3月31日説教「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

2024年3月31日(日) 秋田教会主日(復活日)礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記8章1~10節

    マルコによる福音書16章1~8節

説教題:「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

 主イエスが復活されたのは、ユダヤ人の安息日である土曜日の翌日、日曜日の朝早くでした。十字架につけられて息を引き取られたのが金曜日の午後3時ころ、夕方午後6時の日没からユダヤ人にとっては次の日、安息日の土曜日が始まりますので、それまでの2、3時間の間に急いで墓に葬られました。安息日には何の労働をもしてはならないと定められていたからです。そのために、通常ならば亡くなった人を墓に葬る前に、その亡骸に香油を塗る習わしでしたが、主イエスの場合にはそれができませんでした。

 そこで、マルコによる福音書16章1~2節にこう書かれています。【1~2節】。おそらく、安息日が終わる土曜日の日没後に、婦人たちは香油を買い求め、そして日曜日の朝早くにそれを持って墓にでかけたと思われます。この婦人たちは、主イエスがガリラヤ地方で福音宣教をしておられた時から、主イエスに従い、主イエスと弟子たちの身の回りのお世話をして仕えていたのでしょう。そして今、愛し、尊敬する主イエスに対する最後の奉仕として、そのお体に香油を塗るという、やり残した奉仕をするために、墓へと急いだのでした。

 この三人の婦人たちの名前は15章40、41節では、主イエスの十字架の死の証人としても挙げられています。また、15章47節では、そのうちの二人は主イエスの葬りの証人でもありました。そしてこれから、彼女たちは主イエスの復活の証人とされるのです。

これは実に驚くべきことです。古代社会では一般に婦人の社会的地位は低く、イスラエルでは女性は裁判の法廷では証人として立つことはできませんでした。しかしながら、聖書ではこの箇所でも、また他の箇所でも、女性がその立場と存在を男性とまったく同じに持っているのをわたしたちは確認できます。神のみ前では、男性、女性、その他の人間の側の区別とか差別とかは全くなくなります。

「女性は男性と同じ」というだけではなく、ここでは「男性に代わって女性が」と言うべきかもしれません。主イエスの12弟子たちはここには一人も登場してきません。彼ら男性たちはどこへ行ったのでしょうか。彼らは主イエスの十字架から逃げ去りました。14章31節にこのように書かれていました。「ペトロは力を込めて言い張った。『たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません』。皆の者も同じように言った」。しかし、そのペトロは主イエスの裁判を前に、「わたしはあの男を知らない」と、三度主イエスを否定しました。そして今、ペテロだけでなくすべての弟子たちは、男たちは、十字架から逃亡し、主イエスを見捨て、姿を消しているのです。その代りに、婦人たちが、主イエスの十字架の死と葬りと、そして復活の証人として立っているのです。

なぜ、このようなことが起こっているのでしょうか。それは、神の選びの不思議だと言ってよいでしょう。神の選びはしばしばこのようになされます。旧約聖書で神がイスラエルの民をご自身の契約の民としてお選びになったのも同様でした。申命記7章6節以下に、神がイスラエルをお選びになられた理由についてこのように書かれています。「神があなたがたを選んでご自身の宝の民とされたのは、あなたがたが他の民よりの数が多かったからではない。ただ、あなたがたに対する神の愛のゆえに、神はあなたがたを奴隷の家エジプトから導き出され、救われたのだ」(申命記7章6~8節参照)と。イスラエルの選びは神の一方的な愛によるのです。わたしたち一人一人が神に選ばれ、神の民に加えられるのも同様です。

また、使徒パウロは神の選びについて、コリントの信徒への手紙一1章26節以下でこう言います。「あなたがたが選ばれて教会の民の中に加えられた時のことをよく考えてみなさい。あなたがたの中には知恵のある者や能力がある者、家柄のよい者が多かったわけではない。神はあえて、世の無学な者を、無力な者を、身分の低い者を選んで教会の民とされたのだ。それは、だれ一人神のみ前で誇ることがないようにするためなのだ」(26~31節参照)と。わたしたちが神に選ばれたのも同様です。それゆえに、わたしたちはただ主なる神のみを誇り、主なる神のみに栄光を帰するのです。

主イエスの十字架の死と葬り、そして復活の証人として選ばれた婦人たちは、主イエスを死の墓からよみがえらせ、人間を罪と死の支配から救われる全能の主なる神に栄光を帰するために、ここに立たされているのです。

さて、主イエスの墓を訪れた婦人たちは、「週の初めの日の朝早く、日が出るとすぐ墓に行った」と書かれています。ここでは、「初めに、早く」ということが三度も繰り返され、強調されています。婦人たちはだれよりも早く起きて、だれよりも急いで、主イエスの墓へと出かけたのでした。主イエスに対する彼女たちの大きな愛と尊敬の思いが伝わってきます。

けれども、だれよりも早く行動した彼女たちよりも、さらに早く、主なる神が行動しておられたということを彼女たちはすぐに知らされます。彼女たちは道々こう話し合っていました。「だれが、墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(3節)と。けれども、彼女たちの心配は全く必要ないものでした。「目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」と続けて4節に書かれてあります。

