3月28日説教「12弟子の選び」

2021年3月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:ヨシュア記4章1~7節

ルカによる福音書6章12~16節

説教題:「12弟子の選び」

 教会の暦ではきょうは「棕櫚(しゅろ)の主日」、今週は受難週です。ルカによる福音書を続けて読んでいるわたしたちは、主イエスのご受難の意味を考えながら、きょう与えられている6章12節以下の12弟子の選びの個所をご一緒に学んでいきたいと思います。

 【12節】。ここでもわたしたちは主イエスの祈りのお姿を見ることができます。ルカ福音書は他の福音書に比べて主イエス祈りのお姿を数多く描いていることをわたしたちはすでに確認してきました。特にここでは、「祈って夜を明かされた」とあります。徹夜の祈りです。徹夜の祈りと言えば、わたしたちは受難週のゲツセマネの園での主イエスの祈りを思い起こします。ルカ福音書では22章39節以下にオリーブ山での祈りとして記録されていますが、主イエスは受難週の木曜日の夕方から弟子たちと過ぎ越しの食卓を囲まれた後、オリーブ山で「父よ、御心なら、この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られました。弟子たちがみな眠っていた間にも、主イエスは苦しみもだえながら、汗を血のように滴らせて祈り続けられたと書かれています。それに引き続いて、祭司長や長老たちによって捕らえられ、裁判を受けることになりましたので、これもまた主イエスの徹夜の祈りと言ってよいでしょう。罪の中で死すべきである弟子たちが、いまだ自分たちの罪に気づかず、眠りこけている時に、罪なき神のみ子主イエスがただお一人、罪と戦っておられ、そのために汗を血のように滴らせながら祈っておられ、事実このあとでご自身の血を流されたのです。主イエスはわたしたちのために「罪と戦って血を流すまで抵抗」してくださいました(ヘブライ人への手紙12章13、14節参照)。

 実に、主イエスは祈りの人でした、主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスの救いのみわざは祈りに支えられていました。オリーブ山での祈りからも明らかなように、祈りとは第一に神に対する服従の行為です。神のみ心を尋ね求め、そのみ心を知り、それに服従することです。「父なる神よ、み心を行ってください」、これがすべての祈りの基本です。主イエスのご生涯は、その初めから終わりまで、徹底して父なる神のみ心に従う歩みでした。死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、父なる神への服従で貫かれていました。

 「祈るために山に行き」と書かれています。この場合、山には二つの意味が含まれています。一つには、人里を離れ、人々からも離れ、ただお一人になって父なる神と対面する場所であるということです(5章16節参照)。人間の目や思いにとらわれず、この世の価値や現実からも離れて、ただひたすらに神に向かう、そして神のみ心を尋ね求めるためです。第二には、山は聖書では神の啓示の場(神がご自身を人間に現わされる顕現の場)であるということです。出エジプト記19章に書かれてあるように、モーセはシナイ山に登って、山の頂で神のみ声を聞き、十戒を授かりました。山は、神が人間の近くにいますことを強く感じさせる場、神が人間にご自身のみ旨を親しくお語りになる場です。

 【13節】。主イエスがなぜ、何のために山で徹夜の祈りをされたのか、その理由がここで明らかになります。それは、神のみ心にかなった12弟子をお選びになるためであり、12弟子と共に福音宣教のお働きを更に強め、広げるためでした。このことを、すぐ前の11節との関連から考えてみましょう。主イエスが安息日の律法を破ったことを訴えようとしていた律法学者たちが怒り狂って主イエスの命をねらったとき、主イエスは山に退かれ祈られたのですが、それはご自身の命を守ろうとされたからではなく、また危険を避けて公のお働きを止めるためでもなかったということが分かります。むしろ、父なる神のみ心に服従され、父なる神から託された救いのみわざをいよいよ推し進めるため、ご自身のご受難への道を前進するためであったということです。そしてそのことは、17節以下で、主イエスが山を下りられたあとになってから、より明確にされます。主イエスは徹夜の祈りののちに、再び罪と死とに支配された病めるこの世へと帰って行かれました。そして、ご自身の救いのお働きをなおも続けられました。

 徹夜の祈りのあとで12弟子をお選びになったということから、それが主イエスの福音宣教のお働きにとって、また神の救いのみわざ全体にとって、いかに重要な意味を持つことであったかということが推測できます。特に、ルカ福音書の特徴からその意味を考えてみましょう。ルカ福音書を書いたルカはその続編として使徒言行録を書きました。ルカは神の救いの歴史を(これを救済史と言いなすが)、旧約聖書時代のイスラエルの選びから主イエスの神の国の福音宣教へと続く歴史として、更に主イエスの十字架と復活のあとの教会の宣教の歴史へと続く救済史として描いているように思われます。

