8月28日説教「逃亡するヤコブを導かれる神」

2022年8月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記28章10~22節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「逃亡するヤコブを導かれる神」

 きょうの礼拝で朗読された創世記28章13節以下にこのように書かれています。【13~15節】。この神の約束のみ言葉は最初アブラハムに語られ、次にその子イサク語られ、そして今イサクの子ヤコブにも語られます。アブラハム契約はその子イサクへ、またその子ヤコブへと受け継がれます。アブラハムを選び、彼と契約を結ばれた主なる神は、イサクの神となられ、そして今ヤコブの神となられました。13節で神が言われたとおりです。

神が最初にアブラハムと結ばれた契約はこうです。「わたしはこの地カナンを永遠にあなたとあなたの子孫とに受け継がせる。わたしはあなたの子孫を夜空の星の数、海辺の砂の数ほどに増やす。そして、わたしはあなたを万民の祝福の基とし、あなたの子らにわたしの祝福を受け継がせる。」創世記12章から始まったいわゆる族長物語の中で、わたしたちは何度このみ言葉を聞いてきたことでしょうか。そして今一度、このアブラハム契約がヤコブにも語られます。

では、ヤコブがどのような状況の中にいる時に、どのようなヤコブに対して語られているのかを確認しておきましょう。前の28章で、わたしたちは一つの家庭内で演じられたある出来事について聞きました。ある説教者はこれを「聖なる悲劇」と名づけました。登場人物は神に選ばれた民イスラエルの父祖である族長イサクの4人の家族。年老いて目がかすんできた父イサク、妻のリベカ、そして双子の兄弟。兄のエサウは野の獣を獲る活発ではあるが少し思慮が浅く、父イサクに愛され、弟ヤコブは物静かであるがずる賢さを持ち、母リベカに愛されていました。そのような両親の偏った愛、偏愛と、二人の子どものあまりにも違った性格が、この家庭に一つの悲劇をもたらしました。母リベカが考え出した策略に弟息子ヤコブが同意し、二人で夫であり父である、年老いて目がかすんできたイサクを欺き、本来長男であるエサウが受け継ぐべき長子の特権と祝福とを彼から奪い取ったのでした。この悲劇によって、家庭は分裂し、だまされたと知った兄エサウは弟ヤコブを憎み、その命をねらおうとしたために、母は愛する息子ヤコブを遠いハランの地にいる兄ラバンのところに逃げるように勧めました。

10節に、「ヤコブはベエル・シュバを立ってハランへ向かった」とあるのは、そのような「聖なる悲劇」の結果なのです。神に選ばれた族長イサクの家族は引き裂かれてしまいました。神の契約を受け継ぐべき選ばれた「聖なる家族」はこの「聖なる悲劇」にもかかわらず、なおも「聖なる家族」であり続けることができるのでしょうか。アブラハム契約がその子イサクに受け継がれてきましたが、イサクのあとアブラハム契約はどうなるのでしょうか。「聖なる家族」の分裂によって、アブラハム契約もここで中断されてしまうのでしょうか。

わたしたちはそのような疑問と危機感を持ちながらこの個所を読むのですが、否それ以上に、ヤコブ自身の不安や恐れ、危機感はどれほどのものであったでしょうか。命の危険を覚えながら、一人家を出て、見知らぬ異国へと旅立たなければならなくなったヤコブは、孤独と不安の中で夜を迎えたのでした。

【11~12節】。この個所は「ヤコブの夢」とか「ヤコブのはしご」と言われます。聖書では、「夢」、「天にまで達する階段」、「神の御使い」、これらはいずれも天におられる神が地に住む人間にご自身を啓示される手段として、神が人間と交わる具体的な方法として用いられます。ここではその三つが同時に描かれていて、非常に印象深く、また鮮明に読者の目に訴えてきます。天におられる神がこれほどまでに多くの手段をお用いになって、地に住む人間たちと交わりを持ってくださるのであり、人間たちに語りかけ、人間たちの歩みに伴っていてくださるのです。それを実際に経験しているヤコブにとってはなおさらにそのことが強く感じられたであろうと、推測できます。一人家を出て、家族から離れ、不安と孤独の中で暗い夜を迎えたヤコブ、しかし彼は決して一人ではありません。主なる神が彼と共におられ、彼の逃亡の道に伴ってくださることを知らされたのです。

そのような状況の中で、主なる神はヤコブに現れ、彼の傍らに立たれ、そして彼にみ言葉をお語りになります。それが13節以下のアブラハム契約の更新です。アブラハム契約がイサクからその子ヤコブへと受け継がれたことになります。しかし、これは当時の習慣からすれば正常なことではありません。ヤコブの家に生まれた長男はエサウですから、本来ならばエサウが長男の特権を持っており、父の財産と神の祝福とを受け継ぐべきでした。28章では、母リベカと次男ヤコブとが結託して、父と長男とをだまし、長男の権利を奪い取ったのだとしても、それは人間社会の中でのことであり、しかも不正を働いた結果であるのですから、神がそれをよしとされるはずはありません。

ところが、今ここで神はイサクの家庭の中での聖なる悲劇として演じられた人間の不正と欺きの行為をそのまま承認されたのです。27章27節以下で、年老いて目がかすんで長男のエサウと弟のヤコブとを取り違え、兄に与えるべき祝福を弟ヤコブに与えてしまった父イサクが語った祝福の言葉を、今ここで神ご自身がいわばそれを批准され、承認され、神ご自身の約束のみ言葉としてお語りになったということです。

