10月24日説教「異邦人の信仰」

2021年10月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章1~8節

    ルカによる福音書7章1~10節

説教題:「異邦人の信仰」

 主イエスは平地での説教を終えると、ルカによる福音書7章1節で再びカファルナウムに戻られました。4章38節によれば、弟子のシモン・ペトロの家がこの町にあり、主イエスはこのペトロの家を宿にしてガリラヤ伝道をしておられたと推測されています。

カファルナウムはガリラヤ湖の北西海岸にあり、東西に延びる交通の要所としてかなり繫栄した町でした。この町には収税所があり、またガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスの守備隊の駐屯地がありました。きょうの個所に出てくる百人隊長は、ローマの駐留軍兵士であるよりは、ヘロデの守備隊の兵士百人を率いる小隊長と考えられますが、いずれにしても彼はイスラエルの民・ユダヤ人ではなく、ローマ人かシリア人であり、異邦人であったことは確かです。この異邦人である百人隊長の部下が死ぬほどの重い病気であったのを、主イエスは離れた場所から、いわば遠隔治療によって、いやされたという奇跡がここには描かれています。

福音書の中でユダヤ人以外の異邦人が主イエスの救いにあずかったという例はごく少ししか記録されていません。きょうのカファルナウムの百人隊長の部下の場合と、マタイ福音書15章21節以下のカナンの婦人の娘が悪霊から解放された例、その他数例しか見られません。主イエスの地上のご生涯では、宣教の対象はほとんどユダヤ人に限られていました。主イエスご自身、マタイ福音書15章24節で、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われました。というのは、神はイスラエルを全世界の中から最初にお選びになり、この民と契約を結ばれたからです。神の愛はこの選ばれた民に集中的に注がれます。主イエスの救いもこの民に集中して行われます。神の愛は選びの愛です。契約の愛です。神はひとたびお選びになった民を決してお見捨てにはならず、最後までその契約を守られ、その愛を貫かれます。

主イエスの救いがユダヤ人から異邦人へ、全人類へと拡大されるのは、主の十字架と復活、聖霊降臨以後です。その時になって、神が最初にイスラエルの民を選ばれ、愛されたのと同じように、全世界のすべての民をお選びになり、すべての人を救いへとお招きになりました。これが、神が主イエス・キリストの十字架の血によって全人類と結ばれた新しい契約です。イスラエルの民を愛された神の愛は今や全人類とすべての人々に注がれています。神が最初にイスラエルをお選びになったのは、後にユダヤ人以外の異邦人の選びの先駆けとなりしるしとなるためであったのです。先に選ばれたイスラエルは、自分たちが神に選ばれる値打ちなど全くなかったにもかかわらず、神の恵みと憐れみとによって、他の国々に先立って選ばれたことを感謝し、またそのことを全世界に向かって証しする務めを授かっていたのです。

わたしたち一人一人が、きょうこの礼拝堂に集められ、先に選ばれた者たちとして神の恵みのみ言葉を聞かされているのも、同じ事情によります。わたしはわたし一人の救いのためにだけ礼拝しているのではありません。わたしの家族、友人、同僚、この地域、この国、そして全世界のすべての人々の救いのために、その先駆けとして選ばれ、ここに集められているのです。そのことの証人として、わたしたちは今ここに立っているのです。

さて、きょうのカファルナウムの百卒長の部下のいやしの奇跡は、主イエスの愛と救いの恵みが、やがて先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人から異邦人へ、全世界の民へと拡大されていくことをあらかじめ予告している出来事であるということにわたしたちは気づかされます。

【2~3節】。当時、ユダヤ人と異邦人との間には越えがたい壁があって、異邦人がユダヤ人に頼みごとをするとか、あるいはユダヤ人が異邦人の家を訪問するということは、普通ではあり得ませんでした。ユダヤ人は自ら選ばれた民であることを誇り、ユダヤ人以外の異邦人は神の律法を知らない汚れた民であると言い、また異邦人にとってはそのようなユダヤ人の意識は思い上がった選民思想であると映りました。

でも、ここでは普通ではあり得ないことが起こっています。異邦人である百人隊長がユダヤ人である主イエスに頼みごとをし、ユダヤ人である主イエスが異邦人である百人隊長の家に出かけようとしておられます。なぜでしょうか。まずその理由を考えてみましょう。百人隊長の有力な部下の一人が病気で死にかかっていたと2節に書かれています。彼にはある程度の社会的地位があり、権力を持ち、また財産もあったでしょう。それらを用いて自分の意のままに事をなすことができました。けれども今、自分の力や持ち物によってはどうすることもできない困難な事態に直面しています。愛する者の重い病気と死の危機です。人間の死という現実に、彼は今直面しているのです。そして、死の前では彼が持っている地位や、権力、財産のすべてをもってしても、全く無力であることを彼は知るのです。彼は死の前で打ちのめされてしまいます。その時、彼は民族の壁を乗り越えて、社会的な壁や心の壁を乗り越えて、主イエスのみ前にひれ伏し、主イエスに助けを求めるほかないことを悟るのです。

