1月30日説教「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

2022年1月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編8編1~10節

    ルカによる福音書7章24~35節

説教題:「洗礼者ヨハネとヨハネが証ししたメシア主イエス」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネと主イエスとの関係について、1章と3章、それに7章18~35節で詳しく語っています。1章によると、ヨハネの両親である祭司ザカリアと妻エリサベトには子どもがなく、二人ともに高齢になっていましたが、神の奇跡によってヨハネが与えられました。また、主イエスの両親であるヨセフとマリアはまだ一緒になってはいませんでしたが、おとめマリアに聖霊がくだり、神の奇跡によって主イエスが誕生しました。ヨハネと主イエスはともに神の奇跡によって誕生した子どもであり、彼らの命と存在の源はすべて神に由来していました。それゆえに、彼らの生涯のすべても神のためにあり、彼らの歩みのすべては神にささげられるように、その誕生の時から定められていたということをルカ福音書はあらかじめ語っています。

 3章によると、洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、神の国の到来が近いことを説教し、「わたしのあとにおいでになる方こそが待ち望まれていたメシア・救い主である。わたしはその方のために道を整える先駆者である」と語りました。

 そして、7章18節以下では、ヘロデ・アンティパスによって投獄され、死刑の判決が迫っていたヨハネが主イエスのもとに弟子を遣わして、「旧約聖書で預言されていた来るべきメシアは確かにあなたなのですか」と問うたのに対して、主イエスはイザヤ書の預言のみ言葉を挙げながら、その預言が今ご自身によって成就しているという事実をヨハネに伝えなさいとお答えになりました。

 きょうの礼拝で朗読された24節以下は、ヨハネの二人の弟子たちが帰ったあとで、主イエスが集まっていた群衆に語られた場面です。【24~27節】。27節は旧約聖書マラキ書3章1節のみ言葉です。ルカ福音書3章では、イザヤ書40章3節以下のみ言葉が引用され、荒れ野に主の道を整え、神の救いのために備えをすることがヨハネの務めだと言われていましたが、ここではマラキ書のみ言葉によって、契約の主である最後の裁き主がおいでになる前に、罪を悔い改めて神に立ち帰るべきことを告げる使者としてのヨハネの務めが強調されています。いずれの場合にも、ヨハネ自身は契約の主ではなく、救いをもたらすメシアでもなく、彼はあとからおいでになるメシア・救い主である主イエスのために道を整え、準備をする先駆者としてのヨハネの務めが語られています。

 主イエスは24、25節で、洗礼者ヨハネについて二つの比喩を用いて語っておられます。「風にそよぐ葦」とは、弱々しく、時代の風に吹き流されてしまう頼りないものを象徴しています。群衆の中にはユダヤ地方の荒れ野に出かけて行ってヨハネの説教を聞き、ヨハネから洗礼を受けた人たちも多くいたに違いありません。その人たちがヨハネの姿に見たのは、「風にそよぐ葦」ではありませんでした。ヨハネの説教は力強く、差し迫った神の怒りから免れることができる人はだれもいない、斧がすでに木の根元に置かれている、だから今すぐに悔い改めて神の福音を信じなさいという、厳しく激しい説教でした。実際に、ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスの不正を責め、この世の権力をも恐れずに立ち向かいました。

 ヨハネはまた「しなやかな服を着て」この世の繫栄とか名誉とかを求めていたのでありませんでした。「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物とし」(マタイ福音書3章4節)、この世の誉れをすべて捨て去り、ただひたすらに神に仕え、来るべきメシアと近づきつつある神の国を指し示すためにその生涯をささげたのでした。

ルカ福音書は1章と3章ですでに何度もそのことを強調していました。3章15節以下では、当時の人々が「もしかしたら彼がメシアではないか」と考えていたことをヨハネ自身がはっきりと否定して、「わたしのあとにおいでになる方こそがそのメシアである。わたしはその方の履物のひもを解く値打ちもない」と告白していました。

 そのようにして、来るべきメシアの前に徹底して自らを低くし、貧しくしているヨハネを主イエスは26節で「預言者以上の者である」と言われ、また28節では「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない」とも言われます。これは、人間に対する最高の評価と言えるでしょう。これにはどういう意味でがあるのでしょうか。

 預言者とは、旧約聖書の中で、神がイスラエルの民にお語りになるみ言葉を神に代わって、神の口となって民に語る務めを託された人を言います。旧約聖書にはイザヤ、エレミヤ、エゼキエルの3大預言者とホセア、アモスなどの12小預言者と言われる預言者たちの書があります。彼ら預言者たちは、それぞれの時代に神がイスラエルにお語りになったみ言葉を民に向かって語るとともに、特に、神が終わりの日にイスラエルと全世界の人たちの救いを成就するためにお遣わしになるメシア・キリストの到来を預言し、そのメシアを待ち望むように語ることが彼らの務めでした。

洗礼者ヨハネがそれらの預言者たちの中で最も偉大だと言われているのは、彼が旧約聖書の預言者たちの列の最後に連なり、待ち望まれていたメシア・キリストに最も近い所で、その到来を預言したからにほかなりません。ルカ福音書1章が伝えるところによれば、ヨハネは彼の半年あとにお生まれになった、しかも彼の母エリサベトの親戚関係にあったマリアからお生まれになった主イエスを、直接に彼の口と指で指し示して、来るべきメシアを証ししたのです。彼は自分自身の目で直接にメシア・キリストを見ることをゆるされるほどに間近で、メシア・キリストの到来を預言したのです。預言というよりは、すでに今ここにメシア・キリストが到来している、すでに神の救いのみわざが始まっている、すでに神の国が到来し、神の恵みのご支配が始まっていることを語ったのです。ここにこそ、彼の偉大さがあるのです。旧約聖書の預言者たちのだれもが自分たちの目では見ることができずに、未来に期待するほかなかったメシア・キリストを、ヨハネは彼自身の目で見ているのです。それゆえに、ヨハネは預言者たちの中で最も偉大であり、これまで人間として生まれたすべての人の中で最も偉大であり、幸いであると言われているのです。

したがって、ヨハネの偉大さは彼自身の業績とか能力や性格によるのでは全くありません。彼の偉大さは、彼が証ししているメシア・キリストである主イエスの偉大さによるのです。主イエスが旧約聖書で預言され、待ち望まれていたイスラエルと全人類の救い主であられ、来るべき神の国の王であられ、主イエスによってすべての預言が成就されているからです。ヨハネの偉大さは徹底して主イエスゆえの偉大さなのです。主イエスを証し、主イエスのために仕え、主イエスのために彼の全生涯と命とをささげたことによる偉大さなのです。

