11月21日説教「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

2021年11月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記21章9~21節

    ガラテヤの信徒への手紙4章21~31節

説教題:「サラの子イサクとハガルの子イシュマエル」

 アブラハムが100歳、妻のサラが90歳の高齢の夫婦に、長く待ち望んだ男の子イサクが生まれました。それは、神の約束の子の誕生でした。アブラハムが最初に神の約束を聞いたのは25年前、彼がハランの地を出て神が約束された地、カナンに旅立った時でした。その時、神はアブラハムに言われました。「わたしはお前とお前の子孫とを永遠に祝福する。お前の子孫は星の数ほどに増え、祝福を受け継ぐであろう」と。アブラハムのこれまでの生涯はこの神の約束のみ言葉の成就を待ち望む歩みでした。神の約束のみ言葉を聞き、信じ、待ち続ける信仰者に、神は必ずやその約束を果たしてくださいます。

 わたしたちは次週28日から、待降節・アドヴェントに入ります。待降節は神の約束のメシア・救い主の誕生を待ち望む期間です。わたしたちもアブラハムと同じように、信じて待ち望む者に神はその約束を必ず果たしてくださることを確信しながら、救い主の誕生の日を待ち望むとともに、終わりの日に主イエス・キリストが再びこの地に来臨され、信じる者たちを天に引き上げてくださり、神の国を完成させてくださる時を待ち望むのです。教会は主イエス・キリストの第一の来臨を待ち望み、またその来臨の福音を確かに聞きつつ、第二の来臨を待ち望んでいる信仰者の群れです。

 創世記21章8節に、「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた」と書かれています。この当時、子どもは3歳くらいで乳離れしました。その時には、家族で盛大なお祝いをするのが習わしでした。古代社会では乳幼児の死亡率は非常に高く、3歳の乳離れまで丈夫に育つのは親にとって特別に大きな喜びでした。命の危険が伴う乳幼児の期間を神に守られ、無事に成長できたという喜びが、アブラハムとサラの家に満ち溢れました。わたしたちはここでイサクという名前の意味を改めて思い起こします。それは「彼は笑う」という意味です。この名前はイサクが誕生するよりも前に神によって決められていました。したがって、この笑いは神から与えられた笑い、喜び、祝福です。

 ところが、喜びと幸いに満たされていた家庭に暗い影が差し込んでくるのをわたしたちは見ます。イサクの成長を期待すればするほどに、アブラハムの家庭に潜んでいた問題点が浮かび上がってきました。母であり妻であるサラはそのことを敏感に感じ取っていました。

【9~11節】。サラは自分が産んだ子イサクと女奴隷ハガルが産んだ子イシュマエルとが一緒に遊んでいる様子を見て、心穏やかではありません。この家の後継ぎとなるべき子は、自分が産んだイサクであり、女奴隷の子イシュマエルではありません。イシュマエルの存在はイサクの長男としての地位を脅かすだけでなく、自分の妻としての地位をも危うくします。母となったサラは我が子イサクを守るため、また自分自身を守るために、ハガルとその子を家から追い出すようにとアブラハムに依頼します。これは、サラの妻としての当然の願いであり、権利でもあると言えるのかもしれません。

けれども、わたしたちはここで16章に書かれていたことを思い起こします。そこでは、サラの方から夫アブラハムに申し出て、「自分には子どもができないので、女奴隷ハガルとの間に子どもをつくって、この家を継がせることにしてはどうか」と提案していました。アブラハムがそのようにして、ハガルが身ごもってからはサラを見下げるようになると、今度はハガルに対してつらくあたり、それに耐えきれなくなったハガルは家を出て、砂漠をさまようようになりました。その時、神が身重のハガルを助け出し、彼女をアブラハムの家に連れ戻されたということが16章に書かれていました。

あの時、サラは自分で提案しておきながら、実際ハガルが身ごもった後には、彼女の態度が気に入らず、ハガルを家から追い出すような行動をしました。サラはいわば自分で蒔いた種を自分で刈り取らなければならなくなったと言えますが、今回もまた彼女があの時にまいた種を最終的に刈り取らなければならなくされているのです。しかし、サラは自分ではどうすることもできずに、今回もまた夫アブラハムに問題解決を迫ったのです。この件については当然アブラハムにも責任があります。イシュマエルはアブラハムと女奴隷ハガルとの間にできた子どもであるからです。11節に、【11節】と書かれてあるとおりです。アブラハムには妻サラの言い分を聞いて、イシュマエルを簡単に家から追い出すには忍びない思いがありました。アブラハムは16章でもそうであったように、どのようにサラとハガルとの間を取り持てばよいのか分からずに、思案し、苦悩しています。アブラハムは自分の知恵や判断によっては自分の家族間に起こった問題をうまく解決することができません。

その時に、神がアブラハムに現れ、彼に言われます。【12~13節】。16章では、荒れ野に逃亡し、孤独と苦悩の中にあったハガルに神が現れ、彼女を救われましたが、ここでは苦悩するアブラハムに神は「サラの言うとおりにしなさい」とお命じになりました。それは、神がサラの味方をされたということなのでしょうか。「あの女とあの子を追い出してください」と言ったサラの意見に神が賛成されたということなのでしょうか。いや、そうではありません。一見したところ、表面的には同じように見えますが、しかしサラが考えていたことと神のご計画とは全く違っています。

