1月24日説教「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

2021年1月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章3~10章

    ルカによる福音書5章33~39節

説教題:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」

 主イエスは徴税人レビに目をおとめになり、彼を弟子としてお招きになりました。人々から罪びととか守銭奴、売国奴と呼ばれ、だれからも相手にされなかった徴税人レビは、主イエスによって、信仰者レビに変えられました。弟子のレビに変えられました。自分の欲望のために生きていたレビ、この世の権力者に仕えていたレビは、今や神の国の王であられる主イエスにお仕えし、主イエスのために生きる人へと変えられました。レビは主イエスの救いに招かれた恵みに対する感謝のしるしとして、主イエスと弟子たち、また徴税人仲間や罪びとと呼ばれていた人たちをも招いて盛大な宴会を催しました。主イエスを中心にして、罪ゆるされた罪びとたちが共に祝いの食卓を囲んでいる、これは来るべき神の国での盛大な晩餐会を先取りするものです。

前回学んだルカ福音書5章30節では、それを見ていたファリサイ派や律法学者たちが主イエスの弟子たちに向かって、「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難しましたが、きょう朗読された33節では、その周りにいた人々が今度は主イエスに向かって、「ヨハネの弟子たちは……食べたりしています」(33節)と非難しています。主イエスが罪びとと呼ばれていたレビを弟子としてお招きになり、また多くの罪びとたちと共に食事をしておられるということは、ユダヤ教指導者たちにとっても、またすべてのユダヤ人たちにとっても、理解しがたいことであり、宗教的指導者としてはふさわしくない行動だと思われました。

主イエスの福音はユダヤ人にとっても、またすべての人間にとっても、受け入れがたい教えであり、つまずきとなりました。なぜならば、人はみな自分の罪に気づくこと遅く、自らの罪を認めることはしたくないからです。自分はあの罪びとたちよりはよりまともな人間であり、まじめで正直であり、努力家であり、自分で自分を救うことができると考えるからです。主イエスから一方的な恵みとして与えられる救いよりは、自分で勝ち取った救いの方がより値が高いと考えるからです。

しかし、わたしたちはきょうの聖書のみ言葉から、主イエスから与えられる救いの恵みこそが、人間の救いにとって最も力があり命があり喜びがあり、他の何ものにも替えがたい尊いものであるということを教えられるのです。主イエスの救いを信じる信仰によって与えられる義は、ファリサイ派や律法学者の義よりもはるかに勝った義であるということを学び取っていきましょう。

33節にヨハネの弟子たちが断食していることが取り上げられています。ヨハネは来るべきメシア・救い主である主イエスのために道を整える先駆者として、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。ヨハネと彼の弟子たちは、当時のユダヤ教で定められていたよりも頻繁に断食していたようです。旧約聖書では、大贖罪日と言われる日にすべてのユダヤ人は断食するように定められていました。レビ記23章27節以下にそのことが書かれています。大贖罪日にはイスラエルの全国民が主なる神のみ前に自分たちの罪を告白し、その罪を悲しみ、罪を悔い改めるしるしとして断食をし、神との交わりの回復を願い求めるのです。断食は食欲等の肉体的な欲望を捨てることによって、心と思いとをを神に集中させ、神との霊的な交わりを与えられるための信仰的な行為と考えられ、イスラエルでは重んじられていました。

ユダヤ人に定められていた年一回の断食日は、紀元前6世紀のバビロン捕囚以後には年数回に増やされ、主イエスの時代にはファリサイ派の間では一日3回の祈りとともに週に2回、月曜日と木曜日に断食するようになりました。ヨハネの弟子たちもそれと同じように断食していたと推測されます。しかしながら、ファリサイ派の断食には偽善的な要素が少なからずありました。彼らは自分たちの信仰深さを誇るために、多くの人々が見ている大通りで、顔を見苦しく装い、いかにも自分たちが深く罪を悔い改めているかのように見せて断食していました。それに対して、ヨハネの弟子たちは、近づきつつある神の最後の審判と神の国の完成の時に備えて、真実な罪の悔い改めのしるしとして断食をしていたと推測されます。

けれども、主イエスは偽善的なファリサイ派の断食も信仰的なヨハネグループの断食をも拒否され、定期的な断食は行っていませんでした。弟子たちにもそれを勧めませんでした。むしろ主イエスは徴税人や罪びとのようなユダヤ社会から見捨てられていた人たちと食事を共にされました。それはなぜでしょうか。主イエスは34節以下でその理由について婚礼のたとえと、服に布切れを継ぎ当てするたとえと、新しいぶどう酒を入れる新しい革袋のたとえで説明されました。この三つのたとえで主イエスが強調しておられること、主イエスが語っておられる神の国の福音の大きな特徴について読み取っていきましょう。

まず、婚礼のたとえですが、イスラエルでは結婚は非常に重んじられていました。結婚は神の創造の秩序の具体化です。神が人間を男と女とに創造され、人間が共に生きる交わりの関係であるべきことの具体的な姿が結婚です。それゆえに、結婚は神とイスラエルの契約の関係の比喩として用いられます。旧約聖書ではしばしば神とイスラエルとの関係が夫婦の関係にたとえられています。また、イスラエルの家庭では結婚の祝いは一週間も続きます。