次に、28節の後半で続けて主イエスはこう言われます。「しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりも偉大である」。これはどういう意味でしょうか。これも同じ文脈の中で理解されます。ヨハネが偉大であるのは、彼が証した来るべきメシアである主イエスが偉大なる方だからであり、主イエスと共に到来した神の国、神の恵みのご支配が偉大だからなのですが、それと同じ文脈の中で、実際に今すでに主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、神の恵みのご支配の中に生きることをゆるされている人は、ヨハネよりもはるかに偉大であるということになります。ヨハネがメシア・救い主イエス・キリストのために道を整え、主イエスとともに始まった神の恵みのご支配の入口に立っているゆえに偉大であるのならば、メシア・主イエス・キリストの十字架の福音によって事実罪のゆるしを与えられ、事実今すでに神の国へと招き入れられ、神の恵みのご支配の中で生きることをゆるされているキリスト者、すなわちわたしたちは、それ以上に偉大であり、大きな幸いと祝福のうちに置かれているということになります。

「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」とは、実に、わたしたち教会の民に与えられている主イエスの大きな祝福のみ言葉なのです。わたしたちは今、預言の時に生きているのではなく、成就の時に生きています。メシア・救い主を待ち望んでいるのではなく、すでに主イエスがメシア・キリストとしてわたしたちの所においでくださり、わたしたちの救いのためのみわざをすべて成し遂げてくださり、わたしたちの罪をあがなうためにご自身の聖なる汚れなき血を十字架でおささげくださり、わたしたちを罪と死と滅びから解放してくださり、わたしたちを神の国の民としてくださり、神の救いの恵みの中に招き入れていてくださり、神の国での永遠の命の保証をお与えくださっておられる、そのような大きな恵みと祝福の中に置かれている、それゆえに「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と言われているのです。

「神の国で最も小さな者」というみ言葉のもう一つの意味が29節以下で語られています。それは、神の国は、最も小さな者にこそふさわしいということ、神の国の福音を聞いた信仰者は、自分が最も小さな者であり、神の国の福音の前に自らを無にして、その福音を信じ、受け入れるほかにないことを告白するということです。

主イエスは洗礼者ヨハネの教えを聞き、信じ、洗礼を受けた民衆と、自らの罪を悔い改めず、ヨハネの悔い改めの洗礼を拒んでいた当時のユダヤ教指導者たちとを対比して、31節から一つのたとえをお語りになりました。これは、当時流行していた子どもたちの、いわば「ごっこ遊び」と思われます。子どもたちは笛を吹き、踊りながら、結婚式の祝いに参加してくれる仲間を呼び集めようとします。けれども、だれも集まってくれません。今度は、悲しい歌を歌って、葬式に参列してくれる仲間を呼び集めようとしますが、これにもだれも加わろうとしません。

それと同じように、この時代の指導者たちは神からの呼びかけにだれも応えようとせず、洗礼者ヨハネを「悪霊に取りつかれている者」と言って拒み、主イエスを「徴税人や罪びとの仲間だ」と言って拒み、神の招きのみ声にだれも耳を傾けようとはしない、かたくなで、悔い改めることをしない、傲慢で、自分を誇り、神のみ言葉によって自分が変えられることをよしとしない、そのような時代であると主イエスは言われます。

主イエスはここでわたしたちを神の国での結婚式の盛大な祝いと喜びの席へと招いておられるのです。わたしたちは主イエスによって罪がゆるされ、信仰による神との永遠の交わりの中へと招き入れられています。終わりの日に祝われる盛大な結婚式の喜びと祝福の時がすでに始まっているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがきょうわたしたち一人一人を主の日の礼拝にお招きくださり、喜びと祝福に満ちたあなたとの交わりの中へと招き入れてくださいましたことを心から感謝いたします。

〇願わくは、今悲しみや不安の中にある人たち、恐れや迷いの中にある人たち、重荷や痛みを抱えている人たち、病んでいる人たち、餓え渇いている人たち、彼ら一人一人にあなたが伴ってくださり、恵みと祝福をお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月23日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年1月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰

の告白』講解⑨(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ローマの信徒への手紙5章12~21節

説教題:「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

『日本キリスト教会信仰の告白』の特徴の一つは、簡単信条であるということです。宗教改革以後の信仰告白、信条も同じ意味ですが、それらと比較すると、かなり短くなっています。簡単信条の利点は、礼拝の中でその全文を礼拝者一同が告白でき、また暗唱することもできる点にあります。欠点としては、キリスト教教理の全体を、特にわたしたちの教会の神学的特徴である改革教会の教理を厳密に表現できないということです。この欠点を補うために、日本キリスト教会は信仰問答書の作成や新たな信仰告白の作成をしていくことが求められています。2016年の第66回大会で、『1964年版小信仰問答』が正式に制定されたことは、その第一歩と言えます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』が簡単信条であるいうことは、その短い文章の一字一句の中に、多くの意味が凝縮されて詰め込まれているということでもあります。わたしたちがその告白文を学んでいくにあたっては、その告白のもとになっている聖書のみ言葉を丁寧に学ぶことはもちろん、教会の2千年の歴史の中でその教理がどう理解されてきたか、どのように告白されてきたかということもまた考慮に入れながら学ぶことが大切です。

 きょうは「人類の罪のために十字架にかかり」という箇所を、次回と2回にわたって学ぶことにします。『信仰告白』を冒頭から続けて読むと、神のひとり子であり、まことの神・まことの人であられる主イエス・キリストが人となられたその理由、その目的が、人類の罪のため十字架にかかることあったと、ここで告白されていることが分かります。つまり、主イエスのご生涯はその誕生から十字架に向かっているということ、しかもそれは全人類の罪のための十字架であるということです。

 まことの神であられる方が人となってこの世においでくださったのは、神が人間世界の中で名を挙げ、英雄になるためではありませんでした。人間たちの最高位に君臨して人類を支配するためでも、人類を裁くためでもありませんでした。いずれにしても、神ご自身の誉れを得るためでは全くありませんでした。それは、徹底して人類のためであり、人類の罪のためであり、十字架にかかるためであったのです。わたしたちの主なる神は、このようにして徹底的に人類のために仕えてくださる神であり、人類の罪をご自身に引き受けてくださる神であり、また人類のためにご自身が苦しみと痛みの中で十字架につけられ、死んでくださる神であられるのです。人類に対する神の愛はこれほどまでに深く、また真剣で、文字どおり命をかけた愛であることをわたしたちは知らされます。

