12月29日 説教「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

2019年12月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章18~25節

    ローマの信徒への手紙12章9~25節

説教題:「神と共に生きる人間、人と共に生きる人間」

 創世記には1章1節から2章4節前半までと、2章4節後半から25節までの二つの天地創造の記録があるということを、わたしたちは前回確認しました。神の創造のみわざは一つですが、それを多少違った二つの側面から描いていると言えます。第一の創造の記録と第二のそれとは、表現の仕方や強調点が違っています。神学的立場の違いもあります。しかし、そこで語られている中心的なメッセージは一致しています。神の一つの天地創造と人間創造のみわざが、このように二つの側面から語られることによって、わたしたちはより一層神のみわざとお働きの深さや広さ、偉大さを教えられます。

創世記1章26、27節の第一の人間創造のみ言葉によると、神は人間をご自身にかたどって、ご自身の姿に似せて、男と女とに創造されました。人間は他の生き物とは違って、ただ人間だけが、神に似ているものとして、神に近い存在として創造されました。人間は神のパートナーとして、神と共に生きるべきものとして、神を礼拝し、神のみ言葉を聞いて生きるものとして創造されています。

 そのことは、2章4節以下の第二の人間創造のみ言葉によって、より一層明らかにされます。神は人間アダムに命の息を吹き入れて生きる者とし、エデンの園(すなわち喜びの園)に住まわせ、生きるに必要なすべてのものをお与えになり、「園のどの木からでも自由に取って食べよ」とお命じになりました。人間はこの神のみ言葉を信じて神に聞き従うときに、最大限の自由と豊かな命を与えられ、神と共に永遠に生きることがゆるされます。

 二つの人間創造のみ言葉に共通しているテーマのもう一つは、神と共に生きるべき人間はまた同時に人間と共に生きるべき存在でもあるということです。1章27節で「男と女に創造された」と書かれているのはそのことを意味しています。神は人間を一人だけで創造されませんでした。「男と女」という対で、ペアで創造されました。しかも、男ともう一人の男とか、女ともう一人の女ではなく、男と女という、違った存在である二人が一組となって、連帯して、共に生きるべきものとして創造されました。

 きょうの礼拝で朗読されたもう一つの人間創造のみ言葉である2章18節以下には、よりはっきりと、より具体的に、共に生きるべき人間アダムのパートナーとして神が女エバを創造されたことが語られています。では、18節から読んでいきましょう。【18節】。「人が独りでいるのは良くない」と神は言われます。人は一人で生きるべきではない、生きることはできない、人は孤独であるべきではない。それは人間を創造された神の強い意志であり、み心なのです。

 「彼に合う」と訳されているヘブライ語は直訳すれば「彼の前にある者として、彼に向か合っている」という意味です。20世紀のドイツの神学者カール・バルトはこれを「差し向かいである者として」と訳しました。人間は一人だけで生きるべきではなく、他の人間と向かい合って、顔と顔とを向かい合わせ、心と心とを向かい合わせ、共に、連帯的人間として生きるべきである、それが創造者なる神のみ心であり、神は人間をそのような者として創造されたのです。

 人間は一人では生きられない、孤独であってはならないということは、わたしたち人間の共通した思い、共通した認識でもあります。だれでも、孤独であることの寂しさというものを経験します。そのつらさを知っています。今の時代は特に人間関係が破壊し、多くの人が孤立と孤独を強いられています。そのために傷つき、生きる希望や喜びを失いかけている人たちも多くいます。自殺や殺人、暴力などの背景には、だれからも愛されず、理解されない孤独な人間の姿が潜んでいるように思われます。もし、だれか一人でもその人を真剣に理解してあげ、愛していたなら、その人と顔と顔とを向かい合わせて、差し向かいである人が一人でもいたならば、それらの悲惨な事件のいくつかは防げたに違いありません。人は孤独であってはいけないということはわたしたちすべての切なる思いであるのですが、それ以上に、わたしたちの創造主なる神のみ心であり、強い意志であるということをここから教えられます。

 神はわたしたち人間が神と差し向かいで生きる者となるように望んでおられます。また、わたしたち人間が互いに差し向かいで生き、連帯的人間となるように望んでおられます。そのために、神はご自身のみ子・主イエス・キリストをわたしたちのもとにお送りくださいました。わたしたちと同じ人間のお姿で、わたしたち罪びとたちと連帯してくださり、しかも死に至るまで徹底してわたしたち罪びとたちと連帯してくださいました。「その名はインマヌエル、神我らと共にいます」というクリスマスの福音をわたしたちは先週聞きました。神はわたしたち罪びとたちと永遠に共にいてくださいます。神が我らと共にいますゆえに、我らもまた共にいることができるのです。それゆえに、だれも孤独ではありません。「人が一人でいるのは良くない」と言われた神のみ心は、天地創造の初めから、降誕節に至るまで、さらに主イエス・キリストの十字架の死に至るまで、そして終わりの日のみ国が完成されるときまで、永遠に貫かれているのです。

 「助ける者」とはここでは具体的には男アダムに対する女エバのことです。「助ける者」という翻訳は誤解される恐れがあります。だれかの補助的な存在と理解されやすいからです。しかし、ここで言う助ける者とは、忙しいときの助っ人のことではありません。男アダムが自分の仕事や何らかの目的をうまくやり遂げるために、あったら便利というような補助のことではありません。むしろ、それなしでは男が人間であることができない相手、あるいは、それなしでは女が人間であることができない相手としての、互いに相手をなくてならない存在として必要とするような、そのような関係、すぐ前の言葉で言うならば、お互いが差し向かいである者たちとして、顔と顔とを合わせて向かい合う相手のことです。それこそが、「人が独りでいるのは良くない」と言われた神のみ心に適った男アダムと女エバの関係です。英語の翻訳では多くはパートナーという言葉が用いられています。

 「助ける者」が必要だということは、男アダムの側からの要求ではなく、神のご配慮によることです。神がアダムをエデンの園に置かれたことのみ心にそってさらに深く探っていくならば、「彼に合う助ける者」とは、共にエデンの園で神のみ言葉を聞き、神から与えられている命の恵みを共に分かち合い、共に喜んで神にお仕えしていくためのパートナー、同伴者ということになるでしょう。わたしたちはここから、男と女との正しい連帯的関係について、その頂点としての結婚のあり方について、あるいは一人の人間と一人の人間が共に生きるという課題について、さらには教会生活での兄弟姉妹の交わりについても考えていく基本を見いだすことができるのではないでしょうか。

