9月26日説教「岩の上に家を建てた人」

2021年9月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編19~28節

    ルカによる福音書6章43~49節

説教題:「岩の上に家を建てた人」

 ルカによる福音書7章43節~45節の、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実しか結ばないという比喩を、主イエスはいろんな文脈の中で語っておられます。マタイ福音書7章16節以下の「山上の説教」では、偽預言者を見分ける際の基準として語っておられます。偽預言者は人々に好まれ、歓迎される預言を語るが、その心の中では神の真理に仕えるのではなく、自分の誉れや利益を求めていて、羊の皮を身にまとった貪欲な狼であるということを見分けなさいと教えておられます。また、マタイ福音書12章33節以下では、罪と悪に染まっている人間の心の中からは悪い言葉だけしか出てこないということを教える比喩として、悪い木とそれが結ぶ悪い実のことが語られています。きょう学んでいるカ所でも、45節で「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」と言っておられますから、心の中から出る言葉について教えているように理解されます。

 そこで、わたしたちはこのカ所をより深く理解するために二カ所の聖書に目を向けてみたいと思います。その一つは、ヨハネ福音書15章のぶどうの木とその枝についての主イエスの説教です。主イエスはそこでこのように教えておられます。「わたしはまことのぶどうの木であり、あなたがたはその枝である。あなたがたがわたしにつながっておれば、豊かに実を結ぶことができる。わたしにつながっていなければ、あなたがたは自分では何の実をも結ぶことはできない」(1~6節参照)。

 主イエスはここで二つのことを教えておられます。一つは、わたしたち人間はだれもがみな罪に汚れており、その根が腐っており、その枝が枯れていて、自分では少しも実を結ぶことができないということ。もう一つは、わたしたちの救い主であられる主イエスにつながって、主イエスから罪のゆるしの恵みをいただき、主イエスのみ言葉と聖霊とによって新たに再創造される時に初めてわたしたちは豊かな実を結ぶことができるということです。

 参考にしたいもう一カ所は、ローマの信徒への手紙11章17節以下です。使徒パウロはそこで異邦人の救いについて語っています。神に選ばれなかった野生のオリーブの木であった異邦人が、選ばれたオリーブの木であったイスラエルが不信仰のゆえに折り取られてしまったあと、その代わりに接ぎ木されたのであるから、あなたがた異邦人は神の救いにあずかるようになったことを決して誇ることはできないとパウロは言っています。

 これらのカ所を参考に、きょうのルカ福音書7章の主イエスの教えを理解することができます。主イエスはここで、人間はだれもみな悪い実しかつけることができない悪い木であって、その心の中は邪悪と罪で満ちていて、口から出る言葉も、手や足の行動も、悪と罪でしかない。それゆえに、人間は自らの力では良い実をつけることは全くできない。その心の中が完全に洗い清められなければ、良い言葉は出てくることはないし、主キリストに接ぎ木されなければだれも良い実を実らせることはできない。主イエスはそのことを木と実という比喩で語っておられるのです。

 16世紀の宗教改革者たちが言ったように、わたしたち人間は全体が腐敗しており、全的に堕落しており、主イエス・キリストの十字架の死によって古いわたしが完全に葬られ、そして主キリストの復活によってわたしが新しく造り変えられなければ、神のみ前で生きたわたしになることはできないのです。主キリストに接ぎ木され、主キリストと聖霊から新しい命を注ぎ込まれてはじめて、わたしは生きた人間とされるのです。そのようにして、わたしの心は主キリストの十字架の血によって洗い清められ、神をほめたたえる賛美の歌を歌い、隣人を生かす愛の言葉を語ることができるのです。

 1563年に、宗教改革の一つの実りとして制定された『ハイデルベルク信仰問答』では、わたしたち罪びとである人間はただ信仰によってのみ神のみ前に義とされ、救われる、と教えたあとで、64問で「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人が感謝の実を結ばないことなど、あり得ない」と強調しています。宗教改革は人間の完全な堕落を強調しましたが、同時に、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって義とされ、一方的な神の恵みによって救われた人間は、主キリストに接ぎ木され、主キリストから恵みと養分とを受け取り、大きな喜びをもって感謝の実を結ぶようになるということをも強調しているのです。

 次の46節からの岩の上に家を建てるたとえは広く知られています。けれども、これを正しく理解することはそれほど容易ではありません。まず、主イエスを「主よ、主よ」と呼びながらも、主イエスの言うことを行わない人とはだれを指しているのか、どのような人のことかがはっきりしません。主イエスを政治的なメシアと考え、イスラエルをローマの支配から解放する指導者であると期待して集まってきた人たちのことか、あるいは、主イエスの奇跡や病気のいやしだけを求めてきた人たちのことか、ここではっきりと決めることはできません。