主イエスの12弟子の選びは、その一連の救済史の中で旧約聖書と新約聖書とを結びつける役割を果たしています。12人の弟子はイスラエルの12部族を象徴しています。旧約聖書の民イスラエルがヤコブ・イスラエルの12人の子どもたちからなる12部族で形成されていたように、新しい教会の民もまた全世界に派遣された12弟子たちの宣教によって形成されていくのです。12弟子は地上の主イエスから直接に福音を聞かされ、また復活された主イエスから世界宣教へと遣わされました。実際に、使徒言行録を読むと、ペトロを始めとした12弟子たちが初代教会の中心的な働き人であったことが分かります。神がイスラエルの民を選ばれ、この民と契約を結ばれたことによって始められた神の救いの歴史・救済史は、主イエスによってその成就を見、その頂点に達し、更に主イエスによって選ばれた12弟子から世界の教会へと受け継がれていくのです。

13節で用いられている3つの言葉、「呼び集める」「選ぶ」「使徒」これらの言葉から、弟子の選びの意味と教会とは何かについて、わたしたちはより深く学ぶことができます。

まず、「呼び集める」ですが、これは「召し集める、招集する」という意味の言葉です。原文のギリシャ語では「彼に」という言葉がついていますから、詳しく訳すると「彼のもとへ、主イエスのもとへ、召し集める」となります。ルカ福音書にはこれまでに5章1節以下でガリラヤ湖の漁師シモン・ペトロとヤコブ、ヨハネの召命記事があり、27節以下では徴税人レビの召命記事がありました。このレビは15節のマタイと同一人物と考えられていますが、彼らも今また改めて12弟子として主イエスのもとへ召し集められたのです。

のちの教会も、またわたしたちの教会も、12弟子と同様に主イエスによって、主イエスのもとへと召し集められた信仰者の群れです。主イエスによって名を呼ばれ、この世の罪の中から召し出され、主イエスのみもとへと召し集められた一人一人です。他の何かの理由や目的によって集まっているのではありません。他のだれかや何かによって集められたのでもありません。わたしたちを罪から救い出してくださる唯一の救い主イエス・キリストのみが教会の民の招集者であり、教会の頭(かしら)であり、教会の牧者です。

 次は「選ぶ」です。もちろん主語は主イエスですから、主イエスがお選びになります。父なる神のみ心にかなった一人一人を選ばれます。選ばれる側には何の理由も根拠もありません。実際に選ばれた弟子たちのリストを見てもそのことが分かります。ペトロからヨハネまでの4人はガリラヤ湖の漁師でした。マタイは徴税人でした。当時の徴税人は罪びとの仲間、神の民を異邦人の王に売り渡す売国奴と呼ばれていました。その他の弟子たちもみなガリラヤ地方の社会的地位も名誉もないような人たちであり、宗教的・政治的指導者ではありませんでした。選ばれた弟子たちには選ばれるに値するものは全くありませんでした。したがって、選ばれた弟子たちはただ選ばれたことを感謝するだけです。そして、選んでくださった方を喜ばすためにお仕えしていくのです。

申命記7章6節以下には、神がイスラエルを選ばれた理由について書かれています。【6~8節】(292ページ)。また、主イエスはヨハネ福音書15章16節で、弟子たちをお選びになった理由についてこのように言われました。【16節】(199ページ)。

わたしたち一人一人が選ばれ、この教会に召し集められているのも、同じ理由からです。そしてまた、ここにこそわたしたちの選びの確かさがあります。もしわたしが自分の判断や好みでこの道を選んだのであれば、わたしの判断が間違っていたかもしれない、別の道、別の生き方があったかもしれないという迷いや疑いが生じることもあるかもしれません。けれどもそうではありません。わたしがこの道を選んだのではなく、わたしを罪から救い出してくださる主イエスが、わたしをまことの命によって生かしてくださる主イエスが、わたしのためにご自身の尊い命を十字架にささげてくださるほどにわたしを愛される主イエスがわたしを選び、この教会へと召し集め、救いの恵みをお与えくださったのです。それゆえにまた、豊かな実りが約束されているのです。

「使徒」とは遣わされた者という意味です。その人を遣わした主人の全権大使です。主人の権威によって、主人の意志を伝え、また行い、主人に忠実に仕える代理人です。新約聖書では使徒という言葉は12弟子のほかにパウロなどのわずかな人に限定されて用いられています。地上を歩まれた主イエスに直接にお仕えし、主イエスの十字架と復活を直接に目撃し、証しした人が使徒と呼ばれます。彼ら主イエスの目撃証人たちの証言によって、初代教会が建てられました。

「名付けられた」と書かれています。名づけるとはその人を新しく創造することを意味しています。弟子たちは使徒という新しい名を与えられることによって、新しい人間に創造されたのです。自分たちを派遣された主イエスのために生きる、主イエスの十字架と復活の証人として生きる、主イエスの福音を携え、主イエスによってこの世へと派遣され、主イエスの権威によって主イエスの福音を語る人として再創造されるのです。主イエスの福音を高く掲げ、地の塩として、世の光として生きる人とされます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが主イエス・キリストによってわたしたちを選び、み国の民として召し集めてくださいました幸いを覚え、心から感謝いたします。わたしたちはみな暗闇の中をさまよい、罪と死とに支配され、滅びるほかにない者たちでありましたが、今はあなたのみ光を受け、あなたの命にあずかる者とされています。土の器でしかないわたしたちですが、どうかあなたの尊い救いのみわざのためにお用いくださいますように。あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇道に迷っている人、重荷を負っている人、病んでいる人、孤独な人、試練の中にある人を、あなたがあわれんでくださり、一人一人にふさわしい道を備えてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月21日説教「神とアブラハムの契約締結」

