6月26日説教「あなたがたは私を誰と言うか」

2022.6.26  説教 マルコによる福音書8章27~33節

 「あなたがたは私を誰と言うか」

説教 長老 柴田 理

本日与えられた御言葉は、マルコによる福音書8章27~33節です。

 その頃主イエスは弟子達を連れて、ガリラヤ湖の北の方にある、フィリポ・カイザリヤの村々を巡っていました。

 主イエスはこの頃までに主な伝道を終え、エルサレムに向かって受難への道を歩き始めます。その折り返し点での出来事を記したのが今日の箇所です。

 主イエスは道すがら、弟子達にお尋ねになります。“人々は私のことを何者と言っているか?”

主イエスは公の生活を始めてからこれまで、カナの婚礼で水を葡萄酒に変えたことを皮切りに、数々の奇跡を行っておいでになりました。足の不自由な人を歩かせ、友人達に屋根の上から吊り下ろされた中風の人を癒し、ラザロのように亡くなった人をも生き返らせました。また、山上での説教に代表されるように、人々に福音を告げ知らせました。多くの人が主イエスの権威ある言葉に驚き、癒しに感謝し、悲しみから解き放たれました。その噂はユダヤの広い地域に広がっていました。

 そのような中で、主イエスは弟子達に問われたのです。“人々は私のことを何者と言っているか”。

 弟子たちが答えます。“バプテスマのヨハネと言っている人たちがいます。エリヤだという人たちもいます。また、預言者の一人と言っている人たちもいます。”

 バプテスマのヨハネは、御存じのように主イエスを指し示し、その道を整えるために遣わされた、旧約時代最後の預言者です。

……また、主イエスをエリヤだという人たちがいました。エリヤは、ユダヤの国が北イスラエルと南ユダに分かれてしまった後の北イスラエルの預言者でした。やもめの息子を生き返らせるなどの奇跡を行い、最後は火の戦車に乗って天に上げられました。そして、世界の終わりの日、神様の御支配が完成する前に再び現れるとされていました。

 さらに、預言者の一人だという人たちもいました。

 主イエスの権威ある教えや数々の奇跡から、人々は主イエスのことをただならぬ人と捉えていたことは間違いないことです。しかしいずれにしても神の子ではなく、神の恵みを受けた優れた人と捉えていました。

さて、主イエスは弟子たちの答を聞いてさらに問います。“それではあなたがたは私を誰と言うのか”

 “ちまたにいる人たちではなく、弟子として福音を伝えるために召し出され、そば近くにいて私と行動を共にし、わたしの働きを目の当たりにしてきたあなたたちは、私を誰と言うか”、と問います。

 するとペトロが答えます。“あなたはメシアです”。新共同訳聖書では“あなたはメシアです”と訳されていますが、元のギリシャ語の聖書では“キリスト”と記されています。

 キリストとは“油注がれた者”という意味で、ヘブライ語のメシアをギリシャ語に訳したものです。王が位に就く時に、また、祭司や預言者が聖別される時に頭に油を注がれたことに由来するものです。

 主イエスの頃に人々が考えていたメシアとは、ダビデの家系に生まれ、エルサレムを踏みにじっている異邦人たちを追い出し、栄光と繁栄のうちにダビデの王国を回復してくださる方とされていました。

 そしてペトロは弟子達を代表してはっきりと“あなたこそキリストです”と告白しました。

 さて、続いて主イエスは、御自分がこれからどのような道を辿るかを弟子達にお教えになりました。 31節を読みます。“それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者達から排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた”。

長老、祭司長、律法学者とは、ユダヤで最も力と権威のある議会、最高法院の構成員です。つまり、キリストである主イエスが、この世での神の代理者とも言える人々から捨てられ、殺されることを意味しています。

 これはまさに、弟子達がたった今“あなたはキリストです”と言った告白が意味するところです。主イエスは“そうだ、あなたたちの告白は正しい。その私は間もなく苦難を受け、祭司長や律法学者らによって十字架につけられ、3日目に復活する、それが父の御心である”とはっきりとお示しになったのです。

 しかしこれは、弟子達が思い描いていたキリストの姿とは全く違うものでした。

 ローマの支配にあえぐイスラエルの人々が待ち望む王としての救い主であり、イスラエルを再び甦らせるメシアが多くの苦しみを受け、最高法院によって捨てられ、殺されてしまう。しかも主イエスはそれが神の御心であるとおっしゃるのです。

 それまでの権威ある教え、5千人の食事、癒し、湖の上を歩く……これらは苦難とは無縁のように思われました。しかしローマの支配を打ち破ると期待された方は、苦難を受けて死に至る。しかもその苦難はユダヤで最も信仰深いとされた人々によって下される。それが神様のお決めになったことであって、さらに主イエスはそれらを甘んじて受け入れるつもりでいらっしゃる。

ペトロをはじめとする弟子達にとっては全く理解しがたく、受け入れられないもの、あってはならないことでした。

 弟子達は、いわば自分たちの願望に従って、イエスの終わりは当然栄光に満ちているものであり、すべてに勝利し、イスラエルを押さえつけている一切の事柄から解き放たれて王となるものと信じていたのです。

 ここでペトロは、“主イエスを脇へお連れしていさめ始めた”とあります。別の訳によると、“ペトロが彼を連れ出し、叱りつけ始めた”とされています。マタイによる福音書には、ペトロが“主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません”と、主と弟子の関係を弁えない強い口調で諫めたことが記されています。弟子達は主イエスの低さを受け入れられなかったのです。

