11月24日説教「洗礼者ヨハネの誕生」

2019年11月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記17章9~14節

    ルカによる福音書1章57~66節

説教題:「洗礼者ヨハネの誕生」

 ルカによる福音書1章から、わたしたちはこれまでに二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。一人は、年老いて子どもがいなかったザカリアとエリサベトに神の大きな恵みと奇跡によって与えられるであろうと約束された洗礼者ヨハネです。【13節】。もう一人は、婚約中でまだ一緒になる前のヨセフとマリアに神の聖霊と奇跡によって与えられるであろうと約束されたメシアなる主イエスです。【30~31節】。

 そして、きょう朗読された最初のみ言葉で、ザカリアとエリサベトに語られた神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したということをわたしたちは聞きます。【57節】。では、もう一方はどうなるでしょうか。あらかじめ、2章を先取りして、それを確認しておきましょう。【2章6~7節】。ヨセフとマリアに語られたもう一つの神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したと書かれています。このように、神の約束は必ず成就します。神が語られたみ言葉は一つとしてむなしく消えることはありません。預言者イザヤが言うように、雨が天から降って地を潤し、芽を出させる。それと同じように、神の口から出るみ言葉も神が望み給うことを成し遂げ、神がお与えになった使命を必ず果たすのです(イザヤ書55章8節以下参照)。

 57節に2章6節でも同じですが、「月が満ちて」と書かれています。これは、妊娠の期間が満ちて、出産の時が来たという意味のほかに、神の約束の時が成就したという意味も含まれています。というのも、この男の子は神の約束によって与えられ、誕生した子だからです。神がザカリアとエリサベトにお語りになった約束の時が到来し、それによってエリサベトの妊娠の期間が満ち、神が約束された子どもの出産の時が来たのです。神の約束のみ言葉を聞き、その成就の時を信じて待ち望む人は、決して空しく待つことはありません。必ずやその時が満たされ、約束の成就の時を迎えます。それによって待ち望んでいる信仰者もまた喜びと感謝に満たされるのです。

 ある人は教会を妊娠している婦人にたとえています。教会は神の約束のみ言葉を聞き、終わりの日の神の国が完成される日、救いが完成され、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ婦人と同じだというのです。妊娠した婦人は日々に新しい命の鼓動を強く確かに感じながら、出産の時が確かに近づいて来ていることに喜びと希望を抱きながら、月が満ちるのを待ち望んでいます。それと同じように、わたしたち教会の民も、神の約束のみ言葉を聞きつつ、胎内に子どもを宿しているように、そして確かに約束の成就の時が近づいて来ていることを確信しつつ、「主よ、来たりませ」と祈りながら、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。それゆえに、神の約束のみ言葉を聞きつつ待ち望むわたしたちの待望の時は決して空しく終わることはありません。その時は必ずや満たされます。

 次に【58節】。ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家庭内にとどまらずに、多くの人々の喜びになりました。それというのも、彼ら夫婦の喜びが彼ら自身の力や能力で獲得した喜びとか、偶然に手に入れた喜びとかではなく、主なる神の大きな慈しみによって与えられた、天からの、神の奇跡によってもたらされた喜びであるからです。人間が自分の力で手に入れることができる地上の喜びには、その背後に争いや妬みや傲慢を伴いますが、またそれはやがて悲しみや不安に変わりますが、天からの、神からの喜びは、無限に大きく、永遠に続き、共に喜び合う群れを形成していきます。教会は神から与えられた永遠の救いの喜びを共にし、それゆえにまた悲しみや痛みや重荷をも喜んで共にする人たちの群れなのです。

 実は、このザカリアとエリサベト一家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に描かれているクリスマスの喜びの反映であり、主イエスの誕生の喜びの照り返しであるのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。【2章10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベト夫婦に与えられた子どもヨハネが、来るべきメシア・キリストである主イエスのために道を整える務めを持ち、主イエスを証しし、指し示し、主イエスのために仕える働きをすることによって、主イエスと密接につながっている人物であるゆえに、クリスマスの大きな喜びがここにすでに差し込んできているのです。

 59節から、生まれてから8日目の割礼と命名の儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの家に生まれた男子は、生まれて8日目に、神の契約の民の一人であることのしるしとして、男性の生殖器の一部に傷をつける割礼と、命名の儀式を行いました。その二つは重要な儀式として、親戚や近所の人たちが多く家に集まってきて行われます。その時に、不思議なことが起こりました。

 名前を付けることは父親の務めでした。けれども、父親のザカリアは20節に書かれていたように、神の約束のみ言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて、口がきけません。みんなの前で子どもの名前を発表することができません。そこで、親戚や近所の人たちが父親の代役を果たそうとします。彼らは父親と同じようにザカリアという名にしようと相談しました。ところがその時、妻のエリサベトが立ち上がります。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対を表明します。

 ここで、最初の不思議なことが起こりました。当時のイスラエルは男性中心の社会で、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。子どもの名前を付ける権利もありませんでした。そうであるにもかかわらず、エリサベトは多くの男たちの前ではっきりと自分の意見を述べています。しかも、多くの男たちの考えに反して、またその家系に伝わる名前を子どもに引き継ぐという当時の習慣に反して、全く新しい名前、だれも思い浮かばないヨハネという名前にしなければいけないと強く主張しているのです。これは驚くべきことです。なぜエリサベトはそう言うのでしょうか。なぜエリサベトは多くの男たちに断固として反対意見を述べ、当時の社会の常識や慣習をも破って、このように言うのでしょうか。彼女をこれほどまでに大胆にさせ、勇気ある一人の人間とさせているのは、何でしょうか。

