3月26日説教「教会の迫害者から福音の宣教者に変えられたパウロ」

2023年3月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書6章1~8節

    使徒言行録9章10~22節

説教題:「教会の迫害者から福音の宣教者に変えられたパウロ」

 キリスト教会の熱心な迫害者であったサウロ、すなわちパウロは、キリスト者に対する脅迫と殺害の息を弾ませながら、エルサレムから北へ250キロメートルも離れたダマスコへと道を急ぎ、町の門の近くまで来たときに、突然に天からの強烈な光に照らされて、地に倒れました。そのとき、彼は復活された主イエスのみ声を聞きました。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」(使徒言行録9章4、5節参照)。これが、迫害者パウロと復活の主イエスとの最初の出会いでした。

 この出会いは、ある日突然に、だれも全く予期しないときに、パウロ自身にとってはもちろん、彼を知る彼の周辺の人々にとっても、また使徒言行録を読み進んできたわたしたちにとっても、全く予期しなかったときに、全く予期しないかたちで、起こりました。パウロ自身の中には全く心の準備がなく、もちろん信仰を求める求道心があったわけではなく、いやむしろ反対に、キリスト教に対して敵対心を抱いていたときに、彼の意志に反して、天からの強力な光によって、復活された主イエス・キリストの一方的な選びのみ心によって、この出会いが起こったのです。

 パウロは地に倒され、目が見えなくされ、だれかに手を引いてもらわなければ、自分では歩けない状態でした。パウロはここでは全く受け身であり、彼の意志や手足はすべて縛られ、束縛されており、ただ復活された主イエスだけが行動しておられるということに気づかされます。ここに、パウロの回心と一般に言われる主イエスとの最初の出会いの出来事の中心的な意味が暗示されているように思われます。これまでのパウロ、キリスト教会を迫害し、主イエス・キリストの福音に敵対していたパウロが地に倒されて死に、これまでユダヤ教の律法を基準にして生きてきた古いパウロが死に、今新たにパウロを捕らえた復活の主イエスの力と恵みによって立ち上がり、主イエスの福音の命によって生きていくパウロの歩みが、ここから始められようとしているのです。

 9節に、「サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」と書かれていますが、この三日間は、これまでのユダヤ教徒・ファリサイ派のパウロ、律法によって生きてきたパウロの過去の一切が葬り去られ、彼が全く新しくされて、主イエス・キリストの復活の命によみがえらされるための準備の期間だったと言えます。11節には、「今、彼は祈っている」と書かれています。パウロがこの三日間を断食と祈りで過ごしていたことが分かります。断食と祈りは、人間が自分の意志や欲望また行動を中止して、ただ神だけが行動され、神がみわざをなさるために人間が待機する行為です。断食と祈りによって、神から与えられる新しい使命に備えるという例は聖書の中にしばしば描かれています。のちに、パウロとバルナバがアンティオキア教会から第一回世界伝道旅行に派遣されるときにも、教会全体で断食と祈りをしたことが13章3節に書かれています。パウロは断食と祈りによって、神から与えられる新しい福音宣教の使命に就くための準備をしていたのです。

復活の主イエスは目が見えなくなったパウロの目を再び開くために、そして教会の迫害者であったパウロに新しい使命を授けるために、ダマスコにいたアナニアという弟子をお用いになりました。【10~12節】。アナニアは弟子と言われていますから、ダマスコに住んでいてすでにキリスト者となっていました。ということは、彼はパウロの迫害の対象者であったということになります。もしかしたら、パウロによって捕らえられ、エルサレムに連れていかれて死刑にされていたかもしれないアナニアが、今パウロが再び見えるようになり、のちに偉大なキリスト教会の宣教者とされていくための奉仕者として用いられるという、全く不思議な神の奇跡のみわざがここで起こっているのです。

10節からの文章で「主」と書かれているのは復活された主イエス・キリストのことです。「幻の中で」とは、アナニアが眠っているときに夢で見たのか、それとも起きているときの何らかの体験なのかははっきりしませんが、12節では目が見えないパウロもまた祈っているときに「幻で見た」と言われているように、アナニアとパウロは幻の中で同じことを見ていたことになります。すべてのことは復活された主イエスがなさるみわざです。パウロの回心と一般に言われているこの場面では、最初から最後まで、すべては復活の主イエスが行動しておられます。これがパウロの回心の中心的な内容であり、意味なのです。こののち、彼が福音宣教の使徒として生きていく彼の生涯においても、すべては復活の主イエスが彼の中にあってお働きくださるのです。「生きているのは、もはやわたしではない。主キリストはわたしのうちにあって生きておられるのだ」と彼が告白しているとおりです(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)。

けれども、アナニアにとっては復活の主イエスのご計画は直ちには信じがたいことでした。【13~14節】。アナニアはパウロの迫害のことについてすでに他のキリスト者仲間から聞いていました。パウロがキリスト教会にとっていかに危険な人物であり、恐ろしい敵であるかをよく知っていました。そのような人物のために自分が何らかの手助けをしなければならないということは、アナニアには信じがたいことであったのは当然です。