新約聖書では、結婚は終わりの日に完成される神の国での盛大な祝宴にたとえられています。主イエスの説教でも、使徒パウロの書簡でもそうです。終末の時、花婿である主イエス・キリストと花嫁である教会の民とが永遠に固く結ばれ、神の国において絶えることのない共同生活を続ける。そこには永遠の祝福と救いと喜びがある。主イエスは34節で、その永遠の喜びの祝宴が今すでに始まっているのだと言っておられます。【34節】。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになりました。神の国での結婚の祝宴がすでに始まっているのです。神が与えてくださる救いの恵みがすでに目の前に差し出されているのです。もはやだれも、自分の罪を悔いて、心や体を悩ます必要はありません。自分の力や努力で救いを手に入れる必要もありません。主イエスを信じる信仰によってすべての人に罪にゆるしと永遠の命が与えられているからです。

主イエスはさらに二つのたとえでこのことを強調されます。この二つのたとえに共通している点は、新しいものと古いものとの決定的な違いです。新しいものと古いものとは共存できません。一緒にすることはできません。新しい服から取った新しい布切れには弾力性があり、伸びちぢみしますが、古い着物には弾力性がありませんから、その両者を一緒に縫い合わせれば、伸び縮みの違いによって、継ぎ当てをした部分は破れてしまいます。そうすれが両方ともに使い物にならなくなってしまうでしょう。また、新しいぶどう酒は盛んに発酵し、空気が膨張します。しかし、古い革袋は伸縮性がありませんから、新しいぶどう酒をいれればやがて古い革袋を破って、ぶどう酒は無駄になってしまうでしょう。

主イエスがこの二つのたとえで強調しておられることを三つの点にまとめてみましょう。一つには、古いものと新しいものとは共存できない、一緒にすることはできないということです。新しい服から布を取って古い服に継ぎ当てをすることができないように、新しいぶどう酒を古い革袋に入れることができないように、花婿が共にいる婚礼の席には断食はふさわしくありません。主イエスが共におられる席では断食は必要ありません。

ここで、新しい、古いと言われているのは、単に時間的・時代的違いを指しているのではありません。時が経過して古くなったというのではなく、新しいものが、先の古いものとは全く異質な新しいものがやってきたゆえに、これまであったものがすべて古くなったという意味です。神の国の花婿であられる主イエスがこの世においでになられた今はそれまでにあったものはすべて古くなったのです。主イエスが罪びとたちと共におられ、罪びとたちを神の国へとお招きになっておられるゆえに、律法によって救われようとするユダヤ教の教えは古くなり、この世の何かによって救いを得ようとするすべての試みも古くなり、それのすべての道は閉ざされてしまったのです。主イエスが始められた神の国での祝宴の喜びにはそれらのすべてはふさわしくありません。それゆえに、ファリサイ派の断食もヨハネの断食も、主イエスが共にいてくださる祝福と喜びの前ではふさわしくはありません。

第二には、新しいものが持っている力、エネルギーの大きさです。それは古いものを破壊せざるを得ないということです。新しい布、新しいぶどう酒が、古い着物、古い革袋を引き裂くように、主イエスの福音は、主イエスが罪びとたちと共にいてくださるという喜びは、断食の苦しみや嘆きを消し去り、否定し、人間の罪の縄目を解き放つ大きな力を発揮するのです。主イエスが語られた神の国の福音は古い世界の、古い秩序を破壊し、罪と死と滅びとに支配されていた古い世界と人間をそこから解放するのです。

第三に強調されている点は、主イエスが語られた神の国の福音は圧倒的な力で新しい人間を創造するということです。【38節】。この主イエスのみ言葉は、単に一つの真理を語っているのではありません。新しいぶどう酒は新しい革袋を必要としています。新しいぶどう酒はそれを入れる新しい革袋を創造していくのです。主イエスの福音は主イエスの福音に生きる新しい人を創造するのです。使徒パウロはコリントの信徒への手紙二5章17節でこのように書いています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」と。主イエス・キリストによって和解の福音を聞かされ、罪ゆるされたわたしたちは、主キリストの福音によって新しく創造された信仰者として、和解の福音を持ち運ぶ任務を託され、和解の言葉を託されているのです(同18~21節参照)。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪と死の世界をさまよっていたわたしたちを、あなたがみ子主イエス・キリストの福音によって見いだしてくださり、み前にお招きくださいます幸いを、心から感謝いたします。どうか、わたしたちに新しい命を注ぎこみ、わたしたちをあなたのみ心にかなって造り変えてください。あなたのみ心を行う人としてください。

○天の神よ、さまざまな試練や苦悩の中にあるこの世界と諸国の人々を憐れみ、顧みてください。重荷を負っている人たちを力づけ、励ましてください。悲しみ痛みの中にある人たちに、慰めと平安をお与えください。孤独な人や迷っている人には、あなたが共にいてくださり、希望の光をお与えください。

〇この世界は今、あなたの天からの助けとお導きとを必要としています。どうか、この世界を憐れんでください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月17日説教「アブラハムの選択」

