5月26日(日)説教「神の前に正しい人」

2019年5月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨブ記1章1~8節

    ルカによる福音書1章5~7節

説教題:「神の前に正しい人」

 ルカによる福音書は、他の福音書に比べて、主イエスの誕生について非常に詳しく描いています。それだけでなく、他の福音書には書かれていない洗礼者ヨハネの誕生についても詳しく報告しています。それがこれから学ぶ5~25節と57~80節に書かれています。洗礼者ヨハネの使命、務めについては、その個所に詳しく書かれていますが、短くまとめると、来るべきメシア・救い主であり、彼のすぐ後に誕生される主イエスのために道を備え、人々を悔い改めへと導き、メシアを迎え入れる準備をすることでありました。

 ヨハネの使命、務めがそうであるように、彼の誕生の次第もまた主イエスの誕生を指し示しています。5~25節には洗礼者ヨハネの誕生予告があり、続く26~56節には主イエスの誕生予告が、そして57~80節にはヨハネ誕生の記録、続く2章1~20節には主イエス誕生の記録というように、ヨハネと主イエスが互いに関連付けられながら描かれています。

 内容的にも、両者にはいくつもの共通点があります。それについてはこれから学んでいくことにしますが、ヨハネは彼の誕生の時から、また彼の全生涯を通して、来るべきメシア・救い主であられる主イエスを指し示し、証しし、主イエスのために道を備えるという役割りを果たしています。

 洗礼者ヨハネだけではなく、実は、聖書に登場するすべての人物は、何らかのかたちで必ず主イエス・キリストと関連性を持っています。主イエスと関連を持たない人物というのは、聖書の中には一人もいません。旧約聖書に登場する最初に神によって創造されたアダムとエヴァから始まって、族長アブラハム、イサク、ヤコブ、また、サウル、ダビデ、ソロモンなどの王たち、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルなどの預言者たち、その他すべての旧約聖書の登場人物は、来るべきメシア・救い主、主イエス・キリストを預言し、指し示し、待ち望むという使命を神から与えられているのです。洗礼者ヨハネはその預言と待望の列の一番最後に立って、最も近くで、すぐ後においでになるメシア・キリストを指し示し、証しし、その救い主に実際にお仕えするという、大きな使命を与えられているのです。

 新約聖書に登場する人物たちが、主イエスに関連しているということは、あらためて言うまでもないことです。それだけではありません。さらに、わたしたちひとり一人も、新約聖書のそれらの証し人たち、仕え人たちと連なって、主イエス・キリストとの関連性を与えられています。今わたしたちが置かれている時代の中で、社会の中で、主イエス・キリストを証しし、この主にお仕えするという使命を与えられています。主イエスと関連性のないわたしの歩みというものは全くありません。主イエスと関連性のないわたしの一日もありません。

 さて、きょうの礼拝で朗読された5~7節には、洗礼者ヨハネが誕生した時代のイスラエルの王の名前と彼の両親の名前が紹介されています。「ユダヤの王ヘロデ」とは、後にヘロデ大王と呼ばれるようになった王のことです。ユダヤの王とありますが、この時代イスラエル・ユダヤ地方はローマ帝国の支配下にありましたから、本来の王はローマ皇帝カイサルでしたが、ヘロデはローマ政府の許可のもとで、ユダヤ人を治める権限を委託されていました。いわば傀儡王でした。

 ところで、ヘロデ大王は今日の歴史資料から紀元前4年に死んだことが分かっていますので、ヨハネの誕生がこの時から1年以内、主イエスの誕生はその後半年後ですから、主イエスの誕生は紀元前6年よりは前ということになります。教会は主イエスが誕生した年を紀元1年と定め、それが今日世界で用いられている西暦となったのですが、その数え方の基準になった年は今日の研究とは少しずれているということになります。とはいっても、主イエスが誕生した時から世界の歴史が新しく始まったという意味は、全く変わりません。

 ヨハネの父はザカリア、母はエリサベト。ザカリアは祭司の職にありました。妻エリサベトも大祭司職を受け継ぐアロン家に属していました。祭司の務めは、この後の8~9節に書かれているように、神の民イスラエルを代表してエルサレム神殿で神のみ前に立ち、香をたいて神に祈りをささげ、あるいは動物や農作物をささげ、民全体の罪のゆるしを願い求め、そして次に、神からのみ告げを聞き、神から与えられた罪のゆるしのみ言葉を民に語る、そのようにして、神と民との間に立って仲立ちをし、仲保者の役割を果たす、それが祭司の務めでした。

 したがって、イスラエルにおいては、祭司職は非常に重んじられておりました。祭司の務めがないなら、イスラエルの人々はだれ一人神のみ前に立ち、神を礼拝することができないからです。神と人との間には罪という大きな壁があって、だれも自分の力や他の何らかの方法によっても、神に近づくことも、神と交わることもできません。ただ、神によって選ばれ、神の特別の恵みによって立てられた祭司が、罪をあがなうための動物の犠牲を携えていくことによってのみ、神と人間との交わりの道が開かれるのです。祭司の職がなければ、神の民イスラエルは、信仰の民として、礼拝の民として生きていくことはできません。ザカリアはレビ部族の家に生まれ、父からこの祭司の職を受け継ぎました。それは、神の大きな恵みによる選びでした。

