2月25日説教「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

2024年2月25日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(30)

聖 書:申命記8章1~10節

    テサロニケの信徒への手紙一3章1~10節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である(二)」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白はキリスト教教理では「聖書論」というテーマに関連しています。「聖書論」では聖書をどのように理解し、読んでいるかということが取り扱われますので、その教会、教派の特色が最もよく表れると言ってよいでしょう。日本キリスト教会の特色もここの短い告白によく言い表されています。

 わたしたちの教会の信仰告白は聖書論の冒頭で、「聖書は神の言葉である」と、ごく短く、単純明快に告白しています。同じように「聖書は神の言葉である」と表現しても、それにある条件を付けたり、制限を設けたりする人たちがいます。あるいは、全く反対に「聖書は人間の言葉である」と理解する人たちもいます。分かりやすくするために、4つのグループに分けて考えてみます。

 「聖書は神の言葉である」と告白するわたしたちの立場から最も遠い立場は、「聖書は人間の言葉である」という理解です。この理解はさらに二つのグループに分けられます。一つは、キリスト教信仰を持っていない人にとっては、聖書は人間が書いた文書と理解されます。聖書を歴史的文書として研究し、古代社会の文化や生活の記録として読み、研究している学者もたくさんいます。あるいは、高い倫理観や道徳を教える書、人生哲学や処世訓の書ととらえる人もいます。彼らはそれなりに聖書を高く評価し、研究に値する文書として尊敬の念をもって聖書と取組んでいます。しかし、彼らは聖書から、神に対する信仰と主イエスによる罪のゆるしを受け取ることはありませんし、それを期待もしません。

 第二のグループとして、キリスト教徒の中にも、聖書を神の言葉ではなく、人間の言葉として理解している人が少なくはありません。彼らは聖書を、紀元前のイスラエルの民と紀元後の教会の民が、それぞれの時代の信仰的体験を記録し、そこに神の存在と真理とを見いだした信仰の証しの書であることを認めます。そこから、彼らなりの真理を発見したり、神の存在を信じたり、信仰を養ったりすることもあります。しかし、そうであっても、聖書はあくまでも人間が書いた人間の言葉であるので、時には自分が受け入れられない言葉や教えがあれば、それは無視したり、否定したりもします。結局、彼らには神に対する恐れはありませんし、真実の悔い改めもありませんから、その信仰は薄く、弱いものでしかありません。実は、今日、そのように人間の書として聖書を読み、そのような人間主体の信仰を持っているキリスト者が多いのではないかと思います。

 第一のグループも第二のグループも、聖書を神の言葉ではなく、人間の書と理解している限り、そこでは神の言葉としての真実の力も命も、また真実の救いの恵みも受け取ることはできません。預言者イザヤはイザヤ書55章8節以下で次のように告白しています。【イザヤ書55章8~11節】(1153ページ)。「聖書は神の言葉である」と信じ、告白する時にこそ、わたしたちもまたイザヤと共にこのように信じることができるのです。

 第二の立場は、聖書は神の言葉と人間の言葉との両者を含んでいるという理解です。続けて、第三の立場は、聖書は人間の言葉であるが、そこに聖霊が働くときに神の言葉になるという理解です。この第二と第三の理解については、神学的に厳密に分析しなければなりませんが、きょうはこの二つを一緒にして、ごく簡単に説明しておくにとどめます。

 先に述べた「聖書を人間の言葉」と理解する第二のグループが近年のキリスト者に多くなったのと同様に、この第二、第三の理解もまたプロテスタント教会に広がっているように思われます。この両者に共通している特徴は、「聖書は神の言葉である」という信仰があいまいであり、人間の恣意的な判断で、時には神の言葉になったり、時には人間の言葉であったり、その人の勝手な判断に左右されるという点です。

 ここには、近年の合理主義的理解と聖書を学問的に批判研究する方法が急速に進んだために、「聖書は神の言葉である」と断定することができなくなったという事情があるように思われます。聖書の中には合理的な説明がつかないことや、互いに矛盾しているような記述が少なからずあります。また、聖書を歴史の資料として分析したり、あるいは文学的な構造を研究したりすることによって、今までの伝統的は信仰理解とは違った意味を読み取ることもあります。さらには、この箇所は今日の社会の常識からはあまりにもかけ離れているから書き改められなければならないとか、聖書の中には古代社会の古い慣習や生活様式があり、それにとらわれているから、近代の社会常識によって再解釈されなければならないとか、実に多様な聖書理解が生み出されてきています。そのような中で、「聖書が神の言葉である」と単純に断定することが困難になっていることが背景にあると思われます。

 けれども、わたしたちはそれでも第四の立場を断固として貫き通し、「聖書は神の言葉である」と明確に告白しているのです。それには何の条件も付けず、何の制限も設けず、単純明快に「聖書は神の言葉である」と告白しているのです。その積極的な意味を、わたしたちは正しく理解しておくことが大切です。