2021年3月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記15章7~19節

    ヘブライ人への手紙8章7~13節

説教題:「神とアブラハムの契約締結」

 創世記15章1~6節には、神がアブラハムにお与えになった約束の一つ、「あなたから生まれる子どもがあなたの家を継ぐ」という約束について書かれていました。7節からは、もう一つの約束、「この土地をあなたとあなたの子孫に受け継がせる」という約束が書かれています。前回もわたしたちが確認したように、アブラハムに同じ約束が語られるのはこれが三度目です。さらに、17章でも同じ約束が繰り返されます。なぜ、これほど頻繁に同じ約束が語られているのかを考えてみると、いくつかのことが見えてくるように思います。神の側から言えば、神の約束はいつまでも変わることはないということです。たとえアブラハムがその約束を忘れたり、無視したりしようとも、神はひとたびアブラハムと結ばれた約束、これを「アブラハム契約」と呼びますが、その契約を決して廃棄なさらない、必ずやその成就に向けて道を備えておられるということを、わたしたちは何度も確認することができます。

 アブラハムの側から言えば、12章に書かれてあったように、彼が75歳の時に最初に神の約束を聞いて旅立ってから、10年が過ぎ、20年が過ぎ、途中で経験した様々な試練の中で神の約束に背くようなことをした時にも、彼はそのたびに神の約束のみ言葉を聞かされ、神との契約を再確認させられてきました。しかも、時の経過とともに、神の約束が果たされるという可能性がいよいよ小さくなっていく中で、いまだに自分と妻との間には子ども与えられず、いまだにカナンの地の一角をも所有していない、神の約束に対する疑いや不安がアブラハムを襲い、彼の信仰そのものが試練にさらされ、彼はもう神の約束なしでも生きていくことができると考えるようになる、そのようなアブラハムの信仰の危機の中で、神は繰り返して約束のみ言葉をお語りになっておられる、そのことをもわたしたちは確認することができます。

 すべて信じる人の信仰の父と言われるアブラハムの場合がそうであったように、わたしたち信仰者もまた、そのようにして繰り返し繰り返し神のみ言葉を聞き続け、日々にわたしを襲ってくる疑いや不安、不信仰と戦っていかなければなりません。また、そのために神はわたしたちを主の日ごとの礼拝へとお招きくださるのです。

 きょうは7節からのアブラハムに対するもう一つの約束について学んでいきます。【7節】。1節でもそうであったように、7節でも、神がまずお語りになります。アブラハムの事情がどうであれ、彼はまず神のみ言葉を聞かなければなりません。聞くことが許されているのです。神の約束、神とアブラハムとの契約においては、いつでも神の側にイニシャティブ・主導権があります。神が一方的な恵みとしてアブラハムにお与えくださいます。そのことは、12章に書かれていた最初の神の約束のみ言葉から全く変わりません。

 7節を原典のヘブライ語から直訳すると、「わたしは主、あなたをカルデアのウルから導き出した者」となります。この言い方は、旧約聖書の中にしばしばみられる「神の自己啓示の定式」と言われています。最も知られているのは、出エジプト記20章2節です。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。神が重要なみ言葉をお語りになる場合、あるいは大切が律法を授与される場合、このような自己啓示の定式を用いる例が数多くあります。

 神はアブラハムの信仰の生涯の初めに、豊かな恵みのみ言葉をもって彼を召し出されました。神は今この時にも、そして彼の生涯の終わりまで、同じように恵み深い主なる神として、「わたしは主、あなたをカルデアのウルから導き出した者」として、み言葉を語り続け、彼を導いてくださいます。同じように神はイスラエルの民を奴隷の家から導き出された救いの神として、イスラエルの歴史を、イスラエルの民一人一人を、約束のメシア・救い主の到来の時まで導かれます。神はまた、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神、主イエス・キリストの父なる神」として、主の日の礼拝のたびごとに、わたしたちにご自身を啓示され、教会のため、わたしたち一人一人のための救いのみわざを今もなお行ってくださいます。 

 次に、8節でアブラハムは神の約束が確かであることのしるしを求めているように見えます。【8節】。2節でも、彼は神の約束がいまだ実現していないことへの不安を語っていました。そこでは、神はアブラハムを外に連れ出し、夜空の星を見せて、「あの星を数えることができるなら、数えてみなさい」と言われ、彼の不信仰を取り除かれました。ここでは、神はアブラハムと契約の儀式を結ぶことによって彼の不安を取り除かれます。

 【9~12節】。ここに命じられている内容は、当時の近東諸国で実際に行われていた契約締結儀式と同じであるということが歴史資料から知られています。動物を二つに切り裂いて二列に並べて通路をつくり、その中を契約を結ぶ当事者たちが通り抜けることによって契約が成立するという慣習がありました。この契約の意味をよく理解できる個所があります。エレミヤ書34章18~19節を読んでみましょう。【18~19節】(1243ページ)。ここにも書かれているように、動物を引き裂いて二列に並べるのは、この契約を破った者は同じように引き裂かれなければならないということを示していました。

