5月24日説教「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

2020年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書4章1~15節

説教題:「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

 主イエスは公のご生涯のはじめに、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあとに、荒れ野で悪魔からの誘惑にあわれました。この二つのことは、時間的に続いているだけでなく、内容から言っても密接な関連があります。きょうはまずその関連について考えてみましょう。

 主イエスの洗礼の場面と荒れ野での誘惑の場面に共通している第一のことは、聖霊です。ルカ福音書3章21節には、主イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていましたが、4章1節でも、「イエスは聖霊に満ちて」とあります。主イエスは洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配とお導きによって、その公のご生涯をお始めになりました。荒野でも聖霊は主イエスから離れることはありません。いや、荒れ野で悪魔の誘惑と戦われたその時にこそ、主イエスは聖霊に満たされ、聖霊のご支配とお導きによって、その戦いに勝利されたのです。このことについては、あとでもう少し詳しく学ぶことにします。

 主イエスの受洗と誘惑の本質的な関連を考えてみましょう。主イエスは、すでに学んだように、罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人となられて、悔い改めの洗礼をお受けになりました。それによって、わたしたちが主イエスを救い主と信じ、自らの罪を悔い改めて洗礼を受け、キリスト者となる、その最初の道を主イエスはわたしたちのために開いてくださったのです。

 荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことも同様の意味を持っています。天におられる全能の父なる神のみ子・主イエスが、ご自身を低くされ、貧しくされて、人間のお姿でこの世に下って来られ、わたしたち人間が経験しなければならないすべての誘惑や試練をご自身もまたお受けになられたのです。そして、悪魔の誘惑に勝利なさったのです。それは、わたしたち人間をあらゆる誘惑や試練の中で守るため、救うためにほかなりません。主イエスが経験された試練や苦難の意味について、ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのように書かれています。【17~18節】(403ページ)。また、【4章15~16節】(405ページ)、さらに、【5章8~10節】(406ページ)。わたしたちの弱さをすべて知っておられる主イエス、ご自身がそのすべてを引き受けてくださった主イエスこそが、わたしたちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。

 主イエスの受洗と荒れ野での誘惑との密接なつながりから教えられるもう一つの重要なことは、まさにその二つは本質的に切り離すことができないものだということです。主イエスの洗礼のあとにすぐに悪魔の誘惑が続いています。洗礼を受けるということは、悪魔の誘惑から逃げたり、それを避けたりすることではなく、あるいはそれらとの戦いをしなくても済むという保証でもなく、それらと積極的に戦って、それに勝利することへとつながっていくことなのです。

 ある人は誤解して、洗礼を受けてクリスチャンになれば、人生の悩みや迷い、苦しみがなくなって、災いや試練にもあわなくて済む、平穏な生活が送れるようになると考えます。また、わたしたちの周囲にはそのような幸運と繁栄を約束する宗教がたくさんあります。それらの宗教は人間の願いや計画をいかにして実現するかを主たる目的にしています。けれども、キリスト教信仰はそうではありません。人間の願いや計画ではなく、神のみ心、神の救いのご計画が実現することこそが重要なのです。そもそも、人間の願いや好みのままに働く神は、人間が勝手に造りあげた偶像に過ぎません。人間が造ったものは人間以上ではあり得ず、したがって本当に人間を救うことはできません。

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰は、試練や苦難にあわない道を上手に選んで通るというのではなく、むしろどのような試練や苦難にあっても、それを恐れず、その中にあっても決して失望せず、主キリストが与えくださる勝利を信じて耐え忍び、戦い抜いていく勇気と力を与えるのです。それだけではありません。主キリストのため、信仰のため、福音宣教のためには、苦難や労苦をも喜んでわが身に引き受けるのです。信仰者として生きる時、それ以前には試練だとは思わなかったことが新たな試練となったり、それ以前には安易な妥協の道を選んでいたことが、新たな戦いを迫られたり、洗礼を受けたあとの方が苦しく辛い道になったりすることもあるでしょう。しかし、信仰者はそれらをも喜んで耐え忍び、その中にあってもなお、主キリストにある勝利を信じ続けるのです。主キリストご自身が、わたしに先立って、その道を進み行かれ、わたしのために罪と死と滅びに勝利しておられることを知っているからです。

 では、1~2節を読みましょう。【1~2節】。「イエスは聖霊に満ちて」の「聖霊」と、次の「霊」とは、同じ聖霊なる神のことです。14節の「霊」も同じです。きょうの悪魔の誘惑の場面では、悪魔が主人公であるように見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。主イエスを満たしているのは聖霊なる神であり、聖霊なる神が主イエスを荒れ野の中へと導いておられるのです。きょうの場面だけではありません。14節から始まる福音宣教の活動と主イエスのご生涯全体が、聖霊なる神に導かれています。聖霊なる神のみ力によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。