 預言者イザヤは40章8節でこのように言います。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。新約聖書・ペトロの手紙一1章23節以下では、このイザヤの預言を引用しながらこのように言っています。【23~25節】(429ページ)。

 また、テモテへの手紙二3章15~16節にはこう書かれています。【15~16節】(394ページ)。さらにもう一箇所、テサロニケの信徒への手紙一2章13節で使徒パウロはこのように書いています。【13節】(375ページ)。

 以上のように、聖書はそのすべてのみ言葉が神の言葉であり、永遠に変わらない、生きた命の言葉であり、決して人間の意志や考えによって書かれたのではない。神の霊によって書かれた神の言葉である。それゆえに、聖書のみ言葉はわたしたちを罪から救い、新しい命を注ぎ込み、わたしたちをまことの命に生かす真理と命に満ちた神の言葉なのである。これがわたしたちの信仰であり、「聖書論」の中心です。

 では次に、そのような信仰と「聖書論」をさらに深めるために、いくつかの点について考えていきます。第一には、聖書の本来の著者は神ご自身であり、聖霊なる神であるということです。神は、それぞれに時代の信仰者や預言者たちをお用いになって、また福音書記者や使徒たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざについてお語りになり、それを記録させてくださいました。それゆえにペンを手にとって書いたのは預言者や使徒という人間でしたが、彼らは主なる神への信仰と服従をもって、聖霊なる神の導きによって書いたのであり、本来の第一の著者は神ご自身であると言えます。

神はまた、その時代の文化とか生活様式とか、あるいはその土地の言語をお用いになって、その時代の人々にお語りになりました。したがって、古い時代に書かれた神の言葉である聖書が、時代的・文化的制約を受けるということはあり得ることですが、しかしわたしたちはその時代の枠を超えて、永遠の真理と命とを持っている神のみ言葉から、神がその時代の人々に何を語られたのか、そして今、今日のわたしたちに何を語っておられるのかを、読み取っていくことができるのです。

 第二には、聖書が書かれたのが神の霊感によるのであり、人間が神の霊に導かれて書かれたように、聖書を読む場合にも神の霊によって、聖霊なる神の導きによって読まなければならないということです。わたしたちの心と肉体はみな罪の誘惑にさらされており、肉の弱さの中にあります。神のみ言葉を聞くことも、それを受け入れ、信じることもできませんから、聖霊によって暗い心が明るく照らされ、かたくなな心が打ち砕かれ、眠っている魂が目覚めさせられなければなりません。

 第三に、聖書が神の霊によって書かれ、また神の霊によって読まれなければならないというわたしたちの信仰は、先に第三の立場として紹介した、聖書は人間の言葉であるが、聖霊によって神の言葉になるという理解とは、根本的に違うということです。第三の立場の人たちには、そもそも聖書が神の言葉であるとの信仰が欠けているために、聖書に向かう姿勢として、神への恐れとか、罪びととしての砕かれた心とか、真実の悔い改めとかがありません。聖霊なる神に対する全き信頼と服従の信仰が欠けています。

 もう一つ付け加えておきたい点は、「聖書は神の言葉である」というわたしたちの信仰は、いわゆる「逐語霊感説」とは違うということです。「逐語霊感説」というのは、聖書の言葉の一字一句がすべて神の霊感によって書かれているので、すべて誤りがなく、文字どおりに理解され、信じられなければならないとする考えです。英語では「バーバル・インスピレィション」と言い、彼らは一般に根本主義者(ファンダメタリスト)と呼ばれます。

 しかし、この理解は、聖霊を重んじているようですが、実際には聖霊が聖書の言葉すべてに機械的に働くととらえられており、聖霊の自由な働きがむしろ妨げられていると言わなければなりません。

 最期に、カール・バルトの「神の言葉の三様態」について簡単に触れておきたいと思います。「様態」とは、様式、あるいは働き、性質という意味ですが、神の言葉には三つの様態があり、それらがいわば三位一体となって理解されるべきであるという説です。一つは、書かれた神の言葉である聖書。二つは、受肉した神の言葉である主イエス・キリスト。三つは、語られ、宣教された神の言葉である説教。この三つの神の言葉を一つの神の言葉として、互いに深い関連を持つものとして理解されることが重要です。

 わたしたちは主の日の礼拝ごとに、書かれた神の言葉である聖書の朗読とその解き明かしである説教を聞き、そこで受肉した神の言葉である主イエス・キリストと出会い、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、罪と死と滅びから解放され、来るべき神の国の民としての永遠の命の約束を受けることができるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをこの世の朽ちるパンによってではなく、永遠の命に至るあなたのみ言葉によって養い、育ててください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月18日説教「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