 その答えは、ただ一つ、わたしたちがすでに知っているように、エリサベトが神のみ言葉を聞き、それに従っていたからにほかなりません。13節に書かれていたように、「その子をヨハネと名付けなさい」とお命じになった神のみ言葉を、エリサベトもまた聞いていたからにほかなりません。神のみ言葉に聞き従うとき、このようにして彼女を強く立たしめ、多くの男たちに反対して、また当時の社会の慣習にも反対して、またそのような古い社会を変革していくことができる、神のみ前に立つ一人の信仰者として、エリサベトを固く、強く立たしめているのだということを、わたしたちはここから教えられるのです。神のみ言葉は、わたしたちの日常の生活やこの時代の中でも、その力と命とを発揮して、信じるわたしたちを一人のキリスト者として固く、強く立たしめてくれるであろうことを信じたいと思います。

エリサベトが神のみ言葉に聞き従って立ち上がった時に、さらに不思議なことが起こりました。【62~63節】。ザカリアは口がきけませんでした。そのために、書き板によって自分の考えを示しました。すると、ザカリアとエリサベトの意見が一致します。周囲の人々はみな驚かざるを得ません。なぜ、この夫婦はこのようなことで一致するのでしょうか。

これもまた、神のみ言葉による一致であることは言うまでもありません。二人が共に、同じ神の約束のみ言葉を聞き、共に神を信じ、共に神に従っているところに与えられる一致、ここにこそ夫婦の、そして人間と人間との真の一致があるのです。単に、考え方や趣味が同じだとか、人生観や価値観が同じだとか、あるいは性格が似ているとか、そのようなことからくる一致ではありません。そのような一致は、時が経過し、状況が変化すれば、やがて崩れていく他ありません。神のみ言葉からくる一致、共に神のみ言葉を聞き、共に神に従うことによる一致によってこそ、共に家庭や社会や国家を変革し、世の習わしや常識を打ち破って新しい秩序と共同体を形成していく力と命が与えられるのです。教会にはそのような神のみ言葉による一致を与えられています。

神のみ言葉に聞き従ったザカリアは再び語りだしました。【64節】。かつて、神の約束のみ言葉を信じることができなかったザカリアは、口がきけませんでした。イスラエルの民の祭司として、礼拝で神のみ言葉を語る務めを授けられていましたが、彼は神の裁きを受けて言葉を失っていました。しかし今、彼は神を信じる人となりました。神のみ言葉に従う人となりました。その時、彼は再び口を開き、語るべき言葉を与えられます。

彼は何を語るべきでしょうか。「神を賛美し始めた」と書かれています。他の言葉を語るために彼の口が開かれたのではありません。自分を誇ったり、だれかを非難したり、不満や不平を言うために彼の口が開かれたのではありません。そのことのために、彼の口があるのではありません。彼が語るべきは、彼に約束のみ言葉をお語りになり、その約束を確かに成就された主なる神を賛美する言葉に他なりません。この言葉を語るためにこそ、彼の口はひとたび閉ざされ、今また再び開かれたのです。ザカリアが神を賛美して語った内容は具体的には67節以下のザカリアの賛歌です。わたしたちは次回それを学びます。

わたしたちはここで、自分に何のために口が与えられ、言葉を語ることがゆるされているのか、その理由を知らされます。わたしの口が救い主なる神をほめたたえるため、主イエス・キリストの十字架の福音を語るため、そのためにこそわたしに口があり、言葉が授けられているのだということを知らされます。その時、わたしたちに与えられている口は最も良い働きをするのです。

【65~66節】。ここには、ザカリアとエリサベトの家庭に起こった不思議な出来事に対する周囲の人々の反応が描かれています。それは神への恐れであり、これから先に何が起こるのであろうかという不安と期待に満ちた問いかけです。わたしたちはここに、この出来事の6カ月後に起こるであろうあのクリスマスの出来事がかすかに暗示されているように感じるのです。年老いた夫婦の家庭に神の奇跡によって男の子が誕生したこと、神の約束のみ言葉を信じることができず、神の裁きを受けて口がきけなくなったザカリアが、神のみ言葉を信じる人へと変えられ、罪ゆるされて神を賛美する言葉を語る人とされたこと、ユダヤの地方の多くの人々がこの一家に起こった出来事を見て神を恐れ、やがて神がなそうとしておられるさらに偉大な出来事へと思いをはせていること、そのすべての出来事が6カ月後のクリスマスの時に、より確かな神の救いの出来事として成就することになるのです。すなわち、おとめマリアが聖霊なる神の奇跡によって男の子を生む、神が人となられてこの世においでくださったという大いなる奇跡が起こされる。また、その神のみ子の誕生がイスラエルのみならず、全世界すべての人々にとっての大きな喜びとなり、彼らを罪から救う出来事となる。そして、罪と死と滅びとに支配されていたこの世界が神のみ子の十字架の死と復活によって解放と勝利が約束されているという出来事が起こる。やがてわたしたちはそれらのことが成就する時を迎えるのです。

(祈り)

