11月26日説教「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

2023年11月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書56章6~8節

    使徒言行録10章24~33節

説教題:「ペトロと異邦人コルネリウスの出会い」

 使徒言行録10章に描かれている、カイサリアのコルネリウス一族が主イエス・キリストの福音を信じて洗礼を受けたという出来事は、初代教会の歴史の中で、非常に大きな意味を持つ出来事でした。主キリストの福音が、先に神に選ばれたユダヤ人にだけでなく、異邦人と言われていたユダヤ人以外の人にも語られ、信じられ、救いの出来事として起こったということ、またそのことが神ご自身のお導きによって起こったということ、しかも最初に建てられたエルサレム教会の指導者であったペトロの働きによってそのことが起こったということ、それらのことがここでは語られているのです。

 きょう朗読された24~33節では、コルネリウスとペトロが直接に出会ったことが語られています。そして、二人が出会うきっかけとなった、二人が見た幻について、それぞれの口からもう一度改めて報告されます。実は、同じような内容が11章ではエルサレム教会に報告するペトロの口で繰り返されています。つまり、異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロが見た幻によって、二人が出会うことになったという出来事が、ほとんど同じ内容で3回も繰り返されていることになります。このことが、初代教会にとっていかに大きな意味を持っていたかが分かります。

でもここでは、二人の出会いのきっかけになったことがただ同じように繰り返して語られているだけではなく、その出会いを導かれた主なる神の深いみ心がここで明らかにされているのです。その点に注目して読んでいきましょう。

 【24節】。ペトロが滞在していたヤッファからカイサリアまでは地中海沿岸に沿って50キロメートルほどありますから、どんなに急いでも一日二日はかかります。コルネリウスから派遣された3人の使いがヤッファに着き、そこでペトロに事情を話し、翌日ペトロがヤッファの信者たち数人を伴ってコルネリウスの家を訪問するという、往復100キロの道のりを行き来し、ユダヤ人と異邦人との出会いの場面が展開されていくことになります。神の導きにより、主イエス・キリストの福音が異邦人にも語られる場が、このようにして備えられていくのです。

 コルネリウスの家には家族のほか、親類、あるいはローマの兵士たちもいたでしょうが、多くの人たちがペトロの到着を待っていました。27節には、「大勢の人が集まっていた」とも書かれています。彼らはペトロの到着を待っていたと言うよりは、主キリストの福音が語られる時、彼らに救いの恵みが差し出される時を待っていたと言うべきでしょうが、ここに異邦人伝道の大きな成果がすでに備えられ、異邦人にも主キリストの福音が届けられるという、大きな扉が開かれようとしているのです。

 【25~26節】。コルネリウスがペトロの「足元にひれ伏して拝んだ」のは、ペトロを神のようにあがめたということなのか、それとも尊敬する宗教家に対する普通の歓迎の態度なのか、理解が分かれるところですが、しかしまたその両者には簡単に入れ替わるという危険性もあるように思われます。ある聖書注解者は、1930年から40年代にかけてのドイツでのことを思い起こしています。初めは一人の英雄を尊敬するしるしであった「ハイル・ヒトラー」と称える敬礼が,やがて神に等しい独裁者に対する絶対的服従のしるしとなっていったように、人間をいとも簡単に神のようにあがめるようになるという事例は、いつの時代にも数多くあります。

 ペトロはそのような危険を見ぬいていたのかもしれません。すぐにもコルネリウスの体を起こして、「わたしもただの人間です」と応えています。ここには、コルネリウスの間違った人間崇拝を指摘し、それを訂正するという意味だけではなく、ここで大きな主題となっているユダヤ人と異邦人の関係を背景にして考えてみると、もっと大きな意味が含まれているように思われます。すなわち、ペトロがここで言っていることは、主なる神のみ前ではすべての人間は、ユダヤ人であれ異邦人であれ、みな同じ人間であり、みな同じ神によって創造され人間であり、そしてまた、みな同じ罪の人間であり、主キリストによって罪のゆるしを必要している人間なのだということが、ここでは明らかにされているのです。ユダヤ人も異邦人も共に罪を悔い改め、罪ゆるしの福音を聞き、一つの救われた教会の民とされるということがここから始まって行くのです。それゆえに、ここですでに、異邦人への福音宣教の扉が開かれているということに、わたしたちは気づかされます。唯一の主なる神のみ前に立つとき、すべての人間は、民族とか社会的地位とか、その他どのような違いをも超えて、共に主なる神を礼拝する一つの教会の民とされるのです。

 28節から、ペトロが集まった多くの異邦人に対して語りだします。ペトロはここで、9節以下に描かれていた、彼が見た幻について語っています。ところが、ここでは9節以下でわたしたちがすでに学んだような、ユダヤ人が重んじていたいわゆる「食物規定」、すなわち、宗教的に汚れた、食べてはならない生き物と、食べても良い生き物とを定めた律法のことではなく、人間の中での清い人間と清くない人間との区別のことが問題になっています。

