6月28日説教「聖霊の降臨を待ち望む」

2020年6月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録1章1~5節

説教題:「聖霊の降臨を待ち望む」

 フィリピの信徒への手紙を読み終えましたので、きょうから使徒言行録を説教テキストとして取りあげることにしました。使徒言行録を選んだ主な理由は二つあります。一つは、今読んでいるルカによる福音書と同じ著者によると考えられているからです。ルカ福音書では主イエスが全世界のすべての人々の救い主としてこの世においでになって、十字架の死と復活によってその救いのみわざを成就されたことを描いており、その続編である使徒言行録では、主イエスの十字架と復活の福音が、エルサレムから全世界へと宣べ伝えられ、世界の町々村々に教会が立てられていった次第を描いています。ルカ福音書と使徒言行録の連続性を考えながら二つの書を読んでいくことが有益と思われるからです。

もう一つは、今日、全世界の教会が様々な困難な状況の中にあり、教会の勢力が衰え、力と命を失いつつあるように思われる中にあって、最初に誕生した教会がどのようにしてその福音宣教の働きを展開していったのか、その力と命の源は何であったのかを探っていくことにあります。初代教会、古代教会と言われるその時代の教会に学ぶことによって、わたしたちの教会も新しい力と命を与えられたいとの願いをもって、ご一緒に読んでいくことにしましょう。

1~2節は献呈の辞と言われます。自分が書いた書物を特定の尊敬する人や親しい人に献呈するということは今日でも行われています。ルカ福音書1章3節でも同じテオフィロという人に献呈されています。テオフィロという人物については全く分かっていませんが、ルカ福音書の方では「敬愛するテオフィロさま」(口語訳聖書では「閣下」ですが)、この言葉は高い社会的身分を示していますので、キリスト教に理解があったローマ政府の高官であったのでないかと推測されています。ところが、使徒言行録ではその称号が付けられていないことから、ルカ福音書が書かれたころにはまだ求道者であったテオフィロが使徒言行録を書いた時には洗礼を受けていたので、この世的な称号は省いたのだと、興味深い推測をする人もいます。

第一巻のルカ福音書の内容を著者ルカは「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのこと」という言葉でまとめています。これは、ルカ福音書24章の終わりの36節以下に書かれている内容を指しています。復活された主イエスがエルサレムで弟子たちの前にお姿を現わされ、彼等にお命じになりました。【ルカ福音書24章44~53節】(161ページ)。使徒言行録でも、4節で同じ主イエスの命令が繰り返されています。【使徒言行録1章3~5節】。

ここでまず注目したいことは、ルカ福音書の続編である使徒言行録も、「イエスは」という言葉で始まっているときことです。ルカ福音書の主人公、中心人物が主イエスであり、主イエスの救いのお働きがその中心的内容であることは言うまでもありませんが、第二巻の使徒言行録もその主人公は主イエスです。天に上げられ、父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊を派遣され、弟子たちをお用いになってご自身の救いのみわざをさらに全世界へと広められる主イエスが、第二巻・使徒言行録でも主人公であられます。

そのことは、使徒言行録の初代教会の時代だけでなく、その後のすべての教会の歩みとその教会に招かれている信仰者一人一人にとっても、同様です。主イエス・キリストがそれらのすべての歩み、活動、歴史の主人公であられます。主イエス・キリストが教会の頭として生きて働いておられる教会、また、主キリストがわたしたち一人一人の中で生きて働いておられる信仰者、それゆえに「生きているのはわたしではない。主キリストがわたしのうちにあって生きておられる」と告白するキリスト者、そのような教会とそのような信仰者である時にこそ、そこに主キリストの力と命が与えられるのです。

次に、主イエスのご生涯とご受難から昇天に至るまでの道のりを確認しておきましょう。主イエスは年およそ30歳になってから公の宣教活動を始め、ガリラヤ地方からユダヤ地方へと、神の国の福音を宣べ伝えられました。その期間は3年ほどと考えられます。地上の歩みの最後の一週間はエルサレムで過ごされ、その週を受難週と言います。受難週の木曜日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書によれば、それはユダヤ人の祭り、過ぎ越しの食事でした。翌日早朝に、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、裁判を受け、最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑を言い渡されました。金曜日午後3時ころ、主イエスは十字架上で息を引き取られ、すぐに埋葬されました。一日置いて、日曜日の明け方に、主イエスは墓を打ち破り、復活されました。そのあと、3節に書かれているように、主イエスは弟子たちに復活のお姿を現わされました。それを復活の「顕現」と言います。それが40日間続きました。そのあと、9節にあるように、主イエスは天に上られました。それから10日後の、ユダヤ人の五旬祭(ペンテコステ)の日に、弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。そのことが2章に書かれています。これが、福音書から使徒言行録に至る日程です。

ここでわたしたちは今一度3節のみ言葉に注目したいと思います。【3節】。このみ言葉が、福音書と使徒言行録とをつなげる鍵になります。主イエスの神の国の福音を宣教するお働き、主イエスの救いのみわざは、主イエスの死によって終わったのではありません。主イエスの十字架の死の三日後、日曜日の朝に主イエスは復活されました。それだけでなく、復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされ、彼等に福音書に描かれているのと同じように神の国の福音を説教され、彼等と共に食事をされ、4節が弟子たちと共同の食事の最後になるのですが、そのようにして主イエスはご自分が確かに生きておられることを弟子たちに証明されました。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章で主イエスの復活の顕現についてこのように書いています。【15章3~7節】(320ページ)。初代教会の信仰告白の中で復活の顕現についてこのように詳しく言い表していることをも注目したいと思います。

では次に、復活の顕現の重要性についていくつかのポイントをまとめてみたいと思います。第一点は、主イエスが罪と死に勝利されたことの確かなしるしであるということです。人間たちの罪が罪なき神のみ子を偽りの裁判で裁き、人間の罪が勝利したかに見えたその時に、主イエスは罪と死に勝利され、死の墓から復活されました。弟子たちは復活された主イエスのお体に十字架にくぎで刺された跡や鑓で突き刺された傷跡を確認しました。まさに十字架につけられた主イエスが復活されたのです。人間の罪の力が最後に勝利するのではなく、罪と死から起き上がり、新しい復活の命をお与えになる神の恵みと愛が、罪のゆるしが勝利するのです。復活された主イエスと出会った弟子たちはそのことを確認しました。

