11月29日説教「神を礼拝する旅人アブラハム」

2020年11月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「神を礼拝する旅人アブラハム」

 アブラハムは、旧約聖書においても新約聖書においても、すべて信じる人の信仰の父と呼ばれています(創世記17章4~6節、ローマの信徒への手紙4章参照)。アブラハムはわたしたち信仰者の信仰による父であり、信仰の模範であり、信仰の原型です。創世記12~23章に描かれているアブラハムの信仰の歩み、人生の歩みは、そのすべてが信仰とは何かをわたしたちに教え、わたしたちが信仰をもって生きるとはどういうことなのかを示しています。

 彼は「あなたは故郷を出て、父の家を離れ、わたしが示す地へと旅立ちなさい」との神のみ言葉を聞いた時、まだその地がどこであるのか、その地での生活がどうなるのかを全く知らされてはいませんでしたが、神がすべてを導き、備えてくださることを信じて、行先を知らずして、ただ信仰だけによって、いでたちました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙11章1節に書かれているとおりです。

それは、信仰を持たない人にとっては、無謀な冒険とか将来設計のない行き当たりばったりの生き方と思われるかもしれません。しかし、アブラハムにとってはそうではありませんでした。彼の信仰の歩み、彼の人生の旅路を満たしてくださるのは神だからです。「生まれ故郷と父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」とお命じになる神の命令には、約束が伴っているからです。

【1~3節】を読んでみましょう。神がアブラハムを選び、彼に特別な約束をお与えになること、これを契約と言います。創世記12章と同じような内容の約束が15章、17章にも繰り返し語られます。これを神がアブラハムと結んでくださった契約、「アブラハム契約」と呼びます。すでに創世記9章で神がノアと結んでくださって契約を「ノア契約」と呼ぶことを確認してきました。旧約聖書の中には、このほかにも神が指導者モーセによってイスラエルの民と結ばれた「シナイ契約」や「ダビデ契約」、預言者エレミヤの「新しい契約」などがあります。神はご自身が選ばれた人、選ばれた民とこれらの契約を結ばれ、その契約を継続されて、救いのみわざをなし続けられました。たとえ、契約の相手が不忠実であっても、それを忘れるようなことがあっても、神は絶えずその契約を覚え、その契約を実行されました。そして、旧約聖書のそれらのすべての契約は、新約聖書に至って、主イエス・キリストによって完全に、そして最終的に成就されたのです。

では、ここで語られている「アブラハム契約」、神がアブラハムに与えられた約束の内容を整理してみましょう。第一には、神が示し、神が導かれる地のことです。ここではまだその内容は確かではありませんが、7節に「あなたの子孫にこの地を与える」と語られています。アブラハムが神の約束の地カナンに導かれる、そしてその地が彼の子孫に与えられるという約束です。神の約束の地についてはあとでまた触れます。

第二は、神がアブラハムを大いなる国民とするという約束です。大いなる国民とは、大きな民、大きな国とするということです。15章5節では、天の星のように数えることができないほどに多くの子孫がアブラハムから出ると言われています。この神の約束が、アブラハムと妻サラにとっていかに実現困難な約束であるかということを、【11章30節】のみ言葉があらかじめ暗示しており、しかしまた神の偉大な奇跡によってその約束が実現へと向かうようになるということを、わたしたちは創世記21章以下から知らされます。アブラハムがこの約束を聞いたのは75歳の時でした。しかし、彼が百歳になるまで、彼には一人の子どももいませんでした。そのような時に、「あなたの子孫は星の数ほどになる」と言われた神のみ言葉を、アブラハムは信じたのでした。これがアブラハムの信仰です。

第三は、アブラハムを祝福するという約束です。「祝福する」という言葉は、旧約聖書では、新約聖書でもそうですが、非常に重要な意味を持っています。「祝福」という言葉が2節、3節で5回も用いられています。祝福するのはもちろん神です。神から与えられる祝福のことです。それは、人間が地上で得られる祝福とか幸いとは全く質が違った祝福であり、天からくる祝福です。詩編では、「いかに幸いなことか、主の教を愛する人は」(詩編1編1~3節)と歌われています。主イエスは「山上の説教」、の中で、「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」と教えられました。天から与えられる神の祝福は、祝福がないところに、いや、むしろ禍や苦難や試練のあるところにも、天からの祝福を与え、天からの幸いを創り出していくような祝福なのです。

祝福の具体的な内容は、旧約聖書においては、長寿やたくさんの子ども子孫、また財産が与えられること、そして何よりも神を信じ、神に喜んで従っていく信仰が与えられること、信仰による救いの恵み、平安です。イスラエルの社会では、その家の長男が特別な神の祝福を受け継ぐと考えられていました。それを長子の特権と言います。新約聖書では、主イエスの説教から教えられているように、天国、神の国の約束が与えられていることこそが最も大きな神の祝福です。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、神の子どもたち、神の家族とされ、神の国の民として招かれている幸い、神の国で朽ちることのない永遠の命の約束を与えられている幸い、これこそが最も大きな神の祝福です。

アブラハム契約の4つ目の内容は、アブラハムの名を高めるという約束です。名を高めるとは、名誉が増し加わるとか有名になる、偉い人間になるというような意味を持ちますが、ここでは神がお与えくださる名誉のことで、彼の名が全世界に広まり、全世界の人々が彼を信仰の父として尊敬するようになるということを含んでいます。事実、アブラハムはユダヤ教でもキリスト教でも、すべて信じる人の信仰の父としてその名が高められています。彼の名が高められるとは、結局は彼が信じている神のみ名が崇められることに他なりません。

第5は、アブラハムに与えられた祝福が彼を基にして地上のすべての人々に広められていくという約束です。アブラハムと同じ信仰に生きる、彼ののちの時代のすべての信仰者にも彼と同じ神の祝福が約束されています。アブラハムの祝福は彼の子イサクへと、さらにイサクの子ヤコブへと、そしてヤコブがイスラエルと名を変えて、イスラエルの12人の子どもたちへ、その長男のユダへと受け継がれていきました。そしてついに、ユダの部族のダビデの子孫としてお生まれになったヨセフの子イエスへと神の祝福は受け継がれ、この主イエスによって、彼を救い主と信じるすべてのキリスト者へと受け継がれていくのです。そのようにして、アブラハムに与えられた神の契約、すなわちアブラハム契約は主イ