 主イエスは振り向いて弟子たちを見て、ペトロを叱りつけました。“サタン、私の後ろに下がれ。” 私の前に立ちふさがって苦難への道を遮るのではなく、私の後ろから従ってくるように、とおっしゃるのです。

主は弟子達の中に、自分を十字架への道から逸らそうとするサタンの誘惑を認められたのです。

 “あなたこそキリストです”と正しい告白をした弟子達でしたが、その中身はまだ極めて未熟な信仰だったのです。

 主イエスはこの後、二度にわたってご自分の死と復活を予告なさいました。しかし弟子達は霊に憑かれて発作を起こす男の子を癒すことができずに主イエスから信仰のなさを指摘されました。また自分達の中で誰が一番偉いかと議論して諭されています。さらに、ゲッセマネの園で主イエスが必死に祈っている時に3度も眠りこんでしまい、主イエスの逮捕と共に逃げ去ってしまいました。大祭司カヤファの庭ではペトロが3度主イエスを知らないと誓い、十字架の下に主立った弟子は一人もいませんでした。その上主イエスが甦られた日、弟子達はマグダラのマリアが復活を証言しても信ずることなく、おそらくエマオに行く途中に主イエスと出会った二人の弟子が復活を告げても信じることができませんでした。

 では、今を生きる私達は主イエスをどのような方と告白するのでしょうか。主は問います。“あなた方は私を誰と言うか”

私達は弟子達と同じように“あなたこそキリストです”と告白することができます。

 しかしその時、私たちはこの時の弟子たちよりもしっかりと、“あなたこそキリストで す”と告白したことの示すところを受け止め、自分のこととしていると言えるでしょうか。

 そして、主イエスが私のために、この罪の中にある私自身のために天から降りてくださり、私自身を贖ってくださるために十字架について下さり、神は私自身のために主イエスを死人の中から立ち上がらせ、永遠のいのちの保証を与えてくださり、主イエスは今も神の右にいて取りなしてくださっていることを自分自身のことと捉えた上で、“あなたこそキリストです”と告白できているでしょうか。

……主の問いかけに“あなたこそキリストです”と告白する時、人にはその告白にふさわしい生き方が求められます。告白は主に真摯に向き合った応答であり、同じくその応答として、告白と一体となった生き方へと導かれるのです。日々の生活が信仰告白になるのです。

 “あなたがたは私を誰と言うか”。“あなたこそキリストです”。では私達が主イエスをキリストと言う時、どのような生き方をするのでしょうか。

 主の日毎に教会に通い、主を褒め讃え、罪を赦されて御言葉に聴いている私達は、自分にはまあそこそこの信仰がある”と密かに自負していないでしょうか。私達の教会には牧師がいて、教会員は毎週御前に立っていると、いわゆる“心地よい敬虔さ”にんでいないでしょうか。

 ヨハネの黙示録3章15節、16節に良く知られた1節があります。“私はあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであって欲しい。熱くも冷たくもなく、生温いので私はあなたを口から吐き出そう。”

 100%の信仰には、人は地上の生涯では到達し得ません。しかし今いるところから少しでも上げて頂くために、祈り、求め続けるのです。自らの努力に拠るのではなく、導き続けていただけるように。

 主イエスは未熟な弟子達を最後までお見捨てになりませんでした。

 そして今、主イエスは世に聖霊をお送り下さっています。私達はその聖霊に自分を明け渡し、信仰が深められること、またそのことへの応答としての生き方ができるように願い求めるのです。

 さて、今日の箇所で、もう一つ気付かされることがあります。

 主イエスは弟子達に“あなた方は私を誰というか”と問われました。“ペトロ、あなたは私を誰というか”ではありません。ペトロを含む弟子達、すなわち弟子達の群れに問われたのです。

 マルコによる福音書1章によると、主イエスはガリラヤ湖の畔で初めに、後にペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンドレを召し、続いてゼベダイの子ヤコブとヨハネを召しました。そして3章によると、主イエスはイスカリオテのユダを含む12人を中心となる弟子とし、使徒と名付けられました。彼等は常に主イエスと行動を共にし、また時には二人ずつ伝道に遣わされ、再び主イエスの下に帰ってくる、ひとつの群れでした。

 主イエスはこの時、一人一人の弟子ではなく、主イエスに導かれる群れとして、御自分をどのように信ずるかを問われたのです。“あなたこそキリストです”と告白したのは、ペトロ一人の信仰ではなく、弟子達の群れとしての信仰を告白したのです。

 既にお話ししましたように、弟子達はこの告白の後も、数々の失敗を繰り返します。

 しかしこのような不信仰・不服従が延々と続く弟子達に対しても、主イエスは復活した時のことについて“私はあなた方より先にガリラヤに行く”と告げました。弟子達を見捨てることなく、ガリラヤで待っていると、弟子達を招くのです。そしてペンテコステの時に聖霊をお送り下さって、三千人もの人々を召されて教会をお作りになりました。

 キリストに結ばれた、キリストによってこの世から選び出された者達の群れ、教会は今に至るまで続いています。どれほど未熟な信仰でも、主はそれを育て、その群れを御自身のために用いてくださるのです。

