11月27日説教「福音がエルサレムからサマリアへ」

2022年11月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書42章1~9節

    使徒言行録8章4~13節

説教題:「福音がエルサレムからサマリアへ」

 エルサレム初代教会は誕生して間もなくから繰り返してユダヤ人からの迫害を受けましたが、ついに最初の殉教者を出すに至ったということが、使徒言行録7章の終わりに書かれています。エルサレム教会の7人の奉仕者として選ばれた中心人物であったステファノの殉教は、誕生して間もないエルサレム教会にとっては大きな衝撃であり、また打撃であったことは言うまでもないことですが、それにとどまらず、その同じ日に、教会に対する大迫害が起こったと8章1節に書かれています。12人の使徒たち以外の多くのユダヤ人の教会員がエルサレム市内から追放されるという大きな困難が教会の試練と苦難に追い打ちをかけるようになったのです。それは、エルサレム教会の存亡の危機と言ってよいでしょう。

 けれども、神はこのような教会の大きな危機の時を、何と、教会の大きな発展の時に変えてくださったということを、わたしたちはすぐに続けて読むことができるのです。【4~5節】。迫害によってエルサレムから散らされていった信徒たちは、恐れて身を隠すようなことはしませんでした。彼らは主イエスによって立てられた「地の塩、世の光」として、主イエスとその福音の証し人であることを止めませんでした。主イエスが天に上げられる直前にお命じになった使徒言行録1章8節のみ言葉に忠実に従ったのです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスのみ言葉が、エルサレム教会を襲った大迫害を契機として成就されていくのです。神のみ言葉はこの世のどのような鎖によっても決して繋がれることはありません。神のみ言葉に生きるキリスト者もまた、この世のいかなる鎖にもつながれることはありません。

 エルサレムから追放された信徒たちは、町々村々を巡り歩きながら各地に主イエスの福音を宣べ伝えましたが、使徒言行録8章ではこの後、その一人であるフィリポの働きについて報告しています。フィリポは6章に書かれてあったようにエルサレム教会の奉仕者として選挙された7人の一人です。6章5節では、殉教したステファノの次にその名が挙げられています。

 フィリポはサマリアの町に降って行ったと書かれています。サマリアはエルサレムの北、主イエスの故郷であるガリラヤの南に位置しますが、エルサレムの都からは降るという言い方をします。当時の信仰深いユダヤ人はエルサレムからガリラヤへ降る際には、サマリア地方をまっすぐに通り抜ける道を選ばずに、ヨルダン川の東側を迂回して行くのが普通でした。と言うのは、サマリアにはユダヤ人以外の民族がたくさん移り住んでおり、伝統的なユダヤの民族的な伝統も信仰も失われてしまっていたために、サマリアは異邦人の地、宗教的に汚れた地と考えられていたからです。

 その事情について少し説明しておきましょう。ユダヤ人とサマリア人との民族的・宗教的対立は、紀元前922年にイスラエル王国が南北に分裂した時にさかのぼります。そして、紀元前721年に北王国イスラエルが(その首都はサマリアでしたが)アッシリア帝国に滅ぼされ、アッシリアはその地に外国人を移住させるという占領政策をとったために、サマリア地方には他国の文化と宗教が入り込むようになったという次第です。その後も、長い間ユダヤ人とサマリア人との対立は続き、深まっていきました。ルカによる福音書10章で主イエスが語られた「親切なサマリア人のたとえ」はそのような歴史を背景にしています。

 迫害によって散らされていったフィリポがサマリアの人々に主イエスの福音を宣べ伝えたことによって、ユダヤ人とサマリア人の間の幾世紀にもわたる深い対立と分裂が、いま乗り越えられたということを、わたしたちは知らされるのです。しかも、そのことが、エルサレム教会を襲った大きな試練と災いという出来事をとおして実現されることになったのです。これは、まことに奇しき神のみわざ、神の奇跡というほかありません。神の救いのご計画はこの世にあるあらゆる抵抗や攻撃にもかかわらず進められていきます。いや、むしろ、神はそれらをお用いになって、人間の予想に反して、ご自身の永遠の救いのご計画を成就されるのです。主イエス・キリストの福音は、あらゆる民族的・宗教的対立の壁を突き破って、全世界のすべての民に宣べ伝えられていきます。なぜならば、主イエス・キリストの福音はゆるしと和解の福音であるからです。神が主イエスの十字架の福音によって、すべての人間の罪を取り除き、神と人間とを隔てていた罪という壁を、また人間と人間との間にあった罪という壁を取り除き、神と人間とを和解させ、人間と人間とを和解させてくださったからです。フィリポはこの和解の福音を携えてサマリアへ散らされていったのです。この和解の福音は、すべての時代の、すべての教会にも託されています。

 エルサレム教会に対する大迫害をきっかけにして散らされていったフィリポをはじめとした使徒たちの伝道活動を、きょうの個所ではいくつかの違った表現で語られています。4節では「福音を告げ知らせる」、5節では「キリストを宣べ伝える」、12節では「神の国とイエス・キリストの名について福音を告げ知らせる」とあります。フィリポが語った説教の内容については具体的に記されてはいませんが、これらの表現から、その内容が推測されます。