それから、主イエスはここで、ただ聞くだけで、聞いたことを実行しない人たちを非難しているので、聞くことよりも実行することの方が重要だと簡単に結論づけてよいかどうか。あるいは、口先で信仰を告白しても、信仰の実践が伴わなければ、それは土台がない信仰であって、実践こそが大切なのだ。だから、愛の実践をすることによってこそ人は救われる、と結論づけてよいかどうか。そのことが大きな問題になります。

聖書を読む場合にはいつでも、どの個所でもそうなのですが、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音の光の中でこのカ所をも読まなければなりません。主イエスが語られたみ言葉の説教と主イエスなさったみわざのすべては、彼の十字架の死と復活を目指しており、またそれによって最後の目的に達し、完成するからです。

47節で主イエスは、「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人」こそが岩の上に土台を据えて家を建てた人であると言われます。「主イエスのもとに来る」「主イエスのみ言葉を聞く」そして「それを行う」、この3つのことが連続し、つながっていることが大切なのです。しかし、49節で言われているように、「聞いても行わない人」は土台なしで家を建てた人であり、その家は水があふれるとすぐに流されてしまうと言われています。主イエスのみ言葉を聞くこととそれを行うことが連続していることによって、わたしたちの信仰の歩みが確かにされ、どのような試練や困難にであっても決して揺れ動くことないと主イエスは教えておられます。

では、47節で言われている三つのことを見ていきましょう。第一は、主イエスのもとに来ることです。わたしたちがどのような大洪水が押し寄せてきても揺り動かされない堅固な家を建てるためには、まず主イエスのところに行かなければなりません。これが第一の重要なポイントです。自分の知恵や力で、自分の好みに合わせた家や、この世の目から見て豪華な家を建てるのではありません。また、富や財産、この世的な幸いを土台として家を建てるのでもありません。主イエスご自身が堅い岩、土台となってくださいました。主イエスは家を建てるために最も重要な隅の親石となってくださいました。わたしたちはこの主イエス・キリストという大きな堅い岩を土台とした家を立てなければなりません。人となってこの世に来られた神のみ子であられ、神の言葉、神の真理、神の義であられる主イエス・キリストのもとに行き、主イエスとの出会いを経験することによって、どんな嵐や洪水にも揺れ動かされない堅固な家を建てることができるのです。

第二には、主イエスのみ言葉を聞かなければなりません。主イエスの十字架と復活の福音を聞かなければなりません。主イエスはわたしの救いのために必要なすべてのみわざをすでに成し遂げられ、わたしを罪と死と滅びから解放してくださっておられることを聞き、信じることによって、わたしのすべての罪がゆるされ、神との生きた交わりへと招き入れられます。その神との生きた交わりの中で、神がわたしに必要なすべてのものを備えてくださり、わたしが進むべき道を示し、その道へと日々導いてくださり、終わりの日にはわたしを来るべき神の国へと招き入れてくださるという固い約束に生きることがゆるされるのです。ここにこそ、わたしの揺るがない堅固な信仰の道があります。

第三には、主イエスのみ言葉を行うことです。ここで「行う」とは、人間が何かの行動を起こすとか、信仰と実践とを区別して、信仰よりも実践の方が重要だという意味での「行う」ではありません。主イエスのみ言葉を聞いて行うのですから、主イエスのみ言葉を信じ、それに信仰をもって服従するということにほかなりません。主イエスのみ言葉を聞いても行わないのは、そもそも信仰がないからです。主イエスのみ言葉を聞いて信じ、服従する人は、そのみ言葉によって生きる人となります。主イエスのみ言葉の証し人として、主イエスのみ言葉に生きることを喜びとします。それは具体的に言うならば、礼拝と祈りの生活です。主イエスの救いの恵みに常に心からの感謝をささげ、主の日ごとの礼拝を重んじ、また主イエスのみ心を信じて日々に祈り、そのようにして、わたしたちの信仰の道はこの世の荒波の中にあっても決して揺らぐことなく、確かな目標に向かって前進していくことができます。主イエスご自身がその道の先頭を行かれ、わたしをその道へ導かれるからです。

最後に、もう一つのことを確認しておきましょう。岩の上に家を建てた人にも洪水は襲うということです。主イエス・キリストを信じるということは、災いや試練に会わないで済むという保証ではありません。いやむしろ、信仰を持たない人たちよりも多くの苦難や厳しい信仰の戦いを強いられるでしょう。たとえそうであるとしても、主イエスはわたしたちを固い岩の上に立たせてくださいます。わたしたちの足を支えてくださいます。主イエスのもとに来て、主のみ言葉を聞き、それを行う信仰者はどのような洪水や嵐や荒波が押し寄せてきても、固く立ち続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちは迷いやすく、つまずきやすく、またすぐに疑いの雲に覆われて、失望する弱い者たちです。またある時には、自分の力に頼り、傲慢になり、あなたへの恐れを忘れてしまう不信仰な者たちです。どうぞ神よ、そのような揺れ動くわたしたちを、あなたが強いみ腕をもって、固く支えてください。あなたのみ言葉がわたしたちの唯一の救いであり、命であり、希望であることを固く信じさせてください。