 契約締結儀式は17節以下に続きます。【17~21節】。「煙を吐く炉と燃える松明」は神ご自身を現わしています。神の自己啓示、神の顕現の一つの手段です。出エジプト記19章では、シナイ山で神がモーセに現れて十戒を授けられた際には、燃える「火」と「炉の煙」と「角笛の音」、そして「雷鳴」によってご自身の存在をお示しになられたと書かれています。神は第一にはみ言葉をお語りになることによってご自身を人間に現わされますが、このような自然現象や光、音などによっても、人間の感覚や体験を通しても、ご自身を啓示されます。

 ここでは、本来天におられる神が、地に下って来られ、人間の目や耳、感覚によって捕らえられるお姿でご自身を現わしておられるということに気づかされます。一般に、契約を結ぶ場合には、当事者が同じ立場にいなければ、契約の内容も不平等になります。神はアブラハムと契約を結ばれるに当たって、彼と同じところに立たれ、天から地に下って来られ、ご自身を低くされて、しかもその契約が実現しない場合には神ご自身があたかもその御身(おんみ)を二つに切り裂いてもよいというしるしに、切り裂かれた動物の間を通り過ぎられたのです。

 わたしたちはここに至って、神のみ子主イエス・キリストへと目を向けざるを得ません。神はみ子主イエス・キリストによってわたしたち教会の民と新しい契約を結んでくださいました。その契約締結のために、神はご自身が人の子としてこの地においでくださり、わたしたちすべての罪びとと共におられるインマヌエルの神となられました。それだけでなく、神はわたしたち教会の民との新しい契約が確かであり、真実でありまた永遠であることの保証として、ご自身のみ子が十字架の血を流さるほどにわたしたちに対する愛を貫きとおされたのです。

 神とアブラハムとの契約締結の儀式において、アブラハム自身はほとんど何の役割も果たしてはいません。彼は神に命じられた動物や鳥をそろえて持ってきました。動物を切り裂き、二列に並べました。契約締結の邪魔になるハゲタカを追い払いました。けれども、いざ契約締結の時には、彼は深いに眠りに襲われ、彼自身が二列に並べられた動物の間を通り過ぎたとも書かれていません。この契約締結においては、神がすべてのイニシャティブを握っておられます。アブラハムは受動的です。神がアブラハムの不信仰や弱さや疑いにもかかわらず、この契約を実現されるということが強調されているのです。アブラハムはただそれを信じることができるだけです。それで十分なのです。

 【13~16節】。ここには、創世記に描かれているアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から、その後ヤコブの12人の子どもたちとその家族がエジプトに移住して400年間の寄留の生活を続ける、そのようにしてから初めて「この土地をあなたとあなたの子孫に受け継がせる」と言われた神の約束が実際に果たされるようになるであろうということが語られています。実に、600年以上もの長い年月を経て、アブラハムへの神の約束がイスラエルの民に成就されるというのです。

ここには、旧約聖書全体に貫かれている歴史観があるように思われます。その歴史観は、なぜ神はイスラエルの民を選ばれたのか、また神の民イスラエルと世界とはどのような関係にあるのかということを、信仰的な目で物語っています。その歴史観をいくつかのポイントにまとめてみましょう。

 一つは、神は族長とイスラエルの歴史のすべてを、アブラハム一人の生涯を越えて、支配され、導いておられるということです。神はこのイスラエルの歴史全体を通して、イスラエルの苦難や挫折、勝利や敗北の歴史のすべてを通して、ご自身の救いのみわざを成し遂げられるという救済史の歴史観です。

 二つには、エジプトやカナン地方の諸国は、16節のアモリ人は19~21節に挙げられているカナン地方原住民を代表していると考えられますが、それらの世界の諸国もまた神の普遍的なご支配のもとにあり、神の救いのご計画に仕えているという歴史観です。イスラエル周辺の諸国は時に神の選びの民を苦しめるための道具として神に用いられ、時に自らの罪のゆえに神によって滅ぼされることによってイスラエルの救いのために仕えます。世界の諸国もまたイスラエルの民と同様に、罪の中にあり、神に背いており、それゆえに神によって救われなければならないという信仰がここにはあります。

 ここからわたしたちはキリスト教信仰による歴史観に導かれます。神は定められたこの時に、全世界を罪から救い、ご自身の救いのみわざを成就されるために、み子主イエス・キリストを世の救い主としてこの世にお遣わしになられました。十字架につけられ三日目に復活された主イエスは全人類の唯一の救い主として、今は天におられる父なる神の右に座して、全世界を導いておられます。世界はその救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉の真理は永遠に変わることはありません。あなたは天地創造の時から今に至るまで、また終わりの日のみ国の完成の時まで、義とまこととをもってこの世界をご支配しておられます。どうか、わたしたちが移り行き、過ぎ去るものから目を離して、永遠に変わることがないあなたの真理に目を注ぐようにしてください。

