7月31日説教「神の委託事業」

マタイによる福音書25:14-30「神の委託事業」 2022.7.31 神学生 熱田洋子

今日の聖書の箇所は、「ある人が旅行に出かけるとき、しもべたちを呼んで自分の財産を預けた。」というところからはじまります。この直前を見ると「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」いうたとえ話しがあって、その話につながって書かれています。ですから、この箇所も、天の国のたとえ話しであること、今は、天に上がられた主イエスが再び来られるのを待っている時ということができます。ここに、ある人、主人として登場するのは、主イエスのことで、しもべたちは、主イエスの弟子たちのことです。主人は出かけていて、ここにはいません、その時はわからないのですが、必ず帰って来ます。それまでの間、しもべたちだけが残されています。出かけるに当たり、主人はしもべたちに、自分の財産を預けます。主人が帰ってきた時に、それをどのように用いたのか、しもべたちは、主人の前で、清算をすることになります。その時は、弟子たち、そして、わたしたちキリスト者にとって終わりの日の審判の時です。主が来られた時に、わたしたちは、主の前に立って、キリスト者として生活してきたことを報告し、主イエスから、それが御心にかなっていたのかどうか判決を受けることになります。このたとえ話から、その時の備えとしてわたしたちに示してくれることを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

このとき、しもべたちは主人に呼ばれて、主人からタラントンを預けられます。15節に、「それぞれの力に応じて」とありますので、主人は誰にも多すぎる要求をしていないことがわかります。そのことは、11章30節に、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われているとおりです。

さて、このタラントンとはなんでしょうか。タラントンは神の賜物のことで様々なものがあります。わたしたちは一人ひとり、顔や姿、性格、考えていること、役割などが違っています。それと同じように、神の賜物も一人ひとりそれぞれに種々あるということです。タラントンを額の大きさでいうと、1タラントンは、当時の1日の賃金の6,000日分に相当するくらい大きいものです。ここでは、教会と弟子たちに預けられた賜物がどれほど貴重なものであるかを気づかせるために額で示されています。それらのすべては神から預けられたものですから、主人のために用いるのはもちろんのことです。そのことを知っておくことが大事です

こうして、弟子たちは主イエスからタラントンを預けられましたが、これまで従ってきた主がいない今、どのような働きをすることになるのでしょう。まず、弟子たちは、主と共にいた時のこと、主がどのような方であったのかを振り返ります。そして、主が教えてくださったことにならうことになるのです。主イエスは弟子たちと一緒にいた時に、弟子たちの足を洗ってくださったことを思い出します。そのことによって、弟子たちに、互いに足を洗い合うようにと模範を示されました。ヨハネ13章に記されています。そして、神の独り子である主イエスは、父なる神の御心にまったく従われて、罪人のわたしたちを罪から救うため十字架にかかり、わたしたちを贖ってくださいました。わたしたちを愛し、わたしたちのために命を差し出してくださった主のことを弟子たちは思い出し、主の働きである神と隣人に仕えていくのです。

み言葉に、「自分の十字架を取って、わたしに従わない者はわたしにふさわしくない」とあります。10章39節です。働きをするに当たり、弟子たちは、このみ言葉によって、主に忠実に従っていくことを心に決め、時には自分の命の危険があるかもしれないことも覚悟したことでしょう。

 その際、主イエスは、弟子たちに、単に、タラントンを残しただけではありません。それとともに、主イエスご自身が持っておられたものを弟子たちに託されます。すなわち、主イエスの御霊により助けがあること、たくさんのみ言葉によって支えられること、主の平和と平安が残されていること、主イエスの御名で祈ること、また、一人ひとりは神の子とされているので神の憐れみのうちにあることも弟子たちに与えられます。

 この時、しもべたちには進むことのできる二つの道があります。

 5タラントン預けられたしもべと2タラントン預けられたしもべは主人の意図したことをよくわかっています。それで、二人のしもべたちは、主人から預けられた賜物を働きに生かし、新しいものを作り出すことであると真剣に受け止めています。主に服従し、主が来られるのが早くても遅くても関係なく、その時のために備えようという姿が見られます。二人は早速この働きを始めます。

16節に「商売する」とありますが、ここでは必ずしも金を稼ぐことではありません。神から預けられたものを有益に用いようとするとき、そのために努力したり力を発揮することになります。そのような努力や力というような賜物は商品とみなされます。そのことによって生み出される利益は、人々を救いへと導いて神の栄光を示すものとなり、それがさらにタラントンを増やしていくことになると考えられているからです。

 一方、1タラントンを預けられた第三のしもべは、このような二人とは違って主のために働くことを拒否します。このしもべは天の国に預かりたいと願ってはいますが、主イエスのものを増やそうとせず、主イエスを崇めようともしません。また、自分が預かったものを他に与えようともしていません。思うこと、行うことが他の二人のしもべとは正反対です。

主イエスは、ご自身の働きを共に行うようにすべての人を招いておられます。その際、働きがさまざまに違っていることを主はご存じですので、一人ひとりに授けられたものを知って、それを大切にして精一杯のことを行うことがわたしたちにできることです。主は働きの大小ではなくその人の心根をご覧になっています。そう考えると、第三のしもべのように、主から預けられた賜物を自分のためだけに持っていることはその福音を無にすることで、わたしたちがそれを広く隣人に与える時にのみ主のために用いたと言えるのです。

 やがて、長い時間が経ち、主人が来て、しもべたちと清算をはじめます。ここでしもべたちは主人に忠実であったかどうかが問われます。

まず、5タラントン預かったしもべと2タラントン預かったしもべは、主人の前に、働きの実を差し出します。そうすると、主人は、二人を忠実な者とみなされます。それまで働いて稼いだ額の大きさは関係なく、報酬は倍になり、主人と一緒に喜びに招かれます。二人は主人の意図したことに従って働いた奉仕者にすぎません。預けられたものはもともと主人のものであり、忠実であったことから生み出したものも含めて主人に返すことになります。このようにしもべたちの働きは自分たちの手柄ではありません。

二人は「少しのものに忠実であった」と言われています。この世での業、努めは、主イエスの持っておられるものや天の国におけるものと比べると少しのものなのです。そのように少しのものでも、主は忠実であったと受け取られ、天の国のはるかに大きな喜びと祝福を与えてくださいます。小さな働きに用いられた賜物も神の栄光のために生かされていくということを覚えておきたいと思います。これは、5章15節・16節のみ言葉に、「燭台の上にあなた方の光を輝かせなさい。あなた方の立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである」ということに表されています。

 一方、第三のしもべは、主人の厳しさを恐れたために働きをしなかったと言って、自分をよしとし、正しいとしています。キリスト者の義務を忘れ、それを厳しい働きとさえ呼んでいます。もとより主人が彼に財産を預けたことに感謝もありません。主を愛すること、主に服従することを嫌がり、命を脅かされるのは避けたいとして主に従おうとしない姿は、臆病なものと言われています。