エス・キリストによって完全に成就されました。

4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と書かれています。アブラハムがこの神の契約に生きるためになすべきことは、何よりもまず第一に、神の約束のみ言葉を聞いて、それを信じ、それに従うことです。彼にどんな能力あるかとか知恵や力があるかというようなことは、全く問題ではありません。神のみ言葉を聞き、信じ、従うこと、ただ信仰のみ、ただ信仰一筋、その人にアブラハムと同じ神の祝福が与えられます。

次に【5~9節】。1節で神が示す地と言われていたのがカナンであったということがここになって初めて明かされます。カナンとは今のパレスチナ地方のことです。ここが神の約束の地でした。でも、アブラハムはまだこの地の一角をも所有してはいませんし、彼の子イサク、その子ヤコブもこの地を所有してはいませんでした。彼らはこの地では他国の人、寄留者、旅人でした。イスラエルが実際にカナンの地に定着したのは、エジプトで400年余りを過ごし、その後エジプトを脱出してからのことで、紀元前13世紀ころになってからです。

「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の約束は、実に600年以上もの年月を経てから、実現されることになりました。それほどの長い年月を、イスラエルの民はエジプトで寄留生活している期間にも決して神との契約を忘れなかったのでした。いや、そう言うべきか、それとも、神がそれほどの長い期間にもご自身が与えた契約をお忘れにならなかったと言うべきか、いずれにせよ、それは実に驚くべきことです。神の約束、神の契約は、アブラハムの生涯と死を超えて、幾世代にもわたる彼の子孫の歴史を超えて、実現されたのです。アブラハムはその神の約束を信じました。

では、なぜ神はアブラハムをこのカナンの地へと導かれたのでしょうか。7節の後半に「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれてあり、また8節にも「そこに主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。彼がこの地への導かれたのは、主なる神を礼拝するためでした。彼が生まれ故郷を出て、父母の家に別れを告げて、行先を知らずして旅立ったのは、主なる神を礼拝するためだったのだということがここで明らかにされます。信仰の父アブラハムの信仰の旅路は神礼拝の旅路だったのでした。まだその地を所有しておらず、その地では旅人であり、寄留の他国人ではあったけれど、彼の信仰の歩みは常に神と共にあり、彼がどこにいても、彼は神を礼拝する旅人であったのです。というよりは、アブラハムが故郷カルデアのウルにいた時に彼と共におられた神はハランに移った時にも彼と共におられ、彼にみ言葉をお語りになり、今カナンの地に着き、中部のシケムからさらに南部のベテルへと移動した時にもそこにも主なる神が彼と共におられ、彼がどこにいてもいつも主なる神が彼と共におられ、彼の歩みを導いておられたのだと言うべきでしょう。神を礼拝する旅人アブラハムには常に主なる神が共におられ、彼の歩みのすべてを導いておられたのです。それゆえに、神の祝福も彼を離れませんでした。

アブラハムから600年ほどあとのイスラエルの出エジプトを思い起こしてみましょう。400年以上の寄留の地から脱出したイスラエルの民が、荒れ野を40年間旅をしてカナンの地へと導きいれられたのは何のためだったでしょうか。それは、彼らが神を礼拝し、神のみ言葉に聞き従い、神の民として生き、神の証し人として、神の救いを全世界に告げ知らせるためだったのでした。わたしたちが教会に招かれ、神と出会い、主イエス・キリストの福音を聞き、それを信じたのもまた神を礼拝する者となるためでした。わたしたちは主イエス・キリストの救いを信じつつ、来るべき神の国を待ち望みつつ、神を礼拝し、地上の信仰の旅路を続けるのです。そして、そのような私たちの信仰の歩みに、神の祝福が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ。救い主をこの世界にお迎えするご降誕の日を待ち望む待降節に入りました。主よ、どうぞ、悩めるこの世界においでください。病んでいるこの世界を速やかにお救いください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月22日説教「ペンテコステのペトロの説教」

2020年11月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書2章1~11節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステのペトロの説教」

 使徒言行録2章14節から、ペンテコステ(聖霊降臨日)のペトロの説教が始まります。この説教は、11節に書かれていた「神の偉大な業」の具体的な展開の一つと考えてよいと思います。聖霊を注がれた弟子たちは、多くの国の言葉で神の偉大なみわざについて、すなわち主イエス・キリストの救いのみわざについて語り、エルサレムに集まっていたディアスポラ(離散のユダヤ人)は自分の生まれ故郷の国の言葉でそれを聞き、理解したという、いわゆる「多国語奇跡」が起こりました。聖霊なる神がガリラヤ出身の無学な弟子たちに、彼らがこれまで学んだことなく、語ったこともなかった新しい言葉をお授けになったのです。彼らはこれまでは主イエスがお語りになる神の国の福音の説教を聞く者たちでした。主イエスの奇跡のみわざを目撃し、十字架の死と復活の証人となりました。今からは、聖霊を受けた彼らは、新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざを語る者たちへと変えられていくのです。