〇憐れみ深い主なる神よ、この世界は今大きな試練と苦悩の中にあって苦しみ悶えています。どうか、あなたからの救いといやしが与えられますように。全世界にあなたのみ心が行われますように。あなたの義と平和が与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月14日説「イエス・キリストの名によって歩きなさい」

2021年3月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    使徒言行録3章1~10節

説教題:「イエス・キリストのみ名によって歩きなさい」

 ペンテコステの日にエルサレムに誕生した世界最初の教会が、エルサレムからパレスチナ地方全域へと宣教範囲を広げ、さらに北の小アジアからヨーロッパへと宣教し、全世界に教会が建てられていった次第について、使徒言行録は描いています。その最初のエルサレム神殿を舞台にした宣教活動が3章に書かれています。この時、ペトロとヨハネが生まれつき足の不自由な男の人をいやしたという奇跡が語られ、12節からはペトロの説教が記されています。この最初の宣教活動は、そののちの初代教会の宣教活動の在り方の基本となるべき象徴的な意味を持っています。それはまた、その後2千年間の世界の教会と今日のわたしたちの教会の宣教活動の基本をも示しています。

 ペトロは6節で、「ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、生まれつき歩いたことがなかったその人がすぐに躍り上がって立ち上がり、歩き出し、神を賛美しながら神殿に入っていったと書かれています。これが教会の最初の宣教活動であり、またその成果、実り、収穫です。教会は神のみ言葉の権威をもって、罪の中で倒れ、死んでいる人に、まだ本当の救いの道を歩いていない人に対して、「あなたはナザレの人イエス・キリストの名よって立ち上がり、歩きなさい」と命じる務めに仕え、そのみ言葉を聞いてイエス・キリストのみ名によって歩く人を誕生させるために仕え、そのようにして、教会はいつの時代にも宣教活動を続け、教会を前進させてきました。

教会はイエス・キリストのみ名によって歩く信仰者たちの群れとして誕生し、また生きるのです。他の何かによって歩くのではありません。教会は他の何かによっては決して立つことも、歩くこともできないということを知っている人々の群れです。教会は2千年の間、そして今もなお、ナザレの人イエス・キリストのみ名によって立ち、歩く以外にありません。わたしの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストのみ名を信じて、ここにこそわたしの生きる土台があり、わたしが進むべき道があり、そしてわたしの最終の目的地があると告白する人たちの群れ、それが教会です。そしてまた、教会はこの世の人たちに向かって、「あなたも主イエス・キリストのみ名を信じて立ち上がり、本当の救いの道を歩きなさい。そこにこそ、あなたの生きる土台があり、あなたの進むべき道がある」と宣べ伝える人たちの群れ、それが教会です。

 では、使徒言行録3章に書かれている最初の奇跡はどのようにして起こったのでしょうか。【1~2節】。ペトロは主イエスの十二弟子のリーダーでしたが、エルサレム教会の最初の指導者でもありました。ヨハネは十二弟子の一人ゼベダイの子ヤコブの兄弟ヨハネと考えられています。二人一緒に行動しているのは、福音書に書かれているように、主イエスが弟子たちを二人一組で宣教に派遣されたことを受け継いでいるのかもしれません(マルコ福音書6章7節参照)。

 エルサレム神殿では当時、日に三度、朝9時と正午と午後3時に祈りがささげられていました。午後3時には動物の犠牲がささげられていたので、多くのユダヤ人が神殿に集まってきました。その時刻に合わせて、一人の生まれつき足の不自由な人が運ばれてきて、美しい門のそばに置かれていました。この人は自分では一歩も歩けません。でも幸いなことに、彼には助けてくれる家族か友人がいました。彼は毎日彼らに運ばれてきて美しい門のそばに置かれ、神殿に集まってくる人々から施しを乞い、それによって命をつないでいたのでした。信仰深いユダヤ人は貧しい人や社会的弱者を見捨てることはしませんでした。ユダヤ教では施しは祈りとともに最も敬虔で信仰深い行為とされていました。この人は信仰深いユダヤ人の憐みにすがって生きていくしかありませんでしたし、またそれを期待することもできたのです。

 けれども、毎日そのことを繰り返しても、それは本当の意味での彼の救いにはなりませんでした。彼が、救い主であられる主イエス・キリストに出会うまでは。ここに、古いユダヤ教の信仰の限界が示されているように思われます。キリスト教会の最初の宣教におけるこの奇跡の出来事が、エルサレム神殿を舞台にしているということの象徴的な意味を、わたしたちはここで考えることができるように思います。エルサレム神殿を中心にしたユダヤ教の宗教の時代が今や終わって、主イエス・キリストのみ名を信じる信仰によって生きる新しい教会の歩みがここから始まったのです。主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしを信じる教会の信仰がここから始まったのです。

