3月27日説教「主イエスにお仕えした婦人たち」

2022年3月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:サムエル記上1章21~28節

    ルカによる福音書8章1~3節

説教題:「主イエスにお仕えした婦人たち」

 ルカによる福音書8章1節にこのように書かれています。【1節】。「すぐその後」とあり、前の個所との連続性が強調されています。その連続性を考えながら、きょうのみ言葉を学んでいきましょう。

 7章36節以下では、主イエスがユダヤ教ファリサイ派の人の家に招待されて食卓に着いている時に、一人の罪深い婦人が主イエスの足元にひれ伏し、その足に香油を塗った。それを見ていたファリサイ派のこの人は、罪深い婦人の奉仕を受け入れた主イエスを非難した。けれども、主イエスはこの婦人は多くの罪をゆるされたから、このような愛の奉仕をしたのだと言われ、彼女に「あなたの罪はゆるされた」と言われた。その場にいた人たちは罪をゆるす権威を持っておられる主イエスに驚いた。これが、36節以下に書かれている内容でした。

 そこで語られていた内容と8章1節との関連を見ていくと、いくつかのことが分かります。第一には、主イエスが人間の罪をゆるす権威を持っておられることと、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音との関連です。すなわち、神の国の福音とは罪のゆるしと関連しているということです。主イエスの宣教活動は、マルコ福音書1章15節では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という内容でした。ルカ福音書4章16節以下では、イザヤ書61章の預言の成就として、貧しい人々が福音を聞かされていること、捕らわれている人々に解放が告げられること、主の恵みの年が告げられること、それが主イエスの到来によって今成就しているという内容でした。これらのことすべてが「神の国の福音」の内容です。イスラエルの民が信じてきた神、そして全世界の唯一の神が、ご自身のみ子主イエス・キリストによって、今このような恵みと愛のご支配を始められたのです。そこに、罪のゆるしがあり、罪ゆるされた信仰者の新しい命の歩みがあるのです。7章50節で「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた主イエスのみ言葉に導かれた、わたしたちの新しい歩みがここから始まるのです。

 ここでもう一つ重要な点は、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音をわたしたちが聞くということです。聞くとは、単に耳で情報を得るというのではなく、聞いて、信じ、その信じたことにわたしのすべてを委ね、従うということです。8章ではこのあと、神のみ言葉を聞くということがテーマになっています。主イエスは「種まきのたとえ」をお語りになり、8節で「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われ、11節では「種は神の言葉である」と説明され、さらに11節で「良い土地に落ちたのは、立派な良い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と、また21節では「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」と教えられました。

主イエスは「神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせた」最初の人でした。神の国のみ言葉の種を蒔いた最初の人でした。そのみ言葉を聞き、信じ、従って生きることによってわたしたちは豊かな実を結ぶことができると約束されています。「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。この主イエスのみ言葉に聞き、信じ、このみ言葉に生きることによって、わたしたちは神の国の民とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされるのです。

 主イエスは神の国の福音を宣べ伝えた最初の人であると言いましたが、主イエスは神の国の福音そのものでもあられます。神の独り子であられる主イエスがこの世においでになったその時から、神の国は始まりました。主イエスとともに神の愛と恵みのご支配が始まりました。主イエスがいますところ、主イエスを救い主と信じる人たちが集まっているところに、神の国が実現します。12人の弟子たちはその神の国の福音に生きる最初の人たちとして選ばれ、主イエスと行動を共にしました。

 弟子たちが選ばれたのはそのためにだけではありません。彼らは間もなく、主イエスによって神の国の福音を宣べ伝える宣教者として派遣されます。9章1節からは12人の弟子たちの派遣について、また10章1節からは72人の弟子たちの派遣について書かれています。神の国の福音を聞くために選ばれた弟子たちは、神の国の福音を宣教する人にされます。ここに、教会が誕生します。教会は、神の国の福音の種を最初に蒔かれた主イエスのみ言葉を聞き、それを信じ、そのみ言葉によって生き、そして、教会が建てられているその地にあって、世の人々に神の国の福音を宣教する務めを果たしていく、そのために選ばれた信仰者の群れが教会なのです。

12人の弟子たちから受け継がれてきた教会のこの務めは、今も変わりません。秋田教会が、この地で宣教を開始した130年前から今に至るまで、またこれからのちも、教会はこの務めを果たしていくことによって生きるのです。

 2節からは、数人の婦人たちが主イエスと行動を共にし、主イエスのために奉仕していたことが語られています。【2~3節】。これは、ルカ福音書にだけ書かれているルカ特有の記事です。ルカ福音書が「婦人の書」と言われる理由の一つです。ルカ福音書では、共観福音書であるマタイ、マルコよりも、あるいは第四福音書と言われるヨハネ福音書と比較しても、婦人たちの活動が数多く記録されています。主イエスは神の国の福音を宣べ伝えるために、12弟子と共に多くの婦人たちをもお用いになりました。