けれども、復活の主イエスのご計画はアナニアの考えや彼の恐れと心配をはるかに超えていました。【15~16節】。ここには、復活の主イエスとパウロの出会いの出来事、パウロの回心と言われる経験の、中心的な三つの意味が語られています。一つは、パウロが復活の主イエスと出会ったのは主イエスの選びによるということ。第二には、主イエスはひとたび地に倒れて死んだパウロに新しい務めをお授けになるということ。第三に、その新しい務めにおいて、キリスト教会の迫害者であったパウロが、これからは自らが迫害を受ける側になるであろうということ。

第一の点について、少し詳しく見ていきましょう。15節の終わりで、主イエスは、「わたしが選んだ器である」と言われました。主イエスご自身が迫害者パウロを福音宣教者パウロとして選ばれ、その務めへと召されたのです。しかし、ここにはなぜパウロが選ばれたのかについては全く言われていません。なぜ迫害者パウロなのか、そのことをわたしたちはぜひとも知りたいのですが、何も説明されていません。選ばれたパウロの側の条件とか資格とかには全く関係なく、主イエスご自身の自由な選びなのです。主イエスはその自由な選びによって、無から有を呼び出だすように、というよりは、マイナスから無限のプラスを生み出すようにして、信仰者をお選びになるのです。それゆえに、選ばれた側には、何ら誇るべき理由はなく、ただ恐れと感謝とをもって、主イエスの選びを受け入れることができるだけです。のちにパウロはコリントの信徒への手紙二15章8節以下でこう言っています。「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打のない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりもずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実にわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。

第二に、復活の主イエスと出会い、回心を体験したパウロは、主イエスから与えられた新しい務め、使命に生きるということです。「異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたし(主イエス)の名を伝える」、これがパウロの新しい使命です。彼がこれまで必死になって地上から消し去ろうとした主イエスのみ名を、これからのちは彼の全存在をかけて、命をかけて、すべての人に宣べ伝えるのです。この主イエスこそが、全世界の、すべての人の唯一の救い主であることを宣教するのです。

パウロの宣教の対象として「異邦人」がまず挙げられています。パウロは異邦人の使徒であることを強く意識していました。エルサレム教会を中心にしてユダヤ人の救いのために仕えていたペトロ、ヤコブなどの先輩の使徒たちを尊敬していましたし、彼自身もまた、先に神に選ばれた同胞の民イスラエルの救いのために熱心に働きましたが、彼らのかたくなさのゆえに、彼の宣教の対象は異邦人へと、広げられていったのでした。その使命を果たすために、パウロはのちに3回にわたって世界伝道旅行にでかけます。

次に「王たち」が挙げられます。この世の支配者たちに、すべての人が従うべき全世界の唯一の主は、イエス・キリストであることを説教します。当時世界を支配していたローマ皇帝の前でも、皇帝が主であるのではない、すべての罪びとのために十字架で死なれ、三日目に復活された主イエス・キリストこそがまことの主であると告白することがパウロの新しい使命です。

第三は、これまでは教会の迫害者であったパウロが、これからは自らが苦しみを経験し、迫害を受けるようになるであろうということです。この主イエスの予告はすぐにも実現します。23節以下に、パウロがユダヤ人から命をねらわれたことが書かれています。使徒言行録でこれから描かれるパウロの生涯は、主イエスのための労苦の連続です。コリントの信徒への手紙二11章23節以下では彼が経験した迫害について詳しく書いています。ユダヤ人から何度もむち打ちの刑に処せられたこと、石を投げつけられたこと、船で遭難して死にかけたこと、旅の途中で盗賊にあったこと、幾夜も眠られない夜を過ごし、時に飢え渇き、教会や信者のために祈り、労苦したこと、数え挙げればきりがありません。しかも、パウロは主イエスのために経験しなければならなかったこれらのすべての迫害と労苦を喜んで耐え忍び、それによって主イエスのみ名があがめられることだけを願ったのです。

アナニアは主イエスに命じられたとおりに、パウロが滞在していたユダの家に行き、パウロの上に手を置き、主イエスに命じられたままに、自分が遣わされた理由を語りました。すると、主イエスが言われたように、パウロの目が開かれ再び見えるようになりました。そして、パウロは洗礼を受けました。ここでも、行動しておられるのは主イエスご自身です。主イエスはご自身の救いのみわざを前進させるために、アナニアをお用いになり、使徒パウロをお用いになるのです。アナニアはここではその僕として仕えています。

「手を置いた」と書かれているのは按手のことです。按手は信仰者を新しい職務につかせるため、また天の神から聖霊の賜物を授けるしるしとして行われます。その時、パウロの「目からうろこのようなものが落ちた」と書かれています。パウロはこれまでは、ユダヤ教の律法を基準にして世界を見、自分を見ていました。律法の中に救いを見いだそうとしてきました。しかし、今再び目を開かれたパウロは、主イエス・キリストの福音を基準にして世界を見、自分を見るようにされたのです。主イエス・キリストの福音にこそ、自分が生きるべき目的、目標があり、基準があり、喜びがあり、希望があり、救いがあることを知らされ、主イエス・キリストと聖霊なる神がパウロの新しい生きる主体となったのです。主イエス・キリストと聖霊なる神が、彼の信仰の道のすべてを、彼の試練と苦難の道をも、彼の使徒としての働きと労苦の道をも、終わりの完成へとお導きくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたは教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音の宣教者としてくださいました。主なる神よ、あなたはまたいと小さな者であり、破れと欠けに満ちているわたしたち一人ひとりをもとらえてくださり、教会の民の中にお加えくださり、あなたの働き人としてお用いくださいます。どうかわたしたちにも聖霊の賜物を豊かに注いでください。喜んであなたと隣人とに仕える僕としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月19日説教「パン五つと魚二匹で五千人を養われた主イエス」