 フィリポがサマリアの人々に語った説教の内容は、第一には、神のみ言葉、神の福音であったということが分かります。この世の知恵ではありません。ユダヤ教の律法の解説でもありません。天の神から語られる神の言葉、天の神から与えられる喜ばしいおとずれであり、地にある悲しみや痛み、恐れや不安を取り除く天の神から与えられる福音です。朽ちるこの世の命ではなく、永遠の命を与える神の言葉です。異邦人の地としてユダヤ人からはさげすまされていたサマリアの人々は、今やこの福音によって生きる道へと招かれているのです。

 第二には、主イエスの十字架と復活によって、すべて信じる人は罪と死と滅びから救い出され、永遠の命の約束を受け取ることで許されるという福音をフィリポは語りました。すべてのユダヤ人、すべての人は律法を行うことによってではなく、この福音を信じる信仰によって救われるという福音です。

 第三には、神の愛と恵みのご支配の時が始まり、神の国が到来しているという福音です。主イエスが最初にガリラヤで宣教活動を始められた時に語られたみ言葉、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」、この説教をフィリポもまた語ったのです。

 そして、彼が語った福音にはしるしが伴っていました。そのことが6節以下に書かれています。【6~8節】。福音書に書かれている主イエスのいやしの奇跡がそうであるように、フィリポが行った汚れた霊からの解放や病める人のいやしは、主イエス・キリストの福音による罪のゆるしの目に見えるしるしであり、神の国が到来したことの目に見えるしるしです。

サマリアの町に大きな喜びがあったと書かれています。ユダヤ人からは異邦人と言われ、辱めを受けていたサマリアの町、憎しみや敵意が満ちていたサマリアの町に、今や主イエス・キリストの福音によって与えられる喜びが満ちています。主イエス・キリストの十字架の福音が長い間の民族的・宗教的対立と憎しみに勝利したのです。

 主イエス・キリストの福音の勝利は次の9節以下にも語られています。【9~13節】。ここでは、主イエス・キリストの福音が魔術師シモンの魔術に勝利したことが語られています。サマリアにはさまざまな異国人が住んでいたために、さまざまな宗教がはびこっていました。その中でも、特に魔術師シモンは長年にわたってその驚くべき魔術を行って、人々の関心を集めていました。彼自身もまた自らを神のような偉大な者だと自称し、多くの信奉者を集めていました。子どもから大人まで、あらゆる年代の人々が彼の周りに群がっていました。

 人は目に見える物や感覚でとらえられるものにはすぐに関心を示します。人間の能力を超えた不思議なわざとか、いわゆる超能力とか、だれもが驚くような魔術、あるいは現実的な利益を約束する言葉などには、だれもが飛びつきます。けれども、それらはいずれも、人間の能力をいくらかは越えてはいても、人間のわざであり、本当に人間を救うことはできません。魂の平安を与えることはできません。なぜなら、それらはいずれもやがては朽ち果てるしかない人間から出たものであるからです。

 魔術師シモンは自分の優れた能力や人を驚かせるような魔術によって、自らを神の位置に高めようとしてしていましたが、しかしそれはいずれにしても人間から出たものに過ぎません。神から出たものではありません。人間が創り出した偶像は、人間に好まれるものではあっても、人間を根本から造り変えることはできません。人間を罪の支配から救うことはできません。

 それに対して、フィリポが語った神の国と主イエス・キリストの福音は、永遠なる神、全能なる神から与えられた命の言葉であり、人間の罪を打ち砕き、人間を新たに造り変え、新しい神の国の民とする命の言葉です。天におられる神が地に住むわたしたち人間を罪と死から救うために、ご自身が地に下って来られることによって成し遂げてくださった救いの福音です。

 サマリアの人々はフィリポの説教を聞いて、ここにこそ真実の救いがあると悟り、主イエス・キリストの福音を信じ、洗礼を受けました、魔術師シモンもまた信じて洗礼を受けたと書かれています。シモンとサマリアの人々は罪の支配から解放されました。異教の魔術からも解放されました。彼らは主イエス・キリストのものとなれました。神の国の民とされました。神の愛と恵みのご支配のもとに移されました。

 わたしたちもまた主イエス・キリストの十字架の福音によって罪から救われ、この世のさまざまな偶像から解放され、神の国に生きる自由へと招き入れられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、この世はわたしたちの目を惑わす多くの偶像や罪の誘惑に満ちています。わたしたちは愚かで弱い者であり、たちまちにしてそれらに目や心を奪われてしまいます。神よ、どうか弱いわたしたちをお守りください。あなたのみ言葉によって武装させ、主キリストの福音によって、それらと戦う知恵と力とをお与えください。

○神さま、病んでいる人、弱っている人、道に迷っている人、試練の中にある人、孤独な人を、どうぞ顧みてください。主キリストにあって、平安と慰めと希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月20日説教「安心して行きなさい」