11月17日 説教「愛とへりくだった心をもって」

2019年11月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記24章17~22節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「愛とへりくだった心をもって」

 フィリピの信徒への手紙2章の冒頭で、パウロは教会の一致を強く勧めています。【1~2節】。ここでは、「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つに」という、同じような意味を持つ言葉を4つも重ねながら、教会が一つの群れとして一致するように勧められています。すでに、1章27節でも、「あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っている」と書かれていました。ここでは、教会の外の敵対する勢力、たとえば迫害とか異教的な教えや異端的な教理との戦いにおいて、教会が自分たちの身を固めるための一致の勧めでした。

 福音に敵対するこの世の不信仰な世界からの攻撃に対して、たじろぐことなく、福音に固く立って、福音の信仰のために一致して戦い続けるなら、神は必ずや教会に救いと勝利とを与えてくださるでしょう。けれども、主イエスがマタイ福音書12章25節で言われたように、「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない」でしょう。主イエスはさらに18章19~20節でこのように言われました。【19~20節】(33ページ)。たとえ教会が二人、三人の小さな、弱い群れであっても、主イエス・キリストのみ名によって集められているならば、その群れの中心には罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、主ご自身がその信仰の戦いを導いてくださるでしょう。それゆえに、教会はどのような凶暴な敵を前にしても、困難に直面しても、恐れることなく、たじろぐことなく、一致して戦うことができるのです。

 きょうの2章では、どちらかと言えば、教会内部における一致、キリスト者たちの信仰生活における一致のことが勧められています。そして、注目すべきは、教会の外からの敵に対する戦いのために一致せよという1章27節の勧めよりも、教会内部の信仰生活において一致せよという2章2節の勧めの方が、より力を込めて言われているということです。外からの敵に対抗するために一致が必要であるだけでなく、それ以上に、教会が主キリストの教会として生き続けていくためには内部における一致が大切であるということです。

 パウロがここで、フィリピ教会に一致を強く勧めていることには、それなりの理由があったと思われます。4章2節には、教会の二人の婦人の間で何らかの争いがあったらしいということが推測されます。けれども、パウロはそこで詳しい事情には立ち入らずに、何よりもまず主にあって一致するように、和解するようにと勧めています。2章の勧めがこのようなフィリピ教会内部の事情に関連しているのかもしれません。しかし、それだけではありません。というのは、パウロは4章でも2章でも、彼女たちの争いの具体的な内容には一切触れておらず、教会内に分裂があったから、それを解決するためにここで一致を勧めているというのでは必ずしもありません。それよりも重要なことは、一致することが教会の本質そのものであるからです。教会はいつでも、どのようなときでも、絶えず、一つの群れとして一致してあるべきなのです。

パウロは他の手紙においても、しばしば教会の一致の重要性を強調しています。その理由は、単に教会が一致協力して内外の課題に取り組むようにということを勧めているのではなく、教会の一致と教会が一つであることは、教会の本質そのものだからです。教会は一人の主イエス・キリストの体であり、一つの霊、聖霊によって導かれ、一人の父なる神を礼拝している群れだからです。共に神の命のみ言葉を聞き、共に主イエス・キリストの救いの恵みにあずかり、共に来るべき神の国を待ち望んでいる一つの群れだからです。ここに、揺るがない教会の一致があるのです。

単に、教会の内部の分裂を解決するためだけの一致ではなく、何かの事業をやり遂げるための一致とか、一つの理想に向かって足並みをそろえるような一致なのではありません。教会の一致は、それらの人間が造りだす一致とは全く質を異にしています。たとえば、国家や社会がある政策を実行するために国民・住民に求める一致があります。企業や団体が自分たちの利益を追求するために必要な一致があります。その場合には、多少個人の考えや権利を抑えて、全員が同じ方向を向くことが求められます。時として、強制的な力によって縛りつける一致もあるでしょうし、人間の努力である程度の一致を造り出すこともできるでしょう。

しかし、教会の一致は人間が造りだす一致ではありませんし、人間が造り出すことができる一致よりも、はるかに固く、深い一致です。この一致は、一つの目的が実現すればそれで解消されてしまう一致ではありませんし、あるいは、個人の存在や権利を無視する全体主義でもありません。むしろ、信仰による一致は個人を一人の自由な人間とします。全体の中に埋没して自己を失っている人を見いだし、また群れから離れて一人孤独の中をさまよっていた人を群れの一人として見いだします。信仰は一人の人間として、しかも、神のみ前に立たされている一人の人間として見いだされる経験だと言ってよいでしょう。そして、信仰者の群れは、共に、神によって見いだされた一人一人の人間として、お互いをもそのような一人の人間として見いだすことによって一致するのです。お互いの顔を見れば、一致するような共通点は全くないようであっても、またそれぞれに個性があり、違った賜物を持っていても、だれもがみなかつては失われていた人たちであり、今は神によって見いだされている人たちであることを知っている、そういう人たちの群れとして一致するのです。唯一の神、ただお一人の救い主イエス・キリストから与えられている一致、それゆえに堅固で永遠的な一致、これが教会の一致なのです。

