8月30日説教「主イエスの権威と力」

2020年8月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章8~11節

    ルカによる福音書4章31~37節

説教題:「主イエスの権威と力」

 ルカ福音書では、主イエスの福音宣教は故郷、ガリラヤのナザレから始まります。ある日、ナザレの会堂での安息日の説教が終わった後で、故郷の人々は主イエスの説教を聞いて憤慨し、主イエスを殺そうとしたと4章28節以下に書かれています。前回学んだ箇所の終わりの部分に少し触れてから、きょうのテキストに入っていきたいと思います。

【28~30節】。福音書の最後に描かれている主イエスの十字架の暗い影が、福音宣教の最初であるこの個所にすでに差し込んでいるのをわたしたちは気づきます。「預言者は自分の生まれ故郷では歓迎されないものだ」という古くからのことわざのように、否それ以上の深刻さと真実さとを含んで、神がこの世にメシア・救い主として派遣された神のみ子は、ご自身の民であるイスラエルからも、また全人類からも歓迎されることなく、彼らから憎まれ、拒絶されて、十字架の死へと追い込まれていく、その最初の暗い影がここに差し込んでいるのです。神の救いへの招きを拒み、なおも罪の道を突き進もうとして、罪なき神のみ子を十字架につける人間の罪が、主イエスの福音宣教のこの最初の場面ですでに明らかになっているのです。

ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書61章の解放の福音、主なる神の恵みを告げる福音が、イスラエルと全人類の罪からの解放であり、神の恵みによって罪のゆるしを告げる福音であるということが、ここですでに明確にされています。そして次の31節からのカファルナウムでの教えと悪霊につかれた人のいやしのみわざは、主イエスの罪のゆるしの福音の最初の具体的な実例であると言えます。

【31~32節】。主イエスは故郷であるガリラヤのナザレからガリラヤ湖畔のカファルナウムの町に移動されました。故郷から追い出され、町の中にお姿を隠すためでしょうか。いや、そうではありません。この町でも、福音を語るため、救いのみわざを続けるためです。たとえ、だれからも歓迎されなくても、命の危険にさらされても、主イエスの福音宣教のお働きは中断されることはありません。神の国が完成される日まで続けられます。

カファルナウムを起点にして見れば、ナザレは南西40キロメートルにある山間の村です。カファルナウムは海水面よりも低く、マイナス210メートルの低地にあるので、「ナザレから下って」と表現されていると思われます。このあと、カファルナウムは主イエスのガリラヤ地方伝道の拠点になります。38節では弟子のシモン・ペトロの家に入られたとありますが、主イエスはガリラヤ伝道の期間中、この家を宿にしておられたと推測されています。

主イエスはナザレの会堂でもそうであったように、カファルナウムの会堂でも単に礼拝の会衆の一人として参加しておられたのではありません。あるいはまた、単に旧約聖書のみ言葉を解きあかす説教者として語られたのでもありません。主イエスは安息日に礼拝されるべき主として、また神のみ言葉を成就するメシア・救い主として、カファルナウムの会堂の中心に立っておられます。

主イエスが語られるみ言葉には権威があったと32節に書かれています。その権威はどこから来るのでしょうか。言うまでもなく、それは神から与えられた権威です。神のみ言葉である聖書を解きあかす説教者には神からの権威が与えられています。説教者は自分の意見や願いを語るのではなく、神のみ心、神の救いのご計画を語ります。この点において、当時の長老たちや預言者たちにも同様に神の権威が与えられています。しかし、主イエスに与えられた権威は彼らのものとは根本的に違います。彼らは、「神はこう言われた。神はこのようになさるであろう」と語りましたが、主イエスは「神の預言のみ言葉は今わたしによって成就した。神はわたしによってご自身の救いのみわざを成し遂げられる。わたしこそが神のみ言葉の成就そのものである」と語られたのです。ここに、主イエスが語られたみ言葉の権威があったのです。だれも今までそのような説教を聞いたことがありませんでした。安息日の礼拝で会堂に集まっている人々は主イエスの説教に驚きました。

その中でも、特に汚れた悪霊に取りつかれた一人の男の人が主イエスの権威を敏感に感じ取りました。【33~34節】。この男の人は「我々を」と言っています。彼にとりついている悪霊が多くなので「我々」と言っているのか、あるいは、悪霊と男の人が一緒に合体して「我々」と言っているのか、区別はできません。男の人は悪霊に全く支配され、悪霊と一体化しています。

悪霊は人間よりもはるかに勝る鋭い洞察力をもって、主イエスの本性を見抜いているのです。悪霊は、主イエスが神の権威をもって語っており、神から遣わされた神の聖者として自分たちを滅ぼしに来たのだということを、感じ取りました。それは、人間にはない、悪霊の特別な能力でした。この時には人間はまだだれも主イエスがメシア・キリストであることも来るべき神の国の主であることも悟らず、告白していなかったにもかかわらず、悪霊は人間よりも鋭い感覚と人間よりもはるかに勝った能力によって、主イエスが神から遣わされた聖者であること、悪霊を滅ぼし、神の恵みのご支配である神の国を完成させるメシアであることを、この時すでに悟っていたのです。彼らは主イエスの与えられている神の権威を直感し、自分たちがそれによって滅ぼされてしまうことを恐れているのです。

この当時の人たちは、病気の多くは汚れた霊や悪霊が人間の中に入り込んで、その人の肉体や精神を傷つけ破壊すると考えていました。汚れた霊や悪霊はサタン、悪魔と同じように、神に敵対する存在であり、信仰者を神から引き離し、自分たちの思いどおりに人間を操作しようとします。これらの悪しき霊たちは人間よりもはるかに強い力によって人間を支配し、人間を神から引き離し、罪の中に閉じ込めようとします。人間はだれも自分の力によっては、これらの悪しき霊たちに立ち向かうことはできません。それゆえに、人間はだれも自分の力では罪の奴隷から自らを解放することができないと聖書は言うのです。

したがって、悪霊たちのこの告白はある意味では正しさを含んでいたと言ってよいでしょう。けれども、主イエスは信仰を伴わない告白はおゆるしにはなりません。【35~37節】。主イエスは悪霊が信仰を伴わない偽りの信仰告白を語ることを禁じられます。悪霊を沈黙させます。それだけではありません。悪霊が、神を礼拝するこの人の中に住み、この人を支配することをおゆるしにはなりません。彼を悪霊から解放されます。主イエスが悪霊に向かって「黙れ」とお命じになると、悪霊は黙ります。「この人から出て行け」とお命じになると、悪霊は彼から出ていきます。主イエスは神から与えられた神の権威によって、悪霊に勝利されます。これが、主イエスのみ言葉の権威です。