〇病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、孤独な人たち、生きる希望を失いかけている人たちを、主よどうか顧みてください。あなたが近くにいてくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月19日説教「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

2021年9月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記19章1~29節

    マタイによる福音書24章15~22節

説教題:「ソドムとゴモラの滅亡とロトの救い」

 創世記9章にはイスラエルの塩の海・死海の底に沈んだと考えられている邪悪な町ソドムとゴモラの滅亡のことが描かれています。伝説では、大きな地殻変動と火山活動が起こって、ソドム・ゴモラの町々は死海の底に沈んだとされています。この異常な出来事は人間の罪と悔い改めることをしなかったかたくなさに対する神の厳しい裁きの実例として、旧約聖書と新約聖書の中で何度も繰り返し語り伝えられていくことになりました。申命記29章22節では、イスラエルが神の約束の地カナンに入ってから、もし彼らが神との契約を破り、神の律法に背くことを行うならば、神の裁きを受けるであろうと言われ、こう書かれています。「全土は硫黄と塩で焼けただれ、種は撒かれず、芽は出ず、草一本生えず、主が激しく怒って覆されたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェポイムの惨状と同じになるであろう」と。また、預言者たちもしばしばこの出来事について言及しました。【イザヤ書1章7~10節】(1061ページ)。新約聖書ではルカによる福音書17章28節以下にこのように書かれています。【28~30節】(143ページ)。

 このように、聖書ではソドムとゴモラの町々に起こったことが、罪を悔い改めることをしない人間のかたくなさや邪悪さに対する神の厳しい裁きの実例として代々に覚えられ、戒めとして繰り返して語られてきました。それによって、わたしたちが自分の罪の姿に目をつぶることなく、直ちに罪を悔い改めて神に立ち返ることを勧めているのです。また、わたしたちが主キリストの再臨と終わりの日の神の最後の審判に備えて、いつも目覚めているべきこと、そして神の救いへの招きのみ言葉に耳を傾けているようにと勧めています。

Remenber Sodom!(ソドムのことを忘れるな)とのみ言葉を、わたしたちは繰り返し聞かなければなりません。それと同時に、Remenber Jesus Christ! 「主イエス・キリストの救いの恵みを忘れるな」とのみ言葉を、絶えず、繰り返して、聞き続けなければなりません。

 19章1節に、「二人の御使いが」とありますが、18章2節でアブラハムのテントを訪れた三人の旅人のうちの一人は、18章16節以下によれば、アブラハムと話していましたので、あとの二人が先にソドムについたということのようです。この三人は神から遣わされた神の使い、神ご自身のことです。彼らはソドムとゴモラの罪がはなはだ重いので、その現状を実際に調査するためにやって来ました。

 ロトはアブラハムから分かれてソドムに移り住んだことが13章に書かれていました。彼はすでにこの町の住民の一人になって、町の門の入口に座っていたとあります。古代の町は敵の攻撃を防ぐために城壁で取り囲まれていました。門の前は広場になっており、そこでは商売や集会などが行われていました。ロトはそこで二人の旅人を出迎え、彼らをあつくもてなしたことが1~3節に書かれています。

 ロトはアブラハムと別れてこの地に移住してきましたが、アブラハムと同様に神に選ばれた約束の民の一人であったことをまだ忘れてはいなかったようです。罪と悪に染まっていたソドムの町の住民に囲まれながらも、彼はアブラハムと同じように旅人を親切にもてなす愛を忘れてはいませんでした。ロトはこの時点では二人の旅人が神のみ使いだとは気づいていなかったようですが、彼らが門の広場で野宿するからとロトの招きを断った時、彼らに危害が及ぶことを察して、強いて彼らを自分の家の中に招きいれています。旅人を大切な客人としてもてなす礼儀を忘れず、また彼らをあらゆる危害から守ろうとする強い思いがロトにはありました。旅人に対するこのような愛の思いは、このあとロト自身の身に危険が及びそうになっても決して変わりませんでした。

 次に4~8節を読んでみましょう。【4~8節】。5節で「なぶりものにしてやる」と訳されている言葉は、本来「知る」という意味です。知るとは性的な関係をも意味します。「アダムは妻エバを知った、彼女は身ごもりカインを産んだ」と創世記4章1節に書かれています。ソドムの男たちが旅人を知るとは、男色のことです。この町の男たちは若い人も年寄りもみな男性の同性愛者であったのです。そして、彼らは町にやってきた男の客人を見ると、みんなで寄ってたかって襲おうとしているのです。これがこの町の最も邪悪な罪の現状であったのでした。のちに、英語の男色を意味するsodomyという言葉はこの町の名前から造られました。

 ロトは性的な危害から旅人たちを必死で守ろうとしています。それは、信仰的な行為であったと言えますが、そのために自分の娘を犠牲にして町の男たちに差し出すということがゆるされるかどうかは疑問です。でも、このことについてはこれ以上論じる必要はないと思われます。というのは、あとで神ご自身が解決の道を備えてくださることになるからです。

