキリスト)と呼ぶようになりました。主イエスはイザヤが預言し、証ししたメシア・キリスト・全人類の救い主であるということが、ここで明らかにされます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスが言われたのは、その意味でもあります。

 イザヤの解放の預言を告げられる対象は、18節では「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」と言われています。これはバビロン捕囚の民を指すと考えられますが、主イエスの福音を聞くわたしたちにも、同じことが当てはまります。ここで第一に教えられることは、どんな貧しい人であれ、苦しみの中にある人であれ、この世では見捨てられ、圧迫されている人であれ、生きる希望を失っている人であれ、だれであれ神に見捨てられてはいない、いやむしろ、そのような人たちにこそ神の愛は激しく豊かに注がれ、神の福音がその人たちを捕え、解放と救いを与えるということが語られているのです。

 第二には、わたしたちが主イエスの福音を正しく聞くためには、自ら貧しい者であり、罪の奴隷となって自由を失っている者であり、この世のさまざまな鎖に縛られている者であり、真実の光を見失い暗闇をさまよっている者であるということを知り、そのことを告白しなければならないということです。わたしたちが自らの罪を告白し、主イエスのみ前に貧しくなる時、そして主イエスの十字架の福音を熱心に慕い求める時、わたしたち一人一人にとっても、21節の主イエスのみ言葉が語られます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、この世界のすべての人々に、主イエス・キリストの自由と解放の

福音が語られますように。また、わたしたち一人一人が主イエスの福音の証し人となりますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月5日説教「神の命令に従ったノア」

2020年7月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記6章1~22節

    ヘブライ人への手紙11章4~7節

説教題:「神の命令に従ったノア」

 創世記6章から9章には、「ノアの箱舟」あるいは「大洪水」と言われる長い物語が記されています。大洪水物語はさまざまな形で世界のいたる地域にもあったということが、今日知られています。古代オリエント、ギリシャ、インドその他の諸地域や諸部族で、古くから大洪水物語が語り伝えられてきました。古代の人々は、大洪水によって古い、悪に染まった世界が一掃され、洗い流されて、新しい大地が自分たちに与えられたということを、彼等の神々に感謝し、また、大水や洪水の恐ろしさを子孫に語り伝えてきたのだと思われます。

 それらの伝説の中で、19世紀末に古代バビロニア時代のニネベの図書館跡から発見された12枚の粘土板に刻まれた「ギルガメシュ叙事詩」に描かれていた大洪水物語は創世記のノアの洪水と非常によく似ていることが注目されました。また、20世紀になってから聖書考古学が盛んになり、バビロニアのチグリス・ユーフラテス川流域の発掘がなされた結果、紀元前4千年ころの古い地層から、この地域一帯を襲った大洪水の跡と思われる痕跡が発掘されました。

 これらの研究によって、創世記の大洪水物語が、神話や作り話ではなく、わたしたちにとって身近な史実性のあるものとなってきました。しかし、もちろんわたしたち信仰者にとって重要なことは、聖書を歴史や考古学のテキストとして読むことではなく、信仰の書として、神のみ言葉として読むことですから、神が今わたしたちに何を語りかけておられるのかをここから聞き取り、わたしたちがこのみ言葉にどう応答していくのか、そのことが問われ、求められているということは言うまでもありません。神が終わりの日に全世界をお裁きになられる時、主イエス・キリストが再臨される日、その終わりの日の神の国が完成される時を待ちつつ、急ぎつつあるわたしたちに対して神から与えられている時のしるしとして、神の語りかけとして読むことが、何よりも重要です。

 そこでわたしたちは、創世記の大洪水物語を読むにあたって、あらかじめ主イエスのみ言葉に耳を傾ける必要があります。【マタイ福音書24章35~39節】(48ページ)。わたしたちもまた、ノアのように目覚めて、人の子・主イエス・キリストの再臨の時に備えたいと願います。