2023年3月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書9章10~17節

説教題:「パン五つと魚二匹で五千人を養われた主イエス」

 

 福音書の中には主イエスがなさった奇跡のみわざが数多く記されています。奇跡は、主イエスが神のみ子であり、神の全能のみ力によって自然や被造物を支配しておられることの目に見えるしるしです。主イエスがわずかなパンと魚で多くの群衆を養われ、彼らが満腹し、残ったパンのくずを集めるといくつものかごがいっぱいなったという奇跡は、主イエスの奇跡の中でも特殊な性格を持っています。この奇跡は共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカ福音書に共通しているとともに、ヨハネ福音書にも記録されています。4つの福音書すべてに書かれている奇跡はこのパンの奇跡だけです。

それだけでなく、五つのパンと二匹の魚で五千人を養ったという奇跡が4つの福音書に共通しているだけでなく、マタイとマルコ福音書には他に、七つのパンと小さな魚わずかで四千人を養ったという奇跡があります。ということは、似たようなパンの奇跡が4つの福音書に2種類、計6つあることになります。主イエスと弟子たちにとって、また初代教会にとってこのパンの奇跡がいかに印象的深い出来事であり、また大きな信仰的意味を持つ奇跡であったかということが推測できます。

主イエスのパンの奇跡を正しく、また深く理解するために、旧約聖書に記されている同じような奇跡をいくつか取り上げてみたいと思います。一つは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出されたのち、荒れ野を旅した40年期間、天からの不思議な食べ物マナによって養われたという奇跡です。出エジプト記16章にマナの奇跡について詳しく書かれています。何万人もの人が、40年もの長い年月、何もない荒れ野で、天から不思議な食べ物マナによって養われ、だれも飢えることなく、神の約束の地カナンに着いたという出来事は、エジプト脱出の奇跡と紅海の水が二つに割れて無事に渡ることができたという奇跡に続く、驚くべき奇跡でした。

また、紀元前9世紀の預言者エリシャが、飢饉のときに、大麦のパン20個で100人の人を養って食べさせ、なおも食べきれずに残りがあったと、列王記下4章42節以下に書かれています。似たような奇跡は旧約聖書の中にほかにも記されています。

これらの旧約聖書に記されているパンの奇跡も、主イエスによるパンの奇跡も、わたしたちはこれを科学的・合理的に理解したり、説明したりすることはできませんし、すべきでもありません。どのようにして、わずかなパンで何千人もの人が食べて満腹させることができたのか、また、何万人もの人が40年間も荒れ野でどうやって食べ物を手に入れることができたのか。これはわたしたち人間の知恵や知識では理解できません。それは神の奇跡であり、そこには不思議な神の力が、神の大きな恵みがあったのだと言うほかありません。わたしたちはこれらの奇跡を信仰をもって読まなければなりません。神はこれらの奇跡でわたしたちの信仰を求めておられるのです。わたしたちはこれらの奇跡から、わたしたちの造り主であり、救い主であり、わたしたちの魂と肉体の全体を養い育ててくださる生ける神、命の主なる神との出会いを経験することが求められているのです。

もう一つ、主イエスのパンの奇跡を読む際に注意すべき点は、主イエスは人間の腹を満たすためだけにパンを増やされたのでないということです。すでに4章に書かれていたように、主イエスは悪魔によるパンの誘惑に対して勝利しておられます。悪魔は、「石をパンに変えよ」と誘惑しますが、主イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになりました。わたしたちはパンを食べ、おなかを満たすことによって本当に生きた人間になるのではなく、神の口から出る一つ一つのみ言葉を聞き、それを信じることによってこそ生きるのだということを、主イエスは教えておられます。主イエスは地上の食糧問題や飢餓問題を解決する王としてこの世においでになったのではなく、神の命のみ言葉によって生きる神の国の王としておいでになられたのです。

ではまず、10~11節を読みましょう。【10~11節】。9章の冒頭で主イエスによって宣教のために派遣された弟子たちが帰ってきて、主イエスに報告します。弟子たちは主イエスによってこの世から呼び集められました。そして、この世へと派遣されます。再び、主イエスのもとに呼び集められます。このように、招集、派遣、そして再び招集、派遣、これが繰り返されていくのが教会の民です。わたしたちは主の日ごとに主イエスによって教会の礼拝に呼び集められます。主イエスに一週間の信仰の歩みを報告します。自分のみすぼらしい破れだらけの歩みを主イエスのみ前にさらけ出し、悔い改め、罪のゆるしのみ言葉を聞き、新たな力を与えられて、礼拝からこの世へと再び派遣されていきます。わたしたちはこれを繰り返しながら、神の国の完成を待ち望んでいるのです。

主イエスが弟子たちとガリラヤ湖の東側のベトサイダの町に退かれたのが何のためであったのかはここには書かれていません。おそらく、祈るため、あるいは休息するためであったと思われます。でも、群衆があとについてきたために、主イエスは彼らを迎え入れ、神の国の福音を説教されました。58節に書かれているように、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と主イエスは言われました。主イエスは救いを必要としている人がいる所では、昼も夜も休みなく働かれます。弟子たちも同様です。

