10月25日説教「聖霊によって神の偉大な業を語る」

2020年10月25日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「聖霊によって神の偉大な業を語る」

 ペンテコステの日に、聖霊を注がれた弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだしたと、使徒言行録2章4節に書かれています。そして、5節以下には、その時の出来事が具体的に描かれています。弟子たちは多くの国、民族、地域で語られているさまざまな言語で神の偉大なみわざについて語りだしたというこの出来事は、一般に「多国語奇跡」と言われています。この多国語奇跡がどのようにして行われたのか、またそれはどのようなことを意味するのかについて、学んでいきたいと思います。

 【5~8節】。この当時、1世紀前半のイスラエルの首都エルサレムの状況についてまず確認しておきましょう。イスラエルは紀元前6世紀にバビロン帝国によってダビデ王国が滅ぼされて以降は外国の支配下に置かれていました。この当時はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は皇帝に対する絶対服従を強制しながら、比較的自由な自治権を許し、宗教活動も帝国の主権と法の範囲内での自由を認めていました。福音書の最後の個所に描かれている主イエスの裁判と十字架刑の場面では、イスラエルの宗教活動とローマ帝国の法規制の衝突を見ることができます。

 また、この時代のイスラエルのもう一つの特徴として、多くのユダヤ人はまだ熱心な信仰を持ち続けており、自分たちが神に選ばれた民であり、神がかつて預言者たちによって約束されたメシア・キリスト・救い主の到来を固く信じていました。一部には、今この時こそがメシア到来の時だと、ローマ帝国からの解放を叫ぶグループもあり、メシアの到来を待ち望むユダヤ人が多くいました。

 5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあるのは、そのような状況を背景にしています。北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされた紀元前8世に後半ころから、ユダヤ人は諸外国に散らされていきました。この人たちはいわゆるディアスポラ・離散のユダヤ人と呼ばれていましたが、この時代になって、メシア待望の機運が高まって来たエルサレムに、それぞれの離散の地から戻って来た人たちでした。と言うのも、メシアはエルサレムに来臨されるという旧約聖書の預言があったからです(ゼカリヤ所4章4節参照)。ルカ福音書2章に書かれているシメオンや女預言者アンナのようにイスラエルの救いが完成される日が近いことを信じて、彼らはエルサレムに移り住んで、この都でメシア到来を待ち望んでいたのです。その人たちが、かつて自分たちが生まれ育った国の言葉で今弟子たちが話しているのを聞き、大きな驚きを覚えました。彼らの驚きの大きさが強調されています。6節には「あっけに取られて」、7節には「驚き怪しんで」、さらに12節でも「皆驚き、とまどい」とあります。それは、人間の理解のはるかに及ばない、聖霊なる神のみわざ、まさに奇跡としか言えない不思議な出来事でした。

 ある人は、現実的にこのようなことが起こるはずがなく、これは創作だと言います。12人の弟子たちが、しかもガリラヤ地方出身の彼らが、世界各地の言語をどのようにして話すことができたのか、また多くの民衆がそれをどのようにして聞き分けることができたのか、それは不可能なことだと考えます。しかし、それは人間の理解できる範囲を超えているということであって、だからそれが非現実であると直ちに結論づけることはできません。聖霊なる神は人間の理性や常識や能力をはるかに超えて、驚くべきみわざをなさるのですから。

 少し順を追って考えてみましょう。この日に、エルサレムのある家に、その家に弟子たちが集まっていたのですが、天から激しい風が吹いて来て、大きな音が町中に響き、また炎のような舌が天から弟子たちの上に現れ、町全体を明るく照らしたので、その音と光に気づいた多くの市民が外に出て、神殿の大庭に集まって来た。その人たちに向かって弟子たちが、さまざまな国の言語で語りだした。多くの人たちにとっては、その声は聞き取れず、何を話しているのかも理解できなかったけれど、ディアスポラのユダヤ人にとっては、かつて自分たちが国で話していた言語であることがはっきりとわかり、そのようにして多くのディアスポラのユダヤ人たちがそれぞれの国の言葉を聞き、その内容が神の偉大な救いのみわざであることが理解できた。それは全くあり得ない出来事ではありません。

 そこに、聖霊なる神が働いておられたということが何よりも重要です。弟子たちが外国の言葉をどこかで学んだのではありませんし、彼らの能力によるのでもありません。多くの人々の騒々しい騒ぎの中で、自分の国の言葉を聞き分けることができたディアスポラのユダヤ人にも聖霊なる神のお導きがなければそれは不可能なことです。多くの人々の、驚き、当惑、混乱の中で、聖霊なる神が確かな救いのみわざをなさっておられるということを、使徒言行録は記録しているのです。

 7節に人々の驚きの声が記されています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」。この言葉には、ガリラヤ地方の出身者に対する軽蔑が含まれているように思われます。ガリラヤは「異邦人の地」と呼ばれ、「ガリラヤからは預言者が出るはずはない」(ヨハネ福音書7章52節参照)とも言われていました。しかし、福音書の記述によれば、主イエスはそのガリラヤに最初に神の国の福音を宣べ伝えられたのです。また今、そのガリラヤ出身の弟子たちに聖霊が注がれ、世界各国の言葉で主キリストの福音を語っているのです。彼らが世界の諸教会の礎として選ばれ、聖霊なる神に仕える福音の説教者とされているのです。