 そのことを強調しているのが40日間の断食です。主イエスは肉体的には空腹であっても、聖霊に満たされていました。主イエスが悪魔の誘惑と戦う力は、栄養ある食物をたくさん食べて得られる体力ではなく、どこかの学校で学んだ学力でもなく、この世での経験を積んだ人生の知恵でもありません。むしろ、それらのすべてが貧しくなり、むなしくなり、無力になった時にこそ働かれる聖霊なる神によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。主イエスが40日間断食されたのは、ご自分の弱さに徹するためであったのです。聖霊なる神にご自身を明け渡すためであったのです。

 もし、キリスト者の断食に信仰的な意味を見いだすとすれば、それはここにあると言えるのではないでしょうか。自分の意志や要求を実現するためとか、自分の意見や立場を表明したり、あるいはだれかにそれをアッピールしたりする手段のためと言うよりは、自らを神のみ前にあって貧しくし、無力にして、神に自分を明け渡して、神ご自身がわたしの中でお働きくださることを願う、そして神のみ心がなるように祈る、そこにキリスト教的断食の意味を見いだすことができるのではないでしょうか。

 ところで、ルカ福音書では、主イエスを誘惑するのは「悪魔」と呼ばれていますが、マタイ福音書4章3節では「誘惑する者」、マルコ福音書1章13節では「サタン」と呼ばれています。これらはみな同じものを指しています。悪魔とかサタンとか言われると、何か恐ろしい、恐怖を与える悪い存在を予想するかもしれませんが、ここに登場する悪魔は必ずしもそうではありません。このあとで展開される三つの誘惑の場面を見ても、悪魔はむしろ優しく、人間思いで、英雄のような存在です。人間の必要性や、願望や欲望、好奇心や信仰心までをも刺激して、人間に近づいてくるのが悪魔です。

 悪魔、サタン、誘惑者に共通しているのは、主イエスを、そしてわたしたち人間を、父なる神から引き離そうとすることにあります。神に従わなくても、神なしでも生きていくことができる、むしろ自分が神のような存在になれると思い込ませることに、悪魔の誘惑があります。それは、聖書が言う罪と共通点を持っています。悪魔とかサタンと言われるものと罪とが、聖書の中では全く同じであると考えられているのかどうかについては議論の余地があるところですが、両者が同じ働きをするということは確かです。

 では次に、第一の誘惑についてみていきましょう。【3~4節】。ここでは、主イエスにとって二重の誘惑があります。一つには、ご自身が空腹を覚えられ、ご自身の肉体の必要を満たしたいという誘惑です。もう一つは、こちらの方が主イエスにとってはより大きな誘惑ですが、人々のパンの必要を満たすために神の子としての使命を果たしたいという誘惑です。当時の困難な状況の中で苦しんでいた貧しい民衆のために、あるいは、いつの時代にも深刻な課題としてある食糧難、パンの問題を、一気に解決できる魔法の力があれば、それで世界を救えるのではないか、そのための力を神から授かったらどんなにか幸いなことか。

 けれども、主イエスはその誘惑を退けられました。パンの奇跡によっては、本当に人間を救うことはできない、パンの問題を解決することによっては、本当に世界を救うことはできないと、主イエスは言われます。また、それが神の子・メシア・救い主であるわたしの使命ではないと、主イエスは言われます。人間と世界の本当の救いは、神がお語りくださる命のみ言葉を聞き、信じることによってであると主イエスは言われます。

 ルカ福音書では、「人はパンだけで生きるものではない」の後半は省略されていますが、マタイ福音書4章では申命記8章3節の全体が引用されています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と主イエスはお答えになりました。パンは人間の朽ちる肉体を一時的に養うことしかできません。しかし、神のみ言葉は永遠に変わることなく、絶えず新しい命を注いでイスラエルの民を導き、全人類を神の国が完成されるまで導きます。主イエスはその神の国の福音を宣べ伝えるために、十字架への道を進み行かれたのです。

 第二、第三の誘惑に対しても、主イエスは神のみ言葉によってそれらを退けられます。【8節】。これは申命記6章13節のみ言葉です。【12節】。これは申命記6章16節からの引用です。主イエスは徹底して神のみ言葉によって誘惑と戦われます。そして、それに勝利されます。主イエスは神のみ言葉の前で、ご自身の権力と繁栄のすべてをお捨てになりました。主イエスは神のみ言葉に徹底して服従されました。フィリピの信徒への手紙2章8節にあるように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に」、父なる神に服従されました。それによって、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。荒れ野で悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利された主イエスのご生涯とその歩みは、十字架と復活へと向かって進んでいきます。

 3節と9節で、悪魔は「お前が神の子なら」という言葉で主イエスを誘惑します。同じような言葉をわたしたちは主イエスの十字架の場面でもう一度聞くことになります。十字架につけられた主イエスに向かって、「お前が神の子・メシアなら、自分を救ってみろ」(ルカ福音書23章36節、マタイ福音書27章40節を参照)、と人々は叫びました。悪魔の誘惑は、まさに主イエスを十字架から引き下ろし、主イエスの十字架を否定することにあったのです。