サラは自分の妻としての立場と自分の子どもイサクを守るために、今現在の自分の家族の幸いを考えて、女奴隷ハガルとその子イシュマエルを家から追放することを願っていました。しかし、神は今現在のアブラハムの家族の幸いのことだけでなく、はるかかなたの世界の歴史のことを、神の永遠の救いのご計画の中でのアブラハムの家族と世界の歴史を考えておられるのです。

神が最初にお選びになった信仰の父アブラハムに対する約束、アブラハム契約は永遠に変わることはありません。アブラハムの子孫を増やし、神の祝福を受け継がせると言われた神のみ言葉には変更はありません。それと同時に選ばれなかった女奴隷ハガルの子どもイシュマエルをも神はお見捨てにはなりません。彼もまた一つの国民とすると言われます。彼もアブラハムの子どもだからと言われています。ここには、後に主イエス・キリストの福音によって明らかにされたことがすでに暗示されているように思われます。すなわち、神に選ばれたイスラエルの民だけでなく、この時には選ばれなかったいわゆる異邦人である世界のすべての国民が共に信仰の父アブラハムの子孫として、十字架の福音を信じる信仰によって、一つの救いの民とされるということがここですでに暗示されているように思われます。

アブラハムは妻サラの願いによって行動したのではなく、主なる神のみ言葉に聞き従って行動しました。【14節】。ハガルとイシュマエルが家を出たあとどうなるのか、どうなったのかをアブラハムは知りません。荒れ野で革袋の水が尽きてしまい、死の危険にさらされ、ハガルが死の覚悟をしたときに、神がどのようにしてハガルとイシュマエルを救われるのかをも彼は知りません。ただ、神のみ言葉を信じ、神のみ言葉にすべてを委ねて、アブラハムは二人のために旅支度を整え、送り出しました。朝早く起きて、黙々と旅支度を整えているアブラハムの姿を、わたしたちは深い同情を覚えながら、またわが子と別れなければならない彼の大きな悲しみと痛みとを思いながら、しかしまた神がすべての道を導いてくださるであろうという確かな信仰とを思いながら、想像するのです。

【15~18節】。神はハガルとその子イシュマエルとをお見捨てにはなりません。17節に、「神は子供の泣き声を聞かれた」と二度繰り返されています。イシュマエルという名前は、16章11節に書かれてあったように、「神は聞かれた」という意味です。神は、神の選びから漏れたイシュマエルの泣き声を聞かれます。彼とその母ハガルを死の危険から救い出されました。神はすべての人の泣く声を、うめく声を、切なる祈りの声をお聞きくださり、救いの道を備えてくださいます。

最後に19節以下を読んでみましょう。【19~21節】。イシュマエルはのちにカナン南部の荒れ地に住んだイシュマエル人の祖先になったと考えられています。18節には「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする」と言われる神の約束のみ言葉があり、また20節には「神がその子と共におられたので」と書かれています。神の選びの民であるアブラハム・イサク・ヤコブには連ならなかったにもかかわらず、ハガルの子イシュマエルもまたアブラハムの子であり、神の救いの恵みから全く除かれているのではないということが強調されていることは確かです。13節で、のちに主イエス・キリストの福音によって、選ばれなかった異邦人と言われるすべての国民が救いに招かれていることを暗示させると言いましたが、ここに至ってそのことが暗示であるのみならず、確かな神の約束であり、神の永遠の救いのご計画であるということに、わたしたちは気づかされるのです。

ハガルの子イシュマエルの物語によってわたしたちは二つのことを教えられます。一つには、神の選びの外にいるハガルとイシュマエルと共におられる神、彼らの泣き声、叫びを聞かれる神、そして彼らを死の危険から救い出される神は、選ばれた民アブラハムとその子イサク、またその子孫たち、そしてアブラハムを信仰の父とする教会の民に対しては、さらに力強く、救いのみわざをなしてくださらないはずはないということをわたしたちに確信させるのです。

もう一つは、神が最初に選ばれたアブラハムとその子イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちによって形成されたイスラエルの民によって、ご自身の選びと救いの歴史を継続されると同時に、神の選びの外にいる、いわば異邦人をも、最初から救いのご計画の中に入れておられたのだということをわたしたちはここで確認するのです。そして、やがて時満ちてこの世に到来されたメシア・救い主である主イエス・キリストの十字架の福音によって、神の救いは実際にイスラエルの民だけではなく、異邦人へと、全世界の民へと拡大されていったのです。イシュマエルの救いの出来事は、はるかな時代を超えて、異邦人の救い、全世界のすべての人の救いを預言し、証ししているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみはとこしえからとこしえまで変わることなく、絶えることもありません。どうか、あなたの救いの恵みが全世界のすべての人へと届けられますように。いと小さな人たちや貧しく低きにいる人たちのかぼそい泣き声をも、人に知られぬ一粒の涙をも、あなたはすべてみ心に留めていてくださいます。願わくは、わたしたちにも人々の痛みや悲しみ、苦しみを見ることができる信仰の目をお与えください。そして、その人たちのために心を砕いて祈る者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月14日説教「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