ここで普通ではないことが起こっている第二の理由は、本来はこれが第一の理由となるべきですが、主イエスこそが人間の死というこの困難な事態を解決できると百人隊長が信じたからです。4~5節で、百人隊長の依頼によって主イエスのもとを訪れたユダヤ人の長老たちが言っているように、この百人隊長は異邦人でありながら、ユダヤ人の信仰には深い理解を示し、会堂を建てるために援助までしています。もしかしたら、その会堂で主イエスの説教を何度か聞いたことがあったのかもしれません。そして、この主イエスこそが旧約聖書で預言されているメシア・救い主であり、異邦人の自分をも顧みてくださり、自分の願いをお聞きくださり、部下の重い病気をいやし、彼を死から救ってくれることができるという信仰をこの百人隊長に芽生えさせたと推測できます。百人隊長のこの信仰が民族的な壁やその他のすべての壁を乗り越えさせたと考えられます。と言うよりは、神が今この時、時満ちて、約束のメシア・主イエス・キリストをこの世にお遣わしになり、主イエスとこの異邦人との出会いの時をお定めになったのだと言うべきでしょう。そして、主イエスご自身が百人隊長にそのような信仰をお与えになったのです。

もう一つの理由を付け加えるならば、百人隊長の徹底したへりくだり、謙虚さが、主イエスと異邦人である彼との壁を乗り越えさせたと言えます。彼は主イエスが自分の家に向かっておられる途中に友達を送ってこのように言わせています。【6~8節】。この世である程度の地位や権力、また財産を持つ人は、時としてそれを誇ったり、傲慢になったりするものです。この百人隊長は軍隊の小隊長であり、背後には領主ヘロデ・アンティパスがついています。一般の民衆に対しては絶対的な権力を持っています。また、彼はユダヤ人のために大金を出して会堂を建ててやったという功績もあります。自分はユダヤ人のためにこれだけのことをしてやったのだから、困っている時にユダヤ人に助けてもらって当然だと言ってもおかしくはありません。

けれども、彼は主イエスのみ前にひれ伏し、徹底的に謙遜になり、自分は主イエスを家に迎え入れる資格がない者だと告白しています。

この百人隊長の謙遜な告白と当時のユダヤ人、その中でも自ら選ばれた特別な存在であると誇っていたファリサイ派や律法学者たちの傲慢とを比べてみてください。彼らユダヤ人たちは異邦人は神を知らぬ滅ぶべき民だとし、自分たちにはエルサレムと神殿があり、神の守りがあると自慢しながら、主イエスを救い主として受け入れることを拒んだのでした。そしてついには、ユダヤ人たちは主イエスを偽りの預言者、神を冒涜する者、社会秩序を乱す者として裁判にかけ、十字架刑にしたのでした。主イエスは9節で、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言っておられます。ここでは、異邦人の信仰が称賛されていると同時に、神に選ばれた民であるイスラエル・ユダヤ人の不信仰と不従順が裁かれているのです。

それに対して、この異邦人である百人隊長は自分が主イエスをお迎えするにふさわしくない者であると自覚しながら、ただ主イエスの憐みに寄りすがるほかないことを告白しています。主イエスのみ前に自らへりくだり、謙遜になった時、彼は主イエスのみ言葉の権威と力とを信じることができたのです。そして、「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」と願います。

宗教改革者カルヴァンは、「僕の病気がいやされるよりも前に、この百人隊長自身がいやされ、救われているのだ」と言っています。実際、この出来事の中では、部下である兵士のことやその病気の内容についてはほとんど関心が払われてはいませんし、その病気がいやされたということも主なテーマになってはいません。「ひと言おっしゃったください。そして、わたしの僕をいやしてください」。異邦人である百人隊長のこの信仰と、その信仰を受け入れ、彼の願いをお聞きになった主イエスのみ言葉の権威と力がテーマです。

この異邦人の百人隊長は部下がいやされる奇跡を見て、主イエスを信じたのではありません。まだそれを見る前に、彼の部下が死に瀕していたそのただ中で、死の病から救い出してくださる主イエスのみ言葉に、彼の祈りと希望のすべてをかけて信じたのです。死という厳しい現実の中で、その現実を打ち破って、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す主イエスのみ言葉の権威と力とに、彼の存在のすべてをかけたのです。その時、彼は救われ、彼の部下はいやされました。

創世記1章3節に、「神は言われた。『光りあれ』。こうして、光があった」と書かれています。また、詩編103編3節以下にはこのように書かれています。「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ、鷲のような若さを新たにしてくださる」。そして、イザヤ書55章11節では、「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われています。主イエスがお語りになるみ言葉は同じように権威と力を持ち、恵みと命に満ちたみ言葉です。異邦人の百人隊長はこの主イエスのみ言葉を信じたのです。

ルカ福音書に戻って、10節に「使いに行った人たちが家に帰ってみると、その部下は元気になっていた」と書かれています。主イエスのこのいやしの奇跡は遠隔治癒と言われます。主イエスが直接に病人と対面したり、その体に触れることをしないで、離れた所でいやされるという奇跡は、このほかにはマタイ福音書15章21節以下に書かれているカナンの婦人の娘のいやしがあります。興味深いことに、いずれも異邦人の信仰がテーマになっています。

