10月27日説教「マリアの賛歌」

2019年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上2章1~11節

    ルカによる福音書1章46~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章46節以下は「マリアの賛歌」と言われています。ラテン語訳聖書の冒頭の「あがめる」という言葉から「マグニフィカート」と呼ばれ、古代から教会音楽の中で歌われてきました。きょうはこのみ言葉から、主イエスの誕生の意味と主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 【46~47節】。このマリアの賛歌は、すぐ前のエリサベトの祝福の言葉に対するマリアの応答として歌われています。前の場面で、洗礼者ヨハネの母となるエリサベトと主イエスの母となるマリアとの出会いが描かれていました。その中で、二人の母になろうとしている婦人の胎内にいる洗礼者ヨハネと救い主・主イエスとがすでに出会い、あいさつを交わしているという驚くべき出来事が起こっていることをわたしたちは聞きました。そのときエリサベトは42節以下でこのように告白します。【42~45節】。このエリサベトの信仰告白に対するマリアの応答としての信仰告白が46節以下のマリアの賛歌です。

 日本語の翻訳では、45節と46節との間に数行の空間が設けられ、46節からのマリアの賛歌が独立してあるような印象を受けますが、これもまだ二人の婦人の出会いの場面の続きです。神に選ばれて、全世界の救い主・主イエスの母となろうとしているマリアが聖霊によって身ごもったことの確かなしるしとして、すでに神の奇跡によって洗礼者ヨハネを身ごもっている親族のエリサベトと出会い、二人の胎内にいるヨハネと主イエスとが出会うという出来事を通して、45節に書かれているように、「主なる神のみ言葉が必ず実現すると信じた人の幸い」をマリアはここで歌っているのです。マリア自身は、自分のおなかの中に新しい命が芽生え始めたという自覚はまだ全くないけれども、親族エリサベトにすでに起こっている奇跡を見て、まだ実現していない神の約束のみ言葉を信じた、それがマリアの幸いなのです。まだ見ていない事実を確認すること、それがマリアの信仰なのです。

 したがって、46節以下のマリアの賛歌は、まだ起こっていない神のご計画、まだ成就していない神の救いのみわざが、すでに起こっている確かな事実であるということを告白しているのです。わたしたちもまた、マリアの賛歌のみ言葉を聞いて、「神がお語りになったみ言葉が必ず成就する」と信じる、幸いな信仰へと招かれています。

 賛歌の冒頭で、「わたしの魂は、わたしの霊は」と繰り返していますが、これは強調する言い方です。わたしの心も体も、わたしの全身で主をあがめる。わたしの全存在をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしの生活全体を通して、わたしの命をかけて、主なる神をあがめ、喜びたたえるという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。

 「あがめる」とは大きくするという意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくし、他のすべてを小さくするということであり、わたしを含めてわたしの周囲にあるすべてのものを、主なる神のみ前で限りなく小さくするということです。特に、わたし自身を主なる神のみ前に小さくする、自らを貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけをあがめ、喜びたたえる。そうすることによって、すべての良きものを主なる神から期待し、神が最も良き道をわたしのために備えてくださることを信じ、神の約束のみ言葉がすべて成就することを信じる。それが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。またそれが、主イエス・キリストの救いに招かれているわたしたちがなすべきことです。わたしたちが自らを小さくし、低くすればするほどに、神はわたしたちによってあがめられるようになり、また神から与えられる恵みと祝福は豊かになり、神からの幸いに満たされるようになるのです。

 47節でマリアは神を「救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つは、マリアは救い主を必要としている罪びとであるという告白です。マリアは全世界の唯一のメシア・救い主である主イエスの母となるために神によって選ばれました。それゆえに、42節にあったように、「女の中で祝福された方」であり、マリア自身も48節で、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌っていますが、しかし、彼女が祝福された人であるのは、彼女の胎内に宿っている神のみ子・救い主なる主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、むしろ彼女自身は38節と48節で「わたしは主のはしためです」、わたしは貧しく低きに住む者、罪びとに過ぎませんと繰り返し告白しているのです。このようなマリアの謙遜な信仰こそが、彼女を祝福された、幸いな人としているのです。

 「救い主」のもう一つの意味は、マリアがあがめ、喜びたたえている神は救いの神であるということです。もちろん、マリアにとってそうであるだけではありません。全世界のすべての人にとって、わたしたちにとっても、神は救いの神であり、わたしたちを罪から救ってくださる神であるからこそ、主イエスの父なる神は人々によってあがめられ、喜びたたえられるのです。わたしたちが信じている主イエス・キリストの父なる神は救いの神です。他の何らかの神ではありません。商売繁盛の神とか、地の豊作をもたらす神とか、健康や交通安全の神とか、そのような類(たぐい)の神ではありません。そのような神々は、一時的に、一部の人に、あがめられることがあるとしても、すべての人にとっての永遠なる、そして唯一の神ではありません。わたしたちが全生涯を貫いて、わたしの全存在をもって、わたしの命をかけてあがめるべき神は、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される神であり、そのために独り子なる主イエスをこの世にお送りくださり、その尊いみ子を十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪びとを愛してくださる救いの神、この神をこそわたしたちはあがめ、喜びたたえるべきです。また、そうするようにと招かれています。