 そして今を生きる私達に問われることは、キリストの葡萄の木につながれた枝として“公同の教会に繋がり、日本キリスト教会の会員としてあなたは私を誰と言うか”と言うことです。そこに属するあなたの信仰は何かが問われているのです。

 洗礼式の時、洗礼を受けようとする人は牧師によって誓約を求められます。

“あなたは神を信じますか。”、“あなたは主イエスキリストを信じますか”、“あなたは聖霊を信じますか”、“父と子と聖霊の御名において洗礼されることを願いますか”。そして、“あなたは日本キリスト教会信仰の告白を誠実に受け入れ、その憲法・規則に従うことを誓約しますか”と問われます。群れとしての信仰を受け入れることが求められるのです。

 牧師や教職者を持たない教派のように、一人一人が聖書と向き合って個々人の信仰を深めるということではありません。個人としての信仰が深められることは必要ですが、私達はまず群れの信仰を受け入れ、それを土台として自分の信仰が紡がれていくのです。

 教会と言う言葉には、呼び出すという意味があります。主体は個人ではなく、呼び出され、集められた人の群れ、救われた人の群れなのです。

 主はその中に、救われた人の群れの中に私たちを置いてくださり、主の日毎にきょうだいと共に御前に立つ礼拝を通じて、説教と聖礼典を通じて、未熟な信仰を成長させてくださるのです。

“あなた方は私を誰と言うか”

 私達は教会において、日々主イエスの“あなた方は私を誰というか”という問いに真実に向き合い、“あなたこそキリストです”と告白し続けるのです。

祈りましょう。

 主なる神様、あなたの御名を褒め讃えます。

 主の日に教会に集められ、きょうだいと共にみ前に立ち、主を讃え、罪を告白し、これを赦され、御言葉に聞けますことを心から感謝いたします。

 どうか公同の教会に繋がる私達を慈しみ、終わりの日に向かって成長させてください。

 日本キリスト教会をあなたの省みの内に置いてください。大会、中会、神学校、及びそれらに伴う組織を支えるきょうだいをあなたの祝福の内においてください。新たに牧者を志すきょうだいを立ててください。

 戦争、内乱、災害、差別、病、いじめ、虐待などにより、弱さの中にあるきょうだいをお守り下さい。国々の先頭に立つ者達を御心に従わせてください。

 この週も世界があなたの御心のままにありますように。主の御名によって祈ります、アーメン。

6月19日説教「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

2022年6月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:ホセア書6章1~3節

    コリントの信徒への手紙一15章12~28節

説教題:「復活して永遠のいのちの保証を与えた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは前回に引き続いて、「復活して永遠の命の保証を与え」という告白について学びます。前回は、主イエスご自身の復活の出来事を中心に学びましたが、きょうは、主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるということについて、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 前回にも指摘したことですが、『日本キリスト教会信仰の告白』の「前文」と後半の『使徒信条』とを比較してみると、『使徒信条』では第二項目の「わたしは主イエス・キリストを信じます」の中で主イエスの十字架と復活のことが告白されており、第3項目の「わたしは聖霊を信じます」の中で、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちのことが告白されています。それに対して、「前文」ではその二つの項目が一続きで告白されています。

 つまり、主イエス・キリストが人類の罪のため、すなわち、わたしたちの罪のために十字架につけられ、それによって完全な犠牲をささげてくださった、そのことがわたしたちのための罪からの贖いであったということが、同じ一つの文章の中で告白されており、主イエスの復活もそれと同じです。主イエスの復活がわたしたち信仰者に永遠の命の保証を与えるものであるということが、「復活して永遠のいのちの保証を与え」と、二つのことがあたかも一つのことであるかのように告白されています。これほどまでに、主イエスの救いのみわざとわたしたちに与えられる恵みとが密接に、また堅く、結合していることが「前文」では強調されているのです。

これは、主イエスのご生涯とそのみわざのすべてが、わたしたちのためであったことと関連しているのは言うまでもありません。主イエスの誕生、ご生涯、奇跡やいやしのみわざ、弟子たちに語られた説教、そしてご受難、十字架の死、三日目の復活、40日目の昇天、それらのすべては、わたしたち人間の罪のゆるしと救いのため、わたしたちのからだの復活のため、わたしたちの永遠の命のため、わたしたちの救いの完成のためだったのです。主イエスのご生涯全体とわたしたち信仰者の救いの恵みとは密接に結びついているのです。

 では、主イエスの復活の出来事とわたしたち信仰者の永遠の命の保証とは、どのように結ぶついているのか、その関連について聖書はどのように教えているのかをみていきましょう。

 福音書の中には、主イエスの復活とわたしたちの命の保証とが直接に関連づけられている聖句はありません。福音書は主イエスの復活の出来事で終わっているからです。主イエスの復活と聖霊降臨後、教会が誕生し、パウロの書簡になって初めて両者の関連が頻繁に語られます。では、それはパウロの信仰、パウロが考え出した神学と言うべきなのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスの復活の出来事以前に、主イエスご自身の信仰の中にはっきりとあったということを、わたしたちは福音書の中に確認することができます。主イエスは弟子たちに繰り返して説教されました。「わたしを信じ、わたしに従ってくる人は、まことの命を得るであろう。その人は、来るべき神の国では永遠の命を受け継ぐであろう」と。

 特に、ヨハネによる福音書では、主イエスを信じる信仰と永遠の命の結びつきが強調されています。3章16節にこのように書かれています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。また、【6章39~40節】(175ページ)。さらに、【11章25~26節】(189ページ)。