 さて、神は人間アダムにふさわしい助ける者をお与えになるために、まず野や空の生き物をお造りになったと19節から書かれています。1章に描かれていた第一の創造の記録では、これらの生き物が造られたのちに、最後に人間が創造されたという順序になっていましたが、第二の創造の記録では人間の後に他の生き物が造られます。その順序は違っていますが、そこで語られている中心的なテーマは一致しています。すなわち、人間はそれらのすべての生き物たちの頂点にあり、中心にあるということです。きょうの個所では人がそれらの生き物に名前を付けるということによってそのことが表現されています。名前を付けるということはそれらに対して主権を行使すること、それらを治め、管理し、守るということを意味しています。1章26節、28節以下で語られていたことと同じ意味です。

 けれども、それらの生き物を人が思いのままに支配し、管理できても、それが人の孤独を満たす助ける者とはなり得なかったと20節に書かれています。それらは人間と差し向かいの関係を作ることはできません。そこには、呼びかけたり支配したりすることはあっても、応答がないからです。互いの人格的関係がないからです。本当の意味で差し向かいであるためには、一個の人格と一個の人格とが共に独立した存在として出会い、対話し、応答しあうことが必要です。そのようにして、人は孤立と孤独から解放され、連体的人間となります。しかし、人間以外の生き物とはそのような関係を築くことができなかったと聖書は言います。【20節】。

 続けて、【21~24節】。神が人を深い眠りに落とされたのは、これが神の奇跡のみわざであることの強調です。人はこれには全く関与していませんし、関与することも傍観者であることもできません。ここでも、これまでの神の創造のみわざが無から有を呼び出だす創造であり、死から命を生み出す創造であることと同じ内容が語られています。神はみ言葉によってすべてのものを創造されました。神はまた、土のちりから人を創造され、これに命の息を吹き入れて生きる者とされました。男アダムのあばら骨から女エバを創造されたのも同じような無からの創造、死から命の創造です。

 ただ、ここで強調されているもう一つのことは、男アダムと女エバは同じ骨、同じ肉によって造られているのであり、両者は一体となるべきであり、連体的人間である、それが神のみ心だということです。そのことが、「主なる神が彼女を人のところへ連れて来られた」という言葉によって強調されています。男アダムと女エバとが真実の出会いをし、共にふさわしい助け手となり、連体的人間となって、一体となるのは、神のお導きなのです。神が二人を出会わせるのです。

 23節には、7節と同じようなヘブライ語の語呂合わせがあります。女を意味するイシャーと男を意味するイシュとは語源は違っていますが発音が似ていることから、イスラエルの人々は男イシュと発音する時はいつでも女イシャーを思い起こし、イシュなしにはイシャーはなく、イシャーなしにはイシュがないということを意識しました。そのようにして、すべての人は隣人と共にあることによって真実の差し向かいの関係となり、連体的人間となることを意識しました。

 【24節】。エフェソの信徒への手紙5章31、32節ではこの創世記のみ言葉は主キリストと教会との一体を語っていると理解しています。わたしたちが主キリストの体なる教会の中に植えこまれることによって、主キリストと一体にされ、またわたしたちも一体とされるのです。

(祈り)

12月22日(日)クリスマス礼拝説教

「世界史の中でのクリスマス、わたしの中でのクリスマス」

2019年12月22日(日) 秋田教会クリスマス礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章1~14節

説教題:「世界史の中でのクリスマス、わたしの中でのクリスマス」

 ルカによる福音書2章では、主イエスの誕生を世界史との関連で伝えています。当時世界を支配していたローマ皇帝アウグストゥスの名前と、イスラエルが属していたシリア州の総督キリニウスの名前、そして、ローマ皇帝の命令に従って住民登録をするためにダビデの生まれ故郷ユダヤのベツレヘムに旅立ったヨセフとマリアのことが語られています。マリアはベツレヘムの滞在中に月が満ちて男の子を生みました。その子こそが、全世界の人たちがその誕生をお祝いしているクリスマスの主人公、全世界のすべての人の唯一の救い主であられる主イエス・キリストです。これが、ルカ福音書が伝えるクリスマスの出来事です。

 このように、主イエスの出来事を歴史との関連の中で語ることがルカ福音書の大きな特色です。3章1節では、最初のクリスマスからおよそ30年後、洗礼者ヨハネが荒れ野で救い主・主イエスの到来が近いことを宣べ伝え始めた時の歴史的背景が語られています。ルカ福音書はこのように主イエスの出来事を世界史の中に位置づけることによって、主イエスが歴史上の人物であり、福音書に書かれている主イエスの出来事、誕生とそのご生涯、そして十字架の死と三日目の復活、その救いのみわざのすべてが、架空の作り話ではなく、確かな歴史的な事実であることをわたしたちに強く訴えているのです。

 それだけではありません。聖書が主イエスの出来事を世界の歴史の中に位置づけて語るさらに重要な意味は、主イエスの誕生とその救いのみわざが世界の歴史に大きな影響を与えているからです。主イエスは世界の歴史の中に入って来られ、その歴史を動かし、歴史を支配され、全世界の王の王となられ、すべての人の救い主となられるということを聖書は語っているのです。

皆さんは西暦紀元という年の数え方が主イエスの誕生を基準にしていることをご存じと思います。紀元6世紀ころ、主イエスが誕生した年の翌年から紀元1年と数える方法が考えだされ、紀元15世紀ころにはその数え方が西洋諸国に広まったと言われています。紀元を英語でADと言い表しますが、これはラテン語のAnno Dominiの略です。Anno Dominiは「主の年」という意味です。主イエスが生まれた年から世界の年を数え始めたのです。主イエスの誕生によって世界の歴史が新しく始まったからです。主イエスの誕生によって神の救いの恵みが全世界のすべての人に接近してきたのです。神の救いの恵みが今やわたしたちの目の前に差し出されているのです。主イエスがこの世においでになったこの時こそが、神の恵みの時、神の救いの時なのです。

このクリスマスの時に、神は世界のただ中に入ってきてくださいます。わたしの目の前に、救いの恵みをもって立っておられます。世界の主としてこの世界においでくださった主イエスは、ほかでもないこのわたしの救い主として、クリスマスの豊かな恵みと祝福とをもって、わたしのところにもおいでくださいます。真実の悔い改めと信仰とをもって、主イエスをわたしの救い主として迎え入れましょう。それがわたしの中でのクリスマスです。世界の中で起こるクリスマスの出来事は確かにわたしの中でも起こります。