 【6節】。「正しい人」とはどのような人のことでしょうか。それはまず第一に、「神のみ前に正しい人」のことです。人の前でとか、あるいはこの世では、自分自身の前ではというのではないということです。人の前で、この社会の中で自分がどう思われるかということに心を用いて生きるのではなく、あるいは自分で自分を正しいとしたり、自分の願いや欲望のままに生きるのでもなく、神のみ前に生きること、神のみ前でどうあるべきかを考えて生きること、それが正しい人の生き方の基本です。

 「正しい」という言葉は、他の個所では「義」と訳されています。義、正しい、という言葉は関係概念を言い表している言葉だと言われます。神と正しい関係を持っていることを聖書では義と言います。そのような人を義人と言います。

 では、どのようにして神との正しい関係は築かれるのでしょうか。6節に続けて書かれているように、「主の掟と定めをすべて守る」ことによってです。「主の掟と定め」とは旧約聖書に記されている神の律法のことです。出エジプト記20章に書かれているモーセの十戒を初めとして、イスラエルが神の民、信仰の民として生きるための礼拝のささげ方、信仰生活のあり方について、神がお命じになった様々な戒めのことです。「主の掟と定めをすべて守る」とは、別の言葉で言えば、神のみ言葉を聞き、神のみ心に従って生きるということです。

 以上のことからもわかるように、その人が人間的に立派な人物であるとか、社会的な評価を受けているとか、そのようなことには関係なく、たとえ弱さや欠けを持っていても、貧しく力なく、時に迷うことがあっても、ひたすらに神に信頼し、神の恵みと憐れみを願い求め、神のみ心を聞いて生きる人、それが神のみ前に正しい信仰者の生き方です。ザカリアとエリサベトは二人ともそのような人であったと書かれています。

 続けて【7節】。イスラエルでは、古い時代には一般的にそうであったように、たくさんの子どもが与えられることは神の祝福のしるしだと考えられていました。そのために、子どもがいないということは、特に信仰深い家庭にとってはつらいことでした。しかも、ザカリアは祭司の家庭でしたから、その職を受け継ぐ子どもがいないということは、神から託されている大切な務めを失ってしまうことにもなりますから、神のみ前に正しい歩みを続けてきた二人にとっては、どれほどの大きな痛みであり、重荷であり試練であったことでしょうか。

 でも、子どもがいないということと神のみ前に正しく歩むということは、この夫婦にとっては決して矛盾することでも対立することでもありませんでした。子どもが与えられないという神の厳しい試練を受けていたこの夫婦は、そうでありながら、いやそうであるからこそ、より一層熱心に、忠実に、神のみ前に正しく生きるために、神のみ言葉を聞き続けていたのです。

 7節の冒頭に、「しかし」と書かれています。原文のギリシャ語では一般的に文章と文章をつなぐときに用いられる「カイ」という言葉で、普通は「そして」と訳されますが、ここでは前の6節で言われていることと7節の内容が対立しているかのように思われるので、「しかし」と訳しています。つまり、この夫婦は神のみ前に正しく生き、神のみ言葉に熱心に聞き続けてきたけれども、しかし残念なことに、そんなに信仰深い夫婦であったにもかかわらず、子どもがいなかった、しかもすでに年老いていたと理解できるかもしれませんが、しかし、聖書がここでわたしたちに語ろうとしていることは、6節と7節を対立する内容として言っているのではなく、その二つのことはともに関連し合いながら、この夫婦の信仰をより深め、強め、より純粋にしているということを強調しているのです。ザカリアとエリサベトは年老いるまで子どもが与えられないという大きな神の試練の中でこそ、いよいよ神のみ前で謙遜にされ、いよいよ神に熱心に祈り求め、いよいよ忠実に神のみ言葉に聞き従うようにさせられているのです。それもまた神の尊いみ心なのであり、人間の目には隠された神の奇しきご計画なのです。神はそれによって、彼らの信仰を鍛え、清めてくださるのです。ザカリアとエリサベトはやがてその神の奇しきみ心を知らされ、その成就を見ることになるでしょう。

 わたしたちはここで旧約聖書のヨブを思い起こします。神のみ前に「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」ヨブ、しかも多くの子どもたちと財産に恵まれていたヨブが、一瞬のうちにそのすべてを失ってしまったときに、彼はこのように告白しました。【21~22節】(776ページ)。ヨブがこの信仰へと導かれるために、神は彼からこの世のものすべてを、愛する家族たちをも取り去られたのです。ヨブはこの大きな試練の中で、主なる神のみ名をほめたたえているのです。わたしたちにすべてのものをみ心によってお与えくださる主なる神、また、み心によってわたしたちからすべてのものを取り去られる主なる神、わたしたちはその神のみ心を尋ね求めて、そのみ名をほめたたえる者となるように導かれているのです。

 子どもがなく、二人ともすでに年老いていたザカリアとエリサベト、そうでありつつ神のみ前に正しく歩み、忠実に神にお仕えしているこの夫婦、神は彼らをお見捨てになるでしょうか。いや、決してそうではありません。わたしたちは後で13節でこのような神のみ言葉を聞くでしょう。【13節】。このようにして、ザカリアとエリサベトの長い、長い祈りが聞かれ、彼らに子どもが与えられるとすれば、それこそが神の奇跡に他なりません。人間の側の可能性が全く消え去り、もはや人間の力が無にされたときに、無から有を呼び出だすかのようにして、死から命を生み出すかのようにして、全能の神が彼ら夫婦のために、イスラエルの民のために、そしてわたしたちのために、救いのみわざをなしたもうのです。