この個所では、主イエスのみ言葉の権威が強調されていて、悪霊に取りつかれた人がいやされたということについては主なテーマとはなっていませんが、そのことについても少し取り上げてみたいと思います。この人は汚れた悪霊に取りつかれ、体も心も傷つけられ、悪霊に支配され、ほとんど人間としての姿を失ってしまっていました。けれども、彼は礼拝の群れの中にいました。主イエスと出会う機会を与えられていました。主イエスの権威あるみ言葉によって、悪霊から解放されました。そして、礼拝する群れの一員として加えられました。それまで、彼の中にいて彼を支配していた悪霊に代わって、今や主イエスが彼の中におられ、彼を支配され、彼を新しい人に造り変えられたのです。

主イエスはご自身の権威と力とに満ちたみ言葉を、あわれな病める一人の人のためにお用いになりました。彼を悪霊から解放するために、神のみ子に与えられた特別な権威と力とをお用いになったのです。ご自身の名誉とか栄のためにではなく、ご自分の楽しみとか喜びのためにではなく、ご自分を守り救うためにでもなく、一人の傷ついた貧しい人のためにお用いになりました。ここにこそ、主イエスの権威と力のもう一つの大きな特徴があります。このことは、主イエスのご生涯全体に貫かれています。主イエスがなさったいやしや奇跡のみわざ全体に貫かれています。そして特に、主イエスの十字架においてこそ、主イエスはご自身に授けられていた神のみ子としての権威と力とを、ご自身を救うためには少しもお用いにならいということが明らかになりました。主イエスはそのすべてをわたしたち罪びとを罪から救い出すためだけにお用いになり、ご自身は徹底して弱く、貧しくなられ、十字架で死んでいかれたのです。

ここでわたしたちは、すぐ前の個所で、ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書のみ言葉を思い起こします。【18~19節】。主イエスはこのイザヤ書の預言を朗読されたあと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られましたが、そのことが今やカファルナウムの会堂で、目に見える形で現実となったのです。主イエスが神の権威と力とによってみ言葉をお語りになり、悪霊を追い出されたことによって、貧しい人が福音を聞き、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられ、今や悪霊の支配の時が終わり、主なる神の恵みのご支配の時が始まったということが、カファルナウムの会堂で現実となったのです。

主イエスの解放と救いのみ言葉によって、汚れた悪霊の支配の時が終わりました。神の恵みのご支配の時が始まりました。神の国が到来したのです。わたしたちは新しい救いの時が主イエスとともに始まったのだということを知らされました。汚れた悪霊は今なおこの世にあり、罪は今なお人間たちの中に残っていますが、しかし彼らはすでに主イエスによって敗北を宣言されているのです。主イエスのみ言葉の権威と力とによってすでに彼らに勝利しておられるのです。

そして、終わりの日、終末の時には、その戦いに最終的な決着がつけられます。その時、主イエスはすべての汚れた悪霊とサタンと罪と死とに完全に勝利され、神の国を完成されるでしょう。わたしたちはその約束を信じているがゆえに、どのような悪しき霊や罪に対しても、勇気をもって戦いを挑み、勝利を信じて、信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちの日々の信仰の戦いに、あなたが共にいてくださり、

弱きわたしたちを支え、導いてください。わたしたちを苦しめるすべての悪し

き霊から、守ってください。わたしたちを誘惑するすべての罪から、救ってく

ださい。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月23日説教「箱舟を出て神を礼拝したノア」

2020年8月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記8章1~22節

    ローマの信徒への手紙12章1~2節

説教題:「箱舟を出て神を礼拝したノア」

 神はノアの時代に、地に住む人間たちの罪と悪が地上に満ちていることに心を痛められ、地のすべての生き物を大洪水によって滅ぼすことを決意されました。ノアは神の前に恵みを得て、人間たちの中から選ばれ、箱舟を造るように命じられました。ノアは神の命令に従順に従い、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている間に、黙々と箱舟を造り、彼の家族と動物たち一つがいずつを連れて箱舟に入りました。神は地に大雨を降らせ、40日40夜降り続いた雨が地の表のすべての生き物を飲み込みました。ただ、箱舟の中にいたものたちだけが残りました。これは、人間の罪に対する神の大いなる裁き、審判です。

 ある神学者はこう言っています。「ノアの大洪水は、地上に罪が蔓延するのを防ぐために神が起こす、最後から二番目の大きな審判である」と。「最後から二番目」とは、最後の審判が主イエス・キリストが再臨される終わりの時、神の国が完成される時に行われるのですから、その前の審判という意味です。この指摘は、わたしたちが創世記6~9章に記されている大洪水とノアの箱舟のみ言葉を読む際に、決して見失ってはならない、重要な視点を明らかにしています。わたしたちがこの個所を読む際に、これを単なる昔ばなしや神話として読むのではなく、また古代の異常な自然現象として読むのでもなく、ここには人間の罪に対する神の厳しい裁きが、世界規模での神の審判が語られているのだということ、そしてまたこれは来るべき最後の神の大いなる審判である主イエス・キリストが再臨する終わりの時、終末の時を指し示しているのであり、その終末の到来に備えて生きるべきわたしたち信仰者の生き方を教えているのだということ、そのことをここから読み取るべきだということです。

 40日40夜降り続いた雨は、その後も150日間地にみなぎっていたと7章の最後に書かれています。だれが、どのようにして、地のすべてをその中に飲み込んだこの大洪水を終わらせることができるのでしょうか。8章1節以下を読んでいきましょう。【1~5節】。

 「神は御心に留められた」。ここから、新しい世界が、新しい出来事が開始されます。神が御心に留められるとは、神が新たな決意をもって、新しいみわざを始められることを意味します。神は人間の罪に対する大いなる裁きの中で、その裁きを超えて、今新しい救いのみわざをなそうとしておられます。神は大洪水の上に漂流する箱舟とその中にいたノアの家族とすべての生き物とをみ心に留められ、彼らによって救いのみわざを始めようとしておられます。人間の罪に心を痛められた神は、罪の人間と悪に満ちたこの地を完全にお見捨てにはなりません。なおも顧みてくださいます。そこから神の救いのみわざが始まります。