 9~11節には、ディアスポラのユダヤ人たちが散らされていた国や地域が挙げられています。ここには7つの民族名と9つの地方・地域の名が挙げられています。これらは当時のローマ帝国のほとんど全地域にまたがっています。彼らはそれぞれの国・地域でそれぞれの言語を話していました。ギリシャ語があり、アラム語、ラテン語、アラビア語、エジプト語など、それらの言語で今弟子たちが一つの神の大なる救いのみわざについて語っているのです。ディアスポラのユダヤ人たちが今エルサレムでその神のみ言葉を聞いているのです。これが、ペンテコステの日に起こった「多国語奇跡」と言われる出来事です。

 この奇跡を体験したディアスポラのユダヤ人たちは、ペンテコステの日にエルサレムで起こったこの不思議な出来事の証人となり、また実際に、このあとペトロの説教を聞き、それを信じて洗礼を受け、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会のメンバーとなり、そののち全世界に広がっていく教会の礎となりました。聖霊に満たされて神のみ言葉を語った弟子たちと、それを聞いて聖霊なる神のみわざの証人となった彼らと、共に聖霊なる神の救いのみわざに仕えたのです。

 11節の「神の偉大な業」とは、具体的には1章22節の「主イエスの洗礼のときから始まって、天に昇られた日まで」の主イエス・キリストの救いのみわざのことであり、その展開としての14節以下で語られているペトロの説教のことを指しています。聖霊によって弟子たちが語るべき言葉はこれ以外にはありませんし、聖霊によってエルサレムの住民が聞くべき言葉もこれ以外にはありません。主イエスはヨハネ福音書15章26節で弟子たちにこのように約束されました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方はわたしについて証しをなさるはずである」。聖霊は主イエス・キリストを証し、主イエス・キリストを信じる信仰をわたしたちに与えます。

 このペンテコステの日に弟子たちが体験した「多国語奇跡」を旧約聖書時代からの神の救いの歴史全体の中で捕らえるならば、これは創世記11章に書かれている「バベルの塔」の出来事と深い関連があることに気づかされます。創世記11章には、人々が一つの言葉で協力し合い、文化や技術を向上させることによって、天にまで届く高い塔を建て、自ら神よりも偉大な者になろうと企てたのに対して、神はその人間の罪をお裁きになるために天から下って来られ、彼らの言葉を乱し、彼らを全地に散らされたと書かれています。人間たちが罪によって結束することがないように、神は言葉を乱されました。

 ところが今、神は散らされていたディアスポラのユダヤ人をエルサレムにお集めになり、彼らのそれぞれの国の言語によって神の一つの救いのみわざを語った弟子たちの宣教によって、彼らを新しい一つの神の民として結集してくださったのです。主イエス・キリストの福音を共に聞き、信じる教会の群れを形成してくださったのです。このペンテコステの日に注がれた聖霊によって、一つの神の救いのみわざのもとに、一つの福音を宣教する言葉によって、全世界の国民が一つに結集されるということが、この「多国語奇跡」によって暗示されているのです。

 聖霊なる神は人間の間にあるあらゆる違いや壁を打ち破り、国や民族、言語、思想や、また一人一人の性格などの違いから生じるすべての溝や壁を打ち破り、全世界のすべての国民が主イエス・キリストの福音を語り、聞くことによって、彼らを一つの神の民、教会の民としてくださるのです。聖霊なる神は今もなおわたしたちの教会を通して働いておられ、わたしたちを主イエス・キリストを救い主と信じ、告白する信仰を与えてくださいます。その信仰によって、わたしたちを神と主キリストに固く結びつけ、わたしたち一人一人をも一つの神の民、礼拝する民として固く結び合わせてくださいます。

 【12~13節】。聖霊を注がれた弟子たちの多国語奇跡を見たエルサレムの人たちの二つの反応がここに書かれています。12節では、今何か不思議な驚くべき新しいことが起こり始めていると感じ、ペンテコステの日に起こったこの新しい出来事に対して心を開き始めている人たちのことが、13節では、いまだ人間的な限界の中で理性や常識に縛られているために、神の新しいみわざを見ることができず、あざけっている人たちのことが描かれています。

 「いったい、、これはどういうことなのか」。この驚きの言葉は、新しい聖霊の時が始まったことに対する期待が、今はまだそれがどのような時代になるのかは不確実ではあるが、確かに何か新しい時代が始まったという予感と期待が含まれているように思われます。このペンテコステの日から、聖霊の時が、教会の時が確かに始まったのだと、使徒言行録は語っているのです。わたしたちはその聖霊の時、教会の時に生きています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの教会にも、そしてわたしたち一人ひとりにも、聖霊を注ぎ、主イエス・キリストの証し人としてお用いください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月18日説教「主イエスのもてなし」

2020年10月18日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編33編1~7節

ヨハネによる福音書21章1~14節 

説教題:「主イエスのもてなし」

説教者:長老 小泉典彦

先ほど読んでいただいた、ヨハネによる福音書21章1節~14節は、復活の主イエスが弟子たちに姿を現された三度目の記録です。このことを確認するため、聖書を2カ所読みたいと思います。ヨハネによる福音書21章1節「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身をあらわされた」、同じく21章14節「イエスが、死者の中から復活したのち、弟子たち現れたのは、これでもう三度目である」という書き出しと結びによって明記されています。