これは、何ということでしょうか。神は母リベカと弟ヤコブの不正と欺きの行為をよしとして承認なさるのでしょうか。神の祝福がこのような人間による不正と欺きによって受け継がれ、継続されていくことをよしとされるのでしょうか。わたしたちはそのような疑念を抱かざるを得ないのではないでしょうか。

しかしながら、わたしたちはさらにさかのぼって、神のみ心がどこにあったのかを探ってみなければなりません。リベカの胎内に双子が宿った時の神のみ言葉を思い起こしましょう。【25章23節】(39ページ)。この時点で、すでに神の永遠のご計画が語られていたということをわたしたちは思い起こします。ヤコブが進むべき道は彼が母の胎内にいた時からすでに神よって決められていたのだということをわたしたちは思い起こします。そして、イサクの家の「聖なる悲劇」をとおして、彼らの夫婦の愛、親子の愛、兄弟の愛がみな破れ、人間の邪悪と不信実によって家族が分断されていくという人間たちの罪の現実の中で、しかし不思議にも、神はそれらすべての人間たちの罪のただ中で、ご自身の当初のご計画、永遠の救いのご計画を実行なさったのです。

13節に、「わたしは、あなたの父祖アブラハム、イサクの神であり、主である」という神ご自身の宣言が語られていますが、今ここで神はヤコブの神となられたのです。アブラハムを選ばれ、その子イサクを選ばれ、今またその子ヤコブを、長男エサウではなく次男ヤコブを選ばれた神は、アブラハムと結ばれた契約を、不思議な道のりを経て、今ヤコブへと継続されたのです。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という表現がこれからのちイスラエルの歴史の中で何度も繰り返して用いられます。それはまた新約聖書で主イエスご自身に受け継がれているということをわたしたちは知っています。

マタイによる福音書22章31節以下で、主イエスはこの表現の中に神の永遠の命の約束があり、復活の命の約束があることを教えておられます。【22章31~32節】(44ページ)。神の選びと契約は一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。神の祝福と救いの恵みもまた一人の信仰者の生涯を超えて永遠に続きます。主イエスはそこに神の復活と永遠の命の約束があることを見ているのです。そして、実際に主イエスは十字架で死んで、三日目に復活され、罪と死とに勝利され、永遠の命をわたしたち信仰者のために勝ち取ってくださいました。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は主イエスの父なる神であられ、主イエスの十字架と復活によって、わたしたちに永遠の命をお与えくださる「わたしたちの神」となられたのです。

さて、「アブラハムの神、イサクの神」が、今この時から、故郷の家から逃亡しなければならなくなったヤコブの神となられたということは、ひとたび死んでいたヤコブに新しい復活の命が与えられたと言ってもよいのではないでしょうか。父イサクの家で繰り広げられた「聖なる悲劇」の中で、夫婦の愛や兄弟の愛が破れ、傷つき、人間の欺きや不正、罪がその家全体を破壊し、死に支配されたかのようになっていた時に、神は今一度ヤコブを恵みをもって選ばれ、彼と契約を更新してくださったのです。「アブラハムの神、イサクの神、そしてヤコブの神」となってくださったのです。

神は故郷の家から逃亡するヤコブと常に共にいてくださり、ヤコブのすべての道を守り、再びこの約束の地へと連れ帰ると約束されます。なぜならば、15節の終わりに書かれているように、「あなたに約束したことを果たすまでは決してあなたを見捨てない」と神が決意されたからです。神の選びと神の契約の確かさのゆえに、そしてまた、ヤコブが神の契約を担う人として選ばれているゆえに、その約束が成就されるまでは神は決してヤコブを見捨てることがないと言われているのです。神の約束を担うために選ばれた信仰者は、神がその約束を成就さるまでは決して見捨てられることはなく、神ご自身がその成就へと導いてくださるのです。

【16~19節】。眠りから覚めたヤコブは、そこに神がおられることを悟りました。神が自分の逃亡の道のすべてに伴ってくださることを知らされました。彼は大きな恐れに襲われました。その場所が大きな恐れに包まれました。神がいます所、神が人間と出会われる所、そこには大きな恐れが生じます。ヤコブは父を恐れず、父を欺いてきました。また神をも恐れない傲慢な者でしたが、この試練をとおして、今神をこそ恐れるべきであることを学んだのです。

「ベテル」という地名は、ヘブライ語の「ベト」(家の意味)と「エル」(神の意味)の合成語で、「神の家」という意味になります。ベテルはエルサレムの北方約20キロメートルにあります。創世記12章8節によれば、アブラハムがカナンの地に着いた当初、ベテルに祭壇を築いて神を礼拝したと書かれています。ベテルはそれ以後、イスラエルの民にとっての重要な礼拝場所になりました。

わたしたちにとっての神の家は、言うまでもなく教会です。教会で主の日ごとに礼拝をささげ、生ける神との出会いを経験し、主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、この神の家からこの世への旅路へと派遣されます。「神の国が完成される終わりの日まで、わたしはあなたがたと共にいる」と言われる主イエスの約束のみ言葉を信じながら。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人の地上の歩みに常に伴ってくださいます。わたしたちが孤独と不安に襲われる時にも、わたしたちの試練の時にも、わたしたちが病んでいる時にも、そしてわたしたちが年老いて地上の歩みを終えようとする時にも、あなたはわたしたち一人一人と共にいてくださり、わたしたちの道を導いてくださいます。そのことを信じて、あなたを恐れつつ、また喜びつつ、希望を抱いて信仰の歩みを全うさせてください。

○主なる神よ、あなたの義と平和をこの地にお与えください。争いや殺戮、貧困と不平等をこの地から取り去り、救いの恵みと喜ばしい共存とをこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月21日説教「神は契約を実行される」