だれよりも大きなイエスに対する愛と尊敬の思いを抱いて、だれよりも急いで主イエスの墓を訪れた彼女たちでしたが、それよりもさらに早く、さらに大きな力をもって、主なる神がすべての行動をなしておられ、主なる神が重い墓の石を取り除かれ、主なる神が墓の中から主イエスを復活させられたということを、彼女たちは間もなく知らされます。彼女たちの不安や不可能を越えて、主なる神が彼女たちのために、そしてわたしたちすべての人々のために、力強い救いのみわざをなしてくださるのです。

【5~7節】。「白い衣を着た若者」とは天使、神の使いのことです。神が地に住む人間にみ言葉をお語りになる際には、このように天使のお姿で語りかけられます。墓を訪れた婦人たちは、主イエスのお体を納めた墓が空になっており、その代わりにそこにいた神の使いから、神のみ言葉を聞いたのでした。ここに、重要なポイントがいくつかあります。

一つには、墓が空であったということです。彼女たちが最後の奉仕としてそのお体に香油を塗ろうとして墓に急いだのでしたが、その肝心の主イエスの亡骸がそこにはありませんでした。彼女たちの最後の奉仕ができなくなったのです。できなくなったというよりは、もはやする必要がなくなったと言うべきでしょう。彼女たちの死者に対する奉仕は不要になったのです。なぜならば、主イエスは復活なさったからです。彼女たちはこれからのちは、死者のために奉仕するのではなく、死から復活された方のための奉仕へと、召されているのです。

そのことは、彼女たちだけに当てはまることではありません。主イエスの復活を知らされた、わたしたちすべてに当てはまることです。わたしたちはもはや死者のための奉仕をすべきではありませんし、する必要はありません。死すべき者や死そのもののために奉仕したり、働いたり、仕えるべきではありません。それは、仕える者も仕えられる者も、共に死に支配され、死に向かって進んで行くほかにありません。その行き着く先は、死以外ではありません。

しかし、今や主イエスによって死から復活の命へと至る新しい道が開かれました。わたしたちは今からは死んで復活された方のために、死に勝利された方のために、仕え、働き、そのお方のために生きるのです。

もう一つの重要な点は、墓が空になった理由が神のみ言葉として告げられたことです。主イエスのお体が墓の中にないのは、主イエスが復活なさったからだと神の使いは告げます。墓の石を取り除いたのは、全能なる神であり、その神が主イエスを死からよみがえらせたのだと、神ご自身が語られたのです。主イエスの復活の出来事は、神ご自身からの語りかけとして、わたしたちは聞くことができるのです。何らかの科学的な証明によって説明できるものではありません。彼女たちが主イエスの復活の証人となったのは、神が語られたみ言葉を聞き、それを信じたからです。そして、その証拠として、空になった墓を見ました。

「主イエスは復活なさって、墓の中にはおらない。復活された主イエスはあなたがたが最初に弟子として召し出されたガリラヤで再びあなたがたにお会いするであろう」(7節参照)。婦人たちはこの復活のメッセージを携えて、弟子たちのところへ行くようにと命じられました。

ところが、8節にはこう書かれています。【8節】。主イエスの復活の証人となった婦人たちは、「震え上がる」ほどの、「正気を失う」ほどの、恐怖に襲われて、「だれにも何も言わなかった」というのです。これは一体どういうことでしょうか。

実は、マルコ福音書の本文は、「なぜならば、彼女たちは恐れた」という言葉で終わっています。福音書の終わりの言葉としては、あまりにも不自然です。そこで、のちの人たちは、このあとに続いていた部分が脱落したのだと考えました。当時の書物は、パピルスで作られた紙に書かれ、それを巻物にしたり、何枚かを折りたたんで一冊の本にしていましたから、容易にちぎれて紛失することがありました。『新共同訳聖書』では、「結び一」「結び二」として、のちに他の福音書を参考にしてつけ加えられた文章を付録として記録しています。

しかし、ある学者は、この終りが本来のマルコ福音書の終わりなのだと考えています。つまり、主イエスが墓から復活されたという出来事は、その証人となった婦人たちにとっては、それのみでなく、すべての人にとっても、人間の理性や常識では考えることができないほどの、驚くべき奇跡であり、死すべき運命にある人間にとっては、すべの言葉を失ってしまうほどの恐怖、驚愕と言うべき出来事なのだということをこの福音書は強調しているのだというのです。

主イエスの復活はいわゆる蘇生、生き返りではありません。主イエスは永遠の命へと復活されたのです。人間の罪とその結果である死に勝利されたのです。それは、いまだだれ一人としてなしえなかった偉大なる奇跡です。人間の能力や知恵や、またあらゆる科学の力を越えた全能の父なる神のみわざです。わたしたちはただ、大いなる恐れとおののきとをもって、そしてまた、大きな感謝と喜びとをもって、主イエスの復活の福音を信じ、わたしたちに約束されている永遠の命を信じるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪ゆえに死すべきであったわたしたちのために、あなたのみ子主イエスが、死の墓から復活されたことを感謝いたします。どうか、わたしたちに復活の信仰を与え、永遠の命の約束を信じさせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月24日説教「神を恐れたヘブライ人の助産婦たち」

2024年3月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)
聖 書:出エジプト記1章15~22節
    使徒言行録7章17~22節
説教題:「神を恐れたヘブライ人の助産婦たち」