 【28~29節】。ユダヤ人が外国人と交際してはならないと、はっきりと定めている律法は旧約聖書の中には見いだすことはできませんが、ユダヤ人が神とイスラエルとの契約に基づき、その信仰を守るために他の民族の宗教や慣習に習わないようにという趣旨の言葉は数多くあります。主イエスの時代には、ユダヤ人以外の異邦人との接触をできるだけ避けるようにとか、特にサマリア人は同じ民族でありながら外国人と交わって汚れた者になったので、あいさつもしてはならないというような考えが一般に広まっていました。また、異邦人は「食物規定」に定められているような宗教的に汚れた生き物を日常的に食べ、あるいは偶像に備えられたものに触れたり食べたりして、彼らの体も宗教的に汚れているので、彼らと接触すれば自分も汚れると言われていたようです。パウロの書簡からもそのような慣習があったことが伺われます。

 ところが、ペトロが幻を見たのと時を同じくして、彼があの幻の意味は何だろうかと深く思いを巡らしていたその時に、18節に書かれていたように、コルネリウスから派遣された使いがペトロのもとにやってきて、「ためらわずに一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」との神のみ声を聞き、神が異邦人と自分との交わりの時を備えたもうたのだということにペトロは気づいたのです。あの幻は「食物規定」を神ご自身が乗り越えさせ、すべての生き物、すべての食物は神によって清めされているのだということをペトロに示されただけでなく、すべての民、すべての民族、すべての人が、みな神によって清められ、神によって救いへと招かれていることを、自分にお示しくださったのだ。あの幻の本来の意味はそのことだったのだ。だから神は「ためらわずに異邦人の家に行きなさい」とお命じになったのだということに、ペトロは気づいたのです。ペトロはその神の招きを受けて、コルネリウスの家にやってきたのです。

 次に、30節以下では、コルネリウスがヤッファにペトロを呼びにやったのもまた主なる神の導きであったことが明らかにされます。【30~33節】。コルネリウスはここで、3節以下に書いてあった、彼が見た幻と神がお告げになったみ言葉を繰り返してペトロに告げています。コルネリウスもペトロも祈りの時に神の啓示を受け、幻を見、神のみ言葉を聞きました。異邦人コルネリウスとユダヤ人キリスト者ペトロはすでに祈りによって神と交わり、また共に祈りによって交わっていたのです。一つの祈りの群れてされていたのです。

 ペトロがヤッファで皮なめし職人シモンの家に泊まっていたと33節で繰り返されていますが、このこともこれまでも何度か言われていました。9章43節と10章6節にも書かれていました。同じことが3回も繰り返されているのには理由があると考えられます。当時、皮なめし職人は最も尊敬されない職業の一つであったと言われます。そのような皮なめし職人であるシモンもヤッファの教会員の一人であり、エルサレム教会からの重要な客人であるペトロを泊めるという名誉を与えられていたのです。ここにはすでに、職業や民族、社会的な地位やその他どのような人間的な違いをも乗り越えて、すべてのキリスト者を一つの群れ、一つの教会として召し集められる主なる神のみ心が働いていたことを読み取ることができます。

 コルネリウスは自分が四日前に神から示された啓示によって、ペトロを自分の家に招くことになったいきさつについて説明をしました。ここに至って、コルネリウスとペトロは、自分たちが今ここで出会うことになったのはすべて神のお導きであったことを知らされました。ユダヤ人であるペトロが異邦人であるコルネリウスの家を訪問し、共に一つの神の救いのみわざにあずかることが許されたという、大きな恵みに気づかされたのでした。このようにして、主イエス・キリストの福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも、すべての国民、すべての人にも差し出されるようになったのでした。神が天地万物を創造された時から始められていた全人類のための永遠の救いのご計画が、このようにして実現されていったのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたが天地創造の初めからご計画しておられた全人類の救いのご計画が、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって成就し、初代教会の働きをとおして具体化されていった次第を、わたしたちは使徒言行録から学ぶことができました。あなたの救いのみわざは、終わりの日のみ国が完成される日まで続けられます。どうか、この国においても、またアジアの諸国と全世界においても、あなたの救いのみわざが力強く押し進められますように。すべての人に主キリストの福音が届けられますように。

○全世界の唯一の主であり、愛と恵みと義であられる天の父よ、罪と悪に支配され、争いや分断、殺戮や破壊の止まないこの世界を哀れんでください。あなたからのまことの平和と共存をこの地にお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月19日説教「契約の民イスラエルのエジプト移住」