2022年8月21日  

マラキ書3章1−5節「神は契約を実行される」    神学生 熱田洋子

 マラキ書は旧約聖書の一番最後にあリます。まだ預言の時代です。次のページは新約聖書、イエス・キリストが登場し、預言が成就する時代が始まります。

 マラキは、聖書のこの位置にあることから最後の預言者と言われます。イスラエルの歴史上、大きな出来事であったバビロン捕囚から帰国し、復興の困難の中にあったイスラエルの人々に対して、マラキは待ち望んでいる救い主を指し示します。

  バビロン捕囚にふれると、紀元前587年、バビロニアによってエルサレムが占領されてユダ王国が滅亡し、イスラエルの多くの人々が捕らえられてバビロニアに連れていかれました。バビロン捕囚となった人々は、50年後の538年にバビロニアを滅ぼしたペルシアのキュロス王の勅令により、また520年、ダレイオス一世のもとで大部分の人々がイスラエルに帰ってくることができました。しかし、イスラエルの神を信じる人々にとって、信仰を支えるエルサレムの神殿は壊されたままで礼拝を守れるような状態ではありません。これを憂慮して、預言者ハガイとゼカリヤが人々を励まして神殿再建をさせます。しかし515年に神殿が完成しても約束されていた救いの時はまだ来ていません。イスラエルは、異教徒の支配のもとにあって、国の再建を目指していても政治的に宗教的にもまだ混乱が続きます。その中で、人々の神に向かう態度も分かれます。信仰に熱心で救いの日への希望を持ち続けて礼拝と律法を守る人々がいる一方で、神に疑いを持ち先祖以来の信仰に背を向ける人たちがおり、また、信仰に無関心で全く世俗的に生きる人たちもいたのです。

 マラキは、混乱する状況の中にあっても、神の言葉に忠実に耳を傾けます。イスラエルの栄光の日々、救いの歴史の中に神が働いておられたように、救い主が来られてイスラエルが再建されるのを待ち続け、この試練の日々にも神は共にいてくださると信じています。神は真実な方であり、神を信じるイスラエルの民に対する計り知れない神の愛は変わりないことを確信しています。そして人間の営みのただ中で、人間の理性では知ることはできなくても、神は救いのご計画を実現されることを語ります。マラキ書には信仰深い告知や警告の言葉が記されています。それは新約聖書のイエス・キリストが来られる道備えになっていき、さらに、新約聖書の時代を生きるわたしたちにまで続いています。マラキの預言は今のわたしたちを超えて終末の時に最終的に成就するのです。イエス・キリストは十字架で死んで、復活し、また来ると約束して天に昇っていかれました。イエス・キリストが再びおいでになる終末の時、その救いの完成する日をわたしたちは待ち望んでいます。その時わたしたちが主の御前に立つ者となれるようその備えがここに用意されています。順に見ていきたいと思います。

3章1節に、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。」と書かれています。この「使者」とは誰でしょうか。ここには名前も由来も書かれていません。預言者マラキ、という説や3章22節で「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」と書かれているので、エリヤのことだという説もあります。

エリヤについて、新約聖書を見ると、マタイ福音書11章14節で、主イエスは、洗礼者ヨハネが、使者として現れるはずのエリヤのことだと言っておられます。ヨハネは人々に悔い改めを促し、イエス・キリストを証ししたのですから、ここでは洗礼者ヨハネを使者とすることがふさわしいように思います。

 エリヤは紀元前9世紀に偶像礼拝をする異教バアルの預言者と闘ってイスラエルの信仰を守った預言者であって、洗礼者ヨハネも不信仰な民を悔い改めへと導き、来るべき救い主への道備えをしました。

 使者の役割は、エリヤ、そして洗礼者ヨハネの働きから考えると、救いにもれる人がないように救いへの道をきれいに整え、道筋をまっすぐにするということです。

 そして、3章1節の後半は「あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者 見よ 彼が来る」と続きます。

 突如というのは即刻差し迫っていることを伝えています。

「見よ 彼が来る」の「見よ」という言い方は、主が必ず来られること、救いの確かさを表しています。マラキは、イスラエルと人々の信仰が混乱のままであっても、必ず主が来られることを信じて疑うことなく預言するのです。

ここに「契約の使者」とあります。契約は、旧約聖書の中で、アブラハム契約から始まり、シナイ契約、ダビデ契約などがあげられます。いずれも神とイスラエルとの契約で、「契約の使者」はこれらの契約のすべてを成就する使者と考えられます。

また、神は突然神殿に現れる、というのですから、次のことは偶然ではないのです。

 まず、新約聖書の福音書において、「使者」として洗礼者ヨハネが現れたこと、そしてイエス・キリストが突然その民のところに「主」としてこの地上に来られたことが記されています。福音書は、そこにマラキ書の言葉が実現したと見ています(マタイ11:10,マルコ1:2,ルカ1:76,7:27)。

それに続いて、わたしたちは、天に昇られた主イエスがまたおいでになる時に備えているのですから、主が突然来られることを心に留めておくことが大事です。

 主イエスは弟子たちに、常に、主が来られる時を前にして、「目を覚ましていなさい、あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と注意し、備えるように戒めておられます(マルコ13:37,マタイ25:1-13)。また、パウロは、教会が「キリストの日」に備えて、信仰によって清く汚れなくあるように気遣っていた(フィリピ1:6,10,Ⅰコリント1:8)こともそのためです。

2節に入り、「だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。」と問われます。1節で出てきた「契約の使者」が、その契約をすべて成就されるために来られます。そのとき彼はさばきをもって臨まれます。