第二点は、主イエスが福音書で説教された神の国が今や成就したということです。3節に「神の国について話された」と書かれています。福音書の中で主イエスは近づきつつある神の国の福音を説教されました。人間の罪が支配していた世界が間もなく終わり、神の恵みと愛のご支配が始まる、神から与えられる罪のゆるしの福音が語られ、その福音を信じる信仰者に永遠の命が約束される、新しい神の国が今始まったのだと主イエスは話されました。使徒言行録は新しい神の国が始まったことの記録です。新しい神の国に生きる教会の記録です。

第三点は、復活の顕現を経験した弟子たちは、主イエスの復活の証人とされたということです。ルカ福音書24章48節で主イエスは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」。また、使徒言行録1章8節では「あなたがたはわたしの証人となる」と言われました。さらに22節には、「主の復活の証人となる」と書かれています。初代教会はこれらの主イエス・キリストの復活の証人たちによって建てられたのです。主の復活の証人たちの証言によって、その説教によって、教会は誕生し、建てられ、生きていたのです。

ここに、教会の歴史的存在の確かな根拠、土台、基礎があるのです。それは、今日の全世界のすべての教会の存在の根拠であり、土台であり、基礎でもあります。わたしたちの教会もまた、主イエスの復活の顕現を体験した弟子たち、主イエスの復活の証人たちの証言、それを土台としています。ここに、教会の土台の確かさ、わたしたちの信仰の土台の確かさがあるのです。

4~5節では、弟子たちの上に聖霊が注がれるまで、エルサレムで待っていなさいとの主イエスの命令が語られます。ルカ福音書24章の終わりで語られていた内容と一致します。聖霊は「前にわたしから聞いた」こと、「父の約束されたもの」と言われています。聖霊はすでに旧約聖書で預言されていました。ヨエル書3章では、神が終わりの日にすべての人の上に聖霊を注ぐであろう、聖霊を受けた若者は預言をし、老人は夢を見るであろうと預言されています。また、ヨハネ福音書では主イエスがご自分の死後に別の助け主として聖霊を派遣すると何度も約束しておられます。【ヨハネ福音書15章26~27節】(199ページ)。

その聖霊が注がれる時まで、エルサレムで待っていなさいと命じられています。「待っていなさい」と命じられていることが、聖霊なる神のお働きと関連しています。つまり、聖霊が注がれるまでは、弟子たちは何もせずに、ただ祈って待っているようにと命じられているのです。弟子たちが自分たちの計画や力や知恵によって教会を建てたり、主イエスの福音を語ったりするのではなく、自分たちの計画や働きを中止して、自分たちの知恵や力に頼ることをやめて、聖霊なる神が自分たちの中で働かれるために、自らを空しくし、貧しくし、無にすることによって、聖霊なる神に自分を全面的に明け渡し、服従する。その時にこそ、聖霊なる神がわたしの中で働かれ、わたしを信仰者とし、主イエス・キリストの復活の証人としてわたしを立て、わたしを福音の宣教者としてこの世へと派遣してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、わたしたちに聖霊をお注ぎください。わたしたちを聖霊によって強め、

励まし、主キリストの証人としてお立てください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月21日説教「主イエスの宣教活動」

2020年6月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章6~11節

    ルカによる福音書4章14~15節

説教題:「主イエスの宣教活動」

 新約聖書には四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですが、前の三つを「共観福音書」と言います。というのは、この三つは福音書の構造や記述内容などが非常によく似ていて、一字一句全く同じという個所も少なくなく、互いに観察しあって書いた、あるいは編集したと考えられるからです。今日の研究では、マルコ福音書が最も早くに書かれ、おそらく紀元60年代、すなわち主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活され、50日後のペンテコステに最初のエルサレム教会が誕生してからおよそ30年後に書かれ、マタイとルカ福音書はそれから10~20年後に、おそらくはマルコ福音書を参考にしながら書いたと推測されています。ヨハネ福音書は共観福音書とはだいぶ趣が違っていますので、これを第四福音書と呼んだりします。これは、紀元80~90年代に書かれたと考えられています。

 共観福音書と言われる三つの福音書、それに第四福音書と言われるヨハネ福音書、これら四つの福音書に書かれている中心的な内容、それが主イエス・キリストであるということは言うまでもありません。四つの福音書は、それぞれの特徴を持ち、強調点の違いがあり、言葉遣いの違いなどもありますが、それがわたしたちに語りかけているのは、神が全人類のための救い主としてこの世にお遣わしになった主イエス・キリストであり、主イエス・キリストが宣べ伝えられた神の国の福音であり、神の永遠の救いのみわざです。

 わたしたちはルカ福音書を続けて読んでいますが、共観福音書と言われる他の二つの福音書を参考にしながら読むと、理解が深まります。きょうの礼拝で取り上げるのは、ルカ福音書4章14~15節の短い箇所ですから、これを他の二つの福音書を読み比べながら、丁寧に、詳しく学んでいくことにしたいと思います。

「新共同訳聖書」では読む人の参考のために、その個所の表題と、共観福音書の並行個所を記しています。マタイ4章12~17節、マコ(マルコ)1章14~15節と書いてありますので、聖書を開ける人はその個所を開いてください。【マタイ4章12~17節】(5ページ)。【マルコ1章14~15節】(61ページ)。表題の「ガリラヤで伝道を始める」はみな同じです。記述内容は、三つに共通している点があり、マタイとマルコに共通している点、またそれぞれの特徴も読み取れます。ここには、それぞれの福音書全体の特徴もよく表れています。それらの研究課題の一つ一つをすべて取り上げていくと、神学校の1週間分の講義になりますので、きょうはその中のいくつかに触れながら、主イエスの福音宣教の初めについて学んでいくことにしましょう。

第一に取り上げる点は、ルカ福音書14節の「イエスは〝霊〟の力に満ちて」というみ言葉です。これは、マタイにもマルコにもありません。ルカ福音書の大きな特徴の一つだということが分かります。前回にも触れたことですが、ルカ福音書は特に、霊、神の霊、聖霊を強調します。これは、同じ著者によると思われる使徒言行録にまで受け継がれていきます。

主イエスの誕生予告の個所で聖霊について語られています。1章35節の天使がマリアに語ったみ言葉【35節】(100ページ)。わたしたちが「使徒信条」の中で「主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ」と告白しているとおりです。次に、主イエスの受洗の個所、【3章21~22節】(106ページ)。そして、荒れ野での誘惑の場面、【4章1節】(107ページ)。