 1節で「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳されます。風が吹くとは、神の霊の働きの具体的な現象です。神が霊の働きによって、地を覆っていた水を退けられました。そして、深遠の源と天の窓とを閉じられたので雨は降り止んだと2節に書かれています。これらの表現は、創世記1章の神の天地創造の記述と似ています。神は天地創造の初めに、混沌として闇が深淵の表にあった原始の海をご自身の霊によって支配され、そこに光を創造され、また海の水を上の水と下の水とに分かられました。その天地創造の時の偉大なみ力によって、神は洪水のあとの新しい世界を再創造されるのです。

 アララト山は現在のトルコ共和国の東に位置する標高5137メートルの山と同じ名前です。古い時代から、ここにノアの箱舟が漂着したと言い伝えられてきました。次第に水が引き、山々の頂が姿を見せ、箱舟が山の上に止まるという3節から6節にかけての日付、150日、第七の月の17日、第10の月の1日、そして40日という月日の経過は、神の怒りが次第に和らいでいく様子と、神が次第に新しい創造のみわざを進められる様子とが、重なり合って感じられます。神は着々と救いのみわざを進めておられます。

 【6~12節】。古代では、海を航海する人たちが陸地が近くにあるかどうかを知るために船から鳥を放つという習慣がありました。ノアは地が乾いたかどうかを知るために、初めにカラスを放ちましたが、地が乾くまで飛び回り、ノアのもとには戻ってきませんでした。次に、鳩を放つと、鳩は夕方ノアのもとへ帰ってきました。まだ地が乾いていなかったからです。9節の表現は帰ってきた鳩を迎えるノアの愛情あふれる姿を言い表しています。「ノアは手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のもとに戻した」。ノアのもとへ戻って来なかったカラスとは違って、まだ地が完全に乾いていないことを知らせるために戻ってきた鳩を、ノアは優しく迎えています。それは、神が新たに与えてくださる乾いた地を待ち望むノアの信仰による待望をも暗示しているように思われます。七日待って再び放たれた鳩は、ノアの待望の時が満ちたことを知らせるために、オリーブの若葉を口にくわえて帰ってきました。ノアの待望の時はむなしく終わることはありませんでした。さらに七日後に、三度鳩を放ったところ、鳩は戻ってきませんでした。巣を作り、新しい生活を始める場所を見つけたからでしょう。

 このようにして、鳩は神の裁きによって滅ぼされるべきこの地に神が新たにお与えくださった命の誕生と、神と人間との和解を象徴する鳥となりました。また、オリーブは神の祝福、繁栄を象徴する木となりました。

 【13~19節】。ノアは箱舟の覆いを開けて、地が完全に乾いていることを自分の目で確認しました。でも、彼は自分の判断や意志で箱舟を出るのではありません。ここでも、6~9章の大洪水物語全体を貫いているノアの姿勢は維持されています。つまり、ノアは自分からは一言も語らず、自分の意志や計画によって行動することもなく、ただ主なる神だけが語り、ノアはそれに従順に聞き従うということです。16節で「あなたもあなたの妻も……皆一緒に箱舟を出なさい」、17節で「すべての動物たちを一緒に連れ出しなさい」と言われた神の命令に従って、ノアは行動します。神から与えられた新しい世界では、ノアが行動の主体となって生きるというのではなく、ノアが自分の判断や計画で新しい歩みを始めるというのではなく、まず神のみ言葉を聞き、神のみ心を尋ね求めつつ生きるべきであるということが、ここには示されています。神が大洪水のあとに新たに創造された地を人間と生き物たちに備えてくださったのです。そして、大洪水後に神から与えられた新しい地で生きる人間の第一歩は、神のみ言葉から始められるべきであるということを、わたしたちはここから知らされます。

 ノアは神の大いなる裁きの中で、沈黙しつつ、耐え忍んで、待ち続けました。神の裁きの時が終わり、新しい地へと出ていく時が来るのを、箱舟の中で待ち望みました。ノアの待望の時は決してむなしく終わることはありませんでした。今やノアは神の裁きの時が終わり、救いの時が来たことを知らされ、喜びつつ箱舟を出ました。

 【20~22節】。ノアの新しい地での新しい第一歩は、神礼拝から始まります。礼拝は救われた人の神への感謝と奉仕です。神から与えられた新しい地での感謝の生活の第一歩が礼拝です。ノア以前の人間もそうでしたが、ノア以後の人間はよりはっきりと、神礼拝こそが人間が生きる基本であるということが示されました。アダムからノアに至るまで、またノアから今日に至るまで、人間は神を礼拝して生きるべきものとして創造されているのです。そうである時に、人間は本当の意味で人間となるのです。

 「清い家畜と清い鳥」はのちの時代にレビ記11章や申命記14章で定められる規定がここでいわば先取りされています。清い、汚れている、はイスラエルの宗教的な規定であって、生き物自体の性質のことではありません。神はご自身にささげられるべき犠牲の生き物として清い生き物を定められました。それは、神が清い方であり、完全な方であることを示すために、イスラエルの民が神にささげるものも、日常で用いられるものとは違って、特別に聖別された清く完全なものでなければならないという信仰に基づいています。

 また、「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」とも言いますが、動物の血を抜き取った後の内臓をも含めたすべてを火で焼き尽くして、その香りと煙とを天の神にささげるという礼拝形式で、これは神への感謝と喜びと献身のすべてを神におささげして神を礼拝するということをあらわしています。天におられる神はその香ばしい香りをかいで、礼拝者の全き献身を喜び受け入れてくださいます。ノアのこの礼拝形式はのちのイスラエルン民に受け継がれていきました。

 21、22節の神のみ言葉には二つの意味が含まれています。一つは、神は二度と再びこの地を呪って、大洪水によってこの地を滅ぼすことはなさらないという神の強い決意、人間に対する固い約束です。地に四季がめぐり、雨季があり乾季があり、寒い季節があり暑い季節がある、それはこの地を顧みていてくださる神の大いなる恵みなのです。神は良い者にも悪い者にも同じように太陽を登らせてくださいます(マタイ福音書5章45節)。ノアの大洪水以後のわたしたちは、このような神の大きな恵みと慈しみ、神の憐れみと忍耐の中にあって生かされているのだということを知らされます。