パウロはそのような一致を強調するために、1節で「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、……の心があるなら」と言って、勧めの言葉を語ります。ここには、後の教会の中で形成されていく重要なキリスト教教理である三位一体論の芽がすでに見えています。主キリストの励ましと愛の慰め、聖霊なる神の交わり、そして父なる神の慈しみと憐れみが言及されています。コリントの信徒への手紙二Ⅰ3章13節の、礼拝の終わりの祝福と派遣の言葉と似ています。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」。この三位一体なる神こそが、教会のすべての一致の源であり、土台であり、目標なのです。

では、このようにして三位一体なる神から与えられた一致が、教会の中でどのようにして具体化されていくのか、「愛」と「へりくだり」という二つを取り上げてみたいと思います。

「愛しなさい」という勧めは聖書の至る所にあります。愛のある生活、他者、隣人を愛する生活は、キリスト者の最も基本的なものと言えます。ここでは特に「同じ愛」と言われています。一人一人にそれぞれの愛の形があり、愛し方も違っているかもしれません。けれども、愛の源は一つです。1節で「キリストによる励まし、愛の慰め」と言われていたように、主キリストの十字架の愛がキリスト者のすべての愛の源泉です。「同じ愛」とは、わたしたちのさまざまな愛を超えて、それらの愛を一つに結びつける愛であり、それは主キリストの十字架によって与えられた神の愛です。また、「同じ愛」とは神の愛によって愛されているキリスト者が互いに愛し合う相互の愛でもあります。さらに、「同じ愛」とは、愛することによってお互いの違いをも超えて信仰者の群れを一つに結び合わせる愛でもあります。

愛は一人だけでは完成しません。神の愛がわたしたち罪びとを尋ね求めるように、愛は愛する他者を求め、見いだします。他者を愛し、また自分も愛されていることを知ることによって、愛は成長します。一方がより多く愛して、他方はより小さな愛で満足しているということもありません。愛は互いの愛を成長させ、純化させ、聖なるものとさせ、主キリストによる神の愛を証しします。

しかし、愛もまた人間を傲慢にしたり、卑屈にすることがあり得ます。否むしろ、愛という甘美な言葉にこそ、最も危険なとげが隠されていることもあります。それゆえに、「同じ愛」を持つ人は、多く愛するほどに、自分が神から与えられている愛の大きさを知り、多く愛されていることを知るほどに、多く愛するようにされます。そしてまた、その人はどんなに小さな、ささやかな愛をも喜んで受け入れ、それのみか、憎しみをも受け入れるのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こすべきでしょう。主イエスは福音書の中で「あなたの敵を愛しなさい」とお命じになりました。このみ言葉は、単に敵からの憎しみや怒りを我慢しなさいと命じているのではなく、また敵に対するあなたの憎しみや怒りを抑えなさいと命じているのでもなく、敵に対するあなたの怒りや憎しみを愛に変えなさいという命令であり、またそれによって、敵からの怒りや憎しみも愛に変わるであろうという約束でもあるのです。あなたを憎んでいた敵が、あなたの愛によって、罪びとに対する神の愛を知るようにされ、神の愛こそがすべての人間の憎しみや怒りに勝利し、人間を分断しているすべての憎しみや怒りを愛に変える力があることを悟るようにされるのです。「同じ愛」とは、憎しみをも愛に変える愛のことです。

【3~4節】。「へりくだる」、つまり謙遜についての勧めも聖書には数多くあります。愛が積極的に隣人を尋ね求め、見いだしていく行為であるように、謙遜もまた聖書では、自分を低くして他者を立て、自分自身の都合を差し置いても隣人のために配慮するという、積極的な行為です。そうではない間違った謙遜もあります。日本では、謙遜は一つの美徳とたたえられることがあります。何ごとも出しゃばらずに、自分には能力あると思ってもそれをあえて出さずに、相手には腰を低くして控えめな態度で臨む。そうすることで、自分を相手よりも優位な立場に置く。それが、美徳であると言われます。

しかし、聖書が言うへりくだり、謙遜はそうではありません。へりくだりは、単に自分を一時的に小さく低く見せるのではなく、徹底して他者に仕え、自らを徹底して貧しくし、無にして、自分のすべてを他者に与える奉仕の生き方のことです。それは、次回6節以下のみ言葉で学ぶように、主イエスご自身の十字架の死に至る道によって示され、開かれた道です。

「何事も利己心や虚栄心からするのではなく」と書かれています。へりくだりは、いかなる意味でも、いかなる場合でも、決して自分の利益を第一にするのではなく、他者のためになることをひたすら求めます。自分を飾ったり大きく見せるためではなく、また自分の喜びとか満足とかを求めるのではなく、ひたすらに他者の喜びのために、他者を高めるために、他者の幸いを願って、自らをささげ尽くすのです。

最後にもう一度次のことを確認しておきましょう。「同じ愛を抱き」「へりくだる」というキリスト者の生き方は、主イエス・キリストによってわたしたちのために開かれ、備えられている道です。わたしたちは貧しく弱い罪びとですが、今や主イエス・キリストによって罪ゆるされ、主イエス・キリストによって開かれたこの道へと招かれているのです。

(祈り)