 では、そのような神の偉大な愛の対象である人類とはだれのことでしょうか。人類とは、人間の歴史が始まってからそれが終わるまでの、すべての時代のすべての人間、あらゆる人種、国籍、男女、職業、能力、その他どのような違いも関係なく、人として生まれたすべての人間を人類と言います。その人類が神の偉大なる愛の対象なのです。神の愛は時代や空間を超え、人種や国境を越え、人間のあらゆる違いを超えて、全人類に与えられる永遠の愛、無限の愛です。

 人類という言葉は、ここではさしあたって、罪という言葉と結びついています。「人類の罪」と言われています。人類は神の偉大な愛の対象ですが、それに先立って、罪という言葉と結びついているのです。人類の罪ですから、ここで言われている罪は一部の人だけの罪ではなく、人類全体の、すべての人の罪です。ここで、『信仰告白』は全人類が、すべての人間が罪の中にある、罪びとであるということをまず第一に告白しているのです。

 罪という言葉が、この信仰告白の中で初めて出てきました。この後にも何回か出てきます。少し進んだ箇所では、「功績なしに罪を赦され」、そのあとに、「人は罪のうちに死んでいて」、使徒信条の終わりの箇所では、「罪の赦し」、この信仰告白では4回出てきます。短い信仰告白の中に同じ言葉が4回も用いられているということは、罪がわたしたちの信仰理解にとって非常に重要であることを意味しています。キリスト教信仰は罪の正しい理解と認識から始まると言ってよいでしょう。

 では、罪とは何でしょうか? 聖書が言う罪とは、第一には、それが神に対しての罪だということ、神との関係における罪、神のみ前での罪ということです。第二には、その基準はなにかと言えば、それは神の律法、聖書に記されている神のみ言葉であるということです。宗教改革の時代に制定された『ハイデルベルク信仰問答』はその第3問で、「どこからあなたは自分の悲惨(つまり罪)を知るのですか」という問いに、「神の律法です」と答えています。そして、第5問では、わたしたち人間はだれも神の律法を守ることができない、だれもが神のみ言葉に聞き従うことができない罪びとであると告白されています。

 『ハイデルベルク信仰問答』は、これが聖書から導き出される人間の罪の現実であると教えているのです。神の律法、神のいましめ、神のみ言葉に聞き従うことができない、神のみ心に背いている。生まれながらの人間はみなそのようにして罪に傾いている。人間の全存在が罪と悪に傾いているために、人間は本当の意味で神を愛することも人間を愛することもできない、それが人間の罪の現実なのだと聖書は言います。

 実際にわたしたちが聖書を読むと、聖書は最初の創世記から最後のヨハネの黙示録に至るまで、その全ページで人間の罪について語っていることに気づかされます。その代表例を読んでみましょう。詩編14編1~3節にはこう書かれています。「神を知らぬ者は心に言う。神などないと。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも、背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。使徒パウロはこの詩編のみ言葉を引用しながら、ローマの信徒への手紙3章20節でこのように結論づけています。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と。

 わたしたち人間はだれもみな、神のみ前に立つときに、神の律法の要求の前に立つときに、その一つをも守ることができない罪びとであるということを告白しなければなりません。たとえ、この世の法律は一つも破ったことがないと主張できる人であっても、あるいは、大きな犯罪を犯した極悪人と呼ばれる人であっても、あるいはまた、まじめで誠実でだれからも好かれる好人物であっても、性格がゆがんでおり、だれともうまくやっていけず、失敗ばかりするような人間失格と言われる人であっても、すべての人はみな同様に、神のみ前では同じ罪びとであり、神の律法に背いているということにおいては、大差はない。わたしたちはみな神のみ前では罪びととして同じ場所に立っているのです。

 しかしまた、聖書は語ります。人間の罪についてと同様に、否、それよりも

はるかに力を込めて、創世記からヨハネの黙示録に至るまでの全ページで、神の偉大なる愛と罪のゆるしについて語っています。人間はそのような罪びととして、あの神の偉大なる愛の対象なのであり、そのような罪びとのために神のみ子イエス・キリストは人となられ、十字架への道を進まれたのだということを聖書は語るのです。

 「人類の罪のため」という信仰告白には二つの意味が含まれています。一つは、人類の罪が原因で主イエスは十字架につけられたという意味です。つまり、人類の罪を、罪なき神のみ子であられる主イエス・キリストが、人類に代わってそのすべての罪を引き受けられ、担われた。そのようにして、人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを人となられた神のみ子が人類に代わって引き受けられたという意味です。

 第二に、人類の罪のゆるしのためにという意味も、ここではすでに暗示されています。罪なき神のみ子が人類に代わって十字架への道を進まれたのは、人類の罪をゆるすためにほかなりません。この信仰告白はこの後で、その罪のゆるしのことが具体的に告白されていきます。

 「人類の罪のため」という告白について、もう一つのことに触れておきたいと思います。それは、人類の罪とわたしの罪との関係です。使徒パウロはローマの信徒への手紙5章の前半で、わたしたち不信人な罪びとたちのために十字架で死んでくださった主キリストに現わされた神の偉大なる愛を語った後で、12節でこのように語ります。【12節】(280ページ)。

 「一人の人」とは、最初に神によって創造された人間アダムのことです。このアダムが最初に罪を犯しました。神に禁じられていた善悪を知る木の実を食べ、神のいましめに背いて罪を犯したために、アダムは神の裁きを受けてエデンの園を追い出され、死すべき者となりました。キリスト教教理ではこれを「原罪」と言います。アダム以後のすべての人間、人類は皆この原罪を受け継ぎ、死すべき存在となりました。使徒パウロはそのことを12節前半で語った後、後半で「すべての人が罪を犯したからです」と付け加えています。つまり、アダム以後のすべての人もまたアダムと同じように罪を犯している、だから死すべき者となっているという、すべての人間の罪の現実を語るのです。

アダムの罪と死、原罪は、いわば遺伝のように受け継がれていくというのではありません。人間の原罪はアダムにだけ責任があるのではありません。アダム以後のすべての人間もまた、そしてわたしもまた、生まれながらに罪に傾いており、神と人間を憎むことに傾いている罪びとである、それゆえにすべての人が、そしてまたわたしも、死ぬ者となっているのだとパウロは語っています。