 エルサレム教会はまだ定まった礼拝場所や教会堂を持っていませんでした。神殿や信者の家々が集会の場所でした。ペトロとヨハネも当時のユダヤ人の習慣にならって、神殿で祈りをささげていたと思われます。ここには古い宗教とキリスト教との連続性が示されているようにも思われます。ペトロが語った主キリストの福音はユダヤ教の教えとははっきりと違っていましたが、それはまた同時に、ユダヤ教とは全く別の所からやってきた教えであるのではありません。神がイスラエルの民ユダヤ人を選んでお始めになられた神の救いのご計画が、今主イエス・キリストによって成就し、完成を見たのです。わたしたちはここから、旧約聖書と新約聖書の連続性をも読み取ることができます。

 次に、【3~6節】。3節から5節に「見る」という言葉が計4回用いられています。これらは原文のギリシャ語ではみな違う言葉です。少しずつ意味も違っていると考えられています。それぞれの意味の違いを見ていきましょう。3節の「見る」は、生まれつき足の不自由な人が、通りかかったペトロとヨハネを見て、施しを乞うという場面です。この「見る」は、足の不自由な人がいつもと同じように目の前を通り過ぎていく人たちを見ていることであり、ここではまだ人間と人間との出会いは起こっていません。ある人はそのまま通り過ぎていくし、ある人は立ち止まって何がしかの施しをする。そして彼は感謝する。けれども、そこではまだ真実の出会いは起こっていません。

 次に、4節で、ペトロとヨハネが彼を「じっと見る」ですが、この言葉は注視する、凝視するという意味を持ち、相手の人間を強く捕らえる目であり、その人の全人格を受け入れ、その人との交わりを持とうとする目のことです。その人の魂を捕え、魂の渇きを受け入れる目です。この目は、福音書の中でしばしば描かれている主イエスが人を捕え、ご自身へとお招きになる目にも似ています。主イエスはガリラヤ湖のほとりで網を繕っていたペトロをご覧になり、「あなたを人間を取る漁師にしよう」と言われると、ペトロはすべてを捨てて主イエスに従って行ったと書かれています。主イエスはまた収税所に座っていたレビをご覧になり、「わたしに従ってきなさい」とお招きになると、彼はすぐにすべてを捨てて主イエスに従ったと書かれています。木の上に登っていたザアカイをご覧になり、「急いでおりてきなさい。今夜あなたの家に泊まることにしているから」と言われました。主イエスの目に捕らえられた彼らは、主イエスとの真実の出会いを経験し、そして救いと奉仕への道を歩み出しました。

 ペトロとヨハネは、足の不自由な人の前を通り過ぎませんでした。二人は彼をじっと見て、彼のすべてを受け入れて、「わたしたちを見なさい」と言いました。この「見る」は目を開いてみる、注意して見るという意味です。「わたしたちを見なさい」とは、いつもと同じように、あなたの前を通り過ぎていく人たちとは違って、あなたの前で足を止め、あなたに新しい救いの恵みをもたらすであろう主イエスの福音を携えているわたしたちを見なさいという意味が込められています。

 ここで、互いに立ち止まって相手を見る、相手の姿だけではなく、互いの人格と存在全体を見る、ここから人間と人間との出会いが始まります。奇跡はここから始まります。キリスト教の宣教活動はここから始まるのです。主イエスの福音を持ち運んでいる人と、その福音を必要としている人の出会いがこのようにした始まるのです。

 5節の「見つめる」は何かを期待している目です。もっともこの人は、この時にはいつもと同じように何がしかの施しを期待していたのでしたが、その期待を裏切るかのようにして、6節でペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じました。ここでは、人間と人間との出会いから、神のみ言葉との出会い、主イエスの福音との出会いが起こっています。いや、それだけではありません。罪と死とに勝利された復活の主イエス・キリストと彼との出会いが起こったのです。ここで、神の奇跡が起こりました。主イエス・キリストの福音による救いの出来事が起こりました。

 【7~10節】。生まれつき足の不自由だったこの人が、一度も自分の足で歩いたことがなかったこの人が、主イエス・キリストのみ名によって立ち上がり、歩き出しました。この奇跡は、主イエス・キリストのみ名の力によるのであり、主イエス・キリストの福音そのものが持っている救いの恵み、救いの力によるものです。ペトロはこのあとの説教でそのことを説明しています。【12~16節】。主イエス・キリストによる新しい救いの時が始まりました。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じる信仰によって、すべての罪から救われ、いやされ、新しい救いの道を歩みだす歩みが、エルサレム教会から始まり、全世界の教会へと拡大されていくのです。

 不自由だった足がいやされ、立ち上がり、歩き出したこの人はどうしたでしょうか。立ち上がった足で、急いで家族や友人の所へ帰ったのではありませんでした。これまではできなかった散歩や山登りを楽しんだのでもありません、彼はまず最初にすべてのことに先立って、立ち上がった足で踊りながら神を賛美し、また神を礼拝するために神殿に入っていきました。これこそが、彼の足がいやされ、彼が救われた第一の目的だったからです。彼に今丈夫な足が与えられた第一の目的だったからです。そして、そのようにして彼は全身をもって神を賛美し、神を礼拝するために生きること、いやされた彼の足と救われた彼の全身を用いて神と主キリストのために生きること、それが「ナザレの人主イエス・キリストのみ名によって歩く」ことなのです。