2021年1月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記13章1~18節

    ローマの信徒への手紙4章1~12節

説教題:「アブラハムの選択」

 アブラハムは神が約束された地、カナンに到着しましたが、その地を襲った厳しい飢饉のために、エジプトに避難しました。自分と家族の命を養うためとはいえ、彼が神のみ言葉を聞かずに、神が約束されたカナンの地を離れて、エジプト行きを決断したことは、大きな失敗でした。さらに、彼は自分の妻を妹と偽って、妻サライをエジプト王ファラオの宮廷に売り飛ばすという失敗を重ねました。このようにしてアブラハムは神の約束のすべてを失ってしまいました。「この地をあなたの子孫に与える」という約束を、「あなたの子孫を大きな国民とする」という約束をも、そして「あなたはすべての信仰者の父となり、すべての国民の祝福の源となる」という約束をも、彼は投げ捨ててしまったのでした。

もしここで、主なる神が現れなかったならば、いわゆる「アブラハム契約」は効力を失い、彼ののちに続くすべての信仰者たち、今日のわたしたちをも含めてですが、その人たちに約束されていた神の祝福も受け継がれなかったであろうということを考えると、今学んでいる創世記のみ言葉が、また信仰の父アブラハムの生涯とその信仰の歩みが、今のわたしたちと実質的に関連しているということを思わざるを得ません。わたしたちは創世記に描かれているアブラハムの信仰の歩みを、わたし自身の信仰の歩みと重ね合わせながら、きょうの創世記13章のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

【1節】。この1節で、アブラハムの信仰の歩みがなおも継続されていくということを、わたしたちは知らされます。アブラハム(この時はまだアブラムという名前でしたが)は、数々の失敗を繰り返しても、なおもアブラハムとして、神の契約を担う信仰の父として、その名が記録されています。それには、神の憐れみとゆるしがありました。というよりは、神の憐れみとゆるしなしには、アブラハムはアブラハムであり続けることはできないし、信仰の父として神の祝福の源となることはできないと言うべきでしょう。アブラハムは失敗します。つまずきます。疑います。迷い、倒れます。けれども、神は彼をお見捨てにはなりません。神は彼の罪をおゆるしになられます。神がなおも彼の信仰の道をお導きになるのです。そのようにして、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父とされます。そのようにして、すべての信仰者は、わたしたちも含めて、罪の中にあってもなおも信仰の道を、終わりの日の完成を目指して進み行くことが許されるのです。

「妻と共に」とあります。何と幸いなことでしょうか。自分を身の危険から守るために、妻サライの人権とか尊厳性とかを捨て、また神の約束を共に担っていくべき夫婦の関係を捨てて、妻を妹と偽ったアブラハムと、ひとたび夫に裏切られ、異教徒の王に身売りされたかのようにされた妻サライとが、ここで再び神のゆるしのもとで、共に生き、共に神の約束を担って信仰の道を歩み続けることを許されているということは、何と幸いなことでしょうか。

「エジプトを出て」とあります。この言葉も象徴的です。大飢饉のために、パンを求めて行ったエジプト、神の約束のみ言葉を忘れ、大きな失敗を繰り返して罪を犯したエジプト、この世的な誉と富とを得たけれど、神への信仰と正しい人間関係とが壊されていたエジプト、しかしそこから出て、いわゆる出エジプト、再び神の約束の地へと戻る、この出エジプトというテーマは、聖書の中で何度も繰り返されていきます。アブラハム時代から600年ほどあとの紀元前1200年代、モーセの時代の出エジプト、それからさらに800年ほど後の紀元前530年代、バビロン捕囚からの帰還、そしてまたその600年ほどあとの紀元1世紀、主イエスの時代、マタイによる福音書2章14節以下にはこのように書かれています。【14~15節】。(3ページ)。

このような出エジプトのテーマは、神がわたしたち人間の罪をゆるし、わたしたちをすべてのこの世の奴隷状態から解放し、罪と死と滅びの縄目から解き放って、自由と喜びと感謝に満たされた信仰の歩みへと導いてくださる神の救いのみわざを語っているのです。

「ネゲブ地方へ上った」とあります。ネゲブは12章9節でアブラハムが滞在していた神の約束の地カナンの南端の地です。彼は再び神の約束の地へと戻ってきました。いわゆる「アブラハム契約」はなおも継続されていくことになりました。アブラハムがパンを得るために捨てた約束の地を、神は再び彼にお与えくださいました。彼はこれから、再び与えられた約束の地で、神の憐れみ受け、罪ゆるされた信仰者として生きていくのですが、彼はその道を迷わずに進んでいくことができるでしょうか。罪ゆるされている信仰者にふさわしく、信仰の父としての名に恥じないように生きることができるでしょうか。それとも、彼は再び失敗を繰り返すのでしょうか。

それについては、少し気がかりなことがあります。1節の終わりに「ロトも一緒であった」とあります。また、2節には【2節】と書かれています。このことが、この章で展開される新しい事態を引き起こします。先に12章5節に、アブラハムがハランを出て神の約束の地へと旅立った時に甥のロトも連れていたことが書かれていました。アブラハムはこれまでロトと一緒に旅を続けてきました。二人は良き協力者であり、同労者でした。何よりも、同じ信仰の道を歩み、同じ神を礼拝する信仰にある兄弟でした。ところが、その二人の交わりを引き裂く事態が起こったのです。