2024年2月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記1章1~14節

    使徒言行録7章17~22節

説教題:「エジプトで増え広がったイスラエルの人々」

 旧約聖書の最初の5つの書を「モーセ五書」と言います。伝説ではモーセが書いたとされていますが、モーセ以後の時代のことも書いてありますので、実際にはモーセ一人が著者ではなく、多くの伝承や資料などが編集されて今日のように5つの書のまとめられたと推測されます。ヘブライ語聖書では「モーセ五書」は「律法」に分類されます。マタイによる福音書5章17節で、主イエスが「わたしが来たのは、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と言われた時、「律法」とは「モーセ五書」を指していたと考えられます。

 「モーセ五書」の第二の書が、きょうから読み始める出エジプト記です。ヘブライ語聖書の書名は、その書の最初の言葉で言い表すのが一般的です。創世記は「初めに」がヘブライ語聖書の書名になっています。出エジプト記は「そして、これらがその名前である」が書名です。出エジプト記という書名が用いられたのは紀元前1、2世紀ころに完成したギリシャ語訳聖書の「エクソドス」に由来し、それが中国語聖書で用いられ、日本語訳聖書でも採用されました。ギリシャ語のエクソドスは「出立」「退出」を意味していて、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神によって救い出され、新しい地へと出立したというこの書の内容と一致しています。

 では、【1~5節】。口語訳聖書では、1節の冒頭に、「さて」という言葉がありましたが、新共同訳聖書では訳されていません。さきほど紹介したように、ヘブライ語では、「そして、これらがその名前である」と始まりますが、冒頭には、ヘブライ語で「ヴェ」と発音される小さな言葉があります。これは前の文章との続きを意味する接続詞の働きをしており、日本語では、「そして、さて」と訳されることもありますが、多くは訳されません。出エジプト記の冒頭にこの「ヴェ」という接続詞があるということは、前の創世記との関連性、連続性を意味しています。その連続性について、まず考えてみましょう。

 創世記と出エジプト記の連続性とは言っても、歴史的経過をたどれば、その間には400年以上の年月があります。そのことについては、すでに神がアブラハムに約束して語っておられました。【創世記15章13~14節】(19ページ)。エジプト滞在期間については、出エジプト記12章40節、41節では430年とあり、二つの説があったようです。古代社会では40年が一世代と考えられていましたので、ヤコブ・イスラエルの家族は10世代をエジプトの異郷の地で過ごしたことになります。

 出エジプト記1章1節の冒頭では、その400年余りの時の経過を、「さて、そして」という短い言葉で接続しているのですけれど、そこには長い時の経過を貫いて、あるいはその時の経過を越えて、密接な連続性があるということを、わたしたちは確認することができます。そこには、主なる神の永遠なる救いのご計画があると言ってよいでしょう。

 創世記50章の最後は、大飢饉のためにエジプトに移住した族長ヤコブ・イスラエルの死と、彼の12人の子どもたちのうち、先にエジプトに行っていて、父や兄弟たちをエジプトに呼び寄せたヨセフの死の記録をもって終わっています。それから400年余りの期間に、エジプトの地で神がどのようにヤコブ・イスラエルの一族を導かれたのか、彼らがどのような信仰生活を送ったのかについては、聖書の記録は全くありません。いわば、空白の400年と言えるかもしれません。

 けれども、その間にも、神はエジプトに移住したイスラエルの子孫を忘れておられたのでも、彼らをお見捨てになったのでもありません。神の救いのご計画が停滞するとか、中止されてしまうのでもありません。神が族長アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた契約、約束のみ言葉は無効になったのではありません。創世記50章24~25節で、ヨセフが遺言として語った言葉は、400年以上の年月を経ても、決して忘れられることも、無効になることもありません。それを確認しておきましょう。【24~25節】(93ページ)。神はこの空白の400年にも、約束のみ言葉の成就のために働いておられ、救いのみわざを前進させ、イスラエルの子孫を導いておられたのです。

 そのことは、出エジプト記のきょうのみ言葉からもうかがい知ることができます。【6~7節】。多くの子どもが生まれ、子孫が増えることは神の祝福のしるしです。神は天地創造の第六日目に人間を創造され、このように言われました。創世記1章28節にこう記されています。「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』」。また、神がアブラハムにこのように約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12章2節)。同じような約束のみ言葉を、その子ヤコブも、その子イサクも繰り返し聞きました。その神の約束のみ言葉は、エジプトでの空白の400年間にも、決して忘れられてはいませんでした。

 創世記から出エジプト記への連続性は、イスラエルの側からも確認することができます。1節の「ヤコブ、イスラエル」は明らかに一人の族長の名前です。彼の12人の子どもたちとその家族70人も個人の人数として数えられています。ところが、7節の「イスラエルの人々」は民族の名前であるように思われます。9節の「イスラエル人」12節以下の「イスラエル人」は明らかに民族の名前になっています。エジプトという異教の国、言葉も生活習慣も、もちろん信じる宗教も違う国で、しかも400年、10世代を重ねた彼らは、その間ずっと、お一人の主なる神を信じる一つの神の民として生き、一つの信仰共同体として成長していったのだということをわたしたちは推測できます。彼らは、アブラハム、イサク、ヤコブに繰り返して語られた神の契約、神の約束のみ言葉を信じ続けてきたのです。6節に、【6節】と書かれていましたが、幾世代にもわたって人間の生と死とが繰り返されていく中で、しかしその人間の死をも超えて、神の救いのご計画は続けられていきました。それゆえに、幾世代にもわたって、神を信じる神の民もまた生き続けることができたのです。

