6月27日説教「この名による以外、わたしたちの救いはない」

2021年6月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編118編20~29節    

  使徒言行録4章1~22節

説教題:「この名による以外、わたしたちの救いはない」

 使徒言行録4章8~12節では、ユダヤ最高議会の裁判でのペテロの弁明が語られています。3章1節以下に書かれていたように、エルサレム初代教会のペトロとヨハネは生まれつき足が不自由だった人を主イエス・キリストのみ名によって立ち上がらせるという奇跡を行いました。エルサレムでそれが大きな騒ぎとなったために、ユダヤ人の指導者たちが二人を捕え、獄に入れました。翌日、ユダヤ最高議会での裁判の席で語ったのが8節以下のペトロの弁明ですが、彼はここで自分たちの無罪を主張して弁明しているというよりは、主イエス・キリストの救いの恵みを語る説教をしていると言うべきでしょう。 誕生したばかりの初代教会が最初に経験した迫害、それはユダヤ人からの迫害ですが、その迫害の場が、主キリストの福音を宣べ伝える宣教の場となったのです。主キリストの福音を信じ、神のみ言葉を語るキリスト者にとっては、この世のいかなる迫害をも恐れず、世の権力や暴力の脅かしにも決して臆することなく、またわが身の死の危険をも超えて、大胆に、力強く主キリストを証しすることがゆるされます。なぜなら、神の言葉はこの世のいかなる鎖によってもつながれることはないからです。神の言葉、神の真理はわたしたちを真の自由人にするのです。  この説教でペトロは、生まれつき足が不自由だった人が歩き出したのは、神が死者の中から復活させられた主イエス・キリストの名によるのだということを説教しましたが、彼の説教はそれにとどまらず、そのいやされた人にとってだけではなく、あなた方にとっても、いやだれにとっても、すべての人にとって、主イエス・キリストの名による以外には救いはないと12節で語ります。「わたしたちが救われるべき名は」の「べき」と訳されている言葉は、主イエスが福音書の中でご自身の受難予告をされた際に、「人の子は必ず多くの苦しみを受け……殺され、三日の後に復活することになっている」(マルコ福音書8章31節)と言われた箇所の、「必ず、することになっている」と訳されているのと同じ言葉です。これは神の強い意志、神の決断、神の永遠の救いのご計画を表現する言葉と言われています。神はご自身のみ子、人となられ、おとめマリアからお生まれになり、わたしたちの罪のために苦しまれ、十字架で死なれ、そして三日目に復活された主イエス・キリストによって、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されたのです。ただ、この主イエス・キリストによってのみ、すべての罪びとをお救いくださったのです。これ以外のどこにも、だれにも、救いを求めることはできません。  「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。この12節のみ言葉には、非常に強い意味が込められています。主イエス・キリストのみという、この狭い、ただ一筋の道だけが、わたしたちすべての人の救いの道であるとペトロは説教します。宗教改革者たちも「主キリストのみ」を強調しました。このように救いの道を狭めること、限定することは、救いの恵みを小さくすることでは全くありませんし、わたしたちが救いの道を進むことを困難にするのでもありません。いやむしろ、わたしたちの救いの道を確かなものにし、救いの恵みを豊かにし、それを信じる人に大きな慰めと平安を与えるのです。  では、ここで否定され、拒絶されている他の救いの道とは何でしょうか。主イエス・キリストのみ名を信じる信仰の道以外のすべての道のことですが、その主なものを考えてみましょう。世の多くの人々はさまざまな神々に救いを求めます。しかし、聖書の神は言われます。それらのすべては人間が造りだした偶像であって、真に人を救うことはできないと。ユダヤ人は神の律法を守り行うことによって救われると考えました。しかし、使徒パウロが言うように、律法によっては、それを守り行うことができない人間の罪がいよいよ明らかにされるだけです。多くの人々は、究極的に信じられるのは自分だけだと言います。しかし、その自分とはいったい何者でしょうか。時に迷ったり、時に人を傷つけたり、時に悲しんだり、時に肉体が病んで痛みを覚えたり、そして最後には死を迎え、朽ちていく存在、そのようなものに救う力などあるでしょうか。ある人は哲学、科学、知識や知恵に、宇宙的な原理とか真理とかに、何かの思想、信条に、救いを求めます。しかし、それらはひと時人間の腹を満たすことがあっても、魂の永遠の救いを与えることはできません。  そのようなすべての道によっては得られなかったまことの救いの道を、神は主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、わたしたちに備えてくださいました。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、わたし自身には全く救われる望みも可能性もないのに、神から与えられる一方的な恵みによって、わたしたちが信仰によってそれを信じ受け入れることによって、神はわたしに罪があるままで、主キリストのゆえに、わたしを義と認め、わたしの罪をゆるし、救ってくださるのです。  13~14節には、ペトロのこの説教を聞いた最高議会の議員たちの反応が書かれています。【13~14節】。議員たちはペトロの証言を聞いて不思議に思い、驚き、また戸惑っています。けれども、彼らの心はかたくなに閉ざされたままです。