 このしもべのように、わたしたちが主を愛することを忘れて主を非難するなら、主イエスが再び来られる時、わたしたちは、いのちと栄光を勝ち得るでしょうか。このしもべは、主人は厳しいと言っていますが、教会のキリスト者たちは、彼らの主が柔和で、彼の「軛は負いやすい」こと、湖で溺れ死にそうになった時には、ともにいて助けてくれることを知っています。そして、忠実なしもべたちを祝福し、彼らの働きのゆえに喜びを分かち合いさらに高い務めを授けているのですから、少しの働きでも無駄になることはないのです。

主から預けられたということは、その賜物は貴重なもので、それを十分に利用して主の働きのために生かすことをキリスト者に求められています。それは神の委託事業と言えるのではないでしょうか。神から信頼されてその事業を預けられたことを感謝して、自分のためではなく、主イエスのために働き、その結果を清算することになります。わたしたちは、主に対する愛をもって、神に仕え隣人にも忠実に倦むことなく仕えることに精一杯励みます。そのようにして神の委託に応えることになるからです。

さらに第三のしもべの言い逃れは難しいことが示されます。

第三のしもべについて詳しく書かれているのは、主に忠実でないということはどういうことで、その結果、清算のとき主の判決がどのようにくだされるのかをわたしたちに気づかせるためと考えられます。

このしもべのように、主から預けられたタラントンを地に埋めて隠すことはしてはならないのです。少なくとも銀行に持って行っていれば、利子を産んだろう、また、自分でしないなら他の人に渡して働かせることもできただろうに、と言われます。このことからも、主イエスからわたしたちの中に点された愛から出てくる愛の働きを覆い隠してはならない、おろそかにしてはならないことがわかります。み言葉に「神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。」とあります。ヨハネの手紙一5章3節、訳は協会共同訳です。そのとおりです。

 そして、この不忠実なしもべにも判決が言い渡されます。他の二人の忠実なしもべに対する判決と正反対になっています。他の二人のしもべのために主人がその働きを祝福し、喜びを分かち合ったこととまったく逆に扱われていきます。第三のしもべは、預けられたものを取り上げられ、さらにそれまで持っているものまで取り上げられ、闇の中に放り出されます。忠実なしもべたちは、新たにもっと大きなものを与えられ、主人の喜びに招かれているのと比べて恐ろしいほどの違いです。主イエスは忠実なしもべたちをご自分のものとして御許に引き上げられますが、第三のしもべのように賜物を必要としないならば、その賜物まで取り上げられて、さらに天の国に入れられません。このようにならないためには、神の賜物を休んだままにしておいてはならないのです。それを生かし、わたしたちは働かなければならないということです。

このようにしもべたちに対する審判を見てくると、わたしたちキリスト者にとって、審判の時はとても大事な時としていつも備えていることが必要であることを思わされます。わたしたちは主の前で、この世でどのような生き方をしてきたのかによってさばきを受けることになるからです。主イエスがどのように判断をされるのか、聖書の中の、金持ちとラザロの話、ルカ福音書16章にありますが、その話が頭に浮かびます。ここでは、金持ちと、その門前に横たわっていた貧しく悲惨な状況のラザロが比べられます。やがて、ラザロは死んで、天の国の宴席に連れて行かれますが、一方の金持ちは死んで、陰府でさいなまれています。金持ちは、憐れみを大声で求めるのですが、金持ちに「お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」と言われて、ラザロには慰めが与えられているのに、金持ちは、憐れみから外され、もだえ苦しむままに置かれます。この時、主イエスは、金持ちに対して、そばにいたラザロに助けが差し迫って必要だったのに、愛の働きをする機会であることに気づかず、目もくれなかったことをさばいておられるのです。第三のしもべが、預けられた賜物を隠して、主の働きに用いようとしなかった姿に通じるものがあります。また、この話から、わたしたちは、もう一つ大事なことを気づかされます。天の国にはラザロにも喜びの宴席が用意されているということです。主イエスは、この世の業や働きをご覧になるだけではなく、そのようなことに関われないラザロのような一人ひとりにも目をとめておられ、そのままに天の国に迎え入れ、憐れみ、慰めを与えてくださっています。神はどのような一人をも分け隔てをなさらないで救いへ招き入れくださるのです。わたしたちにははかり知ることのできない神の恵みの深さを覚え主を崇めます。

29節に、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とは、どういうことを言っているのでしょうか。この時代、ローマ社会において、「金持ちはますます金持ちになり、貧しい人はますます貧しい人になる」と一般に言われていたようです。当時の資本主義社会では起こりえることだったのでしょう。ここでは主イエスは全く違って、わたしたちキリスト者に福音的な意味で語っておられます。わたしたちは与えられている恵みを感謝している一人ひとりです。たくさん与えられている人は、感謝が増していき、さらに恵みもより豊かになるのです。一方、恵みが感謝に価するものだと気づかなければ、感謝が乏しくなって、さらに無駄にしてしまうことになる、ということだと思われます。神からのタラントンについても、この世で多くあっても天の国では少ないものとはいえ、それは神から与えられるものです。そのことを神に感謝して生かしていくとき、タラントンは増えていくのです。

わたしたちは神からさまざまな賜物を授けられていることを感謝します。

わたしたちは神と人を愛し、神と隣人に仕えるために

わたしたちはそれぞれの賜物を十分に用いているでしょうか

わたしの持っているものは小さくて、とても役に立たないからと思って、しまっておいたりしてはいないでしょうか。

主は、今日の聖書の箇所に続く35節で「わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」、最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだと、言われます。そして、この働きをした正しい人たちは永遠の命にあずかるのです。

一人ひとりにその人の能力に応じたタラントンを授けられています、主に忠実に従って神と隣人に仕えていくとき神の国で祝福が用意されていきます。

わたしたちには小さいと思える働きも、神に感謝して行っていくとき、忠実なものとして喜んで受け入れ祝福してくださるということをこの箇所から学んできました。

主イエスがわたしたちに与えてくださったものを、たといそれが少なかろうと多かろうと信仰深く、感謝に満ちて忠実に受け止め、主の栄光のために役立てていきたいものです。

お祈りします。

天の父なる神様。わたしたちに委ねられた賜物を感謝して、神と隣人に仕えていくことができるよう、私たち一人ひとりに聖霊を注いでください。

世界の中、戦火のもとで、また虐げられて、嘆き苦しんでいる人々の声を

主よ、お聞き入れください。各国の為政者たちが、民の命を守り、平安な生活を支えることを第一として道を選ぶように、平和への働きかけをする人たちに力を与えてください。そして平和の神のご支配が世界中にあまねく行き渡りますように。私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン

7月24日説教「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

2022年7月24日(日)秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記24章1~8節

    使徒言行録7章36~43節

説教題:「ステファノの説教(四)出エジプトと荒れ野の旅」

 ステファノは初代エルサレム教会で選出された7人の長老、あるいは執事の中の一人でしたが、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことによってユダヤ人からの迫害を受け、石打ちの刑で処刑され、キリスト教会最初の殉教者となりました。7章2節から53節までのステファノの長い演説は、処刑される直前にユダヤ最高法院の裁判の席で語った彼の弁明ですが、その内容は彼が自分の無罪を主張するための弁明と言うよりは、主イエス・キリストの父なる神がイスラエルの民をとおしてなしてくださった救いのみわざについての説教であると言ってよいでしょう。

 アテファノの説教全体を貫いている中心的なテーマを二つにまとめることができます。一つは、アブラハムから始まる神の民、イスラエルの2千年近くの歴史を導かれたのは主なる神であり、その歴史は神の救いの歴史であったということ。もう一つは、その神の救いの歴史のすべては、神が約束されたメシア・キリスト・救い主を待ち望み、またその救い主を証しする歴史であったということ、さらに言うならば、そのイスラエルの待望と証しは、ユダヤ人たちが十字架につけて処刑した主イエス・キリストによって成就したのだという十字架の福音、これがステファノの説教の中心でした。そして、これが彼が迫害され、殉教することになった理由となったのです。

 ステファノの説教には主イエス・キリストというお名前は一度も出てきませんが、彼の説教は旧約聖書で預言され、証しされている主イエス・キリストのことを語っているのであり、またそれを聞いていたユダヤ最高法院の議員たちも自分たちが十字架で処刑したあのナザレ人イエスのことをステフアノは語っているのに違いないということをよく理解していました。

きょうは、36~43節に記されている彼の説教から主イエス・キリストの福音を聞き取っていきたいと思います。36節を読みましょう。【36節】。「この人」とは、これまでに語られてきたモーセのことです。「この人」という言葉が強調されています。前の節で言われていたように、同胞のユダヤ人が「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と言って拒み、殺そうとしたそのモーセを、神はイスラエルの「指導者また解放者」としてお選びになり、イスラエルの救いのためにお遣わしになったのであり、またそのモーセをこそ、紅海の奇跡によってイスラエルの民をエジプト軍の追っ手から救い、40年間の荒れ野の困難な旅を安全に導く指導者としてお立てになったのだという、神の驚くべき選びのみわざをステファノは強調しているのです。

 同胞のユダヤ人からは拒絶され、見捨てられたモーセを、神はお選びになられ、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から救い出すための指導者としてお立てになられたのです。ステファノがこのモーセの姿、モーセの使命と働きに、主イエス・キリストの預言を見ていたということは明らかです。神がご自身の民イスラエルと全世界のすべての人たちを罪の奴隷から救い出すために人間のお姿でこの世にお遣わしになられた神のみ子主イエスを、ユダヤ人の宗教的・政治的指導者であった長老たち、律法学者たちや祭司たち、またすべてのユダヤ人が、神を冒涜する者、律法と神殿を軽んじ、否定する者として裁き、十字架につけて処刑した。けれども神はその主イエスによってこそ、すべての人を救おうとされた。その主イエスの十字架の死によってこそ、すべての人の罪を贖おうとされた。モーセはこの主イエスを預言し、証ししている。そしてまた、主イエスを投げ捨てたあなたがたの背きと罪が、ここで明らかにされている。ステファノの説教はそのことを語っているのです。彼らユダヤ人指導者たちに悔い改めを迫っているのです。

 次の37節でも同じように、主イエスを十字架に引き渡したユダヤ人指導者たちの罪とかたくなさが指摘されているように思われます。【37節】。これは申命記18章15節に記されているモーセの言葉ですが、モーセはここでイスラエルの民に対してこう命じています。「わたしはイスラエルの民に対して神のみ言葉を語り伝える預言者として神に立てられたが、やがて神はあなたがたの子孫の中から一人の偉大な、最高の預言者をお立てになるであろう。あなた方はそのまことの預言者が語る神の言葉に耳を傾け、聞き従わなければならない」と。ステファノは、そのまことの預言者こそが主イエスであると語っているのです。そうであるのに、あなたがたユダヤ人は主イエスのみ言葉に聞き従わず、むしろ主イエスを投げ捨て、十字架につけて葬り去ろうとしたのではないか。そこにあなたがたの罪があるのだ、とステファノは語るのです。

 ユダヤ最高法院の裁判で、裁かれるべき被告席に立たされているステファノが主イエス・キリストの福音の証し人として立つとき、裁くべき立場にあると思い込んでいたユダヤ人指導者たちが裁かれなければならない罪びとであることが明らかにされていくのです。

 38節以下でも、モーセに聞き従わなかった当時のイスラエルの罪が語られます。【38~41節】。モーセはシナイ山で神からの十のみ言葉、十戒を授けられました。十戒は、神によってエジプトの奴隷の家から救い出されたイスラエルの民が、神の民とされ、神のみ心を行い、神を礼拝する民として生きていくための導きとなるべき道しるべです。十戒は出エジプト記20章に記されています。きょうの礼拝で朗読された24章には、十戒をはじめ20章22節からの契約の書に基づいた神とイスラエルとの契約締結の儀式が記されています。イスラエルの民はこの神との契約によって生きる民となったのです。ステファノは38節で、これを「命の言葉」と呼んでいます。命の言葉とは、神から与えられた十戒と契約の書が命を持ち、また命を与える神のみ言葉であるとともに、イスラエルの民がそのみ言葉に聞き従う時に、まことの命に生きる民とされるという意味を含んでいます。

 しかしながら、イスラエルの民はモーセの命令に聞き従わず、彼がシナイ山から帰るのが遅いのにいら立ち、モーセと神のみ言葉に導かれることを不安に思い、もっと確かな目に見える神々を造ることを欲し、アロンに金の雄牛の像を造らせたということが、出エジプト記32章以下に書かれています。神の命のみ言葉に聞き従って生きるのではなく、口のきけない、目の見えない、自ら歩くこともできない、金や銀、石や木材によって作られた偶像、死せる偽りの神々によって生きようと欲したのです。

 けれども、イスラエルの民を強いみ腕をもってエジプトの奴隷の家から救い出されたまことの神を捨て、その神の命のみ言葉に聞き従わなければ、イスラエルはまことの命を生きていくことはできません。やがて彼らは、約束の地を追われ、神礼拝の中心であった神殿をも失い、遠い異教の地バビロンに捕囚となるであろうと預言したアモスの預言が成就されることとなるのです(42~43節参照)。アモスは紀元前8世紀中ころの預言者ですが、モーセの時代、紀元前13世紀に荒れ野でモーセの命令に聞き従わなかったイスラエルの民の反逆の中に、ステファノはすでにバビロン捕囚による神の最終的な裁きを見ているのです。