このあとで行われるパンの奇跡が、主イエスの神の国の説教に続いていることに注目したいと思います。主イエスの到来とともに神の国が始まっています。神の愛と恵みのご支配、救いの時が始まっています。主イエスは神の国の王であられます。信じる人たちを神の国にお招きになります。その来るべき神の国の王として、神の国での永遠の命をお与えくださる王として、主イエスはパンの奇跡を行われるのです。

【12節】。群衆は時がたつのも忘れるほどに熱心に主イエスの説教に聞き入っていたのだと思われます。「人里離れた場所」とはだれも住んでいない寂しいところ、荒れ野を意味します。先ほど紹介したイスラエルの民の荒れ野の旅を思い起こさせます。そこには、人間が生存するために必要なものが何もありません。

そこで、弟子たちは群衆を解散させることを提案します。群衆は長い時間、主イエスのあとについてきました。このままでは疲労と空腹で倒れてしまうかもしれません。めいめいが自分で食べ物を手に入れ、また休息できる場所を探すのがよいと弟子たちは考えました。弟子たちのこの考えは群衆に気をつかった、彼らのための提案のように思われました。それが現実的な解決策のように思われました。けれども、主イエスは弟子たちのこの提案を拒否なさいました。

【13節a】。主イエスは群集を解散させることをお許しにはなりませんでした。弟子たちが彼らの手で群衆に食べ物を与えるようにとお命じになりました。わたしたちはここで二つのことに気づかされます。一つは、空腹や疲労といった人間の肉体的な欲求を満たすために、弟子たちが勝手に主イエスのみ前から群衆を解散することは主イエスのみ心ではないということです。主イエスのみ前に集められた群れは主イエスのご支配のもとにあります。だれかがこれを勝手に動かすことはできません。主イエスのご支配のもとにある群れは主ご自身がその肉体もその魂をも支え、配慮してくださるのだということです。主イエスのもとで、神の国の福音を聞き、それによって魂の救いと平安を得るけれども、肉体の飢えや疲れをいやすのは別の場所で別の方法で行わなければならないというのではなく、魂も肉体も含めわたしの全体が主イエスによって神の国へと招き入れられているのだということです。それゆえに、群集がパンを得るために主イエスのみ前から解散させられることを、主はお許しにならなかったのです。

もう一つの点は、ここで弟子たちは自分たちの責任を放棄することなく、群集のためになすべき奉仕をなすように求められているということです。弟子たちは現実的な解決策を提案したつもりでしたが、それは主イエスの弟子として、この世に遣わされている使徒としての責任を放棄することになるのです。弟子たちは主イエスと共に、神の国の福音のために奉仕する責任と務めとを与えられているのです、またそうする権能と賜物とを与えられているのです。

ところが、弟子たちはそのことを理解していませんでした。彼らは自分たちの貧しさを嘆いています。【13節b】。パン五つとと魚二匹は主イエスと12弟子一行の一食分だったと思われます。それだけで何千人もの群衆を養うことなどできるはずがないと彼らは言います。自分たちの限界や無力さを嘆くほかにありません。けれどもそれは、自分にはこれだけしかない、これしかできないと言って、自分たちが持っているものを自分たちの手の中で握りしめていることになるのだということを、彼らはやがて知らされます。自分にある能力や財力、時間、体力、それらを自分だけのものにして、自分の手の中にしっかりと握りしめて、手放そうとしない。そこには、奇跡は起こらないのです。神から与えられている恵みの賜物に気づかず、それに感謝しない、それを自分の手に握りしめ、神と隣人のために手放そうとしない、それどころか自分だけのためにもっと欲しがる。そこには神の奇跡は起こりません。

しかし、主イエスがそれを感謝し、祝福し、弟子たちに渡して群衆に配らせたときに、奇跡が起こりました。【16~17節】。弟子たちが不足を嘆き、自分たちの手の中に握りしめていたものを、主イエスは群衆のためにお用いになります。主イエスはそれを手に取り、それを感謝し、祝福され、それを弟子たちに配らせ、群衆がそれを食べました。その時、奇跡が起こりました。弟子たちは主イエスの奉仕者として群衆のために仕えました。その時、奇跡が起こりました。五千人以上もの群衆がみな満腹し、食べ残ったパンの屑が12のかごにいっぱいになったと書かれています。主イエスによって分かち与えられた恵みの豊かさ、大きさが強調されています。

この場面には、のちの教会によって受け継がれてきた聖餐式との共通性が指摘されています。16節の、「主イエスが取る」「賛美の祈りを唱える」「裂く」「弟子たちに渡す」、これらの動作は22章19節の主イエスと弟子たちの最後の晩餐の場面、また、使徒パウロが聖餐式の伝承として伝えているコリントの信徒への手紙一11章23、24節の聖餐式の制定語の動作ともほぼ一致しています。初代の教会は主イエスのパンの奇跡に聖餐式の原型を見ました。主イエスが十字架でご自身の神のみ子としての聖なる罪のないお体と、清く尊い御血とをおささげくださったことにより、わたしたちすべての罪びとの魂と体とを完全に罪と滅びから贖ってくださったことを、聖餐式によってしるしづけ、確かにしたのです。それによって、主イエスがわたしたちの魂と体を永遠にいのちのパンで養ってくださり、来るべきみ国での永遠の命の約束を確信したのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちが朽ちるパンによってではなく、命のパンであるあなたのみ言葉を信じて生きる者とされますように。