主イエスは誕生の時から、公のご生涯が始められる受洗の時、荒れ野での悪魔の誘惑との戦いと勝利、そして福音宣教の開始、そのすべてが聖霊なる神のみ力とお導きによるということを、ルカ福音書は強調しているのです。主イエスはご自身の願いや計画や意志によって公のご生涯を始められるのではありません。父なる神の永遠の救いのご計画に従い、聖霊なる神の力とお導きによって、すべてのみわざをなさるのです。この福音書に描かれている主イエスのすべての活動、神の国の福音の説教、奇跡のみわざ、そしてご受難と十字架の死、復活、それらすべてのことが父なる神のみ心に従い、聖霊なる神のお導きによってなされるのです。また、そうであるからこそ、主イエスはそれらすべてのみわざを喜びをもってなすことができたのであるし、そのみわざによってわたしたちのための救いを完成されるのです。

同じことは、わたしたち一人一人の信仰の歩みにもあてはまります。わたしが初めて教会に招かれた時、わたし自身はまだそのことに気づいてはいませんでしたが、そこには聖霊なる神のお導きがありました。わたしが信仰を告白して洗礼を受ける決意を与えられた時、信仰者として教会に仕え、キリスト者としての証しの生活をする時、そのすべてにも聖霊なる神のみ力とお導きがあったのだということ、父なる神の永遠のご計画があったのだということ、そう信じる時にこそ、わたしは喜びと希望をもって信仰の歩みを続けることができるのです。もし、それらを自分の願いや計画でしたのであれば、わたしたちはある時には自分を誇って傲慢になったり、ある時には失敗して失望しなければなりません。わたしの信仰の歩みのすべてが聖霊なる神に導かれたものであるようにと祈り求めることが大切です。そうである時にこそ、わたしの信仰の歩みが確かに終わりの日の完成に向かっているということを信じることができるからです。

「霊の力に満ちて」はルカ福音書全体に貫かれているだけでなく、ルカが続編として書き著した使徒言行録にまで続いています。使徒言行録1章8節にこのように書かれています。【8節】(213ページ)。そして次の2章では、五旬祭(ペンテコステ)の日に弟子たちに約束の聖霊が注がれて、エルサレムに最初の教会が誕生した次第について書かれています。全世界の教会は聖霊なる神がお与えになった実りであり、聖霊なる神の活動そのものです。

14節に続けて「ガリラヤに帰られた」とあります。どこから帰られたのかというと、4章1節に書かれていたように、洗礼者ヨハネが活動していたヨルダン川沿いの地域、おそらくはイスラエルの南のユダヤ地方から、さらに悪魔の誘惑の場面である同じユダヤ地方の荒れ野から、北の方角のガリラヤ地方へと、距離にして約100キロほど移動されたと推測されます。ユダヤの荒れ野からガリラヤへ、主イエスのこの移動は何を意味するでしょうか。一つには、主イエスはユダヤの荒れ野にとどまってはおられなかったということです。荒れ野で修業したり、一人で瞑想し、悟りを開くということが主イエスの目的ではありません。人々が住んでいる町々村々で、その人々の生活の中で、特にも、困窮したり、重荷を背負ったり、苦しみや痛みの中にある人々と共に歩み、彼らに神の国の福音を語り、罪のゆるしと救いの恵みを語り伝えることが主イエスの活動の目的です。主イエスはわたしたちの生活のただ中に入って来られます。

もう一つは、ガリラヤのナザレが主イエスの故郷だったからです。2章39節にも、主イエスがご両親のヨセフとマリアと一緒にエルサレムからガリラヤのナザレに帰ったと書かれていました。しかし、4章14節で「ガリラヤに帰られた」とあるのは2章39節とは意味が違います。主イエスはご両親が住むナザレの町でご両親とまた一緒に住むために帰られたのではありません。おそらく主イエスは、公のご生涯が始まって以後は、実家に立ち寄るとか、実家で少しの間休養を取るとか、そのようなことは一度もなされなかったのではないかと思われます。主イエスがガリラヤ地方へ帰られたのは、この地方の人々に神の国の福音を宣べ伝えるために他なりません。彼等に罪のゆるしの福音を語り、悔い改めて神に立ち帰ることを勧めるためでした。

さらに積極的な意味を、マタイ福音書から知らされます。マタイ福音書4章15、16節では、イザヤ書8章23節と9章1節の預言を引用して、その意味を語っています。神が主イエスを最初にガリラヤ地方へと遣わされたのは、辱められ、見捨てられ、暗闇に閉ざされていた異邦人の地であるガリラヤに大きな光を輝かせるという預言者イザヤのみ言葉が成就するためだとマタイ福音書は語っています。

これには、旧約聖書時代からの歴史的背景があります。イスラエルはソロモン王の死後、紀元前922年に南北に分裂しました。南王国ユダがソロモン、ダビデと受け継がれる正統的な王国でしたが、北王国は200年後の紀元前721年にアッシリヤ帝国によって滅ぼされました。アッシリヤは占領政策として外国人を北王国に移住させたために、北王国のユダヤ人は外国人と混ざり合い、異教的な信仰がはびこるようになっていきました。そのために、北のサマリアやガリラヤ地方は、純粋な民族的宗教を重んじるユダヤ人からは異邦人に呼ばわりされ、軽蔑されていました。イザヤ書の預言はそのような北王国の歴史を背景にしています。

神はその異邦人の地、暗黒の地と呼ばれていたガリラヤを、主イエスの福音が語られる最初の地として選ばれたのです。ここには、聖書の中で繰り返されている神の選びの不思議があります。神はあえて小さなもの、貧しいもの、見捨てられている者、暗黒の地に住む人たちを選ばれ、救いの恵みをお与えくださいます。それはだれも神のみ前で誇ることがないためです。だれもが、神に選ばれる資格も可能性も全くないにもかかわらず、神の一方的な恵みの選びによって、救われ、神の民とされたことを感謝するためです。

次に、14節と15節で二度にわたって強調されている点は、主イエスがガリラヤ地方の人々に歓迎され、尊敬をお受けになられたということです。民衆が主イエスを喜び迎えたということは、当時のユダヤ人、また特にガリラヤの人たちが、神の救いの時の到来を待ち望んでいたことを示していると理解することもできますが、しかしまたその期待もすぐに、あえなく崩れ去るという失望感を強調してもいるのだということにすぐ気づきます。16節以下のナザレで主イエスがお受けになった最初の迫害、拒絶によって、そのことがすぐに明らかになります。そのことについては次回に詳しく学ぶことになります。