 次に、マリアは神をあがめる理由を具体的に語ります。【48~50節】。「身分が低い」とは、マリアの社会的な地位の低さ、あるいは経済的な貧しさを指していると思われます。マリアは26節にあるようにガリラヤ地方のナザレの町の出身の、おそらくは農家の娘でした。神はそのようなマリアをみ心にとめ、メシア・救い主の母としてお選びになったのです。

 当時、ガリラヤ地方は多くの異邦人(ユダヤ人以外をこう呼ぶ)が住み、民族と宗教の純粋性を重んじるユダヤ人からは異邦人の地と呼ばれ(イザヤ書8章23節、マタイ福音書4章15節参照)、軽蔑されていました。神はイスラエルの首都であったエルサレムの都に住む、王家の娘とか、宗教家、政治家の娘ではなく、低く貧しいナザレのマリアをお選びになったのです。ここに、51節以下で語られる大いなる逆転が、すでにマリア自身の選びの中で起こっていることに気づかされます。【51~53節】。

 神はマリアを救い主の母としてお選びになることによって、そして、このマリアからお生まれになる主イエスの誕生によって、この世界とわたしたちの人生に、大いなる逆転を起こしたもうのです。神を恐れることなく、思い上がる者たちや、自らを誇っている傲慢な者たちが主なる神のみ力によってその所から追い散らされ、この世の権力にしがみついている者たちはその座から引き下ろされ、富に頼る者たちが空腹のままで追い返されるということが起こり、反対に、身分の低い人、この世で誇るべきものを何一つ持たない人が神の所にまで引き上げられ、飢え、乾き、ひたすらに神を慕い求めるほかにない人が、神から与えられる最も良きもので満たされるという、大きな逆転が起きるのです。このことについては、後でまた触れることにしましょう。

 48節でマリアは、彼女自身に大きな逆転が起こったのは「主がわたしに目を留めてくださったからだ」と告白しています。目を留めるとは、神がみ心にかけてくださり、顧みてくださったということです。だれも目を留めることがないような、小さく貧しいものに、神は目を留めてくださいます。人間の目は多くの場合、大きなもの、高いもの、華やかなものに向けられます。そうでないものは見捨てられ、時に目を背けられます。けれども神の目は隠されているもの、この世にあっては虐げられているもの、低きにあるものに注がれます。そのようなものを神は見いだしてくださるのです。神の目には何も隠されてはいません。そして、そのようにして神の目によって見出された人こそが、いつの世にあっても幸いな人と言われるのです。

 48、49節ではマリア個人に与えられた神の恵み、慈しみについて歌われていますが、50節からはイスラエルと全世界のすべての人に与えられる神の恵みと慈しみが歌われます。マリアの信仰は旧約聖書の民イスラエルから、新約聖書の民教会へと受け継がれます。それは、マリアの胎内に宿っておられるメシア・救い主であられる主イエスが、旧約聖書の民イスラエルによって長く待ち望まれ、新約聖書の民教会によってその救いの福音が全世界に告げ知らされていくことに似ています。

 【50節と54節】。「神の憐れみ」とは、神の恵みと同様に、それを受けるに値しない人に無償で与えられる神の愛に満ちたご配慮のことです。それゆえに、だれもがマリアのように、神への大きな感謝と恐れとをもってそれを受け取るほかにありません。神を恐れ、神のみ前に自らを低く貧しくする人こそが、いよいよ豊かな神の恵みと憐れみとを受け取ることがゆるされるのです。

 わたしたちはだれもが神の憐れみを必要としています。マリアは今はまだ年が若く、貧しいけれども、やがて成長して豊かになり、神の憐れみを必要としないときがくるというのでは決してありません。いやむしろ、信仰の道を進めば進むほどに、礼拝の回数を増せば増すほどに、頭に白髪が増えるごとに、いよいよ神の憐れみを必要としている自分であることを悟り、神の憐れみなしにはきょうの一日がないことを知って、神を恐れる人となる、そのような信仰へとわたしたちは招かれているのです。

 最後に、51~53節で歌われていた大いなる逆転について、それがいつどのようにして起こるのかを考えてみましょう。先にわたしたちは、マリアの選びの中ですでにそのことが起こっていると言いましたが、そのことが決定的に起こるのは主イエスのご生涯と十字架の死によってであるということを付け加えなければなりません。

 主イエスはルカ福音書6章の弟子たちへの説教の中でこのように言われました。【6章20節b~26節】(112ページ)。主イエスは幸いがないところに天の神からの幸いを創り出してくださいます。しかし、この世の幸いを求め、それで満足する者からは神は遠ざかるほかありません。

 もう一か所を読んでみましょう。【フィリピの信徒への手紙2章6~11節】(363ページ)。これこそが、神が起こしたもうた最も偉大なる逆転です。この主イエス・キリストの十字架の福音を信じる人に、神は滅びから救いへ、死から命への大いなる逆転の恵みをお与えくださるのです。

 (祈り)

10月20日(日)説教「福音の信仰のための戦い」

2019年10月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編24篇1~10節

    フィリピの信徒への手紙1章27~30節

説教題:「福音の信仰のための戦い」

 フィリピの信徒への手紙1章27節で、パウロはフィリピ教会の信徒たちに対する勧めの言葉を語ります。【27節a】。12~26節では、パウロは自分の身に起こったことについて語ってきましたが、ここからはフィリピ教会に対して語りかけます。パウロ自身のこととフィリピ教会のこと、この両者に共通しているもの、この両者を固く結びつけているもの、それは主キリストであり、主キリストの福音です。