2021年11月14日(日) 秋田教会主日礼拝・逝去者記念礼拝説教

(駒井利則牧師)

聖 書:詩編90編1~14節

    ローマの信徒への手紙5章12~14節

説教題:「死を忘れるな、そして、主を忘れるな」

 秋田教会の逝去者名簿を今回改めて整備しました。それによると、明治25年、1892年9月に秋田講義所として伝道を開始して以来130年近くの間に、信仰を持ってこの世を去った秋田教会員は約150人おられることが分かりました。教会員家族やその他の関係者で、秋田教会で葬儀を行った人たちを加えると、180人以上の逝去者がおられます。これらの方々一人一人の信仰の歩みが、そのまま秋田教会の歴史です。神の救いの歴史です。ヘブライ人への手紙12章1節にはこうあります。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」。

きょうはこれら証人たちの信仰の歩みを覚えながら、またその歩みを導かれた神の豊かな恵みを覚えながら、ご一緒に神のみ言葉を聞き、礼拝をささげたいと思います。

 きょう朗読された旧約聖書の詩編90編は、神の永遠性と人間のはかなさを歌った、よく知られた詩編ですが、この中にはわたしたちの多くが共感を覚えるみ言葉がいくつもあります。たとえば10節です。【10節】。詩人がこのように歌ったのは、今から2500年以上も前で、当時の平均寿命は50歳前後と推測されていますが、詩人はそれを大幅に長く見積もって70年から80年と言っています。これはおそらく神の豊かな恵みをいただいて長寿を与えられた信仰者のことでしょうが、それにしても70年、80年というのは、今日21世紀のわたしたちの平均寿命であるという点で、まさにこの詩編はわたしたちのことを歌っていると深い共感を覚えるのです。しかも、「得るところは労苦と禍に過ぎず」、「瞬く間に時が過ぎ去る」というみ言葉は、まさにわたしたちその年代に達した人たちの多くが思い抱く感情と一致するのではないでしょうか。

 しかし、わたしたちはこの詩人にただ共感を覚えるだけでは本当に聖書を読んだことにはなりませんから、さらに深くその真理に迫っていくことにしましょう。最初にも言いましたように、この詩編は神の永遠性と人間のはかなさをテーマにしています。【1~2節】。これが神の永遠性です。神は天地創造のはるか以前から神であられ、またこの世界が終わる終末ののちにも、永遠に神として存在しておられ、神として働いておられます。したがってまた、わたしがこの世に誕生するよりもはるか以前に、またわたしが地上を去ったのちにも永遠に神であられ、神としてわたしの前に存在しておられます。時が過ぎ、時代が変わり、国の支配者が交代し、新しいものが次々と造られては消え去っていく中で、神は永遠に同じお一人の神としてそれらのすべてを支配され、導いておられます。

 それに対して、人間のはかなさについては、【5~6節、10節】。聖書では人間が死すべき者であり、その存在がはかないものであることのたとえとして、草や花がしばしば用いられます。詩編103編15~16節には、「人の生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる」。また、イザヤ書40章6~8節はさらに印象的です。「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。

聖書の舞台となっている近東地域では砂漠や荒れ地が多く、雨季になって一斉に咲く花の美しさは目に鮮やかだと言います。それだけに、乾季になって、あっという間に草花が枯れてしまう光景は目に憐れに映るのでしょう。人間の生涯はそれらの草花と同じだと詩人は言います、朝には美しく咲いてはいても、夕になれば枯れていく花のようだと。しかも、その生涯を振り返ってみれば、労苦と災いだけであったと。

 詩編90編の詩人は、神の永遠性と人間のはかなさとを語っているのですが、その両者をただ単純に並べ、比較しているのではありません。人間のはかなさを嘆いて、人生をあきらめ、失望しているのでもありません。むしろ、この詩人は人間のはかなさと神の永遠性とが堅く結びついることを強調するのです。永遠なる神が人間のはかなさを最もよく知っておられ、それだけでなく、神ご自身が人間をはかない者にしておられるというのです。神が人間に死を定め、人間の命に限界を定めておられるということを詩人は告白し、それゆえに、この神こそがはかない存在である人間の生涯に意味を与え、その日々の歩みを豊かに祝福してくださるであろうということを信じ、またそれを願っているのです。ここに、この詩編の最も中心的なメッセージがあります。それを聞き取っていきましょう。

 3節を読んでみましょう。【3節】。「帰れ」とは、人間を塵に返す神のご命令です。創世記2章によれば、神は最初の人間アダムを土の塵から創造され、これに命の息を吹き入れられ、それによって人間は生きる者となったと書かれています。神は人間の命と死とをご支配しておられ、人間に対して「塵に帰れ、あなたの命をわたしに返せ」と言われるのです。人間の命は神から与えられ、神に返されるというのが聖書の、またわたしたちの信仰です。ヨブがすべてを失った大きな苦難の中で、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神を賛美したように、すべての命が神から与えられた神のもの、それゆえに神に帰るべきものです。教会では死のことを召天と言います。天の神のみもとに召されるということです。天におられる神から「帰れ」と呼ばれ、神のもとへと帰るのが信仰者の死です。人間の命と死とは永遠なる神のみ手の中に置かれているのです。