 けれども、主イエスはご自分を救うことはなさいませんでした。十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、わたしたちの救いを全うされたのです。それゆえに、十字架の主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、わたしたちもすべての悪の誘惑やサタンの試みに勝利することができるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを罪と悪魔の誘惑から守り、お救いください。わたし

たちがただあなたの命のみ言葉にのみ聞き従って、備えられたみ国への道を進み行くことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月17日説教「カインの末裔-裁きではなくゆるしを」

マタイによる福音書18章21~35節

2020年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章13~26節

    マタイによる福音書18章21~35節

説教題:「カインの末裔―裁きではなくゆるしを」

 「カインの末裔」というきょうの説教題は、作家の有島武郎が1917年(大正6年)に発表した小説の題からつけたものです。創世記4章のカインとアベルの物語は、嫉妬や憎悪の思いに支配されて罪と復讐を繰り返していくというテーマで、多くの小説や映画の題材になりました。また、少し違った視点からカインとアベル物語を取り上げたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは『デミアン』という小説を書いています。わたくしは青年時代に、この二つの小説を同じ時期に読み、人生や信仰について真剣に考えるきっかけとなったことを思い起こします。

創世記に描かれている神によって最初に創造された人間とその子孫たち、アダムとエバ、カインとアベル、そしてノア、またアブラハム、これらの人物はまさにその末裔である今日のわたしたち人間一人一人の原型であるのだと言ってよいのではないでしょうか。そしてさらに、旧約聖書全体に描かれているすべての人間たちの罪の歴史と、その中での神の救いの歴史が、新約聖書に至って、主イエス・キリストに合流していると言ってよいでしょう。

 きょうは前回の説教の最後で触れた10節のみ言葉をもう一度取り上げてみます。【10節】。カインは弟アベルに対する連帯責任、共に生きるという責任を果たすことができなかっただけでなく、嫉妬と憎悪によって殺害した弟のことを神に問われた時に、9節では「わたしは弟の番人でしょうか」とまで言っていました。カインは弟の血の責任を負うことはもちろんできません。その上に、彼は自分が犯した罪を神のみ前に隠そうとさえしています。ここに、人間の罪の最も悲惨で恐ろしい姿が現れています。また、人間の罪によって破壊された隣人関係のあわれで、またおぞましくもある姿が現れています。

 しかし、神はカインによって見捨てられ、土の下に覆い隠されたアベルの血の叫びを確かに聞いておられます。ヘブライ人の手紙12章24節のみ言葉を前回紹介しました。そこには「アベルの血よりも力強く語るイエスの血」と書かれています。主イエス・キリストが十字架で流された神のみ子の清く尊い血の叫びを、神は聞いてくださり、それによってわたしたちの罪をすべて、永遠に洗い流し、罪から清めてくださったのです。

 もう一つ、ヨハネの黙示録では、殉教者たちが流した血の報いを神が終わりの日に必ず果たしてくださるであろうと約束されています。死に至るまで忠実に主なる神に仕えた信仰者たちを、神は終わりの日の神の国が完成されるときに、輝く清い衣を着せられた花嫁として花婿なる主キリストのもとへと連れていかれると約束されています(ヨハネの黙示録19章、他参照)。神は信じる者たちの血の一滴をも、あるいはまた福音のための戦いで流された汗と涙の一滴をもすべて覚えてくださいます。そして、それに報いてくださいます。

 では、きょうの個所を読んでいきましょう。【13~15節】。神との正しい関係が壊れ、隣人との関係も壊れ、しかも悔い改めることをしなかったカインは神に呪われた者となりました。神の裁きが11~12節に書かれていました。神の裁きは二重にカインを苦しめました。彼が土を耕してももはや彼のために作物を生み出さず、彼自身も定住の地を持たず、地上をあてもなくさまよう放浪の身となりました。ここに至って、カインは初めて自らの罪の大きさに気づき始めたように見えます。彼は自分の罪の重さに耐えきれないことを告白しなければなりません。彼は神の憐れみを乞い求めざるを得ません。

 ここでわたしたちは重要なことに気づきます。あれほどに傲慢で、神をも恐れず、神に逆らっていたカインが、ここでは神から見捨てられることの重大さに気づき始めているということを。地上の放浪者となり、しかも神なき世界で生きていかなければならなくなったカインには、自分の身を守るすべが何一つないのだということを。それゆえに、神が恐るべき呪いによって厳しい裁きを彼にお与えになったのは、実は、彼にこのことを気づかせるためであったのだということを。そして、神はなおも罪と死と滅びの中にあるカインをお見捨てにはならず、ご自身へとお招きなっておられるということを、わたしたちは気づかされるのです。カインは恐れおののきながら、神の憐れみを願い求めます。