 けれども、主イエスが婦人たちと一緒に宣教活動をされたということは、当時の人々にとっては異常に映ったに違いありません。というのは、当時の社会では婦人は政治や宗教活動から遠ざけられていたからです。宗教的指導者が婦人たちと一緒に行動するということは恥ずべきことだと考えられていました。けれども、主イエスの場合には違っていました。主イエスにとっては、また主イエスが宣べ伝えた神の国の福音にあっては、男と女の違いや区別はなく、民族の違い、貧富や社会的地位、その他どんな人間の違いであっても、それらは全く問題ではありませんでした。すべての人は、主イエス・キリストにあって一つとされ、すべての人は神の国の福音によって罪ゆるされ、救われ、神の国の民をされるからです。使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙3章26節以下で教えているとおりです。【26~28節】(346ページ)。

 主イエス・キリストの福音はわたしたちを罪の奴隷から解放し、この世のあらゆる束縛からも自由にします。この世の富や社会的地位や名誉などに縛りつけられている生活からわたしたちを解放し、政治形態や民族、宗教などの違いから生じる対立や争いから社会を解放し、すべての人、すべての国を、神の国の福音の中で、自由と喜びとをもって共に生きる歩みへと導くのです。いわゆる婦人解放運動とか、民族解放運動とか、その他の自由と解放を目指した社会運動のすべても、主イエス・キリストの神の国の福音に基礎づけられている時に、本当の意味での解放となるのです。

 2節と3節に挙げられている婦人たちについて見ていきましょう。マグダラの女と呼ばれるマリアは主イエスによって七つの悪霊を追い出していただいたとありますが、彼女がいやされた記録そのものは福音書には書かれていません。マグダラはガリラヤ湖の西側にあった町で、彼女が「マグダラの女」と呼ばれていたことから、その町でよく名が知られていた婦人であったと思われます。彼女が有名になったのは、第一には彼女がたくさんの悪霊に取りつかれており、その姿がほとんど人間とは思えないような、悲惨で、残酷で、本人にとっても周囲の人たちにとっても、見るに堪えないほどの苦しみと痛みとによって苦しめられていた人であったからです。しかし、彼女を有名にしたのは、それほどの悲惨さと苦悩から、主イエスによっていやされ、救われ、しかも今は主イエスのために喜びをもって、生き生きとしてお仕えしているという、その驚くべき大きな変化を、多くの人が見ていることにもその理由があったと思われます。主イエスが7章47節で言われたように、彼女は主イエスによって多くの罪をゆるされたから、多くの愛をもって主イエスにお仕えするようになったのです。

 マグダラのマリアだけではなく、他の婦人たちも「悪霊を追い出して病気をいやしていただいた」という、大きな感謝をもって、主イエスにお仕えしていました。彼女たちは悪霊の支配のもとで生きる生活から解放され、主イエスの救いの恵みのご支配の中で、その救いの恵みに対する感謝の思いをもって、新しい歩みを始めたのです。

 二人目に名前を挙げられているのは、「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。ヘロデとは、主イエスが誕生した時のユダヤの王ヘロデ大王の4人の息子の一人で、洗礼者ヨハネの首をはね、主イエスの裁判に立ち会った、ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスのことです。夫であるクザが領主ヘロデに仕えていたことから察すると、社会的地位があり裕福であったと思われますが、その妻であるヨハナが主イエスによって病をいやされ、主イエスにお仕えすることになったのでしょうが、その後夫との関係はどうなったのか、夫は彼女に賛成したのかなどは分かりません。いずれにしても、彼女は今や主イエスが宣べ伝えておられた神の国の福音に生きる信仰者であり、その福音のために自分自身と持っているものすべてを主イエスにおささげする新しい歩みを始めたのです。

三人目の婦人スサンナはここ以外には聖書の中にはその名はありませんが、おそらく初代教会ではよく知られていた婦人だったと思われます。この3人のほかにも多くの婦人たちが主イエスと行動と共にしていたと書かれています。主イエスの一行は少なくとも10数人、婦人たちも含めると20人ほどのグループで、町々村々を移動しながらの共同生活ですから、それを支えるのは経済的にも人的にもそれなりのものが必要だったはずです。幸いにも、これらの婦人たちが「自分の持ち物を出し合って」主イエスと弟子たちを支えていたのでした。彼女たちもまた、このようなかたちで神の国の福音宣教の働きのために仕えていました。彼女たちもまた、「あなたの罪はゆるされた。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との主イエスのみ言葉によって、新しい歩みを始めたのです。神の国の福音に生きたのです。

ルカ福音書では、この婦人たちはこのあと何度も登場します。主イエスの十字架の場面で、【23章49節】、主イエスの葬りの場面で、【23章55~56節】、主イエスの復活の場面で、【24章8~11節】、彼女たちはそれらの目撃者となりました。彼女たちは主イエスの十字架の証人となり、主イエスの葬りの証人となり、そして主イエスの復活の証人となり、そのようにして神の国の福音のために仕えたのです。わたしたち一人一人も、主イエスの復活の証人として、神の国の福音のためにお仕えするように召されています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは取るに足りない、いと小さき者であるわたしたちを選んでくださり、神の国の福音の奉仕者として立てていてくださいますことを覚え、心から感謝いたします。願わくは、わたしたちをあなたのみ言葉によって強め、聖霊によって武装させ、神の国の証し人としてみ心のままにお用いください。