 これらは、主イエスがご自身の復活と、信仰者に与えられるであろう永遠の命を預言したみ言葉として読むことができます。主イエスはご自身の十字架の死と三日目の復活をあらかじめ弟子たちに予告されただけでなく、復活されたあとに弟子たちと信じる者たちすべてに、朽ちることのない、死によっても終わることがない、永遠の命をお与えになることをもあらかじめ約束しておられました。

 では次に、パウロの書簡を見ていきましょう。パウロの書簡では、主イエスの復活と信仰者に約束されている永遠の命とが、別々に語られるという例はほとんどなく、両者の結びつきが多くの箇所で強調されています。その代表的な個所が、きょうの礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章です。この章全体が「復活の章」と言われていますが、ここでは主イエスの復活の出来事とそれを信じる信仰者の体の復活、永遠の命が密接に関連していること、切り離すことができないことが繰り返して語られています。

 パウロはまず3節から、彼自身が初代教会から受け継いだ信仰告白の中で、主イエスの復活と、復活された主イエスの顕現について語り、さらにはパウロ自身にも復活の主イエスが出会ってくださったことを感謝と驚きとをもって語った後で、12節以下では、主イエスの復活を信じながら、信仰者の復活はないと主張しているコリント教会の一部の人たちの誤った信仰を正すために、次のように語ります。「主イエスの復活と信仰者の体の復活とは分かちがたく結びついているのであるから、もし信仰者の体の復活を否定するなら、主イエスの復活をも否定することになるのであって、それはキリスト教会の信仰と宣教の基礎を失うことになるではないか」と、彼は熱っぽく語ります。したがって、ここでは当然、主イエスの復活と信仰者の体の復活、永遠の命との固い結びつきが強調されていることが分かります。

 もう1箇所、ローマの信徒への手紙6章を読んでみましょう。【3~8節】(280ページ)。ここでは、主イエスの死と復活が、わたしたち信仰者が古い罪の体に死に、新しい復活の命に生きること、つまり主イエスの出来事とわたしたちの信仰の体験、その二つのことが洗礼という礼典において同時に起こっていると語られています。ここでも、主イエスの復活と信仰者の永遠の命とが固く結ばれています。

 では次に、そのような両者の固い結びつきはどこから来るのでしょうか。そのことを語っている箇所を読んでみましょう。【ローマ8章11節】(284ページ)。ここでは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神が、またその父なる神から遣わされた霊、聖霊によって、わたしたち信仰者にもまことの命を、死に勝利した永遠の命をお与えくださるであろうと言われています。主イエスの復活とわたしたち信仰者の復活、永遠の命とを固く結びつけているのは、主イエスを死人の中から復活させられた父なる神の力であり、また聖霊なる神なのです。主イエスご自身の復活の中に、わたしたち信仰者の復活と永遠の命の約束と保証がすでに含まれていると言ってよいでしょう。主イエスはわたしたち滅びゆく者たちに永遠の命を約束するために、死の墓から三日目に復活されたのです。『日本キリスト教会信仰の告白』で「主イエスは復活して、永遠の命の保証を与え」と告白されているのは、そのことです。

 『信仰告白』の中の「保証を与え」とは、まだそれは実際には与えられていないが、やがて必ずや与えられるという確かな保証があるということを意味しています。。再び、コリントの信徒への手紙一15章に戻りましょう。20節にはこう書かれています。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」。「初穂」とは、麦や野菜、果物などの最初の実りのことです。イスラエルの民は初穂を自分たちの食用にしないで、神にささげました。初穂は神からの恵みの賜物だからです。その初穂には間違いなく次の収穫が続くことを神は約束しておられます。主イエスの復活には間違いなく信じる者たちの復活が続きます。復活の初穂である主イエスの復活は、わたしたち信仰者の復活の確かな保証なのです。

 20節の「死者の中から」と「眠りについた人たち」はいずれも複数形です。主イエスお一人だけを言うのではありません。主イエスは、罪のゆえに死すべきすべての罪びとたちの中に入ってきてくださり、そのお一人となって十字架で死んでくださいました。また、主イエスは主イエスの復活を信じるすべての信仰者の代表者として、死に勝利され、復活されました。それによって、わたしたちに復活と永遠の命の確かな保証をお与えくださったのです。

 この確かな約束と保証は、終わりの時、神の国が完成し、主イエスが神の国の王として君臨され、最後の敵である死を完全に滅ぼされる時に、実現します。しかし、主イエスの復活を信じる信仰者にとっては、主イエスがすでにご自身の十字架の死と復活によって、罪と死とに対して勝利しておられることを知らされているゆえに、そして聖霊によって、復活と永遠の命の確かな保証を与えてくださっておられるゆえに、主イエスを信じる信仰者にとっては、今すでにその永遠の命に生き始めていると言えるのです。

 永遠の命とは何かということを確認しておきましょう。わたしたちはこれまでに何度も聖書のみ言葉から学んできたように、永遠の命とはこの世にある今の命が永続するということではありません。今の命は、どれほどに引き延ばしたとしても、それはいずれか滅びなければならない命です。聖書が教える永遠の命とは、この世の命の延長ではなく、全く新しく主イエス・キリストから与えられる命であり、復活され、今も、そしていつまでも生きておられる主イエス・キリストと共にある命であり、父なる神との永遠の交わりの中で生きる命のことです。主イエスがマタイによる福音書28章20節で、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたみ言葉を信じる信仰者に与えられる命のことです。