(祈り)

5月19日説教「神は『光あれ』と言われた」

2019年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「神は『光あれ』と言われた」

 創世記1章1節のみ言葉は、2節から始まる神の天地創造物語全体の表題と考えられます。実際の神の創造のみわざは3節から始まるのであって、2節は創造前の状態を説明しているのですが、つまり時間の前後関係からすれば、2節が最初で、そのあとに1節がきて、それに3節が続くという順序になるはずですが、1節が表題として冒頭に置かれているということには、明らかな意図が読み取れます。それは、2節の天地創造前の状態もまた神の創造のみわざの中にあるということを教えているのす。

 【2節】。この2節は確かに神がまだ天地を創造される以前の、いわゆる原始の状態を説明していますが、これは神の創造のみわざから離れた、神のみわざとは無関係な何かを表現しているのではありません。また、神が創造される以前に、神よって創造されたのではない何かがすでに存在していたということでもありません。「初めに」神がおられたのであり、神は全く何もないところから、無から有を呼び出だすようにして、み言葉によって万物を創造されたのです。したがって、2節もまた神の天地創造のみわざの中にあるのであり、創造主なる神のみ手の中にあるのだということを、1節の表題が先にあり、それに2節の原始の状態の説明が続くという順序から、わたしたちは知ることができます。

 そのことをはっきりと語っているのが、2節後半の「神の霊が水の面を動いていた」というみ言葉です。混沌として、何も形がなく、闇に覆われていた原始の世界を神の霊が優しく大きな手のように包んでいます。その混沌と闇もまた神の創造のみ手の中に守られている、神の創造のみわざを待ち望むかのようにして、今か今かと神のみ言葉が語られるのを期待し、神のみ言葉が新しい創造の世界を生み出すのを待っている、そのことを暗示させるのです。

 ここで重要なことは、2節は神が天地を創造される以前にこの世界がどうであったのかということを語ることに中心があるのではなく、むしろ聖書が語ろうとしている事柄の順序から言えば、まず最初に神の天地創造のみわざがあり、2節はその天地の創造主なる神のみ手を離れるならばこの世界がどうなるのかについて語っているということなのです。この世界が、もし創造主なる神のみ手から離れて、神なしで存在しようとするならば、この世界は直ちに混沌と闇の中に飲み込まれてしまわざるを得ないのだということを、聖書は語っているのです。この世界も、世界の歴史も、また人類と、わたしたち一人一人の生涯も、もし創造主なる神のみ手を離れるならば、神なしであろうとするならば、神の創造のみ言葉を聞くことがないならば、すべては混沌と闇に閉ざされてしまわざるを得ないのであり、混乱、無秩序、むなしさ、空虚に飲み込まれ、確かな目標を失い、実りのないものになってしまうということを、聖書はわたしたちに語っているのです。神が始めてくださった創造のみわざの中で、神が完成させてくださる救いのみわざを信じて、その神と共に歩む、その神の命のみ言葉を聞き続けていく、そこにこそ幸いで祝福に満たされた道があるのです。神はきょうの礼拝でわたしたちをそのような道へと招いてくださいます。

 3~5節は神の創造のみわざの第一日目、光の創造について語っています。 【3節】。まず、「神」という言葉について簡単に触れておきます。ヘブライ語で神を意味する言葉は「エル」と発音しますが、聖書ではほとんどの場合複数形の「エロヒーム」が用いられます。しかし、形は複数形ですがエロヒームを受ける動詞は、3節の「神は言われた」の場合もそうですが、3人称単数形になっています。当然、神は唯一の神であるという信仰が聖書の基本ですから、神・エロヒームに続く動詞も単数形になるのですが、ではなぜ神を複数形で表現するのかという理由については、いくつかの理解があります。もっとも一般的には、それは尊厳の複数形であるという説明です。神の偉大さ、尊厳性を言い表すために、神はおひとりであるが、エルの複数形、エロヒームを用いたと考えられています。

 次に、「言われた」ですが、神は言葉を発することによって光を創造されました。2日目以降でも、すべてそうです。「神は言われた」という言葉が、3節、6、9、11、14節と繰り返されます。聖書の神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神、わたしたちが信じている神は、み言葉を語られる神です。み言葉をお語りになることによって創造のみわざをなされ、救いのみわざをなされる神です。これが神の第一の特色です。他のすべての偶像や偽りの神々と聖書の神、教会の神との大きな違いがここにあるといえます。わたしたちは物言わぬ神々を、言葉によってご自身を啓示される神以外の神々と言われるものを、神とすべきではありません。それらはまことの神ではなく、創造のわざも救いのわざをもなすことはできません。

 「神は言われた」というみ言葉の中には、神の強い意志、み心が働いています。神はみ言葉をお語りになることによって、ご自身の強い意志、み心によって、すべてのものを創造されました。神によって創造されたすべての被造物、すべて存在するものには、神の意志とみ心があります。この世界に存在するものの何一つとして、偶然にそこに存在しているものはなく、神のみ心から離れて存在しているものもありません。

 わたしたち人間も言葉を語ります。鳥たちやクジラなどもそれぞれの言葉を持っていると言われます。しかし、それらはみな神が語られる言葉とは根本的に違っていきます。わたしたちの言葉の多くはむなしく消え去っていきます。けれども、神のみ言葉は新しい存在と新しい出来事を生み出していきます。詩編33編9節には、「主がお語りになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」と書かれてあり、またイザヤ書55章11節で神はこう言われます。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。わたしたちはそのような神のみ言葉を聞き、信じるのです。