 教会の暦ではきょうは棕櫚の主日、今週は受難週になります。わたしたちの罪のために血を流すほどの戦いをされた神のみ子のお苦しみを覚えながら、次週の復活日の主日に備える日々でありたいと願います。
 出エジプト記を学び始めています。主イエスが誕生される1300年ほど前の、神の民イスラエルの誕生について記しているこの書は、そののちのイスラエルの信仰の土台を築く重要な意味を持っていました。そのイスラエルの信仰は、さらにさかのぼれば、400~600年前の族長時代のアブラハム、イサク、ヤコブの信仰を受け継ぐものでした。正確に言うならば、彼ら族長の信仰を受け継ぐと言うよりは、彼ら族長に対する神の永遠の約束が継承されていると言うべきかもしれません。創世記15章13節以下で、神がアブラハムに約束されたみ言葉はこうでした。【13~14節】(19ページ)。神はヤコブ・イスラエルの子どもたちがエジプトに寄留していた400年以上もの間、この約束を決してお忘れにはなりませんでした。そして、その約束の成就が出エジプトという出来事だったのです。
 きょうは1章15節以下を学びます。前回も少し触れましたが、エジプトでの400年余りの滞在期間に、ヤコブ・イスラエルの子どもたちがどのような信仰生活を送っていたのか、そしてどのようにして70人で移住した彼らが異教の地で増え広がり、エジプトの王が脅威を覚えるほどに強い集団になったのかについては、聖書の具体的な証言はありませんが、きょうの箇所で、エジプト滞在中の彼らの信仰がどのようなものであったのかを、わたしたちは伺い知ることができるように思います。
 すでに12節には、「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がった」と書かれていました。それから、17節には【17節】、また【20~21節】にも。これらのみ言葉から分かるように、イスラエルの子どもたちがエジプトという異教の地で、宗教も生活環境も全く違う地で、どのようにその信仰と生活のアイデンテティを保ち続け、神の約束のみ言葉を信じ続けてくることができたのか、わたしたちは容易に推測することができます。彼らが信仰を守り続けてきたと言うよりは、彼らが信じていた主なる神のみ力とお導きによることであったと言うべきでしょうが、彼らはその神を礼拝し続けていたのです。ヘブライ人の助産婦たちはその神を恐れたのです。エジプトの王ではなく、自分たちが受けるであろう不利益や迫害でもなく、ただ主なる神を恐れ、その神に服従したのです。その信仰こそが、おそらく、400年以上のエジプトでのイスラエルの子どもたちを導いたのです。
 エジプトの王(一般にファラオと呼ばれます。その王の名前はここでは明らかにされてはいませんが、前回お話ししたように、紀元前14世紀から13世紀ころのセティ一世、またはラメセス二世が考えられます)は、数においても脅威においても増え続けるヘブライ人を弾圧するために、先に13~14節に書かれていた強制労働をより過酷なものにするだけでは足りず、15節以下に書かれてあるように、新たな民族撲滅政策を考え出しました。【15~16節】。エジプトの王は増え続けるヘブライ人を恐れ、何としてもそれを食い止めようと、非常手段にでます。戦争の時に戦力となる男子は生まれた時に殺すようにヘブライ人の助産婦二人に命じます。
 このエジプト王の命令は、主イエスが誕生された時のユダヤ人の王ヘロデが出した命令を思い起こさせます。ヘロデ王は主イエスが誕生されたベツレヘム近郊の2歳以下の男の子をみな殺すようにと命じました。この世の権力を誇る王たちが、武器を持たない民衆を恐れ、自らの恐れを払いのけようとして、最も弱い存在である幼い子どもたちを犠牲にするという現象は、いつの時代にも共通しているように思われます。神なき世界、神を恐れることをしない人間たちの世界では、このような悲惨な出来事が繰り返されていくほかにないのです。
 15節に、ヘブライ人の二人の助産婦の名前が紹介されています。シフラとは、ヘブライ語で「美、美しさ」、プァは「輝き、光輝」を意味します。まさに、この二人の助産婦は異教の地エジプトで、しかも、迫害と苦難の中でも、美しく光り輝き、「地の塩、世の光」(マタイ福音書5章13節以下参照)として、しっかりとした足で固く立ち続けています。神を恐れ、神に仕える彼女たちの信仰から出る美しさ、輝き、強さを表す名前と言えます。エジプトの宮殿で着飾っている婦人たちよりも、この二人のヘブライ人の婦人たちの方が、はるかにその美しさに光り輝いています。
 それにしても、強大な王国であるエジプトの王の名前が、ここでは一度も挙げられていないことを改めて気づかされます。寄留の地で迫害のただ中にあって、神を恐れている二人の助産婦の美しい名前が聖書に記されていることの意味をかみしめたいと思います。聖書の中では、神のみ前にあっては、彼女たちの方が尊い存在であり、神に覚えられているのです。この世にあっては目立たない、いと小さな存在であっても、神を信じ、神に従う信仰者を、神の国にあっては、その名を永遠の命の書に記された、かけがえのない尊い存在として、神は迎え入れてくださるのです。