さばきをくぐり抜けなければ救いは成就しないのです。

2節から3節にかけて

「彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。」

「彼は精錬する者、銀を清める者として」座す、というのは、さばきの神は、さばきを行う権威をもって、その座につき、金滓を溶かし出す火の如く、また全ての汚れを取り去る灰汁のように徹底的に罪を清められます。偽りの神礼拝や偽りの信仰の根本にある罪の思いや悪をさばきます。

厳しいさばきに、苦痛のほかはないのです。その日に耐えることができる者、踏みとどまることができる者はいるだろうかと問われるほどです。しかも、そのさばきは誰も避けて通れないのです。

 その時、神ご自身がその民を救おうとされるのでなければ、神のみ前に誰ひとり「わたしはここにいます」と立つことのできる者はいないということです。

 神のみ前に立つためには、まず、私たちの罪が徹底的に清められなければなりません。なぜなら、ほんとうの救いは、真実のさばきを通してやってくるからです。マラキはそのことを待望して預言しています。新約聖書の時代に生きるわたしたちは、イエス・キリストが、ご自身は罪のない方であったのに、十字架に死んで、わたしたち罪ある者たちを罪から救ってくださった、そのことによって救いが成就されたのを知っています。まさに救いはさばきを通して実現されるということを覚えておきたいと思います。

次に3節には、「レビの子らを清め」と書かれていて、レビの子らに対するさばきが示されます。

 当時の礼拝の状況は、十分の一のささげ物を偽っていたこと、また、レビの子らの祭司は、汚れたパンや、傷ついた動物をささげていたことがマラキ書に書かれています。人々が神を畏れないで神を欺いていたことに留まらず、レビの子らの背きの罪がここで取り上げられています。さばきは、神礼拝に携わる者から始められます。救いは礼拝から始まるからです。礼拝において、神を畏れず、神の名を汚していたレビの子らこそが神のさばきを受けて清められなければならない、とマラキは警告します。

 なぜなら真実の神礼拝の中から本当の信仰が始まり養われていくからです。レビの子らは神と民との仲介者として、民の偽りの礼拝を回復して真実の礼拝へと導く務めについています。このように民を指導するのがレビの子らの祭司です。レビの子らがまず神のさばきを受けて罪を清められ、真の救いへの道を民に示すことができるようにするのです。それは人々が終末の時にさばきの神のみ前に耐えられる者となるためです。

このことは、イエス・キリストにより本当の神礼拝が示されて明らかになります。

3節の終わりに、「彼らが主に献げ物を 正しくささげる者となるためである。」とあり、礼拝を本当の礼拝へと改める目的、目指すところが書かれています。

それは、「正しくささげる者となるため」です。「正しくささげる者」という言葉は、ヘブライ語で読むと「義をもってささげる人」となります。この当時の礼拝の様子から、信仰を伴わない偽りの礼拝があったのです。神は礼拝においてささげる者の信仰を通して、神にまったく聞き従う者であるかどうかをご覧になります。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ。あなたは侮られません。」(詩編51:19)とのみ言葉が心に迫ってきます。

神が喜ばれるのは、わたしたちがさばきを通して清められ、義をもって、神との正しい関係を保ちつつ正しい礼拝をささげることです。そこから神は救いへと導かれます。

それでは、わたしたちにとって、義をもってささげる礼拝、義をささげる礼拝、とはどのようなことでしょうか。

それは、み言葉への完全な服従、神へ徹底して自分をささげるということです。フィリピの信徒への手紙2章6節から11節のキリストの姿に表されています。「キリストは、神の身分でありながら、・・・かえって自分を無にして、・・・

へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。・・・」

義という言葉は、神と人との正しい関係のことです。父である神に、御子イエスは罪のない方であったのに十字架の死まで、全く服従されたのです。このことが義をもってささげるということを最もよく教えてくれます。

また、礼拝における神への完全なささげ物はイエスキリストにおいて完成されています。

イエス・キリストは神のみ心を行ってご自身をいけにえとして献げて人間の罪を取り去ってくださった、それは律法に従って献げられていた礼拝のいけにえやささげ物を廃止したことです。

ヨハネ福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このみ言葉を忘れてはならないのです。

そして、わたしたちは、イエス・キリストの十字架によって贖われ罪の赦しを得ているのですから、「霊と真理とをもって礼拝する者」となるように招かれています。

わたしたちも、神を畏れ敬い、清められた者として、イエスキリストの十字架と復活を信じる信仰をもって、神に喜ばれる礼拝とささげ物をささげることです。それが、4節の終わりにあるように、マラキが約束していた「主にとって好ましい礼拝」となるでしょう。

5節では「裁きのために、わたしはあなたたちに近づき 直ちに告発する。」と言われます。

さばきの目指すところが示されます。神は、人を罪に定めて滅ぼすことだけを目的としてはいません。罪ある者をさばき、徹底的に清められる方は、神の正義により、罪人が悔い改め、神に好ましい者に作り変えられることを期待してさばきをされるのです。

「裁きのために」とは神のこのような思いが込められています。

レビの子らの祭司と神に不平を言う人々は、神は来られるという約束を実現しないと非難しました。今度は、預言者が神の立場に立って彼らの不義を並べます。ここには具体的に書かれています。これらの行いや態度のほとんどは、契約や十戒・律法に対する罪です。「呪術を行う者」「姦淫する者」「偽って誓う者」など、神の御心をあなどる罪を犯す者たちが示されます。