 次に、【8~14節】。ヨセフはわたしたちが創世記で読んできたように、全世界を襲った7年間の大飢饉の際に、神から与えられた知恵によってエジプトを飢饉から救い、それだけでなくエジプトに大きな富をもたらしました。ヨセフはエジプト王ファラオに次ぐ地位に就き、当時エジプトでヨセフの名前を知らない者はいないほどでした。しかし、長い年月とともに人間の功績は忘れ去られていきます。主なる神はイスラエルの民を決してお忘れにはなりませんでしたし、イスラエルの民もまた主なる神を忘れませんでしたが、この世のことはすべて移り行き、過ぎ去り、消え去っていきます。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とイザヤ書40章に書かれてあるとおりです。主なる神のみ言葉とそれを信じる神の民はいつの時代にも固く立つことができます。

 「ヨセフのことを知らない新しい王」はだれを指すのか。それを特定することが出エジプトの年代を決定することになります。今日多くの学者はこう考えます。まずヨセフとその家族がエジプトに移住した年代ですが、それはエジプト第15王朝か第16王朝と推測されています。紀元前1720年から1570年になります。この王朝はヒクソスという外国からの侵略者がエジプトを支配していました。ヒクソスはイスラエルの民ヘブライ人と同じセム系の人種でしたので、ヨセフたちがエジプトに移住してよい待遇を受けることができたのではないかと考えられるからです。また、ヨセフがエジプトで高い地位に就くことができたのもそのことが関係していたと考えられます。

 新しい王とは、ヒクソス王朝が終わり、新王国時代と言われる第18王朝以後の王であろうという点では、学者の意見はほぼ一致しています。イスラエル一族の滞在期間が400年余りということも考慮に入れれば、イスラエルを迫害した王は、第19王朝の創始者セティ一世(BC1309年~1290年)であり、出エジプトの時の王は次のラメセス二世(BC1290年~1224年)ではないかとする説が有望です。

 いずれにしても、エジプト側には全く記録がないので確かではありません。出エジプトの出来事は、イスラエルの側にとっては、民族の誕生であり、神の大いなる救いのみわざですが、エジプト側にとっては取るに足りないことであり、むしろ屈辱的な出来事ですから、その記録を完全に無視したということはあり得ることです。

 新しいエジプトの王は、増え広がり、大きな民となったイスラエルを恐れ、彼らを強制労働に駆り立てます。それによって、彼らの体力を奪い、出産能力を減少させようとしたのかもしれません。しかし、エジプトの王は、イスラエルの目覚ましい成長と強さがどこから来るのかをまだ知りません。もしそれが、人間の中から出てくる民族意識とか、団結力とか、勤勉さに由来するものであれば、人間の力で抑え込むことができたかもしれません。けれども、イスラエルは苦しめられれば苦しめられるほどに、ますます大きく、強くなっていきました。イスラエルの生命力、その逞しさ、その忍耐力は、主なる神から来るものであったかからです。神が彼らと共にいてくださったからです。

 ここでわたしたちが気づかされることは、エジプトの王はイスラエルの民が増えることを恐れ、戦争が起これば彼らが敵に回るかもしれないと恐れ、彼らを強制労働によって迫害することで、彼らを押さえつけ、その力を奪おうとしているのですが、実はそれは主なる神に対して戦いを挑み、主なる神の救いのご計画に抵抗していることなのだということです。エジプトの王自身はまだそのことに気づいてはいませんが、イスラエルの人々はその信仰によって、主なる神が共にいてくださるのであれば、エジプトの国家権力によっても自分たちが決して弱ることなく、消し去られることもないことを信じています。エジプトの王は、増え広がるイスラエルの人々を恐れています。奴隷の民を恐れています。しかし、イスラエルの人々は主なる神のみを恐れ、主なる神のみに仕えています。ここにすでに、神の民の最終的な勝利が約束されていることをわたしたちは知らされます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうもまたあなたの永遠なる救いのご計画の中にわたしたちを招き入れてくださいましたことを感謝いたします。わたしたちの小さな群れと、わたしたち一人一人をも、どうか主イエス・キリストを信じる信仰によって固く立たせてください。

○天の神よ、先日わたしたちの群れに属する愛する一人の姉妹が、地上のすべての歩みを終えて、あなたのみもとへと召されました。あなたがこの姉妹に信仰を与え、この教会の交わりにお加えくださいましたことを感謝いたします。どうか、ご遺族の上に天からのお慰めと平安が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月11日説教「異邦人に開かれた救いと命への道」