パウロは主キリストの福音を宣べ伝えたために、迫害を受け、捕らえられ、今は獄の中に縛られています。しかし、パウロはこの迫害と試練のときを喜んでいます。なぜならば、彼が受けた迫害と試練を通して、主キリストの福音がより前進することとなったからです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決してつながれてはいないということが、不思議な仕方で証しされたからです。パウロはいつでも、どのような状況の中でも、自分を主キリストの福音との関連の中で見ています。自分の楽しみとか、自分の人生の計画の実行とか、自分の名誉や満足のためではなく、主キリストの福音がどうであるのか、自分が主キリストの福音のためにどう仕えたかという視点で自分を見ています。

フィリピ教会もまたそうあるべきです。主キリストの福音にふさわしく生きるべきです。もちろん、投獄されているパウロのことが心配です。教会の外からの攻撃や内からの誘惑にどう備えるかということも大きな課題です。教会員一人一人の日常の生活の中でも、多くの労苦があります。しかし、そうであっても、「あなたがたはひたすらキリストの福音にふさわしく生活を送りなさい」とパウロは勧めているのです。「わたしがそうであるように、あなたがたも、そしてすべてのキリスト者はそのようでありなさい。なぜなら、わたしたちが今あるのは主キリストの福音によるのであり、これからのちにも主キリストの福音によってあり続けるのだから」。パウロはすべてのキリスト者の生と死、生きることと死ぬこととを、主キリストの福音とのつながりの中で見ているのです。それがキリスト者の生と死の原点なのです。

「ひたすらに」とは、「ただこのこと一つだけに集中して」という意味です。他にも、多くの課題やなすべきことがあるかもしれないが、何よりもまず、このことを第一として考えなさい。それは、主キリストの福音にふさわしく生きることだとパウロは言います。主キリストの福音とのつながりの中でわたしの生と死を考える、これがキリスト者の生と死の原点である。それと同様に、主キリストの福音にふさわしく生きる、これがわたしたちキリスト者の生活原理であると言ってよいでしょう。ほかにどのような人生の課題があろうとも、今取り組まなければならない仕事や解決しなければならない問題があろうとも、それらを第一にするのではなく、主キリストの福音にふさわしく生きることを中心に据えて、その中心から他のもろもろの課題を考えていく、それがキリスト者の生活原理なのです。

他の書簡では別の表現も用いられています。テサロニケの信徒への手紙一2章12節では、「神の御心にそって歩む」、コロサイの信徒への手紙1章10節では、「主に従って歩む」、エフェソの信徒への手紙4章1節では、「神の招きにふさわしく歩む」とも言われています。いずれにしても、自分の価値判断とか、だれかが立てた基準とか、この世の価値基準に従って生きるのではなく、神のみ心、主キリストの福音を基準にして生きる、生活する、またそれを中心にして他のすべての課題を考える、それがわたしたちキリスト者の生活原理です。

主イエスは金持ちで立派な行いを誇っていた人に、「あなたに欠けているものが一つある。行って、あなたの持ち物をすべて売り払い、貧しい人たちに施しなさい。そして、わたしに従ってきなさい」とお命じになりました(マルコ福音書10章17節以下参照)。また、ルカ福音書10章42節では、せわしく立ち働いていて心を乱していたマルタに、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言われました。主イエスのみ言葉を聞くことに集中することこそが、他の何にもまして重要なのです。そこから、すべてが始まるのです。

では、フィリピの信徒への手紙の中で「主キリストの福音にふさわしい生活を送る」とは具体的にどのような生き方なのかを考えてみましょう。「生活を送る」という言葉は「市民生活をする」という意味であり、3章20節ではこの言葉の名詞形が「本国」と訳されています。これは「国籍」という意味です。パウロはこの言葉を用いることによって、天に本国があり、神の国に市民権を持つキリスト者が、神の国の市民にふさわしい生活をするようにということを暗示しているように思われます。わたしたちキリスト者は今はこの世に住み、この国の国民として、この町の市民として生活していますが、主キリストの十字架の福音によって、この罪の世から贖いだされ、神の国に属する者とされました。わたしたちの本来の国籍は天にあります。それゆえに、地上の過ぎ去りゆくものを追い求めず、朽ち果てるべきこの世の宝に目を奪われず、心と目を天に向け、来るべき神の国の到来を待ち望みつつ、永遠なるものを追い求めて生きるようにと招かれているのです。

天に国籍を持つキリスト者は「一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはない」と27、28節に続けて書かれています。ここでは、主キリストの共同体である教会のことが言われています。主キリストの福音を信じて救われている共同体である教会は、一つの霊、聖霊によって固く立つことができます。使徒言行録2章に書かれているように、最初の教会は聖霊の降臨によって建てられました。教会は絶えず注がれる聖霊によって立ち続けます。自分たちの足で立つのではなく、立つことができるのでもありません。教会に集められている人の数とか経済力とかによって立つのでもありません。聖霊なる神が弱く貧しい一人一人をお用いになられ、その信仰を養ってくださり、その交わりを強めてくださり、一つのみ言葉のもとに、一つの信仰告白のもとに集めてくださることによって、教会はいつの時代にも、どのような試練のときにも、固く立つことができるのです。聖霊は教会の一致を与える神であり、また教会の足を固くする神であられます。