〇主なる神よ、この地にまことの平和を来たらせてください。人間の罪と傲慢、欲望や邪悪な思いをあなたが取り除いてくださり、あなたにあるゆるしと和解をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月13日説教「イサクとリベカの出会い」

2022年3月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記24章1~32節

    ヨハネによる福音書4章7~15節

説教題:「イサクとリベカの出会い」

 創世記24章は1節から終わりの67節まで、一続きの出来事が描かれています。題をつけるとすれば、「イサクの花嫁探しの旅」となるでしょうか。創世記の中で最も長い1章であり、また最も美しい物語の一つでもあります。紀元前千数百年代の古代近東地方の生活習慣などが生き生きと描かれています。牧歌的であり、また人間味豊かな物語でもあります。

 物語のあらすじをたどってみましょう。年老いたアブラハムが、息子イサクの花嫁のことを心配しています。自分の故郷である北方メソポタミア地方ハランの地に信頼できる僕を送って、息子にふさわしい花嫁を探してくるように命じます。その僕はハランの郊外の井戸で、美しく心優しい娘リベカを選び、彼女の家に行きます。それが、きょう朗読された箇所までです。33節からは、その僕はリベカの兄ラバンと彼らの父ベトエルに、「リベカを自分の主人の息子イサクの花嫁にしたいので許可をください」と頼みます。彼女の家の者たちは「リベカ自身がそう望むのなら、それが神のみ心ですから、そのようにしてよい」と答えます。リベカ自身もそのことを望んだので、僕はリベカを連れて主人アブラハムの家に帰ります。ただし、このあとにはアブラハムは登場しませんから、花嫁探しの数カ月の間にアブラハムは死んだのではないかと多くの研究者たちは考えています。僕とリベカがカナンに着いた時、イサクは野を散策していましたが、僕とリベカが近づいてくるのを見ます。ここで、初めて二人が顔を合わせ、イサクとリベカは結婚することになります。これが24章のあらすじです。今日のわたしたちが考える花嫁探しとはだいぶ異なりますが、あたかも古い時代の小説の1章を読んでいるように感じられます。

 ここには、花嫁探しという日常的な、また人間的な物語が展開されていますが、しかしその中に、静かに、しかし力強く、主なる神がすべての出来事を導いておられ、主なる神が一人一人をみ心のままに動かしておられ、そのようにして主なる神のみ心が成就されていくということを、わたしたちは見逃すことはできません。この章には、神を表す「主」という言葉が、実に20回以上も用いられているのです。

 冒頭のアブラハムと僕の打ち合わせの場面に主なる神がおられます。1節、3節、7節です。ハランの郊外の夕暮れの井戸のかたわらにも主なる神がおられます。12節、26節、27節。主なる神はリベカの家の中にもおられます。31節、35節、50節など。そして、カナンに帰ってから、野原でイサクとリベカが出会う場面、二人の結婚、ここでは「主」という言葉は用いられてはいませんが、そのすべてに主なる神のお導きとみ心があったということを、わたしたちは容易に信じることができます。

 それらの中で、特に印象的なみ言葉を、あらかじめ2か所読んでみましょう。まず、【27節】。そして、【50~51節】。このようにして、主なる神は彼ら一人一人の人生の歩みのすべてを共にいて導いてくださり、人と人との出会いと結婚をみ心によって導いてくださるということを、わたしたちはこの章から繰り返して教えられるのです。

 神は、主の日の礼拝でわたしたちをみ言葉と聖霊とによって新しい命を注ぎ、信仰の道へと導いてくださるとともに、日々の日常のすべての歩みの中でも、家庭にあっても、職場や学び舎にあっても、旅行や病室にあっても、常にわたしたち一人一人と共にいてくださいます。そして、わたしたちのすべての歩みをとおして、ご自身の救いのみわざを進めてくださいます。

 では、24章の長い物語を、いくつかのポイントになる場面を取り挙げて読んでいきましょう。【1節】。この1節が、24章全体とアブラハムの全生涯に鳴り響き、こだましています。「主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」。人の一生の終わりにこの1節が書き加えられるならば、その人は何と幸いなことでしょうか。その人の全生涯が「神の祝福」という一字によって包まれていたとしたら、その生涯は何と幸いなことでしょうか。たとえ、試練や迷いの連続であったとしても、多くの痛みや重荷を背負いながらの日々であったとしても、主なる神が共にいてくださり、祝福で満たしてくださったと信じることができるならば、その人の生涯は何と幸いであることでしょう。わたしたちはアブラハム物語りの最初の神の約束のみ言葉を思い起こします。【12章1~3節】(15ページ)。神はこの約束のみ言葉を確かに守られました。アブラハムの信仰による子孫であるわたしたちのためにも、神はこの約束を果たしてくださいます。

 アブラハムは生涯の終わりに近づき、神の約束が彼の子イサクによって子孫に受け継がれていくために、イサクの花嫁探しを僕に命じます。【2~4節】。「年寄りの僕」とは長くアブラハムの家の僕であった15章2節に出てくるエリエゼルであろうと推測されています。アブラハムが一人息子イサクの花嫁の心配をしているのは、年老いた父親としての責任感からだけではありません。アブラハムがここでイサクの花嫁探しを命じるのは、彼と彼の子イサクが、そしてまたイサクの妻となるべき花嫁が、神の約束の担い手となるからであり、神の約束のみ言葉が彼らをとおして成就していくからなのです。