では、ルカ福音書が主イエスの誕生を世界史との関連で語っていることの意味について、3つの視点からさらに深く学んでいくことにしましょう。第一に、主イエスの誕生とそのご生涯の出来事が歴史上の事実であることを証明しているという点をすでにあげましたが、2章1、2節と3章1節とを比較してみますと世界とイスラエルの支配者の名前がみな違っていることに気づきます。2章は主イエスの誕生の時、3章はそれから30年後、主イエスが年およそ30歳で福音宣教のお働きを開始された時(3章23節参照)、その30年間に世界の支配者はみな変わりました。世界の支配者ローマ皇帝もイスラエルの国の指導者も変わっていきます。時代は変わり、この世の権力者たちも変わります。しかし、その中で、神の救いのご計画はいよいよ前進していくのだということをわたしたちはここから知らされます。主イエス誕生の時から、洗礼者ヨハネの登場へ、そして主イエスご自身の福音宣教の開始へと、神の救いのみわざは時代の変化の中でも確かに続けられ、前進していくのです。たとえ時代がどのように変化しようとも、この世の支配者が次々と立っては倒れていく中にあって、主イエス・キリストによる神の救いのみわざは決して変わることなく、滞ることなく、この世界の歴史を貫いて続けられていくのです。主イエス・キリストの救いのみわざは今もなお世界の教会を通して全世界の至る所で、この秋田の町で、続けられています。

次に、主イエスの誕生と救いのみわざは世界の歴史とどのように関連しているのでしょうか。ルカ福音書2章の少し先の個所を読んでみましょう。【10~11節】。この日にお生まれになった主メシアである主イエスは民全体に大きな喜びを与えると言われています。この民とは、旧約聖書の民イスラエルを指しています。旧約聖書は最初のクリスマス以前の、すなわち主イエスが誕生される前の神の救いのみわざについて記している書です。神は全世界の民の中からイスラエルをお選びになり、この民を通して救いのみわざをなさいました。そして、この民と契約を結ばれ、この民の中から全世界を罪から救い出されるメシア・救い主を遣わすと約束なさいました。イスラエルは2千年近くの間、神の約束の成就を待ち望み、メシア・救い主の到来を信仰をもって待ち続けてきました。

クリスマスはイスラエルの民のこの待望の時が終わり、神の約束が成就される時です。それゆえに、それは大きな喜びの時です。この世にあるどんな喜びよりもはるかに大きい、天の神から与えられる喜びです。永遠の喜びです。それゆえにまた、それはイスラエルの民だけでなく、全世界のすべての民にとっての大きな喜びでもあるのです。クリスマスにはこの大きな喜びが世界中に満ち溢れます。世界中の人々がさまざまなかたちでクリスマスをお祝いするのも、この天の神からの大きな、そして永遠の喜びの照り返しなのです。

クリスマスの日に誕生された主イエスは11節で「救い主」と呼ばれています。救い主とは、わたしたち人間を罪から救う唯一の主であるという意味です。人間は最初に創造されたアダムとエヴァ以来、すべての人間は神から離れ、神に背き、神なき世界で罪と死と滅びへと向かっていました。しかし今や、神はこの罪に覆われた暗闇の世界をまことの光で照らし、わたしたちを罪から救い出すために主イエス・キリストを世にお送りくださったのです。そして、主イエス・キリストの十字架の死によってわたしたちを罪の奴隷から贖いだし、救い出してくださったのです。主イエス・キリストによってわたしたちは神との命の交わりを回復され、神の子どもたちとされ、神の国の民とされています。これが全世界のすべての人々に与えられているクリスマスの大きな喜びの内容です。

第三に、ルカ福音書が世界史の中でのクリスマスを強調している意義の最も重要な点について、きょうのみ言葉から聞き取っていきましょう。きょうの聖書のみ言葉から受けるわたしたちの印象は、ここで歴史を支配し、人々を動かしているのはローマ皇帝アウグストゥスであるように見えます。彼は世界に勅令を発し、自分の権力と支配力を帝国内のあらゆる地にいきわたらせるために、また税金を効率よく取り立てるために、住民登録をするように命じます。人々は戸籍登録をしてある地まで赴き、手続きをしなければなりません。

ヨセフは妻マリアと共にガリラヤのナザレから120キロメートル余り南のエルサレム郊外のベツレヘムまで、登録するために旅立っていきました。ヨセフはダビデ家の家系に属していたので、ダビデの出身地ベツレヘムに戸籍があったからです。この時マリアは身重でした。二人にとってこの旅はどんなにか困難だったことでしょう。けれども、ローマ皇帝の命令に逆らうことはだれにもできません。世界の支配者であるローマ皇帝の前では、ヨセフとマリアは大海に浮かぶ木の葉のように、波間に漂うほかありません。

しかし、今クリスマスを祝っているわたしたちは知っています。そのようなごくごく小さな存在でしかないヨセフとマリアこそが、ここでは神の偉大なる約束の担い手をして選ばれているのであり、神の救いの歴史を全世界の中で新しくお始めになる救い主の両親となるべく定められているのだということを。取るに足りない貧しく年若い二人、歴史の中で翻弄されるしかないような二人、ヨセフとマリア、彼らこそが、全世界のすべての人々に伝えられるクリスマスの大きな喜びの源である主イエスの誕生を、自らの身に経験するために神に選ばれているのです。

神が今新たにお始めになる救いの歴史においては、ローマ皇帝アウグストゥスがその歴史の主なのではありません。クリスマスの主なのではありません。貧しく小さなヨセフとマリアからお生まれになり、家畜小屋で飼い葉おけの中に布にくるまれて寝かされている幼な子主イエスこそがクリスマスの主であられ、聖書全体の主であられ、全世界の救い主であられ、そしてわたしたち一人一人の救い主なのです。

ここでは、1章46節以下の「マリアの賛歌」で歌われていた大きな逆転が世界史の中で起こっています。その個所を読んでみましょう。【48~54節】。クリスマスにはこのような大きな逆転が世界の歴史の中で、またわたしたちの人生の中で起こるのです。この日に、貧しく、低く、みすぼらしいお姿で誕生された主イエス・キリストが全世界の救い主となられるからです。世界の歴史を動かし、それに意味を与えているのは、偉大な権力者ではなく、財を蓄えた富める者でもなく、知恵を誇る高慢な者でもありません。ヨセフとマリアのように、神の約束のみ言葉を聞きつつ、そのみ言葉の成就の時を待ち望みながら、従順に神が定められた道を歩む人たちこそが、世界の歴史の本当の担い手なのであり、そして彼らからお生まれになった主イエス・キリストこそが全世界の主、教会の主、そしてわたしの主なのです。

