4月26日説教「カインとアベル」

2020年4月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章1~12節

    ヨハネの手紙一3章11~18節

説教題:「カインとアベル」

 創世記3章では、人間の罪について、いわゆる「原罪」について語っていますが、それに続く4章では、人間の罪の具体的な現れ、あるいは罪の発展について描いていると言えます。「カインとアベルの物語」と一般に呼ばれるこの4章は、人間の罪、「原罪」がこの人間社会においてどのようにして具体化されていくか、現実化されていくかという、その過程について語っており、それはまさに、今わたしたちが住んでいるこの人間社会で、今もなお繰り広げられている人間の罪の現実の、その原点なのだと、言ってよいでしょう。わたしたちはこの個所に、わたしの中に潜んでいる罪の原点を見るのだと言ってよいでしょう。だれもが非常に重苦しい思いを持ちながら、人類史上最初の殺人、しかも兄弟殺しという、恐ろしい殺人事件を扱ったこの個所を読まざるを得ないのですが、しかし、そうであっても、この個所もまた天地万物と人間を、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造された主なる神のみ言葉であるということを、わたしたちは忘れることはありません。

 わたしたちはここでまず、人間の罪の本質について基本的なことを教えられます。しれは、人間の罪が、その根源は神と人間との関係が壊れることなのですが、それが直ちに人間と人間の関係が壊れることへと進展していくということです。すでに3章12節以下で、神の戒めを破って罪を犯したアダムとエバが互いに責任を押し付け合っていたことにそれは表れていましたが、ここではよりはっきりと、より刺激的に最初の兄弟殺しへと発展していくのです。神と人間との関係が正しくなければ、人間と人間の関係をも正しく築いていくことはできません。

 それゆえに、主イエスは旧約聖書の律法のすべてを、神を愛することと隣人を愛することという、愛の二重の戒めにまとめられました。【マタイ福音書22章36~40節】(44ページ)。神から人間へと広がっていく罪の連鎖を食い止めるために、主イエスがわたしたちのために開いてくださった新しい道、すなわち神から隣人へと広がっていく愛の戒めに生きる道を、わたしたちは進まなければなりません。進むように招かれているのです。

 では、4章1節から読んでいきましょう。【1節】。エデン(喜び)の園を追い出されたアダムとエバの夫婦にも、なお喜びの時が残されていました。子どもの誕生です。「わたしは主によって男児を得た」と、エバは歓喜の声を挙げています。エバという名前は、3章20節で説明されているように「命」という意味です。罪に対する神の厳しい裁きを受けなければならなかった女エバは母となることをゆるされたのです。罪と死に支配されるようになったアダムとエバ、けれども、彼らは新しい命の誕生を見ることをゆるされ、その子の親となることがゆるされたのです。1章27節で、人間が創造された際に与えられた神の祝福、「産めよ、増えよ。地に満ちよ」という神の祝福は、なおも彼らから取り去られてはいませんでした。彼らはエデンの東に追い出されても、なおもそこで神の祝福を受けた、喜びに満ちた何かを始めることをゆるされていたのです。人間に対する神の恵みと憐れみは、罪の世界にあっても、なおも消えることはありません。

 「主によって」という言葉がキー・ワードです。罪の人間にゆるされているそれらのことはすべて「主によって」与えられているのです。エバの喜びは、男の子が誕生したということによるだけではなく、神が「母となる」という約束を彼女に果たしてくださったからにほかなりません。エデンの東の罪の世界でも、神はなおも彼らと共におられ、彼らのために新しい命を創造され、彼らのために喜びの時をお与えになられ、彼らのために新しいみわざをお始めくださったのです。エデンの東の世界にあっても、わたしたち人間は「主によって」何かをなすことがゆるされているのであり、「主によって」すべての事をなすべきなのです。主なる神と共に歩み、主なる神に聞きつつ、すべてのわざをなすべきなのです。そうすれば、果てしなく続くかのような人間の罪の歴史に、光が差し込んでくるに違いないのです。

 【2節】。兄カインの名前は「やり、弓矢、鍛冶屋」という意味を持つと考えられています。弟アベルは「息、蒸気、はかなさ」という意味を持っています。アベルの不運な、短くはかない生涯を暗示しているように思われます。カインは農夫になり、アベルは羊飼いになりました。そして、二人はそれぞれの働きで得たものを神にささげました。自分たちの働きで得たものはすべて主なる神から賜ったものであり、それを感謝して、その最初の収穫や最も良いものを神にささげるということは人間の義務と考えられていました。