 さて、創世記6章から9章の大洪水物語の主人公はだれかと言えば、当然、それはノアですと答えるでしょう。ノアという名前は、ヘブライ語で「休息する、安らぐ」という意味を持っています。5章29節ではこのように説明されています。【5章29節】(7ページ)。ノアは、地上に悪と暴虐が満ちた世にあって、ただ一人神に服従し、大洪水から救われ、洪水のあと、神と永遠の契約を結び、新しくされた世界の最初の人となって、のちの全人類に対して平和をもたらし、すべての人を慰める人となったのです。

 しかし、主人公であるノアは、実は、大洪水物語の中では、ただの一言も発言していないということをわたしたちは知らされます。6章から9章の中に、ノア自身が語る言葉を、わたしたちは一つも見いだすことはできません。ここでは、ただ神だけが語っておられます。神がみ言葉をお語りになり、神がすべてのことを計画され、すべてのことを実行されます。まず【3節】、次に【5~7節】。三度目もまた神がお語りになります。【13節】。ここから21節までは、神が語られるみ言葉が続きます。

 ノアは、ここでは、セリフを持たない無言の主人公です。ノアについて語っているみ言葉を読むと、まず【8節】、続いて【9~10節】。そして【22節】。ノアは神がお語りになるみ言葉を聞き、それに黙々と服従するだけです。これが、神に選ばれ、ただ一人神の好意を得、神に従う無垢な信仰者の姿です。

 ノアの大洪水物語がわたしたちに語る第一のことは、このことなのです。人の子主イエス・キリストの再臨を待ち望み、それに備えるためにわたしたち信仰者がなすべき第一のことはこのことなのです。寡黙にして、ただ神のみ言葉に聞き、それに服従して生きる。「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」。そのように、わたしたちも神のみ言葉に聞き従う。それが、わたしたちがなすべき第一のことです。

 では、神が言われる3節のみ言葉から聞いていきましょう。【3節】。これは、罪の人間に対する神の嘆きと裁きのみ言葉です。創世記5章のアダムの系図では、人の一生は千年に少し足りないほどでしたが、ここでは大きく制限され120年となっています。ここには、人間の寿命の短さは神の裁きの結果であるという考えがあるように思われます。罪ある人間は肉なるものに過ぎません。しかも、甚だしく腐敗した肉です。それゆえに、肉なる人間は長く生き続けることがゆるされません。

 聖書では「肉なる者」とは、神の霊によって生きていない人、自分の欲望のままに、自分の知恵や力だけを頼んで生きている人間を言います。使徒パウロはローマの信徒への手紙8章で、肉によって生きる人と神の霊によって生きる人を対比してこのように言います。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和です」(ローマの信徒への手紙8章5~6節)。したがって、肉にあって死すべきである人間は、主イエス・キリストを死人の中からよみがえらせた神の霊、聖霊によって再び命によみがえり、「生ける人、霊の人」とされる必要があるのです。

 2節の「神の子ら」、4節の「ネフィリム」は古くからの伝説に基づいています。天の父なる神のもとで仕えるべきである天使たちの一部が堕落して地上に降りて来て人間の娘たちと交わり、ネフィリムと呼ばれる巨人が誕生したという伝説です。人間の罪が天の領域にまで達して、天使たちをも巻き込むほどに拡大していることが語られています。

 そのような人間のはなはだしく邪悪で不法な罪を神は天からご覧になり、それを嘆き、悔いておられるということが、5~7節と11~12節に繰り返されています。特に11節、12節では、神のみ前でのこの地の不法と人間の堕落が何度も強調されています。地上には神を求める人はだれ一人もいません。すべての人間が、内も外も全部が病んでいます。そこで、7節には、神は人間を造られたことを後悔されたとあり、また13節ではこのように言われます。【13節】。