このクリスマスの福音を聞いたわたしの中でもあの大きな逆転が起こります。神がこの小さな取るに足りないわたしを顧みてくださり、わたしの罪のためにご自身のみ子・主イエス・キリストを十字架に引き渡されるほどにわたしを愛してくださったことを知らされ、わたしの罪と高慢と欲望とを打ち砕いてくださったゆえに、わたしがこれからは喜んで神と隣人とに仕える人に造り変えられ、この世の過ぎ去り朽ちていくものを追い求めるのではなく、天にある永遠なるものを求めて生きる人とされる、そのような大きな逆転がわたしの中にも起きるのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、全世界のすべての人たちにクリスマスの大きな喜びと豊かな恵み、祝福が届けられますように。

〇神よ、この世界を顧みてください。あなたのみ心に背いて、滅びに向かうことがありませんように。どのように小さな命も、傷つき、病んでいる命も、あなたのみ子によって与えられた大きな愛から離れることがありませんように。

〇主なる神よ、あなたの義と平和とが日本とアジアと全世界のすべての民に与えられますように。

 主イエス・キリストみ名によって。アーメン。

12月15日 説教「ザカリアの賛歌―解放の預言」

2019年12月15日(日) 秋田教会待降節第三主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ザカリアの賛歌―解放の預言」

 ルカによる福音書1章68節以下は「ザカリアの賛歌」と言われます。46節以下の「マリアの賛歌」が、その最初の言葉「あがめる」のラテン語からマグニフィカートと呼ばれるのに対して、ザカリアの賛歌は「ほめたたえる」のラテン語でベネディクトゥスと呼ばれています。この二つの賛歌にはいくつもの共通点があります。きょうはその共通点に注目しながら、ザカリアの賛歌で歌われている福音の恵みを聞き取っていきましょう。

 共通点の第一は、マリアもザカリアも主なる神をあがめ、ほめたたえているということです。【67~68節a】。マリアの場合は【46~47節】。二人とも神の恵みと奇跡によって子どもが与えられ、親になろうとしており、また親になったからです。マリアの場合には、まだ婚約中であり、ヨセフと一緒になる前に、神の霊、聖霊によって神のみ子を宿すという約束を与えられました。ガリラヤ地方の貧しいおとめが神に選ばれて、神のみ子の母になろうとしているのです。マリアはその恵みの大きさに驚きつつ、喜びの声をあげています。

 ザカリアの場合には、長い間子どもが授からず、年老いて全くその可能性が消えかかっていた時に、神の恵みと奇跡によって妻エリサベトが身ごもり、今、月満ちて男の子が誕生し、洗礼者ヨハネが生まれました。彼は最初、神の約束のみ言葉を聞いた時にはそれが信じられず、疑ったために、神の裁きを受けて口がきけなくされましたが、今は、自らの目で子どもの誕生を見たゆえに、疑うことができません。神はザカリアの疑いと不信仰を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのご計画を進めてくださいました。そして、ザカリアは神によって不信仰を取り除かれ、今や信じる人とされ、、神にゆるされて口を開き、神を賛美し始めました。彼の口が開かれたのは、この賛美の歌を歌うためです。主なる神をほめたたえるためです。

 このように、待降節の中を歩んでいるマリアとザカリアは、すでにここにおいて、来るべき降誕節、クリスマスの大きな喜びと祝福に満たされながら、主なる救いの神を賛美しているのです。

 第二の共通点は、いずれの賛歌もそれぞれの家庭内で起こった出来事を感謝して歌っているのですが、その内容は神に選ばれたイスラエルの民全体の救いについて、いや、それのみでなく全世界のすべての民の救いについて歌っているということです。マリアの賛歌では、主なる神が貧しく低いマリアを顧みてくださり、全世界の婦人たちの中で最も幸いな婦人としてくださったこと、全世界の中で高いところにいた者がすべて低くされ、低いところにいた者がすべて高くされるという大逆転が神によって引き起こされるであろうということ、そしてそれによって、神がアブラハムとその子孫イスラエルの民にお与えになった約束を成就してくださったということをマリアは歌っています。

 ザカリアの賛歌では、前半で、主なる神がイスラエルの解放と救いをお与えになったことを賛美し、感謝しています。【68節b~75節】。マリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の大逆転のみわざ」が歌われているとまとめることができるでしょう。ザカリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の解放と救いのみわざ」が歌われていると言ってよいでしょう。そして、ザカリアの賛歌のもう一つの大きな特徴は、ここでザカリアは自分たち夫婦に与えられた男の子、すなわち洗礼者ヨハネのことを歌っていると予想されますが、しかしその内容の多くは、ヨハネのあとにおいでになるメシア・救い主・主イエス・キリストのことを歌っているということです。ヨハネについてはっきりと語っている箇所は76節だけであり、他のすべてはヨハネが預言し、その道を整えた後においでになる降誕節の主・イエス・キリストについてであると言ってよいでしょう。ザカリアの賛歌では主イエス・キリストによる解放と救いのみわざが賛美され、預言されているのです。

 69節の「僕ダビデの家から起こされた」とは、二つの意味を含みます。一つは、神がダビデにお与えになった契約、いわゆる「ダビデ契約」が主イエスによって成就されるということです。「ダビデ契約」とはサムエル記下7章で神が預言者ナタンによってダビデに語られた約束です。その個所をご一緒に読んでみましょう。【サムエル記下7章12~13節】(490ページ)。神はこの約束を主イエス・キリストによって成就され、永遠に神が支配される王国である神の国を来たらせてくださいます。しかも、68節に「主はその民を訪れて」とあるように、天におられる主なる神ご自身が人の子となられて、イスラエルの民の中に、この世界に、おいでになって、ダビデとの契約を成就してくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったのです。72、73節でもこのように告白されています。【72~73節a】。73節では、創世記12章から何度も繰り返して書かれている、いわゆる「アブラハム契約」の成就が語られています。神は天地創造以来の、また族長アブラハム以来の救いのご計画を、主イエス・キリストによって成就されるのです。

 もう一つの意味は、主イエスが肉のつながりによれば、ダビデ王家の子孫だということです。1章27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれていました。使徒パウロもローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と告白しています。ダビデ王家は、実際には、紀元前587年のエルサレム陥落とユダ王国滅亡によって、イスラエルの王家としては歴史から消えてしまいましたが、しかし神はご自身の契約を決してお忘れにならず、ダビデの切り株から、ひとたび死んだようなダビデの家から、メシア・救い主・主イエスを誕生させてくださったのです。神の解放と救いのみわざはイスラエルとダビデ王家の滅亡の歴史をはるかに超えて、全世界の中で前進していくのです。