 12弟子のリーダーであったペトロも、今、聖霊なる神によって新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る宣教者、説教者に変えられたました。福音書の中には、ペトロが説教をした記録はありません。12弟子たちは主イエスによって神の国の福音宣教のために町々村々に派遣されたということは書かれていますので、彼らが説教をしていたことは確かですが、その内容については全く書かれていませんでした。使徒言行録のこの個所がペトロの説教の最初の記録です。彼の説教はこのあと3章12節以下と10章34節以下に、合計3回記録されています。これらのペトロの説教は、時間的に言えば、聖書の中に記録されている最も早い時代の説教です。パウルの宣教活動は紀元40年代の終わり、パウロの手紙が書かれたのは紀元50年代ですが、ペトロの説教はそれより20年も前、紀元30年代初め、主イエスの十字架と復活があった年のペンテコステに最初に誕生した教会、初代教会とか古代教会とか呼ばれますが、その生まれたばかりの教会での説教であり、初代教会がどのような説教をしたのか、どのように宣教活動と教会形成をしていったのかの貴重な記録でもあります。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれて多くの国の言葉で語りだした弟子たちの様子を見ていたエルサレムの人々が、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざ笑っていたことが13節に書かれていましたが、ペトロは真っ先にその誤りを訂正します。朝9時は、敬虔なユダヤ人にとっては祈りの時でした。また、朝の祈り前には食事をしないのが習わしでしたので、この時間帯に酒に酔うことはあり得ないとペトロは言います。聖霊なる神が弟子たちを普通の人たちとは違った異常とも見える行動、不思議な言葉を語る行動へと駆り立てているのです。そして、今ここで起こっていることは旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたことにほかならないと、ペトロは説教を続けます。

 17~21節はヨエル書3章1~5節のみ言葉です。ヨエル書は全4章全体が、キリスト教教理で言う終末論を取り扱っています。終わりの日の神の最後の裁きと救いの完成について預言されています。ペトロが引用している箇所では、前半の17~18節で、終わりの日にすべての人に聖霊が注がれ、すべての人が預言をするようになることが語られ、後半では終末の時に起こるであろう宇宙的規模での異常現象と救いの完成について預言されています。

 前半のみ言葉を読んでみましょう。【17~18節】。ここには、神の霊を注がれ、神の霊によって預言し、神の霊によって生きる新しい神の民の誕生について預言されています。その新しい神の民が今このペンテコステの日に、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちと共に誕生したのだとペトロは語るのです。古い神の民イスラエルは一つの民族のよって形成されていましたが、今新しく誕生した神の民は、血筋によってではなく、聖霊によって一つに結ばれた民です。全世界に広がっています。神の霊・聖霊は民族の違いや男女の違い、社会的地位や貧富の違い、奴隷か自由人かの違いをも超えて、すべての人に注がれるからです。そして、神の霊を注がれた新しい神の民は、律法を守り行うことによって生きるのではなく、神の霊・聖霊によって生きるのであり、主イエス・キリストによって成就された救いを信じ、また語ることによって生きるのです。

 「預言する」とは、未来のことを予知して語るという意味ではなく、神がお語りくださるみ言葉を聞き、それを預かり、人々に宣べ伝えることを言います。古い神の民であったイスラエルでは、預言者と言われた一部の特別な賜物を授かった人たちだけが預言の務めを担っていましたが、神の霊を注がれた新しい神の民は、すべての人がその預言の務めを果たすのです。息子も娘も、男も女も、若者も老人も、奴隷も自由人も、すべての人が聖霊を注がれ、神のみ言葉の奉仕者とされるのです。16世紀の宗教改革者たちはこれを「万人祭司」と名づけました。

 「幻を見る」「夢を見る」とは、神がお示しくださった事柄、それを啓示と言いますが、それを信仰の目をもって見るということです。人間の肉の目が見ている現実や世界ではなく、そこに隠されている神のみ心を信仰の目をもって見る時、そこに現実を超えた、あるいは現実を変革していく希望と力が与えられるのです。聖霊なる神がお与えくださる幻や夢は困難な現実の壁を打ち破り、暗黒の世界に光を照らします。

 18節に、「わたしの僕やはしためにも」と書かれていますが、ヨエル書3章2節では、「その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」となっていて、ペトロの引用と少し違っていることが分かります。ヨエル書の預言は、奴隷である人にも女奴隷である人にも神の霊が注がれるという内容ですが、ペトロの説教では、奴隷と女奴隷はもとの所有者から解放されて、すでに神の僕(しもべ)、神の所有となっています。神の霊が注がれる時、それまで地上でその人を縛りつけていた鎖がすべて解き放たれて、彼を自由にし、すべての奴隷状態から彼を解放するということがここには暗示されているように思います。神の霊を注がれた人は神のもの、神の所有となり、他のすべての支配から解放されるということです。だれかがわたしの主人であるのではなく、この世の何かがわたしを支配するのでもない、また罪がわたしを支配するのでもない、聖霊はそれらすべてからわたしを解放し、わたしが真の自由と喜びとをもって、わたしの新しい主となられた神のために仕えるようにするのです。

 後半の【19~21節】を読みましょう。ここに描かれている全宇宙的な異常現象は一般に「メシアの陣痛」と言われています。終末の時、メシア・救い主、主キリストが再臨される直前には、地上には世界規模の恐るべき戦争や流血があり、天体はその光を失って天から落ち、この世界にあるすべてのものが消え去っていく。そのような大きな動揺と痛みの後でメシアが再臨され、神の最後の裁きが行われる。そして新しい神の国が完成する。旧約聖書の中にはそのような終末論がたびたび描かれています。主イエスはマタイ福音書24章29節以下でこのように説教されました。【29~31節】(48ページ)。

 終末の時のメシアの陣痛で強調されている二つの点をまとめてみましょう。一つは、終末の時、終わりの日には、神の恐るべき最後の審判が全地、全宇宙に対して、またすべての人に対して行われる。だれも、その神の裁きから逃れることができる人はいない。この世にあるすべてのものは神の裁きによって崩れ去り、滅びいくということ。もう一つには、その時に主キリストが再臨され、全世界から神の民を呼び集め、新しい神の国を完成されるということです。ペンテコステの日のペトロの説教では、そのメシアの陣痛の時、神の国の完成の時が、今弟子たちに聖霊が注がれ、神の大いなる救いのみわざである主イエス・キリストの十字架と復活の福音が語られるこの時に、成就したと語っているのです。

 最後に、【21節】。神の恐るべき最後の審判には、だれ一人として耐えうる者はいない、みな滅びなければならない。しかし、「主の名を呼び求める者は皆、救われるのだと約束されています。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主を信じ、告白し、わたしの人生の歩みのすべてを主イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。主イエス・キリストがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださった、主イエス・キリストによってわたしは罪から救われ、神の国の民とされ、朽ちることのない永遠の命を約束されている、そのことを信じ、告白して生きることです。