最後に、「イエスは会堂で教えられた」というみ言葉を学びましょう。会堂とは、ユダヤ教の地方にある礼拝所のことです。動物を犠牲としてささげる礼拝は、エルサレムにある神殿以外では認められていませんでした。地方の会堂では、安息日ごとに(ユダヤ教では土曜日ですが)礼拝がささげられていました。その会堂での礼拝についても次回学びますが、主イエスはしばしばその会堂で説教されました。主イエスの説教、教え、福音は旧約聖書の教えとユダヤ教の会堂を母体にしています。しかし、その内容は会堂でのユダヤ教の教えとは全く違っていました。主イエスの説教、主イエスの福音は、旧約聖書の預言の続きではありません。預言の成就です。ユダヤ教の律法ではありません。神の国の福音です。主イエスはユダヤ教の会堂で、ユダヤ教の教えではなく、新しいキリスト教の教えを説教されました。神にはじめに選ばれたユダヤ人、イスラエルの民だけでなく、選びから落ちたガリラヤの人たちも、選ばれなかった異邦人たちも、全世界のすべての人たちが救いへと招かれている。ユダヤ教が教えるように律法を守ることによってではなく、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人が罪ゆるされ、救われる。その福音を主イエスはガリラヤで説教され、今もわたしたちにその福音を語っておられます。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを主イエス・キリストの福音へと招いてください。全

世界のすべての人々を、主イエス・キリストの福音へと招いてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

6月14日説教「アダムからノアまでの系図」

2020年6月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~32節

    ヘブライ人への手紙11章1~7節

説教題:「アダムからのノアまでの系図」

 創世記5章にはアダムから始まるノアの大洪水以前の最初の人間たちの10世代にわたる系図が書かれています。旧約聖書にはこのほかにも多くの系図があります。歴代誌はそのほとんどが系図で占められています。マタイ福音書1章とルカ福音書3章には主イエスに至るまでの系図があります。聖書の民であるイスラエルにとっては、系図が非常に重んじられていました。なぜ系図が重要な意味を持つのかを考えることが、きょうの創世記5章を理解する基礎になります。

 1節で「系図」と訳されているヘブライ語は2章4節で「由来」と訳されている語と同じです。本来この言葉は「出産」を意味します。そこから、誕生の由来や歴史、成立史という意味を持つようになったと考えられます。ここからわたしたちは「系図」が持つ重要な意味の一つを教えられます。それは、神が始められ、神が導かれる世界と人間の歴史を意味しているということす。神が全世界を創造され、神が最初の人間アダムとエバを創造され、その命を誕生させてくださった、その人間の誕生と命のつながり、連続、それが系図です。系図、由来の原点、出発点には主なる神がおられるのです。ルカ福音書3章38節には、「エノシュ、セト、アダム、そして神に至る」と書かれているとおりです。神が始められた世界と人間の歴史、神の救いの歴史は、決して中断されることなく、その完成に向かって継続されていくのです。これが、系図、由来の第一の意味です。

 創世記12章からの族長アブラハムの時代からは、系図に新たな意味が加わりました。それは、系図が神の選びの歴史の確かなしるしであるということです。神は地の表からまずアブラハムを選び、彼をご自身の民として召され、彼と契約を結ばれました。神の選びと契約はアブラハムの子イサク、ヤコブ、そしてヤコブ(すなわちイスラエル)の12人の子どもたちによって形成されるイスラエルの民の選びと契約によって具体化されていきました。神はイスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出され、シナイ山でこの民と契約を結ばれ、ご自身の民とされました。その契約はダビデ王からソロモン王と南王国ユダの子孫へと受け継がれました。その神の選びと契約の歴史、これが系図の第二の意味です。

 系図のもう一つの、最も重要な意味は、神が開始された創造と救いのみわざは、神の選びと契約の歴史を通して、その完成であるメシア・キリスト・救い主の到来を待ち望み、主イエス・キリストを目指し、主イエス・キリストによって完成されるということです。旧約聖書の書かれているすべての系図は、そして新約聖書マタイ福音書とルカ福音書の系図ももちろんそうですが、そのすべてが主イエス・キリストにつながっている、主イエス・キリストを目指している、主イエス・キリストによって完結している、その最終目的に達しているということ、つまり、その系図によってわたしたちを主イエス・キリストへと導くということ、それが系図の最も重要な意味、役割なのです。

 以上のことを念頭に置きながら、創世記5章を読んでいきたいと思います。【1~2節】。ここでは、創世記1章26~28節で書かれていた内容をまとめています。復習になりますが、4つの点を再確認しておきましょう。第一点は、「創造する」という言葉です。ヘブライ語で「バーラー」、これは、神が主語になる文章でしか用いられません。ただ神だけがなさる、特別な創造のみわざを言い表す言葉です。神は何の材料も道具をも用いず、神がお語りになる言葉ですべてのものを創造されました。無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして、神は天地万物と人間を創造されました。したがって、わたしたち人間の命と存在のすべてが神から与えられている、神によって支えられ、養われ、導かれているということがこの言葉では強調されているのです。

 第二点は、「神に似せて」ということです。神は人間を、ただ人間だけを、ご自身のお姿に似せて、ご自身に近い存在として、ご自身と深く交わる者として創造されました。わたしたち人間は神がお語りになるみ言葉を聞き、それを理解し、それを信じ、神を礼拝することによって、わたしもまた神のお姿に似せて創造されているということを知らされるのです。

 第三は、神は人間を「男と女に」創造されたということです。一人だけで生きるのではなく、男と女として、互いに違った者でありながら、共に生きる連帯的人間として、隣人を愛し、隣人に仕え、共に主なる神にお仕えする共同体として人間を創造されました。

 第四は神の「祝福」です。人間は神の祝福を受けてこの世に誕生し、神の祝福を次の世代へと受け継いでいきます。神に選ばれた信仰者の家には神の祝福が途絶えることはありません。以上の4つのことが、アダムから始まるすべての人間に引き継がれ、受け継がれていきます。