2024年2月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~9節

    使徒言行録11章1~18節

説教題:「異邦人に開かれた救いと命への道」

 カイサリアに駐留していたローマ軍の百人隊長コルネリウスとその一族がペトロの説教を聞いていた時、彼らに聖霊が注がれ、主イエスを信じる信仰が与えられ、洗礼を受けてキリスト者となったという出来事を、使徒言行録10章は詳しく描いています。神に選ばれた民であるユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれ、信仰が与えられ、カイサリアに異邦人の教会が誕生したというこの出来事は、紀元1世紀の初代教会にとって非常に大きな意味を持っていました。教会がユダヤ人から異邦人へと拡大されていくきっかけとなりました。しかしまた、そのことは初代教会全体にとっての大きな問題、課題を生み出すことにもなりました。

 11章では、ペトロがエルサレムに帰った時、エルサレム教会のユダヤ人指導者たちがカイサリアでの異邦人教会誕生のことを耳にして、ペトロの行動を非難したことと、それに対するペトロの弁明が報告されています。ここには、初代教会で問題になったいくつかの課題が取り上げられています。その課題に注目しながら、学んでいくことにしましょう。

 【1~3節】。「使徒たちとユダヤにいる兄弟たち」とは、具体的にはエルサレム教会の指導者たちを指すと考えられます。エルサレム教会にはペトロを除いた12使徒と主イエスの兄弟であるヤコブがいました。エルサレム教会は世界最初に誕生した教会として、すべての教会にとっての母なる存在でしたから、その後に誕生した諸教会はエルサレム教会との結びつきを重んじました。8章4節以下にサマリア教会が誕生したことについて書かれていましたが、その時にも、エルサレム教会からペトロとヨハネがサマリア教会に派遣されて、母なる教会としての連携を確認したことが14節に書かれていました。きょうの箇所でも、今度はペトロがカイサリアの異邦人教会誕生の報告をエルサレムの母教会にするという役割を担っています。

 1節に「異邦人も神の言葉を受け入れた」とあります。10章45節、46節でも、「聖霊の賜物が異邦人の上にも注がれる」、「異邦人が異言を話し」と書かれています。イスラエルの民ユダヤ人は先に神に選ばれ、神と契約を結んだ特別な民であることを誇りとし、自分たち以外の民を「異邦人」と呼んでいました。ところが、異邦人コルネリウスの家で、その異邦人にも聖霊が注がれ、彼らが主イエスを救い主と信じる信仰が与えられるという、驚くべき出来事が起こったのです。神の救いのみわざが先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、神に選ばれていなかった異邦人にも拡大されたのです。

 では、神の救いのご計画が途中で変更になったということなのでしょうか。先に選ばれたイスラエルの民、ユダヤ人はこの驚くべき出来事をどのように理解したらよいのでしょうか。きょうの箇所では、そのことについては直接取り挙げられてはいません。エルサレム教会の指導者たちが問題に取り上げたのは、ペトロが異邦人の家に入り、彼らと一緒に食事をしたということについてでした。ペトロの弁明の後半になってから、16節以下で主イエスのお言葉を引用しながら、聖霊の賜物と主イエスの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも与えられたということをペトロは語っています。

 そこで、わたしたちはきょうのテキストでは直接には説明されてはいませんが、神の救いのみわざがユダヤ人から異邦人へと広げられていったことについて、先に考えてみたいと思います。これは、神の救いのご計画の変更では決してありません。わたしたちが旧約聖書を読むと明らかなように、神は先にイスラエルの民をお選びになりましたが、それは当初から全世界のすべての民の救いを目指してのことでした。神の天地創造と人間創造の時から、神はすべての人間の救いをご計画しておられました。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代にも、出エジプトのモーセの時代にも、ダビデ王の時代にも、その時代からすでに神は全世界のすべての人々を救おうとしておられました。預言者たちの預言の言葉、詩編の言葉、すべての旧約聖書の言葉が、そのことを証ししているということを、わたしたちは読むことができます。

 そして、ついに時至って、主イエス・キリストの誕生とその救いのみわざによって、神は全人類のための救いのみわざを成就してくださったのです。それゆえに、主イエスの到来によって、選びの民イスラエルと異邦人との区別は実質的に消滅したことになります。主イエス・キリストの福音が語られるところでは、ユダヤ人と異邦人の区別、男と女の区別、主人と奴隷の区別、その他すべての人間社会の中にある区別や差別は取り除かれたのです。すべての人は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされなければならない罪びとであり、また同時に、事実罪ゆるされ、救われている人間なのです。

 では次に、エルサレム教会の指導者たちがここで問題にしていることについて見ていくことにしましょう。2節で彼らのことを「割礼を受けている者たち」と紹介しています。ユダヤ人の男子はみな生後8日目に割礼の儀式を受けました。これは、神が創世記17章でアブラハムに命じた神との契約のしるしでした。アブラハム以後のすべてのユダヤ人男子はみな割礼を受けていますから、ここでわざわざ「割礼を受けている者たち」と言われているのは、特別に割礼を重んじている人たちを指していると思われます。この人たちは、ユダヤ人が洗礼を受けてキリスト者になってからも、旧約聖書で教えられている律法を厳格に守り、割礼の儀式も受け継がなければならないと考えていたようでした。