 「主の名を呼び求める者」はクリスチャンと並んで初代教会でキリスト者を指す名称となりました。使徒言行録9章14節、21節にこのように書かれています。【14節、21節】(230ページ)。また、クリスチャン(キリスト者)と言われたことについては11章26節に書かれています。【26節b】(236ぺーじ)。キリスト者とは主キリストに属する者、主キリストの所有となった者という意味です。

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、このみ言葉は、宗教改革者たちが強調した「主キリストのみ、神の恵みのみ、信仰のみ」を言い表していると言えます。わたしの救いのすべては主イエス・キリストのみにかかっている。それ以外の何かは全く必要ない。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じることによって、神の側からの一方的な恵みによって、わたしには何の功績もなく、神に喜ばれるものが何一つなく、いやむしろ、神の裁きを受けて滅びなければならない罪びとであるにもかかわらず、神がこのわたしを愛してくださり、わたしの救いのためにみ子を十字架に差し出してくださった、その一方的な恵みによってわたしを救ってくださった。そのことをわたしは信仰をもって受け入れ、感謝と喜びとをもって神に恵みに応答して生きる。これがわたしの信仰生活です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神様、滅びにしか値しないわたしを、み子の十字架の尊い血によって贖い、救ってくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしがこの生涯の終わりまで、あなたの恵みに感謝して、喜んであなたにお仕えすることができますようにお導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月15日説教「清くなれと命じられた主イエス」

2020年11月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:レビ記14章1~9節

    ルカによる福音書5章12~16節

説教題:「清くなれと命じられた主イエス」

 1996年(平成8年)4月に「らい予防法」が廃止されました。この法律は1953年(昭和28年)8月に公布され、ハンセン病患者を社会から隔離して伝染を防ぎ、治療するという主旨で制定されましたが、その後特効薬プロミンが発見され、ハンセン病は不治の病ではなくなり、伝染力も極めて低いということが分かり、この法律の主旨そのものが意味を失ったのですが、それでもなお日本政府はその後も数十年にわたって、この法律によってハンセン病患者を社会から隔離し、またこの病気に対する社会的偏見を助長させてきたとして、元患者たちが国を相手に損害賠償訴訟を起こし、政府はこの法律による国の政策が間違っていたことを正式に認めて元患者たちに謝罪をしたというニュースをわたしたちは記憶しています。

 そのような事情から、今日、いわゆる「らい病」という言葉は社会的偏見と差別を生み出してきたという反省から、キリスト教会でも、旧約聖書と新約聖書の翻訳では、いわゆる「らい病」という言葉は「重い皮膚病」に読み替えられました。しかし、単に言葉を読みかえれば、それで彼ら元患者たちの苦痛がなくなるわけではなく、失われた人権が回復されるのでもありませんが、わたしたちはこれを契機にして、ハンセン病に対して正しい認識を持つとともに、かつて教会もまた国や社会と一体となって偏見や差別に加担していたという歴史を反省しなければなりません。

 わたくしは沖縄伝道所牧師であったころに、沖縄中部の屋我地という島にある「沖縄愛楽園」という施設を何度か訪問した経験がありますが、そこを訪れるたびごとに、ハンセン病患者たちが長い間にわたって受けてきた偏見や差別、人権侵害がいかに大きな苦痛を彼らに与えてきたかを教えられ、また自らの中にもある偏見や差別に気づかされました。わたしたちはきょう与えられたルカ福音書5章12節以下のみ言葉から、主イエスの福音の光の中でこの問題を捕え、ハンセン病に対する正しい理解を深めるとともに、主イエスの救いの豊かさをここから読み取っていきたいと思います。

【12節】。聖書で重い皮膚病と訳されている言葉は(ギリシャ語ではレプラ)は今日のハンセン病だけでなく、もっと広い範囲の皮膚病全般を指していたのではないかと考えられています。この病気は治療法がなく、またよく効く薬もなく、患部が全身に広がっていくのを待つほかになく、難病として非常に恐れられていました。特に、イスラエルではこの病気には宗教的な意味がありました。レビ記13、14章に重い皮膚病に関する細かな規定が記されています。それによれば、その皮膚病が単なる腫物なのか、やけどの傷跡か、それとも重い皮膚病かを判断するのは祭司の務めであり、祭司によって重い皮膚病と判断されれば、その人は宗教的に汚れた人とされ、町の外で、住民から離れて住まなければならないと定められていました。もちろん、神殿や会堂で神を礼拝する群れからも遠ざけられました。もし、健康な人がその人の体に触れれば、その人もまた一定期間宗教的に汚れた状態になるので、だれかが間違って触らないように、重い皮膚病の人は自ら「汚れた者、汚れた者」と叫んで注意を促すことが義務づけられました。重い皮膚病がいやされることは、死んだ人が生き返るよりも困難な奇跡だと考えられていました。

しかし、決して不治の病であるとも考えられてはいませんでした。レビ記14章では、重い皮膚病がいやされ、清められた時のことが定められています。その人は祭司に体を見せ、清められたことが証明されれば、神への感謝のささげものをし、社会復帰することができました。レビ記に書かれている重い皮膚病に関する規定は、その病の人を永久に社会や礼拝共同体から締め出し、社会から隔離することを目指しているのではなく、やがて神の大いなる奇跡によっていやされ、清められ、そして神に感謝のささげものをして、真実の礼拝者となることを最終的には目指していたのだということが分かります。そして、まさに今こそ、主イエスによってその道が開かれ、旧約聖書のみ言葉が成就されることになるのです。

「この人はイエスを見て」と書かれています。全身重い皮膚病にかかったこの人は主イエスを見、主イエスと出会う機会を与えられています。彼は社会生活礼拝共同体から引き離され、人権や宗教の自由も奪われ、大きな苦痛と孤独を味わってきました。でも、たとえそれらすべての権利が奪われているとしても、彼は主イエスのお姿を見、主イエスとの出会いをする権利、そして主イエスのみ前にひれ伏し、いやしを願う権利は、奪われてはいませんでした。彼は自分に残された最後の、わずかな権利、機会を、しかし最も大きな権利、機会を用いたのです。