彼らの前には今、一本の救いの道が備えられています。彼らは今、法廷に立つ二人の囚人を裁くべき裁判官であるというよりも、ペトロの説教によって救いへと招かれている一人の罪びとなのです。けれども、彼らは神の救いへの招きの言葉に心を閉ざし、かたくなに自分たちの立場を守ろうとし、体面を取り繕うことだけに心を用いています。  ここで、ユダヤ最高議会の法廷に立たされているペトロとヨハネの二人と、彼らを取り囲んでいる議長の大祭司と70人の議員たちとの、対照的な姿が浮かび上がってくるように思われます。一方では、この世の鎖につながれてはいるが、主キリストの福音によって全くこの世の権力とその脅しから自由にされて、大胆に主イエス・キリストを告白し、喜びに満たされて、勝利を確信して被告席に立っている二人の使徒たち。他方では、民の指導者であることを自認し、この世の権力を身にまといながら、根拠のない罪状で二人を裁こうとしている大祭司と70人の議員たち。しかし自ら裁くべき立場にありながら、神のみ言葉によって裁かれなければならないことを感じながらも、心をかたくなにし、困惑し、不安におびえている彼ら。その両者の対照的な姿がここで浮き彫りにされています。  13節に、「ペトロとヨハネの大胆な態度を見」と書かれています。「大胆な」という言葉は、このあと4章29節、31節などでも繰り返して用いられます。迫害の中にあっても、少しも恐れず、語り続ける使徒たちの勇敢さを言い表しています。彼らの大胆さはどこからくるのでしょうか。それは、言うまでもなく主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じている信仰と、それを支えている聖霊なる神のみ力からです。使徒たちは「無学な普通の人」(13節)であり、彼らを迫害している人たちのように政治的・宗教的な力をも持ってはいません。あるいはまた、自分たちの何らかの利益やこの世からの称賛を期待しているのでもありません。ただ、ひたすらに主イエス・キリストの福音を信じ、主イエス・キリストによって捕らえられ、それによってこの世のすべての束縛から自由にされ、死の恐れからも解放されている信仰者に与えられている大胆さであると言えます。  ユダヤ最高議会はペトロとヨハネを裁くことはできませんでした。なぜならば、彼らは主イエス・キリストのみ名を恐れていたからです。主イエス・キリストの福音を恐れていたからです。彼らは16~17節でこのように言っています。【16~17節】。彼らはここで注意深く「主イエス・キリスト」というお名前を口に出さないように、「あの名によって」と言っています。彼らは主イエス・キリストのお名前を口に出すことを恐れています。主イエスのお名前に偉大な力があることを彼らもまた認めざるを得ません。ペトロが生まれつき足の不自由だった人に、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、その人はすぐに躍り上がって立ち、歩き出したと3章6節に書かれていました。また、4章12節でペトロは、「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていない」と説教しています。主イエスの名とは、主イエスご自身のことであり、主イエスの救いのみわざ全体のことでもあります。十字架につけられ、三日目に復活された主イエスこそが、奇跡の力の源であり、すべての人の救いの源であり、またペトロとヨハネを大胆な伝道者としている力の源なのです。ユダヤ最高議会の議員たちもそのことを認めないわけにはいきません。けれども、彼らは主イエスを信じることを拒みました。それだけでなく、自分たちの地位と名誉が危険にさらされていることを感じ、主イエスのみ名がこれ以上人々の間に広がることを恐れ、それをとどめることに必死になっています。主イエス・キリストを信じる信仰が広まれば、ユダヤ教の指導者としての自分たちの立場が失われることを恐れているのです。  それに対して、ペトロとヨハネはこのように答えました。【19~20節】。ここでも、ユダヤ最高議会の議員たちとペトロとヨハネの二人の使徒たちとが対比されています。対比されているというだけでなく、対決していると言うべきでしょう。それは、神に従うのか、それとも人間に従うのかという対決です。議員たちは主イエスの偉大なみ名を恐れ、自分たちの立場がくつがえされることを恐れ、また主イエスの福音を信じ始めている民衆を恐れています。それに対して、ペトロとヨハネはこの世のいかなる権力をも恐れず、迫害をも恐れず、自らの死をも恐れていません。主イエス・キリストが罪と死とに勝利しておられることを信じているからです。ペトロとヨハネはこの世に属する朽ち果てるしかない人間の言葉に従うのではなく、救われた信仰者を永遠の命へと導かれる神のみ言葉に聞き従う道を選び取りました。  ペトロは言います。「わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」と。かつての預言者たちも同じように告白しました。アモス書3章8節にはこうあります。「獅子が吠える、誰が恐れずにいられよう。主なる神が語られる。誰が預言せずにいられようか」。また、エレミヤ書20章9節にはこう書かれています。「主の名を口にすまい、もうその名によっては語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」。神のみ言葉は預言者たちの中で激しく燃え上がる火となり、彼らを突き動かし、彼らの全身を支配し、彼らを神のみ言葉を語る者に造り変えるのです。それと同じように、神のみ言葉はわたしたちの中で力となり、命となり、希望となり、勝利となります。