(執り成しの祈り)

〇主イエス・キリストの父なる神よ、わたしたちの足と歩みとを強めてください。主キリストの福音を持ち運ぶ足としてください。その福音を道に迷う人たちに宣べ伝える歩みとしてください。わたしたちの教会の宣教活動を強め、導いてください。

〇主なる神よ、この世界とその中に立てられている主キリストの教会を顧みてください。希望を失い、不安と混乱の中にある人々に、教会が真実の光を掲げ、まことの救いの道を示していくことができますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月7日説教「安息日の救い主イエス」

2021年3月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記5章12~15節

    ルカによる福音書6章6~11節

説教題:「安息日の救い主イエス」

 ルカによる福音書6章1節から、安息日についての主イエスとファリサイ派の人たちとの二つの論争が続けて書かれています。1~5節の最初の論争は、ファリサイ派からしかけました。彼らは、主イエスの弟子たちが麦畑を通った時、麦の穂を摘み、手でもんで食べたことが、安息日に禁止されている収穫作業、食事の準備作業に当たると言って弟子たちを非難しました。それに対して主イエスは、旧約聖書に書かれているダビデの行動を取り上げて、ダビデよりも偉大な神のみ子・メシア・キリストが安息日の主として、安息日律法のすべてを完全に成就するために今ここに立っていると宣言されました。

 きょうの礼拝で朗読された6節以下の第二の論争は、どちらと言えば主イエスの方から仕掛けているように見えます。主イエスは律法学者やファリサイ派の偽善的な信仰や安息日律法の間違った理解を明らかにするために、あえて彼らが見ている前で、右手がなえている人をおいやしになられました。そしてまたここでも、安息日律法の本来の意味を明らかにされ、主イエスこそがその安息日律法を完全に成就するメシア・キリスト・救い主であることを宣言されたのです。

 【6~8節】。安息日とは、イスラエルの民ユダヤ人にとっては土曜日に当たります。彼らはモーセの十戒の第三戒で命じられている「安息日を覚えて、これを聖とせよ。この日には何の仕事もしてはならない」と言う安息日律法を、自分たちが神に選ばれた神の契約の民であることの最も大切な律法として守り続けていました。神が安息日律法をお命じになった理由の一つが、出エジプト記20章11節によれば、「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主が安息日を祝福して聖別された」からでした。そるゆえに、神の民であるイスラエルの人々もまたこの日には仕事を休み、神の天地創造のみわざを覚え、感謝し、その祝福にあずかるために、神を礼拝して過ごすのです。

 申命記5章15節にはもう一つの理由が書かれています。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである」と説明されています。神の民イスラエルは自分たちの救いが主なる神にのみあることを信じて、この神のみ言葉に聞き従い、この神のみ心を行って生きるために、安息日を重んじました。安息日には自分たちの手の働きを全くやめて、神ご自身がお働きくださるために、神が救いのみ業をなしてくださるために、この日にはエルサレムの神殿で、また各地にある会堂で、神を礼拝しました。イスラエルはこの安息日律法を忠実に守ることによって、ダビデ王国が滅び、異教の国々の支配下にあってもなおも、神の民として生き続けることができたのです。

 主イエスと弟子たちも安息日にはガリラヤ地方の会堂で神を礼拝しました。けれども、主イエスはイスラエルの民の一人として安息日律法を守っておられたのではありませんでした。安息日の主として、安息日律法を完全に成就されるメシア・キリスト・救い主として会堂に入って行かれ、そこで神の国の福音を語っておられました。

 他方、当時の宗教の指導者であった律法学者やファリサイ派は信仰をもって真実の神礼拝をするために会堂に来ていたのではありませんでした。彼らは主イエスを安息日律法の違反者として訴えるために、主イエスの行動を監視するために礼拝堂にいたにすぎません。彼らの礼拝姿勢は決して正しいとは言えません。彼らは礼拝者の中に病んでいる人がいることを知っていても、その人のために神の憐れみといやしを祈り求めることはしません。また、自分たちがその人のために何ができるかを考えることもしません。むしろ、その人を自分たちの悪意のために利用しようとしていたのです。彼らには真剣な悔い改めの思いは全くありません。また、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝するという安息日の中心的な意味からもほど遠かったと言うべきでしょう。したがって、彼らは安息日律法を正しく守っていなかったということが明らかです。そのような律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを安息日律法の違反者として裁くことなどできるでしょうか。本当に裁かれなければならないのは、彼らの方ではないでしょうか。彼らの偽善的な信仰がここでもあばかれます。

 律法学者やファリサイ派は、律法を重んじ、安息日を厳格に守っていると自ら誇っていました。彼らは聖書に書かれているみ言葉にさらに自分たちの解釈を付け加えて、安息日の掟をいくつにも細分化し、重くして、それを人々に重荷として課していました。たとえば、安息日には850メートル以上歩けば、それは禁じられている旅行になるとか、命の危険がある緊急の場合は手当てをしてもよいが、そうでない限りは禁じられている治療行為に当たるとか、ハンカチを持って歩くのは荷物を持ち運ぶ労働になるけれど、それを腕に巻き付ければ服装の一部となるから安息日律法の違反にはならないとか、そのような類(たぐい)の議論を果てしなく続けていたのでした。そのような細かな決まりを守ることが信仰だと教えていたのです。