 ヨハネによる福音書21章は、復活のイエスが弟子たちにその姿を現わされた三度目です。「三度目である」とありますので、一度目・二度目を振り返りたいと思います。一度目は、復活された日の夕方です。ヨハネによる福音書20章19節・20節(新約p210)ユダヤ人を恐れて鍵をかけて家の中にこもっていた弟子たちの間にすっと現れました。20章20節の後半「弟子たちは主を見て喜んだ」とありますが、残念ながら弟子の一人のトマスがいませんでした。トマスは、「自分の目で十字架の傷跡を見て、触ってみなければ決して信じない」と言い張りました。そして、二度目はその翌週、イエスはトマスのために現れてくださいました。20章27節のイエスの言葉を注意深く読みますと、一週間前のトマスの言葉を、イエスはちゃんと聞いておられたことが分かります。27節・それからトマスに言われた「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。」トマスは、自分の疑い深さをくいたことでしょう。弟子たちは20章29節「見ないのに信じる人は、幸いである」との偉大な真理のみ言葉を聞くことになります。私たち信仰者にとって、主イエスについて情報や知識として知ること、体験として知ること、いずれも大切ですが、「見ないのに信じる」大切さは強調してもしすぎることはありません。

 主イエスの復活に出会った後も、弟子たちの信仰の歩みは、いつも高められ、満たされていたわけではありませんでした。高められた時があり、またダウンして意気消沈した時もあり、それらが交錯してくり返されていったと考えられます。復活の信仰が本当に弟子たちの現実となるためには、相当の時間を要したのです。いやむしろ、神の国の実現の時に至るまで、地上を生きる弟子たちの歩みは、常に一進一退を繰り返しながら、目当てをさして進んでいくのが現実ではないかと思うのです。イエスが繰りかえして弟子たちに現れて、彼らを力ずけ、励ましているのもそのためではないでしょうか。迷い、疑い、時には後戻りしながら、しかしそれらを乗り越えていくのが信仰の歩みであります。

 私たちは物事に失敗し、耐えがたい悲しみに陥ると、たいてい自分の故郷に帰ることがあります。そこは、傷ついた者を温かく迎えてくれるところだからです。主イエスの数人の弟子たちも、自分たちの主が、十字架につけられて死なれたのち、復活されて二度までも彼らの前に現れてくださったにもかかわらず、不安や恐れに負けてしまって、いろいろな出来事があったエルサレムから離れて、静かな生まれが故郷ガリラヤへと戻ってきました。このような失意の弟子たちに主がなさったのは、一度体験したことをもう一度体験させること、すなわち追体験を通して記憶をよみがえらせることでした。そうです、3年半前やはりガリラヤ湖畔(ティベリアス湖畔)での体験です。~ ルカ5章4節以下(新約p.109の下の段中ほど)を読む。この箇所は、先週・駒井牧師が「人間をとる漁師になる」という説教で取り上げたところです。 ~

 3節「わたしは、漁に行く」というぺトロ。漁にでるペトロ。一度は捨てたはずの網をもう一度取り上げるペトロ。「昔とった杵ずか」ということわざもあります。何といっても直接にたよりになるのは、長年経験し、鍛えてきた、それによって生計を立ててきた、人間の熟練と経験の力でしょう。過去はなかなか捨てきれないのが、ペトロだけでなく、私たちの偽らない生の現実であります。

 3節後半「しかしその夜は何もとれなかった」、ペトロはここでも空しい失敗を繰り返します。しかし、このことは、大切なことを私たちに聖書は告げています。主の復活に出会って、キリストに従う者としての歩みを始めた後にも、やはり失敗と挫折はあるのだということです。ヨハネ15章5節・有名な「イエスはまことのぶどうの木」の箇所から、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ペトロは、イエスから聞いて学びとった、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」というみ言葉の深い意味を味わい、思い返したのではないでしょうか。失敗を通しての想起ということです。

 福音書は、イエス・キリストに対する弟子たちのつまずきと失敗の記録でもありますが、しかし単なる失敗談、暴露する記事ではありません。それらを通してもう一度、主とそのみ言葉に帰って行った人たちの記録として、大きな意味と価値を持つ書物です。

今日の箇所21章4節~6節「すでに夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか。」と言われると、彼らは「ありません」と答えた。イエスは言われた、「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」そこで網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。」

一人ガリラヤの湖畔に静かに立たれたイエス。しかし弟子たちには、それがイエスであるとは分かりません。「食べる物がありますか」と話しかけられれば、「ありません」と素直に答えることしかない弟子たち。それは、うつろで、疲労した人間の絶望の、率直でうそのない告白です。「ありません」・すなわち「ない」ものは「ない」とはっきり言うところに人間の真実があります。とかく私たちは、ないものをあるかのように見せかけて、外面をとりつくろうことはないでしょうか。しかし、ないものはないとはっきり言うことが大切です。