 70節では、メシア・救い主なる主イエスの誕生は旧約聖書の預言者たちによって預言されていたことの成就であることが語られています。わたしたちは旧約聖書は預言の書、新約聖書は成就の書と表現します。旧約聖書はその全体が、創世記からマラキ書に至るまで全39巻すべてにおいて、来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストを預言し、その到来を待ち望んでいる書であると告白しています。神のみ言葉は何一つ空しく語られることはありません。そのすべてが成就するのです。

 71節と74節に、「敵からの救い」と言われています。敵からの救いとはどのようなことをいうのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は多くの敵対する国によって攻撃され、苦しめられてきたことが分かります。エジプトがまず挙げられます。アブラハムの子孫はエジプトで400年の間、寄留の民として、時に奴隷のように扱われていました。約束の地カナンに定着してからは、ペリシテ、シリア、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、そしてその当時はローマの諸国によって支配され、苦難の歴史を歩んできました。敵とは、そのようなイスラエルを苦しめた諸国を指すとも考えられますが、しかし本当のイスラエルの敵はそうではありません。もしイスラエルの民が主なる神を信頼し、神のみ言葉を信じているならば、それらの敵はイスラエルに何をなし得るでしょうか。神は彼らをすべての敵の手から守り、救い、ご自分の民として選ばれたイスラエルとの契約を必ずや実行されるであろうということを、神は預言者たちによって繰り返して語られたのではなかったでしょうか。イスラエルの最も力強い味方として、いつの時にも主なる神が与えられていたのではなかったでしょうか。神がイスラエルの味方であるならば、諸国はどれほど強い武器を持っていようとも、イスラエルの敵にはなり得ません。

 イスラエルの敵とは、彼らの不信仰であり、神に対する背反であり、偶像礼拝であり、罪であると言うべきです。それこそが、イスラエルを滅びへと導く最も恐ろしい敵なのです。したがって、敵の手からの救いとは、罪からの救いに他なりません。77節以下の後半でそのことがはっきりと語られます。

 76節は、直接洗礼者ヨハネについて語られている箇所です。【76節】。これはすでに1章14節以下で語られていた内容と一致しています。ザカリアに生まれる洗礼者ヨハネは来るべきメシア・主イエス・キリストを預言し、指し示し、主イエスのために仕えます。そこにこそ、ヨハネの人間としての偉大さがあります。ヨハネは旧約聖書の預言者の列の最後に立ち、最も近いところでメシア・キリストを預言し、また最も近いところで来たりたもうたメシア・キリストを証しし、このメシアのために彼の生涯をささげてお仕えするのです。

 77節以下の後半でも、主イエス・キリストのことが語られます。しかも、イスラエルという一つの民族の解放と救いにとどまらず、全世界のすべての人々の解放と救いを成就される主イエス・キリストが語られます。【77~79節】。71節と74節で言われていた「敵の手からの救い」が「罪の赦しによる救い」であると、ここではっきりと語られています。神を信じない罪、神のみ言葉に背く罪、神ならぬ偶像を礼拝する罪、神と隣人を愛することができず自分の欲望のままに生きることしかできない罪、主イエス・キリストは十字架の死によって全人類をその罪から救ってくださる救い主であられます。

 救いは罪のゆるしとして与えられます。罪びと自らがその罪を何らかの方法で償うとか、自分で精算しなければならないのではありません。また、人間は自らの罪を自分で精算してゼロにすることなど決してできません。神がみ子主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪をもはや数えることをせず、わたしたちを罪なき者として見てくださるのです。それに代わって、罪なききみ子に罪を負わせ、罪の厳しい裁きを負わせることによって、わたしたちの罪を消し去ってくださったのです。主イエス・キリストが十字架で流された尊い血潮によってわたしたちの罪を洗い流してくださったのです。

 79節はイザヤ書9章の預言の成就と考えられます。その個所を読んでみましょう。【イザヤ書9章1~6節】(1073ページ)。イザヤは全世界を覆っている暗闇を見ています。死に覆われている罪のこの世界の暗黒を見ています。しかし、今や、主イエス・キリストの誕生によって、「暗闇と死の陰に座している」全世界のすべての人々を照らすまことの光が差し込んでくるのを、イザヤは主イエス誕生の500年以上も前に預言し、それを見ています。今や、その預言が成就する時が来ました。わたしたちは次週の主の日に、その日を祝うクリスマス礼拝をささげます。

 最後に、マリアの賛歌とザカリアの賛歌のもう一つの共通点を見ておきましょう。それは、神の憐れみが強調されていることです。マリアの賛歌では、【50節】、【54節】、そして【58節】。ザカリアの賛歌では、【72節】、【78節】。神の憐れみは、紀元前1800ころのイスラエルの族長時代から、紀元前1000年ころのダビデ王の時代にも、そして紀元1世紀のザカリアの時代にも、変わることはありませんでした。神は彼らイスラエルの民と結ばれた契約を決してお忘れにならず、彼らの時代が終わっても、イスラエル王国が滅亡したのちも、その契約を覚えられ、そして主イエス・キリストによって成就されたのです。神の憐れみはイスラエルの歴史を貫き、人間の罪と背きの歴史を貫いて永遠に変わることなく、救いのみわざを成し遂げていくのです。そして、神の憐れみは暗黒と死の谷に住むわたしたちすべての罪びとたちを照らすまことの光としてこの世に現れ、さらには、この取るに足りないわたしにまで及び、わたしに信仰を与え、罪から救い、神の民としました。神の憐れみは罪の中に信仰を生み出していく力であり、死と滅びの中にまことの命を生み出していく力なのです。

(祈り)

12月8日説教「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

2019年12月8日(日) 秋田教会待降節第二主日礼拝

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

 フィリピの信徒への手紙2章5節にこのように書かれています。【5節】。この言葉が前半の1~4節と後半の6節以下とを結んでいます。きょうはまずこの結びつきについて考えてみましょう。1~4節では、使徒パウロは教会の一致と謙遜と互いに仕え合うことを勧めています。そして、6節以下では、主イエス・キリストがご自身を低くされ、僕(しもべ)のようになられ、父なる神のみ前で謙遜に、十字架の死に至るまで従順にお仕えになったことが語られています。この二つのことはどのように結びついているのでしょうか。

 一つは、主キリストの生き方がわたしたちキリスト者の生き方の模範、手本として示されているという理解です。これは、パウロが他の個所では「主キリストにならいなさい」と勧めていることと同じです。それとともに、ここではさらに深いつながりがあるように思われます。主キリストがそのようなキリスト者の生き方を可能にされた、そのような生き方の道を開かれたということも含まれています。つまり、主キリストが十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されたことによって、主キリストがわたしたちのために救いの道を開いてくださり、わたしたちキリスト者がその道へと招き入れられているということです。わたしたちキリスト者が愛の交わりによって一致を保ち、互いに謙遜と尊敬とをもって仕え合うことができるのは、主キリストの十字架の死によって罪ゆるされ、父なる神との豊な交わりの中に置かれているからなのです。キリスト者は主キリストによって開かれ、備えられた新しい存在、新しい生き方へと招き入れられているのです。