(執り成しの祈り) 〇天の神よ、あなたの命のみ言葉を信じ、それに生きる者としてください。主イエス・キリストのみ名を信じ、その救いの福音によって生きる者としてください。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と預言者は告白しました。わたしたちもあなたの永遠のみ言葉の上に堅く立たせてください。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月20日説教「我らの罪をも赦したまえ」

聖書: エゼキエル書   18章30~32節

    ルカによる福音書 11章 1~ 4節

説教題: 「我らの罪をも赦したまえ」  

説教者: 長老 柴田 理

 先ほどお読み頂いた新約聖書は、ルカによる福音書に記された“主の祈り”です。 主の祈りは、新約聖書のマタイによる福音書6章と、ルカによる福音書11章に記されています。  このうちマタイによる福音書では、山上の説教の中で主イエスが集まった人々にお教えになったとされています。  また、ルカによる福音書では弟子達が、“ヨハネの弟子達のように、私たちにも祈りを教えてください”とお願いしたことに答えて、主イエスがお教えになったと記されています。  いずれにも共通で大切なのは、人がこの祈りを考え出したのではなく、真の神でありながら真の人でいらっしゃる、主イエスが直接“このように祈りなさい”と教えてくださったことです。  ところが、主の祈りは、最も大切な祈りとされている反面、様々な場面で便利に用いられているのではないかと感じられることもあります。多くの場面で捧げられている主の祈りが、果たしていつも畏れをもって捧げられているかと問われると、自分自身のことも含めて自信を持って“はい”と答えられないように思います。  いろいろな集会の締め括りに、“主の祈りをもって終わります”として会を終えていたことが思い出されます。それはそれで理にかなったことかも知れませんが、その時の主の祈りの位置づけや重さをそれぞれが認識していたでしょうか。祈り会などは別にして、“いつでもどこでも主の祈り”と言った便利な役割を主の祈りに求めたりはしてこなかったでしょうか。  それは、主の祈りは皆様が数え切れないほど祈ってきたものですから、思考回路を通さなくても言葉が口をついて出てくることも一因と思われます。祈りに意味を乗せることなく、いわば“音”だけの祈りとなることもあります。このため、不謹慎にも祈りながらも他のことを考えることもできるのです。 “天にまします……ああ、雨が降ってきた。傘を忘れて来ちゃったな”とか、“日用の糧を今日も……今日はパンがなかったな”などと、考えることもできるのです。  遠藤周作という、カトリック信徒の作家がいました。彼はある随筆の中で、“畏れると恐れるの違いを若い人は知っていない”と書いています……聞くだけではおわかりにならないと思います。 “畏れる”と“恐れる”……声に出して読むと同じ言葉であり、辞書で“恐れる”を引くと、“畏れるとも書く”と同じ意味に見なされることが多いのです。しかしそれはちがうと遠藤周作は言います。一方の恐れるは恐怖の“恐”と書くものです。それを遠藤周作は、“強大な威力を前にして、怯え、縮こまること”としています。もう一方の畏れるは、畏怖の“畏”、畏まると書く字です。こちらは“自分を遙かに超える存在を目の当たりにして震撼し、おののくこと”としています。後の方の“畏れる”の顕著な例は、エジプトを出てシナイ山で十戒を受けるために主の前に立ったモーセのような様子でしょうか。私たちが主の前に立つ時、この世の全てを遙かに超える神様を前にして、深い畏れを持っているでしょうか。また、畏れを持って祈っているでしょうか。  短い祈りであっても、いえ、短い祈りであるからこそ、ひとつひとつの言葉に込められた意味があります。  神様が言葉によって世界をお作りになったことを初めとして、キリスト教は言葉を大切にしてきた宗教です。祈りにおいても、記されたひとつひとつの言葉を大切にしたいと思います。  マタイによる福音書6章7節に、“祈る時は異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼等は言葉数が多ければ聞き入れられると思っている。”と記されています。短い言葉に凝縮された祈り、研ぎ澄まされた祈りを、しっかりと噛みしめながら畏れを持って捧げていきたいと思います。  さて、先にお話ししましたように、主の祈りはマタイによる福音書と、ルカによる福音書に記されていますが、主の祈りについては、ルカによる福音書に記されている短い方が元の形に近いとされています。  今日はルカによる福音書を基に、主の祈りについて御言葉を聞きたいと思います。とりわけ、罪を赦してくださいという祈りに聞いてまいります。  罪についての祈りの部分は、ルカによる福音書には次のように記されています。 “わたしたちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから” この部分は二つの要素で成り立っています。ひとつは“わたしたちの罪を赦してください”と願う部分。今ひとつは、“自分に負い目のある人を皆赦しますから”と言う部分です。 ■ 初めに前半の部分を見ましょう。 “わたしたちの罪を赦してください”  罪を赦してくださいと願い、祈る時、その“罪”とはなんでしょう? もし、“あなたが赦して欲しいと願う罪とはなんですか?”と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。  それについては、主の祈りの初めにヒントがあるように思います。“父よ”という呼びかけに続いて“御名が崇められますように”と記されています。 最も新しい日本聖書協会の新共同訳聖書では、“御名が聖とされますように”と訳されています。聖とすると言うことは、聖別する、別扱いすると言うことです。やさしく言うと、神様をそれ以外の作られたものとは全く別のものとすると言うこと、神を神とする、と言うことです。  私たちはどうして今、ここにいるのでしょうか? それは神が私たちを、今、この地にいるように創ってくださったからであり、全ては御心によるものです。世の存在のすべて、時間と空間の中で動いている全ては神の御支配の下にあります。その神を神としないことが罪であります。  主イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けた後、40日間、悪魔の試練にお遭いになりました。“パンを石に変えたら?”、“ここから飛び降りて神を試しては?”、“私にひれ伏したら?”。 ……全ては主イエスを神から引き離そうとするもの、主イエスが神様を離れて悪魔に仕える、神を神としないようにさせる企みでした。主イエスはその罪を斥けたのです。  神を神としない時、人はどのようになるのでしょうか。 ・ まず、自分自身を神のようにすることがあります。神などなくても生きられる、自分の力で未来を切り開いていると勘違いします。価値判断の基準は全て自分自身になってしまいます。 ・ また、神以外の物を神とし、それに囚われたり、ひれ伏したりすることがあります。財産、学問、思想、名声、人、等があります。もちろんそれぞれに価値があり、重要でありますが、それらは人によって作られた価値を超えるものではありません。 ・ また、主にあるきょうだいとしての隣人を愛さないことがあります。   