 したがって、「人類の罪のため」という「人類」の中には、わたしもまた含まれているのは言うまでもありません。それだけでなく、わたしたちはパウロがテモテへの手紙で書いているように、「わたしはその罪びとの頭である」と告白しなければなりません。そのように自らの罪を告白する時に、わたしたちは「人類の罪のため十字架にかかって」くださった主イエス・キリストの救いの恵みが、このわたしにも豊かに与えられていることをも告白することができるのです。

 使徒パウロがローマ書5章の後半で繰り返して語っているとおりです。【17~19節】。そして【21節】。

 神は人類を、わたしたちひとり一人を、罪と死の支配とその法則から解放し、救い出すために、そして神の救いの恵みと命の支配とその法則のもとに生きる者とするために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、み子の十字架の死によってわたしたちを罪からあがない、救ってくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが御独り子をわたしたちの罪の贖いのために十字架に引き渡されるほどの大きな愛によってわたしたち一人一人を愛してくださいますことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、罪ゆるされている者として、喜んであなたと隣人とに仕える者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月16日説教「アブラハムのイサク奉献」

2022年1月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:創世記22章1~19節

    ヨハネによる福音書3章16~21せつ

説教題:「アブラハムのイサク奉献」

 創世記22章に書かれているアブラハムのイサク奉献の個所を、前回に続いて読んでいきます。きょうは4節から読みます。【4節】。その場所とは、2節で神に行けと命じられた場所のことです。【2節】。モリヤの地がどこであるのか、はっきりとはわかっていません。旧約聖書の中ではモリヤという地名はもう1回だけ出てきます。歴代誌下3章1節です。そこにはこのように書かれています。「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた」。ここでは、エルサレムの町がある小高い丘がモリヤ山と呼ばれていますので、何人かの研究者はモリヤとはエルサレムのことだと推測しています。アブラハムが住んでいた場所が21章33節ではベエル・シェバとあり、また22章19節ではベエル・シェバに戻ったとありますから、ベエル・シェバからエルサレムまでは70キロメートル余りの道のりを三日かかったという4節のみ言葉とも符合します。アブラハムがイサクを燔祭として、すなわち焼き尽くすささげものとしてささげた場所がモリヤ・エルサレムであったということについては、14節の個所でもう一度触れることにします。

 その場所が見えた時、アブラハムは同行した二人の若者に、「お前たちはここで待っていなさい、わたしとイサクとはあの場所で神を礼拝して、また戻ってきます」と命じました。このアブラハムの言葉から、彼はもともと自分の子イサクを燔祭の犠牲として神にささげる気はなかったのだとか、あるいは彼がこの時点ですでに神がイサクの代わりになる動物を備えてくださるということを知っていたのだと理解することはできません。また、そう理解すべきではありません。アブラハムが最初から、10節で「手を伸ばして刃物をとり、息子を屠ろうとした」その瞬間まで、ずっと「イサクを燔祭としてささげよ」との神の命令に忠実に従っていたということは確かです。「恐れとおののき」とをもって、しかし、黙々と、わが子を神にささげるために、神が定めたもうた厳しく困難な信仰と服従の道を歩み続けていたということは否定できません。

 そのことは6節以下でも変わりません。【6節】。わたしたちはこの場面をどのように説明したらよいでしょうか。息子イサクは自分自身がその上で火に焼かれるはずの薪を背中に背負っています。父親アブラハムは自らの手で息子イサクの首を切り裂くはずの刃物と薪を燃やす火とを手に持っています。そして、二人は一緒に歩いていきます。それが、主なる神への服従の道だとしても、だれも、だれ一人として、この場面を直視できる者はいないのでないでしょうか。しかしそうであるのに、後の時代のすべて信じる者たちの信仰の父と呼ばれるアブラハムは、黙々と服従しているのを、わたしたちは驚きをもって見るのです。

 【7~8節】。ここで、父と子との会話が初めて書かれています。これまでの三日間の旅路の間、二人がどのような会話を交わしたのか、わたしたちには分かりません。もしかしたら、全く会話がなかったのかもしれません。少なくとも、楽しい会話を交わしながらの旅路ではなかったでしょうし、どんな会話もこの場面の父と子の会話としてふさわしくはないに違いありません。

 ここにきて、イサクは気づきました。神を礼拝し、燔祭の犠牲をささげるために父と一緒に来たのに、父は犠牲としてささげる動物を用意していなかったということに。父アブラハム自身はその理由を知っていましたが、彼はイサクに「その子羊はきっと神が備えてくださる」と答えます。このアブラハムの答えも、彼がそれをあらかじめ予測していたとか、期待していたと考えることはできませんし、そう考えるべきではないことは、はっきりしています。9~10節にこのように書かれているからです。【9~10節】。その瞬間まで、アブラハムは神の命令に忠実に従っていたことが、ここからはっきりと分かります。

 アブラハムのこの服従の道がいかに厳しいものであり、深刻で、過酷で、「恐れとおののき」に満ちたものであったかを、わたしたちは改めて思わざるを得ません。「あなたに子どもを授ける。その子の子孫は星の数ほどに増え、あなたに与えられた祝福を受け継ぎ、その祝福は永遠に続くであろう」と言われた神の約束のみ言葉を信じて、行き先を知らずして旅立ったアブラハム、その約束が25年後に、彼が100歳になってからようやくにして成就し、彼に与えられた愛する独り子イサク。そのイサクを神が燔祭の犠牲としてささげよとお命じになる。神はアブラハムから、彼の命であり、彼のすべてでもあるイサクを取りあげようとしておられる。その子によって神の約束が受け継がれていくはずのイサクを、神は取り去ろうとしておられる。神のみ心はいったいどこにあるのだろうか。これは、何とも過酷で、しかも理不尽な神の試練であることか。アブラハムはこの大きな試練に耐えることができるだろうか。

 けれども、アブラハムは徹底して神の命令に服従しています。「手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとする」その瞬間まで。

 6節の終わりと8節の終わりに、「二人は一緒に歩いて行った」と、同じ言葉が繰り返されています。この繰り返しは意図的と考えられます。ここにどんな意図を読み取るべきでしょうか。父と子、アブラハムとイサクの二人は一緒にモリヤの山に登っています。父が子を神に犠牲としてささげるために。それは表面的に見れば、父と子の関係の終わり、断絶に向かっている道であることはだれの目にも明らかです。けれども、聖書は強調して言います。「二人は一緒に歩いて行った」と。父と子が、神の命令に服従しているのならば、その二人の関係は決して引き裂かれることはない、分かたれることはない、神は二人を固く結びつけておられ、二人は神がお定めになった救いの道を一緒に歩いているのだということを語っているように思われます。