2023年11月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記46章1~7、28~34節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「契約の民イスラエルのエジプト移住」

 創世記37章から始まった「ヨセフ物語」は、彼の波乱に満ちた20数年の生涯を経て、きょう朗読された46章になって、当初は全く予想もされなかった結末へと至ることになりました。46章と47章には、ヨセフを頼ってエジプトへ移住することになったヤコブ(すなわちイスラエル)一族のことが描かれています。きょうはイスラエル一族のエジプト移住というテーマについて、創世記のみ言葉を読みながら考えたいと思います。

 ヨセフの20数年の生涯を今一度簡単に振り返ってみましょう。彼はヤコブ(イスラエル)の12人の子どもの中で11番目に生まれました。父ヤコブの年寄子でしたから、特別に父の寵愛を受けて育てられました。そのことで、兄たちの反感と憎しみをかい、ヨセフはエジプトに奴隷として売り飛ばされることになりました。この時から、まだ若かったヨセフは父や兄弟たちから離れて、故郷のカンナの地からも離れ、異教の地エジプトでの孤独と不安の中での、試練と困難に満ちた歩みを始めることになりました。

 けれども、主なる神はエジプトの地でもヨセフと常に共にいてくださり、彼を恵み祝し、彼に知恵をお与えになったので、ヨセフはエジプト王ファラオによって用いられ、エジプト国内の最高の地位である宰相・総理大臣の地位に就くことになりました。そして、彼が預言したように全世界を襲った7年間の大飢饉のときに、食料を求めてカナンからエジプトのやってきた11人の兄弟たちと宰相になったヨセフとが、全く不思議やめぐりあわせによって、20数年ぶりで再会したのでした。わたしたちは前回45章でその時のヨセフの印象深い和解の言葉を聞きました。もう一度その個所を読んでみましょう。

 【45章4~8節】。ヨセフは自分をエジプトに売り飛ばした兄たちに対して、自分の方から和解の手を差し伸べ、彼らの憎しみや悪を許しています。このヨセフの愛に満ちた信仰は、主なる神が常にエジプトで自分と共にいてくださり、最も良き道を備えてくださったという、神の大いなる恵みへの感謝の応答としての信仰なのです。子どものころの生意気で一人よがりの夢見る少年と言われていた小年ヨセフが、今や神によってこのように変えられたのです。

 11人の兄弟たちが二度目に穀物を求めてエジプトにやってきたときに、ヨセフはこれからも5年は続くであろう飢饉に備えて、父ヤコブとその一家のエジプト以上を勧めました。父ヤコブはずっと以前に死んだと思っていたヨセフがエジプトでまだ生きていたことを知り、死ぬ前にぜひ彼の顔を見たいという願いもあったので、エジプトへの移住を決断しました。

 【46章1節】。ヤコブ(イスラエル)は旅立つ際にまず神を礼拝します。族長ヤコブにとってこの礼拝は大きな意味を持っていました。何か新しい決断をして、新しい道を歩み始めようとする際に、神のみ心を問うことは、信仰者にとって重要です。人間的な思いや、この世的な利害だけを考えて人生の道を選択するのではなく、神のみ心をたずね求めつつ決断をすることは、わたしたちにとっても重要です。わたしたちが大きな決断を迫られたとき、あるいは道に迷ったとき、困難や不安に襲われた時、わたしたちがなすべき第一のことは、神を礼拝すること、神のみ言葉に聞き、神に祈り、神に服従することです。

 ヤコブにとってのエジプト移住は、彼の人生の中で、しかもわずかに残されている人生の晩年で、非常に大きな決断であったと言えます。長く続く飢饉から一族の命を守ることが族長の務めであり、また死んだと思っていた最愛の息子ヨセフの顔を最後に見たいという切なる願いもありました。

けれども、ヤコブには不安も残っていました。父祖アブラハム、イサクから受け継いだ神の契約に生きることが、ヤコブにとっての最も重要な使命であるということを、彼は忘れてはいません。神は父祖アブラハムにこう約束されました。「わたしはこの地カナンをあなたとあなたの子孫の永久の所有として与えるであろう」(12章7節、13章15節参照)と。しかし、神の約束の地カナンを離れて、異教の地エジプトに移住することは、この神との契約を破ることになるのではないか。そうなれば、神からの祝福を失ってしまうのではないか。ヤコブは神のみ心を聞かなければなりません。そのために、彼は神を礼拝するのです。