 永遠なる神のみ前でのはかない存在である人間の死を考えるにあたって、ここでもう一つの重要な点があります。それは人間の罪です。【7~9節】。人間がはかない存在であり、死すべき存在であるのは、人間の罪のゆえであり、人間の罪に対する神の怒り、裁きによるのだということです。人間が罪を犯して神に背き、永遠なる神から離れ、命の主である神を捨てたこと自体が人間の死を意味するのですが、その人間の罪が最終的に支払わなければならない報酬が人間の現実的な死なのです

 わたしたちはここで二つのことを確認することができます。一つは、人間は自然に寿命が尽きて死んでいくのではなく、神とは無関係なところで死ぬのでもなく、どのような命も神のみ手の中に置かれているように、どのような死もまた、神のみ手を離れてあるのではないということです。わたしたちは、すべての命と同様にすべての死にも、そこには神の隠れたみ心があると信じるべきであり、また信じることができるのです。神は永遠であり、すべての造り主であられ、すべての命の主であられるからであり、神は永遠にそのような神として、わたしたちを捕らえていてくださるからです。すべての人の死にも、神はその人と共にいてくださいます。

もう一つのことは、人間の死は人間の罪に対する神の裁きであるという厳粛な事実です。創世記3章には、最初の人間アダムとエヴァが神の戒めを破って、禁じられていた木の実を食べ、罪を犯したために死すべき者となったことが語られています。これがいわゆる原罪、original sinです。すべての人間はこの原罪を受け継ぎ、生まれながらにして罪に傾いていると聖書は言います。また、パウロはローマの信徒への手紙5章12節で、「一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」と書いています。

そこで詩人は続けて、【11~12節】と祈り求めます。「生涯の日を正しく数える」ことには二つの意味が含まれます。一つは、文字どおり、自らの人生の日数を数えることです。神は永遠なる存在ですから、その日数を数え終わることができませんが、人間はその日数を数えて、これで終わりという限界を持っています。人間のはかなさとは、人間は死すべき者であるという厳粛な事実のことです。「死を忘れるな」ということです。ある哲学者が言ったように、「人間は死に至る存在」なのです。詩人は人間のこの厳粛な事実を、永遠なる神との関係の中で、永遠なる神のみ前に立つことによって、知らされました。それゆえに詩人は、「生涯の日を正しく数えることを教えてください」と神に願い求めるのです。人間は永遠なる神のみ前に立つときにはじめて、本当の意味で、自ら限りある存在であり、死すべき者であり、神の裁きを受けて滅びなければならない者であることを知らされ、神のみ前で謙遜にされ、神を恐れる者とされるのです。そして、ただ自らのはかなさを嘆くのではなく、永遠なる神に目を注ぎ、神から与えられるまことの知恵を願い求めるようにされるのです。

「生涯の日を正しく数える」というみ言葉のもう一つの意味は、わたしの生涯の日々、その一日一日のすべてが、神から与えられた日として、神に覚えられている日として、神に感謝をささげながら生きるようにさせてくださいということです。「主なる神を忘れるな」ということです。わたしのすべての日々は神に覚えられています。神に導かれています。わたしの健やかな日も病む日も、わたしの幸いな日も災いの日も、神はすべてを知っていてくださいます。すべての日々に伴ってくださいます。そのことを覚えて神に感謝すること、それが「生涯の日を正しく数える」ことです。

 そのようにして、「死を忘れないこと」そして「主なる神を忘れないこと」、この二つを常に覚えること、それが人間に与えられた最大の知恵だと詩人は言うのです。わたしたちはさらに進んで、この二つのことが主イエス・キリストによって一つに堅く結ばれていることを知らされています。主イエスはわたしたち人間が自らの罪のゆえに死の判決を神から受けなければならなかったのに、罪なき神のみ子であられた主イエスが、わたしたちの罪をご自身の身に負われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けくださり、十字架で死んでくださったのです。それによって、わたしたちを死の判決から救い出してくださったのです。そして、主イエスは三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利されました。主イエスの十字架の死の中にわたしたちの死があり、また主イエスの復活の命の中にわたしたちの新しい命があるのです。「主イエス・キリストの十字架の死と復活を忘れるな」、ここにこそ、わたしたちの祝福された生涯があり、祝福された一日一日があるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父かる神よ、あなたがこの教会に多くの信仰者をお集めくださり、その信仰の歩みを祝福し、お導きくださったことを、心から感謝いたします。どうか、今ここに集められているわたしたち一人一人をも、あなたの救いの恵みと平安とで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月7日説教「使徒たちによるしるしと不思議な業」