2022年11月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編107編1~9節

    ルカによる福音書8章40~56節

説教題:「安心して行きなさい」

 ルカによる福音書8章40~56節には、主イエスによる二つの奇跡が語られています。一つは、40~42節と49~56節にまたがっている、会堂長ヤイロの12歳になる娘を主イエスが死から生き返らせたという奇跡。もう一つは、43~48節の、12年間出血が止まらなかった、長血を患っていた婦人を主イエスがいやされたという奇跡です。長血を患っていた婦人の奇跡がヤイロの娘の奇跡の記述に前後を挟まれたような構造になっています。これは、時間的な経過からこのような構造になっているのですが、この二つの奇跡が密接な関連を持っていることにも関係しています。つまり、主イエスがヤイロの家に向かっている途中に、長血を患っていた婦人と出会い、彼女の病をいやすという奇跡のために時間を取っている間に、ヤイロの娘が死んだとの知らせが入ったのですが、主イエスはその知らせを聞いたにもかかわらず、ヤイロの家に行かれ、彼の娘を死から生き返らせるという奇跡を行われました。ここでは、病をいやされる主イエスの権能と、それ以上に、死に対してさえも勝利される、より偉大な主イエスの権能が語られているのです。

 主イエスはこれまでにも何度も悪霊を追い出し、重い病をいやし、全能の父なる神の権能と大いなる力とを持っておられることを証しされました。また、神の国が到来し、神の恵みのご支配によって悪しき霊やサタンがすでに敗北を告げられていることを証しされましたが、ここではさらに人間の死をも支配しておられ、死から命を創造される神の権能を持っておられることを証しておられるのです。

 この二つの奇跡には共通点が多くあります。一つは、主イエスの奇跡のみわざを体験した人がいずれも女性であるということ。二つには、ヤイロの娘の年齢が12歳であることと長血を患っていた婦人の病気の期間が12年間であるということ。さらに重要な共通点は、いずれの奇跡においても、「信じること、信仰」と「救い」を主イエスは強調しておられるということです。48節と50節を読んでみましょう。【48節】。【50節】。わたしたちはこの二つの奇跡をとおして、信じて救われることへと招かれているのです。

 では、きょうは43~48節の、長血を患っていた婦人のいやしの奇跡について学んでいくことにします。【43節】。43節冒頭の「ときに」とは、前からの時間的なつながりを言い表しています。この時、主イエスは会堂長ヤイロという人の12歳になるひとり娘が重病で死にそうなので家に来てほしいとの依頼を受け、彼の家に向かおうとしていました。しかし、その途中で群衆がまわりに押し寄せてきて、前に進めないような状況だったと40~42節に書かれています。主イエスは道を急いでいました。早く行かなければ、その娘さんの息が絶えて、主イエスに祈っていただき、病気をいやしていただくことができなくなるかもしれません。

 そのような時に、主イエスは雑踏の中で一人の婦人と出会われ、彼女の重い病気をいやされ、彼女を救われるという奇跡が起こされたということを、聖書は語るのです。この奇跡は、いわば道の途中で起こったものでした。けれども、主イエスにとっては、ある目的地に向かう途中であっても、すべての道、すべての時が、福音宣教の時であり、救いのみわざを行う時であるということを、わたしたちはここでも気づかされるのです。そこに、いやしを必要としている人が一人でもいるならば、そこに、救われるべき人が一人でもいるならば、主イエスはその人のために足を止めてくださり、その人と出会ってくださり、その人のための救いのみわざを行ってくださいます。

 この婦人の病気は12年間も出血が止まらず、その病気の治療のために全財産を使い果たすほどの重い病気であったことが書かれています。12年間と言えば、彼女が成人した女性になって、その青春時代のすべてをこの病気に苦しめられ、この病気と戦ってきたことが分かります。肉体的にも精神的にも、また経済的にも、それはどんなにか辛く苦しい戦いであったことでしょうか。それにもかかわらず、すべての手段が無駄に終わってしまうほかになく、全く希望を失ってしまうほかにないと思われました。

 それだけでなく、旧約聖書レビ記15章によれば、血の流出がある女性は、その期間は宗教的に汚れているとされ、公の場に出ることも他の人と交わることも禁じられていました。イスラエルでは血は命そのものであり、神聖なるものと考えられていて、それに人が触れることは神聖さを汚すことと考えられ、このような規定が定められたと推測されています。そのために、彼女はイスラエル宗教共同体の中には入って行けず、家族や隣人と自由に交わることもできないという、孤独と不安の時を過ごさなければなりませんでした。それが12年間も続いていたのです。肉体的な苦痛と精神的な苦痛、それに加え宗教的な苦痛、彼女の苦しみ、痛み、孤独、恐れ、絶望。だれが彼女のこの12年間の苦悩の人生に終わりを告げることができるのでしょうか。

 しかしながら、そのような彼女にも主イエスと出会うという、この大きな機会は失われてはいないということを、わたしたちはここで知らされるのです。否、むしろ、そのような多くの困難と重荷と痛みを抱えていた彼女にこそ、神がお遣わしになった救い主なる主イエスと出会う機会が与えられたのです。彼女はその大きな苦悩と試練の中でこそ、主イエスと出会うという、他の何ものにも代えがたい恵みの時が備えられたのです。

 【44節】。ここには、当時の律法の定めによって宗教的に汚れているとされていたこの婦人の大胆で勇気ある、また必死の行動と、しかし控えめで、恐れを覚え、自分を隠そうとする消極的な行動と、そしてまた、それらのすべてを超えている主イエスに対するあつい信仰と大きな期待とが、入り混じっているように感じられます。三つを区別することはできませんが、分かりやすくするために、分けてみていきましょう。