ロトには旅人を危害から守る義務があります。しかしまた、自分の娘たちに対する愛がなかったということもあり得ません。ロトは試練に立たされています。アブラハムと別れて、肥沃な低地であったこの地を選んだロトが、邪悪に染まっているこの地にあって苦悩しています。それは、ロトが自分で選んだ道であり、いわば自業自得だとわたしたちは言うべきでしょうか。

 ところが、ロトにとって思いもかけない驚くべき事態が起こりました。ロトが必至になって旅人たちを守ろうとし、そのために自分の娘を犠牲にしなければならないと決断したその時に、彼と娘たちは逆に旅人たちによって守られることになるのです。

 【10~13節】。13節で、初めてロトは二人の旅人が神の使いであったことを、また彼らがなぜこの町を訪れたのか、その目的を知らされました。ロトは神の使いだとは知らずに、彼らをもてなし、彼らを危害から守り、神にお仕えしていたのでした。そして、今度は神によって邪悪なソドムの男たちから守られることになったのです。ロトは彼自身と彼の家族を自分の力で守らなければならないのではありません。主なる神こそがロトと彼の家族の唯一の救い主であられます。主なる神がこの町の大きな悪と罪の叫びを聞かれ、この町を滅ぼされます。そして、主なる神がこの町の滅びの中からロトを救い出されます。ロトはその神のみ言葉を聞かなければなりません。神の招きのみ言葉に聞き従わないで、住み慣れたこの町の市民権を選ぶのか、それとも神のみ言葉に聞き従い、この町を捨てて神の国の市民権を選び取るのか、決断しなければなりません。

 けれども、ロトは自分ではそのいずれを選び取るかの決断をすることができませんでした。【15~17節】。ロトはこの町から離れることをためらっていました。彼はソドムの肥沃な土地を選び、この町の住民となり、家を建て、家族を養い、財産を増やしてきました。二人の娘たちもこの町で結婚しています。今この町を捨てて、神のみ言葉に聞き従うべきか、彼は迷っています。彼はこの世のものに縛りつけられています。それが滅びに至る道であると告げられても、それらを捨て去ることをためらっています。

 しかしまたここでも不思議なことが起こります。決断できずにためらっているロトと妻と二人の娘を、神ご自身が二人の旅人によって町の外に連れ出させたのです。神による強行手段です。神は弱く迷っているロトを救うためにこのような大きな力を発揮されます。

 16節に、「主は憐れんで」と書かれています。ソドムとゴモラに対する神の厳しい裁きとその滅びの中からロトが救い出されたのは、ただ神の憐れみによることです。迷っているロトの手を直接つかみ、いわば力づくで、その強いみ手の力で、神はロトを救われました。神の憐れみはこのような強い力となって働くのです。

 ロトに対する神の憐れみはなおも続きます。「滅びから救われるために山へ逃れなさい」と命じた神に対して、ロトは山まではたどり着くことができないので、近くの小さな町へ逃れさせてくださいと懇願します。神はこのロトの願いをも聞き入れられ、近くの町ツォアルに着くまではこの地を滅ぼすことはなさらないと約束されます。

【21~26節】。ロトがソドムとゴモラの滅びから救い出されるためには、この地との別れが必要でした。神のみ言葉に聞き従い救われるためには、それまでに頼っていたものを棄てなければなりません。ロトはこの地で築き上げてきたすべての財産、生活の基盤、ソドムから出ることを好まなかった嫁いだ娘たちとその夫、それらのすべてと別れなければなりませんでした。これからは、神のみ言葉の導きによって生きるようになるためです。しかし、神の約束を途中で疑った妻は後ろを振り返り、残してきた地上のものに心を奪われたために、塩の柱となりました。ロトは長く連れ添ってきた妻とも別れなければなりませんでした。

でも、わたしたちはここでもう一つの神の恵みをも知らされます。ロトが二人の旅人を危害から守るために犠牲として差し出そうとした未婚の二人の娘たちはロトと一緒にこの滅びから救い出されています。そして、30節以下では、彼女たちはイスラエルの周辺地域に住むモアブ人とアンモン人の先祖になったと書かれています。ロトと二人の娘たちは神に選ばれた民からは外れることになりましたが、なおも神によって用いられたと言えるでしょう。

最後に、わたしたちはもう一度このように声を合わせたいと思います。Remenber Sodom! そして、Remenber Jesus Christ! わたしたちは神の厳しい裁きを忘れてはなりません。自らの罪を悔い改めて、神に立ち返ることをためらってはなりません。この世のことに心を奪われて、後ろを振り返ってはなりません。常に、絶えず、主イエス・キリストを見上げ、その救いの恵みに心からの感謝をささげて礼拝を続け、主キリストが天に備えてくださる朽ちることのない勝利の冠を目指して走り続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いとつまずきの多いわたしたちの信仰の道を、あなたが絶えず真理のみ言葉をもって導き、終わりの日に至るまで忠実に信仰の道を全うさせてください。