 わたしたちはここで、主イエスが福音書の中で言われたみ言葉を思い起こします。マルコ福音書10章29~30節で主イエスはこのように言われました。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」と。主イエス・キリストの福音のためにわが命とわがすべてのものを神におささげする時、その人は最も祝福された人となり、最も祝福された神の家族となり、決して引き裂かれることがない永遠の交わりのうちに生きる神の国の民とされるのです。

 【11~13節】。1節で、「アブラハムよ」と呼びかけられ、彼にイサクをささげなさいとお命じになられた神は、11節でも、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけられます。そして、「その子に手くだすな」とお命じになります。イサクは今や完全に神にささげられたものとなったからです。アブラハムはイサクをもう自分の自由にできません。イサクはもはやアブラハムのものではなく、神にささげられた、神のものだからです。そして、イサクをご自分のものとされた神は、それゆえに、イサクの代わりに一匹の雄羊をアブラハムのために備えられたのです。

 【14節】。アブラハムがイサクをささげた山がモリヤという名前であったと2節に書かれていました。また、そのモリヤが歴代誌下3章1節からエルサレムと推測されることをお話ししましたが、ここからいくつかのことを教えられます。研究者が推測している一つのことは、ここではイスラエルがダビデ、ソロモン王時代になって、エルサレムの神殿でささげられるようになる動物犠牲の礼拝形式が暗示されているということです。礼拝についての規則はレビ記などで具体的に定められることのなるのですが、神はイスラエルの罪をあがなうために、人間の命を要求されることをなさらず、動物を代わりにささげることをお命じになります。神がここでイサクの代わりに雄羊を備えられたように、エルサレム神殿での礼拝においては、人間の罪の贖いのために、家畜を備えてくださり、その家畜の命をささげることによって、神はそれを人間の命の身代わりと見なしてくださり、人間の罪をおゆるしになるという、イスラエルの礼拝の原型がここに示されていると考えられます。

 わたしたちはさらに、ここにはすべての人間の罪をあがなうために神が備えてくださった神の御独り子、主イエス・キリストの十字架が預言されていることを読み取ることができます。15節以下を読んでみましょう。【15~18節】。アブラハムがその独り子イサクをモリヤの山で神に燔祭の犠牲としてささげたその同じエルサレムで、神は全人類のすべての人間の罪を贖い、罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の独り子なる主イエス・キリストを十字架に犠牲としておささげくださったのです。

主イエスは、神が世の罪を取り除くために神ご自身が備えられた神の子羊として、ご自身の十字架を背負い,ほふり場にひかれていく子羊のように、黙々として、ゴルゴタの丘を登って行かれました。手に刃物を持ったアブラハムと背に薪を背負ったイサクがモリヤの山に登っていく姿と共通しています。けれども、決定的に違うことがあります。主イエスの場合には、最後の瞬間に「待った」がかけられませんでした。多くのユダヤ人が、「神の子よ、十字架から降りて自分自身を救ってみよ。そうしたら信じよう」と叫んだけれども、主イエスは「父よ,わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われ、十字架上で息を引き取られました。主イエスは死に至るまで従順に父なる神に服従され、それによって、ご自身の汚れのない、聖なる血を、わたしたちの罪の贖いのためにおささげくださったのです。ヨハネ福音書3章16節にはこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

最後に、神を恐れるという信仰について少し触れておきたいと思います。12節で神はこう言われました。「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。神を恐れるという信仰は、旧約聖書ではもちろんそうですが、新約聖書でも、わたしたちの信仰の基本的な特徴を言い表しています。神を恐れるとは、人間の神に対する何らかの感情とか精神とか、心の持ち方とかを言うのではありません。恐怖心とか畏怖という感情のことではありません。イサクを神にささげたアブラハムの信仰に見ることができるように、徹底した神への服従のことです。自分にとって最も大切でかけがえのないもの、自分の命に等しいものをも、惜しむことなく神にささげるほどに、徹底して神のみ言葉に服従する信仰、それが神を恐れることです。

ご自身の独り子をも惜しまれずに十字架におささげくださった神の大きな愛によって、わたしたちも神を畏れる信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子主イエス・キリストによってわたしたちにお与えくださった大きな愛からわたしたちを引き離すものは何もありません。わたしたちが何ものをも恐れることなく、ただあなたのみを恐れて、あなたのみ言葉に聞き従う者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月9日説教「人間に従うのではなく、神に従うべき」

2022年1月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書2章12~22節

    使徒言行録5章27~42節

説教題:「人間に従うのではなく、神に従うべき」

 初代エルサレム教会は誕生してすぐに、ユダヤ人からの迫害を受けました。最初の迫害は使徒言行録4章に書かれていました。この時には、使徒たちの代表者であったペトロとヨハネが逮捕、投獄されました。2回目は5章17節以下、この時には、18節に「使徒たちを捕えて」とありますので、12人の使徒たち全員が捕らえられ、大祭司の官邸の地下にあった公の牢に投獄されました。そして、ユダヤ最高議会、サンヘドリンと言われる大法廷で全員裁判を受けることになりました。ユダヤ人、またはユダヤ教からの迫害がより激しさを増しているのが分かります。

 わたしたちはここであらかじめ次のことを確認しておきましょう。エルサレム教会は迫害が繰り返され、しかもその激しさが増していくことによって、教会の中に恐れや不安が大きくなり、教会から去って行く信者が増えたり、使徒たちも宣教の力が弱くなって、教会の中に閉じこもるようになったのかというと、決してそうではなかったということです。教会は幾度も迫害を経験することによって、より一層、教会の頭なる主イエス・キリストに堅く結びつき、それにより、より力と勇気とを増し加えて、大胆に主キリストの福音を語り、この世の権力をも恐れずに教会の外に出て行ったということ、そのことをわたしたちは使徒言行録から繰り返し聞くのです。また、その後の教会も同様に、神のみ言葉はどのようなこの世の鎖によっても決してつながれないということを証しし続けてきたということを、わたしたちは知らされています。