 律法の規定によれば、彼女は公の場に出ることはゆるされてはおらず、人と接触することも避けなければなりませんでした。また、一般的に言っても、女性から男性の方へ近づいて、その人に触るということも、当時の社会ではすべきではないと考えられていました。しかし、彼女は律法の定めや当時の慣習という壁を突き破って群衆をかき分け、主イエスに近づいて行っています。

 彼女にはまた恐れやためらいもありました。主イエスの正面から向かって行って、主イエスに自分の顔を見せ、直接言葉で主イエスにいやしをお願いする勇気はなかったように思われます。あるいはまた、宗教的に汚れている自分がだれかに触ればその人もまた汚れてしまうことに対する恐れもあったのかもしれません。彼女は気づかれないように主イエスの後ろから近づき、主イエスが着ている服の一部にでも触りたいと思いました。しかし、これでは主イエスとの真実の出会いは起こりません。彼女は何か魔術的な力を信じていたにすぎません。

 しかし、ここには彼女の主イエスに対する並々ならぬ信頼、期待、信仰があったことも確かです。彼女は主イエスのことを耳にし、この方がもしかしたら自分のこの重い病をいやしてくださる力を持っておられるかもしれないと思ったのでしょう。この方が、自分の12年間の苦しみから解放してくださることができるかもしれないと、彼女は最後の望みをかけて、主イエスのところへと行く決意をしました。その信仰が彼女に大胆で勇気ある行動をとらせていると言えるでしょう。そして、彼女を家から出させ、群衆をかき分け、主イエスに近づけさせたのです。その時、彼女の重い病気がいやされました。

 しかし、これで彼女の救いが完了したのではありません。主イエスは彼女との真実の出会いを求められます。【45~47節】。「わたしから力が出て行った」という主イエスのみ言葉は、非常にリアルで、興味深い表現です。主イエスのお体の中にみなぎっていた力が主イエスの着ていた服を通して、彼女の手と体全身へと移っていった。そして、彼女の病気がいやされたという事実が、何か目に映るような、現実的で、実感できるような表現のように思われます。主イエスはご自身の中にある力や恵み、そして命を、あたかも一人一人に移し入れるかのようにして、わたしたちに分かち与えてくださるのです。そして、ご自身が全く無になるまでに、その力を、その恵みを、その愛を、そしてその救いと命を、わたしたち一人一人に分かち与えてくださるのです。それが、主イエスの十字架のみわざでした。主イエスは、わたしたち罪びとのためにご自身の肉と血のすべてを注ぎ出すかのようにして、十字架でおささげくださったのです。この十字架の愛が、この婦人をいやし、救い、そしてまたわたしたちをも救うのです。

 主イエスからの力を受け取り、いやされた婦人は、もはや自分を隠しきれないことを悟りました。主イエスから与えられた神のいやしのみ力の大きさに、彼女は恐れを覚えて震え上がりました。そして、自分の身に起こったことを群衆に向かって語りだしました。これまでは、病気のために、人前に出たり、人と話をすることもできなかった彼女が、今は群衆の前に立ち、主イエスの救いのみわざを、主イエスの福音を証しする人へと変えられたのです。何と大きな変化でしょうか。

 48節で主エスはこう言われます。【48節】。この婦人は主イエスによって、長年苦しめられてきた重い病気をいやされただけではありません。彼女は主イエスと真実の出会いをして、その罪がゆるされ、救われたのです。福音書に書かれている主イエスのいやしのみわざは、単に肉体のいやしだけではなく、その人の全存在、その人の体と魂の全体、全人格の救いを含んでいます。主イエスとの真実の出会いを経験することによって、その人の罪が取り除かれ、神との交わりが回復されるからです。神の子どもたちとされ、神の国の民の一人とされるからです。

 そこで、主イエスは「安心して行きなさい」とお命じになります。信じる人には、主イエスのみ言葉を聞き、それに聞き従って生きる道、主イエスの憐みとゆるしの中で生きる道が備えられています。「安心して」とは「平安のうちに」という意味です。平安とは,ヘブライ語ではシャローム、ギリシャ語ではエイレーネーです。満ち足りている状態を意味する言葉だと言われます。主なる神がすべての必要なものをもって養い、生かしてくださる道。主なる神がわたしの行くべき道を備え、その道に常に神が伴ってくださる歩み。そこにこそ、わたしたちの平安、平和があります。わたしたちもまたこの道を、平安のうちに歩みましょう。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは多くのことで思い煩い、不安や恐れに襲われ、また多くの破れや欠けをもって、迷いながら歩む者です。神よ、どうかわたしたちを憐れんでください。わたしたちをまことの救いへとお招きください。あなたと共にある平安でわたしたちを満たしてください。

○天の神よ、この世界もまた深く病み、傷つき、苦悩しています。この世界を憐れんでください。あなたのみ心を行ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月13日説教「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