 もう一つは、しかしこの地から人間の罪がぬぐい去られたのではないということ、人間は生まれながらにして罪びとであり、この地は人間たちの罪で満ちているということです。宗教改革者カルヴァンはこう言っています。「本当ならば、神は毎日大洪水を起こして人間を罰しなければならないだろう」と。しかし、神はそうなさらないと言われます。神の憐れみと忍耐は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪びとたちの救いが成就される時まで続けら、さらに主キリストの再臨の時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成される時にまで続けられるということを、わたしたちは新約聖書で知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたの裁きの前では滅びにしか値しないわたしたちを、憐れみ、

なおも愛してくださり、み子による救いへとお招きくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたの恵みを感謝する真実の礼拝者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月16日説教「主キリストにある平和-もはや戦うことを学ばない」

2020年8月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教 「世界平和祈念礼拝」

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

説教題:「主キリストにある平和―もはや戦うことを学ばない―」

 日本の教会では、終戦記念日の8月15日前後の主の日を「平和を祈る日」とか「平和祈念礼拝」として、特別の礼拝をささげる伝統があります。日本は世界の中で唯一、しかも二度の被爆を体験した国として、戦争や核兵器の恐ろしさや悲惨さを全世界に向けて訴え、平和の尊さを語っていく使命が託されています。それとともに、アジアの諸国に多くの犠牲を強いたという戦争責任をも強く自覚しなければなりません。それだけでなく、特にわたしたちキリスト者は主イエス・キリストを全人類の救い主と信じる信仰によって、世界が主にあって和解し、一つの民とされ、真実の平和を追い求めていくために、平和の福音を語り伝えていくという務めを主から託されていることを知っています。今一つ、きょうの「世界平和祈念礼拝」でわたしたちが祈りをあつくするテーマは、今や世界至る地域へと拡大していった新型コロナウイルス感染症のことです。主なる神がこの深く病んでいる世界と一人一人とを憐れんでくださって、いやしを与えてくださるように、肉体の病だけでなく、心の病や社会全体の病をもいやし、この病に打ち勝つ希望と喜びとを与えてくださるように、切に祈ります。

 わたしたちは世界の平和のために、また感染症と戦うために、今何をなすべきでしょうか。国として、世界として、一人一人として、さまざまな課題がわたしたちの目の前に山積みされているように思われます。それを自覚しながら、しかしわたしたちは何よりもまず、神のみ心を尋ね求めるために、聖書に聞くことが最も重要であると考えます。主イエスが福音書の中で言われたように、神のみ心なしには空の鳥の一羽も地に落ちることはないし、髪の毛の一本一本もみな神に数えられているのですから(マタイ福音書10章29節以下参照)、わたしたちは主なる神のみ心を知り、主なる神のみ心を信じて祈る者となることこそが、今わたしがなすべき第一のことであると考えるからです。

 イザヤ書2章は紀元前8世紀後半にイスラエルで活動した預言者イザヤの預言ですが、この預言は彼の時代だけでなく、そののちのすべての時代にも語られている神のみ言葉として聞くべきです。2章2節の冒頭に、「終わりの日に」と書かれています。聖書で「終わりの日」とは、いわゆる終末の時のことで、神が終わりの日にはご自身のみ心を完全に成就してくださり、神の国を完成してくださる日のことであり、神の民にとっては救いが完成される日であり、すべての悪や人間の罪が取り除かれる日のことです。

 旧約聖書の民であるイスラエルはこの終末信仰を持っていました。イザヤ書の中にも終末信仰がたびたび描かれています。というよりは、イザヤ書全体が終末信仰に貫かれていると言った方がよいかもしれません。というのは、終末信仰とは、いつかやがてその終末の時が来るという信仰だけでなく、今この時も、すべての時が、その終末に向かって進んでいる。その終末と深いかかわりを持ちながらすべての時、すべての時代、そしてすべての出来事が終末の完成を目指して進行しているという信仰だからです。言い方を変えれば、預言者は終末から今を見ていると言えましょう。それが、信仰者の見方であり、とらえ方なのです。

 イザヤ書2章で預言者は終末の時にイスラエル南王国ユダとその首都エルサレムに起こるべき幻を語っています。それはまた、全世界、すべての民にも関連しています。1節には「ユダとエルサレムについて」とありますが、2節には「国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあり、3節では「多くの民」、4節では「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」、また「国は国に向かって剣を上げず」とあります。ここに描かれている終末の幻は、全世界のすべての国民と関係しているのです。旧約聖書の中でイスラエルの民が神に選ばれているのは、全世界のすべての民のいわば代表としての役割を与えられているのです。イスラエルの民は他の諸国に先立って神のみ言葉を聞き、終末の日に起こるべきことを知り、それに備えて日々を歩むべきことを学ぶのです。彼らは終末の日の証人とされているのです。これが、神に選ばれた信仰者の務めです。わたしたちはここで預言者イザヤが見た終末の幻を正しく理解し、信じ、そしてそれが終末に向かって急いでいる今のこの時代の中で何を意味するのかを、世界に向かって証しする務めへと召されているのです。

 預言者イザヤがここで見た終末の幻の中心は、全世界の民が一人の主なる神を礼拝するために神の家に集まってくるということです。【3節】。全世界の民が一人の主なる神を礼拝する時に、世界は一つの民となります。全世界のすべての人が神の道を歩み,神の教えに聞く時に、人々は一つの群れとなります。それによって、終わりの日の神の国が完成されます。

 イザヤの時代には、イスラエルの周辺ではアッシリアやエジプトなどの大国が覇権争いをし、戦争を繰り返していました。いつの時代にも、世界の諸国はその軍事的・経済的な力を誇示して、競い合い、争い合ってきました。そのようにして、世界は分断と分裂を繰り返してきました。聖書は、その根底には人間の罪があるとみています。神から離れ、神なしで、人間たちが自分の好みと欲望とに任せて、自分の道を進もうとし、自分の考えや計画を実現しようとすることから、争いと分断が生まれてくると聖書は言います。