27節からは、使徒たちの裁判について書かれています。ユダヤ最高法院の議長であり裁判長である大祭司が尋問します。【28節】。大祭司は主イエスのお名前を口に出すことを注意深く避けて、「あの名」とか「あの男」と言っています。4章17節の1回目の裁判でもそうでした。名前には特別な力が含まれており、名前を口に出すと、その名前の力が及ぶと、当時の人たちは考えていました。大祭司も他のユダヤ人指導者たちも、主イエスのお名前を恐れていました。実際に、主イエスのお名前によって驚くべき奇跡やしるしが人々の間で行われている様子を彼らは見ていたからです。彼らが必死になってこの新しい教えを封じ込めようとしても、主イエスのみ名によって語られる福音が、エルサレムだけでなくパレスチナ全域へ、さらにはローマ帝国全体へと拡大されていくのを、彼らはこれからも目撃するでしょう。迫害者たちは、そのような偉大な力を持った主イエスのお名前をうっかり口にして、その力が自分自身に及ぶことを恐れているのです。

 大祭司はまた主イエスを十字架につけて血を流した責任を自分たちが問われていると感じていることを、図らずも告白しています。確かに、彼らにはその責任がありました。彼らはこの同じ最高法院で主イエスを裁判にかけ、有罪とし、最終的にはローマの法律による十字架刑に引き渡したのでした。確かに、罪なき神のみ子を偽りの裁判によって裁き、イスラエルの救いのために神から遣わされたメシア・キリストを自分たちの手で拒絶し、投げ捨ててしまったという、大きな罪の責任を彼らは問われているのです。彼ら自身はその責任の意味を正しく理解していなかったとしても、彼らがその行為を行ったという事実からは逃れることはできません。

 そのことは、実際に主イエスを十字架につけたユダヤ人だけが問われている責任ではなく、その場にはいなかった、その時代には生きていなかった、すべての人間もまた問われている責任だと言ってよいでしょう。だれであっても、主イエスの十字架の福音を聞く人は、主イエスの血を流した責任がこの自分にもあるのだということに気づかされるのです。罪なき神のみ子が、このわたしの罪のために苦難の道を歩まれ、このわたしの罪をあがなうために十字架で血を流してくださったのだという福音を聞くのです。

 大祭司の尋問に対して使徒たちはこのように答えます。【29~32節】。この世の権力者によって脅かされても、命の危険が迫っていても、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」、これが迫害を受けている使徒たちの答えです。この答えは最初の迫害の時にペトロとヨハネが裁判の席で答えた内容とほぼ一致しています。もう一度その個所を読んでみましょう。【4章19~20節】。誕生して間もないエルサレム教会が2度にわたる迫害の中で問われたことは、このことでした。教会はこの世の人間の言葉や命令に従うべきなのか、それとも、神のみ言葉に聞き従うのか―この問いに対して、教会は決然とした態度をもって、はっきりと、自分たちは人間に聞き従うのではなく、神に聞き従う群れなのだということを告白したのです。主イエス・キリストを救い主と信じる者たちの群れである教会は、こののちにも、2千年近い歩みの中でたびたび経験した迫害で、繰り返してこの同じ問いの前に立たされ、いついかなる時にも、その答えは、「人間に従うのではなく、神に従うべきである」と告白することによって、生き続けてきたのでした。時に、苦しい拷問や殉教の血を伴いながら、教会はそのように告白し続けてきたのでした。そのようにしてのみ、教会はこれからも、どのような困難の中でも、生き続けることができるでしょう。

 30節で、使徒たちは、確かにあなたがたユダヤ人指導者には主イエスを十字架につけて殺したことの責任があると明言しています。この世の権力者たちの反撃を恐れて、あなたがたに罪の責任はないとは言いません。あなたがた指導者たちに、すべてのユダヤ人に、それだけでなく、すべての時代のすべての人に、主イエスを十字架につけた罪の責任が確かにあるのです。ペトロたちはそれを否定しません。

しかしながら、彼らは続けます。「神は、あなたがたが木にかけて殺した主イエスを復活させられたのだ」と。それは、イスラエルを、また主イエスの十字架の福音を聞いたすべての人を悔い改めさせ、その罪をゆるすためであると。神は主イエスの十字架の福音を聞くすべての人を罪のゆるしと救いへと招いておられるのです。神は人間の罪を最終的には人間自身に問うことをされませんでした。そうではなく、罪なきご自身のみ子にすべての人間たちの罪を負わせたもうたのです。そうすることによって、すべての人の罪をゆるしたもうたのです。主イエスの十字架の福音を聞かされた人はみな、この救いへと招かれているのです。

ここでは、裁判にかけられ裁かれるべき使徒たちが、裁こうとしているユダヤ人指導者たちに罪のゆるしを語っています。裁く人と裁かれる人の立場が逆転しているだけでなく、人間同士の裁きそのものをはるかに超えて、この世の裁判の席そのものが、神の救いの恵みによって満たされているということをわたしたちは見るのです。使徒たちが主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立つとき、このような驚くべき救いの出来事が起こるのです。

けれども、ユダヤ最高法院の議員たちはその救いへの招きを拒絶します。33節以下を読みましょう。【33~35節】。救いへと招かれたユダヤ最高法院の議員たちはそれを拒否しました。主イエスの救いを拒否するということは彼らにとっては使徒たちの存在をも拒否することになります。彼らは使徒たちに怒りを爆発させ、彼らを死刑にしようとします。議場全体が騒然としました。ところがその時、一人の議員が立ち上がりました。彼の名はガマリエルです。彼の冷静で理性的な判断によって、議場は落ち着きを取り戻すことになりました。もし彼がここで立ち上がり、議場を落ち着かせていなかったなら、使徒たちは死刑を免れなかったのかもしれません。神は使徒たちを危機から救い出すために、必要な時に、必要な人を立たせてくださいました。

ガマリエルの名は使徒言行録でもう一度出てきます。22章3節です。この個所で、使徒パウロは自分の回心のことを回想しているのですが、そこで彼はこう言っています。【3節】(258ページ)。ガマリエルがのちにキリスト教信者になったかどうかははっきりしませんが、使徒パウロの先生として、またここでは初代教会の使徒たちを死刑の判決から回避させた指導者として、キリスト教会と深くかかわっていたということは、神の隠れたご配慮を思わざるを得ません。

ガマリエルはユダヤ教の指導者として神を恐れる敬虔な信仰を持っていました。神が歴史の主であり、神が歴史を通してみ心を行われることを信じていました。彼は36節から過去に起こった二つのメシア運動について触れています。メシア運動とは、長く苦難の歴史を歩んできたイスラエルの民に、神がまことの預言者であるメシア・救い主を遣わしてくださるという当時の民衆の期待に乗じて、「我こそはイスラエルを救うメシアである」と名のって、民衆を扇動する運動のことです。テウダとガリラヤのユダがその運動の首謀者でした。しかし、この二つの運動は神の救いのご計画ではなく、人間が自分の名を挙げるための運動であったために、おのずと滅びの道をたどることになったと、ガマリエルは結論づけます。