さらに、聖霊なる神は教会の民を福音の信仰のための共同の戦いへと赴かせると言われています。聖霊は信仰の戦いを導く神であられます。エフェソの信徒への手紙6章17節では、「霊の剣、すなわち神の言葉」と書かれています。聖霊は神のみ言葉と共に働き、敵を打ち破り、悪を打ち負かし、罪を滅ぼします。教会の民は聖霊なる神と共に、神のみ言葉を携えてこの世での信仰の戦いに出陣するのです。

ここには、天に国籍を持つ神の民である教会のこの世における戦いの姿勢が強調されています。教会はその信仰を教会内部にだけ閉じ込めておくことはできません。なぜなら、教会を生かし、教会を強めてくださる聖霊なる神と神のみ言葉が鋭い剣として罪のこの世を切り裂き、新しくされた命を創造し、神の義と神の国を建設してくださることを、教会は知っているからです。教会は自らの中に安住していることはできません。「聖霊の剣である神のみ言葉」を携えて、この世での信仰の戦いへと赴くようにと召されています。

宗教改革者カルヴァンは地上の教会を「戦闘の教会、戦い続けている教会」と呼び、天に召された信仰者の群れを「勝利の教会、戦いを終えて勝利を手にしている教会」と呼びました。主イエス・キリストご自身がその地上での全ご生涯が罪との戦いであり、十字架のご受難に向かう戦いであったように、キリスト者も地上にあっては主キリストにある信仰の戦いを続けるのです。そして、主イエスの戦いが復活と昇天の勝利であったように、キリスト者にも最後の勝利が約束されているのであり、地上の信仰の戦いを終えて天に召された信仰者たちはその勝利へとすでに招き入れられているのです。

パウロはそのことを28節の後半でこのように言っています。「このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです」。教会の民がこの世の反対者からどのような脅しや攻撃を受けようとも、決してたじろがず、後退せず、恥じることなく、主キリストの福音の信仰に固く立ち続けているならば、神はそのような教会の民に勝利を約束していてくださいます。その勝利を信じて信仰の戦いを続けるならば、それは敵対者たちにとっては敗北であり、滅びのしるしとなります。それは神ご自身がなさるみわざです。

29~30節では、キリスト者の信仰の戦いのさらに積極的な意味が語られます。【29~30節】。信仰の戦いは反対者たちからの攻撃に対して立ち向かうという、外からの必要に迫られて、いわば、いやいやながらも避けられないでしなければならない戦いなのではなく、キリスト者の信仰の戦いは主キリストを信じることに当然に伴っている戦いであり、いやそれのみか、それは神から与えられた恵みと言うべき戦いなのだとパウロは言うのです。それだけではありません。この戦いは主キリストのために苦しむ戦いなのです。もっと明確に言うならば、主イエス・キリストご自身の苦しみに共にあずかること、主キリストのご受難の歩みを共にすることなのです。

今パウロが福音宣教のために迫害を受け、捕らえられ、獄につながれているように、またフィリピの町で最初に福音を宣べ伝えたときに、パウロとシラスが投獄されて鞭打たれたように(使徒言行録16章16節以下)、信仰の戦いは苦難と試練の連続です。フィリピ教会はそのようなパウロの信仰の戦いを実際に見、今またそのことを聞き、そしてパウロのためにあつい祈りをささげ、支援物資を送り、また教会の外部と内部からの反対者たちと信仰の戦いをすることによって、フィリピ教会はパウロと同じ戦いをしているのだとパウロは言っています。パウロもフィリピ教会も共に主キリストご自身の苦難と戦いにあずかっているのです。ここに、キリスト者の豊かな交わりと一致があり、光栄があり、誇りがあり、豊かな恵みがあるのです。

聖書には、信仰による苦難は信仰者にとっては神から与えられた大きな恵みであると言われている箇所が数多くあります。ペトロの手紙一2章19節以下を読んでみましょう。【19~21節】(431ページ)。また、4章12節以下をも読んでみましょう。【12~14節】(433ページ)。使徒言行録14章22節には、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というパウロの言葉があります。

キリスト者にとって、信仰の戦いは、それは多くの場合苦しみや痛みを伴うものではあるけれども、しかしそれはわたしたちの信仰の道にとって決して損失とか禍とかではなく、むしろそれは神からの恵みの賜物なのです。わたしたちを神の国へとお導きになる神の恵みなのです。わたしたちは主キリストを信じる信仰を恵みとして神から賜ったように、主キリストのための苦難をも恵みの賜物として神から与えられているのです。

(祈り)

10月13日(日)説教「神のかたちに似せて創造された人間」

2019年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

   エフェソの信徒への手紙4章17~24節

説教題:「神のかたちに似せて創造された人間」

 神は天地創造の第6日目に、すべての被造物の最後として人間を創造されました。神は人間が生きるために必要な舞台をすべて整えてから、人間を被造世界の頂点として、全被造物の冠として、創造されました。そこには、人間に対する神の深い愛と特別な配慮があるように思われます。そして、このことの中に、わたしたちがきょうの礼拝で学ぼうとしている神の像、すなわち、人間が神のお姿に似せて創造されたというキリスト教教理の中心的な意味が含まれています。