【2~4節】。神はヤコブの祈りに直ちに応えてくださいます。ここでは、ヤコブ一族がエジプトに移住することは神のみ心であるとはっきりと語られています。飢饉を避けて、あるいは父と最愛の息子との20数年ぶりの再会とか、そのような人間的な理由をはるかに超えて、主なる神が彼らをエジプトへと導かれるというのです。そして、彼らはエジプトで大いなる国民となると神は約束されます。さらに、神は再び彼らを約束の地に連れ戻すと言われます。ヤコブ(イスラエル)一族のエジプト移住は神のご計画であり、しかも神は異教の地エジプトにあっても彼らと共にいてくださり、彼らを契約の民として導かれ、それだけでなく、そこで彼らを養い育て、彼らを大いなる民に成長させてくださると言われるのです。

実は、この神の約束はすでにアブラハムに対して神がお語りになった約束だったのです。【15章13~14節】(19ページ)。神の幾世代にもわたり、幾世紀にもわたる壮大な救いの歴史が、創世記から出エジプト記へと連続していくことになるのです。否、それだけではありません。神の永遠の救いの歴史は、やがて全人類のための救い主である主イエスの誕生へと連続していくということを、わたしたちは知っています。

次に、46章8~27節には、きょうは朗読をしませんでしたが、ここにはエジプトに移住したヤコブ、すなわちイスラエルの全家族のリストが挙げられています。イスラエルの12人の子どもたちとその家族、合計70人であったと書かれています。出エジプト記1章5節にも70人という数字が書かれています。申命記10章22節にはこう書かれています。「あなたの先祖は70人でエジプトに下ったが、今や、あなたの神、主はあなたを天の星のように数多くされた」。

400年後、あるいは別の記録では430年後に、モーセに率いられてエジプトを脱出した民は60万人であったと出エジプト記12章37節に書かれていますが、これは随分と誇張した数であろうと多くの学者は考えているのですが、それにしても70人で移住したイスラエルの民がエジプトでの400年間にこれほどに増えたということを、聖書は語っています。神がアブラハムに約束されたとおりです。

イスラエルの民がエジプトでどのような信仰生活を送っていたのかについては、聖書の記録はありませんが、わずか70人で異郷の地エジプトに移住した彼らが、どのようにして彼らの信仰を守りとおしたのかを考えると、それは驚くほかにありありません。長い歴史を持つエジプト王国で、わずか70人のイスラエルの民が、2代3代と時を経るにつれて、エジプトの文化や宗教の中に溶け込んで、やがてエジプト人と区別がつかなくなり、エジプトの中に解消してしまうに違いないと、だれもが予想するでしょう。しかし、彼らは400年以上もの間、エジプトでイスラエルの民として生き続け、神の約束の民、信仰の民として増え続け、しかも神の約束のみ言葉を忘れることなく、再び約束の地カナンへと連れ帰ると言われた神のみ言葉が成就される時を待ち望んだのでした。神はその民イスラエルを、エジプトの地にあっても絶えず導かれ、養われたのでした。

46章28節以下には、父ヤコブ(イスラエル)とその子ヨセフとの20数年ぶりの再会の場面が描かれています。ヤコブは、最愛の子ヨセフは野獣に食い殺されたと、他の子どもたちからの報告を受けていましたので、彼は20数年前に死んだと思い込んでいました。そのヨセフが生きていたとは、しかもこのエジプトでそのヨセフと再会できるとは、全く予想もできないことでした。【29~30節】。この父と子の感動的な再会の場面を、聖書は感情を抑えるように、控えめに描いているように思われます。文学好きなわたしなら、もっといろんな言葉や表現を用いて、この親子の再会について描くだろうと思いますが、聖書は人間的な感情や心の動きについてはごく控えめです。しかし、そうであるとしても、ここに人間の予想や願いをはるかに超えた、主なる神の見えざるみ手が働いていたという大きな事実は、だれにも読み取ることができます。神は人間の計画とか、可能性とか、予想をもはるかに超えて、まさに奇跡として、この再会を導かれたのです。

「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから」。30節のヤコブの言葉は、まさにそのことを言っているのです。父ヤコブは死んだと思っていた最愛の息子ヨセフに生きて再会できました。いわば、死からよみがえった我が子ヨセフに出会ったのです。それによって、ヨセフの人生は満たされました。

わたしたちは新約聖書の中に同じような場面を見いだします。ルカによる福音書2章25節以下に書かれている出来事です。年老いた預言者シメオンは、エルサレムの神殿で幼子主イエスを抱き上げて、このように神をほめたたえました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」と。

シメオンは長くメシア・救い主の到来を待ち望んでいました。その待望の時が今満ちたのです。救い主なる主イエス・キリストと出会ったとき、彼の待望の時が満たされ、それと同時に彼の人生、彼の一生が満たされました。救い主なる主イエス・キリストと出会うことによって、わたしたちの人生、一生もまた満たされるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは全人類を罪から救うためにみ子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになりました。み子の十字架の死によって、すべての人の罪を贖い、救ってくださいました。あなたはまた、取るに足りない小さな者であるわたしたち一人一人を、あなたの救いの恵みの中に招き入れてくださいました。心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたちをあなたのご栄光を現わす者としてください。あなたの救いのみわざを証しする者としてください。