 そこで、神はカインに言われます。【15節】。神は殺されたアベルの血の叫びを聞かれただけでなく、殺人者カインの願いをも聞かれます。神はカインを復讐者の手から守ると約束されました。そのために、カインに一つのしるしをつけられました。それがどのようなしるしであったのかについては書かれていません。入れ墨とか大きなほくろとか、そのようものであったと推測されます。だれであれ、カインが意図的殺人によって流した血の復讐をすることは許されず、カインは神によって守られることになったのです。カインが犯した大きな罪によっても、神の憐れみと救いのみ手は決して消えることはありません。

 カインはエデンの東、ノドの地に住んだと16節に書かれています。「ノド」とは「さすらい」「動揺」という意味を持ちます。カインはまことの救い主に出会うまでは、帰るべき故郷を持たずに放浪とさすらい、動揺と不安の中で生きていかなければなりません。4世紀の偉大な神学者アウグスチヌスは彼自身の長い放浪生活の後でこのように言いました。「人は、まことの創り主なる神を見いだすまでは、その魂に真の安らぎを得ることはできない」と。神を見失い、神から離れたカインの末裔である人間は、真の故郷をも見失い、確固とした足場を持たず、あてもなく地をさまよい、さすらいと動揺と不安の中で生きるほかにありません。

 次に、17節からは、カインの子孫について書かれています。放浪を続けるカインはやがて結婚をし、子どもを産み、家庭を築き、その地に定住して町を建て、多くの子孫が住み着くようになりましから。20節からはいくつかの職業が挙げられています。家畜を飼い天幕に住む民族、竪琴や笛を奏でる民族、青銅や鉄で道具を作る民族など、農業や芸術、工業、文化と言われるものが発達し、大きな都市計画が進められていきました。そのようにして、カインの末裔たちはさすらいと動揺から何とかして抜け出そうと、今日まで歩みを続けてきたのでした。

 けれども、カインの末裔たちは町を作り、都市計画を進めることによって、神から追放されて放浪の身となったことを、ほんとうに忘れることができるのでしょうか。自分たちが造り上げた近代的な都市の中で、ほんとうの魂の安らぎを見いだすことができるのでしょうか。あるいは、神から与えられた厳しい刑罰を忘れ、いつかは神なしでも自分たちだけで立派にやっていけることを証明し、神を見返してやることができると考えているのでしょうか。町々に多くの人間を寄せ集めて、肩を寄せ合って生きることによって、失われた人間の交わりを取り戻すことができると考えているのでしょうか。都市の快適な生活が心の痛みや罪の意識やさすらいの孤独、動揺、不安のすべてを解決してくれると考えているのでしょうか。カインとカインの末裔たちのこの試みは果たして成功するのでしょうか。

 その答えは、23節、24節に、恐るべき結末になることが、カインの子孫レメクの歌として書かれています。【23~24節】。レメクは復讐の歌を歌っています。自分が受けた傷のために77倍もの復讐をしてやるぞと歌うのです。いや、ここで言われていることは、人間への復讐だけではありません。むしろそれは、神への反逆の歌と言うべきです。15節で、神はカインを殺す者には7倍の復讐をすると言われ、殺人者カインをも神は守ってくださるという神の憐れみが示されていましたが、しかしレメクはその憐れみ深い神に反逆するかのように、神の憐れみを投げ捨てるかのように、自分が神に代わって、神以上の復讐者になるのだというのです。レメクの復讐の歌は、神への反逆の歌であり、自らが神以上のものになろうとする、人間の傲慢で不遜で、限りない残忍さを歌った歌なのです。これが、神に背き、神なしで生きるカインの末裔たちの行き着く姿なのだということを、聖書はここであらかじめ予告しているのです。

 アダムとエバから始まった人間の罪、カインの兄弟殺しへと発展していく人間の罪は、やがて人々が集団を形成し、町を建設し、文化や芸術、産業が発展し、人間が高度な文化的生活、社会的生活を営むようになっても、その罪は小さくなることも、消え去ることもなく、いやむしる、人間の罪はいよいよ悲惨さを増していくしかないのです。

 だれがこの罪の世からわたしたちを救ってくれるのでしょうか。だれが人間のこの罪の歯車を、復讐の連鎖を止めることができるのでしょうか。

 主イエスはマタイ福音書18章21節以下で、ゆるしの回数を聞いた弟子のペトロにこのようにお答えになりました。【21~22節】(35ページ)。

レメクの歌は徹底的な復讐の歌でしたが、主イエスの教えは徹底的なゆるしの福音です。主イエスのゆるしには限界がありません。主イエスのゆるしは完全であり、永遠です。主イエスこそが、人間の罪の歴史を、復讐の連鎖を、ゆるしの福音によって終わらせるのです。わたしたち人間の罪のために、ご自身が苦しみを受けられ、十字架への道を進み行かれ、わたしたちの罪の贖いのためにご自身の尊く清い血を流してくださった主イエス、それによってわたしたちのすべての罪を永遠にゆるしてくださった主イエスこそが、わたしたちを再び神に愛されている神の民とし、神にある平安と慰め、喜びと希望へと招き入れてくださったのです。主イエスによって与えられたこの罪のゆるしから、わたしたちもまた互いにゆるし合い、愛し合い、共に一つの神の民とされていることを感謝しつつ、ゆるしの共同体、愛の共同体として生きる道が備えられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちは造り主なるあなたを離れては、牧者を失った羊のよう