 【17~19節】。ヘブライ人の助産婦たちはエジプト王の命令を聞きませんでした。この世の支配者であるエジプト王ファラオを恐れず、神の国の支配者であられる主なる神を恐れました。主なる神を恐れるとは、ここでは具体的には主なる神がお与えになる新しい命を尊ぶということになるでしょう。人間の命はすべて主なる神から与えられます。主なる神に属するものです。生まれいずる途中の命であれ、死を直前にした命であれ、すべての命は主が与え、主がそのみ手に治め、定められた時に主がお取りになる命です。助産婦たちはその命をお与えになる主なる神を恐れました。そうである時に、人間の命は最も尊く、守られるのです。
 17節には、「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはしなかった」と書かれています。神を恐れる信仰者はこの世の権力者をも、またこの世から受けるかもしれない攻撃や迫害をも恐れません。主なる神のみ言葉に聞き従い、その神に信頼して、わが身のすべてをゆだねます。神はそのような信仰者を固く支え、勇気を与え、導いてくださいます。
 19節で、ヘブライ人の助産婦が、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです」とファラオの質問に答えていますが、それが事実であったかかどうかは別として、機転を利かした賢い答えであったと言えましょう。神はフアラオの前に立つ彼女たちにこのような知恵と勇気とをお与えくださいました。
 【20~21節】。神は、神を恐れる信仰者に豊かな祝福と大きな恵みとをお与えくださいました。エジプト王ファラオが計画したこととは全く反対に、神の民の数は増し加えられ、助産婦たちは恐怖や不安ではなく、新しい命と祝福を与えられました。エジプト王の意に反して、迫害されるほどに神の民は強い民となって成長しました。神への恐れこそが、信仰者たちを強く、固く、立たしめる力となり、希望となりました。また、神への恐れこそが、信仰者を祝福と恵みで満たしたのです。
 もし、わたしたちが神を恐れないならば、もしこの世が神を恐れない世界であるならば、たとえその世界がいかに華やかに着飾り、繁栄を誇っていようとも、それは、はなはだ貧しく、弱く、みすぼらしいものでしかないでしょう。主なる神を恐れる人間、主なる神を恐れる世界こそが、本当の意味で豊かな、そして健全な世界であるでしょう。
 ここで改めて、神を恐れる信仰について考えてみましょう。この信仰は、族長アブラハムから受け継いだものでした。創世記22章12節には、アブラハムがその子イサクを神に燔祭の犠牲としてささげたときの神のみ言葉が書かれています。【12節】(31ページ)。アブラハムはようやくにして与えられた一人子イサクを神にささげました。自分の全存在に等しい、自分の命そのものであるイサクを惜しまずにささげるほどに、神の命令に徹底して服従したのです。主なる神を恐れたのです。この信仰を、その子イサク、ヤコブが受け継ぎました。そして、エジプトに滞在していたイスラエルの子どもたちは、400年以上にわたってこの信仰を受け継ぎ、二人の助産婦たちもまたこの信仰を受け継いでいたのです。
 箴言1章7節にはこのように書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」。主を畏れる信仰は旧約聖書全体のイスラエルの民へと受け継がれていったということを、わたしたちは確認することができます。
 【22節】。エジプト王ファラオは神の民イスラエルに対しての新たな迫害の命令を出しました。この命令はより一層ヘロデ大王の「2歳以下の男の子をみな殺せ」という命令に近づいています。二人のヘブライ人の助産婦だけが対象になる命令ではなく、全ヘブライ人に対して、またその周辺にいる全エジプト人をも対象にした命令です。しかし、その新たな迫害の中で、神の奇跡によって、一人の指導者モーセが誕生することになるのです。
 ヘロデ大王の残虐な幼児皆殺しの命令の中で、全世界の救い主イエスが誕生されたことをわたしたちは知っています。そして、そのおよそ30年後に、最も悲惨で悲劇的で、全世界を暗黒で覆い尽くすかのような主イエス・キリストの十字架の死によって、神の驚くべき救いのみわざが成就されたということを、わたしたちは知っています。神は、人間の不信仰と罪のただ中で、神の民の苦難と試練のただ中で、神の民のために、信仰者のために、ご自身の救いのご計画を進めてくださり、神を恐れ、神に従う一人一人のために、最も良き道を備えてくださるということを、わたしたちは知っています。