 【3~5節】。3節の「自分に似た、自分にかたどった」とはどういうことを意味するでしょうか。神が最初に人間アダムを創造された時の、26、27節の「神に似せて、神にかたどって」と同じ言葉が用いられてはいますが、内容は必ずしも同一というわけではありません。なぜならば、創世記3章に書かれているように、アダムは神のお姿に似せて創造されたという「神のかたち」を自らの罪によって破壊し、失ってしまったように思えるからです。だとすれば、5章3節は二重の意味を持つことになります。一つは、神のかたちに似せて創造されたという、人間に対する神の大きな愛と恵み、今一つは、その神の恵みを失ってしまったという人間の罪。アダムの子どもセトはその二つを父から受け継ぐのです。また、それ以後のすべての人間も、わたしたちもまたその二つを父と母から受け継ぎ、また子へと受け継ぐのです。

いや、それだけではありません。さらにもう一つのことを付け加えなければなりません。5章3節で、あえてここにもう一度「似ている、かたどった」という1章26、27節の言葉が繰り返されているのは、ここでも、最初に神がアダムを創造された時の神の大きな恵みと愛とが、アダムの罪にもかかわらず、それが決して失われてはいないということが暗示されているということであり、さらに言うならば、やがて神はメシア・キリスト・救い主を世にお遣わしになる時には、あの失われた「神のかたち」を再び取り戻されるということを預言しているのだということです。神はご自身のかたちそのものであられるみ子・主イエス・キリストによって、罪によって失われた「神のかたち」をわたしたちのために再創造してくださったのです。

さて、イスラエルの系図においては、長男がその家を受け継ぐのが一般的でした。しかし、セトはアダムの長男ではありません。長男は4章1節に書いてあるように、カインでした。ところが、カインは弟アベルを殺したために、神に呪われた人として、地をさまよわなければならなくなったと4章に書かれていました。そして、4章25、26節にはこのように説明されています。【25~26節】。この説明によれば、アダムの長男カインは弟殺しの罪のゆえに、神に捨てられ、神は代わって別の男の子セトをアダムに授けられたということになります。そして、カインではなくセトがアダムの家を受け継ぐようになったのです。イスラエルの系図は、機械的に長男に受け継がれるのではなく、そこには神のみ心、神の救いのご計画が含まれているということを、ここでも確認できます。

次に、ここに挙げられている10世代のすべてが、今日では考えられないような高齢であることに、だれでも気づかれるでしょう。最も高齢は8世代目、27節のメトシェラは969歳、最も短くてもその前の23節、エノクの365歳、10世代を平均すると858歳になります。これについて、さまざまな解釈が試みられています。

これを神話的な表現ととらえて、その数字をまともに取り上げる必要はないという考えがあります。古代バビロニアやエジプト、インドなどにも、原始時代の神々たちや神格化された王たちの長寿の記録が残っています。日本の神話でも神々は何万年も生きたと書かれています。しかし、創世記もそれと同じだと理解することは適当ではありません。創世記の系図は神々の系図ではなく、神によって創造された人間ダアムとその子孫の系図です。地上に生まれ、地上に住み、そして地上で死んでいった人間たちの系図です。アダム、族長アブラハム、イスラエルの民、ダビデ、そしてヨセフの子としてこの世においでになられた主イエスへと至る人間の系図です。

古代の一年の長さは、月の満ち欠けで数えていたのではないかと推測する考えもあります。そうすれば、最高齢の969歳は実際には80歳ということになり、あり得ない寿命ではありませんが、しかしそうすると、子どもを産んだ年が10歳にも満たなくなり、この数え方も納得いくものではありません。

あるいはまた、ここに挙げられている名前は個人名ではなく、部族とかの世襲の名前ではないかという考えもあります。しかし、その場合にも、「子どもを産んだ」、「息子と娘を生んだ」が何を意味するのかがはっきりしなくなります。

結局、ここに書かれている寿命の長さについての、聖書的、信仰的な説明はまだ見いだせないというほかありません。そのことを認めたうえで、わたしたちは別の側面からのアプローチによって、ここの書かれている系図とその寿命の信仰的な意味を探っていく必要があります。

そこで注目したいことは、これら10人の父祖たちの寿命は驚くほど長いのは事実ですが、みな同様に最後には「そして死んだ」と書かれている点です。【5節】。【8節】。このあと、11節にも、14節にも、みな同じように「そして死んだ」と書かれています。彼らはみな死すべき人間であったということにおいては、みな同じ運命にありました。みな同じように、その罪ゆえに神の裁きを受けて死すべきものとなったアダムの罪と神の裁きとを受け継いでいるのです。この点において、前に紹介した古代社会に伝わっている神話的な物語と聖書の系図とは根本的に違っています。

聖書が伝える系図は、人間の罪と神の裁きの歴史であるのだということを、わたしたちは正しく理解し、恐れをもって受け止めなければなりません。そのうえで、その系図の終わりへと目を向けるべきことがより一層強く求められていることに気づかされるのです。神はその系図の最後に、人間の罪と神の裁きを、人間の救いと神の愛に変えてくださるメシア・キリストであられる、ヨセフの子、主イエスを置かれました。主イエス・キリストによって、アダムから始まった人間の系図は締めくくられ、完成され、それによって神の救いの歴史は最終目的に達したのです。

きょうのみ言葉の中で、そのことをあらかじめ暗示している箇所を読んでみましょう。【21~24節】。エノクは10人の中でも最も短命です。そうであるのに「神と共に歩んだ」と二度繰り返されています。そしてさらに、「神が取られた」とも書かれています。エノクは死を見ないで、直接に神のみ手によって天に引き上げられました。地上での限りある、死すべき生涯を、神と共に歩む者を、神はこのようにして天に引き上げてくださり、神のみ国へと招き入れてくださり、永遠の命を与えてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、朽ち果てるしかないわたしたちの命を、あなたのみ手によって支え、

導いてください。

6月7日説教「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

2020年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    フィリピの信徒への手紙4章10~23節

説教題:「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

 フィリピの信徒への手紙を続けて読んできました。きょうは最後の個所です。ここでパウロは、この手紙を書くに至った直接的な理由について書いています。それは、すでに2章25節で簡単に触れたことですが、フィリピ教会が獄中のパウロにエパフロディトという人を派遣して、贈り物を届けてくれたことに対する感謝を述べることです。きょう朗読された10~20節では、確かにフィリピ教会に対するパウロの感謝が語られていますが、ここには感謝という言葉そのものは一度も用いられていません。そこで、この個所を「感謝なき感謝」と呼ぶことがあります。パウロがここで語っている感謝とは、どのような感謝なのか。おそらくは、感謝という言葉では言い尽くせなかったのではないかと思われる、特別に大きな感謝と喜びとは、どのようなものであるのかを、ここから読み取っていきたいと思います。