 「光あれ」。これは神の命令です。「神が言われた」というみ言葉の中にすでに神の強い意志やみ心が示されていますが、「あれ」という命令形の中には断固とした神の意志、神の永遠の意志、神の摂理、存在へと召し出される神の大きな愛が言い表されています。「こうして、光があった」と続けて書かれています。神の創造の意志が直ちに実現し、出来事になります。神によって造られたすべての被造物にはこの神の愛の意志が貫かれています。山がそこにあり、木がそこに生え、鳥がそこにいる、そのすべての存在に神の強い愛の意志があります。もちろん、わたしがここにいること、あなたがここにいること、そこにこそ神の最も深い愛の意志があるのであり、だれも偶然にこの世に存在したのではないし、何か得体のしれない運命とかによってあやつられて今ここに生きているのでもありません。すべての存在、すべての出来事、すべての生と死に、神の愛とご配慮に満ちた意志が貫かれているのだということを、わたしたちは信じるべきですし、信じることができるのです。

 【3節】。「光」とは何でしょうか。この光は、天体の光、太陽の光のことではありませんし、何らかの人工的な光のことでもありません。というのも、太陽は14節で、第四日目に創造されるからです。まだ発行体となるべきものが何一つ創造されていないときに、天地創造の第一日目に神によって創造されたこの光とは何でしょうか。これを説明する適当な言葉がわたしたち人間にはないように思われます。ある神学者はあえてこう表現しています。「この光は世界を形成している最も崇高な元素である」と。そう言われてもよく分かりませんが、分かりやすく解説すれば、すべてのものがこの光の中で存在することができ、この光がなければ何ものも存在することができず、すべてのものの存在を根本から支えている光、そのような光であると言えるでしょう。この光の中で、神は第二日目、第三日目の創造のみわざを続けられ、この光の中に次々と創造されたものが存在していくことになります。

 さらに言うならば、この光は詩編119編105節で、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と告白されている光のことであり、ヨハネによる福音書1章4、5節と9節で証しされている、主イエス・キリストのことであると言うべきでしょう。すべての人を照らし、すべての人に命を与えるまことの光であられ、この世界の暗闇の中で光り輝いている永遠の光なる主イエス・キリスト、このまことの光なる主イエス・キリストにあって、わたしたちは神に創造された者であり、一人一人がその存在を与えられ、まことの命に生きる者とされているのです。

 【4節】。同じ言葉はこの後にも繰り返されます。神が強い、深い愛のみ心によって創造されたすべてのものは、良きものであると神ご自身が確認しておられます。「良い」とは、欠けや破れがない、整っているとか、目的にかなっているという意味です。神が創造されたすべてのものは、それぞれに存在の意味があり目的があり、神の良きみ心があります。

 けれども、もし神によって良きものとして創造されたこの世界が、その調和と秩序を失い、悪しきものへと変質しているとすれば、それは神の創造のみわざののちに入り込んだ人間の罪が作用しているのだということをわたしたちは深刻に受け止めなければならないでしょう。神は言われます。「わたしは世界を良きものとして、欠けも破れもないものとして、わたしの心にかなうものとして創造した」と。その神のみ言葉を信じないで、自らなおも不足しているかのようにしてむさぼり取り、なお自らを富める者にしようとあくせくし、自らなおも美しく着飾ろうとして心を悩ましているならば、それはむしろ神の創造のみ心から離れ、神が創造された調和と秩序の世界を破壊していることになるのではないかということを、人類は真剣に考えなければなりません。わたしたちが世界の平和と共存を考える際に、また生命の尊厳や世界環境の保護を考える際、聖書に記されている神の創造のみ心を知ることの重要性を教えられます。そして、わたしたちの罪をおゆるしくださる主イエス・キリストによる回復を切に願い求めなければなりません。

 【5節】。「呼ぶ」という言葉は4節の「分ける」という言葉と関連しています。「分ける」とは分離する、境界線を引くという意味を持ちます。光と闇との間には神のみ心によって超えることができない境界が設けられています。神のみ心がなければ、どんなに深い闇でも光を覆いつくすことはできません。

 「呼ぶ」という言葉は名づけるという意味であり、そこには名をつける神の絶対的な主権と支配があります。神は昼と名づけられた光を支配しておられます。神はまた夜と名づけられた闇をも支配しておられます。闇が神のみ心を離れて光を支配することはできません。

 「夕べがあり、朝があった」と書かれています。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、一日が夕べから、日没から始まると考えました。朝があって、夕べに陽が落ちて一日が終わるのではなく、夕方から始まり夜の闇を貫いて明るい朝が来るというユダヤ人の考え方には興味深いものを感じます。夜の闇が最後に勝利するのではなく、どんなに長く暗い夜でも、やがて必ずや朝が来る、明るい光が最後には勝利する、罪と死という闇を切り裂くようにして、主イエス・キリストが死に勝利した復活の朝を迎えるということをわたしたちは信じています。

(祈り)

5月12日説教 「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

2019年5月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    フィリピの信徒への手紙1章1~2節