肉親としてのきょうだいのみならず、隣人は自分自身と同じく神様に創られたきょうだいなのですが、そのことに目を注げなくなり、そのため隣人の傷に気が付かず、または素知らぬ振りをして通りすぎることがあります。   さらには教会から遠ざかってしまったりするのです。  このように私たちには、神を神とすることができない、神以外の物を、時には自分さえも神としてしまう罪があります。神を神としないことから多くの罪へとつながり、逆に多くの罪は神を神としないことと結びついているのです。  今日の箇所で“私たちの罪を赦してください”というところの“罪”という言葉は、マタイによる福音書では“負い目”とされています。“私たちの負い目を赦してください”。 負い目とは、金銭的な負債をも意味することがあります。  ある意味で、私たちは神様に対して大きな負債を負っており、それをきちんと返さないといけない責任があるのです。  マタイによる福音書18章に、“タラントンの譬え”があります。 主君の憐れみによって1万タラントンを帳消しにしてもらった家来が、100デナリオン貸した仲間の借金を帳消しにすることなく牢に投げ込むというものです。  1デナリオンは当時、一人の人が1日働いて得られる賃金でした。このため、100日分の賃金である100デナリオンは、現代風に、仮に時給800円で1日8時間働いたとして 64万円です。一方、1万タラントンは6千万デナリオンとなり、3,840億円になります。 普通に暮らす私たちには到底返せる金額ではありません。  もちろん罪の大きさを貨幣に換算することなどできませんが、私たちの神様に対する負い目は、どれだけ努力しても到底返せるものではないと言うことがイメージできるのではないでしょうか。どんなに努力しても、どれだけ良いことをしても、決して帳消しにされることはできない負い目。そして、神がどこまでも厳格な方であるとすれば、私たちを待っているものは滅びでしかないのです。  唯一解決できるとすれば、それは相手の一方的な好意、あるいは憐れみによってその負い目を帳消しにしてもらう、和解して頂くと言うことです。  そのような私たちの罪が赦されるために、赦して頂くためにできること、それは、ひたすら神の憐れみを請うことです。  自分の信仰を誇るファリサイ人から遠く離れて胸を打ちながら、「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人(ルカ18:13)のように、ひたすら憐れみを請うことです。  赦して頂くとすればこの方にすがるしかない、この方以外に人を赦すことのできる方はいない、この方こそ私を赦してくださる唯一の方ということを信じて希うのです。  どうしてそのようなことを信じられるのでしょうか……それは、神が独り子イエス・キリストを十字架につけ、滅びるはずの人の命を買い取って下さった出来事です。  このように見ていくと、この部分は赦しを請う祈りの前に、信仰告白であると言うことができます。“あなただけが私の罪を赦してくださる方であると信じます”、“ですからあなたに請い願います。私を憐れみ、私の罪をお赦し下さい。”……“私の罪を赦してください”という一言に、信仰の告白と願いが込められているのです。  自ら十字架について死んでくださり、それによって私たちの罪を償ってくださった、本来であれば私たちが十字架に付くべきところを代わって付いてくださった、その主イエスが教えてくださったものがこの祈りです。 ■ 続いては後半部分、“我らに負い目あるものをすべて赦しますから”です。 前半と続けますと、“私たちの罪をお赦し下さい。 私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”となっています。  自分に負い目のある人を皆赦しますから、私たちの罪をお赦し下さい。  ここは、私たちの罪を赦して頂くために、隣人を赦すことを条件としていると読むことができます。 私たちへの神様の赦しに比べたら、私たちの隣人への赦しは取るに足らないような小さなものです。まさに1万タラントンに対する100デナリよりもっと小さなものです。 私たちはその小さな赦しをもって、創り主への罪というとてつもなく大きな罪を赦してくださいと祈るのでしょうか。 再び振り返ってみます。 主の祈りは、人であり神の独り子である主イエスが“このように祈りなさい”と言って教えてくださった祈りです。 主イエスが、“私たちの罪をお赦し下さい。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから”と祈りなさいと教えてくださったのです。 と言うことは、驚くべきことに私たちができるような小さな赦しであっても神様は“よし”としてくださり、認めてくださって、とてつもなく大きな負い目、罪を赦してくださるという事です。 マタイによる福音書25章には、終わりの日の裁きのことが譬えで記されています。王は、祝福された者達に言います。“お前達は、私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸の時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいる時に訪ねてくれた”。 ……“私がいつそのようなことをしたでしょうか”と聞くと、王は“これらの最も小さい者達の一人に対してなしたのは、私に対してなしたのと同じことである。”と答えます。神は、小さい者のために行った小さなことさえ、祝福の基としてくださるのです。 もちろん私たちは、隣人の罪を赦すことによって私たちの罪が赦されることをあたりまえのこととして祈ることはできません。 しかし、「神様はこのような小さなことでも“よし”として下さる、そのように私たちの大きな罪をも赦して下さる」と言うことを信じ、告白することができるのです。 前半と合わせると、“あなたは、私たちが隣人の小さな罪を赦すことをも“よし”として下さいます。そしてあなただけが私の罪を赦したもう方です。そのことを信じ、讃美と感謝、悔いをもってお願いいたします。私たちの罪をもお赦し下さい。”と言うのが、主の祈りのこの部分の意味ではないでしょうか。 主イエスがお教え下さった、最も大切な掟がマルコによる福音書12章30節に記されています。 ・ あなたの全ての心から、あなたの全ての思いから、あなたの全ての命から、あなたの全ての力から、主なるあなたの神を愛しなさい。 ・ 第二はこれです。自分自身のように、あなたの隣人を愛しなさい。 ⇒ 神を愛すること、そして隣人を愛すること、この二つが今日聞いている、罪の赦しを願う祈りに凝縮されているのです。 今まで聞いて参りましたように、主の祈りの、その中の小さな1節だけでも、聖書の様々な箇所と結びつき、反響し合っています。聖書の御言葉の大きな集約が、この祈りにあります。 主の祈りが“小さな教会”と言われる所以がここにあります。  何度も申し上げましたように、主の祈りは私たち人間が作り上げた祈りではありません。 自ら十字架について私たちの罪を贖ってくださった主イエス、 そして今も神と我々罪ある人との間に執り成し手として立っていてくださる主イエスが、“こう祈りなさい”と教えて下さった祈りです。 その主が祈れと言われたとおりに祈ることは、必ず聞いていただけるのです。 “我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え” 喜びと感謝をもって信仰を告白し、また畏れつつ祈り続ける者でありたいと思います。