(執り成しの祈り)
○天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠から永遠に変わることなく、あなたを信じ、恐れる者たちに豊かに与えられることを信じます。あなたは、信じ従う信仰者を決してお忘れにはなりません。たとえ、わたしたちが忘れても、あなたはわたしたちをお忘れにはなりません。たとえ、わたしたちが迷っても、あなたはわたしたちを正しい道へと導き返してくださいます。たとえ、わたしたちが疑い、倒れるようなことがあっても、あなたは常に真実であられ、あなたの愛と義はわたしたちから離れることはありません。
○主なる神よ、わたしたちがいつも信仰の目を開いて、あなたから与えられている恵みと祝福とを、感謝して受け取る者としてください。あなたの招きと導きに喜んで従う者としてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月17日説教「聖書と聖霊なる神」

2024年3月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(31)

聖 書:イザヤ書55章8~11節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「聖書と聖霊なる神」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者で」。きょうはこの中の「その中で語っておられる聖霊は」という箇所について、聖書のみ言葉から学んでいきます。

 まず、1890年(明治23年)の旧『日本基督教会信仰の告白』と比較してみましょう。それはこうなっていました。「古(いにしえ)の預言者使徒および聖人は、聖霊に啓迪(けいてき)せられたり。新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。この最初の文章、「古の……せられたり」が新しい『信仰告白』では削除され、その代わりに、「主イエス・キリストを顕かに示し」という文が次の文章につけ加えられています。全体としては、内容的に大きな変化はないと言えます。預言者や使徒たちが聖霊によって導かれて語り、記した聖書は、旧約聖書も新約聖書も主イエス・キリストを証ししているということが、新しい『信仰告白』ではより明瞭に告白されていると言ってよいでしょう。きょうの説教のテーマである「聖書のうちに語っておられる聖霊は」という部分は全く変わっていません。日本キリスト教会はこの「聖書のうちに語っておられる聖霊は」という告白を130年以上持ち続けてきているということを、わたくし自身、今改めて驚きをもって再認識しているところです。と言いますのも、日本キリスト教会で、わたくしが神学校で学んだことや、牧師仲間で議論したことの中に、この告白に対する積極的な神学的意味を見いだすことはほとんどなかったからです。あるいは、改めて議論するまでもなく、当然のことのようにこの信仰告白を受け入れていたということなのかもしれません。

 そのようなわけで、きょうは聖書と聖霊なる神との関係をわたしたちの教会はどのようにとらえてきたのかを、わたくし自身もまた改めて再確認するつもりで、ご一緒に学んでいきたいと思います。

 この告白の特徴を別の言葉で表現すれば、「書かれた神の言葉である聖書は、今もなお聖霊なる神によって語り続けている」ということであり、また別の側面から表現すれば、「聖霊なる神は聖書のみ言葉によって、聖書のみ言葉をとおして今も語っておられ、働いておられる」という意味になるでしょう。ここでは、聖書の言葉と聖霊なる神のお働きとが分かちがたく、堅く結びついているということが強調されているのです。

 では、「聖書は聖霊によって語っている」ということについて、さらに詳しく見ていくことにしましょう。前回わたしたちが学んだように、聖書は神の霊感を受けて書かれたものであって、聖書の本来の著者は神であり、その中で神ご自身が語っておられる。それゆえに聖書は神の言葉である。これがわたしたちの教会の聖書論です。この聖書論と「聖書は今もなお聖霊によって語っている」ということは一つに結び合っています。それを教えている聖書をもう一度読んでみましょう。テモテへの手紙二3章15節以下にはこのように書かれています。「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」。また、ペテロの手紙二1章20節以下では、「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とあります。

 このように、聖書はすべて聖霊なる神が第一の、本来の著者であり、それは神ご自身が語られた神の言葉であるということを証ししています。それゆえに、聖書は生ける神のみ言葉として、また今もわたしたちをまことの命に生かす神のみ言葉として語られるのであり、今もなお聖霊が、書かれた神の言葉である聖書の中でわたしたちに語っておられるということなのです。したがって、わたしたちが聖書のみ言葉を読む場合に、そこで今、神ご自身がわたしに対して語っておられる神のみ言葉として、聖霊のお導きによって読まなければならないということです。人間の知恵や知識によって聖書を読み、解釈するのではなく、聖霊なる神がお与えくださる神からの知恵によって聖書を読み、解釈すべきだということです。そのとき、神の命と救いの恵みに満ちた神のみ言葉が、わたしに信仰を与え、わたしを罪から救い、永遠の命へと至る道へとわたしを導くのです。聖霊なる神が聖書の第一の著者であると同時に、聖霊なる神が聖書の第一の語り手、また第一の解釈者なのです。

 聖書は今から数千年前に書かれた神の言葉です。しかしそれは、単に過去の記録ではありません。過去の神の救いの出来事の記録というのではありません。聖書は、今も生ける神のみ言葉として、今日のわたしたち一人一人に語りかけられている、生きた、また人を生かす神のみ言葉です。神は今もなお命のみ言葉によって、わたしたちの世界に、わたしたちの生活の中で、わたしの人生の中で、救いの出来事を引き起こしておられます。わたしたちは聖書を読むときには、「神語りたもう。僕(しもべ)聞く」という姿勢をもって読まなければなりません。と同時に、聖書を読むときには、また聖書の解き明かしであり、語られた神の言葉である説教を聞くときには、聖書の第一の著者であり、第一の語り手であり、また第一の解釈者であられる聖霊なる神のお導きを祈り求めつつ、読み、また聞かなければなりません。その時、人間の知恵や能力にはるかにまさった聖霊のお導きによって、この不信仰でかたくななわたしにも神の救いのみわざが起こされるのです。

 次に、「聖霊なる神は聖書のみ言葉をとおして、聖書のみ言葉の中で語られ、働かれる」という点についてさらに掘り下げて学んでいくことにしましょう。この告白においては、聖書のみ言葉と聖霊のお働きとが密接に結びつけられているということが大きな特徴です。このことについては二つの側面があります。一つには、聖霊なる神は聖書のみ言葉と結びつくときに、わたしたちのために最もよく働かれるということです。聖霊は自由な神であられ、場所や時代、手段、方法、いかなるものにも制限されることなく、いつでもどこでも自由にお働きになりますが、そうでありつつ、聖霊は聖書のみ言葉と結びつくときにこそ、最も力強く、最も有効に、わたしたち一人一人の救いのために働かれるということです。聖霊は、聖書に記されている神のみ言葉が、特にその中の主イエス・キリストの十字架と復活の福音が、わたしのための神の救いのみ言葉であることをわたしに信じさせてくださいます。主なる神が今わたしに語りかけてくださる神の命のみ言葉として聞き、それを信じることができるように、聖霊はわたしを導いてくださるのです。