〇天の神よ、この世界と全人類とを滅びからお救いください。あなたが全地のすべての国民を憐れんでくださり、地のすべての王たち、支配者たちがあなたを恐れて、あなたのみ前に謙遜な僕たちとなりますように、お導きください。

〇神よ、世界にまことの平和をお与えください。互いに分かち合い、与え合い、支え合う世界にしてください。生まれた土地を追われ、住む家を焼かれ、愛する家族と引き裂かれた人々、食料や衣料を十分に受けられず、貧困と飢餓に苦しむ人々、恐れと不安と孤独の中で生きる希望を失っている人々、その一人一人に必要な助けが与えられ、あなたからの慰めと励ましとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月12日説教「神の恵みを分かち合う教会」

2021年9月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記24章17~22節

    使徒言行録4章32~37節

説教題:「神の恵みを分かち合う教会」

 使徒言行録4章32節からは、エルサレムの初代教会の信仰生活についてまとめの報告が書かれています。同じような報告は2章42~47節にも書かれていました。この二つの報告には似通っている点と違っている点があります。この二つの報告を比べながら学んでいきたいと思います。

 まず、それぞれの報告が語られている時期ですが、2章はペンテコステの日に教会が誕生して間もなくのころ、紀元30年ころの春から夏にかけて、エルサレム教会の会員数は2章41によれば3千人余りでした。きょうの個所は、それからおそらく数か月後、4章4節によれば教会員は男の数が5千にほどに増えています。ペトロとヨハネを中心とした主イエスの12弟子の宣教活動によって、エルサレム初代教会は大きく成長しました。それは、聖霊なる神のお働きです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、それ以後2千年間のすべての活動もまた聖霊なる神のお導きによります。そして、わたしたちの教会、秋田教会がこの地で130年近くの歴史を歩み続けることがゆるされたのも聖霊なる神の恵みと憐れみによることです。

 では、32節から読んでいきましょう。【32節】。2章の最初のまとめの報告でもそうであったように、ここでも、信じた人々・教会員の一致、結束がまず強調されています。2章42節では、「相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」、44節では、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有し」、46節以下でも、「ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まって、……一緒に食事をし」と繰り返されていました。4章32節では、「心も思いも一つにし」という表現でまとめられています。

 聖書では「心」とは、人間の感情や意志、言葉や行いのすべてが現れ出る元、それらの源泉と考えられています。「心を一つにする」とは、喜びや悲しみ、泣き笑い、祈りと讃美、奉仕と献身、神のみ言葉を聞き、神を礼拝すること、それらのすべてを信者たちが一つの信仰共同体として共有し、一緒に経験することです。また、「思い」とは、聖書では多くの場合「魂」と訳されており、人間の命、人間が生きていることを意味しています。「思いを一つにする」とは、命を共有していること、一つの命を共に生きていること、いわば生命共同体であることを言い表しています。

 初代エルサレム教会に集められた信者たちがこのような一致と共同体としての交わりが与えられていたのはなぜであったのか、その答えは、32節の冒頭にあるように、「信じた人々の群れ」であったからにほかなりません。主イエス・キリストを信じる信仰による一致です。信仰によって、彼らはさまざまな違いにもかかわらず、「心も思いも一つに」することができたのです。生まれた環境や性格や持っている能力や社会的地の違いにもかかわらず、その違いを持ちながらも、その違いをはるかに超えた主イエス・キリストを信じる信仰の恵みによって、彼らは一つの共同体とされているのです。主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって、それを信じる信仰によって、共に罪ゆるされた共同体とされ、共に復活の命を生きている共同体として、共に来るべき神の国の到来を待ち望んでいる共同体として、「心も思いも一つに」しているのです。

 32節後半の「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」は内容的には34節以下に続きますので、先に33節を読みましょう。【33節】。「使徒たち」とは、主イエスと地上の歩みを共にした12弟子たちのことです。イスカリオテのユダの代わりにマティアが補充されたことが1章に書かれていました。1章22節では、彼らは「主の復活の証人」になるべきだと言われています。弟子たちは主イエスの地上でのご生涯の証人であり、十字架の死の証人であり、そして主の復活の証人となりました。

 「証人」にはいくつかの務めがあります。第一は、そのことの目撃者となることです。主イエスの地上でのご生涯と十字架の死と復活が確かに歴史の中で起こった出来事であり、世界史の中で、わたしたち人間の歴史の中で起こった事実であることを証しする務めです。主イエスの地上のご生涯と十字架の死と復活は、だれかが創作した物語ではなく、単なる思想とか教でもなく、歴史の中での出来事であることを弟子たち・使徒たちは証ししています。

第二には、彼らが見た主イエスの出来事が自分たちのための救いの出来事であると信じ、その救いの恵みによって生きるということです。主イエスの出来事はただ外から観察したり、記録したりする出来事ではなく、その出来事がわたしにとって意味を持ち、わたしの生き方を根本から変え、それまでは死に向かって進んでいたわたしが、主イエスの復活によって、新しい命に向かって進んでいくという、わたしの救いの体験となるのです。