〇主なる神よ、あなたはわたしたちの魂の救い主であられるだけでなく、わたしたちの体の贖い主でもあられます、わたしたちのすべてはあなたのものです。わたしの魂のすべてと、わたしの体のすべてとをささげて、あなたのご栄光のために、隣人の益のために、用いる者となりますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月12日説教「ラケルの死とイサクの死」

2023年3月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記35章16~28節

    マタイによる福音書22章23~33節

説教題:「ラケルの死とイサクの死」

 創世記12章から始まったアブラハム、イサク、ヤコブという3世代にわたる族長の信仰の歩みについて学んできました。族長時代は紀元前18世紀ころから16世紀にかけて、まだイスラエルの民が形成される前ですが、彼ら族長の信仰の歩みの中に、神に選ばれたイスラエルの民の信仰とのちの教会の民の信仰が、すでに生き生きと語られていることをわたしたちは学んできました。それは、言うまでもないことですが、族長たちとイスラエルの民、そして教会の民を導かれたのが同じ主なる神であるからにほかなりません。主なる神は創世記1章の天地創造のみわざから始まるすべての救いの歴史を大きな恵みと愛とをもって導いておられます。神の永遠なる救いのご計画が天地創造の初めから、族長時代とイスラエルの時代を経て、わたしたち教会の民へと受け継がれ、終わりの日の神の国が完成される時まで継続されるのです。わたしたち一人一人はその永遠なる神の救いのご計画の中に招き入れられているのです。

 きょうの礼拝で朗読された箇所では、ヤコブの妻ラケルの死とヤコブの父イサクの死のことが書かれています。そこできょうは、この二人の死によって、神の永遠なる救いの歴史がどのように継続されていったのかに焦点を当てて学んでいくことにします。

 16節からラケルの死について書かれています。ラケルはヤコブの最愛の妻でした。ヤコブは兄エサウから長男の特権をだまし取ったことで命をねらわれ、カナンの地から遠く1000キロメートルも離れたパダン・アラムのハランの地へと逃れ、伯父ラバンのもとに身を寄せることになりました。ヤコブはラバンの家で彼の娘ラケルを愛し、彼女を妻にするために7年間ラバンの家で働きましたが、ラバンにだまされてもう7年間、さらに6年間、計20年間も、ヤコブはラバンの家で愛するラケルのために一生懸命に働きました。

ところが、ラケルにはなかなか子どもが与えられませんでした。ヤコブは愛する妻ラケルに子どもが授かることを願いましたが、神は人間的な知恵を誇り傲慢であったヤコブを訓練するために、さまざまな労苦や試練を彼にお与えになりました。ヤコブは自分の思いどおりに事がなるのではなく、神のみ心が行われる時を待つべきであることを学ばなければなりません。

そしてようやく、神がラケルを顧みられたときに、彼女に男の子が与えられました。30章24節に書かれていたように、ラケルはその時、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように」と願って、その子の名をヨセフと名付けました。きょうの箇所に書かれている、あとでベニヤミンと名付けられる男の子は二人目になります。神は今またラケルの願いを聞かれ、彼女に二人目の男の子をお授けになります。

ところが、今回は難産であったと16節に書かれています。ベテルから南のエフラタに向かう途中で、ラケルは苦しみながら出産をします。18節にこう書かれています。【18節】。ラケルは出産の苦しみの中で、死の間際に最後の力を振り絞って、生まれてきた子を「ベン・オニ(わたしの苦しみの子)」と名付けました。ここには、ラケルのこれまでの生涯と今、死を目の前にしている彼女の苦悩のすべてが表現されているように思われます。

聖書にはラケル自身の心の動きについてはほとんど記されてはいませんが、この最期の時に発した一言から、わたしたちはいくつかのことを推測することができます。ラケルは夫ヤコブから熱烈に愛されましたが、彼女はその愛を独り占めにはできませんでした。父ラバンは自分の代わりに姉のレアを先にヤコブの妻として嫁がせました。ヤコブはレアよりもラケルの方を愛しましたが、姉のレアには次々と子どもが生まれたのに、ラケルとの間には長く子どもが与えられませんでした。そのことで、ラケルと姉レアの間にはねたみや葛藤が生じました。夫ヤコブとの間にも亀裂が生じたこともありました。

ヤコブとレアとの間には6人も子どもが与えられたのに、ラケルにはようやくにして一人ヨセフが授かっただけでした。夫の愛をより多く受けていたのに、子どもの数においては姉の方がはるかにまさりました。だれにも訴えることができないラケルの苦悩や闘いの日々を、わたしたちは推測することができます。

そして今、ラケルのもう一つのささやかな願いがかなえられようとするこの時に、彼女は出産の苦しみの中、最後の息を引き取ろうとしているのです。それはどんなにか無念であり、苦しみ、悲しみであることでしょうか。愛する夫と別れなければなりません。ようやくにして生まれた子どもの成長を一日も見ることができないのです。彼女が生まれた子の名を「わたしの苦しみの子」と名付けなればならなかったその思いを、わたしたちは十分すぎるほどに理解できるのではないでしょうか。