その原因となったのは、アブラハムが持っていた多くの財産でした。5節では一緒に旅を続けてきたロトにもたくさんの財産があったと書かれています。多くの財産が与えられることは神の祝福だと考えられていました。そのことを神に感謝し、神と隣人のためにそれを用い、ささげるならば、地上の富は神の祝福となり、神の栄光を現すことにもなるでしょう。しかし、多くの場合、人は地上の富に心を奪われ、神から離れていきます。それによって、人間の交わりも壊されていきます。主イエスはマタイ福音書6章24節で、「だれも神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われました。アブラハムとロトにもそのことが当てはまります。地上の財産を多く持つに至った二人の関係はどうなるでしょうか。

アブラハム一族は家畜を連れて牧草地を旅する遊牧民でした。カナンの地では彼はまだその地を所有してはいません。天幕を移動しながら牧草を求めて旅する寄留者です。他にも多くの遊牧民がいます。カナンの原住民もいます。アブラハムもロトもあまりにも多くの財産を持つようになったために、二人は一緒に住むことができなくなりました。6節では2度もそのことが強調されています。【6節】。人間が余りにも多くのものを所有するがゆえに一緒に住むにはこの世界は狭すぎる、この言葉は現代のわたしたちの地球にも当てはまるのでしょうか。人間があまりにも豊かになり、偉大になり、あまりにも多くを所有するようになったがゆえに、人間はこの地球上から神をも追い出すのでしょうか。神が創造されたこの世界に、人間はついには神と共に住むことができなくなり、隣人と共に住むことができなくなってしまうのでしょう。全世界の人間が共に住むには、この地球はあまりにも小さいのでしょうか。主イエスが言われたように、わたしたちはだれも神と富とに兼ね仕えることは決してできないとのだいうことを忘れてはなりません。

7節に書かれているように、アブラハムとロトの家族の間に当然の結果として争いと分断が起こりました。そこで、年上のアブラハムがロトに提案をします。【8~9節】。アブラハムはロトとの争いを避けようとしています。アブラハムはロトよりも年上であり、家の主人ですから、自分に有利な提案をすることもできたし、ロトを追い出すこともできたでしょうし、あるいは力づくでロトをねじ伏せて彼の財産を奪うこともできたかもしれません。けれども、アブラハムは争いではなく和解の道を選びます。自分の権利を主張するのではなく。むしろロトの方に選択権を譲っています。

わたしたちはここで先にアブラハムに対して抱いていた不安が、取り越し苦労であったことを知らされます。エジプトで失敗を重ねたアブラハムでしたが、今回は失敗を繰り返しません。地上の富に心を奪われ、それによって行動することはありません。むしろ、自分の権利を放棄して、富を追い求める道を放棄します。アブラハムは甥のロトの方に選択権を譲りました。今回は、アブラハムは神と富との両方に仕えることはしません。富への道を放棄し、結果的に彼は神への道、信仰への道を選び取ることになりました。わたしたちは何かほっとする思いになり、アブラハムに心の中で拍手を送りたい気持ちになるのは、わたしだけでしょうか。

ロトはカナンの東の方、ヨルダン川流域の低地の豊かに潤っているように見えた地を選びました。その地はソドム、ゴモラの町がある、邪悪と罪とに満ちた地でしたが、ロトにはまだそれは見えてはいませんでした。12節に、「アブラムはカナン地方に住んだ」と書かれています。彼は神の約束の地に留まりました。彼は地上にある豊かさや富を放棄することによって、結果的には本当に選ぶべき道を選んだのでした。そこに、隠れた神のみ心が働いていた、神の導きがあったと聖書ははっきりとは語っていませんが、14節以下を読めばそこのことが確かであることを知らされます。

【14~18節】。アブラハムはこの神の約束のみ言葉を聞くために、豊かに潤ったヨルダンの低地を選んだロトと別れ、この地に留まったのでした。アブラハムは確かに自分の選択権を捨てたことによって、選ぶべき道を選んだのでした。それは、彼自身が選んだというよりは、神がそのように選ばせてくださった、神ご自身の選びであったと言うべきでしょう。

神はアブラハムに「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」と言われます。見渡すという言葉は10節でロトについても用いられていました。ロトはこの世の豊かさや地上の幸いを見ていました。しかし、アブラハムは信仰の目を挙げて、神の約束を見るようにと促されています。彼はまだこの地の一角をも所有してはいません。この地では寄留者であり、旅人です。けれども、彼は神の約束によってすべてを所有しています。「わたしは永久にあなたとあなたの子孫にこの地を与える」。この神の約束によって、彼はすでにこの地を所有しています。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」。この神の約束によって、彼はすでにのちの時代のすべて信じる人々の信仰の父とされています。

これは、アブラハムの選択というよりは、神の選択、神の選びです。アブラハムがカナンの約束の地を選び取ったのではありません。神がアブラハムをお選びになり、生まれ故郷のカルデヤのウルから彼を呼び出され、約束の地へと導かれたのであり、神がエジプトでのアブラハムの失敗から彼をお選びになり、また今神がロトとの争いの中から彼をお選びになり、約束を更新されたのです。それゆえに、アブラハムはすべて信じる人たちの信仰の父となり、祝福の基となったのです。そして、アブラハムの選びは、主イエス・キリストによってわたしたち一人一人の選びとなったのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたの選びと救いの恵みはとこしえからとこしえまで、決して変わることはありません。あなたは罪と失敗を繰り返すしかない、弱く貧しいわたしたちをも、あなたのみ国の民の一人としてお選びくださいました。どうか、わたしたちを永遠にあなたの契約の民の中に置いてくださいますように。あなたの選びを信じて、生涯あなたの僕(しもべ)として仕えさせてください。