そこで彼は、結論としてこのように提案します。【38~39節】。ガマリエルが使徒たちの教え、主キリストの福音を正しく理解していたかどうかは不明ですが、彼は主なる神を恐れ、神がイスラエルの救いのために今もみわざをなしてくださるであろうと信じていたことがここから分かります。

ユダヤ最高法院はこのガマリエルの提案を受け入れ、使徒たちを死刑にすることはせず、むち打ちの刑にしたのち、釈放することにしました。最初の裁判での判決も、4章18節に書かれていたように、「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命じた」のと同じように、今回もまた、「イエスの名によって話してはならない」と命じました。

けれども、今回もまた、使徒たちはユダヤ最高法院の命令には聞き従いませんでした。【41~42節】。釈放された使徒たちは、より一層大胆に、勇気をもって、力を込めて、大きな喜びをもって、主イエス・キリストの福音を語り続けました。「人間の言葉や命令に従うのではなく、ただ主なる神のみ言葉にのみ聞き従う」。これが、迫害の中で教会が繰り返して確認した基本姿勢であったのです。

ここではさらに驚くべきことが語られています。「主イエスのみ名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだ」と書かれています。使徒たちは、迫害され、苦しめられ、辱めを受けることを決して恐れませんでした。それを避けようとはしませんでした。いや、むしろ、それを喜びました。なぜなら、それによって使徒たちは、わたしたちすべての人のために苦難の道を進まれ、十字架で死なれた主イエス・キリストと同じ道を進むことになるからです。主イエスが山上の説教の中で教えられたみ言葉が、信じ、従う人たちによって成就するからです。そのみ言葉を読みましょう。【マタイ福音書5章11~12節】(6ページ)。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたのみ言葉に聞き従うわたしたちを祝福してください。わたしたちの信仰の歩みが、どんなに困難であっても、常にあなたが伴っていてくださることを信じ続けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月2日説教「来たるべきメシア主イエス」

2022年1月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書35章1~10節

    ルカによる福音書7章18~23節

説教題:「来るべきメシア主イエス」

 ルカによる福音書は主イエスと洗礼者ヨハネとの関係について、1章と3章で詳しく書いています。3章によると、洗礼者ヨハネは来るべきメシアのために道を整える先駆者として、ユダヤの荒れ野で悔い改めの洗礼を授け、近づきつつある神の国、神のご支配に備えなさいと説教しました。また、1章によると、主イエスの母マリアとヨハネの母エリサベトは親戚関係にありました。エリサベトがヨハネを身ごもってから6か月目に、主イエスを身ごもり始めたばかりのマリアと出会ったことが39節以下に描かれていますが、その時に、二人の母の胎内にいた主イエスとヨハネとが出会い、エリサベトの胎内にいたヨハネがマリアの胎内にいた来るべきメシアである主イエスと出会って、エリサベトのおなかの中で喜びおどったと書かれていました。いわば、これが主イエスと洗礼者ヨハネの最初の出会いでした。

また、ルカ福音書でははっきりとは書かれていませんが、マタイとマルコ福音書では、主イエスもまたヨハネから洗礼をお受けになりました。その際に、ヨハネは神から託された自分の使命は来るべきメシア・主キリストのために道を整える先駆者としての務めであり、自分はメシアではなく、自分のあとにおいでになる方こそがメシア・救い主であると証ししました。その後、ヨハネはガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、獄に入れられ、やがて処刑されることになります。

きょうの礼拝で朗読された7章18節以下は、ヨハネが投獄されている間のことであろうと推測されます。【18~20節】を読みましょう。ヨハネが彼の二人の弟子を呼んで主イエスに問わせた言葉、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」、これが間接話法と直接話法で2回繰り返されています。これは非常に重要な問いです。それは、獄中にあった洗礼者ヨハネにとって重要な問いであるだけでなく、当時のユダヤ人にとっても、世界全体にとっても、そして今日の世界全体のすべての人にとって、またわたしたち教会の民にとって、わたし自身にとって、この問いは非常に重要であり、また真剣な問いであり、わたしの全存在とわたしの命がかかっている問いであると言ってよいでしょう。

事実、わたしたちはこの問いに対して、「主イエスよ、あなたこそが来るべき方であり、待ち望まれていた全世界の唯一の救い主であるとわたしは信じます。」と、わたしの全存在とわたしの命とをかけて告白し、信じているのです。洗礼者ヨハネのこの問いは、主イエスご自身の確かなお答えを引き出すとともに、またわたしたちの信仰告白を引き出すのです。わたしたちはこの新しい一年も、「主イエスよ、あなたこそが来るべきメシアであり、全世界のすべての人が待ち望むべき唯一の救い主です。わたしたちはあなた以外に、だれをも、何をも、待つ必要はありません。あなたがわたしたちのすべてを満たしてくださるからです」。この信仰告白を固く守りつつ、信仰の道を歩み続けるのです。

「来るべき方」とは、当時のイスラエルで待ち望まれていたメシア・油注がれた者を指していると考えられます。主イエスの時代にはイスラエルを救うメシアの到来を期待する信仰が強くあったということが新約聖書から知ることができます。「我こそはそのメシアなり」と名のり出て民衆を扇動し、騒ぎを引き起こす指導者たちもいたようです。

メシアとはヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王・祭司・預言者がその職に就く時に頭からオリブ油を注がれるという儀式を行いました。イスラエルは紀元前千年代のダビデ王の時代から多く国々からの攻撃を受け、紀元前587年にはついに南王国ユダがバビロン帝国によって滅ぼされ、ダビデ王朝は絶滅しました。その後も、ギリシャ、ローマからの宗教的迫害を受け、長く苦難の歴史を重ねるにつれて、終わりの日に神はイスラエルを最終的に解放するために、まことの王であり祭司であり預言者である、「油注がれた者」メシアを遣わしてくださるという、メシア待望の信仰が強くなっていったと考えられています。

ところで、洗礼者ヨハネが獄中から弟子を遣わして、「来るべき方、すなわち待ち望まれていたメシアはあなたですか」と主イエスに問いかけたことの背景には何があったのでしょうか。ヨハネは主イエスが来るべきメシアであることを疑っていたのでしょうか。それとも、そう信じていたことを改めて主イエスご自身に確認したいと願ったのでしょうか。その点については、わたしたちは推測することしかできませんが、この個所からいくつかのことを読み取ることができるように思います。