 ここでは、割礼に関する問題が直接に取り挙げられているわけではありませんが、そこから新たな問題、課題が生じてきました。では、キリスト者となったユダヤ人から生まれた子どもも割礼の儀式を受けなければならないのか。さらに問題なのは、異邦人でキリスト者になる人は、先に割礼を受けてユダヤ人の仲間入りをしてから洗礼を受けるべきなのか、あるいは洗礼のあと割礼の儀式を受け、神の契約の民であるイスラエルの仲間入りをしなければならないのかどうかということです。パウロの書簡を読むと、ガラテヤやコリントなどの初代教会の中で割礼をめぐってのこのような議論、論争が少なからずあったということが分ります。

 それに対するパウロの答えも、ユダヤ人と異邦人の区別に関する答えと同様です。すなわち、主イエス・キリストの十字架によって与えられる救いの福音は、人間の側にあるすべての区別、差別をはるかに上回る大きな、豊かな恵みであるゆえに、もはやそれらの違いはすべて解消された。主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰だけで充分である。すべての人はその信仰によって、その信仰によってのみ救われる。したがって、割礼を受けるかどうかは救いにとっては全く重要ではない。これがパウロの答えでした。

 さて、本論に戻りましょう。エルサレム教会の割礼を重んじていた人たちが問題にしたのは、ペトロがカイサリアで割礼を受けていない異邦人であるコルネリウスの家に入り、異邦人たちと一緒に食事をしたことについてでした。ここには、今説明した割礼に関する問題とともに、旧約聖書に定められていた「食物規定」と言われる律法を守る義務が問題にされています。これについては以前にも説明しましたが、申命記やレビ記にはユダヤ人が食べてはならないとされる宗教的に汚れた生き物についての規定があり、ユダヤ人はそれを厳しく守ってきました。

 しかし、異邦人はその規定を知りませんから、宗教的に汚れているとされる動物を日常的に食べ、また触っています。そのような異邦人自身にも、宗教的な汚れが染みついているので、異邦人の家に入ることはもちろん、一緒に食事をすること、またその体に触ったり、あいさつをすることでさえも、敬虔なユダヤ人は避けるべきだと考えていました。ペトロはその律法を守っていないのではないかと、エルサレム教会の指導者たちは非難したのです。

 それに対するペトロの弁明が5節から始まります。ペトロはここで、彼がこれまで体験したこと、それは主なる神の導きにより、主なる神が彼に働きかけてくださったことなのですが、それを語っています。5節から14節までの彼が見た幻については10章9節から22節に書かれていた内容とほぼ同じです。15節から17節は10章44節以下に書かれていたことの繰り返しです。

 けれども、全く同じ繰り返しではありません。10章では、ペトロが経験したことが客観的に描かれえているのに対して、この章ではペトロ自身が自分の経験として語っていますから、より生き生きとした表現になっています。彼が経験したことがいかに大きな意味を持っていたかということが、ここからも分かります。

 ペトロが見た幻と、その後の神からの語りかけによって、神は今やすべての生き物を清められた、それとともに、神はすべての民を清められ、ご自身の民とされ、すべての人を主イエス・キリストの救いへとお招きになっておられるということを、ペトロは理解したのです。主イエス・キリストがすべての人の救い主としてこの世においでくださったことによって、もはやユダヤ人と異邦人の区別は必要なくなりました。したがって、割礼の役割が終わったと同様に、「食物規定」の役割も終えたのです。主イエス・キリストの到来によって、旧約聖書の律法はすべて完全に全うされ、成就されました。それゆえに、律法を守ることによって救われるという道はもはやなくなったのです。すべての人は主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、ただそれによってのみ救われるのです。

 【18節】。カイサリアに異邦人の教会が誕生したことはすべて神のお働きです。聖霊なる神がペトロに働きかけ、また異邦人であったコルネリウスに働きかけ、ペトロの説教を聞いたすべての異邦人たちにも働きかけ、彼らに罪を悔い改め、主イエスを救い主と信じる信仰を与えてくださったのです。

 このペトロの報告を聞いて、エルサレム教会の指導者たちは反論する言葉を見いだせずに、静まったと書かれています。だれも聖霊なる神のお働きを阻むことはできません。聖霊なる神はあらゆる人間の壁や困難や不信仰をも超えて、救いのみわざを推し進められます。すべての人の救いと命の道を切り開かれます。わたしたちはこの神を信じ、この神にお仕えしていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いの恵みは全世界のすべての人に与えられています。どうか、世界各地に建てられている主の教会がそのことを力強く証ししていくことができますように、今も生きて働き給う聖霊を、この日本の地にも、秋田の地にも、豊かに注いでください。