 さらに4節にはこう続きます。【4節】。ここには、終末の時の完全で永遠の平和が預言されています。3節との関連で見ると、唯一の主なる神を全世界の国民が礼拝し、一つの民となる時に、真実で、永遠なる平和が実現するのだということです。古代の多くの国や都市がそうであったように、高く堅固な城壁をめぐらして敵の侵入を防ぐことによって平和が保たれるのではありません。今日でも、多くの国がそう考えているように、強力な武器を数多く所有し、高性能の爆撃機や軍艦を揃えることによってでもありません。そしてまた、核兵器によって武装し、相手国に恐怖を与えて攻撃を阻止することによってでもありません。何らかの思想統制やイデオロギーで国民を縛りつけることによってでもありません。そのようなことによって保たれる平和は、仮の平和であり、つかの間の平和であり、次の新しい戦いの準備でしかありません。聖書が教える平和、神から与えられる平和は、神礼拝による平和です。すべての国民が、主なる神を恐れ、主なる神のみ前にひれ伏し、一つの群れとなって、主なる神だけを唯一の主として礼拝する時に与えられる平和です。

 その平和について4節の冒頭では、主なる神が唯一の裁き主になることによって生み出される平和であると言います。主なる神が唯一の裁き主になる時に、だれもだれかを裁く必要ななくなり、国々は互いに競い合う必要がなくなり、どれが正義であるかを判定する必要もなくなり、もはやだれも戦うことを学ぶ必要はなくなり、どうしたら相手に勝利することができるかに頭を悩ます必要もなくなります。

 そのようにして、主なる神から真の平和を学び、真の平和に生きることをゆるされた人たちは、もはや戦いのための武器を持つ必要がなくなります。彼らは武器を放棄するだけでなく、武器を造っていた材料を解体し、それらで新しい農具を造るようになると語られています。人の命や神によって創造された世界と自然を破壊するための道具であった武器を持つ手から、神によって祝福された大地を耕し、貧しい人々を養うための豊かな実りを収穫し、共に神に祝福された命にあずかるための農具を持つ手へと変えられていくのです。

 これは一つの比喩と理解できます。剣や槍は、わたしが自分を守るための何かであり、相手を攻撃するための何かであると理解できます。たとえば、それが言葉であったり、行動であったり、知識であったり、力や権威であったり、わたしたちは自分を守るための、あるいは時にはだれかを攻撃するための、たくさんの武器を持っています。しかし今、神からの真の平和を与えられているからには、それをすべて投げ捨て、それに代わって、相手の心を豊かに耕して神の祝福に満たすために、相手の徳を高め、神の愛で満たすために、そして重荷を負う隣人の荷を共に担うために、わたしが神の平和の証し人となるように招かれているのだということを知らされます。

 しかしまた、これは比喩であるだけではありません。神からの真の平和を与えられている人間たちと世界の国々は、人と自然を破壊する道具である武器を、大地を耕すための道具である農具に造り変えることを命じられているのです。これは非常に現実的な課題であるように思われます。どうか、考えてみてください。一機の戦闘機によって、食糧難に苦しむ人々、子どもたち何人を救うことができるでしょうか。一隻の軍艦によって、感染症を治療するための病室をいくつ増やせるでしょうか。一個の核兵器やミサイル開発に要する知識や費用を、世界の平和を造り出し、世界が共存するために用いるとしたら、どうでしょうか。全世界のすべての武器を平和共存のための道具に造り変えたら、世界はどのように変わっていくでしょうか。これは、比喩ではありません。非常に現実的で、そして緊急で、また重たい課題です。でも、それは確かに、神からの真の平和を与えられていることを知っているわたしたち、小さな、力のないわたしに託されている大きな課題なのです。

 では最後に、平和の証人としてのわたしたちの課題を果たしていくために、わたしたちにできることは何でしょうか。わたしたちの多くは社会的・政治的な力を持っていません。世界に影響力を発揮するような発信力もありません。けれども、この世界に真の平和をもたらすのは、わたしではありません。主なる神です。そして、わたしたちはこの主なる神のみ心と全能のみ力とを信じて、神に祈ることがゆるされているのです。神はわたしたちの祈りに耳を傾けてくださり、終わりの完成の時に向けてすべてを導いておられます。祈りは困難な現実、不可能と思われる現実を貫き、それを超えて、わたしたちに希望を与えます。教会の民、信仰者は祈りによって、この希望に生きる者とされているのです。

 それでは、ここでみなさんで世界の平和を願う祈りをささげましょう。お立ちいただける方はお立ちください。クリーム色のプリントをご一緒に読んで祈りをささげます。

「世界の平和を願う祈り」を祈りましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年8月16日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

8月9日説教「祈りつつ、待ちつつ」

2020年8月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ハバクク書2章1~4節

    使徒言行録1章12~14節

説教題:「祈りつつ、待ちつつ」

 使徒言行録はルカ福音書の続編として、同じ著者ルカによって書かれました。主イエス・キリストの福音とその救いのみわざは、主イエスの十字架の死と復活、そして昇天の後に、主イエスを信じる弟子たちによってさらに継続され、全世界へと広げられていきました。主イエスの救いのみわざは主イエスの死によって終わったのではなく、むしろ完成され、拡大されていくのです。

 主イエスが天に昇られ、父なる神のもとへとお帰りになる直前に、弟子たちは二つの命令と約束を主イエスから受け取りました。一つは、使徒言行録1章4~5節です。【4~5節】。もう一つは、【8節】。これは、主イエスの命令であり、また約束です。それはまた、主イエスから弟子たちに与えられた恵みでもあり、また課題でもあります。

 「エルサレムを離れるな。父の約束を待て」、これは命令です。「あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられる」、これは約束です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」、これは恵みです。「あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となる」、これは課題です。主イエスの命令、約束、恵み、そして課題はいつの場合でも固く結びついています。

弟子たちの場合にそうであったように、わたしたち信仰者の信仰生活にあっても、主イエスから与えられた命令と約束、また主イエスから与えられた恵みと課題は常に固く結びついています。主イエスがわたしたちに何かをお命じになる時、そこには豊かな実りの約束を伴っています。わたしたちが主イエスから与えられた大きな救いの恵みを受け取る時、その恵みはわたしたちを新しい課題と使命に生きる者とします。使徒言行録は弟子たちがどのようにして主イエスから与えられた命令と約束、恵みと課題に生きたのかを、これから描いていきます。

 【12節】。「オリーブ畑」と呼ばれる山から戻って来たと書かれています。ここから、前の場面で、主イエスが天に昇られた場所がオリーブの山であったことが分かります。オリーブ山はエルサレムの郊外の東側に広がる丘陵地帯であり、「安息日にも歩くことが許される距離」、すなわち2千キュビト、およそ800メートル余り離れていると説明されています。聖書ではこのオリーブ山は特別な意味を持っています。主イエスが汗を血のように滴らせながら徹夜の祈りをされたのはオリーブ山の一角、ゲツセマネ、すなわち油絞りの園でした。そこで、主イエスはユダヤ人指導者たちによって逮捕されました。主イエスが天に昇られた場所もそこであり、弟子たちが主イエスの命令と約束を聞いたのもオリーブ山でした。