〇世界と日本が今、大きな試練と苦しみの中でもがいています。あなたは天から一人一人の痛みや悲しみ、労苦や戦いを見ておられます。どうか、あなたからの顧みがありますように、あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月10日説教「エルサレム教会の誕生」

2021年1月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:出エジプト記13章3~10節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「エルサレレム教会の誕生」

 五旬祭(ペンテコステ)の日にイスラエルの首都エルサレムに世界最初の教会が誕生した次第について、使徒言行録2章が記録しています。これは、紀元30年ころ、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたのがユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でしたが、それからおよそ50日後、太陽暦では5月から6月にかけてのころでした。主イエスの神の国の福音を宣教するお働きは、主イエスの死後も、ペンテコステの日に誕生した教会によって継続されていきました。神の救いのみわざは天地創造の初めから、終わりの日の神の国が完成される時まで絶え間なく続けられます。今からおよそ2千年前の世界最初の教会誕生の時から、その後に全世界に誕生した教会の働きをとおして、またこの日本の地に、秋田の地に立てられた教会の働きをとおして、神の救いのみわざは絶え間なく継続されていくのです。わたしたちのこの小さな群れもまたその神の救いのみわざに仕えています。

 きょうは、使徒言行録2章37節以下のみ言葉から、教会誕生に関する重要なポイントを三つにまとめて学んでいきたいと思います。そのことは、今日のわたしたちの教会がどのようにして生きた教会として建てられていくのか、またその教会に集められているわたしたちはどのようにして教会の主なるイエス・キリストにお仕えし、神の救いのみわざにお仕えしていくべきなのかを知ることでもあります。

 その三つのポイントとは、一つは、聖霊なる神のお働きを信じること、二つには、神のみ言葉を聞くこと、そして三つには、主キリストのお体なる教会に召し集められているわたしたち信者一人一人の悔い改めと結集(一つの群れとして集められること)、この三つについて学んでいくことにします。

 では、最初の聖霊なる神のお働きについてですが、ペンテコステは聖霊降臨日という呼び方もあるように、この日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが神の偉大な救いのみわざについて語りだしたことから、教会誕生へと進展していきました。聖霊降臨と教会誕生とは密接につながっています。聖霊は教会の命と存在の源です。聖霊はいまもなおわたしたちの教会が真実の教会であり続けるための恵みと力の源です。

聖霊降臨はまた主イエスのお約束の成就でもありました。使徒言行録1章8節で主イエスはこのように約束されました。【8節】。(213ページ)。同じようなことを主イエスはヨハネ福音書14~16章でも繰り返して約束しておられます。主イエスは天に昇られたあと、父なる神と共に弟子たちに聖霊を注いでくださり、聖霊は主イエスがお語りになったみ言葉を弟子たちに思いおこさせ、彼らを主イエスの証し人としてお立てくださるであろうと約束されました。聖霊は主イエスの約束のみ言葉と固く結びついて、信じ従うわたしたちの力となり、導きとなってくださいます。そして、わたしたち一人一人をも主イエス・キリストの証人として固くお立てくださいます。弟子のペトロの説教では、38節で「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語られています。主イエスを救い主と信じて洗礼を受けた一人一人には、それぞれにふさわしい聖霊の賜物が与えられます。わたしたちはその賜物を生かして主イエス・キリストの証人となって仕えていくのです。教会のすべての活動とわたしたち信仰者のすべての歩みは聖霊によって導かれているのです。

第二に重要なポイントは、神のみ言葉を聞くということです。聖霊降臨と教会誕生には神のみ言葉を聞くということが伴っています。37節にこのように書かれています。【37節】。ペンテコステの日に、聖霊によって神の救いのみ言葉を語ったペトロの説教が36節まで書かれていますが、その説教を聞いた人々にも聖霊が働きました。その時、ペトロの説教によって彼らは「大いに心を打たれ」ました。大いに心を打たれるとは、何か感動的な話を聞いたというようなことではなく、心が突き刺され、抉り出されるという強い意味を持っています。聖霊によって神のみ言葉を聞くということは、そのように激しく心が揺さぶられ、わたしの存在全体が根本から神によって問われるということなのです。なぜならば、ヘブライ人への手紙4章12節にはこのように書かれているからです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。神のみ言葉を語る時、また神のみ言葉を聞く時、そこに聖霊が働き、驚くべき力が発揮され、人間を根本から造り変えるのです。

ペンテコステの日にペトロが語った説教を、神の救いのみ言葉として聞く時に、そこに聖霊が働き、神の救いの出来事が起こされます。そのようにして教会が誕生します。教会は神の救いのみ言葉を聞き続けることによって、真実の教会として生き続けるのです。