説教題:「キリスト・イエスの僕(しもべ)」

 フィリピの信徒への手紙は、使徒パウロがマケドニア地方のフィリピという町に建てられた教会にあてて書いた手紙ですが、これには二つの別の名前が付けられています。一つは「喜びの書簡」、もう一つは「獄中書簡」です。「喜びの書簡」と言われるのは、この手紙の中に「喜び、喜ぶ」という言葉が10数回用いられており、手紙全体の内容も喜びと感謝に満ち溢れているからです。きょうの礼拝で朗読されたすぐ後の4節には【4節】とあり、また18節にも、「わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と書かれています。さらに、25節にもこのように書かれています。【25節】。

4節と18節は、この手紙の差出人であるパウロの喜びであり、25節では手紙の受取人であるフィリピの教会の信徒たちの喜びについて語っています。この手紙では、パウロもフィリピの教会員も、共に喜び合い、喜びに満たされています。主イエス・キリストの福音を信じる人たちは、どこにいる人たちであれ、どのような状況に置かれている人たちであれ、またお互いがどのような関係にある人たちであれ、同じように、共に喜び合い、共に喜びを分かち合い、互いに喜びを与え合うことができる、そのような交わりが与えられているのだということを、この手紙を学び始めるにあたり、わたしたちはまずそのことを確認しておきたいと思います。

したがって、この喜びはパウロやフィリピの教会の人たちが自分たちで勝ちとったり、作り上げた喜びではなく、主イエス・キリストの福音からパウロとフィリピの教会の人たちに与えられた喜びなのであって、それゆえにパウロが今どのような状況にあるかとか、フィリピの教会がどうであるかということには関係なく、あるいはわたしが、わたしたちの教会がどのようであるかということにも全く関係なく、それらがどうであれ、それらのすべてをはるかに超えて、天の神から、わたしたちの主イエス・キリストから、すべて信じる人に与えられている大きな、永遠の喜びなのだということ、そのことをもあらかじめ確認しておきたいと思います。

次に「獄中書簡」についてですが、パウロはこの手紙を獄中から書いていると推測されることからそう名付けられています。12、13節やその他の個所からもそのことが推測されます。パウロは紀元48年か49年ころに、第2回世界伝道旅行に出かけ、その途中で小アジア地方からヨーロッパの入口に当たるマケドニア地方に入り、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリントで伝道活動を続けました。そのことは使徒言行録16~18章に書かれています。その後パウロはユダヤ人からの迫害を受け、何度か投獄されました。この手紙は、エフェソかローマで捕らえられた時に書かれたと推測されています。他にも「獄中書簡」と言われるのは、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙があります。

そこで、この手紙につけられた二つの名前、「喜びの書簡」と「獄中書簡」の関連について考えてみましょう。本来、この二つは相反する内容をもっていて、一つのことを同時に説明する言葉としてはふさわしくないように思われます。獄に捕らわれの身となることは、だれにとっても喜ばしいことではあり得ません。パウロにとってもそうであったに違いありません。全世界に主キリストの福音を宣べ伝え、多くの人々の魂を救いたいとの彼の願いは、投獄によって中断されざるを得ません。彼が福音の種をまいた諸教会を訪ね、群れを励まし、その信仰の成長を助け、主キリストの体なる教会を堅固に建てていくために仕えるということも、妨げられます。それに、彼の裁判の時が迫っており、そこでは死刑の判決が下されるであろうということも、この手紙から推測されます。そのような状況の中で、いったいだれが喜ぶことなどできるでしょうか。

けれども、パウロは今喜んでいます。彼の身を案じているフィリピの教会の人たちにも、繰り返して「あなたがたも喜びなさい」と命じています。では、このパウロの喜びがどこからきているのか、それはわたしたちがすでに確認したことですが、パウロやフィリピの教会の現状からではなく、そのすべてを越えて、そのすべてを突き破るかのようにして与えられる、主イエス・キリストの福音がもたらす喜びなのです。パウロが今どのような困難な状況に置かれていたとしても、フィリピの教会が今どのような不安や恐れや戦いの中にあろうとも、この世のあらゆる鎖や壁や鉄格子を断ち切って、信じる人たちを天からの喜びで満たし、それらのすべてから解放し、自由にする大きな喜びなのです。

したがって、「喜びの書簡」と「獄中書簡」という二つの呼び名は、主イエス・キリストの福音によってこそ、互いに固く結びつけられているのです。そして、そのことはわたしたちの日々の信仰生活においても起こります。主イエス・キリストの福音は、わたしたちを縛り付けているこの世のすべての恐れや重荷や苦悩からわたしたちを解放し、自由にし、喜んで神と隣人とに仕えていく道を切り開いていきます。わたしたちはきょうから学び始めるフィリピの信徒への手紙から、そのような力強い神のみ言葉を聞き取っていきたいと思います。

さて、1~2節では、この手紙の差出人と受取人が紹介され、次に差出人から受取人への祝福の言葉が書かれています。これは当時のギリシャ社会の手紙の書き方に倣っています。パウロの多くの手紙も同じような書式で始まります。ただ、パウロは当時の一般的な書式をそのまま踏襲しているのではありません。パウロ独自の、福音的な内容が込められています。

1節の差出人の紹介にその特徴が最もよく表れています。「キリスト・イエスの僕(しのべ)であるパウロとテモテから」、これが手紙の差出人の自己紹介です。きょうはこのみ言葉に集中して学んでいきます。