 したがってまた、神が最後にお遣わしになった偉大な預言者であられる主イエスのみ言葉に聞き従わず、主イエスの神の国の福音の説教を受け入れず、主イエスの奇跡やいやしのみわざをも受け入れず、主イエスを十字架に引き渡した彼らの罪は必ずや神の厳しい裁きを受けるであろうということが、ステファノの説教では暗示されているのです。彼らもまた確かにそのことを聞き取りました。そうであるのに、彼らは自らの罪を悔い改めず、むしろ、自分たちの義を主張して、ステファノを処刑しようとするのです。

 ここでわたしたちは、ステファノが指摘している彼らユダヤ人指導者たちの罪と、その罪から救われるためのわたしたちの信仰の道を、三つの点から見ていきましょう。第一に、37節でモーセが語った神の約束についてです。「神はあなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる」。申命記18章ではこのあとこう続きます。「あなたがたは彼に聞き従わなければならない。彼はわたしが命じるすべてを彼らに告げるであろう」(18節参照)。

 神は最後にお遣わしになった最も偉大な預言者であられる主イエス・キリストによって、イスラエルの民に、また全世界のすべての人々に、彼らの救いのために必要なすべてのみ言葉をお語りになりました。だれであっても、主イエス・キリストがお語りになった神の国の福音、主イエスがわたしたちの救いのためになしてくださった十字架の福音を聞くならば、ただそれだけで、それを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ救われるのです。このほかに何も付け加える必要はありません。

しかし、ユダヤ人は主イエスに聞き従いませんでした。彼らは主イエスの低さと貧しさにつまずきました。彼らは軍馬にまたがった力強い英雄を期待していました。ローマ帝国の支配からイスラエルを解放し、民衆を貧しい生活から脱出させるための奇跡を行い、悪や不正義を力で打ち倒す、この世の英雄を期待していました。彼らは、十字架につけられた主イエスに対して、「自分で自分を救え、そうしたたら信じよう」と言って、十字架の主イエスをあざ笑いました。

ユダヤ人たちは主イエスの十字架の福音につまずきました。彼らは、見に見えるしるしを求めました。これが第二の点です。ステファノは40節以下で、自ら偶像を造り、目に見えるものに頼ろうとする彼らの罪について語っています。ユダヤ人のみならず、人間はみな目に見えるものを手でつかみ取ろうとします。自分で作った偶像を追い求めます。自分たちの手柄を喜び、それを誇ろうとします。けれども、この世にあるもの、目に見えるものはすべて、移り行くものであり、やがて消え去り、限りあるものであることに気づこうとしません。そのことを認めようとしません。しかし、そこには救いはありません。そこにあるものは滅び以外ではありません。この世にある者を追い求める人は、この世が滅びる時に、共に滅びるほかありません。

第三に、38節の「命の言葉」をこそわたしたちは聞き、信じなければなりません。神は最後の最も偉大な預言者、それどころか、すべての預言の成就であられる主イエスによって、わたしたちが生きるために必要な一切をお語りくださいました。わたしたちの罪のために、ご自身の汚れのない聖なる血をささげ尽くして、ご自身の神のみ子としての命を注ぎ出されて、わたしたちを罪と死と滅びから救い出され、わたしたちにまことの命をお与えくださったのです。この主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主と信じ、この主イエスに従って生きる時に、わたしたちにまことの命が与えられます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、滅びにしか値しないわたしたちのために、あなたが独り子をさえ惜しまぬほどに愛してくださり、罪と死と滅びとから救い出してくださいましたことを、心から感謝いたします。どうかわたしたちがみ子の十字架の血によって贖われたものにふさわしく、あなたの僕(しもべ)として、あなたのご栄光と隣人の救いのために仕えていく者としてください。

〇父なる神よ、日本とアジアと全世界のすべての国民にあなたの義と平安と救いとが与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月17日説教「救いの完成される日まで」

2022年7月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編98編1~9節

    ローマの信徒への手紙8章18~30節

説教題:「救いの完成される日まで」

  『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特徴について続けて学んでいます。その最初の文章は「わたしたちが主とあがめる」から始まって、その最後は、「救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」で結ばれています。きょうはこの部分の「救いの完成される日まで」という告白について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 この最初の段落のすべての文章の主語は、神の独り子、主イエス・キリストです。そのことを今一度思い起こすことが、きょう学ぶ「救いの完成される日まで」を考えるうえで、非常に重要な意味を持ちます。というのは、主イエス・キリストはまことの神として、またまことの人として、誕生から十字架の死に至るまで、わたしたちの救いのためにすべてのみわざを完全に行われただけでなく、主イエス・キリストはわたしたちの救いの完成の時に至るまで、わたしたちから片時も離れることなく、わたしたちを導き、支えてくださるということが、ここで今一度強調され、告白されているからです。

主イエス・キリストはこの『信仰告白』全体の主語です。また、わたしたちのすべての信仰生活の主語です。それのみならず、わたしが地上の歩みを終えて死を迎える時にも、否それだけでもなく、わたしの死後も、終わりの日に神の国が完成し、わたしの救いが完成されるその時に至るまで、主イエス・キリストはわたしの主語として、わたしのためにすべての救いのお働きをなさるのです。

 「救いの完成される日までわたしのために執り成してくださいます」、この告白はキリスト教教理では、終末論の領域に属します。『日本キリスト教会信仰の告白』の中で終末論に関連している箇所はほかに、「終わりの日に備えつつ、主が来られるのを待ち望みます」、それから、『使徒信条』の部分では、「そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」という箇所でも終末論が取り扱われます。これらから明らかなように、『日本キリスト教会信仰の告白』は終末論を強調しています。終末論はわたしたちキリスト者の信仰全体を貫いている柱であり、また目指すべき目的地であると言えます。きょうは「救いの完成される日まで」という告白について、終末論の視点から学んでいくことにしましょう。

第一に確認しておくべき点は、『日本キリスト教会信仰の告白』の最初の段落が「救いの完成される日まで」という文章で結ばれているということから、この段落では、わたしたちの救い、すなわち罪のゆるしを最終的に目指しているということが、明らかになります。神の独り子である主イエス・キリストが「まことの神でありまことの人」であるという告白は、わたしたち罪びとの救いが完全であるということを語っています。主イエスが人となってこの世においでくださったことも、わたしたち罪びとの救いのためです。主イエスが十字架で死んでくださったこと、復活されたこと、それもわたしたちの救いのためです。そして最後に、今は天におられてわたしたちのために執り成しておられること、それもわたしたちの救いの完成のためです。主イエスはわたしたちの救いのために、世の初めから今に至るまで、そして世の終わりまで、神の国が完成される終末の時まで、働いておられます。主イエスはわたしがこの世に誕生した時から、否わたしの誕生以前から、今に至るまで、この後も、わたしの死の時にも、否わたしの死ののちにも、神の国でわたしの救いが完成される時まで、わたしと共におられ、わたしのために働いてくださいます。きょうの礼拝にわたしが招かれているのも、わたしの救いの完成のためなのです。