では、ペンテコステの日に聖霊によって神のみ言葉を聞いた人々にどのようなことが起こったのでしょうか。ペトロは36節でこう説教しました。【36節】。この説教を聞いたユダヤ人たちは、ここで自分たちの罪が告発されていることを気づかされました。彼らは神がメシア・救い主としてイスラエルにお送りくださった主イエスを神を冒涜する者として十字架で処刑しました。その偽りの裁判に直接携わっていなかったユダヤ人もみながその罪にいわば連帯責任を負っているいるのです。彼らは神がお遣わしになったメシア・救い主を拒絶し、葬り去ったのです。ペトロの説教を聞いたユダヤ人たちに聖霊が働き、彼らにそのような罪の自覚を与えました。

しかし、ペトロの説教が語っているもう一つのことは、そのようなユダヤ人たちの罪にもかかわらず、その罪を超えて、神は主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人のメシア・救い主としてお立てになったということです。神はユダヤ人たちの罪に勝利されます。すべての人間の罪に勝利されます。人間の罪と死を罪のゆるしと復活の命に変えてくださったのです。ペトロの説教を聞いた彼らは、聖霊によって、自分たちが神の救いへと招かれていることを知らされたのです。そこで、彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロに問いかけます。

神のみ言葉の説教は、それを聖霊の導きによって聞く人たちにそのような二つのことを悟らせます。第一には罪の自覚です。人間は自分の知識や能力によってはだれも自分の罪に気づくことはありません。なぜならば、人間は生まれながらにして罪に傾いているからです。神を知らず、神に背いているからです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時、主イエス・キリストの福音を聞く時に、わたしたちは神のみ心に背き、神の恵みを受けるにふさわしくない自らの罪に気づかされます。

と同時に、神のみ言葉は人間の罪をゆるし、罪と死と滅びとに支配されていた人間を罪の奴隷から救い出す恵みと命のみ言葉であるということを、聖霊はわたしたちに信じさせてくださいます。人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の救いの恵みが人間のあらゆる罪や悪や無知や反逆をも乗り越えて前進していくのです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時に、わたしたちはそのような二つのことに気づかされ、この罪多き貧しいわたしもまた神の救いへと招かれていることを知らされるのです。そして、「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いが生まれます。

ペトロは答えました。【38~39節】。ペトロの説教を聞いた人たちに聖霊が働き、彼らの心を刺し貫き、ヘブライ人への手紙のみ言葉で言えば「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」、彼らに罪の自覚を与え、また神の救いを願い求める信仰を与えました。次に彼らがなすべきことは、悔い改めです。悔い改めとは、生きる方向を変えることです。これまでは、神なき世界で、神から離れて生きていた罪を認め、方向転換をして神の方に向かって進んでいくこと、これまでは、自分を中心に生きていた罪を告白し、神を中心とした生き方へと変わっていくこと、これまでは、この世が与えるパンだけによって生きてきた罪を知らされ、神のみ言葉にこそまことの命があることを信じること、それが悔い改めです。そして、神から差し出されている救いの恵みを感謝して受け取ること、それが救いです。

これが、ペンテコステの日に起こった出来事の重要なポイントの三つ目です。この日に誕生した教会は、神のみ言葉を聞きつつ、悔い改めつつ、そして神から与えられる恵みに感謝しつつ生きる信仰者の群れです。

ペトロは、悔い改め、信じた人たちに洗礼を受けることを勧めています。洗礼は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪ゆるされ、新しい命に生かされていることの目に見えるしるしとして、また体で体験するしるしとして行われます。洗礼はその救いの出来事がわたし個人のことであるだけでなく、教会全体にかかわる出来事であり、教会の誕生と教会の存続にかかわる出来事であるということを、教会の群れ全体で確認する儀式でもあります。

洗礼は主イエス・キリストのみ名による洗礼です。主キリストのみ名による洗礼とは、洗礼が主キリストのみ名のもとで行われる儀式・聖礼典であるという意味と、主キリストのみ名の中へと洗礼される、沈められるという意味をも持っています。すなわち、主キリストのみ名の中へと招きいれられる、主キリストのみ名と一体されるということです。使徒パウロはローマの信徒への手紙6章3~4節でこのように書いています。【3~4節】(281ページ)。また、コリントの信徒への手紙12章13節ではこう言っています。【13節】(316ページ)。つまり、主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主キリストと一つにされ、また同じように一人の主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは一つの聖霊に結ばれ、一つの主キリストの体とされているということです。聖霊は教会を一つの、召された群れとして結集させてくださいます。

ペンテコステの日に起こった聖霊の注ぎと教会の誕生は二千年後の今日も絶え間なく継続されています。わたしたちは主の日ごとの礼拝に集められ、神のみ言葉を聞き、悔い改めと信仰とをもって、主キリストの体なる教会にお仕えしていきましょう。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが永遠の救いのご計画によって、全世界に主イエス・キリストの教会をお建てくださり、教会の民をお集めくださいますことを感謝いたします。あなたはこの日本にも、この秋田の地にも、信じ救われた者たちをお集めくださり、きょうの主の日の礼拝をささげさせてくださいました。どうか、わたしたちがあなたのみ言葉に聞き従い、主キリストの福音の証し人としてあなたにお仕えしていく者としてください。