レビ記の規定によれば、彼は人前に出る際には、「わたしは汚れた者」を叫んで、人が近寄らないようにしなければいけなかったのですが、彼はその規定を守らず、主イエスに近づいています。彼をそうさせたのは何でしょうか。普通の通りすがりの人ならば、彼はそうしたでしょう。けれども、主イエスを見た時に彼はそうしませんでした。おそらく、彼はその時に直感したのでしょう。この方は自分をいやすことができる特別な人であるのだということを。ほかのだれもが彼を避けて、彼に軽蔑の目を向けるしかないのに、主イエスはそうではありませんでした。だから彼は主イエスに対して「わたしから離れてください」とは言わずに、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願ったのです。

「主よ、御心ならば」と彼は言います。「主よ」という呼びかけは、主イエスにわたしのすべてを委ね、主イエスにすべてを期待する呼びかけです。彼は今主イエスだけを見ています。彼の周囲の人々、彼を忌み嫌ったり、彼を多少は憐れに思ったりする人々からは目を離して、また不幸でみじめな自分自身からも目を離して、ただひたすら主イエスだけに目を向けています。ここに彼の信仰が芽生えています。彼がいつどこでどのようにして主イエスを知ったのか、主イエスを救い主と信じたのかについては、何も書かれてはいませんが、彼は重い皮膚病という肉体的にも宗教的にも大きな重荷であり、試練であり、患難であった彼の歩みの中にあっても、主イエスと出会い、主イエスを信じる道が備えられていたのです。信仰の道はすべての人に対してこのようにして開かれているのです。

「主よ、御心ならば」というこの願いには、彼自身の長い間の切なる願いが込められていることは確かですが、しかし彼はその切なる願いを主イエスに押しつけるのでななく、主イエスのみ心が行われることだけを願っています。「主よ、御心ならば」、これが信仰者の祈りの原則、基本です。主イエスは受難週木曜日夜のオリーブ山での祈りでこのように祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままにしてください」(ルカ福音書22章42節)。わたしたちもまた主イエスによって教えられた『主の祈り』で「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。自分の願望や計画の実現を願い求めることが信仰者の祈りなのではありません。神のみ心が行われること、主イエスの救いのみわざが現わされること、そして主イエスのみ心に徹底して服従していくことがわたしたちの祈りであり、信仰です。このような信仰による祈りが、困難な現実を打ち破って、わたしたちを主イエスへと、主イエスの救いへと近づけるのです。

そのような信仰があるところに、主イエスの奇跡がおこります。【13節】。12節の「御心ならば」と訳されている言葉と13節の「よろしい」と訳されている言葉は、もとのギリシャ語では同じ言葉です。直訳するとこうなります。「あなたの意志であれば」という願いに対して」、「わたしの意志だ」と主イエスは答えておられます。主イエスの意志がなければ、何事も起こりません。主イエスの意志があるところには、奇跡が起こります。主イエスはご自分の意志をお告げになります。「清くなれ」と。すると、彼の全身を覆っていた重い皮膚病は直ちに消え去ってしまいました。

主イエスのみ心、主イエスの意志は、全能の父なる神の意志です。神がかつて天地創造の際に「光あれ」と命じられると光があったように(創世記1章参照)、神のみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す力と命とに満ちています。主イエスは神のみ言葉が肉体を取ってこの世においでくださった神の言葉そのものです。主イエスは地上で神の意志を行われ、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざをなしたもう神のみ子です。

「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」と書かれています。レビ記に規定されていたように、重い皮膚病は宗教的に汚れているとされ、その人に触れたなら、触れた人もまた宗教的汚れを身に負います。そのために、人々は重い皮膚病の人からはできるだけ距離を取ろうとします。決して近づきません。ところが、主イエスはどうでしょうか。主イエスは彼に近づき、しかも手を触れられました。彼の汚れの中へと、彼の痛みと重荷の中へと入って来られたのです。文字通りに、主イエスは汚れている罪びとの汚れをご自身の身に負われるために、この世へ、この罪の世へ、わたしたち罪びとたちのもとにおいでになられたのです。そして、ご自身は罪なき聖なる神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちの罪の汚れをすべて引き受けられ、十字架で裁かれ、死なれたのです。それは、ご自身が流される清い血によって、わたしたちの汚れを洗い清めるためです。

【14~16節】。レビ記14章に定められているように、いやされた体を祭司に見せて、清められたことを証明してもらい、神に感謝のささげものをしなさいと主イエスはお命じになります。清められた彼の新しい歩みは、神へ感謝をささげる神礼拝と、神から与えられた救いの恵みを証しする証人として生きることです。主イエスが彼のために開いてくださったこの新しい信仰の道へと彼は歩みだしました。

ここに至って、旧約聖書が重い皮膚病に関して定めていたすべての規定が主イエスによってその最終目的へと導かれ、成就されました。重い皮膚病を患っていたこの人が主イエスと出会い、主イエスによって清められ、主イエスによって新しい信仰の歩みへと導かれたことによって、旧約聖書の律法は主イエスの福音によって成就されました。主イエスはこの道を完成されるために、ひたすらに十字架へと進み行かれます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、重い病に苦しむ人たちを顧みてください。彼ら一人一人に救いの道をお示しください。あなたこそがわたしたちの心と体のすべてを治め、支え、導いておられることを信じさせてください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月8日説教「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

2020年11月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)

聖 書:詩編90編1~17節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

 ヘブライ人への手紙11章では、1節で信仰とは何かについてこのように教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。わたしたちが神を信じるとか、主イエス・キリストを救い主と信じるというわたしたちの信仰とは、このようなものであるというのです。ここでは、二つのことが強調されています。一つは、信仰とは過去や今、現在のことではなく、将来のことに関連しているということ、わたしたちの目を将来へと向け、その将来を目指して今を生きるということ、それが信仰だということです。もう一つは、信仰とは目に見える現実のことではなく、目には見えていない真理に関連しているということ、わたしたちの目を今見ている現実から引き離して、目には見えていないが、確かに神が備えていてくださる真理へと、信仰の目を向けて生きるということ、それが信仰だということです。