 ところが、その時に全く理解に苦しむ事態が生じました。【3~5節】。なぜ神がそうされたのかについては、ここには全く書かれていません。わたしたちには正確には分かりません。聖書研究家たちはさまざまな推測を試みています。神は地の産物よりも羊を好まれたから、あるいは神は血があるささげものを喜ばれたから、イスラエルが遊牧民であったからなど……。しかし、そもそも神の好みは人間には分かりませんし、イスラエルは初期には遊牧民でしたが、後には定着してからは農耕にも携わっていますから、それも決定的な理由にはなりません。また、カインは地の産物を無造作に選んだが、アベルは群れの中の肥えた羊を選んだからという説明も、聖書の記述からだけでは確かであるとは言えません。

 結局は、その理由は人間にはわからない、それは神の自由によるのだとしか言えないように思われます。神はあるものを受け入れ、あるものを受け入れないという自由をお持ちです。出エジプト記33章19節で神はこのように言われます。「わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。これが神の自由です。創世記25章に書かれているように、神は兄のエサウではなく、弟のヤコブを選ばれました。神は世界の多くの民の中から最も小さく弱い民、奴隷の民であったイスラエルをお選びになりました。それはみな神の自由な選びです。

 使徒パウロはこのような神の自由な選びについて、ローマの信徒への手紙9章11節以下でこのように書いています。【11~16節】(286ページ)。神の自由な選びとは、神のわがままで思いつきの選びなのではなく、神の恵みと憐れみに満ちた選びなのです。神はその自由な選びによって、わたしたち罪びとを選ばれたのです。取るに足りない、小さな欠けの多いこのわたしを選ばれたのです。

 「主はカインとその献げ物に目を留められた」。これは神の恵みと憐れみによる選びです。人間の側には、カインとアベルの側には、選ばれる理由、選ばれなかった理由は一切ありません。わたしたちは神の恵みと憐れみによる選びを、信仰をもって受け入れ、喜びと感謝とをもって、神に選ばれていることを選び取るのです。

 しかし、カインは神に選ばれなかったことを不満の思い、激しく怒って顔を伏せたました。カインは弟アベルのささげ物が神に顧みられたことを妬んで、怒りました。神が弟アベルを選ばれたことに憤りました。神の恵みと憐れみによる自由な選びを拒み、それを怒り、神の決定に逆らいました。ここに、カインの罪があります。カインは弟アベルが神に顧みられ、神に選ばれたことを、共に喜ぶことができませんでした。ここに、カインの罪があります。

神はカインに語りかけられます。【6~7節】。ここで、カインの罪が明らかにされます。神の選びに対する不満、神の決定に対する反逆、これがカインの罪です。彼は神のみ顔を見ることができません。今や、罪がカインを支配しています。

 そして、その罪は兄弟の命の破壊へと進みます。【8節】。神から離れ、神に背き、神なき者となって罪に支配された人間は、自分の感情や欲望のままに暴走するほかありません。そしてついには命の破壊、殺人へと至ります。ヨハネの手紙一3章5節に、「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」と書かれているとおりです。

 野のだれもいない場所で、カインは弟アベルを殺しました。しかし、神はすべてを見ておられます。【9~12節】。神はカインに「あなたの弟アベルはどこにいるのか」と問われます。前に、3章9節で、最初に罪を犯して神のみ前から姿を隠そうとしていたアダムに対して、神は「あなたはどこにいるのか」と問われました。そこでは、人間アダムが神のみ前での責任を問われていました。ここでは、カインは兄弟に対する責任を問われています。人間は、このように、神に対して責任ある者であり、同時に兄弟に対して、隣人に対しても責任ある者なのだということを教えられます。

 けれども、カインは「知らない」と答えました。神に対しての責任を自覚しない人間は、隣人に対する責任を負うこともできません。これが罪によって神と分断され、隣人と分断されてしまった人間の姿です。

 ただお一人、神だけがそのすべての責任を負ってくださいます。神は「お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」と言われます。神は殺されたアベルの血の叫び声を聞かれます。神はアベルの血の責任を負ってくださるのです。ヘブライ人への手紙12章24節にこのように書かれています。「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血」。神は主イエス・キリストの十字架の死によって注がれた汚れのない、尊い血の大いなる叫びを聞いてくださり、主イエス・キリストの血によってわたしたちの罪を贖い、清め、ゆるしてくださったのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、み子の尊い血潮によって、わたしたちのすべての罪を洗い清めてくださ