 6節以下で、アブラハムはこう言います。【6~7節】。イサクとその妻とがアブラハムに与えられた神の約束を担っていくことになるのです。そのために、アブラハムは彼に残されている最後の務めを果たそうとしているのです。

ここでわたしたちは、1節に書かれていたみ言葉の真の意味を知らされます。アブラハムの生涯が神に祝福されているのは、彼が神の約束を担っている信仰者であるからです。神の約束のみ言葉が彼と彼の子孫とによって成就されていくからです。神の救いのみわざが彼と彼の子孫とによって前進していくからです。そこにこそ、アブラハムと彼の子孫が神に祝福されている最も大きな理由が、根拠が、土台があるのです。

 アブラハムが彼の僕に命じたイサクの花嫁探しの条件は3つのポイントにまとめることができます。一つは、イサクの花嫁はカナン人であってはならない、アブラハムの故郷であるメソポタミアの北方ハランに住む人でなければならないこと。二つには、イサクが結婚してもハランに移り住んではならない、必ずこのカナンの地に住まなければならないこと。三つには、もし花嫁として選ばれた人がカナンに来ることを望まなければ、僕はこの命令から自由になり、花嫁探しを中止してもよいということ。

 第一と第二の点について少し触れておきましょう。カナンの地で旅人、寄留者として過ごしている遊牧民族であるアブラハム一家にとっては、カナンの地の娘と結婚する方が、今後の生活の安定のためには有利であると思われます。しかし、アブラハムはそうしません。カナンの地の異教の神々を信じている妻を迎えることは、息子イサクの信仰を危険にさらすことになりかねません。妻への人間的な愛によって、神の約束のみ言葉を捨てることにもなりかねません。それを考えて、アブラハムは自分の故郷のハランの地までの長く遠い花嫁探しの旅を僕に命じるのです。イサクは結婚してから必ずカナンの地に住まなければならないというのも、同じ理由からです。「この地をアブラハムとその子孫とに永久の所有として与える」との神の約束のみ言葉が、イサクの花嫁探しの最大の基準なのであり、またその目的なのです。

 僕はらくだ10頭と主人から預かった高価な贈り物を携えて旅に出発します。カナンからハランまでは北におよそ千キロメートルの長い距離で、どんなに急いでも1カ月以上の旅ですが、聖書はすぐに11節から次の場面に移ります。その場面は僕の祈りによって始まります。【11~14節】。僕のこの祈りは、7節のアブラハムの言葉に対応しています。「神がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子の嫁を連れて来ることができるようにしてくださる」。アブラハムとその僕はこの信仰によって行動しています。この信仰と祈りによって、僕の花嫁探しは始められます。すべては神のみ手に導かれて進行していきます。このあと、イサクとリベカの出会いによって結婚が成立するまで、すべては祈りと神礼拝の中で進められていきます。それを追っていきましょう。【20~21節】。

【26~27節】。【31節】。【48節】。【50節】。【52節】。【56節】。【60節】。

 息子の花嫁探し、あるいは一組の男女の結婚という、日常的で人間的な出来事の中に、何と深く主なる神がかかわっておられることでしょうか。わたしたちの日々の歩みの中でも、いつどこにいても神が共におられ、神がわたしの歩みにかかわっておられるということを覚えたいと思います。わたしが家にいても、家を出てからも、喜びの時も、悲しみの時も、生まれて死ぬ時まで、いな、死んだのちにも、神はわたしをとおしてみ心を行ってくださるのです。

 最後に、イサクの妻となるリベカについてみていきたいと思います。16節に、リベカは「際立って美しい」と書かれています。ここでは姿かたちの美しさのことを意味していますが、この先を読み進んでいくと、それが彼女の内面的な美しさでもあるということが分かります。リベカは見知らぬ旅人と家畜にもたっぷりと水を飲ませるために、何度も水を汲みに井戸を往復する労苦をいとわない親切と愛に満ちています。20節と28節には「走って行った」とあり、非常に活動的で、行動的です。25節では、旅人のために喜んで宿と家畜のえさを提供すると申し出ます。そして58節では、両親や兄との別れの悲しみに打ち勝って、「はい、わたしは夫となるべき人が待つカナンに行きます」と、信仰の決断をします。そのすべては、神のみ心に従順に従おうとする信仰から生まれ出る美しさです。イサクの花嫁となるリベカは神によって選ばれました。イサクとリベカは神によって出会い、神によって結婚しました。そのようにして、二人は神の約束のみ言葉を共に担っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは恵みと慈しみをもって、わたしたちのすべての歩みに共にいてくださいます。あなたと共にある日々こそが、わたしたちの最も大きな幸いです。願はくは、わたしたちが暗い谷間を行くときも、嵐吹く海を渡る時も、あなたのみ心を信じて、平安のうちに歩ませてください。

〇主なる神よ、この世界にあなたによる平和をお与えください。わたしたちの中にある憎しみや怒り、傲慢や貪欲を取り除き、愛とゆるし、分かち合いと共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月20日説教