 この手紙は、そのあとでそのような信仰に生きた旧約聖書の信仰者たちの名前を数多く挙げ、また彼らの信仰による具体的な生きざまについて、この章の終わりまで語っています。そして、12章1節で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」と勧めています。地上での信仰生活を終えて天の父なる神のみもとへと召された彼らを証人たちと呼んでいます。今現在地上での信仰の戦いを続け、信仰の馳せ場を走り続けている信仰者たちを天から見守り、いわば応援、支援している観衆のようにみなしているのです。彼ら天にいる証人たちは、地上にあって今なお労苦の多い困難な信仰の旅路を続けている信仰者たちに、実際に信仰の勝利を保証している証人たちであると言ってよいでしょう。

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある信仰者たちの群れを「戦闘(戦い)の教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天の神のみもとへと召された信仰者たちの群れを「勝利の教会」と呼びました。わたしたちがきょうの逝去者記念礼拝で覚えている彼らは、すでに主キリストによって与えられた罪と死に対する勝利を受け取ることをゆるされている勝利者たちなのです。そして、彼らは今なお信仰の戦いを続けているわたしたちにとっての勝利の証人なのです。それゆえに、ヘブライ人への手紙が教えるように、現在の信仰の戦いがいかに困難であろうとも、労苦に満ちた戦いであろうとも、確かな勝利を信じて、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

 きょうお渡ししてある「秋田教会逝去者名簿」には、信仰をもって天に召された教会員のお名前が90人余り登録されています。このほかにも、教会員の家族やその他の関係者で、教会で葬儀を行った人たちも数人おられ、また1915年以前にも数十人おられることが分かりました。今、秋田教会の歴史書の編纂をしておりますが、秋田教会の伝道開始以来130年近くの間に、分かっているだけで、この名簿と合わせて全部で150人ほどの教会員、教会関係者がこの教会で地上の信仰の歩みを終えられたことが新たな調査から明らかになりました。ちなみに、この間にこの教会で洗礼を受けられた人は520人にものぼります。わたしたちは秋田教会というわたしの身近で、これほどの多くの信仰の証人たちに取り囲まれ、見守られているのであり、これほどに多くの信仰の勝利の保証人たちを与えられているのだということに、大きな驚きと感謝を覚えざるを得ません。

 そこできょうは、ヘブライ人への手紙11章13節以下のみ言葉から、その前後のみ言葉をも参考にしつつ、信仰とは何か、また信仰によって生きるとはどういうことなのかを、旧約聖書の信仰者たちの具体的な生きざまから学んでいきたいと思います。

 11章7節にはノアの信仰について書かれています。ノアは神のみ言葉に聞き従い、人々が飲んだり食べたり、めとったりとついだりして日常の生活に忙しくしている時に、ただ一人で黙々と、乾いた大地で大きな箱舟の制作を続けました。神がこの罪の地をお裁きになるために、やがて地に大雨を降らせ、地のすべてを大洪水が飲み尽くすであろうとの神のみ言葉を信じたからです。彼はまだだれも見ていない将来の神のご計画を信じ、それに備えて生きたのでした。彼は人々の生活ぶりだとか、きょう何を食べ、あすは何を着ようかとか、社会や経済状況を見ていたのではなく、目には見えない神の真理をあたかも見ているかのようにして、神が計画しておられる尊いみわざを恐れつつ、生きていました。これがノアの信仰でした。神はこのノアの信仰によって、罪の世界をお裁きになり、信じて箱舟に乗ったノアと彼の家族とを大洪水から救い出されたのでした。

 8節からはアブラハムの信仰について書かれています。彼は神の呼びかけを聞いた時、神が示される土地が最終的にどこであるのかを知らずに、またその土地での生活がどのようなものになるのかも知らずに、行き先を知らずして、故郷を旅立ちました。彼もまた、神が約束された将来に向かって、まだ見ぬ神の真理をすでに見ているかのようにして、地上の旅を続けました。アブラハムの信仰による旅路について9節、10節ではこのように説明されています。【9~10節】。アブラハムは神が約束された土地カナンに住みながらも、他国に宿るように、そこがまだ最終目的地ではないかのように生きていたのでした。そして、そこに定住するための家を建てるのではなく、いつでも移動できるように天幕に住んでいたのでした。なぜならば、彼は地上のどこかに安住の地を持っているのではなく、神が建設された天の都を目指していたからだと言うのです。

 そのような旧約聖書の信仰者たちの信仰の歩みを振り返ったあとで、13節以下でこの手紙は次のような結論を導き出すのです。【13~16節】。信仰者はこの地上ではどこに住んでいてもよそ者であり、仮住まいの者である、旅人であり寄留者であると結論づけます。どんなに環境がよく、快適に過ごせる土地であったとしても、どんなに立派な施設が整っている豪華な家であっても、信仰者にとっては、そこに最後の目的地があるのではありません。そこに永遠の安住の場所があるのではありません。あるいはまた、どんなにこの世で成功をおさめ、人々の称賛を浴び、自分の願いをすべてかなえることができたとしても、そこに信仰者の最高の幸いと祝福があるのでもありません。

 なぜならば、1節で教えられていたように、信仰者は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」という信仰が与えられているからです。今ある現実や今生きている世界が信仰者のすべてなのではなく、いやむしろそれらはやがて移ろい行き、過ぎ去り、滅びに向かっているものでしかないことを知らされながら、それらよりもはるかに堅固な土台を持ち、はるかに勝った故郷である天の故郷へと招かれていることを知らされている、そこを目指して信仰の旅路を続けている、それが信仰者の歩みです。神が信仰者たちのためにその天の都を建設してくださり、その天の故郷を備えていてくださるのです。

 それでは、天の故郷を目指して生きる信仰者と地上の国を目指して生きるこの世の人との決定的な違いはどこに現れるのでしょうか。そのヒントは13節にあります。【13節】。人はみな地上の命を終えて死ななければなりません。信仰者にとっても、それは例外ではありません。ただし、ここで重要なことは、「信仰を抱いて」という言葉です。この言葉が信仰者とそうでない人との決定的な違いを生み出しているのです。