11月10日 説教「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

2019年11月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編90編1~12節

    ヨハネによる福音書14章1~7節

説教題:「わたしは道であり、真理であり、命である―主キリスト」

 教会の古くからの伝統によると、11月1日は「諸聖人の日」と呼ばれ、カトリック教会で聖人とされた人たちや殉教した人たちを記念する日とされていました。それにならって、プロテスタント教会でも、11月の初めの主日に逝去者、あるいは召天者記念礼拝をささげるようになりました。信仰をもって地上の歩みを終えた教会員やその家族を覚えて記念礼拝をささげるということは、彼らの信仰と地上の歩みをお導きくださった主なる神を礼拝するということに他なりません。それと共に、今地上の歩みを続けているわたしたち一人一人をも神がすべての必要なものをもって、終わりの日まで導いておられるということを覚え、感謝する礼拝でもあります。

 きょうの秋田教会逝去者記念礼拝では、ヨハネによる福音書14章1~7節のみ言葉をご一緒に聞きましょう。前の13章から、主イエスの受難週の木曜日のことが書かれています。つまり、主イエスが十字架につけられる前日のことです。夕食の時(これは、共観福音書では、いわゆる最後の晩餐ですが)、主イエスは席から立ち上がって、12弟子一人一人の足を洗われました。主イエスのこの行為は、翌日の十字架の死の意味をあらかじめ予告しています。すなわち、主イエスはわたしたちすべての罪びとたちの僕として、奴隷が主人に仕えるようにわたしたちのためにお仕えになられ、最後にはご自身の命をおささげくださるほどにお仕えになられ、それによってわたしたちの罪を洗い清めてくださったのです。わたしたちは主イエスの十字架の死によって罪をゆるされている人たちとして、この礼拝に集められているのです。

 そのあとで主イエスは言われました。「わたしがあなた方の足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と。主イエスによって罪ゆるされているわたしたちは、罪ゆるされ救われている人たちの共同体を形成するために、互いに仕え合い、愛し合う共同体の一人一人として、この教会に集められているのです。だれもが、自分自身のためだけに生きるのではなく、むしろ、主イエスがわたしたちの足を洗われたように、お互いに仕え合い、喜んで他者のために仕えていく新しい愛の共同体を形成するのです。主イエスは13章34、35節で次のように言われました。【34~35節】(196ページ)。

 きょうの礼拝で朗読された14章からは、同じ木曜日の夕食の席で語られた主イエスの長い説教が17章の終わりまで続いています。一般に、主イエスの告別説教と言われています。説教が終わった翌日、金曜日に主イエスは裁判にかけられ、十字架刑を言い渡され、十字架上で息を引き取られることになります。

 主イエスは最後の夕食の時に、すでにご自身の死を予期しておられ、後に残される弟子たちのことを思って、彼らを励ましておられます。1節でこのように言われます。【1節】。尊敬する師であり、自分たちを導く主である方の死に直面して、弟子たちは恐れ、不安になり、失望するに違いありません。リーダーを失って、自分たちだけがこの世に取り残され、今なお罪と悪がはびこっているこの世での信仰の戦いを続けていかなければならない弟子たちを、主イエスは励まし、勇気づけ、なおも希望を失わずに前進していくために、力強い約束を与えておられます。

 【2~3節】。主イエスは弟子たちをお見捨てになるのではありません。主イエスの十字架の死によって、主イエスと弟子たちの関係が断ち切られてしまうのではありません。十字架の死は、主イエスと弟子たちとが永遠に共にいることの始まりとなるのだと主イエスは言われます。主イエスはここですでに、十字架の死のあとに続く復活と昇天を予告しておられます。金曜日に十字架上で死なれた主イエスは三日目の日曜日の朝に、死の墓から復活され、罪と死とに勝利されて、そののち天の父なる神のみもとへと凱旋帰国されるのです。

 主イエスが復活して天に昇られることは、主イエスご自身の罪と死に対する勝利のしるしであるだけでなく、主イエスを信じる弟子たちとわたしたちの罪と死に対する勝利の約束でもあるのです。主イエスが天に昇られるのは、わたしたちが永遠に住む場所を用意するためなのだと言われています。したがって、主イエスの十字架の死は弟子たちとわたしたちを見捨てることになることではなく、また、それによって主イエスと信仰者たちとを切り離すことになるのでもなく、むしろ、主イエスと信仰者たちが永遠に天の住まいで共にいることの約束であり、その始まりなのだというのです。

 これはどういう意味でしょうか。いつ、どのようにしてそのことが実現するのでしょうか。理解のポイントになるのが、3節の「戻って来て」という言葉が何を意味するかです。これには、3つの理解が可能ですが、いずれの理解であっても、キリスト教信仰が目指している目標は一致していますので、その共通点を考えながらみていきたいと思います。

 一つの理解は、主イエスの再臨の時、主イエスが再び地上に降りてこられ、わたしたちの救いを完成される終末のときを指しているという理解です。そのときには、信仰者はすべて墓から復活させられ、主イエスによって天へと引き上げられ、天にある神の国で永遠に主イエスと共にあって父なる神を礼拝する一つの民となるということが、テサロニケの信徒への手紙一4章15節以下等で教えられています。【15~17節】(378ページ)。

 二つめの理解は、信仰者の死のときを指しているという理解です。信仰者が地上の歩みを終えた時、主イエスが彼らを天の父なる神のみもとへと招き入れてくださることがここで約束されていると考えられます。信仰によって神と固く結ばれている信仰者は、死によっても神から引き離されることはありません。神は彼らを永遠にご自身のものとして守られ、支配しておられるゆえに、神との永遠の交わりは死によっても決して断ち切られることはないのです。