3月20日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年3月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:レビ記16章11~15節

    ヘブライ人への手紙9章11~15節

説教題:「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」という箇所について、聖書のみ言葉に導かれながら学んでいきます。

 文章の続き具合から判断されるように、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」は、前の「人類の罪のために十字架にかかり」で告白されている主イエスの十字架の意味をより具体的に説明しています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いにとってどのような意味を持つのかが告白されています。主イエスの十字架の死が、わたしたちの救いのための完全な犠牲であったこと、そしてそれによって贖いが完了したことが告白されています。

 きょうの箇所では、「完全な犠牲」や「贖い」という、聖書の中で用いられる用語がありますので、まずその意味を正しく理解することが重要です。「完全な犠牲」という言葉は、1953年に制定された「文語文」では「全き犠牲(いけにへ)」となっていました。聖書では、「犠牲」と「いけにえ」の両方の言葉が用いられていますが、同じ意味と考えてよいでしょう。

 「犠牲」または「いけにえ」と「贖い」は旧約聖書時代のイスラエルの礼拝形式に関連しています。主イエスの十字架を理解するには、そのイスラエルの礼拝形式を理解する必要があります。そこで、イスラエルの礼拝形式について2、3の点を確認しておきましょう。一つは、イスラエルの民は神を礼拝する民となるためにエジプトの奴隷の家から導き出されたのであり、神を礼拝することは神の民あるイスラエルにとっての原点であり、出発点であり、また目標であったということです。神礼拝は、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出された神の救いの恵みに対する感謝の応答なのです。神への感謝の応答、これがイスラエルの礼拝の第一の意味です。

 この礼拝の第一の意味は、わたしたち教会の民にも受け継がれています。使徒パウロはローマの信徒への手紙12章1節でこのように教えています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。わたしたちが主の日ごとに礼拝堂に集まり、共に神を礼拝するのは、わたしたちが主イエス・キリストの十字架による福音によって罪ゆるされ、救われているという大きな神の恵みに応え、それを感謝するためなのです。

旧約聖書時代のイスラエルの神礼拝においては、祭司や預言者たちによって神の救いのみ言葉が語られ、会衆の感謝の応答として、感謝のささげものがささげられました。神が約束の地カナンへと彼らを導き入れ、それぞれの部族ごとに嗣業の地を与え、その地での豊かな収穫を与えてくださったことへの感謝として、地の初物と家畜の初子(ういご)がささげられます。それに続いて、地の収穫物の十分の一がささげられます。

 羊や牛、やぎなどの家畜の初子をささげる儀式を初子の奉献と言います。最初に生まれた家畜の雄(おす)は、神のものとして聖別され、ささげられなければならないと律法に定められています。それは、初子に続くすべての家畜の命が神のものであり、神から与えられた命であることを言い表しています。家畜の初子を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげる場合には、家畜の首を切り、その血を礼拝堂の祭壇に振りかけました。血は命であり、すべての命が神のものであるから、その命を本来の所有者である神にお返しするためです。

 地の初物や家畜の初子だけでなく、人間の初子(長男)も神のものであり、聖別して神にささげられねばならないと律法に定められています。人間の初子の奉献の場合には、人間の命の代わりに子羊をささげました。これを「贖う」と言います。つまり、本来神に属する長男の命を子羊の命によって神から買い取る、買い戻すという意味です。

 動物を犠牲としてささげるイスラエルの礼拝形式は、血を命として神にささげるほかに、肉は火で焼いてその香りを神にささげました。動物の全部を火で焼いてささげることを焼き尽くすささげ物、あるいは燔祭と言います。これは、神にすべてをささげ尽すという、礼拝者の全き服従を意味していたと考えられます。また、焼いた肉の一部を一緒にささげたパンなどとともに、礼拝者が食べることを酬恩祭、『新共同訳』では和解のささげものと言います。これは、礼拝者が神のみ前で共同の食卓を囲むことによって、ささげ物を受け入れてくださる神との交わりをより豊かにし、具体的にするとともに、礼拝者同士が交わりを深めることを意味していました。今日の聖餐式と同じような意味を持っていました。

 イスラエルの礼拝のもう一つの中心的な意味は、神による罪のゆるしです。感謝の応答という礼拝の意味よりも、こちらの方が本来の、中心的な礼拝の意味だと言ってもよいでしょう。イスラエルの民は、人間が神のみ前では罪びとであり、神の裁きによって死ぬべき存在であるということを強く意識していました。人間は神のゆるしなしでは生きることができない者であると自覚していました。創世記3章に書かれている最初の人間ダムとエヴァが神の戒めに背いて罪を犯し、死ぬ者となったという、いわゆる原罪が、彼らの人間理解の原点です。そこで、彼らの神礼拝は、人間の罪を神がゆるしてくださるように願うことが、第一の最も中心的な要素となりました。

 そのことは、今日のわたしたちの礼拝においても同様です。わたしたちの教会の礼拝も、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざに基礎づけられており、この礼拝では主イエス・キリストの十字架による救いを信じ、その救いの恵みを受け取り、またそれに感謝するために、わたしたちはきょうの礼拝に集められているのです。礼拝にはほかにもたくさんの要素がありますが、罪のゆるしこそがその中心です。主イエス・キリストによる罪のゆるしと救いの恵みがないならば、それは真実の礼拝ではありません。