 使徒言行録3章では、エルサレム神殿の「美しの門」の前で、生まれながらの足の不自由な人に対して、ペトロは次のようにはっきりと言いました、使徒3:6(p217):ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。」と率直に語りました。無いものは無い、知らないものは知らないと言うべきです。復活の主の前で、弟子たちは、何をも持たず、何も出来ない人間であったということが、ここでもう一度はっきりとえがきだされます。そのことをはっきりと認めるところに、弟子たちの真実があるのではないでしょうか。すると主イエスは弟子たちに言われました。21章6節「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」「そうすれば。とれます」この明確な言葉。自分の願望も将来の方向性も見失っている弟子たちに、はっきりと結果をお示しになるイエス。この断定はいつもの主イエスの語り口でした。「お言葉どおり、そうしてみましょう」これが弟子たちの常でした。主が語られたとおりにするならば、必ずそうなる。これが神の言葉でした。「そうすればとれるはずだ」「こうすれば、こうなります」との主イエスの言葉は、私たちの今の混沌とした社会情勢の中で、いかに力強いことでしょうか。主イエスのみ言葉は、弟子たち・私たちが、新しい一歩を踏み出すようにかえてくださいます。

 ヨハネ15章5節「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」キリストから離れた弟子たちは無力です。しかしキリストにあって、その御言葉に従ってなすときに、私たちの思いを超えて、できない者ができる者とされるのです。

 さて、復活の主イエスが三度目にその姿を弟子たちの前に現された時、ただ単に、弟子たちの記憶をよみがえらせたばかりでなく、食事の用意をされたというのは注目すべきことです。大漁の魚を引き揚げたあとで、弟子たちは体も大分濡れていたでしょう。ペトロに至っては、水に飛び込むのに普通はきているものを脱ぐのに、「主だ」との弟子ヨハネの声に、上着をまとって飛び込んだというのですから、特別な思いでこの瞬間を迎えたことでしょう。早朝の湖畔ですから、からだが濡れれば寒くもなります。9節「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」主イエスは、陸地で炭をおこし、魚とパンを用意してくださっていました。からだが暖まれば、心も温まるものです。弟子たちはだれ言うとなく火の周りに集まってきました。

 しかし、ある場面に胸が痛むこともあります。9節の「炭火がおこしてあった」という言葉で、イエスが連れて行かれた大祭司の中庭で、ペトロが役人たちと一緒になって暖をとった「炭火」を思い出します。あの中庭には、この福音書の著者であるヨハネもいましたので、この炭火にあの場面を思い出したかもしれません。ペトロにとっては痛みを思い出す「炭火」でした。イエスの言葉に感動した時には「あなたのためには命も捨てます」と豪語したけれど、苦境に立たされ、「あなたもあの男の弟子だ」と言われれば、三度も「知らない」と答えてしまう。否みながらも、炭火に手をかざして暖まっていた自分。心の冷たさと手のぬくもり。 もしも、私たち人間が悔いるとしたらこうした傷ではないでしょうか。自分だけが、難を逃れた、そのかたわらに、愛する者が苦しんでいた。知りながら自分は何もできなかった。どんなに社会的に認められても、この傷だけは癒されない。その傷が癒えないかぎり、ちょっとしたことで心は乱れる。それが人間ではないでしょうか。

 そうした中で、主イエスは弟子たちを朝食に招かれます。かつてガリラヤ湖畔で、5千人を養われたあの場面と同じように、パンをとり、魚をとって彼らにお渡しになりました。あのときのイエスのしぐさが、思い起こされたのではないでしょうか。

 こうして三度目にご自身を現されたイエスは、この記事を読むかぎりごく普通の人として描かれています。ルカによる福音書の記事もそうですが、弟子たちは復活の主イエスが共に歩まれても、初めはそれがイエスであるとは分からなかったとあります。福音書の著者は、外見ではなく、もっと肌で触れるような主イエスとの交わりを伝えたいのです。そこに生身の主イエスがいてくださる。12節後半、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。」とあります。主イエスのごく自然な振る舞いに、弟子たちは主との交わりを楽しんだのです。ペトロは、使徒言行録のなかで、「わたしたちは、主イエスが死者の中から復活したあと、一緒に食事をしました」と語っています。

 私たちは、主の招きがまずなければ、主を知ることはできませんし、主に従うこともできません。信仰とは、まず私たちが努力して、主を喜ばせ、主のために食卓を用意することではありません。それに先だって主イエスが私たちのためにパンと魚を用意して招いてくださる。もてなしてくださる。その招き・もてなしに応じることからはじまります。

 食卓 それは主イエスが私たちのために備えてくださった、生きるために必要な糧が与えられる場です。

聖書が、私たちに語っているイエスは、仲間はずれにされている人、独りぼっちの人、悲しんでいる人、病人、嫌われている人、問題を抱えている人をほっておかれない方として描かれています。

復活されてからも、疑い深いトマスに対して「トマス、私はあなたをほっておかないよ」と言っておられます。これは大きな恵みです。

 私たちが生きていけるのは、誰かから愛されているからです。主イエスが、私たち一人一人を覚えていてくださるから生かされているのであります。信仰者として私たちは、主イエスのこのまなざしによって生きているのであります。