 第二には、それは死を乗り越えた命のことです。あえて言うならば、死から始まる命のことです。主イエス・キリストの十字架と共に、古い罪に支配されていたわたしが死に、主イエスの復活によってわたしが新しい命に生かされる命であり、主イエスによって罪ゆるされた命のことです。

 第三に、それは、この世に属する命ではなく、来るべき神の国に属する命のことです。ヨハネの黙示録21章3~4節でこのように語られている命です。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。主イエス・キリストの復活を信じるわたしたちは、この永遠の命へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ち果てる命のためのパンだけによって生きるのではなく、永遠の命へと至らせるあなたのみ言葉を信じて生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月12日説教「ステファノの説教(三)モーセの召命」

2022年6月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記3章1~15節

    使徒言行録7章23~35節

説教題:「ステファノの説教(三) モーセの召命」

 使徒言行録はペンテコステの日に誕生した初代教会の歴史を描いています。先週の日曜日が、そのペンテコステ、弟子たちに聖霊が注がれて教会が誕生した日の礼拝でした。主イエスの誕生が紀元1年とすると、ペンテコステは紀元30年代前半の今ごろの季節になります。エルサレムに誕生した教会は、その後数十年の間に急激にパレスチナから小アジア地方、ヨーロッパ、当時の世界の中心都市ローマと、さらにその西当時世界の果てと言われていたスペインに、そしてやがて全世界へと拡大され、今日に至るまで継続されています。世界の教会の歴史はおよそ2000年、秋田教会の歴史はそのうちの近年130年間が重なっていることになります。

 使徒言行録7章に書かれているステファノの説教は、主イエスの時からさらにさかのぼり、紀元前19世紀ころのアブラハム、イサク、ヤコブの族長時代から始まって、きょうの礼拝で朗読された23節からはモーセが40歳になって、神の召命を受けてイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出す指導者として立てられることが語られています。これは、紀元前1280年ころと考えられています。

神がアブラハムとモーセをお選びになって、イスラエルの民をご自身の契約の民とされ、神の救いのみわざをお始めになったときから数えると、およそ4千年間の神の救いの歴史の中に、わたしたち秋田教会の130年の歴史が位置付けられるということになります。きょうの使徒言行録のステファノの説教を学ぶにあたって、そのような神の永遠なる救いのご計画の中にわたしたち秋田教会もまた連なっている、その中に招き入れられているということを、まず最初に覚え、そのことを神に感謝したいと思います。

 ステファノはキリスト教会最初の殉教者となった人です。7章の長い説教、これは実はユダヤ最高法院での裁判の席で被告席に立たされた彼の弁明なのですが、その説教が終わったあとすぐに、58節で彼は石打の刑で処刑されました。この説教が、彼の殉教の死直前の説教であり、彼の説教の内容そのものが殉教の死を招く直接的な原因になったのであり、これはまさに彼の命をかけた説教であり、殉教の血に直結する説教であるということを考えると、わたしたちは身の引き締まる真剣な思いとならざるを得ません。

 23節からは、モーセが40歳になってからのことが語られます。ステファノはモーセの120年の生涯を3つに区切り、誕生からエジプト王宮で育てられ、エジプトの教育を教え込まれた40年間(17~22節)と、エジプトで同胞の民イスラエル人が虐待されている現実を目撃し、事件を起こしてミディアン地方に身を隠していた40年間(23~29節)、そして出エジプトから荒れ野の40年間の旅(30節以下)にまとめています。

 23節の「40歳になったとき」と30節の「40年たったとき」は、いずれも原典のギリシャ語を直訳すると、「彼の40年間が満ちたとき」となります。ここには、神がモーセの生涯のそれぞれの40年の期間を、神が計画しておられた救いの期間と理解し、それぞれの救いの期間が神によって満たされたという理解があるように思われます。23節と30節は、17節に連続しているからです。

【17節】。モーセは生まれてすぐにファラオの命令によってナイル川に捨てられましたが、神の奇跡によって、ファラオの娘に救い上げられ、王宮で育てられ、エジプトの最高の教育を受けたこと、そこには神の見えざるみ手の働きがあったということ。エジプト人として育てられたモーセであったが、彼は決してエジプト人になったのではなく、神に選ばれた民、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫として、神の契約の民イスラエルに連なるモーセとして、彼をとおしてなされるであろう神の救いのご計画は、この期間も着実に前進していたのだということ、そのことを17節は語っているように思われます。

そして、次の40年間も、その次の40年間も、モーセに対する神の救いのご計画が満ちる期間となることが23節と30節に予告されているのです。では、23節を読みましょう。【23節】。それは彼自身の願いというよりは、25節にあるように、「自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられる」とモーセが信じたからです。けれども、モーセも、また彼の同胞のイスラエル人も、この時点ではまだ神の本当の救いのご計画を悟ってはいませんでした。モーセは、奴隷として苦しめられていた同胞を見て、相手のエジプト人を殺すことによって同胞の民を解放できると考えていました。しかし、暴力に対して暴力をもってしても、そこには本当の救いはありません。彼が神の救いのみ心を正しく知るためには、なおしばらくの訓練の期間が必要です。