 そこで、パウロは6節以下で、主イエス・キリストの十字架について語りだします。そこに、わたしたちキリスト者の生き方の出発点、基礎、土台、そして目標があるからです。

 6節以下は「キリスト賛歌」と言われます。この賛歌は整った詩のような形式になっており、パウロの創作と言うよりは、パウロ以前の初代教会の礼拝の中で伝承されたものではないかと考えられています。全体は2部に分かれ、6~8節では、神と同じ高さにおられた主キリストが僕(奴隷)の低さにまで下られたことが語られています。これを「キリストの謙卑(けんぴ)」と言います。9~11節では、神が十字架で死なれた主キリストを高く引き上げられ、全世界、全宇宙の主とされたことが語られています。これを「キリストの高挙」と言います。この主キリストの謙卑と高挙がわたしたちキリスト者の新しい存在と生き方とを開くのです。

 では【6~7節a】。「主キリストは神の身分であったが、僕(奴隷)と同じ身分になられ、人間と同じ姿になられた」。ここでは、最も高きにおられた方が最も低きに降りてこられたと言われています。これが、わたしたちが間もなく迎えようとしているクリスマスの出来事、主イエスのご降誕の出来事の意味です。「神の身分」とは次の「神と等しい者」と同じ内容を語っています。主キリストは神と本質を同じくする神のみ子であり、世界が創造される前から神と共におられた、聖なる、永遠なる方です。

 そのような主キリストが「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になった」という、驚くべきことが語られています。神が人となられたという、この驚くべき奇跡、これがクリスマスの出来事の意味です。主キリストは神のみ子として、本来はすべての者たちに仕えられるべき高きにいます聖なる方でしたが、しかしその権威と権利とをすべて投げ捨てられ、ご自身を空しくされて、全く何も持たない僕として罪のこの世においでになり、すべての罪びとたちのために仕えくださったのです。罪なき聖なる方が罪のこの世においでくださり、罪びとの一人となられたのです。永遠なる方が過ぎ去り滅ぶべきこの被造世界においでくださり、罪の奴隷であった人間の一人となられたのです。

 7節冒頭の「かえって」という言葉は、主キリストの最初の高い地位と彼が選び取ったのちの低い身分とをつなげています。しかも、逆説的な意味合いでつなげています。主キリストは神と同じ身分という特権を他のことのために用いるという自由を持っておられました。その特権をご自分の権力を誇り、それを行使するために用いるとか、ご自分の喜びや楽しみのために用いることもできたのでした。しかし、彼はそうなさいません。むしろ、主キリストは彼に与えられている自由を、ご自分が持つ高い地位や特権を喜んで放棄するために用いたのです。主キリストは他を支配し、他に仕えられるという特権を放棄し、むしろ罪びとたちに仕える僕の身分を選び取るためにその自由を用いたのです。彼は何かに強制されてそうしたのでは全くありませんでした。神と同じという身分をだれかによって奪い取られたのでもなく、やむなく落ちぶれて僕の身分になったのでもありません。主キリストは全き自由の中で、「ご自分を無にして」、自ら進んで自己放棄と自己を犠牲としてささげる道をお選びになったのです。

 ここで、主イエスが選び取られた自由と、最初の人間アダムが誤って用いた自由とを比較してみたいと思います。最初の人間アダムとエバは神のかたちに似せて創造され、神との豊な交わりの中で、神から与えられた恵みをほしいままに受け取る自由と権利とを与えられていました。創世記2章にはアダムがエデンの園、喜びの園で神と共に生きる姿が描かれています。ところが、アダムはこの自由と特権を、自ら神のようになろうとし、神の高きにまで達するために用いました。そして、神から禁じられていた知識の木の実を取って食べ、神の戒めに背きました。これが、原罪(オリジナル・シン)と言われるものです。神に対して罪を犯した人間アダムはそれ以後神から身を隠して、神なき世界で、罪に支配され、罪の奴隷となって生きるほかなくなったのです。人間アダムは神のみ前での自由を失ってしまいました。

 主イエス・キリストは人間が罪のゆえに失った神のみ前での自由を、ご自身が神の身分を自ら進んで放棄するという自由によって、回復してくださったのです。今や、わたしたちには主イエス・キリストによって与えられたこの真実の自由に生きることがゆるされているのです。それゆえに、すでに1~5節で語られていたように、主キリストの十字架の愛によって教会全体が一致し、自分の喜びとか自分の利益のためにではなく、他者の益のために、他者を喜ばすために、自ら進んで僕となって他者に仕えていく自由、他者を支配したり、だれかの上に立って自らの意志を実現するのではなく、むしろ自ら低くなり、貧しくなり、自らを捨てる自由、すべての人のための僕となって仕える自由、この自由に生きる道を主キリストはわたしたちのために開かれたのです。

 【7節b~8節】。主キリストの謙卑と自由、自己を捨てるという自由、僕となり他者に仕えるという自由、そして罪の中にある人間と共に住み、共に歩まれるという自由は、何と、死に至るまで貫かれました。主キリストが選び取られた自由は、彼の死によっても脅かされることがない、死を貫いていく自由、死をも超えていく自由でした。

 「死に至るまで」と言い、すぐに続けて「それも十字架の死に至るまで」と付け加え、主キリストの従順の偉大さが強調されています。十字架刑はイスラエルでは決して行われませんでした。なぜなら、旧約聖書の申命記21章23節で「木にかけられた者は神に呪われた者である」と書かれているからです。神から賜った聖なる地を汚さないように、ユダヤ人はどのような極悪人でも木にかけることはしませんでした。そうであるのに、主イエス・キリストはローマ総督ピラトによって十字架刑を宣告され、最も屈辱的で神に呪われた十字架にかけられて死なれたのでした。これは何という神のみ子の低さ、貧しさ、謙卑、自己放棄でしょうか。主キリストは神と等しくあるという栄光の座を投げ捨てて人間となられただけでなく、人間として最も低いところにまで下られ、罪びとや犯罪人の友となられ、ついには神からも見捨てられたかのように、ただお一人で黄泉(よみ)の暗闇にまで降りて行かれ、それでもなおも父なる神に全き服従を貫かれて、十字架で死んでいかれたのです。