 説教前に、共に賛美した讃美歌413番「キリストの腕は」の歌詞を読みたいと思います。特に5節「キリストにならい、私たちも 違いを喜び 受け入れ合おう」

 私たちも小さな群れですが、日曜日ごとに教会に集められ主を讃美し、聖書の御言葉に日々養われているこの喜びを、自分たちで味わうにとどまらず、伝える群れ、伝えたい群れへと、主のみ言葉によって変えられるよう願いたいと思います。

 主のもてなしによって、私たちは 心に愛を、豊かに満たされて、この一週間の歩みに遣わされたいと思います。

○執り成しの祈り

 主イエス・キリストの父なる神様。あなたの御名を心よりほめ讃えます。どうか私たちを、キリストにならい、誰をもへだてず、たがいに励まし、たがいに仕える者へと変えてください。

 今日、福島伝道所で礼拝奉仕をされている駒井牧師を祝福してください。どうか秋田への帰りの道のりをお守りください。

10月11日説教「人間をとる漁師になる」

2020年10月11日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教
聖 書:詩編98編1~9節
    ルカによる福音書5章1~11節
説教題:「人間をとる漁師になる」

 ルカ福音書5章1節からは、主イエスの12弟子の一人ペトロが湖で魚をとる漁師から、主イエスの弟子となって人間をとる漁師に変えられることが語られています。キリスト教の専門用語ではこれを「召命」と言います。召命とは、英語ではcalling、名を呼ばれることですが、キリスト教では特に神、または主イエス・キリストから名を呼ばれこと、そして神、または主イエスから特別の使命、務めを託されることを「召命」と言います。広い意味と狭い意味の二つの用法があります。広い意味では、この世に属していた人が主イエスによって呼び出され、主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者となること、主キリストに属する人となって、主キリストの証し人となることです。狭い意味では、キリスト者として召命を受けた人がさらに神の特別な召命を受け、神のみ言葉を説教する務めを与えられ、主キリストの教会に専ら仕える牧師、あるいは聖職者、教職者となることです。わたしたちはだれもみな、この二つの意味での召命を聞いています。そしてまた、召命、つまり神と主キリストからの呼びかけは、一度聞くだけでなく、絶えず、新たに聞き続けることが大切です。絶えず、新たに、神と主キリストからの呼びかけを聞き、その呼びかけに答えて生きること、これがわたしたちキリスト者の生涯です。地上の歩みを終えるまで、それは続きます。
 きょう学ぶペトロの召命のか所では、広い意味での召命と狭い意味での召命と、二つの意味を考えて読む必要があります。わたしたちはこの個所から、きょうこのわたしに呼びかけておられる主イエスのcalling、召命を聞き取りたいと思います。
 ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖の4人の漁師が召命を受けて主イエスの弟子となったという記録は、ルカ福音書とマタイ・マルコ福音書では少し違ったかたちで描かれています。マタイ福音書4章とマルコ福音書1章では、この二か所はほとんど同じですが、初めにペトロとその兄弟アンデレの二人が海に網を打っていた時に、それをご覧になった主イエスが「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて主イエスに従ったと書かれています。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になった主イエスが、彼らをお呼びになると、この二人もまた父や雇人たちを残して主イエスの後についていったと書かれています。
 それに対して、ルカ福音書ではシモン・ペトロを中心に描かれています。主イエスがペトロに語りかけられ、ペトロが主イエスのみ言葉に服従するという形になっていて、ヤコブとヨハネはシモンの漁師仲間であったので、その時に大量の魚がとれたという奇跡を見て驚いて、ペトロと一緒に主イエスに従ったと書かれています。ペトロの兄弟アンデレの名前はここには出ていませんが、6章14節で12弟子の名前が紹介されている箇所では「ペトロとその兄弟アンデレ」とあるので、大漁の奇跡の時にはペトロとアンデレは一緒だったと推測されます。
 では、1節から読んでいきましょう。【1~3節】。主イエスはここでも神のみ言葉を語っておられます。主イエスこそが神の国の福音を宣べ伝える最初の方です。このことをあらかじめ確認しておくことが重要です。主イエスはこのあとでシモン・ペトロを召してご自分の弟子とされ、神の国の福音を宣べ伝えて人間をとる漁師とされるのですが、またわたしたち一人一人をも召して神の国の福音の証人とされるのですが、それに先立って、まず最初に主イエスご自身が父なる神からこの世に遣わされて神の国が到来したことを、神の救いの恵みが主イエスと共にこの世界を支配していることをお語りくださったのです。弟子のペトロやそののちの教会に招かれているわたしたちは、主イエスが始められ、成就された救いのみわざを引き継ぐかたちで、主イエスの救いのみわざに仕えるかたちで、神の国の福音の証人とされるのです。
 2節に「御覧になった」と書かれています。同じ言葉が福音書の中でたびたび用いられています。同じ章の20節では、「イエスはその人たちの信仰を見て」、27節では、「レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」、これも同じ言葉です。このほかにもいくつかあります。主イエスが何かをご覧になる、主イエスの目が何かを見られる、その時、主イエスはその人のすべてを、そのことの本質を見ておられ、その人のすべてを、そのことの本質を知っておられ、そのすべてを受け入れてくださいます。そこに不思議な出来事が、救いの出来事が起こされるのです。