2021年11月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編85編1~14節

    使徒言行録5章12~16節

説教題:「使徒たちによるしるしと奇跡」

 使徒言行録2章から8章にかけて、エルサレム初代教会の目覚ましい成長の様子が描かれていますが、その中には何カ所かまとめの報告が記録されています。最初は2章43~47節、次は4章32~35節、そしてきょう朗読された5章12~15節です。このカ所の文章は続き具合が少し乱れているように思われます。12節前半の文章、「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた」は15節の「人々は病人を大通りに運び出し」から16節終わりの「一人残らずいやしてもらった」に続くのが自然です。12節後半「一同は心を一つにして」から14節終わりの「その数はますます増えていった」までが別の内容と考えられます。この部分が12節前半と15節との間に挿入されたかたちになってります。どうしてこのような文章の乱れが生じたのかはよくわかっていません。

 きょうは初めに12節後半から14節までの報告について学んでいきます。【12節b~14節】。これまでの二つのまとめの報告と同様に、ここでも教会の一致、信者たちの交わりが強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされている信仰者たちの群れは、数がどれほど増えようとも、伝道活動がどれほど広がっても、あるいはメンバーがどれほど多様化しても、一つの主キリストの体なる教会です。その一致と交わりの強さ、深さは変わることはありません。また、教会がどれほどに外からの迫害や攻撃にさらされようとも、内からはアナニアとサフィラの事件のような聖霊なる神を汚すという重大な罪によって試練を受けようとも、それによって教会の一致と交わりが弱められたり、壊されたりすることはありません。むしろ、教会はそれらの苦難や試練を経験することによって、より一層教会の頭なる主イエス・キリストに信頼し、神への恐れを強くすることによって、一つの群れとされていくのです。教会は人間の側の好みや利害関係によって集められているのではなく、いついかなる状況の中にあっても、主キリストによって与えられる罪のゆるしの恵みによって集められ、一つにされている群れだからです。教会の一致は礼拝と祈りにおける一致です。

 このころのエルサレム教会の礼拝場所、集会場所は主にエルサレム神殿のソロモンの回廊と呼ばれている広場でした。まだ、教会堂はありません。信者の家々に集まることもありました。神殿の礼拝堂では当時のユダヤ教の礼拝がささげられていました。その外にあるソロモンの回廊ではキリスト教会の新しい礼拝がささげられています。キリスト教会は2章に書かれてあったように、ユダヤ人の礼拝場所である神殿で誕生しました。そして、しばらくはユダヤ教とキリスト教会は隣り合った場所で礼拝をしていました。

 ここに、わたしたちは二つのことを読み取ることができます。一つには、キリスト教会はユダヤ人たちが信じ、礼拝していたイスラエルの神、旧約聖書の神を主イエスン・キリストの父なる神として信じたということです。その意味ではユダヤ教はキリスト教の母体であると言えます。神は最初全世界の民の中からイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれました。神は選ばれた民イスラエルがまず第一に救われることを願っておられました。そして、イスラエルから始まって、全世界のすべての人々が救われることを計画されました。教会はこの神の選びの順序を重んじました。13章からは、使徒パウロの計3回にわたる世界伝道の記録が書かれていますが、彼も新しい町に福音を宣べ伝える際に、まずその町のユダヤ教の会堂を訪れ、ユダヤ人に福音を宣べ伝えました。ユダヤ人からの迫害にあって、会堂を追い出されてから、ユダヤ人以外の異邦人に向かっていきました。神の選びの順序とその恵みはイスラエルの不信仰と不従順によっても決して変わりません。

 しかし第二に、ユダヤ教とキリスト教はその信仰においては全く違っています。神殿の礼拝堂では依然として動物の犠牲がささげられていました。律法が重んじられ、律法を守り行うことによって救われると信じられていました。しかし、ソロモンの回廊で行われていた教会の礼拝では、旧約聖書に預言されていた神の救いが主イエス・キリストによってすでに成就したと語られ、主イエス・キリストの十字架による罪のゆるしが信じられていました。両者の決定的な違いがやがて明らかになり、かたくなに悔い改めることをしなかったユダヤ人たちはキリスト教会を攻撃し、迫害し、彼らを神殿と会堂から追い出すことになっていきました。

 次の13~14節では、エルサレム教会の周囲の人々の教会に対する反応が書かれています。ある人々は教会から距離を置いていました。彼らがなぜ教会に近づかなかったのか、その理由は書かれていませんが、「ほかの者」と言われている人たちとは、主イエスをメシア・救い主として受け入れず、十字架につけるように訴えた当時のユダヤ教指導者たち、ファリサイ派、律法学者、長老、祭司たちのことかもしれません。この時にはまだ教会に対してあからさまな攻撃姿勢を示してはいませんでしたが、やがて彼らは教会を迫害するようになります。あるいは、宗教にはあまり興味を示さず、この世の生活のことであくせくしている人たちのことかもしれません。いつの時代にも、そのようにして教会から距離を置こうとする人たちが多くいます。

 しかし、多くの民衆は教会の信者たちを尊敬していました。信者たちが心を一つにして固く結びあっている様子や、使徒たちが熱心に福音を語り、多くのしるしと奇跡を行っているのを見て、そこに神が力強く働いていることを認めていました。けれども、彼らはもう一歩前に踏み出して教会に加わる決断ができませんでした。主イエス・キリストの十字架がわたし自身の罪のための救いのみわざであると信じるまでには至らなかったからです。