○天の父なる神よ、重荷を負って苦労している人たち、道に迷い悩んでいる人たち、生きる希望を失いかけている人たち、戦争や災害に巻き込まれ痛みと悲しみの中にある人たち、一人一人の上にあなたの顧みがあり、希望と慰めを、勇気と喜びを、そして和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月4日説教「神の国にふさわしく生きる」

2024年2月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~15節

    ルカによる福音書9章57~62節

説教題:「神の国にふさわしく生きる」

 ルカによる福音書9章57節に、「一行が道を進んで行くと」と書かれています。「道を進む」とは、51節で、【51節】と書かれていることと関連しています。つまり、主イエスがエルサレムへ向かう道の途中にあるということです。57節以下では、「従う」という言葉が57節と59節、そして61節に用いられており、「主イエスに従う」ということが主題になっていますが、ルカ福音書はその主題を主イエスのエルサレム行きと関連付けて語っているのです。すなわち、「主イエスに従う」とは、エルサレムで苦しみを受け、十字架につけられる主イエスに従うことなのだということを、ルカ福音書は特に強調しているのです。

 では、そのことに注目しながら、主イエスに従って生きるわたしたち信仰者の生き方はどうあるべきなのかを、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。57節以下には、主イエスに従う志を持った3人が登場します。一人は、自分の方から主イエスに従いたいと申し出ました。しかし、主イエスはその人に、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われ、あたかもその人の志をくじくような、あなたに従いたいとの願いを拒絶するようなお言葉を語られました。

 二人目は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになりますが、その人は「その前に、亡くなった父を葬りに行かせてください」と答えています。三人目は、主イエスに従って行きたいが、まず家族に別れを言ってからにしますと申し出ます。主イエスはこの二人目と三人目の人に対して、そのような従い方では本当にわたしに従うことにはならないと言われ、弟子になりたいという二人の申し出を拒絶するような言い方をしています。

 以上から分かるように、この三人はいずれも主イエスに従いたいとの願いや志を持ってはいましたが、正しい姿勢で、正しい仕方で主イエスに従って行くことができなかったということが明らかにされています。

では、主イエスに従うということは、それほどに難しいことなのか。高いハードルを越えるようにして、高く強い志と覚悟を持っていなければ、主イエスに従って行くことはできない、主イエスの弟子になることはできないと、主イエスはここで教えておられるのか。そのように考えるかもしれません。

けれども、そうではありません。主イエスがここで教えておられることは、主イエスに従うことの困難さについてではありません。また、主イエスに従うには、わたしたちの側に大きな決断や高い志が必要だということでもありません。説教の最初に、51節と57節の冒頭のみ言葉で確認したように、主イエスご自身がわたしたちに先立って、堅い決意をもって、先頭に立たれ、エルサレムに向かって行かれたのです。主イエスがわたしたちのために苦難を受けてくださり、救いの道を開いてくださったのです。そして、わたしたちをその道へとお招きくださっておられるのです。わたしたちは主イエスによって備えられた道を、主イエスが先立って進まれた道を、主イエスのあとに従い、主イエスに導かれて歩むのです。

そのことをあらかじめ確認したうえで、きょうのみ言葉をさらに深く学んでいきましょう。まず、きょうの箇所でテーマになっている「主イエスに従う」ことの「従う」という言葉ですが、この言葉の本来の意味は、「だれかのあとについて行く、追従する」という意味で、そこから「服従する、従順に従う」という意味になりました。ほとんどは福音書の中にあり、「主イエスに従う」という文脈では70回用いられているということです。ルカ福音書でも、これまでに何回も用いられてきました。5章10節では、主イエスがシモン・ペトロに、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われると、彼はすぐに「すべてを捨てて主イエスに従った」と書かれていました。また、5章27節では、主イエスがレビという徴税人をご覧になって、「わたしに従いなさい」とお命じになると、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、主イエスに従った」と書かれていました。

ここでも、注目すべきは、主イエスによって弟子として選ばれたペトロやレビの側の決意とか志とか、あるいは資格とか能力とかは全く問題にされておらず、主イエスの強く権威ある招きのみ言葉だけが強調されているということです。きょうのみ言葉を理解するうえでも、そのことは参考になるでしょう。

さて、きょうの箇所に登場する3人の中の最初の人は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と主イエスに申し出ています。ここには、この人の並々ならぬ覚悟と決意が言い表されています。どんなに困難な道でも、どんな苦労でも、わたしは耐えて、あなたに従いますから、あなたの弟子にしてください。彼はそのように表明しています。

マタイ福音書8章19節では、そのように申し出たのが、ある律法学者であったとなっています。おそらく彼は主イエスを巡回伝道者と考え、多くの人々をひきつけ、また多くのいやしのみわざをなさっておられるのを見て、自分もまたそのように人々から尊敬を受ける巡回伝道者になりたいと願っていたのかもしれません。彼がこの世での称賛とか名誉とかを期待し、それによって自分の生活の安定を求めていたらしいということは、58節の主イエスのみ言葉からも推測されます。