 実は、オリーブ山は旧約聖書でメシア・救い主が現れる場所であると預言されていました。【マラキ書14章1~2節a、4節、8~9節】(1493ページ)。のちの教会は、このマラキ書のみ言葉は終末の時に主イエスが再臨される預言と理解されました。オリーブ山は主イエスの苦しみの祈りの場所であり、主イエスが罪と死に勝利されて天の父なる神のみもとへと凱旋帰国された場所であり、そして、使徒言行録1章11節に預言されているように、主イエスの救いの完成である再臨が起こる場所なのです。神はそのようにして、旧約聖書に預言されているすべての救いのみわざを主イエスによって成し遂げてくださいます。オリーブ山で起こった二つのこと、すなわち主イエスの苦しみの祈りと昇天は、すでに実現しました。三つ目のこと、すなわち主イエスの再臨も確かにそれに続きます。教会の民はそのことを信じて、主イエス・キリストの再臨の時を、神の国の完成の時を待ち望むのです。

 次に【13節】。エルサレムで弟子たちが泊まっていた家がだれの家であるのかは書かれていません。一般に二階座敷と言われるこの部屋は、多くの研究家が推測するように、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の部屋であったと思われます。また、2章1節以下に書かれている、ペンテコステの日に聖霊が満ちた家もここであったと考えられます。おそらく、エルサレムに誕生した最初の教会はこの二階座敷で礼拝していたと推測する人もいます。この家に集まった弟子たちや主イエスを慕う人たちは、一つの固い交わりで結ばれていたことが何度も強調されています。14節では「心を合わせて」、15節でも「一つになって」、2章1節では「一同が一つになって集まっていると」と書かれています。彼等を一つに固く結びつけているものは何でしょうか。今はまだそのことは明らかになってはいませんが、聖霊です。聖霊なる神が、主イエスの十字架の死後に散らされていた弟子たちや信仰者たちを再び集め、信仰者の群れとし、一つの教会の民とするのです。2章に入ってから、そのことが明らかにされます。

 ここに、11人の弟子たちの名前が挙げられています。もちろん、ここには主イエスを裏切り自ら命を絶ったイスカリオテのユダの名はありませんが、ここに改めて11人の名が挙げられていることには意図があるように思われます。ここから、新たな弟子たちの歩み、働きが始まるからです。彼等は主イエスの地上の歩みに伴って、神の国の福音宣教に主イエスと共にお仕えしましたが、今や彼らは天におられる主イエスから派遣されて、聖霊のみ力に励まされ、主イエスの十字架の福音を全世界へと宣べ伝えるという、新しい使命に生きる者とされるのです。

 ここに書かれている弟子の名前は、ルカ福音書6章14節以下と同じですが、順序が少し違っています。その理由は、初代教会で指導的な働きをし、重んじられていたその度合いに応じて順序が変わったのであろうと推測されています。たとえば、ペトロに続いてヨハネの名が挙げられていますが、3章1節でヨハネがペトロと一緒に行動し、宣教活動をしていたことと関係していると思われます。

 いずれにしても、彼等はやがて誕生するエルサレムの初代教会を代表する働き人たち、宣教者たちとして仕えました。特に、ペトロは主イエスと共にいた時にも12弟子のリーダー的存在でしたが、初代教会においてもその指導者となりました。主イエスの十字架の時に、3度も「わたしはイエスを知らない」と言って十字架につけられる主イエスを見捨てて逃げ去ったペトロではありましたが、その失敗とつまずきにもかかわらず、主イエスによってゆるされ、再び立ち上がり、主イエスを最も愛する弟子として、主イエスのために自らの持てるすべてをささげてお仕えする僕(しもべ)へと変えられたのです。

 【14節】。ここでは婦人たちに言及されています。使徒言行録と同じ著者になるルカ福音書で指摘しましたように、ルカ福音書は「女性の書」と言われたりするほど、婦人の活動が他の福音書よりも多く描かれており、使徒言行録でも婦人たちの働きが重んじられています。ここでは主イエスの母マリア以外の名前は書かれていませんが、ルカ福音書24章10節にその幾人かの名前が挙げられています。【24章10節】(160ページ)。この婦人たちは主イエスがガリラヤ地方で福音宣教を始められた時から主イエスと一緒に行動してきた人たちでした。彼女たちは23章49節では主イエスの十字架の証人となりました。【23章49節】(159ページ)。彼女たちはまた23章55節では主イエスの葬りの証人となりました。【23章55~56節】。さらには、先ほど読んだ24章10節では主イエスの復活の証人となりました。そして、使徒言行録1章14節では、弟子たちと共に祈りつつ、神の約束と主イエスの命令を聞きつつ、聖霊の降臨を待ち望む人たちとなっており、やがて彼女たちは初代教会・エルサレム教会の重要な働き人となっていくのです。女性の社会的な地位が余り認められていなかったこの時代にあって、聖書の婦人たちは主イエスのご生涯の重要な場面で、主イエスの証人とされているのです。彼女たちは主イエスの福音に生かされ、また主イエスの福音のために生きる人たちとされているのです。。

 ここには特に、主イエスの母マリアとイエスの兄弟たちも一緒であったと書かれています。父ヨセフはここでは言及されていませんから、おそらくすでに亡くなっていたと推測されます。主イエスには何人かの男兄弟と女兄弟がいたとマタイ福音書13章56、57節に書かれています。母マリアを始め、主イエスの兄弟たちは、主イエスの十字架の前までは主イエスがメシア・キリストであると信じませんでしたが、十字架の死と復活のあとで、彼等が肉にある関係から解放された時、はじめて主イエスを救い主と信じる群に加わることができました。主イエスの十字架の死は彼ら家族にとってはどれほどか衝撃的であったことでしょう。母にとっては長男であり兄弟にとっては兄である主イエスの死に直面した彼らは、しかし、その屈辱的で痛ましい家族の死という事実を超えて、主イエスの死はまさに彼ら一人一人の救いのための死であったことを、新しい神の家族とされているということを、彼等は知らされ、信じたのです。