第三には、彼らが主イエスの出来事を教会の民と全世界の民にとっての救いの恵みとして語り伝え、説教をするということです。33節によれば、使徒たちは初代エルサレム教会で説教職を担っていたと推測されます。

すでにわたしたちはこれまで使徒言行録に記録されている使徒ペトロの説教を3回聞いてきました。2章14節からのペンテコステの時の説教、3章12節からのエルサレム神殿広場での説教、そして4章8節からのユダヤ最高議会での説教、それらの3回の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということをわたしたちは見てきました。エルサレム初代教会でそうであったように、そののちの2千年の教会も同じように、主イエスの十字架の死と復活の福音を語り、聞き、信じることによって生きてきましたし、これからもそうです。主イエスの十字架の死によって罪が贖われ、救われた民として、そして主イエスの復活によって罪と死と滅びから解放され、朽ちることのない永遠の命の約束に生きる民として、わたしたちの教会は歩み続けるのです。

33節の後半は、「皆、人々から非常に好意を持たれていた」と訳されていますが、原文では口語訳聖書のように、「大きな恵みが彼ら一同に注がれていた」と訳すのがよいと思われます。「大きな恵み」とは、神から与えられた恵みと理解すべきです。神から与えられた大きな恵みによって、ひとたび十字架の主イエスを見捨てて逃げ去った弟子たちが、再び呼び集められ、聖霊の賜物を受けて、主イエスの復活の証人として立てられました。土の器に過ぎない彼らが、主イエスの復活の証人として立てられ、永遠の命をもたらす神のみ言葉の説教者として立てられているのです。それは神の大きな恵みによることです。

また、この神の大きな恵みは32節後半と34節とを結びつける役割をも果たしているように思われます。すなわち、エルサレム初代教会に神の大きな恵みが注がれていたゆえに、教会は神の恵みで満たされ、すべての信者が神の恵みで豊かにされていたので、「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」のです。

そしてさらに、教会に神の大きな恵みが与えられていたゆえに、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と34節で言われているのです。34節以下には、一般にエルサレム教会の原始共有社会とか、愛の共有制度と呼ばれたりする特徴ある共同生活が描かれていますが、そのような共有生活を可能にしている土台が、神の大きな恵みであったということをも、わたしたちはここで確認することができます。

同じような共有生活については2章44~45節にこう書かれていました。【44~45節】。4章ではより具体的に、【34節b~35節】と説明されています。神の恵みによって豊かにされている信者たちは、だれ一人自分の持ち物を自分だけに独占することなく、すべての所有欲から解放されており、またそれゆえに、だれ一人貧しくて飢えたり、不足して困窮したりする人はなく、もちろん自分の持ち物を誇ったり、他者から奪ったりすることはなく、互いに与え合い、互いに分かち合うという、愛の共同体が形成されていたのです。

エルサレム教会の愛の共有生活とはどのようなものであったのかを、ここに描かれている短い記述から正確に再現することは難しいと思われますが、いくつかのことを読み取ることができます。まず、この共有生活は一つの制度とか規則ではなかったということは明らかです。したがって、近代社会の共産制度とは根本的に違っています。エルサレム教会の信者が持っている財産のすべてが法的に個人から教会へ移されるとか、個人の所有が法的に禁止されているというのではありません。各自が信仰による自由の中で、感謝をもって神にささげられたものとして、自分の持ち物や財産を売り、その代金を教会にささげました。使徒たちはそれを、神のみ言葉の恵みをすべての人に語り、分かち与えるのと同様に、必要な人に分配しました。それはすべて信仰による交わりの中で、愛による分かち合いとして行われていました。それは、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされ、新しい命を与えられ、来るべきみ国を待ち望んでいる信仰共同体としての共有生活でした。

教会に召されている信者たちは、主イエス・キリストの十字架の死によって、その尊い血の値によって贖われ、主キリストのものとされています。すべての信者に神の救いの恵みが豊かに与えられています。だれも地上の財産によって富む必要はありません。だれも自分の所有物に縛られることもありません。それゆえに、だれも乏しい人はいません。主イエス・キリストにある信仰者はすべて神の恵みによって豊かにされ、富む者とされています。それゆえにまた、主キリストにある信仰者はみな、惜しみなく与え、惜しみなくささげ、惜しみなく分かち合う信仰共同体とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが日々にあなたから与えられている豊かな恵みを、信仰の目をもって受け取り、心から感謝し、またそれを互いに分かち合う者たちとしてください。

〇天の神よ、この世の過ぎ去り、朽ちいくものを追い求めるのではなく、永遠の命であるあなたのみ言葉によって生きる者としてください。

〇神よ、深く病んでいるこの世界を憐れんでください。傷ついている人、悲しんでいる人、孤独な人、重荷を負っている人を、憐れんでください。一人一人にあなたからの慰めと励ましが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月5日説教「真の神であり、真の人」