まず、「パウロとテモテ」という二人の名前が、共同発信人として挙げられています。パウロの他の多くの手紙でもそうです。その理由についてはいくつかのことが考えられます。一つには、テモテはパウロの最も近くにいて共に福音伝道のために仕えた弟子であり、特にフィリピ伝道の際にはパウロはテモテをぜひとも一緒に連れていきたいと願ったことが使徒言行録16章に書かれています。テモテはパウロと共にフィリピ教会誕生のために仕えました。教会の人たちにもよく知られていましたから、彼を共同発信人として名を連ねることは、教会員にとって信仰による交わりを強めることになります。

テモテが実際にこの時にパウロのそばにいて、獄中のパウロの世話をしていたのかどうかについては確認されてはいませんが、パウロがテモテを手紙の共同発信人に挙げているさらに大きな理由は、この手紙でパウロは単に個人的な意見を述べているのではなく、主キリストの福音の証しとして、主キリストから遣わされた使者として、天からの権威と豊かな恵みを語っているということを強調するためでした。主イエスは12弟子を神の国の福音を宣教するために遣わすにあたって、二人を組にして派遣されたということが、マルコによる福音書6章7節等に書かれています。それは、旧約聖書に「重要な判決を下す場合には、二人、または三人の証言によらなければならない」と定められているからです(申命記19章15節以下等を参照)。パウロがこの手紙で語っていることは、すべて真実であり、真理であり、主なる神がフィリピの教会に対してお語りくださる神のみ言葉なのであり、彼らはその神のみ言葉を命のみ言葉として、彼らを罪から救う主イエス・キリストの福音として聞くべきなのです。わたしたちにとってもそうであることは、言うまでもありません。

「キリスト・イエス」とは、「イエスはキリストである」という初代教会の信仰告白です。イエスは、ヨセフとマリアの子としてクリスマスの時に誕生された子どもの名前です。ユダヤ人には一般的な名前でした。しかし、この子の名前はこの子が誕生する前に神によって定められていた名前でした。またこの子は、ヨセフとマリアがまだ一緒になる前に、聖霊によって宿った神のみ子でした。神はこのみ子によって、ご自身の救いのみわざを成し遂げるために、この世にお遣わしになりました。それは、神が旧約聖書の中でイスラエルの民と結ばれた契約の成就でした。

それを示す言葉がキリストです。キリストはヘブル語メシアのギリシャ語訳です。ヘブル語のメシアとは、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王、祭司、預言者がその務めにつく時には就任式でオリブ油を頭から注がれました。主イエスの時代には、神がやがてイスラエルにお遣わしになられる、まことの王であり、まことの祭司であり、まことの預言者である救い主を「油注がれた者」メシアとして待望していました。主イエスこそがそのメシア・キリストです。全人類の救いのために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、今も生きて教会の主として、わたしたち一人一人の救い主として導いておられる主イエスこそが、神から遣わされた永遠の油注がれたメシア・キリストである、まことの王、まことの祭司、まことの預言者であるという信仰告白が、「キリスト・イエス」、あるいは「主イエス・キリスト」という言葉の意味です。

わたしたちが主イエス・キリストという場合にも、十字架と復活の主イエスこそがわたしの唯一の主であり、わたしを罪から救ってくださる唯一の主であり、したがって、わたしが聞き従い、わたしのすべてをささげつくしてお仕えするべき唯一の主であるというわたしの信仰を告白しているのです。

最後に、「キリスト・イエスの僕(しもべ)」という言葉について聖書のみ言葉からその深い意味を探っていきましょう。パウロはローマの信徒への手紙1章1節でも、自分をキリスト・イエスの僕と紹介しています。僕とは文字通りには奴隷という意味です。今日、奴隷制度はどこの国からも消え去りましたが、かつて奴隷制度が認められていた社会にあっては、奴隷はその所有者である主人の持ち物であり、主人はその命をも意のままにすることができました。奴隷はその存在と命と働きをすべて主人のためにのみささげるのです。奴隷には人間としての権利は一切与えられていませんでした。

聖書で信仰者が神の僕、主イエス・キリストの僕と言われる場合にも、同じような意味が含まれますが、しかしさらに大きな意味があります。何よりも重要なことは、信仰者の主人は、主なる神であり、主イエス・キリストであるということです。旧約聖書では、アブラハムや(詩編105編42節)、モーセ(同26節)、ダビデ(同89編3節)などが神の僕と呼ばれています。それは特別な信仰者に与えられた名誉ある名前でした。彼らはその主人である神の所有として、ただ神のためにのみ仕え、働き、神のみ心に完全に服従し、それによって信仰の道を全うしたのでした。それゆえにまた、その全生涯が神によって受け入れられ、導かれ、祝福され、神によって必要なすべてのものが備えられたのでした。信仰者が神の僕であるときにこそ、神は彼のすべての道を導き、守り、あらゆる災いや試練の時にも彼と共にいてくださったのです。

パウロが自分を主キリストの僕であると告白するときには、さらに深い意味が付け加わりました。パウロはかつてはユダヤ教の律法の奴隷になっていました。それゆえにまた罪の奴隷でもありました。しかし今や彼は主キリストの奴隷です。主キリストがご自身の十字架の死によって、神のみ子としての清い御血潮をもって彼を罪の奴隷から贖い、救い出してくださり、彼を主キリストのものとしてくださったのです。主キリストが彼の新しい主人であられるとき、パウロはもはや何ものの奴隷でもありません。この世のいかなる権威も、迫害も、試練も、獄の鉄格子も、彼を縛りつけることはできません。彼は本当の意味での自由人として、この世のいかなるものからも自由になって、喜びと感謝をもって、主キリストの福音のために仕え、神と隣人とのために働くことができるのです。