貧しい人、やもめ、みなしご、外国人などは、不信仰な思いで神を求める人たちに踏みつけられ、だまし取られてきた人たちです。神は虐げられている人たちを保護し愛する一人ひとりのために正義を行われます。そのような悪を行なった者たちに対して、神は近づいて来て直ちにさばきを行われます。虐げられた人々に代わって不正を訴える証人や裁判官となり、また刑罰を下すことをされるのです。

ここでさばかれるのは、主を畏れぬ者たちです。

神を畏れるという言葉は、旧約聖書の中心的な信仰を言い表しています。み言葉に「・・彼らが生きている限りわたしを畏れ、わたしの戒めをことごとく守るこの心を持ち続け、」(申命記5:29)とあり、また、「主を畏れ、心を尽くして、まことをもって主に仕えなさい」(サムエル記上12:24)とあるように、神の命令に従順に従うようになるために「神を畏れる」ことは欠かせないものです。また、神を畏れることは、すべての人を敬い、きょうだいを愛することにつながっていきます。ここから神と隣人に仕える者に変えられていくのです。

いま、わたしたちは、マラキによって預言され、イエス・キリストの十字架の福音によって成就された救いの道へと招かれ、さらに歩みを進めていきます。

終末の時には、再び「契約の使者」が地上に来られ、最終的に神と全人類との間に立てられた全ての契約が完成されます。このことを信じて待つわたしたちです。その時に至るまで、真実の礼拝を守り続けつつ来たりたもう主を待ち望む者でありたいと思います。

お祈り

天の父なる神さま。イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰をもって生きるわたしたちが、救いの完成される日、主のみ前に清い者として立つことができますように。その備えとして、わたしたちがささげる礼拝が神さまに喜ばれるものでありますように、聖霊が導いてください。

神さま。今も戦禍にあって、またいたるところで虐げられて嘆き苦しむ人々の命と平安を守ってください。信仰をもって祈るわたしたちが平和をつくる人になれますように。わたしたちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

8月14日説教「神の言葉によって結ばれた家族」

2022年8月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書8章19~21節

説教題:「神の言葉によって結ばれた家族」

 きょうの礼拝で朗読されたルカによる福音書8章19節のみ言葉から、主イエスが家族を持っておられたということを、わたしたちは改めて知らされます。

【19~20節】。主イエスは神のみ子、神の独り子ですが、いわば天から舞い降りてきた天使のように忽然とこの世に現れたのではありません。主イエスは地上で肉にある家族を持っておられました。母マリアと父ヨセフの長男としてこの世に誕生され、何人かの弟たち妹たちと一緒に、一つの家庭の中でお育ちになりました。マタイ福音書13章には、父の職業が大工であり、男兄弟にはヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダがおり、妹たちもいたと書かれています。父ヨセフは主イエスが成人するころにはこの世を去っていたらしく、主イエスは父の職業を受け継ぎ、大工の仕事をして母マリアとその家族を支えていたと推測されています。

 このように、主イエスはわたしたちのだれもがそうであるように、家族を持ち、家族の一人として生きられました。職業を持ち、それによって家族を支えて生活されました。ヘブライ人への手紙が繰り返して書いているように、主イエスはわたしたち人間と同じお姿でこの世に来られ、罪をほかにしては、すべての点でわたしたち人間と同じになられ(ヘブライ人への手紙4章15節参照)ました。そのようにして、主イエスはわたしたち人間の中に入って来られ、わたしたちの家庭の中へ、わたしたちの職場の中へ、わたしたちの人生の中へと入って来られ、わたしたちと共に歩まれるメシア・救い主として、いわばわたしたちの罪のただ中へと入って来られ、罪の中にいたわたしたち一人一人を罪から救い出される救い主としてお働きになられたのです。

 ところで、ローマ・カトリック教会はマリアを崇拝する誤った信仰によって、マリアが永遠に処女であったという根拠のない説をとなえ、きょうの個所や他の福音書にも書かれている「兄弟たち」とはマリアが産んだ子ではなく、マリアの親戚の子であると説明しています。しかし、それは聖書には何の根拠もない作り話であるだけでなく、マリアを崇拝するあまり、主イエスがわたしたち人間と同じお姿でこの世においでになり、わたしたち一人一人と歩みを共にされた救い主であるという事実を薄めてしまい、主イエスの救いそのものの恵みの豊かさを小さくしていると言わなければなりません。わたしたちプロテスタント教会はマリア崇拝とそれにかかわる諸説に対しては反対しています。

 では、主イエスはそのような家族とのつながりの中で、どのように生きられたのでしょうか。また、わたしたちが今持っている家族とのつながりの中で、どのように生きるべきなのでしょうか。きょう与えられたみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ルカ福音書のこの個所は、並行個所であるマタイ、マルコ福音書に比べると、半分ないしは3分の2ほどに短くなっています。マタイ福音書12章46~50節、マルコ福音書3章31~35節の方では状況がもう少し詳しく書かれていますので、それらを参考にして読んでいきましょう。

 19節で「母と兄弟たち」とあり、父ヨセフが出てきませんので、すでに世を去っていたと思われます。彼らが何のために主イエスに会いに来たのか、その理由は容易に推測できます。一家の大黒柱として働いてきた長男が、ある時に家を出て、宗教活動にのめりこみ、家に帰らなくなったとすれば、心配して家に連れ帰ろうとするのがこの世の親であり、家族でしょう。マリアと兄弟たちも同じような考えで主イエスを探しに来たのであろうと思われます。マルコ福音書3章21節には、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである」と書かれています。