に、地をさまようほかにありません。神よ、どうかわたしたちをあなたのもとへと連れ戻してください。わたしたちのために命を捨ててくださった真実の牧者であられる主イエス・キリストによって、わたしたちを見いだしてください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月10日説教「主にあって常に喜びなさい」

2020年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書57章14~21節

    フィリピの信徒への手紙4章1~9節

説教題:「主にあって常に喜びなさい」

 「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙の中には「喜び」という言葉が二十数回用いられています。もう一つ、この手紙の中で頻繁に繰り返される言葉があります。それは「主において」あるいは「主イエス・キリストにおいて(これは「主イエス・キリストに結ばれて」と訳されたりします)という言葉です。フィリピの信徒への手紙では21回用いられています。パウロの他の手紙でも、「主にあって」あるいは、それに似た表現は数多く用いられており、パウロの神学、パウロの信仰の大きな特徴を表す言葉です。きょうはまず初めに「主にあって」という言葉について学んでいきたいと思います。

 きょう朗読された箇所からそれを抜き出してみましょう。1節、「主によってしっかりと立ちなさい」、2節「主において同じ思いを抱きなさい」、4節「主において常に喜びなさい」、7節「キリスト・イエスによって守るでしょう」。この個所だけでも4回繰り返されています。ギリシャ語では「エン」(英語の「イン」にあたる)は「~の中で」という意味を持っており、聖書では「~にあって、~によって、~において、~に結ばれて」などと、それぞれの文脈で違った訳が付けられています。

 では、具体的にどのような意味を持つのでしょうか。「主キリストにあって」とは、最も広い意味で理解するならば、主キリストとの交わりの中でということになるでしょう。主キリストを信じる信仰によって、主キリストにつながれて、主キリストの十字架と復活の福音を聞き、主キリストの救いの恵みを受け取り、主キリストに支えられ、導かれながら、主キリストが先立ち行かれた天のみ国、神の国への旅路を続ける、そのような信仰者の生き方全体を規定する言葉が「主キリストにあって」であると言ってよいでしょう。つまり、わたしたち信仰者の存在と命と生活の起源、出発点が主キリストにあるということ、また、わたしたちの今、現在が主キリストにあり、さらには、わたしたちの将来、目的地もまた主キリストにある、そのすべてを含んで、パウロは「主キリストにあって」と表現していると理解できます。

 1節では「だから……このように主によってしっかりと立ちなさい」とパウロは勧めています。フィリピの教会が、教会の内と外からの攻撃や誘惑の中でも、決して動揺することなく、恐れることなく、固く立ち続けることができるために、前の個所、3章21、22節で書いたように、今は天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストとの聖霊による豊かな交わりの中にあって、主キリストの十字架の福音を信じつつ、主キリストの再臨を待ち望みつつ、天に国籍を持つ者として生きるようにとパウロは勧めています。これが、「主にあって」という短い言葉の中に含まれている大きな、そして豊かな内容なのです。主こそが、主イエス・キリストこそが、フィリピ教会の、そしてわたしたち一人一人の、生きる根拠、土台、基礎であり、また、今の時を生きる支え、導きであり、そしてまた、生きる目標、目的、完成なのです。たとえ、今の時がどれほどに厳しい時代であれ、混乱と不安に覆われた時代であるとしても、「主キリストにあって」堅く立ち続けることができるのです。

 2節では、フィリピ教会の二人の婦人の名前が挙げられています。【2節】。この二人の婦人は教会でよき働きをし、パウロと共に福音宣教のための戦いをしてきたと3節に書かれていますので、パウロ自身もよく知っている婦人だったと思われます。二人の婦人たちの間に何かトラブルがあったのでしょう。パウロはこの二人に「主にある」和解と一致を勧めています。「主において同じ思いを抱く」とは、主キリストにあって一つの同じことに思いを集中するという意味です。人はそれぞれ考え方や意見の違いがあり、行動の仕方も違うでしょう。そのような個性を認めないような一致は、悪しき全体主義です。主キリストにある真実の一致とは、人間やこの世界にあるさまざまな違いを認めつつ、そのすべて超えた所にある一致です。共に主キリストによって罪をゆるされ、共に主キリストの体なる教会の交わりの中に招き入れられ、共に主キリストの福音宣教のための証し人、働き人として召されているという一致です。ここから、真実の和解が与えられます。