 11人の弟子たち、婦人たち、主イエスの家族たち、彼等は共に集まり、心を合わせ、ひたすら祈りをしていました。祈りつつ、神の約束の成就の時、主イエスのから与えられる恵みを受け取る時、聖霊が注がれる時を待っていました。ルカ福音書はまた「祈りの書」とも言われるほどに、主イエスの祈りのお姿を何度も描いています。使徒言行録では弟子たちと教会の祈りが強調されています。エルサレムに誕生した初代教会もまた祈る群れとして出発しました。

 1872年(明治5年)3月に、日本最初のプロテスタント教会として誕生したわたしたちの教会、横浜公会・日本キリスト教会(現在の横浜海岸教会ですが)も外国人宣教師たちが主催した新年の初週祈祷会から始まったということを、わたしたちは知っています。

 祈りは、神の約束のみ言葉を忍耐強く、またねばり強く待ち望む力を信仰者に与えます。祈りは、主イエスの命令に従順に聞き従い、主イエスから差し出されている救いの恵みと豊かな実りを受け取る希望と喜びを信仰者に与えます。祈りはまた、熱心に主イエスと教会とに仕え、主の福音を宣べ伝えるわたしたちの務めと決意とをより固くします。祈りは、そのようにして、あらゆる苦難や試練の中にあっても希望を失わず前進していく道をわたしたちの前に開きます。祈りは、困難な現実を打ち破り、現実を超えた希望ある未来へとわたしたちを導きます。祈りは、終わりの日のみ国の完成と主イエス・キリストの再臨の時へとわたしたちを導きます。それゆえに、わたしたちは祈りつつ、待ちつつ、そして急ぎつつ、主イエスの再臨の時まで、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちの祈りを強めてください。わたしたちの祈りを弱める困

難な現実が目の前に迫っています。けれども、わたしたちのすべての祈りをお

聞きあげくださる全能の父なるあなたを信じて、祈り続ける者としてくださ

い。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月2日説教「故郷では尊敬されなかった主イエス」

2020年8月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:列王記上17章8~16節

    ルカによる福音書4章16~30節

説教題:「故郷では尊敬されなかった主イエス」

 主イエスは故郷ガリラヤ地方のナザレの会堂で安息日の礼拝に出席されました。聖書朗読の役を指名された主イエスは、イザヤ書61章のみ言葉を朗読された後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と説教されました。主イエスは一人の礼拝者として会堂に来られたのではありませんでした。旧約聖書のみ言葉を成就するためにナザレの会堂に立っておられるのです。

22節に「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」とありますが、ナザレの人たちだけでなく、すべてのイスラエルの人々にとって、主イエスのこの説教は大きな驚きでした。いまだかつて、だれもこのように説教した人はいませんでした。たとえば、旧約聖書時代の預言者たちは、まだ見ぬ未来の出来事を、だれにも知られない神の永遠のご計画を、あらかじめ神から示され、「このように語れ」と命じられて、やがて起こるべき神の救いの出来事について預言しました。そして、そののちのすべてのイスラエルの説教家たちは、「かつて預言者たちはこう語った。やがてその預言の成就の時が来るであろう。それを信じて待ちなさい」と語りました。彼らすべては約束の時、待望の時に生きていたからです。

 けれども、主イエスの説教はそれらの預言者たちや説教家たちとは根本的に違っていました。主イエスは「この預言のみ言葉は、きょうこの時、あなたがたがわたしの口からきいたこの時に、成就した。すなわち、わたしが父なる神のみ言葉を実現するメシア・キリストとしてあなたがたの前に立ち、罪のゆるしと罪の奴隷からの解放の福音を語る時、そしてあなたがたがその福音を聞き、信じる時、神の恵みがすべてを支配する新しい年、新しい国、神の国が今この時に到来したのだと主イエスは説教されたのです。主イエスは預言の成就の時の初めに立っておられます。というよりも、主イエスが預言を成就されるメシアであり、主イエスご自身が預言の成就そのものであられます。主イエスはすべてのイスラエルの民に、それのみならず全人類に、罪からの解放と、救いの恵みを与え、すべての人を永遠の命に生かすメシア・キリスト・救い主として、この時ナザレの会堂に立っておられ、今わたしたちの会堂に立っておられるのです。

 マタイ福音書とマルコ福音書は主イエスが宣教された福音を「神の国の福音」と表現しています。それに対して、ルカ福音書はイザヤ書61章の預言の成就として、貧しいに人たちや捕らわれている人たちへの解放の福音として、主の恵みの年の告知と表現しています。ルカ福音書の特徴の一つがここにあります。

 もう一つ、ここからわたしたちが学ぶべき重要なことは、礼拝における主イエスのご臨在のリアリティというとです。かつて、ナザレの会堂で主イエスが聖書を朗読された時、その時そこで旧約聖書の預言が成就したと同様に、今日、わたしたちの教会の礼拝で、主イエスの福音が語られ、聞かれた時、今この時に、ここに十字架につけられた主イエスがご臨在しておられ、主イエスの救いの出来事が今この時に、わたしたしたち一人一人に、このわたしに、現実的なリアリティをもって迫ってくる、わたしの出来事となって、わたしの救いの確かさとなり、わたしの新しい力と命となる、そのような主イエスの現臨と救いのリアリティがわたしたちの礼拝にも与えられるようにと切に願います。

 22節に書かれているナザレの人たちの反応は、彼等の信仰と不信仰との両方を語っているように思われます。一方では、主イエスの恵み深い言葉に驚いていながら、他方では主イエスにつまずいています。彼等は確かにイザヤの預言を信じていました。そして、その預言が今成就した、新しいメシアの時代が来たと感じました。その信仰は全く正しいと言えます。

 けれども、彼等はその新しいメシアの時代を来たらせる救い主が自分たちと同じ故郷に住む同じ人間であるということにつまずきました。彼等はもっと偉大な指導者を期待していたのかもしれません。もっと力と威厳に満ちた英雄を期待していたのかもしれません。彼等は、主イエスの低さ、貧しさにつまずきました。それは結局は、神が人となられたことのつまずきであり、神がご自身をいやしくされ、人のお姿でこの世においでくださったことのつまずきであり、神のみ子がヨセフとマリアの子としてお生まれになられたことのつまずきであったと言うべきでしょう。そして、それは結局は、神のみ子の十字架の死のつまずきなのです。それゆえに、彼等は主イエスから差し出された救いの恵みを受け取ることができませんでした。