母マリアをはじめ兄弟たちはこの時にはまだ主イエスが神から遣わされたメシア・救い主であるということに気づいてはおらず、信じてもいませんでしたので、この世の家族が考えるのと同じように主イエスを見ていたのでした。わたしたちがのちに知らされるように、母マリアや兄弟たちが主イエスを救い主と信じたのは、主イエスの十字架と復活のあとであったということが、使徒言行録や使徒パウロの書簡に書かれています。主イエスの兄弟ヤコブは初代エルサレム教会の中心人物として仕えたことが知られています。

 さて、母マリアと兄弟たちが主イエスを探しに来た時、主イエスは群衆に囲まれ、神の国の福音の説教をしておられました。19節後半に「群衆のために近づくことができなかった」と書かれていますが、彼らが主イエスの説教を聞くために近づこうとしていたのではなかったということは、次の20節からも明らかです。マタイとマルコ福音書では、最初から彼らは群衆の外に立って、人をやって主イエスを呼ばせたとはっきりと書いてありますので、彼らに主イエスの説教を聞く意志が全くなかったということがここからもはっきりします。主イエスの家族は主イエスから最も離れた位置に立っています。彼らはファリサイ派や律法学者のように主イエスと論争するために近づいて来るのではありませんが、徴税人や、病める人、罪びととして非難されている人々のように救いを求めて主イエスに近づくのでもありません。群衆のように主イエスを取り囲んで主イエスの説教を聞くのでもありません。群衆の外に立って、しかも自分たちは主イエスの家族であり、最も近い関係にあると思い込んでいます。そうであるゆえに、自分たちには主イエスの説教を中断させる権利があるとさえ考えているのです。

 しかし、実は彼らが主イエスに最も近い関係にあると思っていた家族の関係、肉にある関係こそが、彼らを主イエスから、主イエスのみ言葉の説教を聞くことから遠ざけていたということをわたしたちは知らされます。人間の肉にある関係の近さが、かえってわたしたちを主イエスの福音から遠ざけることになるということを、主イエスご自身が最もよく知っておられました。

それゆえに、主イエスはマタイ福音書10章34節以下で、大胆にもこのように言われたのです。【34~39節】(19ページ)。また、19章29節ではこう言われました。【29節】(38ページ)。主イエスは神の国の福音の妨げになる家族という肉にある関係をひとたび断ち切るためにこの世においでになられました。わたしたち人間がその中でぬくぬくと安住している偽りの平和を打ち砕くために、鋭い剣を地上に投げ込まれました。わたしたちが神の国を受け継ぎ、永遠の生命を与えられるために、家族という肉の関係を、財産というこの世の朽ちるものをひとたび捨てるようにとお命じになるのです。

それは、何と厳しいお言葉でしょうか。古くから家族という血や肉によるつながりを大切にしてきたわたしたち日本人にとって、それは非常に衝撃的で、また攻撃的な言葉でもあります。明治の初期に、プロテスタント信仰が初めて日本に入ってきたころ、多くの日本人が聖書のこのみ言葉を聞いて、キリスト教は家庭を破壊する邪教であると誤解したと伝えられていますが、同じような誤解は今でも起こり得ます。

 けれども、よく考えてみれば、それはある意味では誤解ではなく、真理を含んでいるのではないでしょうか。ただ、誤解だと言えるのは、キリスト教が家族関係を破壊することだけを目的としていると考えた点については誤解だと言わなければなりませんが、主イエスが最終的に目指しておられたのは、わたしたちの肉にある関係を破壊することによって、永遠の幸いに満ちた霊による関係を築くためなのであり、偽りの平和を打ち砕くのは、真の、永遠の平和をわたしたちの間に築くためなのであるという真理を、わたしたちはそこに見いだすことができるからです。

 きょうのみ言葉の最後、21節を読みましょう。【21節】。ここに、新しい家族関係があります。神のみ言葉を共に聞き、それに聞き従い、共に神のみ言葉に生きることによって結ばれた新しい家族があります。神の家族、主イエス・キリストによる、神のみ言葉と神の霊によって固く結ばれた新しい家族がここに築かれます。そしてここにこそ、救われた者たちの本当の喜びと平安と感謝に満たされた、共に生きる交わりの生活があります。

 肉にある家族という関係には本当の救いはありません。むしろ、それは主イエス・キリストの福音による救いを妨げます。わたしたちはその肉にある家族という関係から解放されなければなりません。否、主イエス・キリストの福音がわたしたちをすべての肉の関係から自由にするのです。そして、神のみ言葉を聞くことによって一つの群れに結びつけられ、主イエスの福音によって共に生きる新しい人間関係を可能にするのです。

 主イエスは十字架におつきになり、ご自身の肉の死によって人間のすべての肉なるものの関係とその力とを滅ぼされました。そして、復活して、すべての肉なるものの支配と力とに勝利されました。この主イエスの十字架の福音を信じ、主イエスの勝利にあずかる者にとっては、肉はもはや力を持ちません。霊による関係が肉による関係に勝利しているからです。

 そして、それまでは肉にあって対立していた者たちが、霊によって兄弟姉妹とされ、神の家族とされているのです。肉にあっては破れ、傷ついていた者たちは、再び破られることのない霊の関係によって一つの群れとされるのです。わたしたちが主の日の礼拝で神のみ言葉を共に聞くことは、そのような新しい霊による関係、神の家族としての関係の基礎であり。出発点なのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、なたが主イエス・キリストの十字架と復活によって築いてくださったわたしたちの霊の関係を、いよいよ固くし、強くしてください。さまざまに分裂しているこの世界にあって、あなたが一つの霊によって真実の和解と一致とを与えてください。全世界のすべての国民を、霊によって結ばれた一つの神の家族としてください。