 では、イスラエルの礼拝では罪のゆるしはどのようになされたのでしょうか。それは家畜などの動物を犠牲として、あるいはいけにえとして神にささげるという形式でした。その礼拝の仕方については、レビ記などに詳しく定められています。【レビ記4章1~7節】(165ページ)。これは祭司が罪を犯した場合の定めですが、13節以下ではイスラエル共同体の罪の場合、22節以下ではイスラエルの代表者が罪を犯した場合、27節以下では一般の人が罪を犯した場合も、同じようにして家畜を犠牲としてささげることが定められています。人間が犯した罪のために動物の命を代わりにささげることを贖罪のささげものと言いました。それによって人間の罪が贖われ、罪がゆるされました。

 ここには、罪の結果は死であるという神の厳しい裁きの原則があります。罪とは神との関係を破壊することです。人間は神によって創造され、神の律法、神のみ言葉に聞き従って生きるべきであるのに、それに背いて罪を犯した場合には、神のみ前では生きることができないからです。使徒パウロがローマの信徒への手紙6章23節で言うように、罪の支払う報酬は死なのです。

 けれども神は、人間の罪に対する裁きとして、人間の死を直ちに要求されませんでした。神は憐れみ深い方であられ、罪をゆるされる方であることをお示しになるために、人間の命の代わりに動物の命をささげることをお命じになりました。それを贖罪のささげ物と言います。

 エルサレムの神殿では、毎日祭司によってイスラエルの罪を贖うための動物が祭壇にささげられ、更には年に1回、7月10日の大贖罪日には、大祭司によって至聖所で罪を贖うための動物が犠牲としてささげられました。このようにして、毎日毎日、毎年毎年人間の罪のための贖罪の犠牲がささげられることによって、イスラエルの民は神によって罪ゆるされ、神の民として生きることがゆるされたのです。これが、イスラエルの礼拝の形式でした。

 そのような旧約聖書のイスラエルの礼拝を背景にして、主イエス・キリストの十字架が、「完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ」と告白されているのです。その意味を探っていきましょう。

 ヘブライ人への手紙9章と10章では、主イエス・キリストがまことの大祭司となられ、神のみ子としてのご自身の罪のない血を十字架におささげくださることによって、永遠の贖いを全うされ、わたしたちすべての人間の罪を贖い、救ってくださったということを語っています。【9章11~15節】(411ページ)。

 12節に、「ただ一度」という言葉があります。この言葉は、一度だけで完全であるという意味を含んでいます。もはや繰り返される必要がない、一度だけで永遠の働きをする、永久的な効力を持つという意味です。このあとでも、26、27、28節でたびたび用いられています。7章27節にも同じ言葉があります。【7章27節】(409ページ)。

 旧約聖書の時代には、エルサレムの神殿で毎日祭司によって人間の罪のための贖いとして動物の犠牲がささげられていました。動物の犠牲は、人間の命の代わりであり、それはいわば代用品であって、人間の罪を贖うには不完全であり、永続性もなかったゆえに、それは毎日、毎年くり返されなければなりませんでした。それによって、イスラエルは来るべきメシア・救い主の到来によって完成される完全な礼拝を待ち望むようにされたのです。主イエスがヨハネ福音書4章23節で語っておられる、「霊と真理をもって父を礼拝する時が来る」、その時をイスラエルは待ち望んでいたのです。

 しかし今や、まことの大祭司であられる主イエスが来られました。このまことの大祭司は、身代わりとなる動物の命を携えて至聖所に入られたのではありません。父なる神に全き服従をささげられ、ご自身の命を携えて、ただ一度だけ至聖所に入られたのです。そして、動物の命をささげるのではなく、ご自身の命をおささげになりました。もはや、動物の代用品ではありません。罪に汚れた人間の血でもありません。まことの人となられた主イエスが、わたしたち人間のすべての罪の贖いとして、十字架でご自身の神のみ子としての、罪も汚れもない尊い血をささげてくださったのです。その1回の十字架による贖いのみわざによって、すべての時代の、すべての人の、すべての罪が、完全に、永遠に、贖われたのです。主イエス・キリストの十字架を信じる人は、すべてその罪がゆるされ、救われるのです。神による死の裁きから自由にされ、永遠に神との豊かな交わりの中に生かされ、神の国の民の一人とされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪に支配され、死に定められているわたしたちを、み子の贖いによって、罪から解放し、新しい命へと招き入れてくださいました恵みを、心から感謝いたします。わたしたちがあなたの救いの恵みによって生かされていることをいつも覚え、感謝し、信仰の道を従順に歩むことができますように。

〇神よ、この地に主キリストにある和解と平和をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月6日説教「恵みと力に満ちた人ステファノ」