信仰を持たない人は、望んでいる事柄を確信することはありません。過去と今現在とに生きています。今見ている世界、今生きている現実が彼のすべてです。彼はいずれにしても自分の可能性の限界内に生きています。神が将来に何を備えておられるか、神が何をなし給うかを知ろうとはしません。その人は、彼の地上の歩みの終わりの時には、彼がそれまでに得たもの、築き上げたもののすべてと別れなければなりません。彼が見ていた現実の世界は彼の死とともに彼の人生から消え去っていきます。彼は死の世界に何ひとつ携えていくことはできません。

けれども、信仰者は神が備えてくださる将来へと目と心とを向けます。神ご自身が建設された、堅固な土台を持った天の都を待ち望んでいます。来るべき神の国の民として招きいれられていることを信じています。神は確かに彼らのために天の都を準備しておられます。この神の約束は信仰者の死によっても、変更されることも取り去られることもありません。いやむしろ、信仰者にとって死とは、神の約束へと近づくことであり、神のみ言葉が確かに成就される時です。地上に生きている間は、神のみ言葉を疑わせたり迷ったりする多くの罪や誘惑がありました。彼を神から引き離そうとする多くの敵の攻撃がありました。けれども、死ののちには彼はそれらのすべてから解き放たれて、天に引き上げられ、永遠に神と共にあり、神との豊かで堅い交わりの中へ招きいれられています。もはや何ものも彼から信仰を奪い取るものは存在しません。信仰者は今は天にあって、何ものにも妨げられることなく、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」がゆるされているのです。神が天に備えてくださる堅固な都、天の故郷の永遠の住民とされているのです。

終わりに、もう一度12章1節のみ言葉を読みましょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがこの秋田教会の130年近くの歩みをお導きくださり、ここに多くの信仰者たちをお集めくださったことを覚えて、心から感謝をささげます。どうぞ、今ここに招かれ、集められているわたしたち一人一人をも、豊かに祝福してください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月1日説教「信仰による旅人アブラハム」

2020年11月1日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「信仰による旅人アブラハム」

 創世記12章からアブラハムの生涯の物語が始まります。アブラハムからその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブ(彼はのちにイスラエルと改名しますが)、その12人の子どもたちへと続く物語を、族長物語、族長時代と言います。紀元前2000年ころから1700年ころの時代と考えられます。ヤコブ=イスラエルの12人の子ともたちはやがてエジプトに移住し、そこで400年あまりを過ごし、紀元前1200年代にエジプトから脱出して、神の約束の地カナン(今のパレスチナ地方)に移り住みます。そして、カナンの地でのイスラエルの歴史へと受け継がれていきます。

 創世記12章のアブラハムから始まる族長物語の大きな特徴の一つは、神の選びの歴史であるということです。また、それが神の救いの歴史であるということです。アブラハムから神の救いの歴史はより具体的になっていきます。神は一人の人、アブラハムを選ばれ、彼と契約を結ばれ、彼と彼の子孫によって救いの歴史を継続されます。これを神の救いの歴史、「救済史」と言います。アブラハムの選びから始まった救済史は、イスラエルの選びへと継続され、ついにはイスラエルの民の中から出た一人のメシア・救済者であられる主イエス・キリストによって神の救いの歴史はその頂点に達し、完成されます。わたしたちはアブラハムから始まった神の選びの歴史、神の救いの歴史に連なっているのであり、その中に招き入れられているのです。

 では、【1節】。11章から12章へのつながりには違和感がないように思われます。11章では、10節からノアの息子の一人セムの系図、また27節からはその続きのテラの系図が書かれてあり、テラの子どもアブラムとその妻サライが生まれ故郷であるカルデアのウルから旅立ってハランに移住したころまでが書かれてあり、そのハランの地でアブラム・アブラハムが神のみ言葉を聞いたという12章1節に続いていくので、一連の物語としては連続性があるように思われます。

 しかし、その内容から見れば、11章までと12章からは明らかな違いがあります。ある旧約聖書学者は11章までを「原初史」と名づけました。そこでは世界と人間の歴史の根源が描かれており、つまり世界がどのようにして神によって創造されたのか、人間はどのようにして神のパートナーとなったのかについて描かれており、そこでは神の救いのご計画と神の恵みは、どちらかと言えば人間全体、世界全体を対象にしています。それに対して、12章からは、アブラハムという一人の人間に神が語りかけられ、この一人の人アブラハム、あるいはアブラハムを代表とする一つの部族によって神の救いの歴史が繰り広げられていくようになります。先ほど触れた神の選びの歴史、神の救済史がここから具体的に展開されていくようになるのです。

 そのようにとらえれば、11章までと12章からは明らかな違いがあると言えます。しかしながら、そこに継続性がないわけではもちろんありません。12章1節の冒頭に「主はアブラムに言われた」と書かれているように、創世記第二部の族長の歴史の始まりも主なる神が主語であることには変わりはありません。1章1節の創世記の第一部である原初史の始まりにおいても「神は天地を創造された」とあり、神が世界と人間のすべての歴史を始められたように、神の救いの歴史、神の恵みの歴史は、原初史から族長の歴史、イスラエルの歴史、そして教会の歴史に至るまで、一貫してそれは主なる神が主語として働かれる一連の歴史であるということは言うまでもありません。

 「主はアブラムに言われた」。どうしてアブラハムが選ばれ、神が彼に語りかけられたのか、その理由については書かれていません。アブラハムの選びにおいては、選ばれたアブラハムの側には全くその理由はありません。神の選びは神の自由なご意志による一方的な恵みと愛による選びです。それゆえにまた、神の救いも徹底して神の側からの一方的な恵みと愛による救いです。アブラハムから始まる神の選びの歴史は、その後イスラエルの選び、教会の選び、わたしの選びに至るまで、その性格は全く変わりません。神は全く選ばれる理由がないわたしを、選ばれるに値しないわたしを一方的に選び、恵みと愛とをもって、この取るに足りないわたしを主キリストから与えられる救いへと招き入れてくださったのです。この教会へと招き入れ、きょうの礼拝へと呼び集めてくださったのです。そこには、神の自由な選びと、神の大きな恵みと愛とがあるのだということを、わたしたちは覚えるのです。