 そのような不信仰や無関心に取り囲まれていても、神は多くの信者たちを教会に増し加えてくださったと14節に書かれています。神は人間たちの不信仰や不従順、かたくなさや無関心の中でも、なおも救いのみわざを前進させたもうのです。教会はそのことを信じることがゆるされています。

 「多くの男女が」と言われています。女性の信者のことが強調されているのです。女性の社会的地位が認められていなかったこの時代にあって、教会では早くから女性もまた神のみ前では男性と同じ一人の信仰者、教会員と考えられていました。使徒言行録と同じ著者によるルカ福音書は「婦人の書」と言われるほどに、婦人たちの活動が多く描かれていますが、この使徒言行録でも初代教会の婦人たちの目覚ましい働きがこのあと数多く報告されます。主イエス・キリストの十字架の福音は、神のみ前にあるすべての人間、一人一人の人間のかけがえのない尊い存在、その命の重さと尊厳をわたしたちに悟らせるのです。主イエス・キリストはこの小さな一人のためにもご自身の尊い血を流されたからです。この小さな命もまた主キリストの十字架の血によって贖われているからです。

 では次に、12節前半から15、16節に続くカ所を読んでみましょう。【12節a、15~16節】。多くのしるしと不思議なわざが使徒たちによって行われたというのは、4章30節の教会の祈りが神によって聞かれたことを語っています。【4章30節】。もう一つの教会の祈りは、29節に書かれていました。【29節】。神のみ言葉を語ること、すなわち宣教と、その具体的なしるしである病気のいやし、しるしと不思議なわざ、この二つが初代教会の働きの中心でした。エルサレム初代教会は指導者であるペトロとヨハネが捕らえられ、裁判にかけられるという最初の迫害を経験しましたが、その迫害の中で教会は神に祈り、いよいよ強く神の助けと導きとを願い求めました。神はその祈りを確かにお聞きくださったのです。

 29節の祈りに対しては、31節にあるように、彼らが祈り終えると直ちにその祈りが聞かれ、彼らは大胆に神の言葉を語りだしました。また31節にも、「使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証し」とあり、教会の祈りが確かに聞かれ、福音宣教の働きが神によって力づけられ、導かれたということを語っています。そして、5章12節では、もう一つの祈りもまた神によって聞かれ、使徒たちによって多くのしるしと不思議なわざが行われたと語っているのです。福音の宣教としるしや不思議なわざは、神が教会の祈りに応えて、ご自身の救いのお働きを前進させておられることの確かな証なのです。

 福音宣教としるしや不思議なわざを行うことが、初代教会の働きの中心でしたが、主イエスご自身の場合にそうであったように、この二つは互いにつながりあっています。きょうのカ所ではしるしや不思議なわざ、病気のいやしの方だけが取り挙げられていますが、それらは神のみ言葉の宣教、主イエスの福音の説教と結びついていなければ、本当の救いの力を持ちません。催眠や魔術によって病気をいやしたり、人間の能力を超えた異常な力を発揮したり、人を驚かせるような奇術をして見せたりする人たちはいつの時代にも、どこの国にもいるでしょう。しかし、使徒たちが行ったしるしや不思議なわざ、病気のいやしはそれらとは全く違います。4章30節にあるように、そこでは神のみ手が働いておられ、主イエスの救いのみわざが行われているのです。それらは、主イエスの場合にそうであったように、神の国が到来し、神の愛と恵みのご支配が始まったことの目に見えるしるしなのです。

 15節はマルコ福音書6章55、56節とよく似ています。【マルコ福音書6章55~56節】(73ページ)。また、16節はルカ福音書6章17節以下とよく似ています。【ルカ福音書6章17~19節】(112ページ)。使徒たちは主イエスご自身の救いのみわざ、いやしのみわざを継承しているのです。それによって、主イエスが罪と死とに勝利しておられ、すべての悪しき霊やサタンの力に勝利しておられ、今もなお使徒たちと共に働いておられることを実証しているのです。十字架につけられ、三日目に復活され、天に昇られた主イエスが、いつも、永遠に、弟子たちと共に、信仰者たちと共にいてくださり、また信仰者たちをお用いになって、ご自身の救いのみわざをなし続けてくださるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにもあなたのみ言葉の力を信じさせてください。主イエス・キリストの福音がすべての人の罪をゆるし、死と滅びから救い出し、朽ちることのない永遠の命を与えることを信じさせてください。そして、わたしたちもまた主イエスの福音の証し人としてお仕えする者としてください。

〇天の神よ、暗闇をさまよい、生きる希望を失っている人たちにあなたが天からまことの光で照らしてください。飢え渇き、死に瀕している人たちに、きょうのパンとあなたの命のみ言葉とをお与えください。朽ち果てるものを追い求め、むなしい日々に明け暮れている人たちを、あなたの真理と救いの道へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

10月31日説教「神の永遠の計画にしたがい」

2021年10月31日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    テモテへの手紙二1章8~14節

説教題:「神の永遠の計画にしたがい」

 『日本キリスト教会信仰の告白』の2番目の文章、「主は、神の永遠の計画にしたがい、人となって、人類の罪のために十字架にかかり……」、きょうはその冒頭の「神の永遠の計画にしたがい」という告白について、聖書のみ言葉に導かれて学んでいきます。