ただ、主イエスのみ言葉を聞き、それを信じるという信仰、これがわたしたちの信仰です。主イエスのみ言葉以外にどんな保証やしるしをも求めず、主イエスのゆるしといやしのみ言葉にわたしの祈りと希望のすべてを委ねる信仰、そのような信仰があるところに、主イエスはゆるしといやしの奇跡を起こしてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの全能のみ力を信じさせてください。主イエスのみ言葉の恵みと命とを信じさせてください。あなたのみ心が地にも行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月17日説教「約束の子イサクの誕生」

2021年10月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章1~8節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「約束の子イサクの誕生」

 創世記12章から始まった族長アブラハムの歩みについて続けて読んできましたが、きょうの個所でその時に与えられた神の約束の一つがようやくにして成就するというみ言葉を読みます。【21章1~2節】。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉、すなわち、「あなたの子孫が地に増え、世界中の民の祝福の源となるであろう」という約束を聞いてからおよそ25年を経て、彼が百歳になってようやくその約束が実現されます。信仰の父アブラハムの25年の歩みは、神の約束の地で、神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。

けれども、わたしたちがこれまで学んできたように、その歩みは、挫折と疑いと失敗の歩みでもありました。いやそれ以上に、神が忍耐と愛とをもって、アブラハムから離れることなく、彼との契約を守り続け、導き続けてこられたという、神の救いの歴史であったのだということを、わたしたちは聞いてきました。

 そこで、きょう朗読された個所に入る前に、なお少しの間、神の約束の成就に至るまでの途中の道のりについて振り返ってみたいと思います。連続して聖書のテキストを取り挙げてきましたが、20章を読み忘れたことに気づいておられる人がいるかもしれません。20章は重要なテキストではないから省略したということではありません。この章全体のテーマはすでに学んだ12章10~20節と非常によく似ています。12章では、アブラハムは飢饉で食料が無くなったので、エジプトに下り、その時に妻のサラを自分の妹だと偽ってエジプトの宮廷に召し入れられるように計らったということが書かれていました。20章では、アブラハムはゲラルに移住した時に、妻サラを自分の妹だと偽って、ゲラルの王アビメレクに召し入れられることになったという、同じような内容が描かれています。一部の学者は、本来一つの出来事が二つの多少違ったかたちで伝承されたのではないかと考えています。アブラハムが同じような過ちを繰り返すはずがないという、彼を擁護したい意図もそこにはあるように思われますが、わたしたちはむしろアブラハムが同じような過ちを繰り返したにもかかわらず、神の契約は変わらなかったと理解したいと思います。

 では、12章と20章のアブラハムの過ち、失敗を二つのポイントにまとめて振り返ってみましょう。第一点は、アブラハムが神の約束の地を捨てたということです。神は「この地をあなたとあなたの子孫とに受け継がせる」と約束されて、アブラハムをカナンの地へと導き入れました。しかし、彼は飢饉の時に食料を求めてエジプトに移住しました。自分と家族を養うためとはいえ、神の約束の地を捨てるということは、パンだけで生きるのではなく、神のみ言葉を聞いて生きるべきである信仰者としては失敗だと言うべきです。

20章でゲラルの地へ移住した理由は具体的には書かれていませんが、ここでも約束のカナンを捨てています。ゲラルはパレスチナ地方の南部に位置し、そこでは王国が形成され、16節によれば貨幣制度があり、富み栄えていた都市であったと推測されますが、神の約束の地の外であることには間違いありません。アブラハムは先にエジプトに移住した時と全く同じ失敗をここでも繰り返しています。

 第二点は、妻のサラを妹だと偽って地元の人に紹介したことです。古代社会では、異国の地での法的な保護はほとんど期待できず、他の国からやって来た男が美しい奥さんを連れているのを見たらその夫を殺してでも自分のものにしようとすることがよく行われていたということです。アブラハムは自分の命を救うために、妻を妹だと偽って、エジプトでもこのゲラルの地でも、サラは王宮に召し入れられることになりました。

しかし、これには重大な過ちがありました。一つには、アブラハムは妻との夫婦の関係を投げ捨てたということです。自分の身を守るために、妻への愛と信頼を裏切ったのです。しかし、それ以上に深刻な過ちは、それによって神の約束をも投げ捨てたことになります。「あなたの子孫を星の数ほどに増やす」という神の約束は、アブラハムとサラ夫妻に与えられた約束でした。二人で共にこの約束を担っていかなければならなかったのに、アブラハムはそれを放棄したのです。それは神への不従順であり罪です。アブラハムはエジプトでもこのゲラルの地でも、同じ過ち、同じ罪を繰り返しているのです。

 しかしながら、今回もまた、決定的な場面で神が介入され、アブラハムとサラを危機から救い出されました。神は夢の中でアビメレクに現れ、彼がサラに触れないようにされました。神はアブラハムとサラに対する契約を守られました。そして、17~18節にこのように書かれています。【17~18節】。アブラハムは異教の王アビメレクとその国のために執り成しの祈りをする者に変えられています。そして、ここでもう一つ教えられていることは、神がすべての婦人たちの胎を閉ざすことも開くこともなさる権限を持っておられるということ、すなわち、子どもを与え、新しい命を生み出すのはただ神のみがなさるということがここで教えられているのです。そして、次の21章で、それまで子どもが与えられなかったサラに神の約束の子が与えられるという神の奇跡と恵みが語られていくことになるのです。