 主イエスはペトロや他の漁師たちの生活のただ中に入って来られ、彼らの生活、彼らの労苦、彼らの汗と涙をご覧になります。主イエスはわたしたち一人一人の生活のただ中にも入って来られ、わたしの生活の現実をもご覧になっておられます。主イエスは安息日のユダヤ人会堂で神のみ言葉を説教され、安息日の主として救いのみわざをなさったということが4章に書かれていましたが、会堂の外でも、わたしたちの生活の場でも、主イエスはわたしたち一人一人を見ておられます。田んぼや畑で収穫に忙しい農家の生活の場にも、通勤途中の会社員や家事にいそしむ主婦や学校で学ぶ学生の生活の場にも、主イエスの目は注がれています。主イエスはわたしたちの生活の現実のすべてをご覧になり、知っておられ、その中に入って来られ、そこで神のみ言葉をお語りになります。
 「二そうの舟を御覧になった」と書かれています。主イエスはガリラヤ湖の漁師たちの生活の現実をご覧になったことを意味します。この二そうの舟は、後で5節のペトロの言葉から分かるように、中は空でした。一晩じゅう網を降したけれど一匹もとれなかったという、彼らの貧しく、厳しい生活の現実を主イエスは見ておられるのです。その現実の中に入って来られるのです。彼らの生活の現実を根本から変えるためです。彼らを魚を取る漁師から人間をとる漁師に変えるためです。舟の中で網を洗う漁師ではなく、主キリストの教会で神の国のために仕える奉仕者、福音のための働き人とするためです。
 もう一つここから読み取れることは、一匹の魚も取れなかった空の舟を主イエスが御覧になる時、それが主イエスのお働きのために、神の国の福音の説教のために用いられるということです。それまでは魚をとるために用いられていた舟が、主イエスをお乗せするために用いられるのです。この世では目覚ましい働きができず、役に立たなかったようなものが、主イエスによって用いられ、神の国の福音を語る舞台となるのです。その時、7節に語られているように、ペトロが主イエスの命令に従って沖に漕ぎ出してもう一度網を降したところ、今度は大量の魚で舟が沈みそうになるほどに変えられるのです。
 【4~5節】。一晩中何度も網を下ろしても一匹も取れず、疲れ果てていたペトロは主イエスの説教を聞いたあとで、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた主イエスの命令に従いました。しかし、それは彼の漁師としての経験や知識に反する行動でした。ガリラヤ湖では夜の気温が低くなったころに魚が表面に集まってきますが、昼には底で休んでいますから、昼間は漁には適しません。一晩中網を降ろしても徒労に終わったのに、またも徒労を重ねよと命じられて、ペトロは「しかし、お言葉ですから」と言ってイエスの命令に従うのです。主イエスのみ言葉を聞いたペトロは、この世の経験や価値基準で行動するのではなく、主のみ言葉に従って行動するようになっています。ペトロはすでにここで変えられています。主イエスのみ言葉の説教と命令によって、彼は困難な現実に立ち向かっていく勇気と希望とを与えられます。主イエスのみ言葉は人間の可能性やこの世の経験や知識、この世の価値基準のすべてを打ち破るのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。わたしたちもまた主イエスにみ言葉によって、新しい一歩を踏み出すことができるようにされます。
 【6~7節】。神はシモン・ペトロの服従に応えて、大きな収穫と祝福をお与えくださいました。ペトロが全く期待していなかった、いやペトロの期待を裏切って、豊かな恵みをお与えくださいました。主イエスのみ言葉に聞き従う時、その働きは一つとして徒労に終わることはありません。漁の条件が改善したから、大漁になったのではありません。ペトロの技術が向上したからでもありません。むしろ、条件が悪くなり、ペトロの肉体も限界を迎えていたでしょう。この大漁は、主のみ言葉に服従したことによって与えられた恵みであり、奇跡です。主イエスのみ言葉が困難な現実を打ち破ったのです。み言葉に従って歩む教会の働きは、何一つとして徒労に終わることはありません。主ご自身が豊かな実りを約束してくださいます。今日の困難な伝道のわざにおいても、主のみ言葉に聞き従いながら、わたしたちは困難な現実に挑戦していく勇気と希望とを与えられます。
 【8~10節a】。ペトロはここで突然に自らの罪の告白をします。他の仲間たちも漁が余りにも多かったことに驚きました。神の恵みは人間の思いも及ばないほどに大きく、だれもが驚くほかにありません。そして、人間はだれも自分がその恵みを受けるに値しない者であることに気づかされるのです。神の圧倒的な恵みを受けて、人間は自らの貧しさや、弱さ、そして罪に気づかされるのです。これが、主イエスの自由な選びによって召命を受けて主イエスの弟子として召された信仰者の正しい応答です。教会はそのようにして、取るに足りないいと小さな者たちが主イエスの召命を受け、神の大きな恵みをいただいて、自ら受けるに値しない者たちであることを告白しつつ生きる群なのです。教会は罪を告白する者たちの共同体であり、それゆえに、主の救いの恵みの大きさに驚きつつ、その恵みによってのみ生きる者たちの共同体です。
 【10節b~11節】。主イエスは罪びとから離れることはなさいません。むしろ、罪びとをみ前にお招きになります。罪びとを人間をとる漁師としてお用いくださいます。神のみ言葉の証人として、説教者としてお用いになります。有能なこの世の成功者をではなく、むしろ生活に疲れ、挫折を経験し、失敗を繰り返すしかないような、欠けの多い人をお用いになります。そのような人たちが、神の国のために人間の失われた魂を勝ち取るという、尊く、重く、光栄ある務めへと召されているのです。