2022年11月13日(日) 秋田教会主日礼拝(逝去者記念礼拝)説教

(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書65章17~25節

    ヨハネの黙示録21章1~4節

説教題:「新しい天と新しい地の完成を望み見て」

 教会が逝去者記念礼拝をささげることの意味について、まず考えてみましょう。教会では、亡くなった人を神や仏、あるいは生きている人間とは違った何か特別な存在者として崇めたり、礼拝の対象とすることは決してありません。また、亡くなった人の生前の業績をたたえるためとか、亡くなった人の霊を慰めたりするために礼拝するのでもありません。教会の逝去者記念礼拝では、わたしたち人間の生と死、命と死後のすべてをみ手に治め、支配しておられる全能の父なる神、唯一の永遠なる神を礼拝します。そして、神の独り子なる主イエス・キリストによってわたしたち人間のすべての罪がゆるされ、わたしたちが神の子どもたちとされ、来るべきみ国での永遠の命を約束されているという福音を聞き、信じるために、わたしたちはこの逝去者記念礼拝に招かれています。

 もう一つの意味は、天にある勝利の教会と地にある戦いの教会との交わり、一致を覚えるということです。古い時代から、信仰をもって地上の歩みを終えて天に召された信仰者たちの教会を勝利の教会と呼び、今なお地上にあって、罪の誘惑と戦いながら信仰の歩みを続けている教会を戦いの教会、戦闘の教会と呼びました。天にある勝利の教会と、地にある戦いの教会は、二つの別々の教会ではありません。共に、一人の父なる神を信じ、礼拝し、共に一人の救い主なる主イエス・キリストを信じている、一つの群れ、一つの神の教会です。

 ヘブライ人への手紙12章1節では、天にある勝利の教会を証人たちの群れと呼んでいます。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と、そこでは勧められています。信仰によって地上の歩みを全うした逝去者たちは、すでに勝利の冠を神から与えられています。天にある教会には、罪と死と滅びとに勝利された主イエス・キリストがおられます。逝去者たちはその主キリストと固く結ばれています。

 その天にある勝利の教会と、今も信仰の戦いを続けている地上のわたしたちの教会とが、一つの礼拝の群れとして、一つの神の民として、今共に一人の父なる神を礼拝しているのです。そして、ヘブライ人への手紙が教えているように、天にある勝利の教会は、わたしたち地にある戦いの教会が、必ずや勝利へと導かれることを証している証人たちなのです。これが、逝去者記念礼拝をささげるもう一つの意味です。

 きょうは、ご一緒にヨハネの黙示録21章のみ言葉を聞きましょう。ヨハネの黙示録は新約聖書の最後の書であり、また聖書全体でも最後の書です。聖書の最初の書である創世記と対になっています。聖書が創世記で始まり、ヨハネの黙示録で閉じられていることには大きな意味があります。創世記には、神が初めに天地万物と人間を創造されたこと、そしてアブラハム・ヤコブ・イサクの神として、救いのみわざを具体的に始められたことが書かれています。ヨハネの黙示録には、この世界の終わりの時に、神がご自身のみ国を完成されることが書かれています。

ここから教えられるように、神は世界と人間の命と存在、またその歩み、歴史をお始めになり、そしてそれを完成されます。神はわたしたち一人一人の命と生涯の歩みを始められ、またそれを完成させてくださいます。わたしたちがきょう覚えている逝去者の一人一人についてもそのことが言えます。その人の生涯が、長寿を全うしたと思える生涯であったとしても、あるいは道半ばで突然に閉じられた生涯であったとしても、それをお始めになり、またそれを完成されるのは、主なる神です。わたしたちはそのことを信じるべきであり、また信じることができるのです。

では、ヨハネの黙示録21章1~2節を読みましょう。【1~2節】。1節と2節に「わたしは見た」という言葉が繰り返されています。次の3節には、「見よ」という神の命令が書かれています。ヨハネは神から与えられた信仰の目によって、世の終わりの時、終末の時、神の国が完成される時のことを見ています。神はヨハネの目を、彼が生きていた時代の現実をはるかに超えて、神が終わりの時に完成される神の国の出来事へと向けさせているのです。

ヨハネが生きていた時代、それはおそらく紀元1世紀の終わりころであったと推測されていますが、紀元30年代に誕生したキリスト教会はローマ帝国からの激しい迫害を受けていました。紀元81年にローマ皇帝に即位したドミティアヌスは自らを生ける神と称し、全国に自分の像を立て、その像の前で礼拝することを強要しました。いわゆる、皇帝礼拝です。キリスト教徒はこれを拒否したために、多くのキリスト者が捕らえられ、殺されました。この手紙の著者であるヨハネもその一人として、エーゲ海にあるパトモス島に幽閉されていました。教会は多くの殉教の血を流し、苦難と試練の中にありました。強大なローマ帝国の前では、誕生して間もない教会は全く無力であるかのように見えました。

そのような教会の現実の中で、しかしヨハネはその困難な現実に押しつぶされてしまったり、絶望したりするのではなく、彼の目を、神が完成される終末の時、み国の完成の時へと、向けることによって、なおも勇気と希望とをもって最後の勝利と完成を信じて、迫害を耐え忍び、信仰を貫き通すようにと、諸教会を励ましているのです。それがヨハネの黙示録が書かれた目的であったのです。

この個所でのもう一つの特徴は、「新しい」という言葉がたびたび用いられていることです。「新しい天と新しい地」(1節)、「新しいエルサレム」(2節)、さらに、5節には、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言われる神のみ言葉があります。イザヤ書65章17節には、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」という神の預言が語られています。