 「神の永遠の計画にしたがい」という言葉は、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰告白』にはありませんでした。1953年(昭和28年)に制定された(新)『日本キリスト教会信仰の告白』になってから追加されました。すでに学んだように、最初の文章の「我らが神と崇むる」が「主とあがめる」に変更されたこと、その次の「真の神であり、真の人」が追加されたこと、そして今回の「神の永遠の計画にしたがい」が追加されたこと、これらが1951年に新しい日本キリスト教会を建設しようと立ち上がったわたしたちの先輩たちが目指した神学や教会形成の大きな特徴となっているのです。

 第一の特徴である「主告白」は、主イエス・キリストだけがわたしたちが主と告白して礼拝すべき唯一の主であり、この主キリスト以外には、わたし自身にとっても、この国においても、全世界のどこにも、主と言われうるものは何一つ存在しない。これが、戦争に協力し、アジアの諸国への侵略をゆるした戦時中の教会の過ちから、先輩たちが悔い改めをもって学んだ第一のことでした。「真の神であり、真の人」という告白も、主イエス・キリストだけが神と人との間の唯一の仲保者であり、わたしたちの救いを完全に成し遂げてくださる唯一の救い主であるゆえに、主イエス・キリスト以外の他の何ものにも救いを求めないという、強く、毅然とした信仰を強調しています。そして、主イエス・キリストのすべての救いのみわざは「神の永遠の計画にしたがい」なされた救いのみわざであり、わたしの生涯も全世界の歴史も、すべてがこの「神の永遠の計画にしたがい」、神の永遠の摂理のもとにあると告白すること。これが、わたしたちの教会の信仰と神学の大きな特色なのです。

 では、この2番目の文章の主語は何であるかを確認しておきましょう。言うまでもなく、それは「主」です。最初の文章も2番目の文章も、主語は同じ主イエス・キリストです。主イエス・キリストは『日本キリスト教会信仰の告白』全体の主語であり、この信仰告白のもとになっている聖書全体の主語であということは言うまでもありません。それだけでなく、主イエス・キリストは教会の歩み、世界の歴史の歩み、またわたしたち一人ひとりの信仰の歩み、わたしの人生の歩みにおいても、常に唯一の主語であられます。

 ここでもう一つ確認しておきたいことは、「神の永遠の計画にしたがい」はどこに続くのかということです。すぐ後の「人となって」か、「人となって、人類の罪のため十字架にかかり」までか、あるいはこの文章の終わりの「執り成してくださいます」までかかるのかということですが、ここで告白されている内容から考えて、文章の終わりまでのすべてにかかるとするのがよいであろうと思います。つまり、主イエス・キリストのこの世への到来・誕生から始まって、その全ご生涯・ご受難と十字架の死・復活のすべてが、父なる神の永遠の救いのご計画に基づいている。それだけでなく、主イエス・キリストの昇天、神の右に座しておられること、終わりの日に再び来られ、神の国を完成されることに至るまで、主イエス・キリストの救いのみわざのすべてが父なる神の永遠なるご計画によるのであり、主イエスご自身はその神の永遠なる救いのご計画にしたがって歩まれたことが、ここでは告白されているのです。

 では、「神の永遠の計画にしたがい」を、「永遠の」と「神の計画」と「したがい」の3つに分けて、それぞれの言葉で告白されている内容を学んでいきましょう。最初に「したがい」を取り上げます。一般的な意味としては、「~によって」「~のままに」「~に導かれて」という意味として理解することもできますが、もっと積極的な意味で、主イエスご自身の父なる神への服従の意志、服従の行為を読み取るのが良いように思われます。主イエスは神の救いのご計画とその救いの道を無意識に歩まれたのではありません。主イエスの誕生から死に至るまでのすべての道において、主イエスは徹底して父なる神に服従されました。主イエスの誕生は神の永遠なる救いのご計画によって、その時が満ちて、起こった出来事でした。主イエスの両親となったヨセフとマリアは、「お言葉どおりにこの身になりますように」と告白して神のみ心に服従しました。ガラテヤの信徒への手紙4章4節には、「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」と書かれています。

 主イエスはまた、ご受難と十字架の死の道を運命とあきらめて進まれたのではなく、無理やりだれかに強制されたのでもなく、主イエスご自身が父なる神のみ心を尋ね求めつつ、そのご意志に喜んで服従されたのでした。フィリピの信徒への手紙2章6~8節にはこのように書かれています。【6~8節】(363ページ)。

 主イエス・キリストは「神の永遠の計画にしたがい」、服従の道を歩まれ、それによって神の律法を全うされ、わたしたち罪びとのための救いのみわざを成就されたのです。わたしたちの救いは徹底してこの主イエス・キリストにかかっています。主イエス・キリストを信じる信仰にかかっています。

 次に、「永遠の」という言葉を取り上げます。永遠とは、まず第一に、神ご自身のことを意味しています。神は永遠なる存在です。神以外のすべては、神によって創られた被造物であって、それらは時間と空間の双方で限界を定められています。ただ神だけが唯一永遠であり、神の計画も永遠です。