 では、10節から読んでいきましょう。【10節】。「あなたがたがわたしへの心遣いを表してくれた」とパウロは言います。フィリピ教会からの贈り物が何であったのかについては何も書かれていません。18節では「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取った」とあり、その中身が何であったのか、お金か、食料か、衣類か、その他のものか、あるいはその量はどれほどだったのかも、ここでは全く触れられてはいません。パウロにとっては贈り物が何であったかということよりも、その贈り物を届けてくれたフィリピ教会の心遣い、パウロへの愛と祈りこそが重要だったのです。

 10節後半の「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかった」とは具体的にどのような理由があったのかについても、わたしたちには知られていません。フィリピ教会が経済的に貧しくてパウロを援助する余裕がこれまではなかったということなのか、教会の内外で迫害や信仰的な戦いに時間と労力を取られていたからか、あるいは何か他の理由があったからか、いずれにしても、フィリピ教会にはパウロを支援することを妨げるような事態が長く続いていたが、今、彼らのパウロに対する愛と祈りが再び実を結んで、このような具体的な支援となってパウロに届けられた、パウロはそのことを喜び、感謝しているのです。

 したがって、この個所から、フィリピ教会に対するパウロの何らかの不満を読み取ろうとすることは当を得ていないと思われます。「もっと早くに援助してくれればよかったのに」というような思いは、パウロには全くなかったと言うべきで、反対に、長く困難な状況が続いてきたのに、今ようやくにパウロとフィリピ教会との間に主にある豊かな交わりの道が開かれた、そのことをパウロは心から喜び感謝していると理解すべきでしょう。その理解をさらに深めるために、パウロが伝道者に対する報酬や支援をどう考えていたかということ、またパウロとフィリピ教会とのこれまでの関係についてみておくのがよいと思われます。

 パウロは基本的には、神のみ言葉を宣べ伝える務めにある伝道者や使徒は、その働きの報酬を得るのは神から与えられている当然の権利であり、彼らの生活は教会によって支えられるべきである。神のみ言葉に仕える伝道者から霊の賜物を受ける教会が、彼らに肉の賜物を惜しみなく差し出すことは、神がお喜びになることだと、パウロは繰り返して述べています。実際に、当時のユダヤ教でも、また初代教会でも、教会で神のみ言葉の宣教に仕える教師や巡回伝道者は非常に重んじられていました。しかしまた、そのような良い待遇を期待して、本来の神のみ言葉のための奉仕者であるという務めをおろそかにする偽りの伝道者もまた少なからずいたようでした。

 そこで、パウロ自身は、自らそのような誤解を招かないためにも、伝道者として当然に受け取るべき報酬を受け取らないと決め、自分の生活費は天幕づくりの収入などによってまかなっていました。15、16節で彼はこのように言っています。【15~16節】。パウロは第二回世界伝道旅行の後半で、小アジアからエーゲ海を渡ってマケドニア州のフィリピに行き、教会の基礎を築ました。フィリピ教会はヨーロッパでの福音の初穂でした。それからテサロニケ、コリントへと伝道旅行を続けました。その際に、パウロは伝道者としての報酬は受け取らないという彼の基本姿勢は貫きながらも、ただしフィリピ教会からの支援は喜んで受け取りました。この教会との深い信頼関係の中では、偽りの伝道者であると誤解される心配は全くなかったからです。

14節ではこのように言います。【14節】。パウロはフィリピ教会を福音宣教のための戦いの同志、戦友とみています。あらゆる地でパウロを襲ってくるユダヤ教やローマ帝国からの迫害、投獄、あるいは異端的な教え、教会を混乱させる偽りの伝道者たち、それらとの日々の戦いの中で、フィリピ教会はパウロのために経済的な支援と祈りと愛をささげることによって、共に福音のために、信仰の戦いを共にしてくれたのだ、そのようにしてわたしと共に戦ってくれた教会はただあなたがただけだとパウロは言っています。

パウロとフィリピ教会とのこのような関係の中で、10節をもう一度読み返してみると、フィリピ教会が今再び獄中のパウロに使者を派遣し、贈り物を届け、彼らの愛と祈りがこのようにして実りを結ぶことができたということを、パウロがどれほどに喜び、感謝しているかが理解できるように思います。まさにそれは、「主にある大きな喜び」なのです。主キリストがこの喜びを与えてくださったのです。「喜びの書簡」と言われるこの手紙の最後の個所でわたしたちは今一度「喜び」「主にある喜び」を聞きます。これは、主イエス・キリストが作り出してくださった喜び。です。贈り物の質や量からくる喜びではありません。パウロの必要が満たされたということからくる喜びでもありません。あえて言うならば、フィリピ教会のパウロに対するあつい祈りと深い愛からくる喜びでもなく、それらのすべてをパウロとフィリピ教会のために作り出したくださった主イエス・キリストからくる大きな喜びなのです。

このような主イエス・キリストから与えられる大きな喜びの前で、パウロは自分の必要性とか欲求とか、あるいは不満とかのすべてが、小さなものに、取るに足りないものになるということを続けて語ります。【11~13節】。ここで重要なポイントは、パウロにこのような生き方を可能にしているのが何であるかということです。11節では「習い覚えた」とあり、12節では「授かっています」とあり、13節でははっきりと「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と書かれています。パウロにこのような生き方を可能にしているのは、ほかでもない主イエス・キリストなのです。わたしたちを罪から救い出すために、ご自身が罪びとの一人となって十字架で死んでくださった主イエス・キリスト。わたしたちをすべての苦難や試練の中から救い出すために、ご自身があらゆる試練を経験され、ご受難への道を進み行かれた主イエス・キリスト。わたしたちを信仰にあって豊かにするために、ご自身はすべてを投げ捨てて貧しくなられ、父なる神に全き服従をささげられた主イエス・キリスト。わたしたちの弱さの中でこそ、その恵みを豊かに注いでくださり、「わたしの恵み、汝に足れり」(コリントの信徒への手紙二Ⅰ2章9節参照)と言ってくださる主イエス・キリスト。パウロはこの主イエス・キリストから、このような生き方を学び、このような生き方へと導かれたのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こします。「何を着ようか、何を食べようかと、着物や食べ物のことで思い煩うな。天におられる父なる神はあなたのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる。だから、思い煩うな。ただ、神のみ国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章25節以下参照)。またこのように言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。義に餓え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(同5章3節以下参照)。主イエス・キリストを信じて歩む道に、真実の喜び、平安、希望があるのです。