 創世記1章26~27節にこのように書かれています。【26~27節】。このみ言葉から、キリスト教会は「神の像」という教理を形成しました。ラテン語では「イマゴ・デイ」と言います。「神の像、イマゴ・デイ」の教理は、神の創造に関する教理である創造論の中での重要な教えであるだけでなく、人間の罪に関する教えである堕罪論、あるいは、人間の救いに関する教え、救済論とも深く関連しています。それらとの関連を考えながら、神の像、人間が神のお姿に似せて創造されたとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきましょう。

 まず、27節に「創造された」という言葉が3回続けて用いられていることに注目しましょう。以前にも1章1節で学びましたように、「創造する」、ヘブライ語で「バーラー」という言葉は、神が主語のときにしか用いられない特別な用語であり、これは、神がみ言葉をお語りになることによって、その創造的な力強い命のみ言葉によって、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造されることを強調しています。これは、神だけがなさる、なすことがお出来になる、特別な創造のみわざのことです。人間やこの世のものには限界があり、不可能があります。けれども、神にはできないことは一つもありません。神のみ言葉には不可能はありません。神がお語りになるとそのようになり、神がなさることはすべて完全です。神は全能であり、永遠であり、完全です。わたしたちはそのような神のみ言葉を信じるようにと招かれているのです。

 その特別な用語である創造するという言葉が、1章1節の後しばらく保留されていたのですが、この日、第6日目の人間創造の日に、3回も続けて用いられるということから、わたしたちはここからも人間創造に対する神の特別なみ心を読み取ることができます。第6日目の人間創造によって、神の創造のみわざは最終目的に達したと言えます。

 次に、26、27節に、「かたどり」と「似せて」という言葉が用いられています。しかも、「かたどって」が3回も続けて用いられています。非常に強調されています。人間だけが、他の被造物ではなくてただ人間だけが、神にかたどって、神に似せて創造されたということが何重にも強調されているのです。ここでもまた、人間創造に対する神の特別なみ心が言い表されているのです。では、その神の像とは何か。それを探っていきましょう。

 「かたどって」と「似せて」は、元のヘブライ語でも違った言葉ですが、両者の意味の違いがあるのかどうかについては、意見が分かれます。わたくしは違いはないと考えてよいと思いますが、ローマ・カトリック教会では違うと考えます。そして、そのことが人間の罪と救いの教理にも微妙に影響してきます。神のみ言葉に背いて罪を犯した人間は、神の像をどの程度失ったのか、またそれをどのようにして回復するのかという議論が展開されます。このことについては、後ほど触れることにします。

 では、神の像とは具体的に何か。どのような点で、人間は神に似ているのか。そこに神のどのようなみ心があるのか? 2千年のキリスト教会の歴史の中で、またそれ以前のユダヤ教、イスラエル宗教の中で、多くの学者が、さまざまな角度から、この問いに対する答えを見いだそうと研究を重ねてきました。ある学者が数えたところによれば、その答えは二百数十にものぼると言います。皆さんも是非考えてみてください。わたしたち人間が他の生き物とは違って、ただ人間だけが神のかたちに似せて創造されている、その人間だけに備えられている神のかたちとは何か?

 その答えは大きく二つの種類に分類できます。一つは、外見上の姿、形、あるいは目に見えるかたちでの人間の能力において神に似ている点。二つには、精神的、抽象的な意味での類似点。前者の代表的な答えのいくつかを紹介してみましょう。ある人は、人間が二本の足で立って歩く、二足歩行の姿が神に似ていると考えました。あるいは、頭があり、手と足が二本あり、目、耳、鼻、それらの体の機能をうまく使いながら細かい運動や作業をする能力があること、道具を器用に活用できる能力、あるいはまた、複雑な言語で互いに情報を交信したり、高度な文化や技術、科学を発達させる能力があることを挙げる人もいます。

 けれども、それらの外見上の類似点は、確かに人間にだけ与えられている優れた能力であることは認められるとしても、それが神のかたちであると言うには決定的な説得力に欠けると言わざるを得ません。なぜなら、そもそも聖書で証しされている神は、人間の目に見られる何らかの形を持っておられる神ではなく、また、モーセの十戒の第二戒で、神の存在を刻んだ像で表現してはならないと命じられているからです。神ご自身の外形は人間にはわからないのですから、神と人間の外見上の類似点は比較されようがありません。

 二つ目の精神的、抽象的な類似点で第一に挙げられるのは、人間には理性や悟性が備わっているということです。他の生き物はすべて本能のままに行動するのに対して、人間は本能を理性でコントロールし、自分と周囲とを総合的に判断して行動することができる、この点において人間は神に似ていると考えます。あるいは、だれかを、何かを愛する、同情する、悲しみや喜びを表現する、感情や心を持っている、等々。そういったことも、他の生き物にはない、人間独自の優れた点であると言えるかもしれません。しかし、まだ決定的な答えであるとの確証はありません。