 4節の「主において」については最後に取り上げることにして、7節を先に読んでみましょう。【6~7節】。「キリスト・イエスにおいて」という言葉は、原文のギリシャ語では7節の文章の最後に置かれ、強調されています。そこから理解すると、この言葉は7節全体、あるいは6節にも関連していると思われます。すなわち、「人知を超える神の平和」と、「感謝を込めて祈りと願いをささげる」ことと、「思いわずらわない」ことのすべてが、主イエス・キリストにあってこそ与えられるのであり、可能になる、可能にされているということです。

 まず、「神の平和」は人知を超えたものと言われています。人間がこの地上で実現したり築き上げたりできるような平和とは全く違った、主イエス・キリストによって与えられた神の平和ということです。人間が考えたり実現したりできる平和がいかにもろく、頼りない平和であるかということは、だれもが気づいています。しかし、それでもなおも人間は真実の平和を願い求め続けます。それができるのは、神がお与えくださる永遠の平和があると聖書に証しされ、約束されているからです。人間が持つすべての武器を農具に変え、人間たちの貪欲や怒り、背きや争いをすべて終わらせ、神が全世界とすべての国民の唯一の主として崇められる、神の国の平和を神ご自身が創造してくださると言われているからです。そして、神はそのような永遠の平和を主キリストの十字架と復活の福音によって、今すでに現実にお始めになっておられるということを、わたしたちは信じるからです。神がわたしたち人間の罪をゆるされ、神と人間との間の完全な和解をお与えくださった。そして、わたしたちを一つの神の民としてお招きくださり、み国の民として下さった。この神の平和によって、わたしたちは守られているのです。

 それゆえに、わたしたちは思い煩う必要はありませんし、思い煩うべきではありません。思い煩いは神の平和に対する不信仰であり、神の平和を否定し、破壊することでもあります。主イエスはマタイ福音書6章の山上の説教でこう言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らの命をも養い、育てておられる。ましてや、あなたがた人間のためにはなおさらではないか」と。わたしたち一人一人の罪のゆるしのために、ご自身の独り子さえも惜しまずに十字架の死に引き渡された神が、その大きな愛によってわたしたちを愛していてくださるのであるならば、何ものであれ、だれであれ、わたしたちをこの神の愛から引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

 そうであるからこそ、わたしたちは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」ことができます。神はわたしたちが求めない先から、わたしたちに必要なものを知っておられます。否それのみか、神はわたしたちが求めるよりもはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださいます。このことについてもまた、主イエスはマタイ福音書6章で繰り返して教え、約束しておられます。

 最後に4節の「主において」を学びましょう。【4~5節】。この4節には、フィリピの信徒への手紙で特徴的な二つの言葉である「喜び」と「主にあって」とが結びつき、さらには「常に」という言葉が付け加えられています。この手紙でパウロが強調して語っている「喜び」とはどのようなものであるのかということが、ここには最も的確に言い表されていると言ってよいでしょう。主イエス・キリストにある喜びこそが本当の喜びであり、いつでも、どのような時にでも、どのような状況の中でも喜ぶことができる、永遠の喜びであるということです。なぜならば、主キリストにある喜びとは、主キリストが与えてくださる喜びであり、主キリストと共にあることによって与えられる喜びであり、主キリストが絶えずいつもわたしと共におられ、わたしのために新しく作り出してくださる喜びであるからです。

 当時のフィリピ教会とパウロの状況を考えてみましょう。紀元50年代、フィリピ教会は誕生してまだ10年足らずの若く弱い群れでした。外からはユダヤ人とローマ帝国からの迫害があり、内からは異端的な教えの誘惑がありました。パウロはと言えば、今牢獄に捕らえられ、最終的な判決を待っています。死刑も予想されます。そのような状況の中で、パウロはそれにもかかわらず、「わたしは喜んでいる。あなたがたも喜びなさい。いつも喜びなさい」と繰り返して言うのです。主キリストを信じる信仰者にとっては、いつでも、どのような時にでも、主キリストにある喜びに生きることができる。いや、そうであるだけでなく、迫害や試練の中にある時にこそ、主キリストにある喜びがその真価を発揮するのだ。この世の人々が恐れや不安に襲われ、悲しみや嘆きに心が閉ざされる時にこそ、主キリストを信じる信仰者に与えられる主にある喜びは、その輝きを増し加え、信じる者たちに力と勇気とを与え、この世界がどのように揺れ動くとも、信仰によって固く立たせてくれる、そのような喜びなのだということです。

 次の5節で「主はすぐ近くにおられる」ということが、その喜びをより確かなもの、より力強いものにします。「主が近くにおられる」とは、主イエス・キリストが信仰によってわたしの近くいてくださるという意味だけではなく、その意味をも含みますが、主キリストの再臨の時が近いという意味です。主キリストが再臨する時、信仰者は天に引き上げられ、神の国へと招き入れられます。神の国においては、もはや悲しみも痛みも死もなく、永遠に神と共にあり、消えることがない最高の喜びに満たされます。主イエスは福音書の終わりの個所で、神の国が完成されるときの盛大な晩餐会、結婚式の喜びについて何度も語っておられます。今信仰者に与えられている「主にある喜び」は、終わりの日の主キリストの再臨の時に与えられる大きな喜びの先取りと言ってよいでしょう。