2022年3月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記5章1~10節

    使徒言行録6章8~15節

説教題:「恵みと力に満ちた人ステファノ」

 ステファノは初代エルサレム教会の7人の食卓の奉仕者として選ばれました。使徒言行録6章1節以下によると、エルサレム教会の規模が大きくなり、またさまざまに違った立場の人たちが集まってくるにつれて、ギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人との間に日々の食糧の分配で不平等が生じているので、それを解消するために、食卓の世話をする務めを担う人を教会の会議で選ぶことになり、その7人の中に彼が選ばれました。これは一般には今日の執事の職に当たると考えられていますが、きょうの礼拝で朗読された8節以下では、ステファノは12人の使徒たちと同じみ言葉の奉仕者、伝道者の務めを担っているように思われます。7人が選ばれた本来の食卓の奉仕の務めについては、使徒言行録の中ではこれ以後も全く触れられてはいません。もっとも、食卓の奉仕という執事の務めを託されているからと言って、み言葉の奉仕者である必要はないということはありませんので、本来の執事の務めをしながら、伝道者、宣教者の務めをも果たしていたと考えるべきかもしれません。主イエス・キリストの福音を信じて救われ、教会のメンバーとなった信者はだれであれみな神のみ言葉のために仕えるみ言葉の奉仕者であるのは言うまでもありません。

 8節でステファノは「恵みと力に満ち」と紹介されていますが、5節では「信仰と聖霊に満ちている人」と言われていました。ここで挙げられている4つ、「信仰、聖霊、恵み、力」、これらはいずれも父なる神と救い主・主イエス・キリストからステファノに与えられた賜物です。彼が何を持っていたかとか、どんな能力や知識があったかといった、彼自身に備わっていたものについては、ここでは全く問題にされていません。彼の社会的地位や学歴、教養、あるいは彼の性格なども全く語られていません。それらは、彼が執事の務めを果たすにあたって、またみ言葉の奉仕の務めを果たすにあたって、何の条件にもなりません。

 しかしながら、彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、ほかに何が必要となるでしょうか。彼が「信仰、聖霊、恵み、力」に満ちているならば、彼はすべてに満たされているのです。他に何が不足していようとも、彼に何か破れや欠けがあったとしても、彼はすべてにおいて満たされているのです。彼に、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰が与えられ、聖霊なる神によってその信仰の保証として慰めと平安が与えられ、日々新たに神の恵みいただき、その恵みによって生かされ、さらには、何ものをも恐れずに主キリストの福音を語り伝える力と勇気を与えられているステファノ、その彼には何一つ不足はありません。彼はすべてにおいて満たされています。

 8節では、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」と紹介されています。「不思議な業としるし」は神の国が近づいていることの確かなしるしであり、また神のみ言葉の説教の力強さを現実化する目に見えるしるしのことです。これは使徒たちに特別に与えられていた賜物でした。12節に、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われていた」と書かれています。さらにさかのぼれば、2章22節には、主イエスによって行われていた「奇跡と、不思議な業と、しるし」のことが書かれていました。主イエスが神の国、神の恵みのご支配による救いの時が近づいていることのしるしとして行っておられた数々の奇跡、不思議なみわざ、しるしが、12人の弟子たち、使徒たちによっても行われ、そしてまたステファノによっても行われたのです。ステファノにも使徒たちと同じ賜物が与えられていました。使徒たちやステファノは、主イエスによって始められた神の恵みの時、神の救いの時の開始を、民衆の間で言い広めたのです。

 ところが、そのステファノの目覚ましい活動を快く思わない人々がいました。【9~10節】。「解放された奴隷」とは、ローマ帝国によって戦争捕虜とされ、後に解放されて自由人となり、エルサレムに移り住んでいるギリシャ語を話すユダヤ人を言います。リベルタンと呼ばれます。キレネとアレクサンドリアはエルサレムの南方、アフリカ大陸の都市です。キリキアとアジア州はエルサレムの北方の州であり、使徒パウロはキリキア州タルソという町の出身でした。アジア州は小アジアのことで、今のトルコであり、使徒パウロの宣教によってエフェソやコロサイに教会が建てられました。これらの都市には、デアスポラと呼ばれる離散のユダヤ人が多く住んでおり、この時代にはエルサレムに移住してくる人たちもかなりいたようです。彼らはほとんどがギリシャ語を話すユダヤ人、いわゆるヘレニストと呼ばれる人たちです。ステファノ自身も恐らくそうでしたから、彼のもとにはヘレニストたちが多く集まってきたことが予想されます。

 ステファノは「知恵と霊」によって語りました。「知恵と霊」、これも神から賜ったものです。主イエスの福音を語る信仰者は自分が持っている人間的な知恵や体験的な知識で語るのではありません。その人には神の知恵と霊が与えられます。また、神の知恵と霊の導きと助けを求めて語らなければなりません。

 ステファノと議論をしたヘレニストユダヤ人たちもまた当時のユダヤ教の指導者たちと同じように、古いユダヤ教の律法や神殿での古い礼拝の枠から抜け出すことができずに、主イエスの福音を信じ、受け入れることができませんでした。同じユダヤ教の中での意見の違いであれば、激しい議論になることがあったとしても、相手を告発して、裁判にかけることまではしないに違いありません。しかし、ステファノとヘレニストユダヤ人たちの対立は単なる理解の違いではありませんでした。そこには、あれかこれかという、決定的な対立があったのです。ステファノが語った主イエスの福音は、古いユダヤ教の教えを廃棄し、律法を福音に変え、エルサレム神殿での礼拝を終わらせ、全世界での教会の礼拝を始めさせる、新しい教え、新しい救いなのです。