2021年9月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編2編1~12節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「真の神であり、真の人」②

 「日本キリスト教会信仰の告白」はその冒頭で、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。この告白は、わたしたちが信じている唯一の救い主イエス・キリストは真の神であると同時に真の人であり、神と人との間に立たれる唯一の仲保者となられ、わたしたち人間を罪から救ってくださったという、キリスト教信仰の中心を言い表しています。特に、主イエス・キリストが真の神であり真の人であられることによって、その救いのみわざが完全になされたということを強調しています。別の言い方をすれば、もし主イエスが真の神であり同時に真の人でなかったなら、わたしたちの救いは不完全であり、わたしたち人間はなお罪と死の中に閉じ込められているほかなかったということです。

「真の神であり真の人」という告白は、紀元451年に制定された『カルケドン信条』の中で用いられた言葉です。この信条(信仰告白と同じ意味)は、初代教会のキリスト論論争に決着をつけ、今日に至るまでの正統的キリスト教会の信仰告白の基礎となったものです。その経緯を簡単に振り返ってみましょう。

新約聖書の時代、紀元50年代から始まって、4、5世紀までの初代教会、古代教会では、イエス・キリストが神であること(神性)と人間であること(人性)とをめぐって、その両者の関係について、盛んに議論されていました。これをキリスト論論争と言います。その中で、教会はさまざまな異端的教えと戦ってきました。教会は何度か世界教会会議を招集し、その会議によって正しいキリスト教の教理を確立し、異端を退けてきました。そして、紀元451年に小アジアの北西にあるカルケドンで世界教会会議を開催し、そこでこれまでのキリスト論論争に終止符を打つべく、カルケドン信条を制定し、その中で「主イエス・キリストは真の神であり真の人である」と告白したのです。

では、この告白の中身について、さらに具体的に学んでいきましょう。まず、この告白の全体としての意味について、二つのことを確認しておきたいと思います。一つは、「真の神であり、真の人」とは、主イエスは、いつでも、どこでも、永遠に、真の神であり、同時に、真の人であるということです。主イエスはある時点では人であったが、ある時からは神になったとか、ある時点までは神ではあったが、ある時から人になった、あるいは、この時には神であったが人ではなかったとか、別の時には人であったが神ではなかった、というような考えはすべて退けられます。

たとえば、ある人たちはこう考えました。主イエスはヨセフとマリアの子として誕生し、普通の人間として大きくなり、30歳になって公の宣教活動に入られる前、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたときに、天から聖霊を注がれて神となったのだと。異端者たちがそのように考えたのには、それなりの理由がありました。彼らは神の尊厳性や超越性、永遠性を守らなければならないと考えたからです。神が人間の胎内から生まれるとか、神がおむつをした赤ちゃんであったとか、乳児から幼児へ、少年、青年と時間をかけて大人になるとか、そのようなことは神にとってはありえないと、彼らは考えたからです。彼らは主イエスの神性を重視するあまり、人性を軽視したと言わざるを得ません。

また、ある人たちはこう考えました。主イエスは神であられたが、十字架につかられたときには、神であることをやめて人間となり、人間として死んだのだと。これにも理由があります。神である方が十字架につけられたときに、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになるのか」と、弱者の弱音とも敗北ともとれる言葉を言うはずがないし、そもそも神が死ぬなどということはありえないではないかと考えたのです。

更にこう考えた人たちもいました。主イエスは神が仮のお姿で人間のようにしてこの世に現れたのであって、主イエスの誕生もご受難も十字架の死も仮の現象であったに過ぎないと。これらはいずれも、主イエスの神性を守る意図から人性を軽視するものですが、その反対に、主イエスの神性を否定して、人生を強調する考えもありました。

けれども、教会はそれらのすべてを異端として退け、主イエスが誕生から十字架の死に至るまで、さらには昇天されたのちも、常に、絶えず、永遠に、真の神であり同時に真の人であられたという告白を貫き通しました。

聖書に描かれているように、主イエスがおとめマリアから誕生されたときも、12歳で家族と一緒にエルサレム神殿で神を礼拝されたときも、30歳になられ公の宣教活動を始められる際に、荒れ野でサタンからの試みにあわれたときも、ガリラヤで「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と、宣教の第一声を発せられたときも、ガリラヤ湖で嵐を静められたときも、ゲツセマネの園で血のように汗を滴らせながら徹夜の祈りをささげられたときも、そして、十字架の死の時も、墓に葬られたときも、三日目に墓の中から復活されたときも、40日目に天に昇られたときも、また今、天の父なる神の右に座して、わたしたちのために執り成しをしていてくださるときも、主イエス・キリストは真の神であり、真の人であられる、これがわたしたちの信仰です。