聖書で「新しい」という言葉が用いられる時、そこには特別な内容が含まれています。この言葉は単に「古い」に対する「新しい」を意味するのではありません。聖書の「新しい」という言葉には「永遠の」という意味があります。また、この世界には属していない、別の世界に、まさに新しい世界に属しているものという意味があります。したがって、この世界では永遠に新しいと言われます。旧約聖書が書かれた数千年前にも、二千年前の主イエスの時代にも、そして今も、それぞれの時代の人々にとって、「新しい」という聖書のみ言葉は常に新しいという意味を持っています。

聖書の「新しい」は、この世界にある新しさではありません。この世界にある新しさは時が過ぎるとともに古くなっていくほかにありません。この世界とは別の世界、神の国に属する新しさ、永遠なる神に根拠を持つ新しさのことです。神は常に新たに創造し、命を与えてくださるゆえに、それはいつまでも新しいものであり続けます。

そして、神から与えられる新しさ、神が創造される新しさの前では、すべてのものは古くなり、滅びていくしかありません。1節に「最初の天と最初の地とは去って行き、もはや海もなくなった」と書かれており、また20章11節でも「天も地も、のみ前から逃げて行き、行方が分からなくなった」とあるように、終わりの時、終末の時に、神が新しい天地を創造される時には、それまであったもの、わたしたちが今見ている世界とその中にあるすべてのものは、消え去り、滅びるのです。

では、神が新たに創造される新しい天と新しい地とは、どのようなものなのでしょうか。2節ではそれが結婚を比喩にして語られています。ここでは、「聖なる都、新しいエルサレム」である教会と、夫である主キリストとの結婚のことが語られています。

聖書では、結婚式は神の祝福と喜びが最も満ち溢れる時として描かれています。主イエスは福音書の中で、終末の時の神と神の民との盛大な祝宴を結婚式にたとえて話されました。ヨハネの黙示録では、もはやたとえではなく、終末の時に主イエス・キリストと教会が結婚することによって、神と人間との愛の交わりがここで完成するのです。

3節、4節には、新しい天と地が完成される時の神のみ言葉が語られています。【3~4節】。天にある玉座から神ご自身がお語りになります。「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となる」。これが、終末の時に完成される新しい天と地、神の国の中心的な内容です。神と人間との間をさえぎるものが何もなくなる。神と人間との交わりを妨げるものがすべて消え去る。神から人間を引き離そうとする悪しきサタンの力、罪、死がすべて滅ぼされ、もはや何ものも神から人間を引き離すことがなくなる。神と人間との完全で永遠なる交わり、永遠なる共存。これが終わりの日に完成される神の国なのです。これこそが、わたしたちの最高の幸いであり、最大の喜びです。わたしたちは神の祝福に満たされます。

神は最初の人間アダムとエヴァを創造された時から、人間と共にあろうとされました。エデン(喜び)の園でのアダムとエヴァの生活は、神と共に歩む生活でした。しかし、彼らが神の戒めを破って罪を犯してから、神との交わりが破壊され、人間は神の裁きを受けて死すべき者となりました。けれども、神は罪の人間をお見捨てにはならず、み子主イエス・キリストの十字架の死によって、人間の罪を贖い、ゆるし、再び信仰によって神との交わりを回復してくださいました。神が主イエス・キリストによって成就してくださった救いのみわざが、この終わりの時に、完成し、神と人間との永遠の共存、永遠の交わりが完成するのです。

それゆえに、4節では、人間の目から涙がぬぐい取られ、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないと言われているのです。神から与えられる豊かな祝福と幸い、喜びに満たされるからです。インマヌエル、「神我らと共にいます」という神のみ言葉が完全に成就されるからです。

わたしたちがきょうの礼拝で覚えている、この教会の信仰の先輩たちは、初代教会の迫害の時代に預言者ヨハネが見た終わりの日の幻を、それぞれの生きた時代の中で、同じように見てきました。そして今は、罪と死とに勝利され天に昇られた主イエス・キリストと共に、勝利の教会にあって、終わりの日の完成の時を待ち望んでいます。

わたしたちもまた、今のこの時代の中で、さまざまな罪の誘惑や悪しき力と信仰による戦いを続けながら、預言者ヨハネと共に、またわたしたちの教会の天にある証人たちと共に、来るべき終わりの日の、神が創造してくださる新しい天と新しい地との完成を望み見ることをゆるされているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの教会を130年の長い年月にわたって守り、導いてくださいましたことを覚え、心からの感謝をささげます。この教会で信仰生活を送り、来るべきみ国を待ち望みつつ天に召された多くの信仰の証人たちに囲まれながら、今信仰の戦いと続けているわたしたちを、どうぞ顧みてください。また、ご遺族の一人一人に天からの慰めで満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

11月6日説教「ヤコブの帰郷」

2022年11月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記31章1~21節

    ヘブライ人への手紙13章1~6節

説教題:「ヤコブの帰郷」

 創世記31章3節にこのように書かれています。【3節】。ヤコブは伯父ラバンの家での20年間の生活を終えて、故郷のカナンの地へ帰るようにとの神の命令を聞きました。この章には、1~22節までは、ヤコブがラバンの家から逃げ出すようにして旅立っていく時の様子と、23~42節までは、ヤコブが家族みんなを引き連れて家を出て行ったことを知ったラバンが三日後にヤコブの後を追って行き、追いついてからの二人のやり取りについて、そして43~54節までは、ヤコブとラバンが平和的に分かれることになったことを記念して二人が結んだ契約について描かれています。長い1章なので、朗読は21節までにしました。