「救いの完成される日まで」という告白で次に考えるべきポイントは、わたしたちの救いがまだ完成されていないということをこの表現は意味しているということす。わたしたちの救いは、どんなに信仰深く、熱心で、霊に満たされているような人であれ、あるいはもう何十年と礼拝を続け、教会に仕えてきた人であれ、その信仰はまだ完成されていない、まだ最終目的に達していないというのです。わたしたちはみなだれでも、信仰においては未完成です。

しかしまた同時に、わたしたちの信仰は確かに最後の完成に向かっているという保証もここには含まれています。主イエスが天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちの救いのためにいつも執り成していてくださる、そして終わりの日に、主イエスは再びこの世においでくださり、信じる者たちを天に引き上げ、神の国へと招き入れ、わたしたちの救いを完成させてくださる、その確かな保証と希望もまた同時にここでは告白されているのです。いまだ未完成である、しかし同時に、確かな完成の保証がある、この二つのことは、切り離すことはできません。その関連性を覚えながら、更に考えていきましょう。

わたしたちの救いが今はまだ完成されていない、未完である、完成の途中にあるとは、どういうことを意味するのでしょうか。そうであるとすれば、わたしたちの救いは不十分であるということになるのか、いわばわたしの一部分しか救われていないということなのか。否、そうではありません。わたしたちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって成就しました。主イエス・キリストの救いのみわざは完全であり、少しの不足もなく、すべての人にとって、全き救いをもたらします。まことの神でありまことの人であられる主イエス・キリストの、神のみ子としての汚れなき、尊い十字架の血はすべての人のすべての罪を永遠に贖い、信じる人に完全な救いを与える力と恵みとを持っています。わたしたちの救いのために、ほかに何かを必要とするということは全くありません。その意味では、わたしたちの救いは完全であり、何の不足も欠けもありません。

けれども、わたしたちは主イエスの救いの恵みを今はまだ信仰によって受け取っています。わたしたちは信仰によって罪ゆるされ、救われています。しかし、罪と死は今なおこの世に残っています。罪と死の支配が完全に終わったわけではなく、今なおこの世を支配しています。わたしたちは今なおこの世にあり、信仰によって罪と死の誘惑と戦い続けています。その戦いは確かに勝利に向かっている戦いではあるけれど、終わりの日に神の国が完成され、主イエス・キリストによって罪と死とが全く滅ぼされるまでは、わたしたちの信仰の戦いは続くのです。

パウロはローマの信徒への手紙8章18節以下で、終わりの日の救いの完成を目指したこの信仰の戦いについて、人間たちだけでなく、すべての被造物も共にうめき、産みの苦しみをしていると語っています。【21~25節】(284ページ)。パウロは終わりの日の完成を待ち望んでいる被造物のうめきを聞いています。彼はそれほどまでに、今はまだ未完であることを自覚しつつ、終わりの日の完成を切なる思いで待ち望んでいるのです。未完成であるからこそ、いよいよ熱心に、真剣に、終わりの日の完成を待ち望み、切望するのです。

終わりの日にみ国が完成される時には、信仰者は完全に罪の奴隷から解き放たれ、朽ちる肉の体から朽ちることのない霊の体に変えられ、神の子たちとしての栄光に入れられるのだ、その望みによって、わたしたちは今救われているのだ、この希望によって、わたしたちは終わりの日の完成を忍耐をもって待ち望むのだ、パウロはそのように語ります。

また、26節以下では、聖霊なる神が、終わりの日の完成に向かって進んでいるわたしたちのために執り成していてくださると語ります。【27節b~30節】。終わりの日にみ国が完成する時には、信仰者はみ子主イエス・キリストに似た者とされ、神のご栄光に包まれるであろうと語られています。わたしたちは日々に、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストに近づいていくのです。その救いの完成の時まで、聖霊なる神が、そして天におられる主イエス・キリストが、わたしたち信仰者のために絶えず執り成しておられ、わたしたちの道を終わりの日の完成へと向かわせてくださるのです。

終わりの日の救いの完成を目指す途上にあるわたしたち信仰者に対する導きと励ましのみ言葉は、聖書の中に数多くあります。フィリピの信徒への手紙3章12節以下にはこのように書かれています。【12~14節】(365ページ)。パウロはここでも、自分はまだ完全な者になったのではないと認めています。まだ、復活の体を与えられていない、まだこの世の朽ち果てるほかない肉の体に生きている、まだ最後の目標に達していないことを知っていると告白しています。けれども、主イエス・キリストの十字架と復活によって贖われ、罪の奴隷から解放され、主キリストのものとされている、主キリストによって捕らえられている、だから、終わりの日の確かな目標に向かって走り続けているのだと語っています。

キリスト者にとっては、まだ救いの完成を見ていないということは、その人の信仰を弱めたり、救いの確信をあいまいにすることは決してありません。いやむしろ、救いの完成を目指して力強く、たくましく走り続ける、勇気と希望の源なのです。最後の目標を目指して、前方へと体を向けつつ、走り続けるエネルギーとなるのです。

わたしたちの信仰と救いは、この世にあっては、なお未完成です。時として迷ったり、弱ったり、つまずくこともあるかもしれません。けれども、わたしたちは救いと信仰の完成者であられる主イエス・キリストによって捕らえられているゆえに、確かに最後の目標に向かって走り続けることができるのです。

「救いが完成される日まで」という告白について、もう一つ注目したいことは、「完成される」は受動態であるということです。聖書の中で主語が隠されていて受動態で表現される場合には、多くは神が意味上の主語と考えられます。ここでも、「完成される」の意味上の主語は神であり、神のみ子主イエス・キリストです。わたしたち信仰者が自分の救いの完成のために何らかの努力をしなければならないのではありません。わたし自身が救いを完成させなければならないのではありません。わたしたちの救いを完成してくださるのは、天地創造の初めから人間の救いのためのみわざをなし続けてこられた主なる神であり、また神の救いのみわざを実際にこの世においでくださって成就された主イエス・キリストです。

へブライ人への手紙12章2~3節を読みましょう。【2~3節】(417ページ)。この主イエス・キリストを信じ、その導きに従って歩むときに、わたしたちの信仰の歩みは確かに、終わりの日の救いの完成に向かっていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの信仰の歩みはたどたどしくあり、時として迷いや疑いに閉ざされたり、疲れ、立ち尽くしたりすることがあります。主よ、どうかわたしたちの歩みを強くしてください。主キリストがわたしたち一人一人の歩みにいつも伴ってくださり、励ましてくださり、終わりの日の完成に向かって前進させてくださいますように。

〇神よ、どうか世界にまことの和解と平和、共存と分かち合いをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月10日説教「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