しかしながら、ここでヤコブが登場します。「いや、この子の名はベン・オニ(わたしの苦しみの子)ではなく、ベニヤミン(幸いの子)である」と宣言します。ヤコブはここで、あたかも主なる神の代弁者であるかのように、妻ラケルのこれまでの生涯と、生まれた子ベニヤミンのこれからの生涯とが、苦しみではなく、幸いであることを宣言しているように思われます。

確かに、ヤコブが妻ラケルに対して注いだ大きな愛の報いは、人間の目には少ないように見えるかもしれません。ヤコブ自身にとってもそれはどんなにか無念であったことでしょう。けれども、主なる神のラケルに対する愛は全く欠けるところがなかったとヤコブはここで告白しているのです。母の死の苦しみの代償として生まれた子ベニヤミンもまた「幸いな子」として、神に選ばれるイスラエルの民の12部族の一つとなるのです。

ラケルの苦しみと悲しみに満ちた死をわたしたちはここで見るのですが、しかし同時に、その苦しみと悲しみとを超えて、否、人間のすべての苦しみと悲しみとを幸いへと変えてくださる神の永遠の救いのご計画を、わたしたちはここで見ることができるのです。信仰者の歩みは悲しい死をもって終わるのではありません。悲しみを希望へと変えてくださる主イエス・キリストの復活の光の中へ、わたしたちは招き入れられているのです。

23節から、ヤコブ・イスラエルの12人の子どもたち、すなわち、のちにイスラエル12部族を形成する子どもたちの名前が記されています。姉のレアに生まれた子が長男ルベンからゼブルンまでの6人。妹ラケルに生まれた子がヨセフとベニヤミンの二人、ラケルの召し使いビルハに生まれた子が二人、レアの召し使いジルバに生まれた子が二人です。26節には「これらがパダン・アラムで生まれたヤコブの息子たちである」と書かれていますが、正確にはベニヤミンだけはカナンに帰ってきてから生まれた子ということになります。

この12人の子どもたちの中で、ラケルの子ヨセフが37章以下のエジプト行きと、その後に家族全員がエジプトへ移住する物語の新しい主人公となります。

36章には、ヤコブの兄エサウの子孫について描かれています。エサウは軽はずみに長男の権利を弟ヤコブに譲ってしまったために、神の選びの民からはずれ、エドム人の祖先になったことが書かれています。

35章27節からは、きょう注目するもう一つの人間の死、族長イサクの死について短く描かれています。【27~29節】。ヤコブの父であるイサクについては、28章でヤコブをパダン・アラムのラバンのところに送りだした姿が最後で、それ以後は登場していません。27節にあるように、ヤコブはエルサレムの南ヘブロンで20数年ぶりに父と再会することになります。でも、その父と子の久しぶりの再会のことについては何も書かれていません。ただ、父の死とその葬りのための再会であったかのようです。

では、イサクの180年の生涯はどうであったのかを簡単に振り返ってみましょう。彼は少年のころ、父アブラハムによって燔祭の薪の上に横たえられました。彼が60歳の時に妻リベカとの間に生まれた双子の子エサウとヤコブが成長してからは、長男の特権をめぐっての彼らの争いに巻き込まれ、年老いて目がかすんでいた父イサクは妻リベカとヤコブの共謀によってだまされ、間違って弟のヤコブを祝福してしまいました。そして、最終的にはヤコブを遠くの地へと送り出さなければなりませんでした。イサクの生涯は、3人の族長の中では、どちらかと言えば消極的な生き方で、周囲によって強い影響を受け、自分では決断しない生き方であったと言えるのかもしれません。

でも、イサクの生涯を満たすのは彼自身ではありません。彼の生涯の功績とか、彼の指導力や行動力ではありません。主なる神が彼の生涯を満たし、彼の180年のすべての日々を導き、祝福し、彼の失敗をも成功をもすべて神の救いのご計画の中で用いてくださったのです。イサクの生涯もまた神の救いの歴史の中の1ページなのです。

エサウとヤコブが父イサクを葬ったと書かれていますが、この双子の兄弟は父の死によって本当の意味で和解したということを、わたしたちはここで読み取ることができるのではないでしょうか。二人の和解についてはすでに33章に書かれていましたが、二人はそれぞれまた分かれて、エサウは死海の南セイルの地へと帰って行き、ヤコブはヤボク川の近くのスコトに家を建てて住んだと33章に書かれていました。その二人が今父の死という厳粛な事実を契機にして、しかしまた父の死の悲しみを超えて、またここで出会い、共に父を葬ることによって、エサウとヤコブは一緒になって神の救いのご計画の1ページをつづっているのです。

 族長アブラハムは死にました。今イサクも死にました。ヤコブもやがて死にます。しかし、アブラハム、イサク、ヤコブの神は永遠に彼らの神であり続けられます。主イエスはマタイ福音書22章32節でこう言われました。「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神はアブラハムと結ばれた契約を、その子イサクに、またその子ヤコブに更新されました。神の約束のみ言葉は彼らの死によっても廃棄されることはありません。彼らの死を超えて有効に更新されます。神の命のみ言葉とその救いのご計画は、彼らの死を超えて永遠に継続されていきます。終わりの日にみ国が完成される日に、神は彼ら族長たちに約束の成就を見せてくださるでしょう。それゆえに、アブラハム、イサク、ヤコブは永遠なる神によって、復活の命を確かに約束されているのです。主イエス・キリストの十字架と復活の命は、信じる人すべての死を超えて、わたしたち一人ひとりにも約束されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ,あなたが天地創造の時からお始めくださった永遠なる救いの歴史を、み子主イエス・キリストによって完成させてくださることを、わたしたちは信じます。この世界や人間たちの繰り返される罪や悪を超えて、あなたの永遠の救いのみ心が実現されていくことを信じます。