○全世界をご支配しておられる天の父なる神よ、この世界にあなたの義と平和をお与えください。戦いや破壊、憎しみや分断を取り去ってくださり、和解と共存をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月12日説教「わたしたちの国籍は天にある」

2023年11月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

               逝去者記念礼拝

聖 書:ヨブ記1章20~22節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの国籍は天にある」

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある教会を「戦闘の教会、戦いの教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天に召された信者たちの教会を「勝利の教会」と呼びました。

今この秋田の地にあって、逝去者記念礼拝をささげているわたしたちは、「戦闘の教会、戦いの教会」です。秋田教会の130年余りの歩みを振り返ってみますと、まさに「戦いの教会」であったことが分ります。時には、迫害され、教会の看板を壊されたこともあったと、古い記録に残されています。リュックサックに聖書と讃美歌を入れて、南は湯沢、横手、大曲に、北は男鹿の北浦、能代、鷹巣、北秋田の阿仁合まで、何日間も出張伝道にでかけ、雨と風の中、汗と涙を流したことも数多くありました。時には、教会内の諸問題に心を痛めたこともありました。

わたしたち一人一人の信仰の歩みもまた、戦いの連続です。時に疑ったり、つまずいたり、自らの罪と弱さに苦悩したり、日々が試練と戦いの連続です。日本国内の諸教会、世界の諸教会も、まさに今「戦闘の教会、戦いの教会」です。時には、激しい戦いを強いられ、倒れそうになったりしながら、それでも、ただ神のみ言葉にしがみついて、罪が今なお支配しているこの神なき世界、邪悪と不義がはびこっているこの世界に、主イエス・キリストの福音だけを武器にして、果敢に戦い続けています。

なぜ、戦い続けるのでしょうか。それは、いまだ神の国が完成していないからです。いまだ神のご支配が完全には実現していないからです。それゆえに、教会は2千年の歴史を刻んできましたが、いまなおこの世に残っている罪や悪との戦いを続けなければなりません。いまだ、主イエス・キリストの福音をすべての人が信じるには至っていないからです。それゆえに、教会は主イエスの福音を携えて、今なお福音宣教という困難な戦いを続けなければなりません。

ではなぜ、それでもなお戦い続けるのですか。それは、確かな勝利の約束が与えられているからです。すでに、罪と悪と戦い、勝利された主イエス・キリストが天におられ、わたしたちの地上の戦いを導いておられるからです。この天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストは、十字架でご自身の罪も汚れもない聖なる血潮を流されるまでに、わたしたちに代わって、罪と戦われました。そして、三日目に復活され、天の父なる神のみもとへと凱旋されました。「見よ、わたしは世の終わりまで、神の国が完成する時まで、いつもあなたがたと共にいる」と主イエスは約束してくださいます。この勝利が約束されているゆえに、わたしたちの戦いを決して見捨てないとの約束があるゆえに、地上の教会は、またその教会に集められているわたしたち信仰者たちは、困難な戦いを今なお続けているのです。

もう一つの理由があります。地上の「戦いの教会」は、天にある「勝利の教会」を証人として持っているからです。ヘブライ人への手紙12章1節で、この手紙の著者は旧約聖書に出てくる信仰者たちの名前とその信仰の歩みを振り返った後で、このように書いています。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようなおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷と絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」。

天にある「勝利の教会」に移された信仰者たちが、今地上にあって厳しい信仰の戦いを続けている「戦いの教会」にとっての、力強い証人なのだと聖書は教えています。と言うのは、彼らはすでに地上での戦いを終えて、地上でのすべての労苦からも解き放たれ、天におられる栄光の勝利者なる主イエス・キリストに迎え入れられているからです。天にある「勝利の教会」は、今や永遠に主イエス・キリストと固く結ばれているからです。彼らを主イエス・キリストとの交わりから引き離すものは何もありません。罪も死も、この世の肉の関係も、思い煩いも、その他いかなるものも、彼らを主イエス・キリストから引き離すことはありません。

それゆえに、彼らはわたしたち地上の「戦いの教会」にとって、確かな勝利の証人なのです。彼らがすでに主キリストの勝利にあずかっているように、わたしたちもまた天にある確かな勝利を目指して、地上での戦いを続けていくのです。たとえその戦いが、どれほど困難であろうと、どれほど長く続こうと、忍耐強く、また喜びと希望とをもって、戦い続けていくのです。