2022年7月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記27章1~17節

    ヘブライ人への手紙12章14~17節

説教題:「長子の特権を奪い取ったヤコブ」

 創世記27章には、年老いたイサクの家庭の中で起こっている一連の出来事が記されています。ある聖書注解者はこれを「聖なる悲劇」と名づけています。確かに、これは悲劇と言えます。年老いた父イサクから受け継ぐべき祝福を奪い取るために、母リベカと弟息子のヤコブが結託して、父を欺き、兄を出し抜く。祝福を手に入れはしたが、兄エサウの憎しみを買って命をねらわれるようになり、ついにヤコブは家を出ることになる。家族が分断されるという結末に至る。これは家庭内で繰り広げられた悲劇であることは確かです。

 でも、これには「聖なる」というもう一つの言葉が付け加えられています。どこの家庭でも起こりえる悲劇であり、家族の分断という出来事であるのですが、しかし、そうであるにもかかわらず、これらすべての出来事の背後には主なる神がおられ、隠された神のみ手がこの家庭を導いておられる。これは神の救いの歴史、救済史の中の出来事であり、これによって神とアブラハムとの契約が継続され、神の永遠の救いのご計画が前進していくのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。

神がアブラハムと結ばれた契約、これをアブラハム契約と言いますが、すなわち、神はアブラハムをすべて信じる人たちの祝福の源とし、彼の子孫を夜空の星の数、海の砂の数ほどに増やし、永遠にその祝福を受け継がせるであろうというアブラハム契約が、その子イサクに受け継がれ、その子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民に受け継がれ、ついには、主イエス・キリストによって、全世界の主キリストを信じる教会の民へと受け継がれていくことになる、その永遠なる神の救いの歴史が、ここに描かれている家庭の悲劇をとおして、成就されていくのだということを、わたしたちはここで教えられます。神はこの家庭内の悲劇をとおして、それをお用いになって、ご自身の救いを前進されます。そして、その救いの歴史は、今日の教会の救い、わたしたち一人一人の救いと直結しているということにも気づくのです。

 27章を「聖なる悲劇」と名づけた神学者は、それによっておそらくは、こののちに起こるであろう、さらに大きな、偉大なる「聖なる悲劇」を暗示しようとしていると思われます。すなわち、アブラハム・イサク・ヤコブという族長時代から千数百年年後のエルサレムで起こった大いなる、偉大なる「聖なる悲劇」のことです。罪なき神のみ子が罪びとたちの手に渡され、十字架につけられ、殺されるというあの悲劇です。アブラハム契約の最終的な成就として神がイスラエルにお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を、彼らイスラエルの民は愚弄し、拒絶し、最も呪われた刑罰であった十字架刑で葬り去ろうとしたのです。

 しかし、神はこの大いなる悲劇を、「聖なる悲劇」に変えてくださいました。神はイスラエルの民の罪と背きをもお用いになられ、すべての人間たちの罪の結集であった神のみ子の十字架の死を、神はすべての国民の救いのみわざとされたのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じるすべての人を罪から救い、神の永遠の祝福へと、あのアブラハムに最初に約束された祝福へと招き入れると言われたアブラハム契約の成就とされたのです。主イエス・キリストの十字架の死という大いなる「聖なる悲劇」を、神はすべての信仰者の救いという大いなる福音となしたもうたのです。きょうの創世記27章のみ言葉は、そのことをわたしたちに教えています。

 箴言19章21節にこう書かれています。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」。また、詩編33編11節には、「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く」とあります。神の永遠の救いのご計画は、人間たちの罪と反逆の中でも、世界の変化の中でも、変わることなく前進していくのです。

 では、イサクの家庭内での悲劇について、その内容を見ていきましょう。ここには一つの家族、4人の人物が登場します。イサクは年老いて、目がかすんできました。それでも、父アブラハムから受け継いだ神の祝福を自分の長男に受け継がせるという、人生最後の最も大切な務めを彼は忘れてはいません。そのこともあってかどうかははっきりしませんが、いやもしかしたら彼の単なる好みからかもしれませんが、イサクは死ぬ前に長男エサウが捕らえた獲物で、おいしい肉料理が食べたい、それを食べて、長男への祝福を与えたいと願っています。【4節】。

 次は、イサクの妻リベカです。イサクが長男エサウを愛していたのに対して、リベカはずっとエサウの弟ヤコブを愛していました。物静かで、賢く、いつも家にいて自分のそばから離れないヤコブが彼女のお気に入りであり、ヤコブをずっとこれからも自分のそばに置いておくためには、長男の特権をヤコブに受け継がせたいと願っていました。

 あとは二人の子ども、兄のエサウと弟のヤコブです。兄は活動的で、野原で狩りをするのが好きでした。でも、少し、軽はずみで、思慮が浅いところがありました。ヤコブは、生まれた時からその強い性格が現れ、双子として先に生まれた兄エサウのかかとをつかんで生まれ、兄エサウを出し抜いて長男の権利を手に入れようとしたことがこれまでにもありました。

 この4人が一つの家族を形成していました。ところが、27章で描かれているそれぞれの場面を見てみると、家族4人が一緒に対話している場面は全くないことに気づきます。すべての場面が二人だけの対話で進められています。1~4節は、父イサクと長男エサウとの対話です。死期が近づいてことを悟った父と、父の死後に長男として父からの祝福を受け継ぎ、家の財産をも相続するはずになっているエサウとの静かな対話、しかしまた深刻さを含んだ対話です。

 次の5~17節は、母リベカと弟息子イサクとの対話です。リベカはイサクとエサウとの対話を盗み聞きしていました。そうさせてはならないと、自分が愛する弟息子のヤコブに長男の権利を横取りするための相談をしています。それは、恐ろしい計略です。夫であるイサクをだまして、弟ヤコブに変装させ、兄エサウととり違いさせようとする計略です。それは当時の慣習や、それだけでなく神の選びの順序をすらも、自分の願いどおりに変えてしまおうとする悪しき策略です。11~13節の二人の対話を読んでみましょう。【11~13節】。リベカの計略は目がかすんできた夫イサクを欺くだけでなく、神をも欺くことであると、彼女は気づいているかのようです。

 18~29節の場面は、父イサクと弟息子ヤコブとの対話です。これは実際に父を欺く対話です。ヤコブは、兄エサウが獲物をとって帰るよりの先に、母リベカが調理した肉料理を持ち、兄のにおいが染みついた兄の晴れ着を着て、体には兄エサウの毛深さを偽装するための子ヤギの毛皮を巻きつけて、父の枕辺に近づきます。この偽装計画を立てたのは母リベカですが、ヤコブ自身もそれに主体的にかかわっています。【20節】。ヤコブはだました父を説得させるために神を利用しています。ついに、父はそれが兄のエサウだと勘違いして、あるいはだまされてと言うべきでしょうが、弟のイサクを祝福します。