い。罪ゆるされているわたしたちが神と隣人とに仕えて生きる者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月19日説教「わたしたちの本国は天にある」

2020年4月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    フィリピの信徒への手紙3章17~21節

説教題:「わたしたちの本国は天にある」

 フィリピの信徒への手紙3章17節で、この手紙の著者である使徒パウロは次のように勧めています。【17節】。「自分に倣う者になりなさい」というこの勧めは、いかにも傲慢で、大胆であるように思われます。わたしたちの多くは、「わたしのようになってください」とか「わたしを模範にしてください」と、だれかに勧めるにはあまりにも多くの欠点や未熟さを持っていることを知っています。むしろ、「この点はわたしの真似をしないでください、わたしのようにはならないでください」と言わなければならないことを知っています。でも、パウロはよっぽど自信家で、あるいは立派な人間だと自負して、「みな、わたしに倣え」と言っているのでしょうか。いや、おそらくそうではないと思います。では、どのような意味でパウロはこのように言うのでしょうか。

 また、17節後半では、わたし・パウロに倣えと言うだけでなく、パウロや他の多くの使徒たちをも模範として、彼らに目を向けなさいとも勧めています。おそらくは、彼らのだれもが多かれ少なかれ欠点を持ち、時には失敗をする人間であるには違いないのに、そのような指導者たちをも尊敬し、彼らに倣う者になりなさいと勧めているのです。なぜ、パウロは誤解される恐れがあるような大胆な言い方でそのことを強調するのでしょうか。

 パウロは他の手紙でも、「わたしに倣え」「わたしたちに倣え」と何度か書いていますが、それと並んで、エフェソの信徒への手紙5章1節では「神に倣え」、テサロニケの信徒への手紙一1章6節では「主に倣う」「主キリストに倣う」と言っています。そして、コリントの信徒への手紙一11章1節では、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と、二つを一緒にしています。ここから分かるように、「わたしに倣え」とは、究極的には、「わたしが倣っている主キリストに倣え」ということなのです。主キリストと出会ってから、主キリストに倣って生きているわたし、もはや以前のわたしではなくなったわたし、主キリストによって新しくされているわたし、そのようなわたしに倣え、わたしをそのように変えてくださった主キリストに倣えとパウロは言っているのです。

 わたし・パウロが、十字架につけられた主イエス・キリストに倣って、それまでユダヤ人としてのわたしが誇っていた肉にある特権や誉れや業績のすべてを塵あくたとみなして投げ捨てたわたし、そのわたしに倣え。また、それまで自分の義のわざによって救われようとした道からひるがえって、ただ信仰によって神から義と認められる道へと方向転換をするようにされたわたし。わたし自身の中には救いの可能性が全くなく、ただ主キリストの十字架と復活の福音にこそわたしの救いのすべてがあることを信じているわたし。そのようにして、罪に死んでいたこの体が主キリストの復活の命によって生かされているこのわたし。そのわたしに倣うようになってほしいとパウロは言っているのです。

 パウロがそのことを強調する理由が、次の18節に書かれています。【18節】。3章1節でも、これまで何度も同じことを言ってきたが今また繰り返して言うと書いていましたが、ここでもそれを繰り返します。しかも、ここでは「涙を流しながら」、激しい感情と精いっぱいの思いを込めて、今の時代の不信仰と不従順を嘆き悲しみ、それに必死になって抵抗し、戦っています。

 この世は、いつの時代も、主キリストの十字架に敵対して歩む者が多く、キリスト者はそのような人たちに取り囲まれており、彼らからの様々な攻撃や誘惑やあざけりの対象にされています。パウロの時代には、教会の身近には二つの大きな敵対勢力があったと考えられています。一つは、ユダヤ教の律法主義です。教会の中にもその勢力がはびこっていました。主キリストの十字架の福音を信じる信仰だけでは救いは不十分である、律法を重んじ、イスラエルの古くからの伝統をも守るべきであるとするユダヤ主義的キリスト者が教会を分断させていました。また、霊的グノーシス主義者と言われる人たちは、自分たちには特別な神の知識、グノーシスが与えられ、すでに救いは完成し、完全な人間となった。だから、もうキリストの十字架は必要ないと彼らは考えたのでした。いずれも、主キリストの十字架の福音を軽んじ、否定していました。

 もう一つ、教会の外からの敵対勢力を挙げるとすれば、偶像の神々を礼拝している異教徒たちや、この世の過ぎゆくものを追い求め、肉のパンだけで生きることができると考える神なき人たちも多くおりました。