○天の神よ、病んでいる人をいやしてください。弱っている人を励ましてください。苦しんでいる人の重荷を取り去ってください。暗闇で迷っている人をまことの光で照らしてください。そして、罪の中にあるすべての人を罪から救ってください。

○日本とアジアと全世界に、まことの平和を与えてください。わたしたち一人一人を平和を造り出す人たちとしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月7日説教「平和を告げ知らせる使者」

2022年8月7日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和記念礼拝)

聖 書:イザヤ書52章7~10節          (駒井利則牧師)

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

 8月6日は広島原爆記念日、8月9日は長崎原爆記念日、8月15日は終戦記念日、少しさかのぼって6月23日は沖縄戦の組織的戦闘が終結した記念日、わたしたちは日本に住む者として、これらの記念日を覚え、平和への願いと祈りとを特に強くしています。そして、いつの時代にも思うことは、わたしたちの祈りにもかかわらず、現実のこの世界は、いつもどこかで戦いと殺戮と破壊とが絶えることなく、今もまたそうであるということを、わたしたちは認めざるを得ないのです。しかし、たとえそうであるとしても、わたしたちは一人の地球人として、それ以上に一人のキリスト者として、日本とアジアと世界に、真の平和が訪れる時が来ることを信じつつ、祈り続けるようにと神に命じられています。

主イエスはマタイ福音書5章9節の山上の説教でこう言われました。「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。キリスト者はすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、神の子どもたちとされているのですから、平和を実現する幸いへと招かれているということを強く覚えたいと思います。きょうの世界平和記念礼拝では、聖書で教えられている真の平和についてご一緒に聞き、平和を実現する人としての祈りをより一層強くしたいと願います。

 イザヤ書52章7節にこのように書かれています。【7節】。ここには、イスラエルの民に良い知らせを伝える使者の足の美しさが強調されています。使徒パウロはローマの信徒への手紙10章15節でこのイザヤ書のみ言葉を引用して、主イエス・キリストの福音を宣べ伝える使者の足の美しさについて語っています。きょうは旧約聖書の良い知らせを伝える使者と、新約聖書の福音を宣べ伝える使者について、そのよい知らせ、その福音の内容は何か、またそれを伝える人の足が美しいと言われているのはなぜか、そのことを聖書のみ言葉から聞き取っていきたいと思います。

 ではまず、イザヤ書の方から読んでいきましょう。7節冒頭の「いかに美しいことか」は美しさを強調していますが、ヘブライ語では「まあ」と発音します。日本語とよく似ていますね。「まあ、なんて美しいんでしょう」「これほどに美しい足はほかにはない」と言う意味です。なぜ美しいんでしょう。それは、彼の足が「良い知らせ」を運んでいるから、その人が良い知らせを伝えているからです。

 では、そのよう知らせの内容は何か。次に続いて書かれているように、それは「平和」であり「恵みの良い知らせ」であり「あなたの神は王となられた」ということです。さらに8節以下に書かれているように、「主がシオンに帰られるから」であり、「主がその民を慰め、エルサレムを贖われた」からであり、「主は聖なる御腕の力を国々の民のめに現わされたから」であり、そしてまた「すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」からであると説明されています。

 これは具体的にはバビロン捕囚からの帰還という出来事を語っていると考えられます。紀元前6世紀ころのイスラエルの歴史について少し説明しましょう。旧約聖書の民イスラエルは主なる神に選ばれ、神と契約を結び、主なるお一人の神だけを礼拝する信仰の民でしたが、やがて彼らは異国の神々をも礼拝するようになり、主なる神に背いて罪を犯したために、神の厳しい裁きを受けて、国は滅ぼされ、エルサレムの神殿は焼き払われ、王も指導者も民たちも捕虜となり、1千キロも離れたバビロンの地に捕らえ移されました。これをバビロン捕囚と言います。

 けれども、主なる神は罪のイスラエルをお見捨てにはならず、60年後には彼らを再び故郷の地イスラエルへ、神殿があったエルサレムへ(8節ではシオンと言われていますが)連れ戻すであろうという預言を、預言者イザヤの口を通してお語りになりました。その預言がイザヤ書40章から何度も繰り返して語られているのです。51章から52章のきょうの個所でもバビロン捕囚からの帰還が預言されています。そして、良い知らせを伝える者とは、このバビロン捕囚からの帰還、捕囚の地からの解放、神の救いのみわざを伝える預言者イザヤ自身のことを語っていると考えられます。

 では、その預言者イザヤの足がことさらに美しいと言われている理由について考えてみましょう。それは彼自身が健脚であるとか速く走れるからという理由によるのではなく、彼が持ち運んでいる知らせ、彼がイスラエルの民に伝えるようにと神から命じられている救いの恵みが何にもまして美しく、喜ばしく、高価で尊いものであるからにほかなりません。彼が持ち運んでいる神の救いの良い知らせこそが、彼の足を強くし、たくましくし、美しく光り輝く足にしているのです。

 ここで、足は象徴的な意味を持っています。つまり、預言者の足とは彼自身、彼全体を象徴していると考えられます。彼が一人の預言者として、一人の人間として美しい、尊い存在であるということです。それは彼が神の救いのみ言葉、解放のみ言葉、平和のみ言葉を神から託されているからであり、それをイスラエルの民に語るようにと命じられているからなのです。