【祈り】  

 父なる神様、今日も私たちの思いを超えた、あなたの大きな恵みを聴くことができましたことを感謝いたします。  どうか私たちを、あなたに従い、あなたの御業に加わり、隣人のために働く者としてください。  今日、福島伝道所で御言葉を語る牧師を支え、その群れを祝してください。  この礼拝を覚えつつ、共に御前に立つことのできないきょうだいを省みてください。  小児洗礼を受け、まだ信仰告白を行っていないきょうだい、礼拝に出席しながら今は教会を遠ざかっているきょうだいをあなたの前に立たせてください。妨げがありましたらあなたが取り除いてくださいますように。教会員の子弟をあなたの前に集めてください。そのために働くきょうだいを支えてください。  戦争・災害・病・飢え・失業・差別などで苦しむきょうだいを助けてください。国々の指導者をあなたに従う者としてください。  この週の全てをあなたの御心の内に置いてください。  主の御名によって祈ります。アーメン   

6月13日説教「神のひとり子イエス・キリスト」

2021年6月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:詩編2編1~12節

    ヨハネによる福音書1章14~18節

説教題:「神のひとり子イエス・キリスト」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして連続で学んでいます。わたしたちが属している日本キリスト教会にはどのような特徴があるのか、どのような信仰を告白し、どのように教会を形成し、宣教活動をしようとしているのかをご一緒に学んでいきたいと思います。きょうはその3回目、信仰告白の最初の文章「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真(まこと)の神であり真の人です」の「神のひとり子イエス・キリスト」の個所について学びます。

 信仰告白の冒頭にはその信仰告白の最も大きな特徴、一番強調したい内容が語られます。その一つが、「わたしたちが主とあがめる」という「主告白」であるということを前回学びました。わたしたちが信じ、あがめ、礼拝している救い主イエス・キリストは、教会と世界における唯一の主である。ほかに主はいない。国家であれ、天皇であれ、軍隊であれ、あるいは自分自身であれ、他のいかなるものであれ、それらは決して主ではない。主とはなり得ない、という「主告白」が、戦後新しい日本キリスト教会を建設した先輩たちの熱い思いだったということを確認しました。

 それに続いて「神のひとり子イエス・キリスト」という告白がなされています。ここにも、信仰告白の特徴が表されています。「神のひとり子イエス・キリスト」は信仰告白の後半の『使徒信条』の第二項、「わたしは、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます」という告白と一致しています。つまり、『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭で『使徒信条』の中心的な告白との共通性が強調されているということが分かります。日本キリスト教会は、初代教会、中世の教会、宗教改革の教会、近代の教会との連続性の中に建てられているということをここで確認できます。

 日本キリスト教会は、戦後日本基督教団から離脱して以来70年、旧日本基督教会時代から数えても150年足らず、世界の教会の歴史と規模からみれば幼く未熟で小さな教派に過ぎませんが、その信仰的伝統は2千年の世界の教会に連なっている教会であり、使徒的教会、公同の教会であるということをここで告白しているのです。秋田教会もその枝枝の一つです。きょうのわたしたちの礼拝も、2千年の教会の歴史に連なり、全世界の諸教会の礼拝に連なっているということを覚えたいと思います。さらに言うならば、きょうのわたしたちの礼拝は終わりの日のみ国が完成される日の神の国における盛大な祝宴へと連なっているということも覚えたいと思います。

 では次に、告白の内容ですが、「神のひとり子」とは、父なる神と子なる神イエス・キリストとの特別な関係を言い表しています。その意味は、第一には、主イエス・キリストは神からお生まれになった神であるということです。第二には、主イエス・キリストはただお一人、神からお生まれになった神のみ子であるということです。

 第一の意味についてもう少し詳しく見ていきましょう。神からお生まれになった神のみ子であるということは、主イエスは父なる神と本質を同じくする神であるということ、人間から生まれた子が人間であるように、神からお生まれになった神のみ子イエス・キリストは神であられます。

 その関係はいつから始まったのでしょうか。永遠の昔からです。父なる神が永遠の昔からおられたように、み子もまた永遠の昔から父なる神と共におられました。ヨハネによる福音書1章1節以下では、神のみ子が「言(ことば)」(ギリシャ語ではロゴス)と言われています。「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1~2節)。永遠から永遠に父なる神と共におられた「言」である主イエス・キリストが、時が満ちて、人間となられてこの世にお生まれになったことを、14節では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」と表現しています。これが、クリスマスの出来事です。永遠の昔から父なる神と共におられた神のみ子が、肉となられ、人間のお姿でこの世においでになり、マリアの胎内から人間としてお生まれになりました。神のみ子は人間となられたのちにも、神のみ子であり、神であることには変わりはありません。そのことについては、次の「真(まこと)の神であり、真の人です」という告白で学ぶことになります。