 しかし、19節で続けてパウロはこう言います。【19節】。パウロは彼らの滅びを悲しんでいます。彼が「今また涙を流しながら」言うのは、教会が受けている彼らからの攻撃と教会の戦いの厳しさを嘆いたり、憂いたりしているからであるよりも、パウロの涙は彼ら神なき者たちの滅びを悲しみ、悼んでいる涙なのです。滅び行かんとするこの世への切なる愛のゆえの涙なのです。この涙をもって、パウロは懸命に、福音宣教の務めにわが身をささげているのです。

 彼ら主キリストの十字架に敵対している歩んでいる人たちが、神なき世界で、罪の中で死と滅びに向かって進むことがないために、パウロは彼らに主キリストの福音を語らずにはおれません。彼らに罪のゆるしと主キリストにある新しい命のみ言葉を語らざるを得ません。彼らこの世のパンだけを追い求め、朽ち果てるに過ぎないもののために生き、死んでいくしかない、神を知らない人たちのために、天から与えられる命のパンと命の水を指し示そうとしているのです。彼らの一人も滅びることがないために、パウロは祈りと涙とをもって、主キリストの十字架の福音を語り続けるのです。それはまた、今の時代に召されているわたしたち一人一人の務めでもあります。

 そこでパウロは、わたしたちの目と心とを、今主キリストがいます天へと向けるのです。天にこそ、わたしたちの本国、国籍があるからです。【20~21節】。主イエスは地上の王国を打ち立てるためのメシアではありません。そうであれば、主イエスは地上にとどまっておられたはずでしょう。使徒言行録1章によれば、十字架につけられ、三日目に復活された主イエスは、40日間にわたって復活のお姿を弟子たちに現わされ、福音を宣べ伝えるようにと命令され、40日目に弟子たちが見ている前で天に昇って行かれました。雲が主イエスのお姿を隠しました。主イエスは雲の向こう側に、父なる神の側におられます。そして、終わりの日に再び地に下って来られ、信じる人々を天に引き上げてくださいます。それが神の国の完成です。わたしたちの信仰の歩みはその神の国の完成を目指しているのです。したがって、この地上のどこかにわたしたちの生きる目標があるのではありません。この地上の何かを追い求め、それを目標にして生きているのでもありません。地上にあるものすべては、時と共に流れ去り、消えゆき、朽ち果てるしかありません。

 天には、罪と死とに勝利され、全地と万物とを支配しておられる勝利者なる主イエス・キリストがおられます。それに対して、わたしたちは今なお地上に住んでいます。けれども、わたしたちの本国、国籍、その市民権は天にあります。主イエス・キリストがご自身の十字架と復活、そして昇天によって、わたしたちにその国籍、市民権をお与えくださったからです。それゆえに、わたしたちキリスト者はこの世では寄留者であり、旅人であると告白するのです。そして、どのような困難な時代にも、どのような試練の時にも、幸いの時にも災いの時にも、地上の事柄に心を奪われるのではなく、かしらを上にあげ、目を天に向け、天に備えられている永遠の命と輝くばかりの栄光を待ち望むのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたのご栄光を仰ぎ見ることができるように、わたしたち

の信仰の目を開いてください。打ちひしがれているわたしたちの心を、あなたに向けて引き上げてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月12日説教「主キリストの復活を信じる」

020年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日・イースター)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「主キリストの復活を信じる」

 きょうの復活日礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章は「復活の章」と呼ばれています。この長い1章には、主イエス・キリストの復活の出来事と、それを信じるわたしたち信仰者に約束されている終わりの日の体の復活について語られています。この章はこの手紙全体の頂点、または中心であると言えます。それはまた、使徒パウロの信仰と神学、キリスト教の神学と教理の頂点、または中心でもあり、さらにはわたしたちキリスト者の信仰と信仰告白の頂点、中心でもあります。

きょうは1~11節のみ言葉を学びますが、その終わりの部分の10節で、パウロの次のように言います。【10節】。「わたしがきょうあるのは、神の恵みによる。すなわち、神が主キリストの十字架と復活によって人類の罪をゆるしてくださった。そして、この取るに足りない、いと小さなものに過ぎないわたしにも、復活の主キリストが現れてくださった。それによって、以前は教会の迫害者であったこのわたしを、今は主キリストの福音を宣べ伝える使徒として働く者に造り変えてくださった。この大きな神の恵みによって、わたしは今あるを得ている」。そのようにパウロは言うのです。