秋田教会は130年余りの歩みの中で、分かっているだけで約140人の逝去会員がおられます。礼拝のあとでそのお名前が読み上げられますが、その方々お一人お一人がわたしたちの戦いの教会に約束されている勝利の証し人たちです。ヘブライ人への手紙が教えているように、わたしたちは彼ら身近な証人たちに囲まれているのですから、彼らがすでに受け取っている勝利をわたしたちもまた確信して、地上での戦いを続けていくのです。

ヘブライ人への手紙は12章2節でこのように付け加えています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのである」と。天にある「勝利の教会」も地上の「戦いの教会」も、共に一人の主、栄光の勝利者なる主イエス・キリストを仰ぎ見つつ、礼拝しつつ歩んでいる一つの教会なのです。わたしたちは逝去者記念礼拝であるきょうの礼拝で、特にそのことを覚えていますが、きょうだけでなく毎週の主の日ごとの礼拝のすべてが、地にある「戦いの教会」と天にある「勝利の教会」とが、一つの教会として、一つの礼拝をささげているのだということを忘れずにいようと思います。さらには、まだこの教会に加えられていない人たち、家族や職場の同僚、友人、地域の人々、日本の国と全世界の人々、彼らもまたやがて一つの主の教会に加えられる日が来ることを願いながら、そしてやがて全世界のすべての人々が一つの主キリストの教会に連なる日が来ることを祈りながら、その人たちをも含めた礼拝をわたしたちは主の日ごとにささげているのです。

使徒パウロがフィリピにある教会に手紙を書いたのは紀元50年から60年にかけてと考えられていますが、誕生してまだ日が浅いフィリピの教会もまた、「戦いの教会」でした。18節、19節を読んでみましょう。【18~19節】。2千年前のパウロの時代も、今日も、教会の戦いは主イエス・キリストの十字架の福音をめぐっての戦いです。この世の多くの人たちは主キリストの十字架の福音によって生きるのではなく、自分自身の知恵や力、富や名声に頼り、この世にある朽ちるほかにないパンを求め、あるいは簡単に手に入る偶像の神々のご利益を期待します。罪のない神のみ子がわたしの罪のために十字架で苦しんでくださり、わたしの罪の救いのためにご自身の尊い命をおささげくださったという福音は、そのような人たちには愚かで無価値に思われます。そのような人たちは、自分自身の腹を神としているからです。この世の朽ち果てるものを追い求めているからです。

教会はいつの時代にも、十字架の福音をあざ笑ったり、それから目を背けたり、あからさまに否定したりする人たちとの戦いをしてきました。そして、主キリストの十字架の福音を信じる信仰によってこそ、あなたの罪はゆるされ、あなたは滅びから救われるということを、語ってきました。主キリストの十字架にこそ、わたしたち罪びとに対する神の偉大なる愛があり、全人類の唯一の救いがあり、すべての人に与えられる喜びと幸い、感謝と平安があるということを語ってきました。主キリストの十字架の福音だけが、地上の「戦いの教会」の武器です。この福音によって、教会に勝利が約束されているからです。

最後に、20節を読みましょう。【20節】。「わたしたちの本国は天にある」。これが、地上にある「戦いの教会」に属する民と、天にある「勝利の教会」に属する民との共通した告白です。天にある教会の民は今すでにその本国に帰還しました。地にある「戦いの教会」に属するわたしたちは、今なおこの地での歩みを続けていますが、ヘブライ人への手紙が教えているように、地上では旅人、寄留者として、本国である天に向かっての、最後に約束されている勝利に向かっての、信仰の歩みを続けていくのです。

「そこから主イエス・キリストが救い主として来られる」。これが、わたしたち信仰者のもう一つの告白です。主イエス・キリストが再び地に来られるとき、わたしたちの救いは完成し、神の国が完成します。わたしたちは栄光の勝利者であられる主イエス・キリストの再臨を待ち望みながら、地上での信仰の戦いを続けていくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、きょうの秋田教会逝去者記念礼拝にわたしたちをお招きくださり、あなたの命のみ言葉を聞かせてくださいました幸いを、心から感謝いたします。主なる神よ、あなたがこの教会に多くの先輩の兄弟姉妹たちをお集めくださり、この教会の130年余りの歩みをとおして、あなたのご栄光を現わしてくださいました恵みを覚え、あなたのみ名をほめたたえます。また、今この教会に招かれているわたしたちをも、恵み、祝し、あなたのみ国の民として、お導きくださっておりますことを、感謝いたします。どうか、この地にあって、主キリストの体なる教会を建てていくために、わたしたち一人一人をお用いください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月5日説教「罪のうちに死んでいる人」

2023年11月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(28回)

聖 書:創世記3章17~19節

    エフェソの信徒への手紙2章1~10節

説教題:「罪のうちに死んでいる人」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の2段落目の終わりの部分、「この三位一体なる神の恵みによらなければ、人は罪のうちに死んでいて、神の国に入ることはできません」。きょうはこの箇所の「人は罪うちに死んでいて」という告白について、聖書のみ言葉から学んでいくことにします。