また同胞のイスラエル人は、エジプト王宮で育ったモーセを自分たちの同胞だとは認めていなかったようです。神がモーセを用いてイスラエルの民をお救いになるということは、彼らにはまだ理解されてはいませんでした。彼らはこう言ってモーセを非難しています。「だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか」(27、28節)。モーセは奴隷として苦しめられていた同胞の民を救うためにエジプト人を殺したのに、そのことが同胞のイスラエル人には理解されず、受け入れられませんでした。イスラエル人がモーセを神から遣わされた自分たちの指導者として認めるためには、なおしばらくの期間が必要になります。

モーセはファラオに命をねらわれていることを知り、シナイ半島の西、ミディアン地方に逃れ、その地で祭司の職にあったエトロのもとに身を寄せ、彼の娘ツィポラと結婚をし、二人の子どもの父親となりました。ミディアン地方でのモーセのことについては出エジプト記でも詳しくは書いていませんが、この期間は彼にとっては信仰の訓練の期間であったと推測されます。また、神の召命のみ声を聞くときまでの待機の期間でもありました。神がこの第二の40年間という期間を満たしてくださるまで、モーセは信じて待ち望む必要があったのです。

次に、30~34節を読みましょう。【30~34節】。モーセがシナイの荒れ野で見た幻は「燃える柴の幻」と言われます。ステパノはその詳細を語っていませんが、柴が燃えているのにいつまでも燃え尽きることがないという不思議な幻でした。この幻は、イスラエルの民がエジプトで苦難を受け、虐待され、迫害されても、神の民であるイスラエルは決して滅亡することないということのしるしであり、また同時に、ご自身の民に対する神の情熱と愛はいつまでも変わることなく、永遠に燃え続けるということのしるしでもありました。

モーセはこの幻を見て励まされ、新たな力を与えられ、忘れかけていたエジプトにいる同胞イスラエル人を助けるという彼の使命を再び思い起こしたのでした。そして、燃える柴の中から、今度ははっきりと神のみ声を聞きました。「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサク、ヤコブの神である」と。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」という言い方は、旧約聖書でも新約聖書でも、何度も繰り返されています。この表現には二つの大きな意味があります。一つには、神が最初にアブラハムを選ばれ、彼と結ばれた契約は、その子イサク、その子ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたち、イスラエルの民へと受け継がれ、さらにその契約は、主イエス・キリストによって全世界の教会へと受け継がれていくのであって、神の選びと契約は永遠に変わらないということが言い表されているのです。

もう一つは、本来はこちらが本質なのですが、神はアブラハムの神であり、その子イサクの神であり、ヤコブの神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神であり、教会の神であり、そしてわたしたち一人一人の神である、そのように、神は永遠なる神であり、神の愛と義と真理とは永遠に変わらず、神の救いのみわざはどのような時代の変化や状況の変化にも変わることなく、永遠に継続されていくという意味です。

使徒言行録で語られているステファノの説教の文脈で考えるならば、神が最初アブラハムに語られた契約、「わたしはお前を祝福する。お前はすべて信じる人々の祝福の基となる。わたしはお前の子孫を星の数ほどに、海の砂の数ほどに増やす。またわたしはお前とお前の子孫とにこの約束の地を嗣業として与え、神の国を受け継がせる」、この神の契約は、イスラエルの民が400年間エジプトに寄留し、そこで奴隷として虐待され、苦しめられていても、決して神はお忘れにはならない。神はエジプトで奴隷の民とされたイスラエルの神であり続け、イスラエルの民と結ばれた契約は彼らの苦難の中にあっても決して破棄されることはない。その契約は確かな成就に向かっている。神は燃える柴の中からモーセにそのようにお語りになったのです。

神はイスラエルの民の苦難をご覧になっておられ、彼らの苦悩の叫びを聞かれ、それゆえに、天におられる神が地に降って来られ、直接にご自身のみ手をもって彼らをお救いになると言われます。そのために、モーセを遣わすと言われます。ここに至って、モーセはイスラエルの民に対する神の救いのみ旨をはっきりと知らされ、同胞の民を助けたいとの彼の願いが、彼自身の願いである以上に、神の願いであり、神の強い意志であり、永遠に変わることのない神の愛と義と真理とによる救いのご計画であるということを悟るのです。ここではっきりとモーセの召命、神による招きが語られます。彼は同胞の民イスラエルの指導者として立てられます。召命には派遣が伴います。モーセはエジプトへと遣わされます。エジプト王国を支配している絶対的権力者であるファラオのもとへと遣わされます。奴隷として苦しむイスラエルの民の解放者として派遣されるのです。

最後の35節を読みましょう。【35節】。ステファノが旧約聖書の偉大な指導者モーセについて語っているのは、単に出エジプト記に記されている古い歴史をたどっているのではありません。わたしたちはここで、モーセの最初の40年間の生涯と次の40年間の生涯に、ステファノが主イエスのご生涯を重ね合わせている、ここに主イエスの預言を見ている、そして主イエスの預言が今成就していることを見ているのだ、ということに気づかされるのです。