 16世紀の宗教改革者たちは、すでに天に召された信仰者たちを「勝利の教会」と呼び、地上で今なお信仰の戦いを続けている信仰者たちを「戦闘の教会」と呼び、それらはお一人の神によって集められている、一つの主イエス・キリストの教会なのだと理解しました。讃美歌29番の頌栄では、「天の民も、地にあるものも、父・子・聖霊なる神をたたえよ」と歌っています。すでに天に召された信仰者たち、わたしたちの教会の先輩たちも、主イエスによって天にある「勝利の教会」に招き入れられているのです。地上にあって今なお信仰の戦いを続けているわたしたちは、彼ら「勝利の教会」に移された信仰の先輩たちと共に、主なる神によって一つに結ばれ、一人の神を礼拝しているのです。

 三つめは、15節以下で語られる聖霊の派遣を指しているという理解です。16節ではこのように約束されています。【16~17節a】。また【26節】。そして【28節】。天に帰られた主イエスは、天から別の弁護者、助け主である聖霊をお遣わしになり、その聖霊なる神のお働きによって、地上に再び戻って来られるというのです。主イエスは弟子たちを、またわたしたち信仰者を地上に孤児としてお見捨てになることは決してありません。聖霊なる神として、教会を通して、永遠にわたしたちと共にいてくださり、わたしたちの信仰の戦いを共に戦ってくださり、弱く迷いやすいわたしたちの地上の歩みを守り導いてくださり、終わりの日に救いが完成されるときまでわたしたちと共にいてくださるのです。

 以上の三つの理解は、主イエスが戻って来られるときはいつかという時期においては異なっていますが、天に昇られた主イエスが弟子たちと、またわたしたちと永遠に共にいてくださり、わたしたちの信仰を導き、完成させてくださるということにおいては一致しています。

 主イエスは金曜日の午後に十字架で死なれ、三日目の日曜日の朝に復活され、40日目に天に昇られ、それから10日後のペンテコステのときに弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに最初の教会が誕生しました。それ以来、聖霊なる神は教会を通して常に信仰者の救いのために働いておられます。信仰者の死のときにも、聖霊なる神はその人から離れず、主イエスが先だって昇って行かれた天に、主イエスが備えてくださった永遠の住まいへと引き上げてくださいます。そこで、永遠に主と共にあって、父なる神を礼拝する一つの民とされるのです。

 主イエスは告別説教の中でこの約束を弟子たちとわたしたちにお与えになられた後で、6節でこのように言われます。【6節】。今やわたしたちは主イエスのこのみ言葉をよく理解することができます。わたしたち罪びとのために苦難を受けられ、十字架で死なれた主イエス、そして三日目に復活され、天に昇られた主イエスによってこそ、わたしたちは父なる神のみもとへと至ることができるのだということを、正しく知ることができます。

 「わたしは……である」という言い方はヨハネ福音書に特徴的な主イエスのみ言葉です。6章35節では、「わたしが命のパンである」と言われました。10章11節では、「わたしは良い羊飼いである」と言われました。15章1節では、「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。他にもいくつかあります。この言い方では、「わたし」という言葉が強調されています。つまり、「わたしこそが、わたしだけが」という意味です。

 わたしたちは主イエス以外に、わたしをまことの命へと導く命のパンを求める必要はないし、求めるべきではありません。わたしの人生を導く羊飼いを、主イエス以外に求める必要はないし、求めるべきではありません。まことのぶどうの木である主イエスにつながっているならば、わたしたちには豊かな実りが約束されています。わたしたちのためにご自身の命をささげて死んでくださったまことの羊飼いであられる主イエスこそが、また復活されて、罪と死とに勝利された主イエスこそが、わたしたちに新しい命を与え、まことの救いの道へと導いてくださるからです。

 主イエスは「わたしは道である」と言われました。この道は父なる神に至る道です。神と人とをつなぐ道はそれまでは閉ざされていました。人間の罪が神を遠ざけていたからです。主イエスは神と人との仲保者となってくださり、わたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちと神との交わりを回復してくださいました。主イエスは人間が神に至る道を、ご自身の死をもって開いてくださいました。それだけでなく、主イエスはわたしたちが神に至る道そのものでもあられます。聖霊によって、わたしたちを天の父なる神のもとへと引き上げてくださいます。わたしたちが地上の歩みを終えて死ぬときにも、主イエスはわたしの道であり続けてくださいます。

 主イエスはまた「わたしは真理である」と言われました。真理とは神の真理のことです。主イエスは神の真理をわたしたちに教えられただけでなく、主イエスこそが神の真理そのものであられました。主イエスが歩まれた十字架への道が、そのまま神の真理でした。神はご自身の独り子を十字架の死に引き渡されるほどに、わたしたち罪びとを愛されました。ここにこそ、神の真理があり、神の愛があります。

 このようにして、道であり、真理であり、命であられる主イエス・キリストが、天におられ、わたしたちのために天の場所を用意して待っておられるのですから、わたしたちは地上にあって、さまざまな試練や厳しい信仰の戦いを経験しなければならないのですが、しかし、最後の勝利を約束されている人たちとして、かしらを挙げ、前の方に全身を向け、目標を目指して走り続けるのです。