(祈り)

5月5日説教「ルカが伝えた福音」

2019年5月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記6章4~9節

    ルカによる福音書1章1~4節

説教題:「ルカが伝えた福音」

 本日から、ルカによる福音書を連続して読んでいきます。新約聖書には四つの福音書があります。いずれも、わたしたちの救い主であられる主イエス・キリストのご生涯とそのお働き、主イエスが語られた説教と救いのみわざが描かれています。最初の三つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ福音書を共観福音書と呼びます。形式や内容が非常によく似ていて、お互いに参考にしたか、あるいは同じ資料を参考にして書いたと推測されるからです。今日の研究によれば、マルコ福音書がオリジナルで、紀元60年代に書かれ(つまり、主イエスの十字架と復活からおよそ30年近くたってから書かれ)、マタイとルカはマルコを参考にしながら紀元70年代以降に書かれたと考えられています。わたしたちが今日福音書を読む場合にも、これらの三つの福音書を互いに参照しながら読むことは、理解の助けになります。ちなみに、ヨハネ福音書は共観福音書とはかなり違った形式で書かれています。これを第四福音書と呼ぶこともあります。しかし、その中心的な内容は、共観福音書も第四福音書も、まったく同じ主イエス・キリストであり、主イエス・キリストによる救いのみわざであることは言うまでもありません。

 著者はルカという人だと伝えられています。実際にはこの福音書の中にはその名前は記されてはいませんが、彼は、後でも触れますが、使徒言行録の中でパウロの世界伝道旅行にしばしば同伴した医者のルカであろうと考えられます。ルカは教養のあるギリシャ人であったらしく、ルカ福音書はきれいなギリシャ語で書かれ、文学的に見ても優れていると言われています。また、時々医学の専門用語が用いられていることからも彼が医師であったことが分かります。

 きょうは1~4節の序文を学びます。【1~4節】。ここには、この福音書が書かれた動機、その材料、その内容、その目的が書かれています。まず、1節冒頭には「わたしたちの間で実現した事柄について」と書かれています。これが、この福音書の内容を意味しています。その事柄とは、もちろん主イエス・キリストによる救いの出来事のことです。神はご自身の独り子主イエス・キリストをこの世にお遣わしになられ、この主キリストの十字架の死と復活によって、わたしたち全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださいました。ルカはその事柄をこれから書こうとしています。

 「わたしたち」とは、ルカと同時代の人たちだけを指すのではなく、ルカ以前に主イエスの地上の歩みと十字架の死と復活を共に経験し、目撃した人たち、またルカ以後のすべての時代のすべての民族の、すべての人たちをも含んでいます。主イエスの救いのみわざはそのすべての人たちにとって有効であり、意味ある出来事だからです。もちろん、きょうこの礼拝に集められているわたしたちをも含んでいます。ルカがこれから描こうとしている主イエスの救いのみわざは、わたしたち一人ひとりにとっても、救いのみ言葉であり、命のみ言葉です。「わたしたちの間で実現した事柄」とは、過去の2千年前の出来事であるのみならず、今ここで、この礼拝に集められているわたしたちの間で実現している事柄でもあるのです。それが、神のみ言葉である聖書を読むということです。

 「実現した」とは、成就した、完成したという意味も含みます。神が旧約聖書の中でイスラエルの民に対して約束された契約が、主イエス・キリストによってすべて成就しました。したがって、「実現した」の主語は神です。自然現象とか歴史の必然とかによって引き起こされた事柄ではありません。神が天地創造の初めからご計画しておられ、ご自身がお選びになった人々によって進めてこられた救いのみわざを、それらは旧約聖書に記されていますが、そのすべてが主イエス・キリストによって成就し、完成し、最後の目標に達したということなのです。

 「実現した」の主語が神であるということを確認しておくことは非常に重要です。人間はこの事柄に、主体としては全く関与していません。いやむしろ、人間は神に背き、神の救いのご計画をくつがえそうと何度も何度も神に敵対してきました。けれども、神はそのような人間たちの罪の中でご自身の救いのみわざを力強く推し進めてこられました。人間たちの罪を打ち破るようにして、神の救いのみわざは実現されました。「わたしたちの間で実現した」とは、そのような意味をも含んでいます。

 さらに、もう一つ重要なポイントは、ルカは自分で成し遂げた事柄についてこれから書こうとしているのではないということです。ルカが教養あるギリシャ人で、医師でもあったと推測されています。彼自身もその時代の中で誇りえる何がしかの働きをしていたのかもしれません。けれども、ルカはそれをこれから書くのではありません。彼自身のことではなく、主なる神が彼と全人類のために成し遂げてくださった救いのみわざについて、彼自身も信じて救われた主イエス・キリストの福音について、彼が全世界に宣べ伝えるようにと神から命令された主キリストの福音について、ルカは書くのです。

 2節からは、ルカが福音書を書くために用いた資料について言及されています。「多くの人が既に手を着けています」とあります。前にもお話ししましたように、マルコ福音書が最も早く紀元60年代に書かれていました。そのほかにもいくつもの資料がルカの手元にあったことが分かります。ルカはマルコ福音書を最も重要な資料として用いたことが、両者に共通している箇所が数多くあることからも推測できます。