 けれども、それは安息日律法を守るという本来の意図からは離れた偽善的な信仰でしかないことを主イエスは見抜いておられました。そこで主イエスは、彼らに挑戦するかのように、手のなえた人に「立って、真ん中に立ちなさい」と言われました。主イエスは手がなえた人を礼拝堂の中心に立たせます。彼らこそが礼拝の中で最も重んじられ、最も大きな神の恵みを受けるべきであるということを明らかにされたのです。病んでいる人、傷ついている人、罪の中で苦しんでいる人こそが、礼拝の中心に置かれ、神の救いの恵みと憐れみを最も多く受け取ることが許されている、そのような礼拝こそが安息日の礼拝なのです。主なる神はこの安息日に、そのような人たちのためにこそ、ご自身の創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるのです。神のみ子であられ、安息日の主であられる主イエスは、安息日にそのような父なる神のみ心を行われます。

 手がなえた人を礼拝の会衆の真ん中に立たせたということは、会衆みんなに見られるためでもありました。みんなが見ている前で、主イエスは手がなえている人をいやされました。その行為は、律法学者やファリサイ派の考えによれば、命にかかわる緊急な症状ではないので、安息日には禁じられている治療の行為でした。それによって、主イエスが彼らの厳しい批判を受け、もしかしたら安息日律法を意図的に破った罪を問われ、死刑にされるかもしれないという危険をはらんでいました。実際に、11節には、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」と書かれています。ここにすでに、主イエスのご受難と十字架の死が暗い影を落としているのをわたしたちは見るのです。主イエスはご自身の命をかけて、安息日の本当の意味を明らかにするために、そしてご自身が安息日の主として、安息日の救い主としてのお働きをするために、あえて律法学者やファリサイ派の目の前で、多くの証人たちが見ている前で、手がなえている人をいやされるのです。主イエスの十字架への道は続きます。

【9~10節】。主イエスは安息日のこの日に、あえてその人をおいやしにならなくてもよかったのかもしれません。しかも、律法学者やファリサイ派の人たちが主イエスを律法違反で訴える口実を見つけようとねらっている彼らの目の前で、ご自身の命を危険にさらしてまでも、その人をおいやしになる必要はなかったと多くの人は思うでしょう。けれども、主イエスは「安息日の律法が許しているのは善を行うことか、それとも悪を行うことか、命を救うことか、それとも滅ぼすことか」と問われます。安息日の律法をお与えになった神は天地万物を無から創造され、それに存在と命とをお与えくださり、すべての創造されたものを祝福してくださる恵みの神です。また、わたしたちを罪の奴隷から解放され、死と滅びから救い出される救いの神です。それゆえに、安息日律法が求めているのは、善を行うことであり、命を救うことです。もし、安息日に善を行わないならば、それは悪を行うことであり、もし命を救うことをしないならば、それは滅ぼすことです。主イエスにとっては、安息日には善を行うことと命を救うことを選び取る以外にはありません。

主イエスが安息日に病んでいる人をいやされたという記録はこのあとにもあります。。13章10節以下には、腰が曲がったまま18年間も苦しんでいた婦人を安息日にいやされたことが書かれています。14章1節以下では、水腫を患っていた人をいやされました。安息日の主、安息日の救い主であられる主イエスにとっては、病んでいる人がいるのを見て、彼を憐れみ、いやすことは善であり、何もしないことは悪です。その病んでいる人を憐れみ、いやすことは彼の命を救うことであり、何もしないことは彼を滅ぼすことです。主イエスは、この安息日にこそ善い業を行われ、救いのみわざを行われます。主イエスは安息日の礼拝においてこそ、最も力強く働かれ、善いみわざを、救いのみわざを行われ、それによって神がお始めになられた創造のみわざと救いのみわざを完成され、安息日の本当の意味を成就されたのです。

主イエスはきょうのわたしたちの礼拝の主として、わたしたちと共にいてくださいます。さまざまな欠けや破れを持っている罪多いわたしたちのために、救いのみわざをなしてくださいます。わたしたちを罪と死と滅びから救い出し、新しい命を注ぎ込んでくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたがみ言葉によって創造されたこの世界を祝福し、すべての造られたものに平安をお与えください。あなたのみ心に背いて、滅びに向かうことがありませんように。すべての造られたものがあなたのみ旨を行い、あなたのご栄光を現わすものとなりますように。

〇天の父なる神よ、あなたが全地にお建てくださった主キリストの教会を顧みてください。今、日本とアジア、そして世界の教会は大きな試練の中にあります。全世界の人々と共に教会はその痛みと重荷と切なる祈りとを担っています。どうぞ、教会の民を強めてください。わたしたちの執り成しの祈りを強めてください。

〇主よ、教会を憐れんでください。世界の民を憐れんでください。病んでいる人たち、道に迷っている人たち、希望を失っている人たち、孤独な人たちを憐れんでください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。