 主イエスはまた「わたしは命である」と言われました。命とは、この世に誕生してやがて死んでいくしかない命のことではありません。復活の命のことであり、死から始まり復活に至る命のことです。主イエスご自身が復活され、まことの命に生きておられると同時に、信じる人々に朽ちることのない永遠の命をお与えくださる救い主であられます。

(祈り)

11月3日説教 「土のちりで造られた人間アダム」

2019年11月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章4~9節

    コリントの信徒への手紙二4章7~15節

説教題:「土のちりで造られた人間アダム」

 創世記1章1節から2章3節までに、一連の神の創造のみわざが描かれています。第一日目の光の創造に始まって第6日目の人間の創造までで天地万物が創造され、第七日目を神は安息日とされ、造られたすべてのものを祝福されました。これで、神の天地創造のみわざは完了しました。

 ところが、きょうの礼拝で朗読された2章4節以下では、新たに人間が土のちりで造られたということが語られています。これはどういうことなのでしょうか。きょうは初めにこのことについて少しお話ししたいと思います。

 今日の聖書の研究の結果から明らかになったことをいくつかご紹介します。一つは、創世記には二つの、多少ニュアンスの違った創造の記録があるということを、今日ほとんどの聖書学者は認めています。さらには、1章1節から2章3節までと2章4節から3章の終わりまでは二つの違った天地創造の記録であるけれども、しかし全く別々のことを語っているのではなくて、一つの神の創造のみわざを違った視点から語っているのであって、これによって神の創造のみわざの意味と意図、み心、神の救いのご計画が、より深く、より信仰的に、より神学的に語られているのだということで聖書学者の意見は一致しています。

 もう一つ付け加えておくならば、これは旧約聖書の民であるイスラエルの長い信仰の歴史の中で伝承されてきた資料の違いに由来しているということです。その資料の見分け方ですが、第一の天地創造の記録では、神は単に「神」と表記されています。1章1節から2章3節まではすべてそうなっていることが確認できます。この第一の天地創造の記録は、非常に整えられた文体と構造で描かれており、よく考え抜かれた神学的な内容になっています。これはエルサレム神殿で仕える祭司階級の学者が集め、編集した資料であり、祭司資料と呼び、英語のプリーストの頭文字を取ってP資料と呼びます。

それに対して、第二の創造の記録では「主なる神」となっています。2章4節からすべてそうなっていることが分かります。日本語で「主」と訳されている箇所には神のお名前が書かれているのですが、今日神のお名前をどう発音するのかが分からなくなってしまったので、神のお名前が書かれている箇所は「主」、ヘブライ語では「アドナイ」ですが、そう読むことに決められています。これをJ資料と呼びます。神のお名前をヤーヴェと推測して、その頭文字を取っています。J資料は前のP資料と違って、文体はのびのびとしており、簡潔で生き生きとした表現によって神学的に深い内容が言い表されているという特徴があります。それぞれの資料には特徴がり、そこに描かれている神のお姿と強調されている神学的内容の違いがあり、それによって旧約聖書の信仰がより深く、より幅広く表現されているのです。

 そうしますと、2章4節の2行目は「主なる神」が主語になっていますので、これはJ資料ということになります。4節の1行目は、前の創造の記録の締めくくりと理解して、P資料とするのが一般的です。

 では、【4節b~6節】。この第二の天地創造の記録では、一日目、二日目という区切りはありません。また、人間を除く他の被造物が1日目から6日目の前半までに創造されて、最後に人間が創造されるという第一の創造の記録とは順序も違っているように思われます。第二の天地創造の記録では、まだ何も造られていないときに、7節に書かれてるように、人間が最初に創造されています。人間が造られた後で、9節になって木を生えさせられ、10節で川の流れができ、19節以下で野のけものや空の鳥などの生き物を神はお造りになります。

 このように、第一の創造の記録と第二の創造の記録は大きな違いがあるように思われますが、そこで語られている中心的なこと、神が天地万物と人間を創造された深いみ心は、全く一致していることをわたしたちは確認することができます。すなわち、第一の創造の記録では、人間はすべての被造物の頂点として、その頭として、最後に創造されており、また、人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っており、そこには人間に対する神の深い愛とご配慮、永遠の救いのみ心が語られていましたが、第二の創造の記録では、人間はすべての被造物の中心に置かれており、人間を中心にして他のすべての被造物が造られていきますが、ここでも人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っています。神はこれほどまでに人間を愛され、み心に留められ、神のみ前で、神と共に生きる者として、神のみ前で責任ある者として創造されたのだということが、同様に強調されていることが分かります。

 5節の最後に、「また土を耕す人もいなかった」と書かれています。人間の存在なしには、地上の生き物と他のすべて被造物の存在もない。それほどまでに、神は人間に特別に深く大きな存在の意味をお与えになったのであり、人間を被造世界の中心に据えておられ、人間の存在と命を全世界よりも重いものとされ、この人間の救いのために神はすべての愛を注がれるのだということが、この創造の記録から読み取ることができます。

 【7節】。第一の創造の記録では、1章26節に書かれていたように、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言われて、神のみ言葉に言い表された強い神の意志と神の決意によって人間は創造されたということが強調されていましたが、第二の創造の記録ではむしろ人間が創造された際に用いられた素材の貧しさが強調されているように思われます。人間は土のちりで造られました。ここではどのような神の人間創造の意図が語られているのでしょうか。