 21章1節に、「主は、約束されたとおりサラを顧み」と書かれています。長い間サラの胎を閉ざしておられたのが神であるならば、定められた時、神が良しとされた時に、サラの胎を開かれるのも神です。約束されたのが神であるならば、約束を成就し、実現されるのも神です。この神を信じ、この神のみ言葉を信じ続ける信仰者は幸いです。エジプトとゲラルでのアブラハムの失敗にもかかわらず、それだけでな、たびたびのアブラハムの疑いや迷いや不信仰にもかかわらず、神の真実と憐れみは絶えることなく、アブラハムとの契約は廃棄されませんでした。たとえ、罪と失敗を繰り返すほかにないとしても、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。その人は神の顧みを受けるからです。

 「顧みる」という言葉は本来「訪れる」という意味です。18章10節では、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ます」の「来る」と訳され、14節では、「来年の今ごろ、わたしはここに戻って来る」の「戻って来る」と訳されているのが同じ言葉です。アブラハムとサラに約束のみ言葉をお語りになった神は、その約束を成就されるために彼らのもとへとやって来られます。創世記12章で二人が最初に神の約束を聞いてから25年の時が過ぎていました。彼らはたびたび神の約束のみ言葉を疑い、忘れることがありましたが、神は決して彼らをお見捨てにはなりませんでした。彼らの不信仰と不従順とを超えて、また人間的な不可能を超えて、神の約束は成就の時を迎えます。11章30節によれば、サラは不妊の女で、子どもができない体質であったにもかかわらず、そしてアブラハムが百歳、サラが90歳という高齢になったにもかかわらず、神の奇跡によって、神の恵みによって、彼らに男の子が与えられたのです。神の約束の子の誕生です。それは、アブラハムとサラの家庭にとっての神の約束の成就であっただけでなく、アブラハム以後のすべての信仰者に対する神の約束の成就でもありました。この子によって、アブラハムに与えられた神の祝福がのちのすべての信仰者へと受け継がれていくからです。

 「顧みる」「訪れる」という言葉を聞くと、わたしたちは主イエスが天に昇られた時のことを思い起こします。使徒言行録1章11節にはこのように書かれています。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。十字架につけられ、復活され、天に昇られた主イエスは、終わりの日に、再びこの地上に戻って来られます。そして、わたしたちの信仰を完成され、わたしたちをみ国へと招き入れてくださいます。再びおいでになる主イエスを待ち望むわたしたちの待望は決して空しく終わることはありません。主イエスはこの地を顧みてくださり、再び訪れてくださいます。

 1節に「主は、約束されたとおり」「さきに語られたとおり」、そして2節では「神が約束されていた時期」と、神の約束が確かであり、神のみ言葉が必ず実現するということが何度も強調されています。たとえ、人間の側の疑いや不信仰がどれだけ繰り返されようが、たとえ人間の側の可能性が限りなくゼロに近くなろうとも、神は無から有を呼び出し、死から命を生み出すようにして、ご自身の救いのご計画を実現なさいます。わたしたち人間は「主よ、いつまでですか。いつまで待たなければならないのですか。いつまでこの苦悩は続くのですか」と嘆いている間にも、神はご自身の救いのみわざを確実に前進させておられます。そのことを信じつつ、成就の時を待ち続ける信仰者は幸いです。

 【3~5節】。生まれた子に名前を付けるのは一般に父親の役割でした。けれども、この場合は、すでに神によってその名前が決定されていました。【17章19節】(22ページ)。洗礼者ヨハネの場合も、主イエスの場合も同じでした。神の約束によって与えられた子どもは、神からの特別な使命を託されています。そのことをあらかじめ明らかにするために、神はその子が生まれる前からその子にふさわしい名前を備えておられます。ヨハネ=神は恵み深い、イエス=神は救われる、イサク=彼は笑う、神の約束の子はそれぞれの特別な務めを神から与えられています。そして、神がその子をお用いになって、神ご自身がそのことをなしてくださるという保証のために、神はあらかじめその子の名前をお決めになるのです。

 では、イサク=彼は笑うという名前にはどのような務め、使命が託されているのでしょうか。【6~8節】。百歳と90歳の年老いた夫婦に神の奇跡によって男の子が与えられた。それは何という大きな恵みであることか、何という大きな喜びであることでしょうか。そのことを体験した老夫婦に心からの笑いがあふれ、そのことを聞いた人々にも心からの笑いが広がっていきます。そのようにしてすべての人々に心からの笑いをお与えくださる主なる神をほめたたえる感謝の歌が世界中に響き渡ります。そのために神はこの成就の時を定め、イサクと名付けられる一人の男の子を誕生させられたのです。

 したがってこの笑いは天の神から与えられた笑いであり、この世にあるもろもろの笑いよりもはるかに大きく、はるかに高く、力強く、そして永遠に変わることがない笑いであり、喜びです。それだけでなく、この世にある憂いや悲しみや憎しみ、怒り、あるいは疑いや不信仰をもはるかに超えて、それらのすべてを笑いに変える力を持っています。