 まず、『信仰告白』の中で「罪」という言葉がどのように用いられているかを確認しておきましょう。最初の段落の2行目、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」、次は2段落の2行目、「功績なしに罪をゆるされ」、そしてきょうの箇所、最後に『使徒信条』の第3項、聖霊の項で、「罪のゆるし(を信じます)」、以上の計4回、「罪」という言葉が用いられています。

 これら4回の罪に関する告白に共通していることがあります。それは、罪という言葉がいずれの文章でも主語になってはいないということです。また、罪について単独で語られている箇所もないということも共通しています。「人となって、人類の罪のために十字架にかかり」という文章では、主イエス・キリストが全人類の、すなわち、わたしたちすべての人の罪のために、その罪の贖いを成し遂げ、罪をゆるすために、人間となってこの世界に来てくださった。そして、十字架で死んでくださった、ということが告白されているのであって、この文章の主語は主イエス・キリストです。ここでは、主イエス・キリストの十字架による救いのみわざが告白されているのであって、人類の罪は、主イエス・キリストの十字架によってすでに贖われているのです。人間の罪はすでに主キリストによってゆるされている罪として語られているということが分ります。この文章のあとで、「罪をゆるされ」「罪のゆるしを信じる」と、2回「罪のゆるし」が繰り返して告白されているのも同じ理由によります。

 きょうの箇所では、口語文では文章の主語がはっきりしませんが、文語文では、「この三位一体なる神の恩恵(めぐみ)によるにあらざれば、罪に死にたる人、神の国に入ることを得ず」となっていましたから、「罪に死にたる人」が文章の主語だと分かります。でも、この文章は否定文になっており、「罪に死にたる人」が本来の主語なのではなく、「三位一体なる神の恩恵(めぐみ)」が意味上の主語だということが分ります。ここでは、三位一体なる神の恵みの大きさが強調されているので、このような文章になっていますが、「罪に死んでいる人」が本来の主語なのではありません。

したがって、この箇所でも、罪そのものについて語られているのではなく、三位一体なる神の大きな恵みによってすでにゆるされている罪について語られているのです。罪びとである人間そのものについて語られているのではなく、すでに神の国の民として招き入れられている「罪ゆるされている人」のことが語られているのです。「人間」も「罪の人間」も、あるいはまた「罪」も、信仰告白の主語にはなりえません。聖書の主語でもありません。すべての主語は、神であり、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられた神の救いの恵み、それが主語です。罪は、すでにゆるされている罪として語られている。これが『日本キリスト教会信仰の告白』の大きな特色なのです。

そのことを念頭に置きながら、では「罪のうちに死んでいる」とは何を告白しているのかをみていきましょう。「罪のうちに死んでいる」とは、罪によって死んでいる、あるいは罪の中で死んでいると言い換えることができるでしょう。つまり、罪は死であり、その罪に支配されている人は死んでいるということが、ここでは告白されています。また、だれか一部の人がそうであるというのではなく、人間はだれもがみな罪に支配されている罪びとであり、それゆえに死んだ人なのだということです。

旧約聖書でも新約聖書でも、聖書全体がそのことを証ししています。最初に、エフェソの信徒への手紙2章を読んでいきましょう。【1節】。【5節】。「罪のために死んでいた」という言葉が2度繰り返されています。死んでいた状態とはどのようなものであったかということが、2節では【2節】、3節では【3節】と、より詳しく説明されています。すなわち、罪のうちにあって、罪によって死んでいる人間とは、この世を支配している悪しき霊に従って生きている人、人間の肉の欲望のままに生きており、神のみ心を知らず、また神のみ心に従わず、それゆえに神の怒りを受けて滅びなければならない人間のことであり、しかもそれは生まれながらの、生まれて生きているすべての人間の、罪の姿なのだと聖書は語っているのです。

創世記2章には、神が人間を創造された時、土のちりで人を造り、それに命の息を吹き入れて人は生きる者となったと書かれています。したがって、人間は造り主なる神を離れては、また神から与えられる命の息を吹きこまれなければ、生きてはいけない土くれに過ぎないもの、人間はその肉だけでは朽ち果てるほかにない存在なのだと聖書は教えています。けれども、続く3章に書かれているように、人間アダムは神の戒めに背いて、禁じられていた木の実を取って食べました。それが原罪と言われる人間の罪です。神は罪を犯した人間に裁きをお与えになりました。創世記3章19節にはこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。おまえがそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」。このようにして、人間は罪を犯し、神から離れたために死すべき者となりました。