もう一つ確認しておくべきことは、「真の神であり、真の人」の「真の」という言葉は、「完全な」とか「全体として」という意味を含んでいるということです。つまり、主イエスはその半分が神で、半分が人であるというのではなく、また頭が神で、手や足は人間というのでもなく、あるいは心とか魂は神であるが、肉体は人間であるというのでもありません。その全ご人格が、そのお体も心もすべてが、全体が、完全に神であり同時に完全に人であるということを意味しています。

では次に、なぜ主イエス・キリストは「まことの神であり、まことの人」でなければならないのかを、別の側面から考えてみましょう。結論から言えば、説教の初めにもお話したように、もしそうでなければ、わたしたち人間の救いが完全ではなくなるからです。つまり、「真の神であり、真の人」であり、神と人との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間を完全に罪から救い出すことがおできになるということです。

教会はキリスト論論争が一段落した紀元5世紀以後も、さまざまな異端的な教えに悩まされ、それらと戦いつつ、正統的なキリスト教教理を確立するための努力を惜しみませんでした。そのような神学者の一人、紀元11世紀のカンタベリーの大主教アンセルムスは、『カルケドン信条』で告白されたキリスト論を論理的に深めた論文、ラテン語で『クール デウス ホモ』、日本語訳では『なにゆえに、神は人となられたか』という著書を著しました。この書では3つの段階に分けて論を進めています。

第一は、人間は神に対して罪を犯したために、その罪を償う責任を負っている。けれども、人間は神に対して罪を償う能力がない。第二は、神だけが罪を償う能力をお持ちであるが、神はご自分が罪を犯したのではないので、罪を償う責任がない。第三は、それゆえに、この二つのことを同時に満たすことができるのは、人間であって同時に神である方以外にはない。すなわち、「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストだけが、わたしたち人間の罪の償いを完全に成し遂げ、罪から救い出すことがおできになる。そのために、神は人間となられたのだ、とアンセルムスは説明しました。

16世紀の宗教改革の時代、このアンセルムスの説をさらに深めたのが、1563年に制定されたハイデルベルク信仰問答です。その15問から18問で、神と人間との間の唯一の仲保者なる主イエス・キリストが、真の人となられてわたしたち罪びとが受けるべき神の裁きを代わって受けてくださり、また同時に、真の神として完全な服従と献身によってわたしたちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったと教えています。わたしたちの教会はこの信仰を受け継いでいます。

では次に、「真の神」という告白について聖書から聞いていきましょう。詩編2編は、主イエスの到来を預言するメシア詩編と言われています。7節に、「主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ』」と書かれています。このみ言葉は、新約聖書の多くの箇所に引用されています。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時に天から聞こえたみ声として、高い山の上で主イエスのお姿が光輝いたときの天からの言葉として、また使徒言行録13章のパウロの説教の中でなどで、主イエスが神のみ子であり、神の救いのみ心を行われる真の神であるということを証ししています。主イエスはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であられ、真の神です。

新約聖書では、至るとこところで、主イエスが神のみ子であり、神と等しい方であることを語っています。主イエスは誕生の時から十字架の死に至るまで、また三日目の復活と40日後の昇天、父なる神の右に座しておられる今に至るまで、そして、終わりの日に再び天から降りて来られ、神の国を完成される時まで、真の神であられます。

ルカによる福音書1章30節以下では、まだヨセフと結婚していなかったおとめマリアの胎内から生まれる子が、いと高き神のみ子であるということが繰り返して語られています。そのみ子は、人間の営みによらず、神から注がれる聖霊のみ力によって、全能なる神のみ力によってマリアの胎内に宿った神のみ子です。この神のみ子なる主イエスによって、神はご自身の救いのみわざを完全に成就されるのです。

ここで注意すべきことは、主イエスは誕生の時から完全に神であられたということです。人間が大人になって次第に成長し、悟りを開いて神になるというのではありません。あるいは、死んでから神になるというのでもありません。いと高き天におられる神が、地に降って来られ、人間のお姿をとって、この世においでくださったということなのです。ヨハネによる福音書1章14節ではそのことを、「言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言い表しています。神はご自身を低くされて地に降って来られ、人間となられました。聖なる神が地の罪びとたちの中に、罪びとの一人としておいでになったのです。永遠なる神が、地の滅びるべき人間の中にお住まいになり、そのようにしてわたしたち人間と共にいてくださる神となられ、わたしたち人間を愛してくださり、罪から救い出してくださったのです。「まことの神であり、まことの人」であられる主イエス・キリストにこそ、わたしたちの救いのすべてがあるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがこの地を顧みてくださり、この地に住むわたしたち罪びとを愛してくださり、あなたのみ子・主イエス・キリストによって全人類の救いのみわざを成し遂げてくださったことを感謝いたします。どうぞ、暗黒の地に住む世界の民を主イエス・キリストの福音によって照らしてください。

〇天の神よ、あなたに選ばれて信仰へと召された教会の民が、この福音を携えて、全世界へと遣わされ、世界の人々に救いと和解を宣べ伝えることができますように。どうか、教会の民を強め、教会に集められているわたしたち一人一人を希望と喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。