 そのことと関連して、思い起こすことがあります。かつてアブラハムもサラも神から男の子の誕生を予告された時に、それが信じられないので笑ったということが17章17節と18章12節に書かれていました。【17章17節】(22ページ)。【18章12~15節】(23ページ)。アブラハムとサラのこの笑いは、不信仰から来る疑いの笑い、神をあざける笑いでした。しかし今、この不信仰の笑いは確かに信仰による笑いに変えられています。神は不可能を可能に変えてくださいます。疑いや不信仰をも心からの信頼と確信と喜びに変えてくださいます。この神を信じ、この神のみ言葉を聞き続ける信仰者は幸いです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの中からすべての疑いや迷いを取り去り、憂いや悲しみ不安に変えて心からの笑いと喜びで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月10日説教「神を欺く罪」

2021年10月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記20章1~13節

    使徒言行録5章1~11節

説教題:「神を欺く罪」

 紀元30年ころのペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会の生き生きとした宣教活動と目覚ましい成長について、使徒言行録2章から詳しく記録されています。これは、エルサレム教会に大迫害が起こって、教会員の多くがエルサレムから追放されることになった8章3節まで続いています。

この中で特に強調されているエルサレム教会の特徴を、きょうの説教のテキストととの関連で二つ挙げます。一つは聖霊なる神のお働きです。主イエスの十字架の死のあと、指導者を失った失意とユダヤ人からの攻撃の恐怖の中で絶望していた弟子たちの上に聖霊が注がれ、彼らは大きな力を与えられて大胆に神のみ言葉を語りだし、主イエスの復活の証人として立ち上がりました。最初に経験した迫害の中で、捕らえられ、法廷に立たされたペトロは、聖霊に満たされて、エルサレムの指導者たちの前でも恐れることなく、主イエスの復活を語りました。聖霊はエルサレム教会の命と力の源であったということを、わたしたちは確認してきました。これは使徒言行録全体に貫かれている特徴です。

 第二には、教会の一致と教会員の交わりの強さ、深さが強調されていました。この一致と交わりは、彼らの心と思い、行動のすべてにまで及んでおり、それが、財産の共有というかたちで具体化されていました。そのことが、2章44節以下と4章32節以下に報告されており、またその具体例として、4章32節以下のバルナバの行動と、きょうの礼拝で朗読された5章1節以下のアナニアとサフィラ夫妻の行動として紹介されています。初代エルサレム教会の一致と交わりがどのようなものであったのか、それは今日のわたしたちの教会に何を教えているのかについて、学んでいきたいと思います。

 まず、バルナバの例ですが、これは教会の一致と交わりの理想的な姿の例として紹介されています。バルナバとは「慰めの子」という意味を持つ名前であるということが4章36節に紹介されています。彼の本名はヨセフでしたが、使徒たちからはそう呼ばれていました。彼の名前は11章22節以下と13章1節以下に再び出てきます。バルナバはエルサレム教会とのちにはアンティオキア教会で、主キリストの教会のためによき働きをし、多くの人々に仕え、多くの人々に慰めを与えていたので、そのように呼ばれていたと推測されます。あるいは、それ以上に、彼自身が主なる神からの大きな慰めを与えられていたからかもしれません。

 そのバルナバが自分の所有していた畑を売って、その代金を使徒たちの足元に置きました。「足元に置く」とは、その代金を教会にささげたこと、また使徒たちがそのお金を管理していたことを言い表しています。使徒たちはそれを教会の貧しい人たちに配分していました。のちにこの務めは、6章で選ばれた7人の執事たちが引き継ぐようになります。

 このように、エルサレム教会ではすべての教会員が持ち物のすべてを共有にし、教会員が自由に自分の土地や財産を売却してその代金を教会にささげていました。また、必要に応じてそれを教会員に配分していました。しかし、それは一つの制度とか規則による強制ではなく、あくまでも信仰の自由による行為であり、各自の献身と愛の行為として行われていました。

 エルサレム教会のこのような財産共有には主に二つの信仰が背景になっていると考えられます。一つは、主イエス・キリストを信じる信仰によってキリスト者は地上の財産を所有する欲望から解放されているからです。主イエスによって罪ゆるされ、神の国の民として招かれているキリスト者は、地上では旅人であり寄留者であって、この地上のどこにも永住の住まいを持っていません。天におられる父なる神のみもとに、永遠の故郷を持っています。それゆえに、地上のいかなるものにも束縛されることはありません。

 もう一つには、主イエス・キリストを信じる信仰によって、キリスト者は一つの同じ神の恵みによって生かされ、豊かにされているからです。教会の民は神から与えられている救いの恵みによって一つの信仰共同体として結び合わされています。神から与えられているもろもろの恵みは、互いに分かち合うことによって、また他者に惜しみなく与えることによって、いよいよ豊かになっていきます。そして、神の恵みによって豊かにされているキリスト者にとっては、地上の富によって豊かになる必要は全くなくなります。

 次に、5章1節からはアナニアとサフィラ夫妻の例が取り挙げられていますが、これは財産共有の悪い例として、教会の交わりと一致を根本から破壊する例として挙げられています。これまでは理想的な信仰共同体として描かれてきたエルサレム教会に、ここで暗い影が入り込んできます。アナニアとサフィラ夫妻が自分たちの土地を売却し、その代金の一部をごまかして手元に残しておき、これが全部ですと偽り、それによって聖霊を欺き、神を欺いたために、神の裁きを受け、二人とも死の判決を神から受けて死んだということが報告されています。