人間たちの欺きと偽りが、彼らの計画どおりに進んでいきます。27節以下の祝福の言葉を読んでみましょう。【27~29節】。祝福すべき相手が違っていることを知っているわたしたちには、この祝福の言葉は何か空々しいと思えるかもしれませんが、しかしこれは父が神の権威のもとで、神の契約の言葉として語っている祝福の言葉であることは確かです。人間たちの欺きとだまし合いの中でも、神の祝福は失われることはありません。神の祝福は人間たちの罪の中でも、確かに語られ、受け継がれていくのです。

 30~40節は、狩りから帰ったエサウと父イサクとの対話です。エサウは父の好きな肉料理を作って、父のところに運びます。けれども、父はすでに長男に与えるべき祝福を弟のヤコブに与えてしまったことを知らせます。34節からは、そのことを知ったエサウの悲痛な叫びが書かれています。【34~37節】。エサウには神の祝福はもはや残されてはいません。彼は神の契約の民としての祝福を失ってしまいました。36章によれば、エサウはその後、神の約束の地から離れ、パレスチナ南部のセイルの山地に住むエドム人の先祖になったと伝えられています。

 41~46節は、再びリベカとヤコブの対話です。夫であり父であるイサクを欺き、偽って長男の祝福を奪い取るために共謀したリベカとヤコブ。そのことには成功したが、その結果として自分たちの罪を刈り取らなければならなくなり、現実から逃避して、家族が引き裂かれる結果とならざるを得なくされたリベカとヤコブ。しかし、ここではもはや二人の対話は成り立たなくなっています。母だけが一方的に語ります。【42~45節】。母リベカは自分が仕組んだ偽装と欺きによる行為によって、二人の息子を同時に失ってしまうかもしれないという危機感を抱いています。それを回避するためには、しばらくイサクを遠くの地に逃亡させるほかにないと考えました。44節に「しばらく」、45節には「そのうちに」と書かれていますが、リベカは数年もすればその時が来るであろうと思っていたのかもしれませんが、実際にはヤコブの逃亡期間は20年となり、母は愛する息子ヤコブの顔を二度と見ることができなくなるということは、この時点ではまだだれも気づいてはいませんでした。

 以上のように、それぞれの場面は4人のうち2人の対話で進められていくのですが、家族みんなでの話し合いは一度もありません。自分の利益のことしか考えない人間たちの集団は、家族であれ、親しいグループであれ、国家であれ、そこには群れ全体を結びつける真理はなく、分断と偽り、欺きがあるだけです。それが罪に支配されている人間集団、この世界の現実です。

 けれども、神はこの罪の世界を決してお見捨てにはなりません。その中で、ご自身の救いのご計画を進めてくださいます。神の選びは、人間たちの偽りや妬みや争いの中でも、確かに行われていきます。その確かな選びによって、神はご自身の救いのご計画を確実に進めておられます。どんな人間たちの罪や偽りや欺きによっても、神の契約は神ご自身によって固く守られ、神の救いのご計画は確実におし進められていくのです。わたしたちはそのことを信じ、どんな困難な時にも、どんなに人間たちの罪が世界を暗闇で覆いつくしても、なおも神の真理と救いのみ心を信じ、その神にお仕えしていくことができるのです。神は主イエス・キリストの福音によって、必ずや人間たちの罪に勝利され、分断と争いを取り去り、ついには世界を一つの救われた民としてくださることを信じつつ。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの永遠に変わらない真理と救いのみ心をすべての人たちに知らせてください。わたしたちの中にある傲慢やうそ偽り、憎しみや争いを、主イエス・キリストの福音によって取り除いてください。世界にまことの平和と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

7月3日説教「燭台の上に置かれたともし火」

2022年7月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書60章1~7節

    ルカによる福音書8章16~18節

説教題:「燭台の上に置かれたともし火」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章16~18節の3つの節は、いずれもルカ福音書の他の個所とマタイ、マルコ福音書に、違った分脈の中に、ほとんど同じ文章で出てきます。たとえば、16節の燭台の上に置かれたともし火のたとえは、ルカ福音書11章33節にも同じように書かれています。【11章33節】(129ページ)。でも、ここでは少し違った文脈で、わたしたちの体のともし火と言われています。また、マタイ福音書5章の「山上の説教」では「地の塩、世の光」の比喩との関連で「ともし火のたとえ」が語られています。その個所を読んでみましょう。【マタイ福音書5章13~16節】(6ページ)。

 次の17節と18節も、ほとんど同じみ言葉がルカ福音書と、マタイ、マルコ福音書に、違った文脈の中で語られています。これらのことから、主イエスはさまざまな違った文脈の中で、この3つの節のみ言葉をたびたびお語りになったということが推測できます。それは、この3つの節で語られていることが主イエスが説教された神の国の福音を理解するうえで、非常に重要な意味を持っていることを示唆しています。

 では、16節からその深い意味を読み解いていきましょう。【16節】。主イエスの時代のパレスチナ地方の一般の家では、一部屋に居間、台所、食堂があり、夜にはそこが寝室になり、その一部屋を照らすために部屋の中央に燭台を置き、その上にランプを置くと、一個のランプが部屋全体を明るく照らすという造りになっていました。そのランプを何かで覆ったり、寝台の下に置くならば、ランプはその役割を果たさず、家全体が暗くなり、生活できません。

主イエスはだれでもが日常に経験して知っているこのことをたとえに用いて、神の国の福音の真理を語っておられます。ランプのともし火、その光とは、わたしたちがすぐに気づくように、それはすべての人を照らすまことの光として、クリスマスの時にこの世に誕生された主イエスご自身を指していることは明らかです。

マタイ福音書5章の山上の説教では、先ほど読んだように、わたしたち信仰者の実存、生き方を特徴づけている「地の塩」「世の光」との関連で、「山の上にある町は、隠れることができない」というみ言葉に続いてともしびのたとえが語られています。ここでは、「地の塩」「世の光」としてこの世においでくださった主イエスに従って、その福音によって生きるわたしたち信仰者、キリスト者の生き方が教えられています。

主イエスは罪と死に支配されているこの地を滅びと腐敗から救うために、「地の塩」として働かれました。そして、最後にはご受難と十字架の死、そして三日目の復活によって、罪と死に勝利され、すべて信じる人にまことの命をお与えになりました。主イエスはまた、「世の光」として、世界を覆っていた闇を打ち破り、暗黒の地に住む人々をまことの光で照らしてくださいました。

わたしたち信仰者はその主イエスの救いの恵みにあずかり、「地の塩」「世の光」であられる主イエスを証する務めを果たすことによって、わたしたち自身もまた「地の塩」「世の光」とされ、主イエスのまことの光を反射するようにして、その光を燭台の上に高く掲げ、人々の前にその光を輝かす務めへと召されているのです。