 近年の神学者は、今まで挙げたような哲学的、動物学的なアプローチではなく、聖書のみ言葉そのものから理解しようとしています。28節に、【28節】と書かれています。ここから、人間が他の被造物、宇宙や自然界、生き物を治め、統治する務めを神から委託されていることに注目して、神が人間をも含めたすべての被造物を治めておられ、それらの主権者であられるように、人間はこの地上にあって、天の神からその統治権を委託されている、それが神のかたちであると理解することができます。詩編8編の詩人もそのようにとらえていたと推測できます。【4~9節】(840ページ)。人間は地上での神の代理者として、神が創造されたこの世界を神のみ心に適って治めるという尊い使命、課題を与えられているのです。それによって、人間は天地万物を創造された神の栄光をこの世界で具体的にあらわし、証ししていく務めを果たすのです。

 もう一つの近年の神学者の理解を紹介します。それは、27節のみ言葉そのものの中に答えを見いだすことができると考えます。つまり、神のかたちに、神に似せて創造されたとは、すなわち、男と女とに創造されたことであると理解します。神は人間を男だけではなく、また女だけでもなく、男と女という、一対の人間として創造された、それが神のかたちであるという理解です。神ご自身、孤独な存在ではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、三位一体なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるように、人間もまた一人の個としての人間ではなく、互いに交わりを持ち、共に生きる人間として、連帯的人間として創造されている。しかも、男と女という違った性質をもった人間が、その違いを保有しつつ、その違いを認め合いつつ、尊重し合いながら共に生きる連帯的人間として生きる。そこに、神のかたち、神の像があるとその神学者は言います。この理解にわたしたちは最も共感できます。

 以上、神の像とはなにかという問いに対する答えをいくつか紹介してきました。それらのいずれもが、人間がいかに神の大きな愛と深いご配慮によって、他のすべての生き物よりもはるかに勝る者として創造されているかを強調し、表現しようとしていることが分かります。人間はサルや犬と同じものとして創造されたのではありません。空の鳥や野の花と同じものとして創造されたのでもありません。主イエスご自身が福音書の山上の説教で教えられたように、それらのすべてよりもはるかに価値あるものとして創造されているのです。それらよりもはるかに大きな神の愛と恵みとを与えられているのです。実に、神のみ子の十字架の尊い血によって贖い取られた人間たちなのです。わたしたちはそのことを知らされ、そのことを神に感謝し、ただ神の義と神の真理とを求めて生きるように、神が他のすべての必要を満たしてくださることを信じ、神の国の到来を信じて生きるようにと招かれているのです。

 では最後に、神の像の教理を人間の罪、堕罪論、また人間の救い、救済論との関連で少し考えてみたいと思います。ローマ・カトリック教会は、26節の「神にかたどって」と「神に似せて」とを区別して理解します。前者は、人間に生まれながらに与えられている特別なもの、それが他の生き物と人間とを区別しているのですが、たとえば理性とか、知性とかであり、これは罪によっても人間から失われていない。後者は、神との霊的な交わりを可能にするものであり、またそれによって形造られる神に似た姿のこと、これは罪によって失われたが、神を信じて洗礼を受けることにより回復されると教えています。

 そこから、人間が救われるためには主イエス・キリストの福音を信じることと同時に、人間の良きわざもまた必要であると教えます。罪によっても神の像の一部は失われていないと理解することによって、どこかに人間の可能性を残そうとする意図が感じられます。

 それに対して、宗教改革者は両者を区別せず、罪によって神の像は完全に失われてしまったと考えました。人類全体が、また一人の人間全体が、全的に堕落していると理解しました。それゆえに、人間の中には救いのかけらもなく、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってのみ救われるという、福音信仰を確立したのです。人間に少しの可能性を残すことによってではなく、主イエス・キリストの福音にすべての救いの恵みがあるとすることによってこそ、確かで完全な救いがあると、宗教改革は教えました。わたしたちの教会はその信仰を受け継いでいます。

 新約聖書では、罪によって神の像を完全に失ってしまった人間は、まことの神の像であられる主イエス・キリストによって、神に似たものとされると教えられています。コリントの信徒への手紙二4章4節では、キリストは神の似姿であるとあり、またコロサイの信徒への手紙1章15節でも、み子は見えない神の姿であると書かれています。神の像はみ子主イエス・キリストにこそ最も鮮やかに現わされました。わたしたちは主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、主イエスのお姿に似たもの(ローマの信徒への手紙8章29節)とされていき、エフェソの信徒への手紙4章24節で教えられているように、「神にかたどって造られた新しい人」に再創造さていくのです。

 ここにおいてこそ、人間が神の像に似せて創造されたことの神のみ心と意図がはっきりしたように思われます。すなわち、わたしたちが神を礼拝し、神のみ言葉を信じ、主イエス・キリストの福音によって救われているという福音を聞いて信じることがゆるされている、これこそが人間に与えられている神の像であり、最も尊い神の賜物というべきです。

(祈り)

10月6日説教 「マリアとエリサベトの出会い」

2019年10月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章39~45節

説教題:「マリアとエリサベトの出会い」

 ルカによる福音書1章39節以下には、マリアとエリサベトの出会いの場面が描かれています。36節によれば、二人は親類関係にありました。それ以上に二人を結びつけ、接近させているものがあります。それは、二人とも、神の奇跡によって母になろうとしていることです。神からの特別の恵みによって、やがて母になろうとしている二人の婦人、年老いたエリサベトと若いおとめマリアが、ここで出会っているのです。いや、それだけではありません。一人の人間と一人の人間とが出会っているというだけではなく、ここではもっと別の何かが、目には見えないけれど、何か特別なものが、特別なことが出会っているのです。