 使徒言行録の著者であるルカはエルサレム教会の暗い側面であるこの不幸な事件をも率直に報告しているということを、わたしたちはまず注目したいと思います。教会はこの地上に建てられている限り、欠けの多い罪びとたちの集まりであるゆえに、さまざまなあやまちやつまずきを避けることはできません。教会に聖人たちの理想世界を期待するのは正しくありません。しかしまた、教会は主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされていることを信じている罪びとたちの集まりですから、群れの中で起こった過ちやつまずきをどのようにして乗り越えていくべきかについては、この世のもろもろの集団や社会・国家とは全く違った道を神から備えられているのです。わたしたちはこの個所からそのことを読み取っていかなければなりません。

 アナニアという名前は「主なる神は恵み深い」という意味を持ち、またサフィラは「美しい」という意味です。でも、二人はバルナバ「慰めの子」とは違って、その名前に全くふさわしくない行為を行いました。彼らはサタンの道具となって、教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、聖霊なる神と父なる神を欺いたのです。

 3~4節のペトロの言葉から、エルサレム教会の財産共有は定まった制度でも強制でもなく、信仰による自由に根差したものであったということが読み取れます。【3~4節】。ペトロがどのようにしてアナニアが代金の一部だけを持ってきたことを知ったのかについては書かれていません。主イエスがユダの裏切りをあらかじめ見抜いておられたように、ペトロはアナニアの嘘を見抜く霊的な力が与えられていたのだと推測されます。ペトロは言います。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と。財産共有と自由なささげものは、制度でも規則でもなく、信仰による自由によってなされる行為であるゆえに、その行為に意図的な欺きがあるとすれば、それは信仰による自由を侵害することであり、それだけでなく、信仰をお与えくださった神ご自身に対する欺きなのだとペトロは言うのです。ここに、アナニアが犯した罪の重大さがあるのです。

 アナニアが行った悪と罪は、自分の財産をささげなかったことにあるのではなく、売却した代金を渡さなかったことにあるのでもなく、その一部をごまかして、ひそかに自分の手元に残しておき、あたかも全部をささげたかのように装ったという欺瞞的な行為にありました。そのようにして、自分を立派な信仰者に見せようとした偽善的な行為にあったのです。この行為はエルサレム教会の信仰による一致と愛の交わりを破壊し、否定するものです。それだけでなく、教会をお立てになり、その命と存在の源である聖霊なる神を欺き、そのお働きを否定するものです。この世の法律や倫理を基準にしているのではなく、神の救いのみわざそのものを破壊し、否定する罪がここでは問われているのです。

それゆえに、彼の行為には神の厳しい裁きが下されます。しかも、直ちに下されます。「この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と5節に書かれているとおりです。これは、何と身震いするほどの恐るべき神の裁きであることでしょうか。

妻のサフィラもまた同様の罪によって神の裁きを受けました。7節以下にそのことが書かれています。アナニアとサフィラ夫妻は共に神に仕え主キリストの教会に仕えるべきであったのに、共にサタンに仕え、罪に仕え、神と聖霊とを欺いたために、共に神の裁きを受け、同じ墓に葬られることになりました。

創世記に書かれているように、神が人間アダムを創造された時、ふさわしい助け手としてエバを創造されたのは、二人が共にエデンの園で喜びをもって神のみ言葉に聞き従うためでした。しかし、続けて書かれているように、アダムとエバは共に神のみ言葉に聞き従うのではなく、共に蛇の誘惑の声に聞き従い、共に神に禁じられていた木の実を食べ、罪を犯しました。それによって、二人は共に死すべきものとなりました。アナニアとサフィラはこのアダムとエバの罪を受け継いでいます。そして、直ちに死の判決を受けました。

アナニアの場合は、聖霊を欺き、神を欺いたことが彼の許されざる罪であると言われていましたが、サフィラの場合は、二人で示し合わせて、主の霊を試したことが彼らの罪であると9節で言われています。教会は聖霊によって誕生し、聖霊によって生き、聖霊によって導かれています。その聖霊を欺き、そのお働きを否定することは教会の死を招くことになります。神はそれをお許しになりません。

11節に、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」と書かれています。5節でも「このことを耳にした人々は皆、非常に恐れた」と書かれていました。この出来事が教会とその周辺の人々に大きな恐れを与えたことが強調されています。この恐れとは、聖書全体に共通している特別な恐れのことです。それは、天におられる神が地上の出来事の中に入り込んでこられ、その出来事に決定的な変化や変革を生じさせ、人間がだれも抵抗することができないような圧倒的な神の力と権威と威厳とが明らかにされる時に感じる恐れのことです。