 主イエスは彼等の不信仰をすぐに見抜かれ、23、24節でこのように言われました。【23~24節】。ナザレの人たちは自分たちが子どものころからよく知っている主イエスが本当にメシア・救い主として神の恵みのみ言葉を語る資格があるのならば、そのしるしとなるものを見せてほしいと願いました。しかし、しるしを見て信じる信仰は本当の信仰ではありません。主イエスはすでに荒れ野での誘惑で、「あなたが神の子ならば、そのしるしを見せてほしい」と求めた悪魔の要求を退けられました(4章3節以下参照)。また、主イエスは十字架上で、「お前が神からのメシアならば、自分を救ってみろ。そしたら信じよう」という人々の要求を退けられました。しるしを求めることは人間の不信仰であり、主イエスの福音を否定することです。ヨハネ福音書20章29節で、主イエスは疑う弟子のトマスに言われました。「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と。わたしたちは見ないで信じる幸いへと導かれているのです。

 主イエスはご自身が神のみ子であることを証しされるために奇跡やしるしを一切用いませんでした。むしろ、主イエスは神のみ子としての権威も栄光も、すべてをお捨てになり、貧しい僕(しもべ)のお姿でこの世においでになられ、人々のあざけりと侮辱の中を、ご受難と十字架の死へと進まれました。主イエスは旧約聖書の預言者たちが多くそうであったように、故郷のナザレの人々からは、あるいはまた同民族のユダヤ人からは歓迎されず、むしろ迫害を受けられました。

 そこで、主イエスは25節から古い時代の預言者エリヤとエリシャの実例を挙げ、ナザレの人々の不信仰を明らかにするとともに、神のみ心が何であるのかを語っておられます。二つのポイントがあります。一つは、しるしを求めるのではなく、見ないで信じる信仰についての実例。二つには、預言者は故郷では歓迎されないということわざの本来の意味について。この二つのポイントを考えながらみていきましょう。

 エリヤはイスラエル初期の預言者で、紀元前9世紀の中頃に活動しました。エリヤとサレプタのやもめのことは列王記上17章に書かれています。イスラエル北王国の王アハブは偶像の神バアルの祭壇を造ったために、神は預言者エリヤの口を通してイスラエルに裁きを語られました。神は3年6カ月にわたって天を閉じ、雨を降らせず、地に干ばつと飢饉を起こすと言われました。その飢饉の中で、エリヤは地中海の北にあるイスラエルの隣国フェニキアの町シドンのサレプタに住む一人のやもめの所に遣わされました。エリヤは彼女に「わたしのためにパンを焼いて持ってきてくれ」と頼みます。彼女は答えました。「これがわたしと一人息子の最後の食べ物です。もしこれを食べてしまえば、わたしたちは死を待つだけです」。しかし、エリヤは答えます。「イスラエルの神、主はこう言われる。主が地に雨を降らせるまで、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。彼女はその言葉を信じて、最後のパンをエリヤのために焼いたが、その後も彼女の家では幾日も食べ物に事欠かなかったという出来事です。この物語はユダヤ人であればだれもがよく知る有名な話であったので、主イエスはここでは詳しくは語る必要がなかったと思われます。

 もう一つのナアマンの物語もよく知られた話でした。これは列王記下5章に書かれている紀元前9世紀後半の出来事です。アラムの国の軍司令官ナアマンは重い皮膚病で苦しんでいる時、かつてイスラエルの捕虜として連れ帰った一人の少女から「イスラエルの預言者の所へ行けば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょう」と聞き、彼はその言葉を信じてイスラエルまで旅をし、預言者エリシャと出会います。エリシャはナアマンに「ヨルダン川の水で七たび身を洗いなさい」と命じます。ナアマンはその言葉を信じてヨルダン川に入ると、彼の体が清められたという出来事です。

 旧約聖書に書かれているこの二つの出来事は、信仰とは何か、また神のみ心はどこにあるのかを語る非常に重要なメッセージをわたしたちに告げています。すでに指摘したように、一つは、見ないで信じる信仰です。サレプタのやもめは、イスラエルから見れば異邦人ですが、彼女は自分と一人息子の命をつなぐ最後のパンを、預言者エリヤの言葉を信じ、イスラエルの主なる神を信じて、エリヤに提供しました。ナアマンも異邦人の軍人ですが、妻の召使であったイスラエルの少女の小さな提案を聞き、それを信じて、敵国であるイスラエルを訪ねました。彼はまた預言者エリシャの言葉を信じて、ヨルダン川に入りました。共に異邦人であり、イスラエルの信仰からは遠いと考えられていたサレプタのやもめとアラムのナアマンが、預言者の前で謙遜になり、預言者が語る神のみ言葉に従順に聞き従い、それによって神からの救いの恵みを受け取ることがゆるされたのです。そのことは、ナザレの人々の不信仰とかたくなで不従順な姿をより浮かび上がらせます。

 もう一つのこと、預言者は故郷では尊敬されないということわざについては、主イエスは別の視点から見ておられるように思われます。神はあらかじめそのことをよくご存じであられるので、預言者エリヤもエリシャも、最初からイスラエルの民のもとにではなく、異邦人のもとへと遣わされたのだということを旧約聖書は語っているということです。イスラエル全土に大飢饉が起こった時、神は預言者エリヤをイスラエルの家にではなく異邦人であるサレプタのやもめの所に遣わし、そこでご自身が恵み深い神であることを、貧しいやもめを養われる神であることをあらわされました。また、神はイスラエルの国の中で重い皮膚病で苦しむ多くの人の所に預言者エリシャを派遣したのではなく、異邦人の軍人ナアマンのもとへと遣わし、彼に対してご自身の偉大なみ力と恵みとをお示しになりました。神の救いの恵みは不信仰なイスラエルを通り抜けて、異邦人にまで及びました。

 主イエスの救いの恵みもそのようにして異邦人と全世界へと広げられていきました。神に選ばれた民であるイスラエルの不信仰とつまずきが、多くの民の救いとなったのです。神はそのようにして人間たちの不信仰をもお用いになって、救いのご計画を進めてくださいます。わたしたちもまたそのことを信じるようにと招かれています。

 (執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちの不信仰とかたくなな心とを、あなたの大きな恵みに

よって打ち砕き、わたしたちをみ前にあって従順な者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。