わたしたちがここから知らされる重要なことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じ、復活の主キリストとの出会いを経験することによって、わたしのすべてが変えられ、わたしが神から託された新しい務めに生きるようにされるのだということです。主キリストの十字架と復活を信じる信仰は、古いわたしの死と、新しいわたしの創造という、驚くべき出来事を信じる人の中に、わたしの中に生み出していくのだということです。

したがって、主キリストの十字架と復活の出来事それ自体を、どれほど深く学び、探求していっても、それを信じるということなしには、そして復活の主キリストとの生ける出会いの経験なしでは、だれもその恵みを十分に受け取ることができないということでもあります。復活日の礼拝に招かれているわたしたち一人一人が、神の命のみ言葉を聞き、聖霊によって復活の主キリストとの真実の出会いを経験し、神から差し出されている大きな恵みを共に受け取りたいと願います。

パウロは彼が受けた恵みについて語るに当たって、3節でこのように言います。【3節a】。神から与えられた恵みのもととなっている主キリストの福音はパウロ自身が初めに考え出したものではなく、彼はそれを「自分も受け取ったもの」であると言います。つまり、パウロはその福音を彼が宣教を始める前に初代教会の中で受け継がれてきた福音であると言っています。パウロがコリントの町で福音宣教を開始したのは、第二回世界伝道旅行の後半の紀元51年ころと推測されています。そして、この手紙を書いているのは紀元55年ころと考えられますが、それ以前にすでに初代教会の伝承によって受け継がれてきた福音の内容を、パウロはここで引用しています。

その内容が3節後半からです。【3節b~5節】。この個所を読んですぐに気づくことは、この内容はわたしたちが今日礼拝で告白している「使徒信条」に非常によく似ているということです。「使徒信条」ではこうです。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って……」。これと同じように、ここに引用されている初代教会の信仰告白では、主イエス・キリストの死、葬り、復活、そして顕現(復活された主イエス・キリストがご自身のお姿を弟子たちに現わされたこと)という4つの内容が言い表されています。これが初代教会で最初に作成された信仰告白と考えられ、それがもととなって紀元4世紀ころになって、今日わたしたちが告白している「使徒信条」にまとめられたのであろうと考えられています。

そこできょうは、ここで告白されている4つの内容を、主イエスの死と葬り、復活と顕現の二組に分けて、それぞれの関係を見ながら学んでいきたいと思います。

まず、主イエスの死と葬りは彼がまさにわたしたち人間と全く同じ人間となられたことを語っています。わたしたちのだれもがこの生涯の終わりに死んで墓に葬られるのと同じ道を主イエスが歩まれたことを言い表しています。主イエスは十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られ、確かに死なれ、そしてその死がわたしたち人間の死と全く同じであることの確かなしるしとして、墓に葬られました。主イエスの死と葬りは、彼がまさにわたしたち罪びとたちと同じ人間の一人となられ、わたしたち罪びとたちと同じ道を歩まれ、死に至るまでわたしたちと共にいてくださったことの確かなしるしなのです。

それとともに、3節に「聖書に書いてあるとおり」とあるように、主イエスの死と葬りは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主の死と葬りであったことがここでは告白されています。彼の死と葬りは旧約聖書の預言の成就だったのです。主なる神の永遠の救いのご計画の成就だったのです。

では、その預言は旧約聖書のどの個所を指しているのかは、ここには書かれていませんが、わたしたちは先週の受難週礼拝で聞いたイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)」の歌」を直ちに思い起こします。【イザヤ書53章7~8節】(1150ページ)。続けて9節では僕の死について預言されています。【9節】。主イエスの死と葬りとは、旧約聖書の預言者たちをとおして神が預言されたメシア・キリスト・全世界の救い主の死と葬りだったのです。それゆえに彼の死と葬りとは、死すべきわたしたち人間の救いの出来事だったのです。

それが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」という告白の中に、「わたしたちの罪のために」という言葉が挿入されていることの意味です。主イエスのご生涯のすべて、特にそのご受難と十字架の死、そして葬りは、すべてがわたしたちの罪のためであったのです。わたしたちを罪の奴隷から救い出し、神との和解と交わりへと導き入れる救いのためだったのです。

次の復活についても、それが旧約聖書の成就であったと4節で告白されています。では、メシアの復活について預言されている旧約聖書はどこを指しているのか、それもここには書かれていません。いくつかの個所を挙げることができます。きょうの礼拝で朗読されたヨブ記19章が挙げられます。25節には「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と書かれています。詩編16編10~11節にはこう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」。また、ホセア書6章1~2節ではこう預言されています。わたしたちが礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」です。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々はみ前に生きる」。