 「主は近い」。だから「主において常に喜びなさい」。これがフィリピ教会に与えられている喜びであり、またわたしたちの群れにも与えられている喜びなのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたがみ子によってわたしたちにお与えくださった平和と喜

びをわたしたちの中に満たしてください。また、全世界とすべての人々をも、あなたの真実の平和と喜びで満たしたください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

5月3日説教「主イエスが受けられた洗礼」

2020年5月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記5章1~24節

    ルカによる福音書3章21~22節

説教題:「主イエスが受けられた洗礼」

 ルカによる福音書は主イエスのために道を整える先駆者ヨハネと、彼に半年遅れて登場されるメシア・キリストである主イエスとを、交互に並べて記述しています。彼らの誕生予告と誕生について1~2章で語られていましたが、3章では彼らの公の活動について、1~20節ではヨハネの活動がまず語られ、そして21節からは主イエスの公の活動が続けて語られます。ヨハネに関する記述の最後の19、20節では、彼が領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス)によって捕らえられたことが書かれています。このことについてはマタイ福音書14章とマルコ福音書6章に詳しく書かれていますが、ルカ福音書ではここであらかじめそのことに触れています。それによってルカ福音書が強調していることは、先駆者であるヨハネとメシアである主イエスとのこれまでの並行関係、つながりは、ヨハネの逮捕と死によっても決して途絶えることなく続いていくということなのです。

 つまり、神がこの終わりの時に至って、ご自身の救いのみわざを完成されるために先駆者として遣わしたヨハネによって備えられた道を、そのあとにおいでになるメシア・救い主なる主イエスがその道を確かに進まれる。そして、神の救いのご計画を成就される。この世のどのような悪の力や人間たちの罪の力によっても、神の救いのご計画は決して変更されることも中止されることもない。神はそれらのすべてを貫いて、ご自身の救いのお働きを、ヨハネの時代にも、いつの時代にも、そして今日のこの時代にも、力強く進めておられるのだということを、ルカ福音書は強調しているのです。

 ヨハネは16節で来るべきメシアである主イエスについて、このように証言しています。「わたしは水で洗礼を授けるが、わたしよりの優れた方が来られる。わたしは、そのかたの履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。ヨハネのその証言が直ちに実現を見ます。

【21節】。主イエスの公の活動、福音宣教のお働きがここから始まります。23節には、「イエスが宣教を始められた時はおよそ三十歳であった」と書かれていますが、その公の宣教活動を開始された時の最初のお姿が、ここに描かれているように、洗礼をお受けになり祈っているお姿です。これは非常に印象的な光景です。民衆の中にまじって、ヨルダン川で洗礼をお受けになり、祈っておられるお姿を、多くの画家たちが絵にしてきました。主イエスはこのようにして、民衆の中に入られ、この罪の世においでになって、罪びとたちと共に洗礼を受けておられます。 

わたしたちはここから何を学ぶでしょうか。主イエスはおそらくは粗末な衣装を身にまとい、生活苦や多くの悩みを抱えた民衆と同じお姿で、もっとも多くの画家たちが描いた主イエスのお姿は何か光輝いて見えるのですが、それは画家の信仰の表れであって、実際の主イエスのお姿は粗末でみすぼらしい身なりだったに違いありませんが、主イエスはそのようにして民衆と全く同じお姿で、民衆の中の一人として、この世においでになられたのです。主イエスは神のみ子であられましたが、罪びとの一人として、この罪の世にくだってこられたのです。当時の政治家たちや宗教家たち、ヘロデ王家や貴族、祭司やファリサイ派、律法学者たちのようにではなく、彼らは生活に疲れた民衆を神から見放された「地の民」と呼んでいましたが、彼らの一人としてではなく、むしろ見捨てられ、見失われ、疲れ、倒れている人たちの一人として、主イエスはこの世においでになられ、この世での福音宣教のお働きを始められました。そのような主イエスの歩みは、そのご生涯の終わりのご受難と十字架の死へと向かっていくのです。

ヨハネが授けていた洗礼は、3節にあるように「罪のゆるしを得させるための悔い改めの洗礼」でした。ヨハネは来るべきメシア・救い主の到来に備えて、人々が罪を悔い改めて神に立ち帰り、罪のゆるしを得るようにと、洗礼を授けていました。けれども、主イエスの場合、罪を悔い改める必要などあるのでしょうか。主イエスは罪のゆるしを必要とするのでしょうか。いいえ、そうではありません。主イエスは神のみ子で、罪なき方、聖なる方です。主イエスはヨハネが証しし、旧約聖書の預言者たちが待ち望んでいたメシア・救い主、わたしたちの罪をゆるす方です。マタイ福音書3章14節では、ヨハネが主イエスに対して、「わたしこそがあなたから洗礼を受けるべきなのに」と驚きの声を挙げています。