 「ひとり子」という告白のもう一つの意味は、ひとり子であるから、ほかには神の子はいないということです。主イエス・キリストだけが神の子どもであり、ほかにはだれ一人神の子である者は存在しない、神と本質を同じくする者はいないということです。人間であれ、他の生き物であれ、他の何かであれ、それは神ではありません。他のすべてのものは、自らそう名のろうとも、他からそのように名づけられようとも、それは神以外のものであって、それらはすべて神によって創造された被造物であり、したがってわたしたちの信仰の対象ではなく、礼拝の対象でもありません。この告白もまた「主告白」と並んで重要な意味を持つ告白です。

 「ひとり子」のもう一つの意味をつけ加えるとすれば、神はご自身のひとり子によって、ご自身を最もよく、最もはっきりと、わたしたちにお示しになられたということです。ヨハネ福音書1章18節ではこのように語られています。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。神はご自身のひとり子である主イエス・キリストによって、ご自身がどのような神であられるのかを最も完全に啓示されました。わたしたちは神のひとり子であられ、人となってこの世においでになられた主イエス・キリストによって、彼の地上でのご生涯と、お語りになったみ言葉、みわざによって、特にそのご受難と十字架の死と復活によって、神とはどのようなお方であるのか、神がわたしたち人間をどのように愛しておられるか、そしてわたしたち人間を罪から救うためにどのような救いのみわざをなされたのかを、最もはっきりと知らされ、信じることができるようにされているのです。

 神のひとり子なる主イエス・キリスト以外によっては、わたしたちは神を正しく知ることはできません。神がお造りになった被造世界によっても、幾分は神について知ることができます。しかし、それは不十分です。自然や宇宙、あるいは歴史や世界の出来事から、哲学とかその他の学問によっても、神について知りうることは不十分です。ただ、聖書に証しされている主イエス・キリスト、人となられた神、神のひとり子あられる主イエス・キリストからのみ、わたしたちは神についてはっきりと、そしてすべてを知ることができるのです。したがって、わたしたちは主イエス・キリスト以外のところには神を尋ね求める必要がないのであり、また尋ね求めるべきでもありません。主イエスはヨハネ福音書14章6節で、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。神の一人り子なる主イエス・キリストによってこそ、この主によってのみ、わたしたちは神に至る道を進むことができ、神の真理と神の命に至る道を見いだすことができるのです。

 「神のひとり子」という告白にはもう一つの意味が込められています。わたしたち人間にとっても、ひとり子は親である者にとっては、大切で欠けがえのない、尊い宝であり、自分の命そのものにも等しいと言えます。神にとっても当然そうでしょう。神はそのひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたち罪びとである人間の救いのために、十字架におささげくださるほどにわたしたちを愛されたのです。神のひとり子という言葉は、そのような神の偉大な愛を表す言葉でもあるのです。ヨハネ福音書3章16節に次のようなよく知られたみ言葉があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。神はご自身の最愛のみ子を、ご自身の命そのものであるひとり子なる主イエス・キリストを、わたしたちを罪から救うために、十字架の死に引き渡されました。わたしたちはこれほどに大きな神の愛によって愛されているのです。これほどの大きな愛によって、罪から救われているのです。わたしたちが「神のひとり子イエス・キリスト」と告白する時、このような救い主をわたしの主と信じ告白するのであり、この信仰によって救いにあずかるのです。

 主イエス・キリストだけが神のみ子ですが、聖書では信仰者が神の子、神の子たちと呼ばれている箇所がいくつかあります。ローマの信徒への手紙8章15節、エフェソの信徒への手紙1章5節などです。そこでは、わたしたちは神のひとり子なる主イエス・キリストによって、神の愛と豊かな恵みによって罪ゆるされ、神の子とされていると言われています。わたしたち人間は神から生まれたのではなく、神によって造られた被造物です。しかも、父なる神の家を離れ、神を知らず、時に神に反逆し、罪と死と滅びの中をさまよっていた罪びとでした。そのようなわたしたちを、神はひとり子なる主イエス・キリストによって与えられた大きな愛と恵みとによって、見いだしてくださり、神の家に招き入れてくださり、神の子としてくださったのです。信仰によって父なる神との、いわば養子の関係に入れられたということです。

 したがって、わたしたちはもはや罪の子たちではありません。滅びの子たちではありません。神から与えられた新しい命によって生かされている神の子たちです。罪の奴隷から解放され主イエス・キリストの僕(しもべ)として、喜んでわたしの新しい主にお仕えしていく、神の子たちです。わたしたちはもはや闇の子たちではありません。主イエス・キリストによって真の光に照らされ、光の中を歩む者とされている神の子たちです。主イエス・キリストによって神の家に招き入れられ、神の国の民とされている神の子たちです。

 最後に、イエス・キリストについてですが、イエス・キリストとは、苗字と名前ではありません。これ自体が「イエスはキリストである」という、信仰告白なのです。おとめマリアの胎からお生まれになり、ナザレの町に住まわれたイエス、最後に十字架で死なれ、三日目に復活されたイエスこそが、キリストである、メシア・救い主であるという最も原初的で根本的な信仰告白なのです。

 イエス、これはユダヤ人には一般的な名前です。旧約聖書のヘブル語ではヨシュア、ヨシア、「神は救い」と言う意味です。ルカによる福音書1章およびマタイによる福音書1章によれば、主イエスの誕生の時に、神ご自身が命名されました。神の強い意志、永遠の救いのご計画が表されていました。神は実際に、このイエスによってご自身の救いのご計画を実現されたのです。

キリスト、これはヘブル語ではメシア、油注がれた者という意味です。イスラエルにおいては、預言者・祭司・王がその務めに任じられるときには、頭からオリブ油を注がれました。それは、神からの恵みと祝福が注がれるしるしであり、神の選びによって、神からの務めを託されたしるしです。主イエスは、真の預言者、真の祭司、真の王として、旧約聖書で待ち望まれていたメシア・救い主であるという意味で、キリストと呼ばれます。