 聖霊なる神のお働きが聖書のみ言葉と結びついているという例は、聖書の中に数多く見いだされます。マタイ福音書3章16節以下には、主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった時のことが書かれています。【16~17節】(4ページ)。ここでは、聖霊の注ぎと神のみ言葉の語りかけとが一つに結び合わされています。また、使徒言行録2章4節では、最初のペンテコステの日の出来事がこのように言われています。「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国の言葉で話し出した」。さらには、ヨハネ福音書14章26節で、主イエスは弟子たちにこのように約束してくださいました。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。このように、聖霊は聖書に記された神の言葉と結びつくときに、また主イエスが語られたみ言葉と結びつくときに、最も力強く、わたしたちの救いのためにお働きくださるのです。

 もう一つの側面は、聖霊のお働きが書かれた神の言葉である聖書に結びつけられることによって、聖霊のお働きがある意味で制限をつけられるのではないかという懸念が生じるということです。制限づけられるという言い方は適当でないかもしれません。聖霊は何度も言うように、何ものによっても制限されることなく、自由にお働きになられるのですから、その意味では全く自由であられ、書かれた神の言葉である聖書に縛りつけられることなく、どこでも、どんな方法によっても、無制限に、自由にお働きになられます。そのことを認めながらも、わたしたちの教会は聖霊の自由を強調するだけでなく、あえて聖霊は聖書のみ言葉と結びついて働かれるということを、強調しているのです。

 なぜそうするのか。おそらくそれは、聖霊派とかペンテコステ派と言われる教派が聖霊を強調して、聖霊の働きを聖書のみ言葉から切り離して考えていることに対する批判があるように思われます。聖霊の自由なお働きを強調するあまり、聖書のみ言葉からは離れた霊の賜物とか、異言を語ることとか、病気をいやす力とか、あるいは個人の聖霊体験とかが重要視される、そのような運動に対する批判や警戒心があるように思われます。もちろん、そのような聖霊の賜物は重んじられるのですが、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一14章19節で、「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語るべきです」と言っているように、聖霊によって主イエス・キリストの救いの福音を語り、信じることこそが重要だとわたしたちは考えているからです。

 わたしたちの教会が「聖書は神の言葉であり、そのなかで語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕かに示し」と告白している意味がここにあるのです。わたしたちは聖霊によって、聖書が神の言葉であることを信じ、その聖書がわたしたちの唯一の救い主であられる主イエス・キリストを証ししており、聖霊のお導きによってわたしたちがそのことを信じるときに、わたしに罪のゆるしと永遠の命の約束が与えられるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちは罪びとであり、あなたのみ言葉を悟るに鈍く、わたしたちの心はかたくなでありますから、どうか聖霊によってわたしたち魂を明るく照らしてください。あなたの救いと命のみ言葉が語られるとき、わたしたちが喜んでそれに聞き従い、あなたのみ言葉によって生きる者としてください。

○わたしたちの教会の愛する姉妹があなたのみもとへと召されました。あなたがその姉妹のすべての信仰の道を導かれ、祝福してくださいましたことを覚え、心からの感謝と讃美とをささげます。また、ご遺族の上に、主からの慰めと平安がありますようにお祈りいたします。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月10日説教「アンティオキア教会の誕生」

2024年3月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書31章10~17節

    使徒言行録11章19~26節

説教題:「アンティオキア教会の誕生」

 使徒言行録11章19節から、アンティオキア教会の誕生と、その初期の活動について描かれています。アンティオキアの町はパレスチナから北へ数百キロメートル、当時のローマ帝国シリア州の首都に定められており、パレスチナと小アジアとを結ぶ交通の要所でもありました。ローマ帝国の中では、ローマとエジプトのアレキサンドリアに次ぐ、第三の巨大都市に発展した町です。

 この町に誕生した教会は、ユダヤ人とそれ以外の異邦人とが混合している教会として、初代教会の歴史上重要な意味を持つようになりました。それ以上に重要な意味を持つのは、このあと13章1節以下に書かれているように、使徒パウロの世界伝道の拠点となったということです。パウロは3回にわたる世界伝道旅行をこの教会の祈りと経済的支援によってなすことができたのであり、またこの教会で良き同労者を与えられて、この教会から送り出されて行ったのでした。もし、アンティオケ教会が誕生していなかったら、またもしアンティオケ教会でバルナバとパウロの出会いがなかったなら、パウロの世界伝道もなかったでしょうし、世界の教会の発展もなかったに違いありません。そのようなことを考えると、ここに書かれているアンティオケ教会誕生の出来事がどんなにか大きな意味を持つことか、そして神がこのように導いてくださったことに、何と大きな、深いみ心があったことか、わたしたちは驚くばかりです。この箇所を、きょうと次の2回にわたって丁寧に読んでいくことにします。