 「主はアブラムに言われた」。ここでもう一つ確認しておくべきことは、主なる神はみ言葉をお語りになることによって、アブラハムを信仰の道へと招き入れられ、彼の生涯の歩みを導かれるということです。聖書の神、アブラハムの神、イスラエルと教会の神は、み言葉をお語りになる神です。創世記第一部の原初史においても、1章3節に「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と書かれていました。神はみ言葉をお語りになることによって、天地万物と人間とを創造されました。第二部のアブラハムから始まる族長の歴史においても、み言葉をお語りになることによって、その選びと救いの歴史を開始されます。神はこののちにも、アブラハムの全生涯の中で繰り返し繰り返しみ言葉をお語りになります。アブラハムが失敗しつまずいた時に、神の約束を疑い、不安になった時に、彼が大きな試練に直面し、恐れおののいた時に、神はその時々にアブラハムに対してみ言葉をお語りになり、彼の生涯と信仰の歩みを導かれました。

 神は今も、わたしたち一人一人に対して必要なみ言葉をお語りくださいます。聖書のみ言葉を通して、わたしに語りかけてくださいます。わたしたちは繰り返し繰り返しその神のみ言葉を聞きつつ、それに聞き従うことによって、信仰の道を全うすることができるのです。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい」。アブラハムを選ばれ、彼を信仰の道へとお招きになる神は、まず彼がこれまでに慣れ親しんできた愛すべきすべての世界と生活から離れなさいとお命じになります。彼はこれまで、故郷の自然や環境、社会から多くのことを学んだでしょう。父の家には愛すべき多くの家族もいたし、親しい友人、頼りがいのある年配もいたでしょう。けれども、神はそれらに別れを告げよとお命じになります。なぜなら、これからは神のみ言葉が彼の道を導くからです。神が彼に必要なすべてを備えられるからです。それが、彼がこれから歩みだす信仰の道なのです。それが、わたしたちの信仰の道です。

 近年、アブラハムの生まれ故郷であるカルデアのウル付近、ユーフラテス川の。南端、ペルシャ湾の近くですが、その地域の発掘調査で、そこでは古代に天体崇拝が行われていた、特に月神礼拝が盛んであったことが明らかになりました。アブラハムが別れを告げたものの中には、その古い信仰からの別離も含まれていたのは当然です。

 アブラハムは神に選ばれ、神の呼びかけを聞き、新しい信仰の道へと旅立った際に、それまで住んでいた土地、家族やその他の人間関係、生活、そして宗教のすべてを捨て、神が備えられる新しい土地を目指しました。彼のその決断がいかに大きいものであったか、いかに厳しい別離を伴うものであったか、それゆえにまたいかに困難な決断であったことか、わたしたちは推測することができます。けれども、聖書はそのようなことについては全く記していません。4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ書かれています。彼は神のみ言葉に服従します。多くの迷いや不安、恐れ、痛みがあったと思われますが、彼は黙々と神のみ言葉に服従します。主なる神にすべてをお委ねし、主なる神のみ言葉にすべての信頼を置いて服従します。

ヘブライ人への手紙11章8節では、このアブラハムの信仰についてこのように言っています。【8節】(新約415ページ)。アブラハムはこの時点ではまだ、神がお示しになる土地がどのような場所であるのか、そこでどのような生活が待っているのかを全く何も知らされず、「行先も知らずに出発」しました。彼が旅を続けてカナンの地に来た時になって初めて神は、7節で「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。それでもまだ、カナンの地がカルデアのウルよりも良い地であるのかどうかは何も知らされませんし、かつての生まれ故郷での生活よりもカナンの地での生活が幸いであるのかも、全く分かりません。そうであるのに、アブラハムは行き先を知らずして、何の保証もない新しい地へと旅立って行きました。神のみ言葉に服従して。

わたしたちは同じような信仰を新約聖書の中にも多く見いだします。ガリラヤ湖の漁師であったペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブのその兄弟ヨハネは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスのみ言葉に従い、すぐに一切を捨てて主イエスに従っていきました(マルコ福音書1章16節以下参照)。徴税人レビも「わたしに従いなさい」と言われた主イエスのみ言葉を聞き、立ち上がって主イエスに従いました(同2章13節以下参照)。彼らも主イエスのあとに従っていくことがどのような人生の歩みになるのか全く分からずに、主イエスのみ言葉に聞き従ったのでした。

ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。【1節】(414ページ)。そして、先ほど読んだように8節でアブラハムの信仰による旅立ちがあり、そして13節以下ではこのように言います。【13~16節】。アブラハムはこの地上では「よそ者、仮住まいの者」であり、旅人、寄留者であって、彼が最終的に目指していたのは、実に、天の故郷であったのだと結論づけています。これがアブラハムの信仰なのです。この信仰のゆえに、アブラハムは「すべて信じる者たちの信仰の父」と言われるようになりました。

アブラハムの信仰による旅立ちは神の約束の地を目指しての出発でしたが、神の約束の地はこの地上のどこかにあるのではなく、天にある、神が備えておられる天の故郷、神の国にあるというヘブライ人への手紙のみ言葉は、わたしたちすべての信仰者にも当てはまります。わたしたちはみな地上には永遠の安息の場所を持っていません。最後の目的地を持っていません。でも、あてもなく旅をしているのではもちろんありません。地上にあるどんな地よりもはるかに堅固な土台を持つ都、神が設計され、神が建設された永遠の都(ヘブライ手紙11章10節参照)、神の国を目指しているのです。神が永遠にわたしと共にいてくださる家、もはや死もなく、悲しみも痛みもない世界、新しい天と地と(ヨハネ黙示録21章1節以下参照)を目指しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたの民としてお選びくださり、主キリストの救いにあずからせてくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしたちがこの恵みのうちにあって信仰の道を全うできますように、お導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。