〇願わくは神よ、この世界と、そこに住む人間たちを顧みてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月5日説教「功績なしに罪を赦される」

2023年3月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

      『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(20)

聖 書:イザヤ書55章1~5節

    ローマの信徒への手紙3章21~26節

説教題:「功績なしに罪を赦される」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの信仰の中心が何であるか、日本キリスト教会の特徴は何であるかを学んでいます。きょうは、「神に選ばれて」から始まる告白文の中の「功績なしに罪を赦され」の箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 この個所は、前回学んだ「キリストにあって義と認められ」という告白の続きで、16世紀の宗教改革が強調した「信仰義認」という教理を告白しています。宗教改革者ルターは、当時の堕落したローマ・カトリック教会に抗議し(プロテスタントとは英語で抗議という意味です)、聖書を改めて読み返し、そこから福音主義の信仰を読み取りました。すなわち、人が救われるのはその人のわざや功績によるのではなく、すべての罪びとのために十字架で死んでくださった主イエス・キリストの十字架の福音を信じることにより、その信仰によって、神に義と認められ、罪をゆるされ、救われる。これが「信仰義認」と言われる教理です。「功績なしに」という告白は、カトリック教会が重視している「功績」という言葉をあえて用いて、カトリック教会の考えを否定しています。

 そこで、どのようにしてカトリック教会の功績主義という考えが生まれてきたのか、その歴史を簡単に振り返ってみましょう。紀元3~4世紀の古代教会の時代から、信仰者が神に喜ばれる良きわざに励むことが強調されました。それ自体は正しい信仰です。神によって救われた信仰者が神に感謝して、神に喜ばれる信仰生活に励むということは、わたしたち信仰者のだれもが心がけていることです。

しかし、それが次第に、救われるためには、信仰だけでなく、良きわざも必要であるという考えに傾いていくようになりました。そこから更に、自分自身の救いのために必要な良いわざ以上の功績を積んだ人(この功績をラテン語でメリットと言うのですが)、そのメリットを積んで死んだ人を聖人と呼び、彼らが天に蓄えているメリットを、信仰者は祈りによって分けてもらうことができるという考えに発展していきました。

 中世の14、15世紀のスコラ学と呼ばれるカトリック教会の神学では、信仰だけでなく、良いわざもまた救いのために必要だという教えや聖人崇拝という慣習が確立し、そこから、よく知られている免償符を教会が発行して、良いわざが十分ない人でも免償符を購入すれば、犯した罪の償いをしなくても罪が帳消しにされて、天国行きの切符を手に入れることができると教えていたのです。それは、主イエス・キリストの十字架の死の意味を軽んじることであり、いやそれのみか、わたしたちの救いの根源である主イエス・キリストの十字架の死を否定することであると、宗教改革者たちは抗議の声を挙げたのです。

では次に、聖書からそのことを確認していきましょう。旧約聖書の時代から、イスラエルの救いはイスラエルの何らかの功績によるのではない、一方的に神から与えられた恵みによるのであるという信仰がありました。イスラエルは神の恵みによって選ばれ、神の契約の民とされ、神に愛されている。彼らは神の恵みによってエジプトの奴隷の家から救い出され、約束の地へと導き入れられた。そのことをわたしたちは旧約聖書から繰り返して教えられています。

 きょうの礼拝で朗読されたイザヤ書55章1~2節にはこう書かれています。【1~2節】(1152ページ)。また【6~7節】。神は遠くにいる神ではない、近くに来てくださった。わたしたちが悔い改めて神の方に向き変るなら、神はわたしを救ってくださる。神はイスラエルの民を主イエス・キリストの到来前に、すでにこのような信仰へと招いておられました。

 新約聖書ではその信仰がより明確にされました。使徒パウロはローマの信徒への手紙で、わたしたちはだれでもみな、功績なしに救われるということを強調しましたが、彼は更にもう一つのことをも強調しました。そもそも、わたしたち人間は生まれながらにして罪びとであり、だれも神に喜ばれる良いわざをすることができないのだということです。彼はローマの信徒への手紙3章10節以下でこのように語っています。きょうの礼拝で朗読された箇所のすぐ前です。【10~12節】(276ページ)。また、【20節】。

 人間はだれ一人として神の律法を守り行うことができない、むしろ神の律法の前では、だれもそれに従うことができない人間の罪が明らかにされるばかりだとパウロは言います。

 このような徹底した罪の自覚、罪の告白があるところに、続けて21節以下のみ言葉が語られるのです。主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって与えられる神の義、神の救いが語られるのです。【21~24節】。