 まず、第一の創造の記録と第二の創造の記録に共通していることを確認しておきましょう。それは、いずれも神が人間を創造されたということです。神が人間の造り主だということです。人間は偶然にこの世に生まれ落ちたのではありません。両親の所有物として生まれたのでもありません。国家のためとか、家の働き手のためとか、少子化を防ぐためとかに生まれるのでもありません。神がそのように望まれ、神の意志と決意のもと、神にその命の根源を持ち、神がその命と存在の主である者として、すべての人間は創造され、今あるのです。このことは、戦争やテロや飢餓によって多くの命が無意味にあるいは無残にあるいは無造作に失われていく時代の中にあって、また人間の命が他の何かと比較されては軽々しく投げ捨てられていく時代の中にあって、本当の意味での人間の命の尊厳さや重さや尊さを思い起こし、再確認するために、決して忘れてはならないことです。他のどのような思想であれ、信条であれ、宗教の教理であれ、聖書が語っているこのこと、すなわち神がすべての人間の命と存在の創造主であり、所有者であるという真理を超えるものはないのだということを、わたしたちキリスト者はもっと力を込めて発言し、証ししていかなければなりません。人間の命と存在は、だれのものでもなく、わたしのものでもなく、造り主なる神のものなのだということを、わたしたちは厳粛な思いで告白しなければなりません。

 ここで語られている第二のことは、人間は土のちりで造られたということです。ここには、ヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。ヘブライ語で人間は「アーダーム」と言います。現在用いられているモダン・ヘブリュー(現代へブライ語)では長母音は原則ないので、新共同訳では「アダム」と書いてありますが、聖書のヘブライ語では長母音がありますので、正確には、人間は「アーダーム」、土は「アダーマ―」と発音します。人間は土「アダーマ―」から造られたゆえに人「アーダーム」なのです。またそれゆえに、3章19節に書かれているように、罪を犯して神の命の息を失ってしまった人間は、人「アーダーム」であるゆえに土「アダーマ―」に返るほかないのです。

 旧約聖書の民イスラエルの人々は、人間とは何者かを考える際に、人間「アーダーム」と発音する時にはいつも、土「アダーマ―」を同時に思いおこしたのです。人間は土から造られた者に過ぎず、やがて死んで土に返っていくほかない弱く、はかなく、貧しいものであるということを決して忘れませんでした。そうであるからこそ、命の息を吹き入れて人間を生きたものとしてくださった造り主なる神から決して離れることなく、神との生きた交わりを持ち続けるためにはどうしたらよいかを深く、真剣に考えたのでした。

 「塵」とは、日本語でも「ちりあくた」という言葉があるように、無価値なもの、ごみやほこりのようなもの、取るに足りないつまらないものを言い表しています。人間はそれ自体としてはこのようなものに過ぎません。人間にはいかなる誇るべきものも称賛されるべきものもありません。人間は神ではありません。神にはなり得ません。人間は土のちりから造られ、やがて土に返っていく者です。このことをわたしたちは何の幻想も抱かず、何のごまかしもなく、そしてまた決してそのことを隠すことなく、あるいはまた決して恥じることもなく、造り主なる神のみ前で認めるべきですし、認めてよいのです。神はそのような人間に、ご自身の命の息を吹き入れ、生きた者としてくださるのです。

 「形づくる」という言葉は、陶器師(土で器を作る人)が粘土を手でこねながら器を作っていく動作を言い表しています。また「鼻から命の息を吹き入れられた」と書かれています。あたかも神がかがんで人の鼻にご自身の口をつけられ、息を吹き込まれるかのようなリアルで生き生きとした表現が、ある意味で人間の動作に近いような表現が用いられています。これがJ資料が描く神の大きな特徴です。神はこのようにして、非常に具体的な動作をなさりながら、直接にご自身の手をかけながら、ご自身の思いを込めながら、人間を創造されたのです。

 7節の終わりに、「人はこうして生きる者となった」とあります。土のちりから造られた人間が、神の命の息を吹き入れられ、その朽ちていくしかない肉の体に神の霊が注入されることによって、人間は初めて生きる者となるのです。人間の命は直接に神の命の息である霊が人間の中に吹き入れられた命なのです。その命は100パーセント神から与えられた命であり、神に属する命なのです。人間の自由によって処理されるべきでは決してありません。また、神の命の息によらなければ、だれも本当の命を生きることはできません。

 人間は土のちりから造られた者であり、神によって命の息を吹き入れられて生きる者となるという人間理解は、旧約聖書全体に貫かれており、また新約聖書にまで貫かれています。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一Ⅰ5章45節で、創世記2章7節のみ言葉に触れながら次のように語っています。【45(「最後のアダム」とは主イエス・キリストのこと)~49節】(322ぺーじ)。土に属し、死んで朽ち果てるほかないわたしたちが、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、天に属する霊の体をお持ちの主キリストの似姿に変えられていくと約束されています。

 また、コリントの信徒への手紙二4章7節以下では、土の器であるわたしたち人間に永遠の命のみ言葉である主キリストの福音が託されていることを、使徒パウロは驚きをもって語っています。【7~11節】(329ページ)。これは何という大きな恵みでしょうか。土に属する者であるわたしたち人間に、この取るに足りない小さきもの、貧しきもの、滅ぶべき者に、全世界の人を罪から救う命のみ言葉である主キリストの福音を託され、持ち運ぶ使命が与えられているとは。  (祈り