フィリピ教会からのパウロへの贈り物が、彼にとっての大きな喜び、感謝であった理由のもう一つのことが17節以下に書かれています。【17~19節】。パウロはここで、彼のために届けられた贈り物を「神へのささげもの」とみています。その贈り物がパウロを喜ばすとか、パウロの必要性を満たすとか、もちろんそのようなことも当然の結果として生じるとしても、それ以上に重要なことは、その贈り物が神へのささげものであり、神がそれを喜んで受け入れ、神がそれをご自身のご栄光のために尊く用いてくださり、福音の前進のために役立ててくださる、そのことをパウロは最も大きく、深く、喜び、感謝しているのだということです。

2章16、17節で、パウロは彼自身の伝道者としての生涯を顧みてこのように言いました。【16節b~17節】。パウロは彼の伝道者としての労苦に満ちた生涯のすべてを神へのささげものとして差し出しています。彼を待っている殉教の死をも、神にささげられるいけにえの血だと言うのです。今フィリピ教会が困難を乗り越えて獄中のパウロへの贈り物を届けてくれたこと、それもまた神への喜ばしいささげものだとパウロはここで強調しているのです。そのようにして、共に神の福音宣教のみ業に仕え、神の栄光の富に共にあずかることをゆるされているパウロとフィリピ教会の豊かな、祝福された交わりをわたしたちはここに見ることができます。

21節からは手紙を締めくくる神への頌栄と教会へのあいさつが書かれています。【21~23節】。パウロは手紙の冒頭の1章2節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈り、手紙の終わりでも「主イエス・キリストの恵みが、あながたがの霊と共にあるように」と祈っています。主イエス・キリストの恵みがこの手紙全体に満ちています。また、主イエス・キリストの恵みが、パウロとフィリピ教会とを包み、そして今その手紙を礼拝で読んでいるわたしたちにも満ちています。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしとわたしのすべてを喜んであなたにおささげするも

のとされますように。それによって、わたしとわたしたちの教会とこの世界とを、主キリストの恵みで満たしてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

5月31日説教「聖霊の賜物を受ける」

2020年5月31日(日) 秋田教会主日礼拝(聖霊降臨日)説教

聖 書:イザヤ書44章1~8節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「聖霊の賜物を受ける」

 使徒言行録2章には、ユダヤ人の祭りである五旬祭・ペンテコステの日に、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。主イエスが十字架につけられた過ぎ越しの祭りから50日目のペンテコステの日に、弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子のペトロが立ち上がり、説教をしました。2章14節以下にその説教が記録されています。神は主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活によって、全人類のための救いのみわざを成し遂げてくださり、今このペンテコステの日に約束の聖霊を注いでくださった。その聖霊のみ力によって、主キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられるようになったと、ペトロは説教しました。

 きょうの礼拝で朗読された37節からは、そのペトロの説教を聞いた人々の反応とペトロの洗礼への招き、そして信じて洗礼を受けた人が三千人であったことが書かれています。これがエルサレムに誕生した世界最初の教会です。これ以来、キリスト教会は聖霊なる神のみ力とお導きによって、二千年の間、全世界で主キリストの福音を宣べ伝えてきました。今、世界の教会が、世界の人々と共に、感染症の拡大によって大きな試練の中にありますが、このような時にこそ、わたしたちは教会誕生の原点から、教会とは何か、またその教会に集められているわたしたちの信仰とは何か、聖書のみ言葉から学んでいきたいと願います。

 【37節】。ペトロの説教を聞いた人々は「大いに心を打たれた」と書かれています。「打たれた」と訳されている言葉は、「突き刺す」とか「えぐる」という意味を持っています。心や魂が深くえぐられ、突き刺され、わたしの全身が激しく揺さぶられるような経験のことです。わたしの存在全体が、わたしの生き方の根本がそこでは問われているということです。そこで「わたしはどうしたらいいのか」という切羽詰まった問いが出てきます。人が神のみ言葉の説教を聞き、主キリストの十字架の福音を聞き、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、わたしたちはそのような激しく心を刺し貫かれるような経験をするのです。

 では、それは具体的にどのような体験なのでしょうか。すぐ前の36節でペトロはこう説教しました。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」。この説教を聞いた人々は主イエスを十字架につけて殺したその責任を今、鋭く問われていると感じたのです。50日前にエルサレムで過ぎ越しの祭りが祝われていたそのさ中に、罪なき神のみ子であられた主イエス・キリストが偽りの裁判によって十字架刑に処せられ、殺された。聴衆の中には、その場面に居合わせた人もいたでしょうし、そうでない人もいたでしょうが、あるいは多くの人々は直接にその裁判には携わってはおらず、傍観者であっただけかもしれませんが、けれども、ペトロの説教を聞いた多くの人が今その責任を問われている、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したことにあなたの責任があるのだと告発され、激しく心を刺し貫かれたのです。神から遣わされた世の救い主・メシア・キリストを受け入れず、拒絶し、あざ笑って投げ捨てた自分の罪を、今告発されていることを知らされたのです。神のみ言葉の説教を聞くとき、そしてそこに聖霊なる神が働かれる時、そのような魂を刺し貫くような、わたしの全存在を根底から揺さぶられるような体験を、わたしたちもまたするのです。そして、「それでは、わたしはどうすべきなのか」と神に問わざるを得なくされるのです。

 36節のペトロの説教が聴衆に強い衝撃を与えたもう一つのことは、「このイエスを神は主とされた」という点にあったと思われます。多くのユダヤ人が、この人は偽りの預言者、神を冒涜する者と断定して捨て去ったナザレ人イエス、「十字架につけろ、十字架につけろ」という群衆の叫びの中で、黙して十字架への道を進み行かれた主イエスを、神は三日目に墓から復活させ、罪と死と滅びからの勝利者として天のご自身の右に引き上げられました。このこともまた聴衆の魂を激しく揺さぶるものでした。そこには、人間の罪にはるかに勝った神の限りない憐れみとゆるしがあったからです。