主イエスの誕生とモーセの誕生とが重なります。エジプト王ファラオの迫害の中でモーセは誕生しました。主イエスはヘロデ大王とローマ帝国の弾圧の中で誕生しました。モーセはイスラエルの民が奴隷として苦しめられている中に派遣されました。主イエスは信仰の命を失いかけていたイスラエルの民の中へ、世界に罪が満ち、暗黒に支配されていた中へ、すべての人を罪から救うメシア・救い主として派遣されました。モーセは同胞の民には理解されず、排斥されたにもかかわらず、神に選ばれ、神に立てられ、神に派遣されました。主イエスはご自分の民ユダヤ人には受け入れられず、この世では見捨てられ、ただお一人苦難の道を歩まれ、十字架につけられ、そのようにして神の救いのみ心を成就されました。神の救いは、あらゆる人間の罪や過ち、神への無理解や抵抗にもかかわらず、今この時も前進していくのだということをわたしたちは信じるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちはあなたのみ前にあって、かたくなであり、無知であり、悟るに鈍くあり、悔い改めるに遅くあり、信仰の薄い者であることを告白せざるを得ません。主よ、どうぞわたしたちを憐れんでください。わたしたちをお救いください。わたしたちがあなたの愛と義と真理とによって生きる者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月5日説教「真理の霊によって生きる教会」

2022年6月5日(日) 秋田教会ペンテコステ礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エゼキエル書33章12~20節

    ヨハネによる福音書14章15~31節

説教題:「真理の霊によって生きる教会」

 ペンテコステは本来ギリシャ語で五十番目という意味を持ちますが、ユダヤ教の五十日目の祭り、五旬節を指すようになりました。この祭りはユダヤ人にとっての三大祭りの一つであり、旧約聖書では、七週の祭り、仮り入れの祭りと呼ばれていました。過ぎ越しの祭りから50日目に祝う祭りであり、刈り入れた麦の初穂を神にささげる祭りでした。ちなみに、ユダヤ人の三大祭りとは、過ぎ越しの祭りと五旬節・ペンテコステ、それに秋のぶどうの収穫を祝う仮庵の祭りであり、すべてのイスラエルの民はこの三大祭りの時にはエルサレムの神殿で神を礼拝しなければならないと律法に定められていました。

 主イエスご自身もガリラヤ地方を中心にした福音宣教の3年間の活動の間に、毎年過ぎ越しの祭りにはエルサレムの神殿で礼拝されたことが福音書に書かれています。そして、おそらくは3回目が最後のエルサレム訪問であったと思われますが、その週の木曜日の夕方には弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書ではそれがユダヤ教の過ぎ越しの食事であったと伝えています。翌日の金曜日には、主イエスはユダヤ最高法院での裁判を受け、十字架刑に処せられました。

 ユダヤ教の祭りで刈り入れの祭りが過ぎ越しの祭りが終わってから50日後の祭りと言われ、二つが関連付けられていることには理由がありました。過ぎ越しの祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出され、救われたことを神に感謝する祭りであり、50日目の刈り入れの祭りは、救われたイスラエルの民が神の約束の地に入り、その地で種をまき、その初穂を神にささげて、収穫を感謝する祭りであったのです。神によって奴隷の家から救われた民には、豊かな収穫が約束されているのであり、彼らはその収穫を刈り取ることをゆるされているのであり、その感謝のささげものによっていよいよ神による救いの恵みを確かにするのです。

 新約聖書において、主イエスの十字架による罪のゆるしの恵みと、その後50日目のペンテコステの日の聖霊降臨もまた同じような関連性があります。主イエスの十字架と復活の恵みが、具体的に豊かな実りをもたらし、救われた人間の魂を収穫するために主なる神が弟子たちに聖霊を注いでくださり、彼らが語った命の言葉を信じ、救われる人たちの群れを誕生させてくださったのです。聖霊によって命と救いのみ言葉を語り、聖霊によって信じ、救われる人たちの群れである教会を誕生させてくださったのです。ペンテコステの日に聖霊によって誕生した教会は、聖霊によってさらに新たな実りを与えられ、聖霊によって生き続けます。

 ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生したことは、ある日に偶然に起こった出来事ではありません。過ぎ越しの祭りと麦の初穂をささげる五旬節とが関連付けられてるだけでなく、聖霊降臨は古くから旧約聖書で預言されていた神の救いのご計画であったのであり、そして、それはまた主イエスご自身があらかじめ弟子たちに約束しておられた出来事でもありました。

 旧約聖書の預言の方から見ていきましょう。ペンテコステの日のペトロの説教でそのことが語られています。その個所を読んでみましょう。【使徒言行録2章16~21節】(215ページ)。信じる人々の上に聖霊が注がれ、聖霊のみ力に満たされてすべての人が神のみ言葉の証人となり、すべての人が主イエス・キリストのみ名によって救われるようになるのは、預言者ヨエルが旧約聖書で預言していたように、神の永遠の救いのご計画によることなのです。その預言がペンテコステの日に成就したのです。神の永遠の救いのご計画は終わりの日に神の国が完成される時まで継続されます。

 主イエスが弟子たちに聖霊を注ぐ約束をされたことについては、ヨハネによる福音書に詳しく語られていますが、共観福音書でもそのことが暗示されています。まず、マタイ福音書28章19~20節を読んでみましょう。【19~20節】(60ページ)。父なる神、子なる神・主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という三位一体なる神のみ名によって洗礼を受け、救われる人たちの群れである教会が全世界に誕生することが、ここですでに主イエスご自身のお言葉によって暗示されています。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とのお約束も、聖霊のお働きを暗示しています。

次に、ルカ福音書24章45節以下を読んでみましょう。【45~49節】(161ページ)。49節の「父が約束されたものをあなたがたに送る」、また「高い所からの力に覆われる」も聖霊の降臨を暗示しています。弟子たちは聖霊なる神のお力によって、全世界の人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるのです。