ルカ福音書1章や3章に書かれていたことによれば、ヨハネは半年後に誕生された主イエスを神がお遣わしになったメシア・救い主と信じており、彼自身はその主イエスのために道を整える先駆者であるということを最初から意識していたことは確かです。来るべきメシアを指し示し、その方のために仕えることが彼の使命でした。その使命を果たす務めの中で、彼はヘロデ・アンティパスによって捕らえられたのでした。やがて処刑されることを彼は覚悟していたと思われます。

そのようなヨハネにとって、「来るべき方はあなたか、それともほかのだれかを待つべきか」という問いは、どのような意味を持つのでしょうか。ヨハネは、そのために彼がこれまで生きてきたこと、そのために彼が間もなく死ぬこと、その彼の唯一最大の生きる目的、死ぬ目的が、主イエスご自身にあるのだということを、そしてそれが正しかったのだということを、ここで確かに知らされるのです。ヨハネの全生涯はまさに来るべき方、メシア・キリストである主イエスのためにあるのです。彼の死もまた彼が待ち望んでいた救い主・主イエスのためにあるのです。ヨハネは死の直前に、消えかかったわずかな灯によって、その小さな指によって、来るべきまことの光なる主イエスを指し示そうとしているのです。彼の生と死によって、来るべき主イエスを証しすること、これこそが先駆者ヨハネが神から託された務めだったのです。そして、彼は今その最後の務めを果たそうとしているのです。

もう一つのことを考えてみましょう。ヨハネがユダの荒れ野で神の国が近いことを説教し、また主イエスがガリラヤ地方で「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と説教してから、ある程度の期間が経過し、多くの人がヨハネから洗礼を受け、また主イエスの説教を聞いて心を揺り動かされる民衆も多くいるのに、未だにイスラエル民族の解放の時は来ていない、国の現実も人々の現実も大きな変化は見られない、メシアの到来に期待していた神の最後の裁きは未だ行われていない、神の国は本当に到来したのか、主イエスは本当に神の国を来たらせるメシア・キリスト・救い主なのか? そのような疑問に対して、ヨハネは今確かな答えを主イエスから受け取るのです。

では、その主イエスのお答えを読んでみましょう。【21~22節】。獄の中で自らの死を間近にしているヨハネに対して、主イエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます。ヨハネは来るべき方、メシアである主イエスのために仕え、主イエスを指し示すことが神から託された務めです。その務めを果たすことによってこそ、彼のすべての歩みは幸いに満ちた生涯になるのです。たとえ彼が間もなくこの世の権力者によって処刑されるとしても、ヨハネ自身にはやり残したことが多くあるように思われたとしても、彼がその短い生涯によって、また彼の死によって、来るべき方、メシア・救い主・主イエスを指し示したのであれば、彼の生涯は神によって満たされた、幸いな生涯となるのです。ヨハネの生涯が幸いに満ちた生涯となるために、そしてまた彼の死も神に祝福された死となるために、ヨハネは今主イエスのお答えをぜひとも聞かなければならないのです。

主イエスは、「行って、あなたがたが見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と二人の使者に命じます。主イエスは先駆者ヨハネの務めが決して無駄には終わらないことをご自身のみわざによって保証しておられます。主イエスが福音宣教の初めの数カ月、あるいは数年にガリラヤ地方でなされた一つ一つの救いのみわざが、主イエスが来るべきメシア・救い主であることの確かなしるしである、それをあなた方の目で今現実に見ていると主イエスは言われます。

22節に挙げられている主イエスによる病気のいやしや奇跡、救いのみわざが、そのすべてがこれまでのルカ福音書の中に語られているわけではありませんが、すぐ前の1節以下に書かれていた、死にかけていた百人隊長の部下が主イエスのお言葉によって、いわば遠隔治療によっていやされた奇跡と、11節以下のナインのやもめの一人息子をみ言葉によって生き返らせた奇跡もまたこれらのしるしの中に含まれることは言うまでもありません。

ルカ福音書がここで挙げているしるしの数々は、旧約聖書イザヤ書の中で、終わりの日、終末の時に、神の国が完成し、救いが完成する時に見られるしるしとして繰り返した語っている内容と一致しています。その2か所を読んでみましょう。【イザヤ書35章5~6節】(1116ページ)。【61章1節】(1162ページ)。イザヤが預言した神の国到来のしるしが主イエスによって確かに成就されているのをわたしたちは知らされます。

けれども、主イエスの時代に人々がメシアに期待していたことは、このイザヤの預言とは必ずしも一致してはいなかったと言わなければなりません。人々は来るべきメシアが到来し、神のご支配が始まれば、この世の悪しき権力は神の裁きを受けてすべて滅び、ローマ帝国は倒され、イスラエルはその支配から解放され、エルサレムが全世界の中心となって繫栄するであろうと考えていました。

しかし、主イエスがメシア到来と神の国の始まりのしるしとしてここで挙げている内容は一見してごく小さな、目立たないしるしのように思われます。だれの目にもはっきりと認識できるような世界規模の変化が起こっているというのではありません。パレスチナの一角で、何人かの病める人たちがいやされ、何人かの死んだ人たちが生き返らされ、何人かの貧しい人たちが神の国の福音を聞かされているという、小さな、目立たないしるしであるように思われるかもしれません。

しかし、この中に、すでに確かな神のご支配のしるしがあるのだと主イエスは言われるのです。神が愛と恵みをもって病める人や悩める人、重荷を負う人を顧みてくださり、救いのみ言葉を彼らにお語りくださることによって、そこにすでに神の救いの恵みが差し出されている。それによって、この世の悪しき力や富や権力を誇る者たちの滅びが宣言されている。ここにすでに、主イエスの十字架と復活の福音の勝利があり、その福音を信じる信仰者たちに約束されている救いと永遠の命がある。これが、主イエスのお答えなのです。この主イエスのお答えを聞きつつ、わたしたちはこの一年を歩み続けていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとはとこしえからとこしえまで変わることなく、尽きることもありません。あなたの永遠なる救いのご計画がこの年もみ心にかなって前進しますように。全世界において、あなたのみ名が崇められ、あなたのみ国が来ますように。

〇この教会と集められているわたしたち一人一人のこの一年の信仰の歩みの上に、あなたのお導きがありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。