このことと関連して、11節でもう一つ注目したい点は、ここで初めて「教会」(エクレーシア)という言葉が用いられているということです。2章に書かれていたように、ペンテコステの日にすでに教会は誕生していましたが、使徒言行録の著者ルカはこの個所に至るまで、教会という言葉をあえて用いなかったのではないかと推測できます。このあと、教会という言葉は23回も用いられているということからも、ここで初めて教会という言葉が用いられたことの意味を考えることができるのではないでしょうか。つまり、アナニアとサフィラ夫妻の出来事を通して、その時に生じた神への大きな恐れによって、教会は本当の意味で教会となったのだと著者は言っているのではないでしょうか。言葉を換えれば、教会とは神を恐れるべきことを知っている、事実、神を恐れている人たちの群れであるということです。教会は迫害をもこの世のいかなる権力をも、時に襲い来る災いや災害をも、決して恐れることはありません。なぜならば、教会はただお一人、人間の生と死とをご支配しておられる神を、最後の審判者であられ、信じる者たちと不信仰な者たちとを最終的にお裁きになる神をのみ恐れ、この神のみ前で忠実な僕であろうとする信仰者たちの群れ、それが主キリストの教会であるからです。わたしたちの教会も、神を恐れる信仰者の群れでありたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天におられる主なる神よ、わたしたちをすべての恐れから解放し、ただあなたのみを恐れる者としてください。あなたのもとにこそ、真実の平安があり慰めがあり、また希望があることを固く信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月3日説教「真の神であり、真の人」

2021年10月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「真の神であり、真の人」③

 『日本キリスト教会信仰の告白』の冒頭の文章、「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリストは、真の神であり真の人です」、この個所の「まことの神であり、まことの人」について、これまで2回にわたって学んできました。きょうは3回目です。この一句に、これだけの時間をかけて学ぶ理由は、それだけこれが重要な告白であるからです。わたしたちが救い主であると信じている主イエス・キリストは、永遠に、まことの神、完全なる神であり、また同時に、永遠に、まことの人、完全な人であられる。そのようなまことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストこそが、わたしたちの罪を、一回の十字架の死によって、完全に、永遠に、贖うことができ、わたしたちのすべての罪をゆるすことができ、また、わたしたちに復活の希望を与えてくださり、わたしたちの死すべき体を朽ちることのない霊の体に変え、神の国での永遠の命の約束をお与えくださる。そのようにして、わたしたちの唯一の、完全な救い主であられる。これがわたしたちキリスト者の信仰の中心だからです。もし、主イエスが、まことの神ではないとか、まことの人ではないということになれば、わたしたちの救いは不完全なものになってしまうからです。

キリスト教会はこれまでの2千年の歴史の中で、主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を確立するために、それを否定する様々な異端的な教えと戦ってきました。「まことの神であり、まことの人」という告白が最初に確立されたのは、紀元451年に小アジアのカルケドンで開催された世界教会会議で決議された『カルケドン信条』においてでありましたが、その後の16世紀、宗教改革の時代、大きな世界戦争を引き起こした20世紀、そして今日わたしたちが生きている21世紀と、いつの時代にも教会はさまざまな異端的な教えと戦い、また教会の外からの多くの誘惑やチャレンジと戦いながら、主イエスはまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を貫き通してきました。

近年になってからのいくつかの例を挙げるならば、現在のキリスト教三大異端と言われる統一協会(正式にはは世界平和統一家庭連合)、ものみの塔(エホバの証人とも言います)、それにモルモン教、これらの異端はみな一様に三位一体論を否定し、主イエスがまことの神であり、まことの人であるという信仰告白を放棄しています。その結果として、主イエス・キリスト以外にも救い主がいるかのように教えています。それらの教派の創立者、教祖やその教えが、主イエス・キリストと聖書以外にも、救いに必要な役割を演じています。

第二次世界大戦のドイツでは、ドイツ第三帝国総督ヒトラーがドイツ国民の救い主として、神のようにあがめられていました。日本でも天皇は現人神とされ、国民は絶対服従を強いられました。その中で、戦時下の教会は主イエスのみが唯一の救い主であり、まことの神、まことの人であるとの信仰告白を貫き通すことができなかったという、大きな破れや欠けを覚えざるを得ません。わたしたちの身近にも、多くの神々と言われるものがあり、わたしたちの心を支配しようとするさまざまな神のような存在にわたしたちは取り囲まれています。

そのような中で、わたしたちが主イエス・キリストがわたしたちの唯一の救い主であり、まことの神、まことの人である。この主イエスにわたしたちの救いのすべてがある。わたしたちの命のすべてがある。わたしたちが生きるべきすべての道が示されていると告白することは、確かに困難な信仰の戦いを必要とします。けれども、長い教会の歴史と伝統を受け継ぎながら、今も生きて働きたもう聖霊なる神のお導きを信じながら、また最後の勝利をお与えくださる主イエス・キリストを仰ぎながら、前進していくことがゆるされているのです。わたしたちが「主イエス・キリストはまことの神であり、まことの人です」と、正しく告白することこそが、その信仰の戦いを力強く進めていく力になるのです。

前回は、主イエス誕生の記録、それはマタイによる福音書1章とルカによる福音書1、2章に書かれていますが、その中で主イエスが誕生の時から、まことの神であられたことが繰り返して告白されていることを確認しました。主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになりましたが、その命は聖霊によるのであり、そこには人間の営みが全く関与しておらず、100パーセント神のみわざであり、神から生まれた神のみ子であり、まことの神であるということが書かれています。『使徒信条』で「おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。

主イエスが神のみ子であり、神ご自身であるという聖書の教えをさらに挙げていきましょう。第一に、主イエスの説教が神の権威によって語られたということ、預言者や律法学者のようにではなく、権威ある者のように語られたことを多くの人々が驚いたと、マタイ福音書7章28節に書かれています。主イエスがお語りになる言葉は、神のみ言葉そのものでありました。ルカ福音書4章には、主イエスが故郷ナザレの会堂で説教されたときに、イザヤ書のみ言葉を朗読されたあとで、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。主イエスは神のみ言葉を預言したり、またそれを解説されるのではなく、主イエスが神のみ言葉をお語りになるまさにその時に、神のみ言葉を成就され、神の救いのみわざを実行される、神ご自身であられるのです。