この主イエス・キリストによって、わたしたちの救いが成就され、わたしたちは神の子たちとされ、神の国の民とされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、父の家を失い、父から遠く離れて暗黒と死の中をさまよっていたわたしたちを、あなたはみ子主イエス・キリストによって見いだしてくださり、あなたの子どもたちとしてくださった幸いを、心から感謝いたします。わたしたちが再び魂の父であられるあなたを離れて、失われることがありませんように、あなたの生けるみ言葉によってわたしたちをつなぎとめてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月6日説教「貧しい人々は、幸いである」

2021年6月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編126編1~6節

    ルカによる福音書6章20~26節

説教題:「貧しい人々は、幸いである」

 ルカによる福音書7章20~49節が主イエスの「平地の説教」と呼ばれるのに対して、マタイ福音書5章1節~7章までは「山上の説教」と呼ばれます。ルカ福音書7章17節に、「イエスは山から下りて、平らなところにお立ちになった」とあるのに対して、マタイ福音書5章1節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と書かれていることから、主イエスの説教の場所が両福音書では違っています。どちらが本当なのかと問う必要はありません。主イエスは山の上でも、平地でも、たびたび弟子たちや群衆に説教されたと思われるからです。それをルカ福音書は平地での説教としてまとめ、マタイ福音書では山上での説教としてまとめたと考えられるからです。

 ここには、二つの福音書の神学の違いが反映されていると思われます。マタイ福音書では、山の上から説教される主イエスの神のみ子としての権威が強調されています。主イエスは偉大な宗教家とか哲学者、あるいは知恵ある学者として説教されたのではありませんでした。人間となられた神が、天の権威をもって、この世の倫理とか秩序をはるかに超えた、神のみ言葉を説教されたのです。それゆえに、わたしたちは主イエスの説教を人間の言葉としてではなく、神のみ言葉として聞き、これに全精神を傾け、わたしの命を懸けて従っていくようにと招かれているということをマタイ福音書は強調しているのです。

 ルカ福音書が強調しているのは、主イエスは神のみ子でありながら、ご自身を低くされて、人間のお姿で、わたしたち罪びとの中に入ってきてくださり、わたしたちのために仕えてくださった、そのようなわたしたち人間と連帯される救い主として説教されたということです。しかしながら、主イエスがわたしたち罪びとのただ中に入って来られ、いわばわたしたちと同じ地平に立たれたということは、それによって主イエスの説教が神の権威を失い、この世的なものになったということでは全くありません。むしろ、主イエスの説教はわたしたちに直接に語りかけられることによって、その鋭さ、その厳しさがより増してくるのです。主イエスの説教はまさにわたしたちの現実に対して直接に鋭い挑戦状となって迫ってくるのです。これがルカ福音書の平地の説教の大きな特徴なのです。

 マタイ福音書では、「幸いである」という言葉が9回語られています。それに対して、ルカ福音書では4つの「幸いである」と、24節からの後半ではそれどれに対応して4つの「不幸である」が語られます。また、マタイでは「これこれの人は幸いである。その人たちは何々だから」と三人称で語られているのに対して、ルカでは「あなたがたは何々だから」と二人称で語られています。ここに、今挙げたルカ福音書の特徴が現れていると考えられます。主イエスは直接にわたしに対して「あなたは幸いだ」、「あなたは不幸だ」と語りかけ、しかも「幸い」と「不幸」の違いを際立たせているのです。今主イエスの説教を聞いているあなたがた、すなわち弟子たちや群衆に対して、それだけでなく聖書のみ言葉を聞くすべての時代のすべての人たち、きょうのわたしたちに対しても、直接に迫ってくる語りかけなのです。それは、わたしたちの現実に対する鋭く、厳しい挑戦だと言ってよいでしょう。

 では、その最初の鋭く、厳しい挑戦を読んでみましょう。「貧しい人々は、幸いである」(20節)。それに対して、「しかし、富んでいるあなた方は、不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている」(24節a)。ここで主イエスが言われる「幸い」と「不幸」は、その内容を正反対にすべきだと多くの人は、いやすべての人は考えるでしょう。貧しいよりは富んでいる方がより幸いだとだれもが考えるのではないでしょうか。一般的に言ってそうだというのではなく、これがわたし自身に対して語られているのだとしたら、なおさらのこと、わたしにとっては貧しいよりはやはり富むことの方が幸いだと、だれもが考えるのではないでしょうか。いつの時代の人たちも、貧しさから抜け出すために一生懸命に働いてきた、幸いを求めて努力してきた、特にわたしはだれよりも頑張ってきたと言うのではないでしょうか。

 しかし、主イエスの説教は、そのようなわたしたちに対して、「いやそうではない、あなたの考えやあなたの生き方は正しくはない。そこには幸いはない」と言われるのです。これは、わたしの現実に対する主イエスの鋭く厳しい挑戦状です。

富を求めることに幸いを見いだそうとしてきたわたしの考えや生き方だけがここで問われているのではありません。さらに続けて読んでいきましょう。「今飢えている人々は、幸いである。あなた方は満たされる」(21節a)。これに対して、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(25節a)。三つ目は、「今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる」(21節b)。これに対して、「今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」(25節b)。そして4つ目には、【22~23節】。これに対して、【26節】。

 主イエスは4つの「幸いである」に対して4つの「不幸である」を対比しておられます。それらのいずれもが、わたしたちの常識的な価値判断とは正反対な内容が並べられています。飢えているよりは満腹している方がよいと多くの人は考えます。泣いているよりは笑っている方がよいし、人々に憎まれるよりはすべての人にほめられる方がよいと、だれもが考えます。主イエスの説教はそのようなわたしたちの常識や価値判断に対する鋭く厳しい挑戦です。挑戦と言うだけでは不十分かもしれません。わたしたちの常識や価値判断の否定だと言うべきでしょう。