 【18節】。このエルサレム教会の迫害のことは、使徒言行録8章54節以下にステファノの殉教について書かれてあり、8章1節には【1節b】とあります。そして、4節には【4節】と書かれていました。エルサレム教会に対する大迫害によってエルサレム市内から追放され、各地に散らされていったキリスト者たちはサマリヤ地方からパレスチナ全域へと、さらには北部地中海沿岸のフェニキア地方へ、地中海に浮かぶキプロス島にまで、そしてシリア州の首都アンティオキアにまでやってきたと書かれています。エルサレムからは6、700キロメートルの距離です。

 彼らがこれほどの遠い道のりをやって来たのは、迫害を恐れ、逃亡してきたのではありません。彼らが迫害されるきっかけであった主イエス・キリストの福音を携えて、その福音を宣べ伝えるためでありました。教会と信者に対する迫害こそが、このような急速な福音宣教の拡大へとつながったということを、わたしたちは改めて驚きをもって知らされるのです。これこそが、すべての困難や試練の中で働かれる神の偉大なる奇跡です。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないからです。

 迫害によってエルサレムから追放された信者たちは、恐れて身を隠していたのではありませんでした。この世の生活に戻ったのでもなく、迫害を受ける原因となった主イエス・キリストの福音を投げ捨ててしまったのでもありませんでした。彼らは主イエス・キリストの福音を携えて、全世界へと出て行ったのです。神のみ言葉に生きる人はこの世のいかなる困難をも恐れません。神のみ言葉を信じる人はどのような状況の中でも、神のみ言葉を高く掲げ続けます。神のみ言葉の証し人となることによって、力強く生きるのです。

 彼らは初めはユダヤ人にだけ福音を語っていました。それは、神が定められた救いの秩序に適ったことでした。神は初めに全世界の民の中からイスラエルをお選びになり、この民をとおして救いのみわざをなさったからです。けれども、今や主イエス・キリストによって、救いは全世界のすべての人に及び、神の救いのご計画は最終目的に達しました。そこで、主イエスの福音はユダヤ人以外のすべての民に、すべての人に、宣べ伝えられなければなりません。

 【20~21節】。彼らの数人が、キプロス島や北アフリカのクレネ出身の人がいて、彼らはギリシャ語を話していました。当時、エルサレム周辺のパレスチナ地方ではアラム語が一般的でしたので、彼らがギリシャ語を話す人たちに主イエスの福音を語り伝えるきっかけになったと考えられます。実は、以前にもエルサレム教会に対する迫害の箇所で少し触れたことですが、8章1節には、「使徒たちのほかは皆」エルサレム市内から追放されたとありましたが、これはおそらくエルサレム教会でアラム語ではなくギリシャ語を話していた、いわゆるヘレニストと呼ばれていた信者が主に追放されたということではないかと推測されるのですが、そのヘレニストと呼ばれたギリシャ語を話していた信者たちが、ここでギリシャ社会に主イエスの福音を語り伝えることとなったのです。そして、多くのギリシャ語を話す、いわゆる異邦人が主イエスを救い主と信じるようになりました。このようにして、アンティオキアにユダヤ人と異邦人からなる教会が誕生したのでした。このこともまた、人間の予想をはるかに超えた、神の奇しきみわざとしか言いようがありません。

これまでに使徒言行録に記されていた異邦人伝道について簡単に振り返ってみましょう。8章26節以下では、エチオピア人の宦官がピリポから洗礼を受けたことが報告されていました。ここでは、異邦人の救いはまだ個人単位でした。10章では、カイサリアのローマ軍の百人隊長コルネリウスとその一族が洗礼を受け、カイサリア教会が誕生しました。ここでは、異邦人だけからなる教会でした。そして、きょうの箇所では、数人のユダヤ人がアンティオキアの町でギリシャ語を話す異邦人に伝道し、ここにユダヤ人と異邦人からなる教会が誕生したのです。ユダヤ人と異邦人の区別はなくなり、主イエスの福音によって一つに結ばれた教会が誕生しました。ここに至って、神の救いのご計画はその最終目的に達したと言えます。民族の違いを乗り越えて、あるいはまた身分の差や男女の違い、あらゆる人間の違いを乗り越えて、一つの救われた神の民である教会の原型がここに誕生しました。

20節に、「主イエスについて福音を告げ知らせた」とありますが、これは正確に表現すれば、「イエスは主であるという福音を告げ知らせた」という意味です。「主イエス」とは、「イエスは主である」という、初代教会の最も短い、基本的な信仰告白です。わたしたちは一般的に「主イエス・キリスト」と一続きで、一つのお名前のように言いますが、これも正確に表現すれば、「イエスは主であり、すべての人にとっての唯一の主、救い主であり、またキリスト、すなわちメシア、油注がれた者、神が旧約聖書で約束された終わりの日に到来する完全な救い主である」、という内容を含んでいる信仰告白なのです。

「イエスは主である」という信仰告白は、初代教会にとっては大きな意味を持っていました。当時はローマ帝国が世界を支配し、ローマ皇帝が全世界の主(ギリシャ語ではキュリオス)であると考えられていました。実際に、皇帝ドミチアヌスは紀元80年代に、自らの像を主なる神としておがみ、礼拝するように強要しました。また、アンティオキアの町には数多くのギリシャの神々がまつられ、礼拝されていました。