 ルカはマルコ福音書やその他の多くの資料を参考にしながらも、彼自身の明確な意図をもって、3節で言われているように、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いて」、新たな福音書をしたためようと決意したと述べています。ルカはこれまでに主イエスのことを書き記してきた人たちに敬意を表しながらも、彼独自の努力を重ね、彼独自の意図と目標をもってこの福音書を書くという強い決意をここで語っています.その意図とは何であるのかについては、これからルカ福音書を読み進めていけば明らかになるのですが、あらかじめ一つのことに触れるならば、それは、主イエス・キリストの福音がユダヤ地方のエルサレムから始まり、やがて当時のローマ帝国のいたるところへと、全世界へと広がっていくという、世界的な視野をもって福音書を書くという意図を挙げることができるでしょう。

 そのことは、ルカが書いた続編である使徒言行録へと受け継がれていきました。【使徒言行録1章1~2節】(213ページ)。パレスチナの一角、エルサレムでの主イエスの十字架と復活の出来事は、やがて主イエスの弟子たち、使徒たちによって全世界へと告げ広められていくようになる、主イエスは全世界の唯一の救い主である、ローマ帝国の皇帝であれ、世界の諸国の王であれ、だれであれ、人間を罪から救うことができる救い主は、主イエス・キリスト以外にはおられない、そして、やがて全世界に主イエスを救い主と信じる人々の群れである教会が建てられるであろう、ルカはそのような世界的な視野をもってこれから新たな福音書を書こうとしているのです。

 ルカはパウロの第二回世界伝道旅行の途中、使徒言行録16章10節からパウロに同伴したと思われます。というのは、ここから「わたしたちは」という書き出しになっているからです。【使徒言行録16章10~11節】(245ページ)。「わたしたち」とは使徒言行録の著者であるルカとパウロの一行を指していると考えられます。この後にも、何回か「わたしたちは」という文章が出てきます。

 さて、ルカが福音書を書くにあたって用いたマルコ福音書やその他の資料は、さらにさかのぼれば、「最初から目撃して御言葉のために働いてきた人々」にその源泉があります。この人々とは、主イエスの12弟子たちや直接に主イエスの説教を聞き、奇跡のみ業を見た人たち、また特に主イエスの十字架の死と復活を目撃した人たち、そしてそれを信じた人たちを指しています。ルカ福音書だけでなく、パウロ書簡も、新約聖書のほとんどは直接に主イエスにお仕えした弟子たちによって書かれたものではありません。ルカもパウロも地上の主イエスのお姿を直接に見たことはなかったろうと思われます。でも、彼らが福音書や手紙に書いた事柄は、その出来事を直接に目撃した人たちの証言に基づいていました。架空の作り話ではありません。だれかの創作、空想でもありません。それは歴史的な出来事です。多くの証人たちが、主イエスのお姿を見て、その説教を聞いて、その軌跡のみわざを目の当たりにして、そして主イエスの十字架と復活の目撃者となり、それを神の救いのみわざと信じ、主イエスのために自らの全生涯をささげ、信仰と喜びとをもってその福音を宣べ伝えたのです。そして、資料として文字に書き記しました。聖書はそのような最初の目撃証人たちの証言という、確かな基礎、源泉を持っているのです。わたしたちはその証言を信仰をもって受け入れ、わたしの信仰とするのです。

 「御言葉のために働いた人々」とあります。彼ら最初の目撃証人たちはひたすらに御言葉に仕えました。ここで御言葉と訳されているギリシャ語は、先週の礼拝で私たちが読んだヨハネによる福音書1章1節の「初めに言(ことば)があった」という個所のギリシャ語と同じ「ロゴス」です。このロゴス・言葉は、普通の人間が語る言葉ではなく、神のみ言葉、また神のみ言葉そのものであられる主イエス・キリストを言い表しています。彼ら最初の目撃証人たちは皆、徹底して主イエスご自身のために、神のみ言葉のために働き、奉仕しました。彼らが目撃者として語ったこと、文字に記したことは、それによって自分自身が文筆家として名をあげたり、財を築くためでは全くありませんでした。彼らはみな、み言葉のために、主イエス・キリストのための奉仕者として働いたのです。それゆえに、彼らの働きは少しも無駄にならずに、全世界の教会を建てるために用いられ、多くの信仰者を罪から救うために用いられているのです。わたしたちもまたその恩恵を受けています。

 ルカ福音書は続巻の使徒言行録とともに、テオフィロという人に献呈されています。それが執筆の直積的な動機、目的になっています。テオフィロという人の素性については全く分かっていません。テオフィロというギリシャ語は「神の友」という意味を持っていますが、彼がすでに洗礼を受けてクリスチャンになっていたのか、求道者だったのかについてもわかりません。ローマ帝国の中でかなりの地位にあった人であったことがその呼び名で分かります。彼は主イエスの福音に対してよい理解を示していましたが、彼の理解がより深まり、主イエスを救い主として信じる信仰がより一層強められることを願って、ルカはこの福音書を書き、これをテオフィロに献呈すると述べています。

けれども、それだけが執筆の目的でないことは明らかです。テオフィロ一人だけでなく、彼以後の時代の、この福音書を読むすべての人が、そしてまた今この福音書を読んでいるわたしたちも、この執筆の目的は当てはまります。わたしたちが礼拝でルカによる福音書を聞くことによって、わたしたちの信仰の確信がより強められ、また求道中の方たちがこのみ言葉を聞いて、洗礼を受ける決意へと導かれること、それがこの福音書が書かれた目的であり、わたしたちが主の日ごとにささげる礼拝の目的でもあるのです。

(祈り)