 そのことを知ったヘレニストユダヤ人たちはステファノを捕え、ユダヤ最高法院に訴えました。初代エルサレム教会が経験する3回目の迫害です。【11~14節】。

 ヘレニストユダヤ人たちは、神の知恵と霊によって語るステファノに議論では太刀打ちできないと知るや、暴力的な行動や権力に訴えて、ステファノと主イエスの福音を抑え込もうとします。彼らはまず民衆を扇動し、次にエルサレムの権力者たちを扇動し、ステファノに不利な偽りの証言を語らせます。ついにはユダヤ最高法院の裁判の席にステファノを引き出すことに成功しました。ペトロや12使徒たちが経験した2度の迫害と状況は同じです。と同時に、ステファノが訴えられた内容は主イエスご自身の裁判の際の告発と一致します。マタイ福音書26章に書かれている主イエスの裁判では、主イエスを訴える口実に、「あの男は神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができると言った」という証言(61節参照)や、神を冒涜する言葉を聞いた(65節参照)という訴えがなされましたが、ステファノに対しても同じような非難の声があげられています。

 彼らがここでステファノを告発した内容は、悪意に満ちた誹謗中傷ではありますが、全くの架空の作り話では必ずしもないと言ってもよいのではないでしょうか。彼らには正しく理解されてはいませんが、そこには主イエスによって成就された神の真理が含まれているということにわたしたちは気づきます。

第一点として言えることは、ステファノが語った主イエスの福音は、確かにモーセの律法を超えており、律法によって救われる道を否定し、閉ざしているということです。主イエスの十字架の福音は、律法を守ることによって救いに至るというユダヤ教の道の終わりを宣言するとともに、律法によらず、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという新しい救いの道をすべての人に開いたのです。主イエスの十字架の福音によって明らかにされたことは、だれも律法を守り行うことによっては救われない、律法によっては人間の罪と死とが宣告されるだけである。けれども、神のみ子主イエスがわたしたち罪びとのために律法を完全に成就され、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで父なる神に全き服従をおささげになられ、それによってわたしたちを罪から贖い出し、救ってくださった。この福音を信じる人はみな、その信仰によって神に義と認められ、罪ゆるされ、救われる。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。ユダヤ人たちがこれを聞いて、モーセの律法を否定した、神を冒涜したと理解したのであろうと思われます。

 もう一点は、主イエスがエルサレム神殿を破壊すると言われたこともまた神の真理だと言えます。主イエスはエルサレム神殿を爆破するとか、暴動を起こして神殿の中を荒らすことを計画しておられたのではありません。神殿での動物をささげる礼拝そのものを無効にされ、終わらせたのです。旧約聖書時代のイスラエルの民は日々の自分たちの罪を神に贖っていただくために、エルサレム神殿で毎日動物の犠牲をささげる礼拝をしていました。主イエスはそのイスラエルの民が目指していた真実の神礼拝をご自身の十字架の死によって完成されたのです。すなわち、ご自身の罪も汚れもない尊い血を十字架で流され、わたしたち人類の罪を完全にあがなってくださったのです。主イエスの一回で完全な贖いのみわざによって、すべての人の罪が永遠にあがなわれ、ゆるされているのですから、もはやエルサレム神殿で動物の血を繰り返してささげる必要はなくなりました。神殿の役割は終わったのです。主イエスはご自身の体である教会をお建てになり、その教会でささげられる霊とまことによる礼拝へと、すべての人をお招きになっておられます。これが、ステファノが語った主イエスの福音です。

 けれども、ユダヤ人たちは主イエスの福音を受け入れず、古い律法の教えと神殿礼拝から離れようとしませんでした。主イエスの福音を信じるためには深い罪の自覚と悔い改めが必要です。古い罪に支配された生き方からの方向転換が必要です。ユダヤ最高法院の構成メンバーである律法学者・ファリサイ派はモーセの律法にしがみついていました。もう一つの構成メンバーであるサドカイ派の祭司たちはエルサレム神殿にしがみついていました。彼らは自分たちの生活基盤が失われることを恐れ、悔い改めることをせず、かえってステファノに対する憎しみと怒りをつのらせました。

 【15節】。ユダヤ最高法院全メンバーの憎しみと怒りの目がステファノに注がれた時、しかし、ステファノの顔は天使のように輝いていました。主イエス・キリストの証人として立つ信仰者のかたわらには、神ご自身が共に立っていてくださいます。たとえ、すべての人がステファノに逆らい、彼を攻撃するとしても、彼は少しも恐れません。たじろぐことはありません。主なる神が彼と共におられ、彼を堅く立たせてくださり、主なる神の栄光が彼を包み、彼を支えているからです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたのみ言葉の上に堅く立たせてください。世界がどのように揺れ動くとも、世がどのように変化していくとも、永遠に変わることがなく、永遠に恵みと真理とに満ちているあなたのみ言葉を、信じ続ける者としてください。

〇主なる神よ、世界のすべての国、民族にまことの平和をお与えください。和解の道と共に生きる道をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。