〇感染症の拡大によって大きな困難の中にある世界と日本を顧みてください。あなたの癒しと慰めとが苦しみと痛みの中にある一人一人の上にありますように。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月3日説教「罪人をお招きになる主イエス」

2021年1月3日(日)秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

    ルカによる福音書5章27~32節

説教題:「罪人をお招きになる主イエス」

 ルカによる福音書5章27節以下に書かれている徴税人レビが主イエスの弟子として召されたという記事は、共観福音書にほとんど同じ内容で報告されています。ただ、その名前は、ルカ福音書ではレビですが、マタイ福音書9章ではマタイとなっており、マルコ福音書2章ではアルファイの子レビとなっています。レビとマタイは同一人物で、主イエスの12弟子の一人だったと推測されています。ただし、マタイ福音書を書いたと考えられているマタイと徴税人マタイあるいはレビとは同じ人物ではありません。

 きょうは、徴税人レビの召命について記したみ言葉から、わたしたちが信仰者として、キリスト者として召されるとはどういうことなのか、またわたしたちは新しいこの一年を信仰者としてどのように生きていくべきなのかを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 では27節を読みましょう。【27節】。ここでまず「見て」という言葉に注目しましょう。前回学んだ20節にも同じ言葉がありました。【20節】。2節にもありました。【2節】。主イエスはガリラヤ湖の漁師が一晩中網を降ろしても一匹もとれずに、疲労困憊している様子をご覧になりました。長く寝たきりの友人をベッドのまま運んできて、屋根をはいでまで、何とかしてその人を主イエスのみもとへと連れていこうとした人たちの愛と奉仕を見ておられました。あるいはまた、徴税人レビが法外な税金を取り立てて私腹を肥やし、それゆえに人々から罪びと呼ばわりされていた様子をもご覧になっておられます。主イエスは一人一人のさまざまな様子をすべてをご覧になっておられます。主イエスはまた、わたしたちの日々の歩みのすべてをご覧になっておられます。そして、それぞれの状況ふさわしい救いの道を備え、それぞれの人にふさわしい救いの恵みをお与えくださいます。そのことを信じて、わたしたちは感謝と喜びと希望とをもって新しい年の歩みを始めることをゆるされています。

 以前にも確認しましたように、主イエスが何かをご覧になる時、そこに救いの出来事が起こります。主イエスの目が徴税人レビに注がれる時、彼の身に救いの奇跡が引き起こされます。彼が「収税所に座っているのを見て」と書かれています。「座る」とは、ある意味でその権力や特権にしがみついていることを意味します。収税所での仕事は彼にとって大変好ましく、捨てがたい椅子でした。この時代の徴税人について少し説明を加えておきます。税金はイスラエルを支配していたローマ帝国に払う住民税ですが、彼はその地域の徴税総額を入札によって競り落とし、実際にはその金額よりも多くを住民から徴収して、その差額を自分の懐に入れます。これは不正ということではなく、徴税人に認められていた権利のようなもので、人々はそのことをよく知っていました。それで、徴税人は神の民であるイスラエルを神なき異邦人に売り渡している不信仰のゆえに、また自らの権力によってお金をもうけている悪徳商人として、人々に嫌われ、罪びとと呼ばれていました。30節で、ファリサイ派や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難していることからもそのことが分かります。

 そのような徴税人を、多くのユダヤ人は、時に憎しみや、あるいは妬みの目で見ることがあっても、愛の目で彼を見る人はだれもいません。ところが、主イエスはそのような徴税人レビに目をおとめになります。主イエスの目は彼のすべてを捕えます。彼がこれまでに主イエスと会ったことがあるのか、主イエスの説教を聞いたことがあったのかということに関しては聖書は何も語りません。彼がどれほどにこの職業に固執していたか、あるいは、みんなから嫌われて孤独であったのか、何かに迷い道を求めていたのか、というようなことに関しても、何も語られてはいません。

 聖書はただこのように語ります。「『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)と。レビを見られた主イエスの目と彼に語りかけられた主イエスの招きのみ言葉が、すべてです。このような主イエスの招きが、全く何もないところで、全く何の条件とか理由とか保証とかもないところで、しかも、全く選ばれる可能性も資格もないレビに対して語られた主イエスの招きのみ言葉が、新しい出来事を生み出すのです。レビの信仰を生み出すのです。レビの服従を生み出すのです。

 ここでだれかは次のような疑問を投げかけるかもしれません。レビは彼が持っていたすべてのものを投げ捨てて主イエスに従ったと書かれているけれども、それは冷静な判断だったのか、彼はだれかにそのことについて相談しなかったのか、家族や友人たちには何も相談もなく、彼一人で直ちに判断したのは、あまりにも大胆で危険ではないか、と言うかもしれません。聖書がそのことについて何も語らないのは不親切ではないのか、と。

しかし、実は聖書は何も語っていないのではなく、十分語っているのです。主イエスの目が徴税人レビに注がれた時、そして主イエスの招きのみ言葉が彼に語られた時、そこにすべての答えがあります。主イエスは彼のすべてを見ておられ、知っておられるのです。彼の過去も現在も未来をも。レビが主イエスのことを十分に知らないとしても、主イエスは彼のことをすべて知っておられます。そして、主イエスは彼のすべてを受け入れ、引き受けておられるのです。それゆえに主イエスの招きのみ言葉は彼を強く捕らえ、彼に信仰の決断を可能にしているのです。彼が主イエスのみ言葉に聞き従う時、主イエスが彼に必要なすべてのものを備え、彼が歩むすべての道を導かれるからです。