 キリスト教美術の中で、何人かの画家によって、この二人の出会いの場面が非常に感動的に描かれているのを、わたしたちは見ることができます。世界史の中では、歴史を大きく変えた偉大な出会いというものもありました。それらと比較すれば、マリアとエリサベトの出会いは、世界史を直接に動かす力など全くない、ごく小さな、目立たない出会いであるように思われます。そうであるのに、それらの画家たちはこの二人の婦人たちの出会いを、輝かしい光の中で、非常に感動的に描いています。この二人の婦人たちの出会いの中に、何が隠されているのでしょうか。わたしたちはそれをきょうの聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 【39~40節】。「このころ」とは、26節の「六か月目に」と関連しています。つまり、洗礼者ヨハネの父となる年老いた祭司ザカリアが、「あなたは男の子を生む。その名をヨハネと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6か月目に、今度はガリラヤ地方のナザレの町に住むおとめマリアが、「あなたは男の子を生む。その名をイエスと名づけなさい」という神の約束のみ言葉を聞いて、その胎内に新しい命を宿し始めた、そのころにということです。

 「マリアは出かけて、急いで」とは、マリアの堅い決断と即座に行動したことを言い表しています。彼女はなぜにこれほどまでに急いでいるのでしょうか。それは、神がお示しくださるしるしを見るためです。【36~37節】。マリアは神の約束のみ言葉を直ちに信じることができませんでした。34節でマリアはこのように言います。【34節】。神の奇跡はだれにとっても信じることが困難です。けれども、信じることができなかったマリアに、神はしるしをお与えくださいます。マリアの信仰を助けてくださいます。それゆえに、マリアはしるしを見るために急ぐのです。自分に語られた神の約束のみ言葉を信じることができるために、「お言葉どおり、この身に成るように」(38節参照)、この信仰への道を彼女は急いでいるのです。

 祭司ザカリアの住まいはエルサレム郊外の山里にありました。エルサレム神殿での務めがあるときには、そこから出かけていきます。マリアが住むガリラヤのナザレからエルサレムまでは、直線距離で100キロメートル余り、ヨルダン川の東側を迂回して通る通常の道のりだとどんなに急いでも4、5日はかかるでしょう。マリアにとっては大変な道のりです。けれども、マリアは少しもためらわずに、すぐに決断して立ち上がり、大急ぎで目的地へと向かいます。神が彼女をそこへとお招きになるからです。そこに、彼女が見るべきもう一つの神の奇跡があるからです。そしてそのしるしを見て、彼女に語られた神の約束のみ言葉が確かであることを信じるために、彼女の身に今起こっている奇跡が確かであることを確認するために、彼女は急ぐのです。

 マリアはザカリアの家に入ってエリサベトにあいさつします。彼女たちの出会いとあいさつは、単に親類同士が久しぶりに顔を合わせたというのではなく、神によって導かれている出会い、神によって固く結びつけられている二人の出会いであり、あいさつです。そのとき、全く不思議なことが起こりました。41節以下を読んでみましょう。【41~45節】。ここで起こっている不思議なこと、母になろうとしている二人の婦人の感動的な出会い、いや、それだけではありません。二人の胎内に宿っている二つの新しい命の不思議な、感動的な、驚くべき出会い。ここでは何が起こっているのでしょうか。その意味を更に探っていきましょう。

 この二人の婦人の出会いの意味を、ルカによる福音書がこれまでに記してきた物語全体の中で考えてみましょう。わたしたちはこれまで二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。5~25節では、洗礼者ヨハネの誕生予告が、そして26~38節では、主イエスの誕生予告が語られていました。この二つの誕生予告が、きょうの39節以下に記されているマリアとエリサベトの、二人の母となるべき婦人の出会いによって、ここで一つに結び合わされているということに、わたしたちは気づかされるのです。

 この二つの誕生予告は、一つは、エルサレム郊外に住む、長い間子どもが与えられなかった年老いた夫婦、ザカリアとエリサベトに与えられた約束であり、もう一つは、ガリラヤのナザレに住む、まだ一緒になっていない婚約者、ヨセフとマリアに与えられた約束であって、エリサベトとマリアが親戚関係にあったということのほかには、何一つ結びつきがない、二つの別々の誕生予告と思われていたのですが、その二つの誕生予告が今ここでマリアとエリサベトが出会うということによって、いやそれのみか、二人の胎内に宿っている新しい二つの命の感動的な、不思議な出会いをすることによって、一つに結合されているのです。二つの誕生予告が一つの神の救いのみわざであるということが、二人の母となろうとしている婦人の出会いによって、目に見える形で明らかにされたているのです。すなわち、神がわたしたち全人類を罪と死と滅びから救い出すためにこの世にお遣わしになるメシア・キリスト・救い主のために道を備える先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生予告と、その先駆者によって整えられた道を通ってこの世においでになり、神の永遠の救いのみわざを成就されるメシア・キリスト・救い主なる主イエスの誕生予告とが、今ここで一つに結ばれ、神の一つの救いのみわざがこのようにして開始されたということを告げ知らせているのです。二人の母となるべく選ばれたマリアとエリサベトは、共にこの神の救いのみわざのために用いられ、仕えているのです。そのことこそが、この二人の婦人を固く結びつけているのであり、ここでの美しく、感動的な出会いを経験させているのです。