イザヤ書を読むと、多くの場合、人々はイザヤの預言に耳を傾けませんでした。時に、彼は民から迫害を受け、大きな苦悩を味わいました。伝説によれば、彼は民に迫害され、殉教したと伝えられています。彼の生涯は決して美しくはなく、汗と涙と労苦とに染まっていたと言えます。けれども、そうであるにもかかわらず、彼が神の救いのみ言葉を持ち運ぶ務めに忠実である時に、彼は最も美しく、最も幸いであり、最も祝福されているのです。

 7節には、「良い知らせ」、「恵みの知らせ」、「救いを告げる」などの言葉と共にで「平和を告げ」という言葉があり、これらがこの1節の中に同じ意味を持つ言葉として並べられています。イザヤ書では、また聖書では「平和」をどのように教えているのかを、これらの言葉を参考に見ていきましょう。

 ヘブライ語の平和は「シャローム」と発音します。このヘブライ語は旧約聖書では非常に重要な言葉であり、230回余り用いられています。日本語では多くは「平和」と訳されていますが、「平安」「繁栄」「健康」「和解」などとも訳され、広い意味を持っています。欠けているところがない状態、満たされている状態を言い表している言葉です。ですから、単に戦争や争いがないというだけでなく、7節のほかの言葉のように、それは良い状態のこと、神の恵みに満ちている状態、神の救いと解放が実現している状態、そして主なる神が唯一の王なる神として支配している状態、それを平和、シャロームというのです。

 わたしたちはこの点から、今日の世界の平和とは何か、世界の平和のためにわたしたちはどう祈るべきか、そして主イエスが山上の説教で教えられた平和を実現する人々とはどのような人のことかをさらに深く探っていきましょう。

 新約聖書では平和についてどう教えられているのでしょうか。エフェソの信徒への手紙2章14節では、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と厳かに、力強く語られています。主イエス・キリストこそが唯一の、真実の、永遠の、わたしたちすべての人たちの平和であるという意味です。また、主キリストがわたしたちのために平和を創造し、わたしたちをその平和の中に招き入れ、あらゆる意味でのわたしたちの平和の源となられたということです。

 では、その主キリストの平和はどのようにして生み出され、与えられたのかについて、この手紙は14節後半から16節で、このように説明しています。【14節b~16節】(354ページ)。

 ここで教えられている重要なポイントをいくつかにまとめてみましょう。一つは、主キリストによる平和が実現される以前は、人間はみな互いに敵意という隔ての壁を持ち、二つに分断されていた。それゆえに、人間たちの間には、この世界には、平和がなかったということがあらかじめ暗示されているのです。聖書はそれを罪と言います。1章7節にこのように書かれています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪ゆるされました」。これが、神のみ子主イエス・キリストの十字架の死によって罪を贖われ、罪をゆるされたわたしたちに与えられている恵みのことです。この恵みを与えられる以前には、わたしたちはみな神と敵対し、互いにも敵対していた罪びとたちであったのです。つまり、人間社会は、この世界は、罪に支配されており、互いに敵意を持ち、互いを分断し、そこには真の意味での平和はなかったということを聖書は言っているのです。真の平和とは何かを考えるにあたって、わたしたちはまず人間の罪の現実について知らなければならないということを教えられます。

 二つ目のポイントは、罪とは人間とこの世界の分断した状態を言うのですが、その罪の源は神と人間との分断にあるということです。18節に「神と和解させ」と書かれているように、主キリストは神とわたしたち人間とを和解させるために十字架で死んでくださったのです。神と人間との間を隔てていた罪という壁、断絶、分断を取り除き、神と人間を和解させるためには、罪のない神のみ子主イエス・キリストの清く尊い十字架の血が流されなければなりませんでした。その神のみ子の血によって、わたしたちの罪が完全にあがなわれ、わたしたちは罪の奴隷から解放され、神の子どもたちをされるのです。

 神と人間との和解があるところに、人間同士の真実の和解が成立します。共に一人の主なる神によって罪ゆるされている共同体としての和解と一致、平和が与えられるのです。人間と人間の間にあった敵意という壁は取り除かれ、お互いを神からの罪のゆるしの恵みをいただいている人たちとして認め合い、一つの罪ゆるされた共同体とされるからです。

 真の平和はこのようにして、主キリストの十字架の死による罪のゆるしを土台としているということをわたしたちは教えられます。イザヤ書で教えられていたバビロン捕囚からの帰還によって与えられる平和にも、イスラエルに対する神の罪のゆるしが土台となっていたことにあらためて気づかされます。真の平和は、旧約聖書においても新約聖書においても、神による罪のゆるしの恵みの上に基礎づけられていることをわたしたちは教えられます。

 預言者イザヤはイスラエルの救いの福音を携え、それを持ち運ぶ預言者であったので「その足は何と美しいことか」と言われていました。使徒パウロがそのみ言葉を引用したとき、主イエス・キリストによるすべての人の罪のゆるしの福音を宣べ伝える人の足はそれ以上に美しいことを強調していたのです。

 最後にもう一つのことを付け加えたいと思います。イザヤ書では救いの福音、平和と並んで、主なる神が王となられたことが言われていました。神が全世界の唯一の王としてご支配されるところ、そこに世界の平和が打ち立てられます。人間一人一人が小さな王となるところには、平和は成立しません。すべての人が主なる神のみ前にひれ伏し、恐れおののき、神のみ前に罪の自分が打ち砕かれなければなりません。神への真の恐れのあるところにこそ、真の平和が実現するのです。

 わたしたちは主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしの福音を聞き、その福音を携えて、きょうの礼拝からこの世へと派遣されます。平和の福音に生きる人として、平和の福音の証し人として、平和の福音を宣べ伝える使者として、この世界へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

○ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

 「聖フランシスコの平和の祈り」から

2022年8月7日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」