レビはこのような主イエスの目と招きのみ言葉に捕らえられました。その時、彼が主イエスを信じて、主イエスに従うという信仰の奇跡が起こるのです。信仰とはいつの場合でも主イエスが引き越してくださる奇跡です。わたしが長い間熱心に求め続けてついに到達したと思っている信仰であれ、父や母から受け継いできた自然な道のりであれ、迷いと戦いの末に見いだした道であれ、信仰とはだれにとっても、主イエスが起こしてくださった奇跡であり、選ばれるに値しない罪多きわたしに主イエスの一方的な愛と選びによって与えられた奇跡としての信仰なのです。レビの場合がそうであったように。

29節から第二の場面が展開されます。第一の場面との密接な関連の中で展開されていきます。主イエスの一方的な愛と選びによって弟子として招かれたレビは、主イエスのためにすべてをささげてお仕えする信仰の道を歩みだしました。主イエスの恵みに感謝し、主イエスと隣人に奉仕する生活が始まります。彼は自分の家に主イエスをお招きし、食事のもてなしをします。徴税人仲間やユダヤ人社会から罪びとたちとして排除されていた人たちもこの食卓に招かれています。けれども、本来の食卓の主はレビではなく、主イエスです。その証拠に、30節のファリサイ派や律法学者の非難に対して答えておられるのは主イエスだからです。【30~32節】。罪びとたちをみ前にお招きになり、その罪をおゆるしになる主イエスこそがこの食卓の主なのです。この食卓は教会の聖餐式を暗示しています。終わりの日の神の国での大宴会を象徴しています。レビはこの食卓のために主イエスと隣人たちのために仕えています。それゆえに、持っているものすべてを捨てて主イエスに従った彼は何と幸いなことでしょう。彼には神の国が約束されているからです。

ところが、主イエスの招きと救いの出来事が起こる時、それを拒絶する人間の罪もまた明らかにされます。これは聖書全体に共通している原理のようなものです。神の救いのみわざが行われる時、その救いを拒み、それを喜ばない人間の罪もまたそこで明らかにされていくということが、聖書の中ではしばしば起こります。特に、福音書の主イエスの救いのみわざの際に、そのことが浮かび上がってきます。主イエスから与えられる救いの恵みが差し出される時、それを受け入れて喜び感謝する信仰者と、なおもかたくなに自分自身の罪の中に留まり続けようとし、それだけでなく、主イエスに反逆し、主イエスをこの世から取り除こうとさえする人間の罪があらわになってくるのです。

ファリサイ派と律法学者たちは主イエスと弟子たちが罪びとたちと一緒に食卓を囲んでいることが不思議であり、それはユダヤ人の宗教指導者にはふさわしくないと考えました。というのは、神の国の教えを説く教師たるものは、注意深く罪や汚れからその身を遠ざけるべきだと彼らは考えていたからです。ファリサイという彼らの名称は「分離された者たち」という意味を持っています。自分たちは神の国に最も近く、神の救いを得るのに最もふさわしい。だから、罪びとたちから分離されたグループであり、神を知らない異邦人のために働く徴税人や、律法を守らない罪びとたちとの交わりを避けるべきだと彼らは主張していたのです。

けれども、主イエスが語られた神の国の福音は彼らが考えていた律法による救いとは全く違っていました。主イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであり、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。これこそが主イエスの福音です。だれ一人神の律法の前で完全な人はいません。神の律法を守り行って救われる人はだれもいないのです。のちに使徒パウロが言うように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3章20節)。

主イエスはそのような罪人をお招きくださいました。そのような罪人に救いの道を備えてくださいました。「罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と主イエスは言われます。まず、主イエスの招きがあります。主イエスの救いへの招きがすべての人に備えられています。その救いの道へと招かれた人は、自らの罪を知らされ、悔い改めて神に立ち返る信仰が与えられるのです。したがって、悔い改めとは、わたしが神に立ち返るよりも先に、主イエスがわたしを神のみ前にお招きくださっておられるということを知ること、主イエスがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださったということを信じ、受け入れ、それに感謝することです。

宗教改革者たちが言ったように、「わたしたちはみな常に罪びとです。しかしまた、常に罪ゆるされている罪びとです」。それゆえに、わたしたちは日々悔い改めつつ、また日々主のお招きに感謝をもって応えつつ、この一年も主が備えたもう信仰の道を歩み続けていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを新しい年の最初の主の日の礼拝にお招きくださったことを心から感謝を致します。あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえまで変わることはありません。どうか、あなたが創造された天地万物を豊かに祝福してください。大きな苦難と試練の中にあるこの世界のすべての人々にまことの救いをお与えください。また、特にあなたがお選びくださった教会の民を強めてください。勇気と希望とをもって、主キリストの福音を宣べ伝えていくことができるように、聖霊なる神のお導きを祈り求めます。どうか、あなたのみ心が全地に行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。