 では、これによって神は神であることをやめたもうたのでしょうか。神のみ子は神のみ子であることをやめられたのでしょうか。あるいは、神はほんの少しの間だけ、ナザレのイエスという人間の姿に身をやつして、この地上での短い旅を終えられたということなのでしょうか。いや、そうではありません。神は主イエスとして、完全な人間となられました。死を経験するほどに完全な人間となられました。主イエス・キリストは罪びとが受けるべき死という裁きを受けるほどに完全な人間となられました。そのようにして、神は罪びとのわたしたちと同じお姿になられ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれ、わたしたちを完全に罪からお救いくださったのです。

 8節の「へりくだって」という言葉は、3節の「へりくだって」と同じです。フィリピ教会に謙遜を勧めていたパウロにはすでに主イエス・キリストご自身のへりくだり、十字架の死に至るまで父なる神のみ心に従順に服従された主キリストへりくだりのことが目の前に描き出されていたのでしょう。わたしたち罪びとたちの救いのために、このようにしてご自身を低く、貧しくされた神、その父なる神、神のみ心に全く服従をおささげになられた主イエス・キリスト、そこにこそ神がまことの神でありたもうことの真理があり、主キリストがまことの神のみ子であられることの真理があり、わたしたち罪びとに対する限りない愛と恵みがあるのです。それゆえにまた、そのようにして開かれた隣人に対するわたしたちのへりくだりと謙遜、愛と奉仕にこそ、わたしたちキリスト者の生きるべき道があるのです。

 キリスト賛歌の後半を読んでみましょう。【9~11節】。前半では主キリストが主語になっていましたが、後半では神が主語になります。神は死に至るまで従順であられた主キリストをお見捨てにはなりませんでした。神は最も低きところに降られた主キリストを、そのまま放置なされずに、最も高きところに引き上げられました。今や、主キリストのみ名はすべてのものの上に、君臨しています。罪と死とに勝利された主として、主キリストは今や神の右に座しておられます。

 「高く」とは、この世界にあるものたちが背比べをしてその中で最も高くという意味ではなく、この世界をはるかに超えて高く引き上げられ、天にまで引き上げられたという意味です。使徒言行録1章には、主イエスが復活されて40日目に天に引き上げられる様子が描かれています。また、エフェソの信徒への手紙1章20節以下にはこのように書かれています。【20~23節】(353ページ)。

 天にあげられた主イエス・キリストのみ名は、今や全世界の教会の民によって「イエス・キリストは主である」と告白され、証しされています。それによって教会はすべてのご栄光を神に帰するのです。それによって神の救いのみわざが完成します。主キリストの体である教会に呼び集められているわたしたちはこのようにして神を礼拝する一つの群れとなり、再び来られて神の国を完成される主イエス・キリストの再臨を待ち望むのです。それがアドヴェント(待降節)もう一つの意味です。

(祈り)

12月1日説教「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

2019年12月1日(日) 秋田教会待降節第一主日礼拝説教

聖 書:創世記1章4~17節

    ヨハネの黙示録2章1~7節

説教題:「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

 創世記2章の人間創造のみ言葉によれば、神は人間アダムを土のちりで造り、その鼻から命の息を吹き入れることによって、人間は生きた者となったと書かれています。中世初めの偉大な神学者アウグスチヌスはこのように言いました。「人間は神によって造られた者であるゆえに、造り主なる神のもとに帰るまでは、本当に魂の安らぎを得ることはできない」と。

 いったい、現代の人間は、またわたしたち一人一人は本当に魂の安らぎを得ているのでしょうか。神を失い、神なき世界で不安と孤独の中にある人間の魂、神の戒めに背き、罪びととなってエデンの園を追放され、暗黒と死の恐怖におののいている人間、そして争いと奪い合いを繰り返し、神を恐れることをしないこの世界、そこに本当の魂のやすらぎはあるのだろうか。神はこのような世界を顧みてくださるのだろうか。滅びゆく魂に救いを与えてくださるのだろうか。

 アドヴェント、待降節を迎えたこの時期に、わたしたちは世界の平和と人間の魂の平安を特に強く願い求めます。アドヴェントは本来ラテン語で「接近、到来」を意味します。日本語では待ち望むという人間の側の姿勢を言い表しますが、本来は神がこの世界に到来することを意味しています。神がこの世界に近づいて来てくださる、神がわたしたちの所に到来されるということです。神を見失い、滅びに向かっているこの世界を、そして不安と孤独の中をさまようわたしたちの魂を、神は決してお見捨てにはならず、この暗黒の世界を再びエデンの園とするために(エデンとは喜び、歓喜という意味ですが)、この世界でわたしたち人間が再び神と共に生きる喜びと平安に満たされるために、神はご自身の独り子、救い主なる主イエス・キリストをこの世界にお与えくださったのです。

 では、きょうは創世記2章8節から読んでいきましょう。【8節】。また【15節】。神は人間アダムをエデンの園に置いた、そこに住まわせたと繰り返されています。人間がエデンの園に住むことは神の強い意志であり、お導きなのです。人間は偶然にそこにいるのではありませんし、自分の意志や努力によってそこを手に入れたのでもありません。神が人間を創造されたことが神の強い意志であったように、人間がエデン・喜び・歓喜の園に住むこともまた、神の意志であり、神の大きな愛によることなのです。この神の深いみ心と大きな愛とを知り、神に感謝して神と共に歩み、神の導きに従って生きる時に、そこに本当の意味での喜び・歓喜があり、魂の平安があるのです。

 ここでもう一つ重要なポイントは、エデンの園は神がお造りになり、神が人間をそこに住まわせたのであって、それは神の所有であり、神がその園のご主人であるということです。人間はそれを自分の手で開拓したのではありませんし、それを自分の意のままに取り扱ってよいのでもありません。あるいはその中で自分の喜びを見い出したり、造り出していかなければならないのでもありません。園のご主人である神がすべてを備えてくださいます。

 そのことが、次の9節で具体的に語られています。【9節】。エデンの園では、神がすべての良きものを備えてくださいます。神はエデンの園に「見るからに好ましく、……あらゆる木を地に生えさせ」、さらに10節以下に書かれているように、豊かな川の流れによってその地を潤してくださり、人間アダムが生きるに必要なすべてを備えてくださり、彼が喜びと感謝とを持って、園のご主人である神と共に生きることができるように配慮しておられます。ここにこそ、人間の魂の安らぎ、本当の喜びがあります。

 15節によれば、神が人間をエデンの園に住まわせられたのは、人間アダムがその地を耕し、その地を管理し、守るという神から託された奉仕の務めを果たすためです。1章26節と28節で語られていたことと同じです。人間は神が創造されたこの世界とすべての被造物を治め、管理し、また美しいエデンの園を耕し、守るという神から託された務めに生きることによって、神と共にあり、神に従って生きる時に、本当の喜び、平安に生きることができるのです。