主イエスの復活は、主イエスが罪と死とに勝利されたことの確かなしるしです。主イエスは死の墓をふさいでいた大きな石を取り除き、墓から出て、墓を空にされました。墓はもはや人間が最後に行きつく終わりの場所なのではなく、そこから復活の命が始まる場所となったのです。

「復活した」と訳されている箇所は正確には「復活させられている」であり、文法的には受動態の現在完了形です。受動態は全能の父なる神が主イエスを復活させてくださったことを言い表し、現在完了形はそのことがずっと続いていることを言い表しています。主イエスは罪と死の勝利者として、今も生きておられ、主イエスを信じる者たちをご自身の体なる教会に呼び集め、その体の頭として、わたしたち信じる者たちの救い主として、君臨しておられることが告白されているのです。教会の歩みとわたしたち一人一人の信仰の歩みは主イエス・キリストの復活から始まっています。その歩みは、すべて命あるものの歩みがそうであるのと同じに、生まれてから死へと向かっていく歩みであるのではなく、死から命へと向かっていく歩みであり、死に勝利されて復活された主イエス・キリストが新しくお始めくださった歩みであり、終わりの日の永遠の命の完成へと向かっていく歩みです。

主イエスの復活に続いて、復活された主イエスがご自身の姿を弟子たちに現わされた顕現のことが告白されています。ケファは12弟子の一人、また初代教会のリーダーとなったペトロのこと、それから12弟子、また6節からは五百人以上の人たち、それから主イエスの兄弟であるヤコブ、その他の使徒たちが復活の主イエスの顕現を経験した人としてあげられています。これらの顕現の一部については福音書の最後の部分と使徒言行録の初めの個所に描かれていますが、これらの人たちが最初の教会、初代教会の基礎を形成していったことが分かります。教会は主イエス・キリストの復活の証人たちを土台として形成されています。

そして、パウロは8節で復活の顕現を経験した人たちの最後に、自分自身を挙げています。パウロの場合は、厳密な意味での復活の顕現とは違っていると理解しなければなりません。使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、そののち天に昇って行かれたからです。そのあとでは、直接に主イエスの姿を目で見ることはだれにもできません。パウロの場合には、主イエスの復活から数か月後、あるいは数年後に経験したことを言っているのですが、パウロはそれをあえてここでは他の弟子たちと同じ復活の顕現に加えています。彼にとって、主イエスとの出会いの経験は、それほどに強烈で、現実的で、鮮明で、あたかも復活の主イエス・キリストご自身がそのお姿を彼に現わされたように思われたのでした。

そして、復活の主イエス・キリストとの出会いが、教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音を宣べ伝えるための教会の働き人として造り変え、ユダヤ教の律法によって生きていたパウロを、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって生きるパウロに造り変えたのです。主イエス・キリストの復活の命と恵みが、きょうの礼拝に集められたわたしたち一人ひとりにも豊かに与えられるようにと祈り求めましょう。

(執り成しの祈り)

○命の主なる神よ、わたしたちの朽ちいく体に復活の命を注いでください。主イ

エス・キリストの復活の命に満たされて、あなたのご栄光のために仕える者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

4月5日説教「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

2020年4月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヘブライ人への手紙12章1~3節

    イザヤ書53章1~12節

説教題:「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

 教会の暦では、きょうは棕櫚(しゅろ)の主日と言い、今週は受難週です。主イエスの地上での最後の一週間の歩みが始まります。主イエスはこの日に、ロバに乗ってエルサレムに入場され、人々は棕櫚の枝を手に持ってお迎えしたと福音書に書かれていることから、そう呼ばれることになりました。四つの福音書はいずれも全体の半分近くのページで、この最後の一週間の歩みを記録しています。主イエスのお働き、その救いのみわざは、この最後の一週間に集中しています。主イエスのご受難と十字架の死にわたしたちの救いの中心があります。きょうはイザヤ書53章のみ言葉から、主イエスのご受難とわたしたちの救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 イザヤ書には「主の僕(しもべ)の歌」と言われている箇所が4つあります。42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、そしてきょうの個所です。4つ目の「主の僕の歌」は実は52章13節から始まっています。【13節】。他の3つの「主の僕の歌」でもすべてそうですが、神はここで預言されている人物を直接に「わたしの僕」と呼んでおられます。僕とは奴隷のことです。奴隷は当時は主人の所有物と考えられていました。奴隷の命と持ち物、彼の人生のすべては主人のものであり、奴隷は主人のために生き、仕え、働き、そして主人のために死ぬのです。奴隷はそのように生き、死ぬことを彼の最高の喜びとします。彼の全生涯とその歩みのすべてが主人によって守られ、導かれているからです。それゆえに、信仰者が神から「わが僕」と呼ばれることは最高に名誉ある、光栄に満ちたことなのです。