 使徒パウロはこのことをローマの信徒への手紙6章23節で、「罪が支払う報酬は死です」と言っています。また、少し前の5章12節ではこう書いています。「このようなわけで、一人の人によって(これはアダムを指していますが)罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです」。ここには二つのことが言われています。一つには、最初の人間アダムが罪を犯したために、死が入り込んできて、アダムが死すべき者となったということ。もう一つには、最初の人アダムと同じように、彼以後のすべての人間も同じように神に対して罪を犯しているために、全人類にも死が入り込んできて、すべての人が死すべき者となったということです。

 このようにして、すべての人が、一人の例外もなく、皆生まれながらにして神に背いており、罪を犯しており、それゆえに神の裁きを受けて死すべき者となり、事実死んでいるのだという教えは、聖書全体に貫かれています。

 人間のこのような徹底した罪と死の姿について、1619年に制定された『ドルト信仰基準』はこのように告白しています。「すべての人は罪のうちにはらまれ、生まれながらにして怒りの子であり、救いに役立つ善を何一つなすことができず、悪に傾き、罪の奴隷になっている。聖霊の再生する恩恵がなければ、神に立ち帰ることも、その本性の堕落を改善することも、改善に身をゆだねることもできず、またそれを欲することもしない」。ここでは、人間は徹底的に堕落していて、人間の側からの救いの可能性は全くないと告白されています。宗教改革者たちはこれを人間の完全な堕落と表現しました。

 さて、「罪のうちにある人は、まことの命に生きることができず、死の中にある」というこの告白が持っている二つの側面を考えてみましょう。一つは、罪の人間はみな死に定められており、やがては死ぬべき者であるということです。罪の人間は永遠に生きることは許されていません。神の裁きを受けて死ななければなりません。聖書は人間の死を、自然的なものとか、偶発的なものとか、あるいは運命的なものとは見ていません。死は、人間の罪に対する神の恐るべき、また厳しい裁きであると聖書は語ります。

 それゆえに、死のうちにあるということのもう一つの意味は、罪に支配されている人間は、今すでに死んでいる者なのであるということです。今はまだ定められている死の最期を迎えてはいないけれども、その死に向かっている、神なき世界で希望のない死に向かっているということです。その意味で、罪の人間は今すでに死のうちにあるということです。

 ここでわたしたちは今一度エフェソの信徒への手紙2章のみ言葉に戻ろうと思います。【4~6節】。ここでは、人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の憐みと愛が、人間の罪に勝利したということが語られています。4節冒頭の「しかし」という言葉が、1~3節までの人間の罪と死の現実を逆転させています。1節の、「あなたがたは、以前は」という言葉を受けて、またそれを否定して、「しかし、今では」と語っているのです。主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、あなたがたは罪から救われているのであり、あなたがたの罪と死の現実はもはや過去のものとなったのだと語っているのです。実際に、注意深く読みますと、1~3節の文章はすべて過去形になっていることに気づきます。主イエス・キリストの救いのみわざによって、人間の罪と死は過去になったのです。

 ここで、もう一つのことに注目しなければなりません。人間の罪は主イエスによって罪ゆるされている罪として認識されるということは、主イエスによって罪ゆるされて初めて人間の罪がはっきりと認識されるということでもあります。つまり、人間の罪は罪なき神のみ子の十字架の死によらなければ解決されないほどに、大きく、また深刻であるということです。罪なき神のみ子の十字架の血によらなければ、他のどのような方法によっても、人間の罪のゆるしはあり得なかったのです。

 しかし、今や、あなたがたは罪の奴隷ではない。神に愛されている者であると聖書は語ります。あなたがたは主イエス・キリストの救いの恵みによって、新しい復活の命に生かされている者である。あなたがたはすでに天にある神の国へと迎え入れられている。そのように聖書は語っているのです。

 十字架と復活の主イエス・キリストを信じる信仰者にとっては、罪びとに対する神の怒りは、すでに主イエスがわたしたちに代わって父なる神の裁きをお受けになったことによって取り除かれ、怒りではなく愛に変えられました。主イエスの復活によって、罪と死の棘(とげ)と牙(きば)は取り除かれました。宗教改革者たちが言ったように、わたしたちは常に罪ゆるされている罪びとです。地上にあっての寄留者であり、旅人ですが、神の国を目指して、天にある本来の故郷を望み見ながら、信仰の旅路を続けているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがみ子主イエスの十字架と復活によってわたしたちを罪の奴隷から贖い、解放してくださいました恵みを、心から感謝いたします。日々あなたのみ前に罪を悔い改めつつ、主イエスの救いを信じつつ、信仰の歩を終わりの日まで続けることができますように、お導きください。

○全世界を支配しておられる主なる神よ、あなたの義と平和がこの世界において実現しますように。主キリストによるゆるしと和解がこの世界に与えられますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。