これはどういうことでしょうか。どうして主イエスは罪びとが受けるべき洗礼をお受けになったのでしょうか。わたしたちはここで、神のみ子であられた主イエスが、人のお姿でこの世のおいでになられたことの意味をはっきりと知るでしょう。主イエスはご自身罪なき神のみ子でありながら、ご自身を低くされ、卑しくされて、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人に数えられるまでに、わたしたちと連帯してくださったのだということを。主イエスはそのようにして、罪びとが受けるべき神の裁きと呪いとを忍び通され、ご受難と十字架への道を進み行かれたのです。

さらに言うならば、主イエスご自身が受けられた洗礼は、わたしたちの洗礼への招きであり、わたしたちが主イエスを信じて洗礼を受けることへの招きです。わたしたちが受けるべき洗礼は、主イエスご自身の洗礼にその出発点を持ち、根拠と土台を持ち、またその完成も主イエスの洗礼にあるのです。ある人はこう考えます。信仰は心の中の問題だから、洗礼を受けるという儀式は必要ない。わたしが心の中で信じていればそれで十分なのではないかと。でもそれは、主イエスご自身の洗礼を軽視することにもなるのではないか。それは、主イエスがわたしたち罪びとの一人となってお受けになった洗礼を否定することになるのではないか。わたしたちはだれであっても、主イエスのお招きに応えるべきですし、応えてよいのです。

次に主イエスの祈りのお姿に注目したいと思います。ルカ福音書は特に主イエスの祈りのお姿を強調しています。ルカ福音書は受洗の時をはじめ、5章16節では一日の終わりに人里を離れてお一人で父なる神に祈られ、6章では12弟子をお選びになる時にも祈られ、その他、重要な場面ではいつも主イエスの祈りのお姿を描いています。主イエスのご生涯は祈りに貫かれていました。主イエスはわたしたちをも祈りの生活への招いておられます。感謝の時、喜びの時に天の神に心を向けて祈る。苦難の時、試練の時に、天の神からの助けを信じて祈る。悲しみの時、恐れや不安の時に、天の神にわが身をゆだねて祈る。すべての時を神がご支配しておられることを信じ、すべてのことに神の深いみ心があることを信じて祈る。主イエスはわたしたちと共に、わたしたちに先立って、わたしたちのために祈っていてくださるのです。ここに、わたしたちの祈りの確かさがあり、力と希望があります。

「天が開いた」と書かれています。天におられる神と地に住むわたしたち人間との間に道が開かれました。主イエスの受洗によって、主イエスがわたしたち罪びとの世界に入ってきてくださったことによって、それまでは人間の罪によって天の門は閉じられており、神と人間との間には厚い壁があったのですが、主イエスによってその門が開かれ、その壁が打ち砕かれたからです。わたしたちは、道であり、真理であり、命であられる主イエスによって、天の父なる神との聖霊による、豊かな命の交わりへと招かれています。主イエスによって、わたしたちもまた神に愛されている神の国の民の一人一人とされているのです。

23節以下の系図について少し触れておきます。この系図は主イエスの父となるヨセフから始まって、最初に神によって創造されたアダムまで77人の名前が連ねられています。きょうの礼拝で朗読された創世記5章を始め、旧約聖書には数多くの系図が書かれています。創世記5章の系図はルカ福音書36節のセムから38節のアダムまでと、時間的には逆になっていますが、その名前はほぼ一致します。旧約聖書にはこのほかにも数多くの系図があります。イスラエルの民は系図を重んじました。聖書の中で系図はどんな意味があるのでしょうか。

第一にそれは、神の選びの歴史であり、神の救いの歴史です。神はアダムとエバを創造され、彼らが罪に堕ちると直ちに救いのみわざをお始めになりました。神はその救いのみわざを、選ばれた民、イスラエルによって継続されました。そのためにイスラエルと契約を結ばれ、この民に救いのみ言葉をお語りになりました。時にイスラエルが神に不従順であった時にも、神はご自身の契約を忠実に守られ、この民を愛し、導かれました。そして、ついにイスラエルの民の中からメシア・救い主を誕生させられました。このメシア・キリストである主イエスによって、神はイスラエルの民だけでなく、全人類のための救いのみわざを成就されたのです。

したがって、旧約聖書に記されているすべての系図は、またルカ福音書とマタイ福音書に記されている系図も当然そうですが、それらの系図はすべて主イエス・キリストを目指しています。主イエス・キリストですべての系図は完成するのです。それゆえにまた、主イエス以後には、聖書の中には、また教会の歴史の中では、系図が新たに書かれることは全くありません。主イエス・キリストを信じるわたしたちはすべて、国籍に関係なく、身分や職業に関係なく、家柄とか能力とかにも関係なく、すべての人は神の国の民として登録されるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子なる主イエス・キリストによって、わたしたちをあなたの民

としてお招きくださいますことを感謝いたします。あなたの招きのみ声を聞くとき、喜んで、従順に聞き従うことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。