 イザヤ書の4つの「主の僕の歌」では、主なる神によって選ばれて神の所有とされ、神から託された使命を果たし、神の救いのみわざのためにその生涯をささげ尽くす信仰者が描かれています。特にその中の4番目の歌は、「苦難の主の僕の歌」と言われ、彼は自らの苦難の生涯を通して主人である神に仕えるということが強調されています。僕の弱さと貧しさ、苦しみと痛み、そしてまた屈辱と迫害の中で、自分の命を犠牲にし、そのすべてをささげ尽くすことによって、主なる神の救いのみわざを完成することが強調されています。この苦難の主の僕は旧約聖書の中で最もはっきりと、最も強烈に、主イエス・キリストのご生涯を、その苦難と十字架の死を預言するみ言葉であることは言うまでもありません。イザヤが預言したこの苦難の主の僕こそが、わたしたち罪びとのために苦しみを受けられ、十字架につけられ、そして三日目に復活された主イエス・キリストにほかなりません。

 イザヤ書53章を内容から見て5つの部分に分けることができます。第一は1~3節、ここでは僕が貧しさと人々の軽蔑の中で生まれ育ったことが語られ、第二の4~6節では他者のための病と苦痛に耐え忍んだことが、7~8節では苦役の中でその命を奪い取られ、死んだことが、9節では屈辱と共に葬られたことが語られており、そして最後の10節以下では、彼の苦難と死が多くの罪びとたちの罪を贖い、救いとなって神のみ心を成し遂げたことが、信仰告白として語られています。この順序とこの内容をみると、わたしたちはここに『使徒信条』によって告白されている主イエスのご生涯と重なり合うことに気づかされます。「主は……おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につかられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し」という主イエスのご生涯がここに預言されていることに気づかされます。

 では、第一の、主の僕の見栄えのしない貧しさの中での誕生とその軽蔑された生涯についてのみ言葉を読んでみましょう。【1~3節】。1節の「誰が信じえようか」。「誰に示されたことがあろうか」という二つの疑問形は、全くだれもそう信じることができない、だれもそのことに気づくことはないということを強調しています。つまり、神のみわざは人間の目には全く理解できず、予想もできないかたちで現わされるということです。罪びとである人間の目には神の救いのみわざは隠されています。人間はだれも自らの知恵や能力や努力では神を知ることはできません。神に近づくことはできません。神は全く新しい救いの道を備えられました。人間が期待するような力強さや高さや誇りある英雄の姿によってではなく、貧しく低く、否それのみか、だれもが忌み嫌い、避けて通るような屈辱的な道によって、神は救いの恵みを差し出そうとされたのです。

 それは、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章19節以下で書いているように、救いが人間の知恵によらず、ただ十字架の福音を宣教するという愚かな手段によって、信じる人々を救うためであり、だれも神のみ前では誇ることがなく、ただ主イエス・キリストだけを誇るためです。それによって、ユダヤ人だけでなくすべての民が救われるため、また知恵ある者や力ある者たちを辱め、無力な者たちをこそ救うためです。

 わたしたちは福音書に記されている主イエスの誕生の情景を思い起こします。ガリラヤ地方のナザレに住むヨセフとマリア、聖霊によって身ごもったおとめマリア、家畜小屋での誕生、夜の羊飼いたち、そして布にくるまって飼い葉おけの中に寝かされた幼子、それらはみな、そこで起こっている出来事の低さ、貧しさを言い表しています。天におられる主なる神は、わたしたち罪びとたちを救うために、ご自身が徹底して貧しく低くなられ、人間のお姿となられて、この世においでくださったのです。そして、わたしたち罪びとの一人となってくださったのです。そして、すべての人のための救いの道を開かれたのです。