第二には、主イエスは神の権威によって罪のゆるしを宣言されました。罪をゆるすことは神以外にはできません。罪は神に対するわたしたち人間の不正であり負債であるからです。それをゆるすのは神だけです。主イエスは「娘よ、あなたの罪はゆるされた。安心して行きなさい」と言われ、「子よ、わたしはあなたの罪をゆるす」と言われ、「婦人よ、わたしはあなたを罰しない。お帰りなさい。これからはもう罪を犯さないように」と言われました。主イエスはまた十字架の上で、「父よ、彼らをおゆるしください」と祈られました。主イエスの地上の歩みのすべては、そして特に十字架の死は、まことの神として、神の権威とあわれみによって、人間の罪をゆるすための歩みでありました。まことの神である主イエスこそが、また主イエスだけが、わたしたち人間の罪を完全にゆるすことがおできになります。

第三に、主イエスはまた、神の権威によってガリラヤ湖の嵐を静められ、湖の上を歩かれ、多くの病める人をいやされました。不治の病と考えられていた重い皮膚病の人をいやされ、生まれつき目が見えない人の目を開かれ、悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出されました。それらの奇跡のみわざは、主イエスが神の権威によって自然を支配しておられること、神がお造りになったすべての被造物の主であられること、そしてこの世の人間たちを悩ましているすべての悪霊、悪しき力をご自身の支配下に置かれ、新しい神のご支配、神の国を来たらせる神のみ子であられることを証ししています。

第四に、主イエスは十字架の死によって、ご自身が神のみ子としての罪も汚れもない清い血、尊い血を流され、その血をわたしたちすべての人間の罪の贖いのための供え物としておささげになり、それによってわたしたちを罪の奴隷から解放してくださったということです。旧約聖書時代には、エルサレムの神殿で、聖別された動物の血がイスラエルの民の罪を贖うためにささげられていました。しかし、それは人間の血の代用品であるゆえに、不十分な贖いでしかありませんでした。そのために、エルサレムの神殿では毎日繰り返して動物の犠牲がささげられていました。

ただ、神のみ子であられ、まことの神であられる主イエス・キリストの聖なる血だけが、すべての人の罪を永遠に贖う力を持っているのです。まことの神であられる主イエス・キリストの十字架こそがわたしたちの唯一の、そして完全な救いなのです。わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音を聞き、信じることによって、罪ゆるされ、救われるのです。まことの神であられる主イエス・キリスト以外には、わたしたちの救いはありませんし、どこかほかの場所に、ほかの人に、救いを求める必要もありません。

第五に、主イエスは十字架の死の後、三日目に墓から復活され、そして40日目に天に昇られました。今は父なる神の右に座しておられます。『使徒信条』の中で「全能の父なる神の右に座しておられます」と告白されています。主イエスは罪と死に勝利され、天に凱旋帰国されました。それによって、まことの神であられることを最終的に証しされたのです。主イエスは今もまことの神として、天の父なる神の右に座しておられ、わたしたちのために執り成しをしておられます。そして、終わりの日に、最後の審判の時には、わたしたちひとり一人の弁護人となって、わたしのかたわらに立ってくださり、わたしを神のみ前で義なる者と認めてくださり、わたしのすべての罪と重荷と労苦とを取り去ってくださり、朽ちることのない永遠の命を与え、神の国へと導いてくださるのです。まことの神であり、まことの人であられる主イエス・キリストが最後の日にこの地に再臨され、神の国を完成させてくださることを、わたしたちは希望と喜びとをもって待ち望むのです。

まことの神であられる主イエスは、また同時にまことの人であられます。主イエスがまことの人であられたということも、聖書の至るところで証言されています。主イエスはマリアからお生まれになりました。布でくるまれ、飼い葉おけの中に寝かされました。12歳の時、両親と一緒にエルサレムで過ぎ越しの祭りに参加されました。30歳の時、神の国の福音を宣べ伝えるために家を出られました。それからおよそ3年後、ユダヤ人指導者たちによって裁判にかけられ、十字架で血を流され、死なれ、墓に葬られました。主イエスは誕生から葬りまで、わたしたち人間と全く同じ道を歩まれました。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」と書かれてあり、またペトロの手紙一2章22節では、イザヤ書53章9節のみ言葉を引用して、「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」とあり、そしてコリントの信徒への手紙二5章21節では、「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」と教えられています。

神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となってくださったのです。神は、神ご自身であることをおやめにならずに、まことの人となられ、しかもすべての罪びとたちにお仕えくださる僕(しもべ)・奴隷となられて、苦難と十字架の死の道を進まれたのです。それゆえに、まことの神であられ、まことの人であられる主イエス・キリストによって、わたしたちはみな罪ゆるされ、救われるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたが罪のこの世を顧みてくださり、愛してくださり、あなたのひとり子の十字架の血によって救ってくださいましたことを、心から感謝いたします。あなたに愛され、救われているひとり一人として、あなたと隣人とに仕える者となりますように、お導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。