 この特別な出会いの意味を更に探ってみましょう。ここで出会っている二人の婦人、マリアとエリサベトは共に神の奇跡によって母になろうとしているということに注目しましょう。ここでは、神の特別な恵みをいただいて、神の奇跡によって、胎内に子どもを宿している二人の婦人が出会っています。あるいは、こう言ってもよいでしょう。ここでは、神の恵みと神の恵みとが出会っている、神の奇跡と神の奇跡とが出会っているのだと。

 人間と人間との出会い、美しく、感動的な出会いは、このようにして起こるのです。共に神の恵みと祝福とを受けている者同士の出会い、共に神の奇跡を体験している者同士の出会い、共に神の救いのみわざのために仕えている者同士の出会い、そして、共に神の約束のみ言葉の成就を信じ、待ち望んでいる者同士の出会い、ここにこそ、人間として最も感動的で、真実な出会いがあるのです。

 そのような出会いは、わたしたちの礼拝においてこそ実現しているのだということを、まず覚えたいと思います。わたしたちは主の日ごとにこの世から選び出され、礼拝に集められ、礼拝の民の中に加えられます。共に神の選びと招きとを受け、神の恵みを与えられ、神の憐れみによって罪ゆるされた者としてここに集まっています。共に神のみ言葉を聞き、讃美歌を歌い、祈りをささげています。共に一つの主の食卓を囲み、聖霊なる神の交わりの中に一つとされています。礼拝でのこのような交わり、出会いこそが、わたしたちの真実な出会いの原点なのです。この礼拝で神と出会うこと、わたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストと出会うこと、そして共に神の救いの恵みに招き入れられている兄弟姉妹として交わり、出会うこと、これがわたしたちの真実の出会いの原点であり、中心なのです。

 マリアとエリサベトの出会いの更に大きな、最も重要な意味は、ここでは、神の奇跡によって母になろうとしている二人の婦人が出会っているだけでなく、二人の胎内に宿っている主イエスと洗礼者ヨハネとが出会っているということです。その不思議な出会いについて41節でこのように語られています。【41節a】。これは何という不思議な、驚くべき出会いでしょうか。

 このときにはエリサベトの胎内の子どもは6カ月になっていますから、胎動が感じられる、おなかの中の赤ちゃんが動くということは、わたしたちもよく知っています。けれども、今ここで起こっておることは、一般的な胎動ではもちろんありません。マリアのあいさつの声をエリサベトが聞いたときに、エリサベトの胎内の子どもにまでその声が届いたということのようです。いやもっと的確に言うとすれば、ここではマリアの胎内の子どもとエリサベトの胎内の子どもが出会っているのです。メシア・キリスト・救い主であられる主イエスと、メシアのために道を整える先駆者である洗礼者ヨハネとが出会っているのだと言うべきです。これが、マリアとエリサベトの出会いの中心的な意味です。

 洗礼者ヨハネは、神が旧約聖書の民イスラエルに約束された全世界のメシア・キリスト・救い主の到来を、最も近くで預言し、その救い主のために道を備える先駆者です。主イエスは旧約聖書の約束の成就そのものであられ、長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられます。そのヨハネと主イエスとがここでは出会っているのです。あるいはこう言ってもよいでしょう。ここでは、預言と成就とが出会っているのだと。旧約聖書と新約聖書とが出会っているのだと。そして、待降節・アドヴェントと降誕日・クリスマスが出会っているのだと。エリサベトの胎内でその子が喜び踊ったのは、このような偉大な神の救いのみわざが起こっているからなのです。

 エリサベトは聖霊に満たされてマリアを祝福する言葉を語ります。エリサベトはマリアよりもずっと年上ですが、彼女は最大級の言葉でマリアをほめたたえています。けれども、ここからローマ・カトリック教会がマリアを特別視して、聖母マリアとして崇拝したり、マリアに関するさまざまな根拠のない教理を創り出していったことについては、宗教改革以来、わたしたちプロテスタント教会は異議を唱えざるを得ません。マリアがどんな理由からほめたたえられているのかを正しく読み取らなければなりません。

 それは42節にはっきりと書かれているように、マリアが女性の中で祝福された方であるのは、マリア自身の何らかの特質や能力によるのでは全くなく、それはひとえにマリアの胎の実が、すなわち主イエスが祝福されたお方であるからにほかなりません。また。45節に書かれているように、マリアが幸いな人であるのは、マリア自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、それはひとえに、マリアが神のみ言葉を信じ、従順に従ったからにほかなりません。重要なことは、神が約束のみ言葉をマリアに語ってくださり、神がそのみ言葉を確かに成就されたということにあるのです。

 「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。このみ言葉は、きょうの礼拝に招かれているわたしたち一人ひとりにも語られています。わたしたちが本当に幸いな人となり、幸いな人生を歩むことができるのは、主なる神のみ言葉を聞き、その成就を信じつつ、主イエスが再び来たりたもう日を待ち望むことによってです。

(祈り)