 次の4~6節を読みましょう。【4~6節】。ここでは、主の苦難はわたしたちのための苦難であったことが繰り返して語られています。「わたしたちの」「わたしたちのため」「わたしたちに」「わたしたちは」という言葉が何度も用いられています。主の僕の生涯は徹底してわたしたちのためにあったのです。彼の病と痛みとは本来わたしたちが受けるべき病と痛みであったのに、それを彼がわたしたちに代わって担ってくださったのです。彼が神に打たれ、苦しめられ、傷を負ったのは、わたしたちの罪と背きのためであり、本来わたしたちが受けるべきであった神の裁きを、彼がわたしたちに代わって引き受けてくださったのです。そして、彼が受けた懲らしめ、彼が受けた傷によって、わたしたちに平和が与えられ、神との和解が与えられ、わたしたちはいやされたのです。彼の苦難に満ちた生涯のすべては、わたしたち罪びとたちのためであり、わたしたちの罪のゆるしのためだったのです。神はそのようにして、わたしたちを罪から救おうとされたのです。これが主イエス・キリストのご受難の意味です。

 6節には、主の僕の徹底した他者のための生き方とは対照的な、徹底して自分自身のための生き方をしていたわたしたち人間の罪の姿が描かれています。【6節】。罪の人間はみなおのれ自身に向かっています。自己追及の生き方であり、自己中心的で、自己目的で、自己実現の道を目指しています。自分の楽しみや喜び、満足を追い求める生き方です。しばしば、隣で傷つき苦しむ人を見過ごしにし、時には他の人を踏みつけ、押しのけ、また自己を誇り、他者をねたみ、そのようにしてすべては自分を中心にして、自分を目的にした生き方です。

 けれども、ある人は言うかもしれません。「そのような生き方がなぜ悪い。自分の利益を求めることが悪なのか。人はみな自分のために生きてよいのではないか」と反論するかもしれません。しかし、わたしたちは今、目の前に映し出された苦難の僕の姿を見る時、彼が徹底して他者のために生き、苦しみ、そして砕かれた苦難の僕の姿を見る時に、そのような自己中心的な生き方が裁かれているということにわたしたちは気づかされるのです。わたしたちはみなそのような真実の牧者を失ってさまよっていた失われた羊たちであったのだということに気づかされるのです。

 7~8節では、苦しめられ、虐げられながらも、死に至るまで従順に、しかも沈黙を守り通された苦難の僕の姿が描かれます。【7~8節】。わたしたちはこの個所まで読み進んでくると、これこそがまさにわたしたちの罪のために十字架への道を進み行かれた主イエス・キリスト、そのお方に他ならないとはっきりと知らされます。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、罪人の一人に数えられ、裁かれ、しかもご自身を少しも弁護なさらず、ご自身を救おうとはなさらずに、ポンティオ・ピラトの前で沈黙を貫きとおされ、人々のあざけりの中を、ゴルゴタの丘まで十字架を背負われ、苦しみと恥と無力さの極みの中で死なれた主イエス。十字架の死に至るまで罪びとたちのためにご自身のすべてをささげ尽くされ、死の極みまで罪びとと共にあろうとされた主イエス。この主イエス・キリストこそがわたしたちの罪を贖い、わたしたちの病める魂をいやし、わたしたちに永遠の平安をお与えくださる唯一の救い主であられます。

 9節は主の僕の葬りについて言及されています。【9節】。わたしたちはゴルゴタの丘の上に立つ3本の十字架、二人の犯罪人の真ん中に立っている主イエスの十字架を思い浮かべます。主イエスはまさに罪びとの一人に数えられ、わたしたち罪びとたちのまっただ中に立っておられます。わたしの死のただ中にも主イエスの十字架は立っています。死に赴くわたしと主は共にいてくださいます。

 最後に、10~12節では、僕の苦難と死が神のみ旨であったこと、そして僕の苦難と死が多くの人を義とし、豊かな実りをもたらすことが告白されています。ここでは、主イエスの復活が暗示されているように思われます。主イエスの復活は罪と死に対する勝利のしるしです。12節にこのように書かれています。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪びとの一人に数えられたからだ」。主の僕は何かの理想のために命をかけた英雄ではありません。むしろ、自らの罪ゆえに死にしか値しなかったわたしたち罪びとたちのために、ご自身のすべてを投げ捨てられ、ご自身の命のすべてを注ぎつくして、消耗しつくすまでにして、わたしたちを愛されたのです。わたしたちはこの苦難の主の僕であられる主イエス・キリストによって救われているのです。「わたしたちの信仰の創始者であられ、また完成者であられる主イエス・キリスト」を仰ぎ見ながら、信仰の馳せ場を、忍耐強く走りぬいていきましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子の十字架のお苦しみを思い、またその愛と救いの恵みを覚え、

心から感謝いたします。どうか、この受難週のわたしたち一人一人の歩みをお導きください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よどうか憐れんでください。全世界の

民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。