(執り成しの祈り)
〇主なる神よ、あなたから与えられている大きな恵みを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちがあなたからの恵みに応え、あなたのご栄光を現すためにお仕えすることができますように。
〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。
〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月4日説教「バベルの塔」

2020年10月4日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「バベルの塔」

 きょうは創世記11章の「バベルの塔」と言われる個所を学びますが、その前の10章について少し触れておきたいと思います。10章には大洪水以後のノアの3人の息子たちの系図か書かれています。これまでにも創世記の中にいくつかの系図がありました。その所でお話ししましたように、旧約聖書の民イスラエルにとって系図は非常に大きな意味を持っていました。つまり、アダムから始まる全人類は神が創造された一人一人であり、民族、国民であるという信仰、そしてその系図は最終的には、神が全人類を救うために世に遣わされるメシア・キリスト・救い主へと至る系図であるということ、イスラエルの民はこの信仰を抱き続け、神に選ばれた民の系図を大切に保存してきたのです。

 10章の系図にも同じ意味があります。10章1節と32節を読んでみましょう。【1節、32節】。アダムから始まった系図は、洪水以後、ノアの子どもたちとその子孫から再び全世界に増え広がりましたが、すべての民族は神のもとにあって一つの共同体であるという信仰がここからも読み取れます。神はのちになってから、これらの諸民族の中からイスラエルの民をお選びになり、この民によって具体的な救いのみわざをなさり、ついにダビデ王家に連なるヨセフの子としてお生まれになった主イエスによって全人類のための救いを成就してくださったのです。旧約聖書のすべての系図は主イエスの誕生へと連なっているのです。

 では、11章1節を読みましょう。【1節】。ここから始まる「バベルの塔」と言われる出来事は「言葉」が重要なテーマになっているということがこの1節からも推測できます。言葉が人間にとっていかに大切なものであるかは言うまでもありません。言葉には、音に発せられる言葉、書かれた言葉、手話などがありますが、それらの言葉はわたしたちが互いに意志を伝えあうための大切な道具です。わたしたちは言葉によって互いに心を通わせ合うことができ、理解し合うことができ、交わりの生活をすることができます。もし、言葉が失われたら、人間の生活はたちまちにして混乱し、不便になり、喜び、楽しみも失われてしまうでしょう。言葉は、神が人間にお与えくださった多くの恵みの賜物の中で、おそらく最も素晴らしいものと言えるでしょう。他の生き物は人間ほどには厳密で複雑な言葉を持ってはいません。人間は言葉によって考え、互いに情報を交換し合い、知識や技術を言葉によって保存し、後世に伝え、そのようにして社会、文化、科学などをより高度なものに作り上げてきました。

 言葉が神から与えられた最も素晴らしい賜物であるということは、何よりも神が言葉によってわたしたちに語りかけ、わたしたちがそれを聞き、理解し、信じ、さらには言葉によって神を賛美し、神に感謝し、神に祈り、信仰を告白し、また神の言葉を宣べ伝える務めを託されている、そのことのために神がわたしたちに言葉を賜ったということにあります。パウロがローマの信徒への手紙10章で教えているように、わたしたちに宣べ伝えられている言葉によってわたしたちの信仰が生まれるのであり、信仰は聞くことにより、聞くことは主キリストの言葉からくるのです。

 わたしたちがきょうここに集まり、共に礼拝をささげているところで、突然に言葉が乱され、互いに理解し合うことができなくなったとしたら、どうでしょうか。わたしたちはみなあわてて、動揺し、不安になり、だれが何を考えているのかも、なぜここに集まっているのかもわからなくなり、ばらばらに散っていくしかないでしょう。わたしたちが同じ発音の同じ言葉を与えられ、同じ一つの主キリストの言葉を聞くためにここで一つに集められているということは何と大きな神の恵みであることでしょう。わたしたちはまずそのことを感謝してきょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~4節】。ところがここでは、神から同じ発音、同じ言葉を与えられていた人間たちから神に背く罪が芽生えてきたということが語られているのです。

 人々はシンアルの地の平野に住み着いたと書かれています。シンアルとはバビロニア地方のことで、バビロンとかバベルとも言います。世界四大文明の発祥の地とも言われるチグリス川とユーフラテス川が流れる肥沃な地が舞台です。人々は砂漠地帯をさまよいながらより豊かな地を探し求めてこの地に移ってきました。シンアルには石材がなかったために早くからレンガを造る技術が発達していました。太陽で粘土を乾かすだけでなく、火で焼いてより固いレンガを作る技術を生み出し、レンガを積み上げるためにアスファルトで塗り固める技術も発達していました。そして、彼らはそれらの技術と彼らの共同作業とによって、大きな高い塔を建てようと企てるのです。