 この章に描かれている内容の多くは、ヤコブとラバン、どちらも計算高く、悪賢く、自分の利益のために相手を欺くことしか考えないような、二人の男性の人間的で世俗的な会話と物語ですが、しかし聖書はそのような人間たちをお用いになって、ご自身の永遠の救いのみわざを成し遂げられる主なる神について語っています。わたしたちはこの章からも、アブラハム、イサク、ヤコブをお選びになってご自身の救いのみわざをお始めになった主なる神が、やがてヤコブの12人の子どもたちからなるイスラエルの民をとおして、そのみわざを前進させ、そしてついに、イスラエルの民の死にかけた切り株から出たメシア・救い主・イエス・キリストによってその救いのみわざを成就されるに至るまでの、永遠なる神の救いのみわざを、この31章からもわたしたちは読み取っていくことができます。

 今読んだ31章3節こそが、まず最初にそのことを語っています。ヤコブに故郷へ帰るようにとお命じになったのは神です。ヤコブ自身も、自分はもう十分に伯父ラバンのために働いたし、父イサクの家を出てから長い年月が過ぎたので、そろそろ故郷へ帰りたいと願ってはいました。しかし、それをお命じになるのは神ご自身です。

ヤコブはラバンの家で、愛する妻ラケルとの結婚のために7年間、働きました。けれども、ラバンに欺かれて、妹のレアと結婚させられ、ラケルを正式な妻とするために、さらに7年間働くことになりました。それから、30章25~43節に書かれているように、ラバンの家畜を養うためにもう6年間、計20年間、ラバンの家で、ラバンのために働かなければなりませんでした。そのようにして、ラバンのもとで、その家の主人のために、誠実に働き、ラバンのたび重なる欺きをも忍耐し、人生と信仰の訓練を積み重ね、そのようにして今、故郷に帰れとの神のご命令をヤコブは聞いたのです。彼はこの時が満ちるまで待たなければなりませんでした。いつも、どのような時にもヤコブと共にいてくださる神が、その時を満たしたくださるからです。

 30章25節以下に書かれているヤコブの6年間の働きのことを少し振り返ってみたます。25~26節で、ヤコブはラバンにこのように言います。【25~26節】。ところが、この時にはまだ神がお定めになった時は満ちていませんでした。故郷へ帰るのはヤコブの願いではなく、神のみ心です。ヤコブが独り立ちするためではなく、神がアブラハム、イサク、ヤコブと結ばれた契約を実行されるためです。

 ラバンはヤコブが故郷に帰りたい希望を持っていることを知り、ヤコブに報酬を支払いたいからと言って、さらに6年間、自分の家畜の群れを養うという約束を結ばせました。これもラバンの策略でした。ヤコブが彼自身の家畜を財産として持ち帰ることができるまで、なおしばらく家畜の世話をしなければならなくなり、その間自分の家畜の世話をもしてもらえるとラバンは考えました。

 ところが、賢さにおいては、ヤコブが一枚も二枚も上でした。ヤコブは、羊と山羊の中で、白い毛の中に黒い毛がぶちやまだらになっているものだけを自分の財産として持ち帰らせてくださいとラバンにお願いします。羊も山羊もほとんどは白く、ぶちやまだらはごくわずかなので、ラバンはすぐに承知しました。次にヤコブは、家畜の水飲み場に、ポプラなどの若枝の皮を一部はぎ、縞模様を造ってそれを置き、家畜が水を飲みに来てそこで交尾をする特に、その縞模様を見ると、生まれてくる子羊、子ヤギがみなぶちやまだらになり、ヤコブの家畜だけが増えたので、ヤコブは6年間で多くの家畜や財産を持つようになったと、

30章の終わりに書かれています。

 古代社会では、人間も家畜も妊娠した初期に見たものが生まれてくる子どもの性格や外見に影響を与えるという考えがあったようです。今日でも、いわゆる「胎教」というような形でその考えが受け継がれていると言われます。ヤコブの賢さがラバンに勝りました。きょう読んだ箇所で、ヤコブは二人の妻ラケルとレアを呼んで、にこのように言っています。【5~9節】。ヤコブは自分の家畜が増えたのは、神が自分と共にいてくださり、神がラバンから取り上げてわたしにお与えになったからだと言っています。ヤコブの知恵は神から与えられた知恵なのだと聖書は言っているように思われます。【11~13節】。

 ヤコブが二人の妻を自分のもとに呼んで、しかも彼女たちの父ラバンには気づかれないようにして、このような話をしていることには理由がありました。ヤコブはラバンには内緒にして家を出て行こうとしています。もし、家を出ると言えば、また引き止められるかもしれず、また自分が増やした財産を置いて行けと言われるかもしれないからです。それ以上に不安なのが、ラバンが二人の娘ラケルとレアを自分と一緒に出て行くことをゆるしてくれるかどうか、いやそもそもラケルとレア自身がそう願っているかどうかが分からなかったからです。ヤコブもラケルとレアも、大きな家族であるラバンの家に属しています。本来ならば、ラケルの同意なしには家を出て行くことはできないと、当時の社会では考えられていました。