 「人の子」とは、主イエスがご自分のことを指して言われる場合にしばしば用いる言い方です。主イエスは神のみ子であられましたが、天から下ってこられ、人の子となられ、人間の肉をまとわれました。わたしたちの罪と弱さのすべてをご自身に担われ、父なる神のみ前で徹底的に貧しくなられ、弱くなられ、ご受難と十字架への道を進まれました。そのような「人の子」主イエスには、野の獣や空の鳥にでさえも与えられている休息の場すらなく、この世での生活の保障も、命の保証すらないと主イエスは言われます。否むしろ、罪びとたちのためにご自身の命を捨てることこそが、ご自身の使命であるということを、主イエスはここで語っておられるのです。

 それゆえに、主イエスのあとに従う弟子たち、わたしたち信仰者は、この世での名誉や報酬を期待するべきではなく、あるいはまたこの世での生活の安定とか喜び、楽しみを求めるべきでもありません。だれしもが追い求めているこの世での名誉、報酬、喜び、楽しみ、それらよりもはるかに尊く、はるかに祝福された宝、十字架の主イエスから与えられる朽ちることのない、永遠なる宝を約束されているのだということを、主イエスはここで暗示しておられのです。

 第二の人の場合は、主イエスの方から「わたしに従いなさい」とお招きになります。それに対してこの人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と応答しています。この人も主イエスに従う用意も決意も十分にあり、主イエスを自分の人生の主と信じる信仰もあるように思われました。けれども、その前に、彼にはしなければならないことがありました。彼は今、亡くなった父親の葬儀の途中です。それを済ましてから、主イエスに従うつもりです。モーセの十戒に、「あなたの父と母を敬え」と命じられています。愛と敬意をこめて親を葬ることは子どもの重要な務めであり、何をおいてもまずしなければならない子どもの大切な義務と考えられていました。

 けれども主イエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と言われます。これはどういう意味でしょうか。ここでも、わたしたちはエルサレムに向かう途中にある主イエスを思い起こさなければなりません。主イエスはエルサレムでわたしたちを罪から救うために苦しみを受けられ、十字架で死なれ、三日目に復活されました。それによって主イエスはわたしたち罪びとたちの罪と死とを滅ぼされ、罪の奴隷からわたしたちを贖い、死のとげを抜き取られ、罪と死とに完全に勝利されたのです。

 それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることはそれまでとは全く違った意味を持つようになりました。ヨハネ福音書11章で、主イエスはベタニア村のラザロの死と葬儀に直面された時、ラザロの姉マリアや葬儀に参列している人たちがみな泣いているのをご覧になって、「心に憤りを覚えられた」と33節と38節に二度繰り返されています。そして、墓に納められていたラザロに「ラザロ、出てきなさい」とお命じになると、彼は墓から生き返って出てきたことが記されています。主イエスは、死の前で何もなしえず、死に屈服するほかない人々に対して、激しい憤りを覚えられました。そのようにして、主イエスはただお一人死と戦われ、そのためにご自身の血を流されるほどに死と格闘され、そしてついには死に勝利されたのです。それゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、死者を葬ることは新しい復活の命への入口なのです。信仰者にとっての葬儀は、人間の命の敗北の儀式なのではなく、新しい復活の命への招きなのです。

 主イエスが続けて、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」とお命じになったのは、そのことを意味しています。罪と死が支配するこの世の国からあなたは救い出され、常に神が共にいてくださる救いの恵みと命に満たされた神の国へと、あなたは招かれているという福音を語り伝えることこそが、主イエスに従う信仰者の新しい使命になるのです。

 三番目の人は、自分の方から、「主よ、あなたに従います」と申し出ますが、その前に家族に別れを言いに行かせてくださいと言います。先の二人と同様に、彼にも主イエスに従う決意と覚悟はありました。でも、まだこの世の人間関係に縛られています。この世でやり残した仕事やこの世での肉の欲望に未練を持っています。

 しかし、主イエスは言われます。「神の国にふさわしく生きなさい」と。主イエス従うとは、主イエスによってl始まった新しい神のご支配に生きることです。この世の朽ちるものによって生きるのではなく、永遠に変わることのない神の命のみ言葉を聞き、主イエスによって与えられた救いの恵みに生きることです。終わりの日に完成される神の国に、今すでに招かれている者として、いわば終りの日を先取りするようにして、終わりの日の神の国の完成を基準にして生きることです。エルサレムで十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、父なる神の右に座していたもう主イエスが、わたしたちのためにすでに開いてくださり、備えてくださった道を進むこと、それが主イエスに従うわたしたち信仰者の生き方です。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ国の民としてお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、わたしたちの目と心とを来るべきみ国へと向けさせ、天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼむことのない財産へと向けさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。