 彼らに与えられていた同じ発音、同じ言葉がこの事業を推進させ、全員一致でこの事業に参加するために重要な役割を果たしています。4節に「さあ、こうしよう」というかけ声が書かれていますが、実は3節にも同じ「さあ、こうしよう」という言葉があります。新共同訳では省略されていますが、同じかけ声が二度も繰り返されているという点に、言葉によって人間の意思を統一し、人間が考え出したこの新しい事業によって人間社会をより豊かにしようとする欲望が表現されているように思われます。けれども、そこには神は存在しません。むしろ、神を追い出そうとしています。人間だけで固く結集し、天にまで届く塔の町を建設し、自分たちの名誉と名声を天の神にまで届かせ、ついには自ら神のごとくになって全地を支配しようとする人間の欲望がここにはあるのです。

 「さあ,われらはみなでこうしよう」「さあ、われらは一致協力してこの事を成し遂げよう」とのかけ声によって、神なき世界の建設に取り組もうとする人間。みんなが一つになることによって、神をも恐れず、罪の道を突き進もうとしている人間。だれもその勢いを止めることができず、異議を唱えることができず、共に罪の道へと落ちていくしかない人間。大洪水以後の人間たちも、最初に罪に落ちたアダムとエヴァと同じように、共に罪の道を進むことで一致しました。

 【5~7節】。神はこのような人間たちの現実のすべてを、天の高さから見ておられます。そして、人間はだれ一人として、自らの意志や知恵によってはこの罪の道をとどめることも、引き返すこともできないということをも神は知っておられます。ただ、神だけが人間のこの罪の道を、大いなる破滅へと向かうしかない罪の道を止めることがおできになります。

 5節に「主は下って来て」と書かれています。天の神よりも高くに登ろうとしていた彼らでしたが、人間は神に到達することはできません。人間が神にまで高く登ろうとしていた罪への道を終わらせるために、神は天から下って来られます。

 7節には、3節と4節で繰り返されていた「さあ、われらはこうしよう」と言う人間のかけ声と同じ言葉があります。人間たちの「さあ、こうしよう」というかけ声を打ち消すかのように、神は「さあ、われらは降って行こう」と言われるのです。

 ここで神はご自身のことを「我々」と言っておられます。同じ例が1章26節にもありました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。この「我々」は一般に尊厳の複数形といって、神はお一人であるのですが、ご自身の権威や力や存在を強調するために、あるいは人間に対する特別のご配慮を言い表すために、複数形で表現されていると考えられています。神はご自身の全人格を傾け、ご自身の全存在をもって、このことを強く決断され、人間を罪と破滅から救おうとなさったのです。

 【8~9節】。人間が自分たちを一致団結させるために役立った言葉を、そしてそれによって自分たちの偉大な事業を完成させることを可能にすることができると考えた言葉を、神は混乱させ、彼らを全地に散らされました。神は人間の神なしで企てられた事業を中途でやめさせられました。わたしたちはここではっきりと知らされます。人間が神から賜った大きな恵みである言葉を、彼らは神のみ心にそって用いていなかったのだということを。むしろ神に反逆するために、人間の欲望を満たすためだけに用いていたのだということを。それゆえに、人間が企てた大事業、堅固な街を建て、天に届く高い塔を建てようとした彼らの企ては神のみ心に背くものであったのだということを。それが人間の罪の結果であったのだということを。それゆえに、神の裁きを受けなければならなかったのだということを、わたしたちはここではっきりと知らされます。神なしで行われる人間の一致は、ついには失敗するほかにありません。

 神は、神なしで企てられる人間の事業はついには人間自身を破滅へと導く以外にないということを知っておられます。バベルの塔が高ければ高いだけ、崩れ落ちた塔の下敷きになって死ぬ人間も増えるのです。人間の高ぶりと自己主張、人間の傲慢と欲望が、やがて国と世界を破滅へと導くようになるということを、神は知っておられます。そこで神は、人間が最終的な破滅に至ることがないように、人間を最終的には救うために、人間の言葉を混乱させ、人々を全地に散らされ、人間がそれ以上罪のために協力し合うことができないようにされたのです。神は人間の罪と滅びへの道に「待った」をかけられます。それは最終的に人間を救うためなのです。

 神の裁きは神の愛です。人間の計画が挫折した時、自分の願いがかなえられなかった時、思わぬ困難が押し迫り、もう一歩も前進できなくなった時、その時が神の隠れたみ心の時であるのかもしれません。そこで、わたしたちは神のみ前にへりくだるべきです。新たに神のみ心をたずね求めるべきです。

 バベルの塔の出来事で神が人間の言葉を乱され、人々を全地に散らされたということは、使徒言行録2章のペンテコステの出来事と深く関連しています。聖霊を注がれた弟子たちがいろいろな他国の言葉で一つの神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架の福音を語った時、いろいろな国からエルサレムに集まっていたユダヤ人が、自分たちの国の言葉でその福音を聞き、理解した、そして主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生しました。ここで、バベルの塔以来全地に散らされていた人々が、聖霊によって一つの主キリストを信じる群となって集めらたのです。今や、聖霊なる神が、全世界の国民を、一つの主キリストの福音の言葉によって結ばれるのです。教会の民は共に神のみ言葉を語り、聞くということによって一つとされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。人々が分断され、孤立し、真実の交わりが失われつつあるこの時代にあって、あなたが聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。