 なぜ、そうなのでしょうか。なぜ、主イエスはそう言われるのでしょうか。4つの例に共通していることがあるのに気づきます。幸いだと言われているのは、何かに不足している状態、満たされていない未完の状態、それゆえに何かを求めて手を差し伸べている人であるのに対して、不幸だと言われているのは、すでにそれを手に入れている、満たされている、それゆえにもはやこれ以上求める必要がなく、現状に満足している人のことであると言えるのではないでしょうか。

そこからさらに言えることは、主イエスは前者に対して約束を与えておられるということです。20節では、「神の国はあなたがたのものである」。21節では、「あなたがたは満たされる」。「あなたがたは笑うようになる」。そして23節では、「その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」。これら4つの文章には、日本語訳では省略されていますが、「なぜならば」というはっきりとした理由づけの言葉がついています。

 それらのことを考慮してきょうの個所を言い換えるならば、このようになるでしょう。「貧しい人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに神の国を約束してくださるから。今飢えている人々は、幸いである。なぜならば、あなたがたは神によって満たされるから。今泣いている人々は、幸いである。なぜならば、神はあなたがたに笑いをくださるから。人々に憎まれとき、また、人の子(これは主イエス・キリストご自身のことですが)のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。なぜならば、その日には、天におられる神があなたがたに大きな報いをお与えくださるから。だから喜び踊りなさい」。主イエスはこのように言われるのです。

 ここから教えられることは、幸いだと言われている人とは、いつも神に対して開かれている人のことであるということです。自らは貧しい者、餓え乾いている者、悲しむ者であることを知っている、また、主イエス・キリストを信じる信仰のゆえに、この世にあっては憎しみや迫害を受けなければならず、それゆえにただひたすら主なる神の助けと救いとを願い求めなければならず、必死に神にしがみつき、神からすべてを与えられることを信じるほかにない人、神の憐れみによらなければ生きていけないことを知っている人、そのような人こそが幸いだと言われているのです。

反対に、富んでいる人は、その富に頼り、富の中に安住して、もはや神を求める必要性も覚えず、次第に富に心を奪われて神から遠ざかってしまう。それゆえに、神からは何も与えられず、受け取ることができないゆえに、あなたは不幸だと言われているのです。今満腹している人は、神から何も期待しなくなり、神なしで生きていこうとするゆえに、やがて飢えるようになった時に、神から見捨てられるゆえに、あなたは不幸だと言われています。今笑っている人は、今の生活を楽しみ、それに満足しているゆえに、真剣に神のみ心を尋ね求めようとせず、自分の思いのままに生きることができると考えているゆえに、やがて悲しみが襲ってくるときに、たちまちに倒れてしまうほかないから、あなたは不幸だと言われています。世の人からの誉れだけを求めている人は、神の真理や神の栄光のために心を砕いて生きることをしないゆえに、神からの報いを何も与えられず、だからあなたは不幸だと言われています。このような人たちは、たとえ自分自身がどれだけ豊かであり、今幸福感に充たされていようとも、神に対して心が開かれていない、神から何かを期待しようとしない、神のみ心と神の真理に少しも心を向けないので、神から与えられる幸いを受け取ることができないのです。

ここで改めて「幸いである」という主イエスの呼びかけを注目してみましょう。この言葉は文章の冒頭に置かれていて強調されています。その点を考慮して翻訳すれば、「何と幸いなことでしょう」と訳すのがよいと思われます。詩編1編1節や2編12節などでは、「いかに幸いなことか」と訳されています。

では、主イエスが「幸いである」を強調しているのはなぜでしょうか。それは、この幸いは人がこの地上で、日常生活の中で感じたり手に入れたりできる幸いとは比べものにはならないほどに、それらのどれよりもはるかに勝った、大きな幸いであるということなのです。

よりはっきりと言うならば、この幸いは、天から、神から与えられる幸いだということです。主イエスが言われる約束の言葉がそのことを証明しています。「神の国はあなたがたのものである」。神が唯一の王として支配しておられる神の国、そこでは罪と死とサタンの支配は終わりを告げられ、神の救いの恵みだけが支配している、そのような神の国が貧しいあなたがたに約束されているのです。また、神が飢えている人をなくてならない命のパンで満たしてくださり、神が泣いている人の悲しみと憂いを喜びと希望に変えてくださり、また神が迫害を受けている人の傍らに立っていてくださり、最後の勝利を約束していてくださる、そのようにしてあなたがたに天からの永遠の命を約束していてくださるのだから、あなたがたは幸いであると主イエスは言われるのです。この幸いは主イエスご自身が信じるわたしたちのために獲得してくださり、お与えくださる幸いなのだということが分かります。「あなたは幸いだ」と呼びかけてくださる主イエスご自身が、わたしのためにその幸いを創り出してくださり、その幸いの中へとわたしを招き入れてくださるのです。

主イエスはこの幸いへとわたしたち一人一人を招き入れるために、十字架の道を歩まれました。そして、十字架の死と三日目の復活によって、わたしたちにこの天にある幸いをお与えくださったのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちを常にあなたと共にある永遠の幸いへと招きいれてください。わたしたちがあなたを離れて、この世の過ぎ去りゆくものに心を奪われることなく、固くあなたのみ言葉に結びつけてください。

〇大きな試練と苦悩の中にある日本の国と全世界のすべての人々を憐れみ、顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。