 そもそも、神はご自分がなさったみわざを後悔されて、そのみわざを取り消されるということなど、あり得るのでしょうか。神は全知全能であり、そのみわざはすべて正しいとわたしたちは信じ、告白しているのではないでしょうか。たとえ、この世界とそこに住む人間とが、どれほどに堕落し不法と不義に満ちているとしても、神はそれには動揺せずに、悠然として、それを天から見下ろしておられるべきではないでしょうか。

 いや、聖書の神はそうではありません。むしろ、わたしたちはこう言うべきです。神はここでただお一人、この世界と人間の罪に対してみ心を痛めておられ、嘆いておられるのだと。だれも自らの罪に気づかず、だれも自らの滅びの運命に心を痛めることもない、愚かで、かたくなで、傲慢不遜な人間たちの中で、ただお一人、神だけが人間の罪のためにこれほどまでに嘆いておられるのだと。

 わたしたちはここで、わたしたちの罪のために、ご自身が罪のない神のみ子であられた主イエス・キリストだけが、ただお一人、罪と戦われ、そのために十字架で清い血を流されたということを思い起こします。わたしたち罪びとのだれもが、おのれの罪に気づかず、罪と取り組んで戦うことをしなかった時に、主イエス・キリストただお一人が、わたしたちの罪のために苦難をお受けになり、それによって罪に勝利されたのです。

 「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう」と神は言われます。ご自身が創造された人間、しかもご自身に似せて、最も深い愛を注いで創造された人間をことごとく滅ぼさなければならない、その神のみ心の痛みをだれが知るでしょうか。そして、ひとり子を十字架に引き渡した神の痛みと愛とをだれが知るでしょうか。

 ノアの大洪水、それはまさに人間の罪の大洪水が引き起こしたものにほかなりません。人間の罪と暴虐が全地にみなぎっているからです。しかし、この大洪水によって人間の罪が勝利するのではありません。神が人間の罪を一掃するために、深いみ心によって引き起こされたものです。今はまだ隠されてはいますが、神の愛と恵みの大洪水なのです。神は罪に満ちた全地をとそこに住む人間たちを裁く決断をされました。それは神の聖なる決断です。それは、義なる神の厳しい裁きであると同時に、愛と恵みに満ちた決断でもあるのです。人間の罪が全地を覆いつくして、それによって全地が滅びてしまうことを神はおゆるしになりません。神はみ心によって人間の罪を一掃されます。古い罪の世界を洗い清められます。

 ノアは人間たちの中からただ一人選ばれて、神の好意を受けました。ノアが選ばれたのは、9節に書かれているように、神に従う人であったから、神と共に歩んだからです。ノアは、神の裁きのただ中で、神のみ言葉を聞き、それに従いました。【14~21節】。

 箱舟の設計者は神ご自身です。1アンマはおよそ45センチメートル。箱舟の長さは135メートル、幅は22・5メートル、高さは13.5メートル、上の方に明り取りの窓があり、側面に出入りする戸口がある3階建て、それに彼の家族とすべての生き物から雄と雌とを1つがい、その箱舟に入れと神は命じられました。説教の冒頭でも確認したように、ノアの箱舟物語ではすべて神がみ言葉を語られ、神が計画され、神が命じられます。

 それは何のためでしょうか。18節にあるように、神がノアと契約を結ばれるため、19節にあるように、ノアが箱舟に入った家族や生き物たちと共に生き延びるためです。

 【22節】。ノアはすべて神のみ言葉のとおりに実行しました。神のみ心に服従しました。主イエスがマタイ福音書24章で言われたように、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたその中で、ただ一人神のみ言葉に聞きつつ、来るべき裁きの時、来るべき救いの完成の時を待ち望み、その時に備えつつ、箱舟を造り、その中に入りました。

 ここに、わたしたち教会の民の原型があります。わたしたちも目覚めて、主キリストの再臨の時に備えましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、聖霊によってわたしたちをあなたのみ言葉につなぎとめてくだ

 さい。信仰によって、わたしたちがいつも目覚めていることができますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。