 永遠とは、聖書の中では、時がいつまでも続くという意味だけでなく、少しわかりづらい言い方ですが、永遠の過去、永遠の未来という意味を持っています。人間の概念によれば、神が天地万物と人間を創造されたときから時が始まるのですが、しかし神はそれ以前にも、永遠の過去にわたって神であられ、神として存在しておられたのであり、救いのご計画を立てておられたということであり、また永遠の未来とは、単に今の時がいつまでも続くということではなく、来るべき世、今の世とは全く違った新しい世、つまり神の国が完成する時まで続く未来を意味しています。

 たとえば、聖書で永遠の命という場合には、今のわたしの命がいつまでも継続するということではありません。今のこのわたしの命は、時に肉体が病んだり、心が痛んだり、不安になったり、悩んだり、迷ったりを繰り返す命であり、日々罪を重ねていく命です。それがいつまでも続くのだとしたら、わたしにとって喜びであるよりは苦痛であると言えるでしょう。しかし、聖書が語る永遠の命、主イエス・キリストがわたしたちに約束しておられる永遠の命とは、ヨハネの黙示録21章のみ言葉によれば、神がいつでも永遠にわたしと共にいてくださる命であり、わたしの目から涙を全くぬぐい取り、もはや死もなく、悲しみも痛みも叫びもなく、全く新しくされた命、来るべき神の国に属する命のことなのです。

 永遠という言葉の中には、不変という意味も含まれます。神は永遠であり、不変なる方であられ、神のみ心、救いのご計画もまた永遠、不変です。たとえ、世界がどのように移り変わろうとも、人間の心がどのように変化しようとも、神は同じ神であられ、その救いのご計画を変更することなく進められます。天地万物と人間を創造された神が、アブラハム・イサク・ヤコブの神であり、イスラエルの民を選ばれた神であり、主イエス・キリストの父なる神であり、教会を支配され、導かれる神であり、わたしたちひとり一人を愛し、罪から救い、神の国の民とされる、唯一の永遠なる神なのです。

 最後に、「神の計画」ですが、1953年に制定された告白では「神の経綸」という言葉でしたが、「経綸」が一般的でないということから、2007年に制定された口語文では「計画」に言い換えられました。経綸の方がより深い意味を持っていますので、その方が良かったのではという個人的な意見はあります。計画よりは、摂理とか、配済という言葉がその内容を言い表していると思われます。

神の経綸、神の摂理、神の配剤とは、一つ一つの出来事に対して、一つ一つの事柄に対して、また一人一人の存在や歩み、動き、生と死に対して、すべてに対して、神は最も良き時とよき道を備えてくださり、すべてのことが相働いて益となり、神の栄光を表す最終の目的に向かうようにしておられるということを意味します。テモテへの手紙二1章9~10節にはこのように書かれています。【9~10節】(391ページ)。もう一か所を読んでみましょう。【エフェソの信徒への手紙1章7~12節】(352ページ)。神はご自身の永遠の経綸、摂理、配済を、わたしたち罪びとの救いのためにこそ、最も力強く、全力を込めて実行してくださったのです。

 ちなみに、「経綸」という言葉は『口語訳聖書』には用いられていませんでしたが、『新共同訳聖書』には二度、ヨブ記38章2節と42章3節で用いられています。38章2節では、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」。42章3節では、「神の経綸を隠そうとするとは」とあります。ヨブ記の翻訳に携わった林嗣夫先生から直接に伺ったところによると、先生自身が「経綸」という言葉にこだわってこの翻訳を主張したということです。林先生が亡くなられた後になって、『信仰告白』の中の「経綸」が「計画」に変えられるということは、かの先生も予測していなかったでしょう。

 ではここで、「神の永遠の計画にしたがい」と告白することの意味を二つにまとめてみましょう。一つには、ここでは神の救いのご計画の確かさ、その保証が与えられているということです。神がわたしたち人間を愛され、救われるということは永遠の昔から、天地創造の前から、神の永遠なる決意と決定によって定められていたことであり、それは永遠に不変であり、確かであるという保証がここにあるのです。神ご自身が、いわばその全存在をかけて、わたしたちの救いを保証してくださるのです。

二つには人間の側の条件とか、人間の功績や働きというものが、一切排除されている、それは必要ないということです。神が、ただ神のみが、わたしたちの救いに必要なすべてのみわざをなしてくださるのであり、人間のわざや能力には全く無関係に、神ご自身の一方的な愛と恵みの選びによってすべての人は救われるのです。もし、救いが人間の側の条件によって左右されるというのであれば、わたしたちは自分が救われているかどうかを絶えず疑わなければならないでしょう。しかし、そうではありません。わたしたちはただ「神の永遠の計画にしたがい」をそのまま信じ、それにわが身を委ね、従うのみです。また、そうすることこそがわたしたちの永遠で確かな救いなのです。それによって、わたしたちは神の栄光に向かって前進していくのです。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたは天地創造の初めからわたしたちを選ばれ、主イエス・キリストによる救いの道へと招きいれてくださいました。どうか、すべての人たちがこの救いの道へと導きいれられますように。そして、あなたの永遠の救