かつては暗闇の中で死んでいたわたしが、いまや主イエスのまことに光に照らされ、わたし自身も光の子とされ、その光を高く掲げるようにと召されているわたし、それはどんなにか光栄ある、尊い務めであることでしょうか。しかし、それは決してわたしの名誉のためであるのではありません。マタイ福音書で教えられているように、天の父なる神が崇められるため、神の栄光のためです。

次の17節を読みましょう。【17節】。このみ言葉も、ルカ福音書では12章2節、マタイ福音書では10章26節、マルコ福音書では4章22節に、それぞれ違った文脈の中で語られています。それらの個所をも参考にしながら、このみ言葉が持つ深い意味をさぐっていきましょう。

第一には、ここでもまた主イエスが語られた神の国の福音との関連で語られていると理解されます。主イエスが神の国の福音を説教されたことによって、それまでは隠されていた神の国の真理が、すなわち、神がイスラエルだけでなく全世界のすべての国民の唯一の主として、愛と恵みと救いとをもってご支配される新しい時、神の国の時が今始まったことが明らかにされたということです。旧約聖書の民イスラエルには約束として、預言として語られていた神の国、神の恵みと愛のご支配が今や成就した。全世界のすべての人が、新しい神の恵みのご支配の中に招き入れられている。救いの恵みを差し出されている。律法によらず、人の功績によらず、ただ一方的に差し出されている神の救いに恵みを信じる信仰によって、すべての人は罪ゆるされ、救われる。主イエスがお語りになった神の国の福音は、そのことをすべての人に公にし、すべての人の目の前に明らかに差し出したのです。

17節のみ言葉は、そのような神の救いのみ心を明らかにするとともに、その福音を聞き、み言葉の光に照らされたわたしたち人間の中に隠されていたものをも明らかにします。いつも神のみ心に背いているわたしの罪が、神と隣人を愛することをせず、自己中心的で、傲慢で、悔い改めることをしないわたしの罪が、神のみ言葉を聞いても信じないわたしの不信仰が、神の招きを受けながらかたくなに自らの中に閉じこもっている不従順なわたしの罪が、その時同時に明らかにされます。神のみ言葉の前では、わたしの貧しさや破れがすべて明らかにされます。神のみ言葉の光の前では、何も隠れることができません。わたしたちはそのようなみ言葉を聞き、恐れつつ、また謙遜になって、「主よ、我を憐れみ給え。わたしを罪より救い給え。わたしを新しい人に造り変えてください。あなたのみ言葉に聞いて、信じ、従順に従っていく者としてください」と祈り求めるほかにありません。

17節のみ言葉は、これからのちに明らかにされる内容をも含んでいます。この時点ではまだ、主イエスが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であるということはすべての人の目には隠されていました。当時の民衆は、イスラエルがローマ帝国の支配から解放されることを待ち望んでいました。たくましい軍馬にまたがって、武力でイスラエルの独立を勝ち取る政治的メシアを期待していた彼らには、主イエスが十字架につけられるメシアであることは隠されていました。一切を捨てて主イエスに従った12弟子たちにも、主イエスが苦難の僕として十字架への道を進み行かれることはまだ隠されていました。

しかし、やがてそのすべてが明らかにされます。主イエスがわたしたちの罪をご自身に引き受けられ、わたしたちの罪のために苦しみを受けられ、十字架にご自身の尊い命をおささげになることによって、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、救われるメシアであることが、すべての人に明らかにされます。神がわたしたち罪びとたちを愛され、ご自身の独り子さえも十字架に引き渡されるほどにわたしたちを愛された、その愛が明らかにされます。そして、その時には、わたしの罪や貧しさや破れにもかかわらず、主イエス・キリストの十字架によって、ただその十字架の福音を信じる信仰によって、わたしたちすべての人が罪ゆるされ、救われるのだということが明らかにされるのです。

もう一つのことを付け加えます。終わりの日、神の国が完成される時、主イエスが神の国の王として君臨され、信じる者たちに永遠の命をお与えくださり、わたしたちが永遠に神の国の民とされるのだということが明らかにされます。

18節で主イエスは【18節】と言われます。このみ言葉も、ルカ福音書19章26節と、マタイ福音書13章12節、および25章29節、マルコ福音書4章25節で、それぞれ違った分脈の中で語られています。それらを参考にしながらその意味を読み解いていきましょう。

まず、主イエスは「どう聞くかべきかに注意しなさい」と言われます。主イエスがお語りになった神の国の福音をわたしたちはどう聞くべきなのでしょうか。聖書に書かれている神のみ言葉を、わたしたちはどう聞くべきでしょうか。それを、神がわたしの救いのためにお語りくださった神の命のみ言葉として聞き、主イエスがお語りになった神の国の福音を、今ここで主イエスがわたしに対して、わたしの救いとまことの命のために語っておられる命のみ言葉として聞くこと、これこそがわたしたちが礼拝で神のみ言葉を聞く時の基本姿勢でなければなりません。パンなしではわたしの体の命を養うことができないように、神の命のみ言葉を聞くことなしには、わたしの魂の本当の命を養うことができないということを知り、鹿が谷川を慕いあえぐように神のみ言葉を慕い求める時、神のみ言葉は命のみ言葉としてわたしを生かすのです。

17節後半のみ言葉は、元来は一般的な原則として言われていた格言のようなものであったと推測されます。つまり、たくさんのお金を持っている人はそれを上手に活用してよりたくさんのお金を手に入れるが、持っていない人はお金の活用方法をも知らないので、持っていたわずかなお金をも失ってしまうであろうという意味で、一般に流布していたことわざであったろうと考えられます。

けれども、主イエスがこの一般的な格言を同じような意味で用いていたのかどうかは改めて吟味されなければなりません。ルカ福音書19章26節では、「ムナのたとえ」の終わりに同じみ言葉が語られています。【26節】(147ページ)。このたとえで主イエスが教えておられる内容から判断すれば、「持っている人」とは、神から与えられている賜物を神に感謝し、それを神のみ心に従って生かして用いる人のことであり、その人は神から与えれている賜物がより豊かに祝福される、より多くの賜物を神から与えられるであろうという意味に理解されます。「持っていない人」とは、神から与えられている賜物に気づかず、感謝もせず、それを神と隣人のために用いることをしなかった人のことであり、その人はすでに与えられていた神の賜物をも失ってしまうであろうという意味です。

神のみ言葉は、それを聞き、信じ、喜んで聞き従う人には、恵みを増し加え、わたしたちに豊かな実りを結ばせます。神のみ言葉はわたしの最高の知恵であり、喜びであり、わたしの足のともし火、わたしの道の光です。そのように信じ、告白する時に、神のみ言葉はわたしに豊かな命と力を与えるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちる地上のパンのために生きるのではなく、永遠の命に至らせるあなたの命のみ言葉によって生きる者としてください。主なる神よ、どうかわたしたちをまことの光で照らしてください。光の子たちとして、この世にあって、主イエス・キリストを証しする者としてください。

〇主よ、願わくは、世界にまことの平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。