22節に「信じる者すべてに」とあり、また24節には「神の恵みにより無償で」とあります。これが、『信仰告白』の中で「功績なしに」と告白されていることの内容です。

ここには二つの側面が言い表されています。一つは、だれであっても、何一つ功績ない人であっても、つまり何一つ神に喜ばれる良いわざを行うことができない弱い人、貧しい人、破れだらけの人、欠けの多い人であっても、神から一方的に与えられる恵みによって、主イエス・キリストの十字架の贖いのみわざによって、それを信じる信仰によって、神のみ前に義とされ、救われるという、神の恵みの豊かさ、広さ、力強さが強調されているのです。

もう一つには、だれであっても、救いのために自分の功績、良いわざを持ち出すことは断じてできない、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によってのみ、人は救われるという、救いを神の恵みにだけ厳しく限定するということです。

わたしたちは主イエス・キリストの十字架の福音によって示されたこの二つの側面、つまり、神のみ前での人間の徹底した無力さと神の恵みの豊かさとを決して見失わないようにしなければなりません。わたしたちが時として自分の罪の大きさに嘆き、絶望しなければならない時にも、あるいは自分のわざを誇り、傲慢になり、神への恐れを忘れてしまう時にも、「功績なしに罪を赦される」という信仰を思い起こさなければなりません。

次に、「罪を赦され」という告白について学びます。罪という言葉は『信仰告白』の中では最初の段落で「人類の罪のために」という箇所にすでに出てきました。最初に創造された人アダム以来、すべての人、全人類は、神のみ前にあっては罪びとであるというのが聖書全体の教えです。ローマの信徒への手紙3章9節では、「ユダヤ人もギリシャ人も皆、罪のもとにある」と言われており、23節では「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」とあります。

そのような罪びとである人間は、だれも自分で自分を救うことはできません。わたしたちの救いはただ主イエス・キリストから与えられます。『信仰告白』では、「信じる人はみな」が文章の主語になっていますので、「罪を赦され」と受動態になっていますが、本来の主語は主イエス・キリスト、あるいは神です。どのようにして罪をゆるされるかは、すでに最初の段落でこのように告白されていました。「主イエス・キリストが人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠の命の保証を与え、救いの完成される日までわたしたちのために執り成してくださいます」。これによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われ、神の国での救いが完成するのです。

その個所ですでに学んだことですが、十字架による完全な犠牲と贖いということについて今一度復習しておきましょう。贖うとは、奴隷状態から解放して、自由にするという意味を持ちます。神から離れている罪びとは、パウロが告白しているように、罪と死とに支配されています。罪と死の奴隷です。神はそのような罪びとを救うために、旧約聖書時代のイスラエルの民に、動物の血を犠牲として神にささげることをお命じになりました。血には命があります。その血の贖いによって、人間の失われていた命を買い戻すためです。それによって、罪と死の奴隷であった人間を解放し、神のものとして買い戻すことによって罪のゆるしをお与えになりました。イスラエルの民は動物を犠牲としてささげる礼拝によって、神のものとされ、神のご支配のもとに移されました。

けれども、それは動物の血でしたから、人間を罪と死から贖うには不十分でした。そのために、エルサレムの神殿では毎日動物の犠牲がささげられました。それに対して、主イエスが十字架でおささげくださった血は、まことの神でありまことの人としての、罪も汚れもない完全な贖いの供え物でした。したがって、主イエスの一回だけの十字架の死によって、すべての人を、永遠に、罪と死から贖う力と恵みを持っているのです。それゆえに、わたしたちは自分では救いのために何一つなしえず、なしえないままで、いな、成しえないからこそ、ただ主イエス・キリストの十字架による贖いの死によって、わたしの罪のすべてが、完全に贖われ、罪と死から解放されており、罪ゆるされているのです。これが、「功績なしに、罪ゆるされ」という告白の意味です。

最後に、もう一つの重要な点について少しふれておきたいと思います。人間の良いわざは人間の救いのためには全く役に立たず、神に喜ばれないということをわたしたちは確認してきましたが、ではわたしたちは信仰者として何もする必要はなく、怠惰に過ごしてよいのか、罪を犯し続けていてよいのかということですが、パウロはそれについてローマの信徒への手紙5章以下で詳しく語っています。

それによればこうです。神の一方的な恵みによって罪ゆるされた者は、罪と死の支配から解放されて自由にされているのであるから、これからは罪に妨げられることなく、喜んで神にお仕えしていくことができる。神から与えられる自由の霊によって新しい命を受け、新しく創造された者として、神のみ言葉に喜んで聞き従い、神の栄光を現わすために仕える者とされる。罪ゆるされ、救われ者として、神の恵みに感謝し、神のみ名を賛美し、神を礼拝するものとされる。そのような、新しい信仰者の生き方について、パウロは12章1節以下でこのように語っています。【1~2節】(291ページ)。「功績なしに、罪の赦しを」与えられているわたしたちは、このような神礼拝の生活へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ前では滅びにしか値しない者であるにもかかわらず、あなたがみ子主イエス・キリストの尊い犠牲の血によって、わたしたちを罪から贖ってくださったことを心から感謝いたします。願わくは、わたしたちが罪の奴隷から解放されて、あなたから与えられる自由の霊によって、喜んであなたと隣人にお仕えする者とされますように。

〇天の神よ、あなたは天から地上のすべてをご覧になっておられます。この世界の深く病んでいる姿、その中で苦しみあえいでいる人間たちをご覧になっておられます。どうぞ、この世界を憐み、顧みてください。み心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。