ヨハネ福音書では聖霊についてより詳しく約束されています。きょうの礼拝で朗読された14章15節以下はその最初ですが、これ以降にも15章26節、16章4~15節などで聖霊について語られています。これらのヨハネ福音書の主イエスのお言葉から、聖霊について、聖霊なる神のお働きについて、聖霊によって生きるわたしたちの教会について、さら学んでいくことにしましょう。

第一に重要なポイントは、聖霊は、わたしたちがすでに見たように、父なる神の永遠の救いのご計画の中で約束され、また主イエスのお約束でもあったということだけでなく、聖霊は父なる神とみ子なる主イエスから遣わされる霊なる神であるということです。

約束されていたと言いましたが、聖霊は約束された時になって初めて現れた神というのではありません。聖霊は永遠の初めから父なる神、子なる神と共におられた聖霊なる神です。旧約聖書の中でも聖霊は働いておられました。エゼキエル書では、聖霊が死んで骨だけになった人に新しい命を吹き込むことが預言されています。そのほかにも、聖霊がイスラエルの民に霊的な命をお与えになったことが数多く記されています。その聖霊なる神が、約束の時になって、すべての信仰者の上に豊かに注がれるようになったのだということです。

聖霊は父なる神と主イエスから派遣される霊であることについて、ヨハネ福音書14章26節では、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が」と言われ、15章26節では、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき」と言われており、弁護者なる聖霊は父なる神と主イエスの両方から派遣されるということが読み取れます。主なる神は、父なる神として、子なる神として、また聖霊なる神として、キリスト教の教理ではこれを「三位一体論」と言いますが、わたしたちの救いのためにお働きくださいます。神はご自身の全ご人格をもって、いわば全身全霊を込めて、わたしたちの救いのために働いてくださいます。父なる全能の神として、同時に、み子なる神として、人となられ、十字架で死んでくださった神として、そしてまた同時に、すべて信じる人に注がれる命と真理の霊、聖霊なる神として、三位一体なる神の全ご人格、全機能をお用いになって、わたしたち罪びとを罪と死と滅びから救い出すために働いておられ、その救いを完成させてくださるのです。

第二点は、14章16節で、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とあるように、聖霊は別の弁護者、すなわち、主イエスに続くもう一人の弁護者であるということです。ですから、主イエスが地上から去った後にも、弟子たちは孤児のようになって見捨てられるのではなく、もう一人の弁護者である聖霊がいつまでも弟子たちと共におられると言われているのです。

もう少し具体的に説明するならば、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、40日目に天に昇られ、もはやそのお姿は地上では見ることができないのですが、その主イエスの救いのみわざを引き継ぐようにして、聖霊が注がれたということであり、「わたしはいつまでもあなたがたと共にいる」と言われた主イエスのお約束は廃棄されたのではなく、そのようにして継続されているということなのです。

このことと関連して、聖霊が主イエスのみわざを引き継ぐという意味のことがたびたび語られます。14章26節では、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」、15章26節では、「その方がわたしについて証しをなさるはずである」、16章13、14節では、「その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。聖霊は主イエスとわたしたちとを堅く結びつけ、主イエスの十字架と復活の福音をわたしたちに悟らせ、信じさせ、その福音によって新しく生きる力と導きとを与えてくださるのです。

第三点は、聖霊が「弁護者」と言われていることです。弁護者とは、ギリシャ語では「パラクレートス」ですが、「パラ」とは「そばに、近くに」という意味で、「クレートス」とは「呼び出された人」という意味です。『口語訳聖書』では「助け主」と訳されていました。罪を告発された被告人とか、窮地に陥って助けを必要としている人の傍らに立ち、その人を弁護し、必要な助けの手を差し伸べる人をパラクレートスと呼びました。主イエスご自身が弟子たちにとってのパラクレートスでしたが、主イエスが天に帰られてからは聖霊が弟子たちの、そして教会とわたしたちにとってのパラクレートスとして、終わりの日の救いの完成の時までわたしたちを導いてくださいます。17節で、「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたのうちにいるからである」と主イエスが言われたとおりです。

最後に、聖霊は14章17節や15章26節、16章13節で「真理の霊」と呼ばれています。15章26節では、「真理の霊が来るときに、その方がわたしについて証しをなさるはずである」と言われ、また16章13節では【13節】(200ページ)と言われています。真理の霊である聖霊が下るとき、聖霊は信仰者に主イエスが語られたみ言葉をすべて悟らせ、信じさせ、その人を真理へと導かれるというのです。真理とは、主イエス・キリストのことであり、主イエスの十字架と復活の福音のことなのです。神の真理は主イエスの十字架と復活の福音に最もよく現わされているのです。神の真理とは、神がわたしたち罪びとを愛され、その愛によってご自身の独り子を十字架に犠牲としておささげになったということにほかなりません。ここに神の愛があり、ここに神の真理があるのです。わたしたちは聖霊によってこの神の愛と真理へと招き入れられているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、永遠に変わらないあなたの愛と真理の中にわたしたちをとどまらせてください。聖霊によって、わたしたちに新たな命を注ぎ込んでください。日本とアジア、そして全世界の人々が、また主キリストの教会が、多くの困難な課題を抱え、祈りつつ労苦を重ねています。どうか、この世界とその中に住むすべての人々を憐れんでください。顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。