 二人の妻ラケルとレアに対するヤコブの不安はすぐに解消されました。二人は父であるラバンが自分たちの夫であるヤコブにつらく当たっていたのを見ていました。ヤコブが誠実に父の家で働く姿も見ていました。彼女たちは父に内緒で夫ヤコブと共にラバンの家を出ることに賛成します。その時、ラケルはラバンの家の守り神である像を盗んで持ち帰りました。

 22節から、ヤコブ一家が家を出て行ったことに気づいたラバンの追跡が始まります。三日目にそれに気づいたラバンは、七日かけてヤコブに追いつきました。その前の日の夜、神が夢でラバンに語りました。【24節】。そのことが、ラバン自身の口からも語られます。【29~30節】。ラバンは自分に告げずに家を出て行ったヤコブに何らかの罰を加えることもできたのに、それをしないのはアブラハム・イサク・ヤコブの神が自分にそのように命じられたからだと言っています。ラバンもまたアブラハム・イサク・ヤコブの神のご支配のもとにあることを、そしてイサクがこの神の導きのもとにあることを知らされました。ヤコブの20年間の逃亡生活の中で、すべてを支配し、導いておられたのが主なる神であり、家の主人であるラバンではなかったということが、ラバン自身にも、また聖書を読んでいるわたしたちにも、はっきりと知らされたのです。

 ここで、ラケルが持ち帰った家の守り神の像のことが取り上げられています。ラバンは必死になってそれを見つけようとしますが、ラケルの機転によって、彼女がその像をラクダの鞍の下に隠し、その上に自分が座っていたので、ラバンに発見されずに済みました。このことを契機に、自分が家の像を盗んだと非難されたヤコブが、ラバンに対して反撃攻勢をかけ、彼に抗議します。

 【36~42節】。ここには、遠くハランの地の伯父ラバンのもとで逃亡生活をしたヤコブの20年間の意味は何であったのか、その目的は何であったのか、そのすべては神が備えられたものですが、それが明らかにされています。神はヤコブにこのことを悟らせるために、この20年間の信仰の訓練の時を、試練と忍耐の時を備えられたのです。ヤコブの傲慢で人を欺く悪しき知恵を打ち砕くため、自己中心的で、他者の権利を奪い取ってでも自分のものにしようとする彼の自我を打ち砕くために、神はヤコブにこの20年間を備えたもうたのです。

 43節からは、ヤコブとラバンが和解したことを確かな証拠として残す契約の儀式のことが描かれています。この儀式には、古代の近東地方の契約の儀式の慣習がいくつか見ることができます。また、その形式はのちのイスラエルの礼拝に受け継がれ、さらには今日の教会の礼拝にも受け継がれています。その特徴のいくつかを挙げてみましょう。

 一つは、神がその契約の証人となるということです。49節、50節でラバンはこう言います。【49~50節】。ラバンはここでヤコブの神をのちモーセの時代に名づけられる「主」というお名前で呼んでいます。53節でもラバンとヤコブが共にそれぞれの神を契約の証人とすることが語られています。【53節】。永遠なる神、真実なる神のみ前にあって、人間と人間との間の契約の真実性が保証されます。イスラエルの礼拝において、またわたしたちの礼拝において、永遠なる神、真実なる神のみ言葉が語られ、そのみ言葉が神による罪のゆるしを与え、その罪のゆるしの確かさを保証するのです。

 第二には、動物のいけにえがささげられることです。【54節】。ここには詳しくは書かれていませんが、おそらく動物の血が両者の間の契約の確かさを保証していたと考えられます。さらには、そのささげられた犠牲の動物の肉を共に食することによって、契約当事者間の交わり、和解が確かめられます。46節にも共同の食事のことが語られています。これらの形式は、イスラエルの礼拝の形式として受け継がれ、主イエス・キリストによって、わたしたちの教会の礼拝のために成就されたということをわたしたちは知っています。

 第三に、契約の記念として石塚や記念碑が建てられ、それが契約の目に見えるしるしとされるということです。それが、その地の名称の由来にもなっています。

 このようにして、ヤコブとラバンは平和的に20年間の共同生活を終えて、ヤコブは故郷の地、カナンへと帰ることがゆるされました。そして、ヤコブとエサウとの再会、ゆるし合いへと続きます。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたは和解の主、平和の主、すべてのものを一つに結びつける主であられます。あなたは、あなたとわたしたち人間との間にあった罪という厚い壁を打ち破って、わたしたち人間と和解してくださいました。その和解のために、あなたの御独り子の血を犠牲としておささげくださいました。それによって、わたしたちはあなたとの永遠の和解を与えられ、あなたの民としてみ国へと招き入れられておりますことを覚え、心から感謝いたします。

○主なる神よ、どうかわたしたち全人類に真実の和解と一致をお与えください。この世界から争いや憎しみ、分断や差別を取り除いてくださり、互いに仕え合い、互いに重荷を負い合い、互いに痛みを分かち合う真実の交わりと共に生きる道をお備えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。