 エデンの園は具体的に地球上のどの地域を暗示しているのかということが議論されてきました。ヒントになるのが4つの川の名前です。今日までその名が知られているのは、14節のチグリス川、ユーフラテス川です。ピションとギホンは川の名前としては聖書ではここだけであり、特定することはできませんが、ピションはインダス川、ギホンはナイル川という説もあります。しかし、おそらくどこかの地域を特定する必要はないと思われます。10節の「四つの川」の四という数字は、聖書では完全数と言われ、全方向、全世界を意味していますから、エデンの園とは神が創造された世界全体と考えてよいと思います。

 エデンの園で、神と共に喜びのうちに生きる人間の最も基本的な姿が16~17節に書かれています。【16~17節】。人間がエデンの園で神と共に喜びのうちに生きるということは、具体的にはこの神のみ言葉を聞いて生きるということにほかなりません。16節の冒頭に、「主なる神は人に命じて言われた」とあります。人間は神のみ言葉を聞いて生きるべき存在です。神の命令を聞いて生きるのです。ここでは「命じて」とあり、続けて「食べなさい」も命令形ですが、神の命令は同時に許可であり、許しです。人間は神の命令によって、神の許しのもとで生きるのです。ここにこそ、人間の最大の自由があります。他の何ものによっても、あるいは自分自身によっても、生きることを制限されない、生きることと死ぬことを強制されない、「あなたは生きよ、生きてよろしい」と言われる主なる神の命令とゆるしの中で、人間は生きるのです。

 「園のどの木から……」(16節)。ここには、エデンの園で人間アダムに与えられている最大限の自由が具体的に示されています。「すべての木から取って食べなさい」。人間が生きるに必要なものすべてが神によって備えられています。人間はこの神のみ言葉を聞くとき、神からの最大限の自由の中で、その自由によって生きることができるのです。

 自由とは何か? ある哲学者は「人類の歴史は自由を求めての闘争であった」と言っています。人間はいつもみな自由を求めてきました。そのことはまた、人間はいつも自由ではなかった、いつも何かに拘束され、何かの奴隷であったということでもあります。人間はこの世の悪しき権力の奴隷にされることもあります。この世の富の奴隷になることもあります。人々の目に束縛され、自分自身の欲望に束縛されることもあります。そして、人間はだれもみな罪の奴隷です。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙5章で、「主イエス・キリストの十字架はわたしたちを罪の奴隷から解放し、自由にしたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と勧めています。

 わたしたちは造り主なる神と共に生きるとき、神のみ言葉を聞いて生きるとき、本当の自由を与えられるのです。救い主・主イエス・キリストの十字架の福音を信じ、罪ゆるされることによってこそ、真の自由に生きることができます。「あなたは園のどの木からも取って食べなさい」、この神のみ言葉を聞くとき、人間は神の恵みと自由とゆるしのもとで、自由な存在とされ、真の自由の中で生きることができます。この自由はあくまでも神から与えられる自由であり、神なしで、人間が自分勝手に、気ままに生きてよいという自由ではありません。そのことは次の17節のみ言葉から明らかにされます。

 【17節】。ここには、神から与えられる自由とはどのようなものであるのかが語られています。人間は神のみ言葉の前で決断をしつつ、神から与えられた自由を選び取っていくのです。神の戒めに忠実に従って、禁じられた木の実を取って食べることをしないという決断の自由を選び取っていくのです。

 自由とは、何もしないで気ままに生きてよいという自由ではありません。もはや神さえも必要としなくなるほどに人間が自分の思いや欲望のままに生きてよいという自由でもありません。人間に与えられている自由とは、何よりもまず神のみ言葉に喜んで聞き従うという自由です。神のみ言葉に対して決断していく自由です。そのことはまた、結果的に言うならば、神のみ言葉に聞き従う自由に生きるときには、他のすべての束縛から解放されることでもあります。

 エデンの園に数多くある木の実から自由に取って食べなさいという最大の自由の中で、ただ1本の実からは取って食べてはならないというこの禁止は、人間アダムの自由を制限することになるのでしょうか。人間アダムはこのただ一つの禁止によって、「わたしには自由がない」と言って嘆くべきでしょうか。いや、決してそうではありません。むしろ、この神の禁止もまた、人間を真の自由と命へと導くための神の恵みのみ言葉なのです。と言うのは、人間はこの神の戒めに聞き従うことによって、死の危険から守られているからです。「食べると必ず死んでしまう」。だから、食べるなという神の命令は、人間を命へと導くために語られているのです。神のみ言葉はわたしたちをあらゆる死の危険から守るのです。まことの命へと導くのです。

 「善悪の知識の木」とは何かを考えてみましょう。その前に、同じように園の中央に生えていた「命の木」についても触れておきましょう。9節でその二つの木のことが語られていましたが、17節では「命の木」については何も語られてはいません。「命の木」については、のちにアダムが罪を犯した後で、3章22節以下で再び語られます。【3章22~24節】。ここでも暗示されているように、「命の木」とは、それを食べると死なずに永遠に生きることができるようになる木であるように思われます。神は2章17節では、その木の実を取って食べるなとは命じておられませんから、アダムはそれを食べてもよいし食べなくてもよかったと思われますから、そのことから推測して、エデンの園では人間アダムは本来死ぬことがない、永遠の命を与えられていたらしいと思われます。3章に入って、人間が罪を犯した後、罪びとになったアダムがいつまでも生きて、永遠に罪を犯し続けることがないようにするために、神はアダムをエデンの園から追放し、命の木から食べることができないようにされたと考えられます。

 では「善悪を知る木」とは何でしょうか。善悪を知るとは、善と悪とをわきまえるという倫理的な能力を意味するだけではなく、それをも含めて、すべての知識を言い表していると考えられます。聖書の中には、同じような用法が数多くあります。「大と小」と言えば、大きなものから小さなものまでのすべての大きさのものを言いますし、朝夕とは、一日中の意味ですし、「出ると入る」とは、家から出る時、家に入る時のすべての行動を言い表しています。「善悪を知る」とは、すべてを知る、知識の全体を知るということ、すなわち全知、全能であるということです。

 人間は「善悪の知識の木」から取って食べることは神から禁じられているのです。つまり、人間は全知でも全能でもありません。人間には限界が定められています。ただ、主なる神だけが全知全能の神であられます。そうであるゆえに、人間は全知全能の神からすべてのものを与えられ、神のみ言葉に導かれて生きるべきでありますし、生きることが許されているのです。

(祈り)