 「あなた方が十字架につけて殺したイエスを」という言葉は聴衆の罪を告発していますが、「このイエスを神は主とし、またメシアとなさった」という言葉は、彼らの罪をゆるし、救いの希望を与えるものでした。ここには、人間の罪の行為にはるかに勝る神の救いのみわざがあります。多くの人間がその知恵を結集して、裁き、捨て、罪なき神のみ子を十字架に引き渡したという人間の罪が勝利するのではなく、そのような人間の罪をもお用いになってご自身の救いのみわざを成就される神の愛とゆるしが、最終的に勝利するのです。人間たちのどのような罪の力も神の救いのご計画を変更させることも中止させることもできません。神の救いの恵みは人間の罪の力よりもはるかに大きいのです。ここにわたしたちの希望があります。罪と死とに勝利する神からの希望を差し出された時、聴衆はその魂を刺し貫かれたのでした。

 そこで、ペトロの説教を聞いた聴衆は、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と問いかけました。この問いには二つの思いが交錯しているように思われます。一つには、今までは気づかなかった自分たちの罪を指摘された人の絶望的な思い、もう一つには、今新たに自分の目の前に差し出されている救いの希望、その二つのどちらを選ぶべきかという選択を迫られた人の問いかけであるように思われます。神のみ言葉の説教を聞いた人、主イエス・キリストの十字架と復活の福音を聞いた人、そしてそこに聖霊なる神が働き、わたしの魂が刺し貫かれ、わたしの全存在が揺り動かされる、そのような体験をした人は、自分が今神のみ前に立たされていることを知らされ、神のみ言葉の前で新しい救いへの道へ招かれていることを知らされるのです。

 ペトロはこう答えます。【38~39節】。ペトロは聴衆を罪のゆるしへの道、救いへの道を選び取るようにと招いています。その道を選び取るために、彼はまず悔い改めを勧めています。悔い改めとは心を変えること、方向転換をすることです。聖書で心という場合、わたしたちが考える内容とは多少というか、根本的にと言うべきか、違っています。聖書で心とは、人間の感情だけでなく、考え、言葉そして行動のすべての源泉となっている、その人の中心、また全体を意味しています。悔い改める、心を変えるとは、その人全体の考え方、生き方、在り方全体が、全く方向転換することを言います。つまり、今までは神から遠ざかる罪の道を進んでいたけれども、それを180度方向転換をして、神の方に向かうということ、これが聖書の悔い改めです。何かの悪い行為とか、間違った行為とかを反省して、再び同じ過ちをしないようにするというのではなく、このわたしの全存在が、わたしの考えや行為のすべてが、神から離れ、神のみ心に背いていたことを知り、その罪を神のみ前で告白し、これからは、神の方に向きを変え、神と共に生きていくことを決断する。その時、聖霊なる神が働き、神ご自身が救いの恵みをもってわたしのところにおいでくださることを知らされる。わたしの罪のすべてをおゆるしくださり、わたしを神に愛されている神の子どもたちとして迎え入れてくださる。わたしはその救いの恵みを、感謝をもって受け入れ、神の導きに喜んで従っていく信仰の道を歩みだす。これが、悔い改めであり、罪のゆるしであり、信仰です。

そして、その罪のゆるしと救いの恵みを信じる信仰の証しとして、洗礼・バプテスマを受けるのです。洗礼によって、罪のわたしが主イエスの十字架と共に死んで、葬られ、また、主イエスの復活の命にわたしも共にあずかり、わたしが新しい罪ゆるされたわたしとして再創造されるのです。

 ペトロはさらに付け加えて、「賜物として聖霊を受けます」と約束します。「聖霊の賜物」には二つの意味が含まれます。一つは、神から賜る贈り物としての聖霊を受けるという意味、つまり、聖霊そのものが神の賜物であるということ。もう一つは、聖霊からもたらされる種々の賜物という意味です。使徒言行録ではほとんどの場合前者の意味で用いられていますので、『新共同訳聖書』ではその意味に限定して「賜物として聖霊を受けます」と翻訳しています。それに対して、使徒パウロの書簡では、聖霊なる神が与えてくださるさまざまな賜物のことが語られています。たとえば、神のみ言葉を説教する賜物、教えたり導いたりする賜物、あるいは、病気の人をいやしたり励ましたりする賜物、それらのすべては人間の力や知恵によるのではなく、聖霊なる神から賜った恵みの賜物なのです。コリントの信徒への手紙一12章にはそれらの賜物が挙げられており、続く13章では、それらの賜物の中で最大、最高の賜物は愛であると語られています。ローマの信徒への手紙12章6節以下で語られている聖霊の賜物について読んでみましょう。【6~8節】(292ページ)。ここでも、パウロは続けて9節以下で愛について詳しく語っています。パウロはこのように、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリスト者となった人は、そのすべての新しい信仰生活が聖霊なる神に導かれ、聖霊なる神から与えられた霊の賜物を生かし、用いて、神と隣人を愛し、神と隣人とに仕える道を進んでいくのだと教えています。

 使徒言行録のきょうの個所でも、そのことは当然前提にされています。弟子のペトロが主イエス・キリストの救いのみわざを説教したのは、聖霊を注がれ、聖霊の力を受けて語ったのであり、聴衆がその説教を聞いて心を激しく刺し貫かれ、罪を知らされ、神の救いの恵みを喜んで受け取る決意へと導かれたこと、そのすべてにも聖霊なる神が働いておられ、聖霊の賜物によることであったのであり、そして何よりも、三千人余りの人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生したことこそが、聖霊なる神のみわざであったのです。

 そのうえで、使徒言行録が賜物としての聖霊ということを強調している点にも注意を払いたいと思います。聖霊は、いかなる意味においても、人間の感情とか、心や意志とかではなく、聖霊は神であり、人間の外から、上から、神によって与えられた聖霊なる神のお働きであり、時として人間の心や意志に反して、あるいは人間的な常識に反して、神ご自身が尊く深く、不思議なご計画のもとに働いておられる、それが聖霊なる神であるということです。使徒言行録はその聖霊なる神のお働きを記した聖書です。そこで、「聖霊行伝」とも呼ばれます。弟子たちや使徒たちに働かれた聖霊なる神の驚くべき、偉大なるお働きを記しているのが使徒言行録なのです。エルサレムから始まって、パレスチナ全域、地中海、さらにヨーロッパへと教会が発展していくのは、まさに聖霊なる神のお働きなのです。

今日においてもなお、聖霊なる神は全世界の教会を通して働いておられ、わたしたちのこの小さな教会でも、またわたしたち貧しい一人ひとりにも働いておられ、多くの賜物を与えてくださり、教会を豊かにしてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。わたしたち一

人ひとりにも、聖霊の賜物をお与えください。わたしたちがそれを心から感謝して受け取り、神のご栄光のために用いることができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。