主イエスの福音がギリシャ社会の中で語られることによって、「イエスは主である」という信仰告白はより一層大きな意味を持つようになったのです。ローマ皇帝もギリシャの神々も主ではない。ただお一人、わたしたちのために十字架で死なれ、三日目に復活され、今は天に昇られ、全能の父なる神の右に座しておられる主イエスだけが、全世界を支配しておられ、すべての人を罪の支配から解放される唯一の主である、すべての人によって信じられ、礼拝されるべき唯一の救い主である、と初代教会は語ったのです。

それはもちろん、今日の社会にあっても変わりません。わたしたちはあるいは当時のギリシャ社会よりも、もっと多くのものを主としてあがめているのかもしれません。偉大な国家の指導者とか、金やお金、財産、あるいは地位や名誉とか、高度に発達した技術など、時には自分自身をも主として、神のごとくふるまうことがあるのではないでしょうか。「イエスは主である」という信仰告白は、そのような今の時代でこそ、その深い意味を見いだされなければなりません。この信仰告白こそが、わたしたちを支配する偽りの主から、わたしたちを解放するからです。わたしたち信仰者は、わたしを罪から救うためにご自身の命をもささげ尽くされるほどにわたしたちを愛された主イエスを、わたしの唯一の主と信じることによって、他の何者によっても支配されることなく、すべての偽りの主から解放され、自由にされるのです。この主のもとにこそ、まことの命と平安があるのです。

アンティオキアで最初にギリシャ語で主イエスの福音を宣べ伝えた数人の名前はここには記されてはいません。彼らは無名のキリスト者でした。彼らは生まれ故郷からエルサレムに移り住んでいましたが、教会が受けた迫害によってそこから追放され、また生まれ故郷に戻ることになった人たちでした。悲運な放浪者と言えるかもしれません。けれども、彼ら自身はもちろんそうは思っていなかったでしょう。むしろ、彼らは神に守られ、導かれたみ言葉の宣教者たちでした。21節に、「主がこの人々を助けられたので」とあるとおりです。この主とは神を指しています。彼らには常に神の強い助けのみ手がありました。エルサレムから追放された彼らに、このような大胆で勇気ある伝道活動を可能にさせたのは、主なる神です。主なる神が彼らと共にいてくださり、彼らに力を与え、また彼らの宣教活動によって多くのキリスト者をアンティオキアの町に起こされ、この町に主キリストの教会をお建てくださったのです。

わたしたちはここでも先週の礼拝で聞いたイザヤ書のみ言葉を思い起こします。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。……地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」(イザヤ書52章7節、10節参照)。

聖霊なる神は今もなおわたしたち一人一人の中で働いてくださり、わたしに主イエスをわたしの唯一の救い主と信じる信仰を与え、この異教の地にあって、主イエスこそがすべての人にとっての唯一の主であるという福音を宣べ伝える伝道のわざへと、わたしたちを召していてくださるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いのみわざは今もなお全世界で行われています。あなたのみ名をあがめる者少なく、あなたのみ心から遠く離れた罪と邪悪に満ちたこの世界にあっても、あなたのみ言葉は力を失うことはありません。どうかわたしたちにも、あなたのみ言葉はこの世のいかなる鎖によっても決して繋がれることはないという強い信仰をお与えください。

〇主なる神よ、あなたのみ心が地において行われますように。人間の力や欲望によって、あなたが創造されたこの世界が破壊されることがないように、弱く小さな命が犠牲にされることがないようにしてください。あなたの義と平和が世界のすべての人々に和解を与え、共に生きる社会を来たらせてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

3月3日説教「72人の福音宣教者の派遣」

2024年3月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書10章1~12節

説教題:「72人の福音宣教者の派遣」

 ルカによる福音書ではすでに9章1節以下に、主イエスが12人の弟子を神の国の福音を宣教するために派遣したという記録が書かれていました。きょう朗読された10章では、12弟子とは別に、72人を任命し、すべての町々村々に収穫のための働き人としてお遣わしになったことが書かれています。この二つの記録は、共通した点もありますが、派遣された人数の違いのほかにも違う点が多くあります。そのことに注目しながら読んでいくことにしましょう。

 【1節】。冒頭の「その後」とは、直訳すれば「これらのことのあとで」となり、単なる接続詞よりは強い意味を持ちます。ここでは、主イエスがご自身のご受難の時が近づいてきたのを感じとられ、9章51節に書かれていたように、「エルサレムに向かう決意を固められた」ことが強く意識されていると思われます。主イエスのご受難と十字架の死によって、主イエスが宣べ伝えられた神の国の福音がいよいよその最終目的に近づいている、救いの時が成就される、その日が迫ってきているという緊迫感がここにはあります。

 次に、「主は」と書かれています。主イエスのことですが、これまでルカ福音書では、主イエスがだれかに呼びかけられるときには、「主よ」と言われていたことはありましたが、主イエスが主語の文章で、イエスを主と表現している箇所はありませんでした。ここで初めて「主」と書かれていることも、前にお話ししたエルサレムでのご受難の時が迫ってきていることと関連していると考えられます。主イエスが全人類の救い主となられる時が迫っているということを、ルカ福音書は暗示しているのです。

次に、72人という数字から、9章とは違った意味を読み取ることができます。聖書では、70、あるいは72という数字は特別の意味があります。12人の弟子たちは、イスラエル12部族を象徴し、イスラエル全体を象徴していると考えられましたが、72人は、全世界のすべての民を象徴していると考えられます。ルカ福音書は主イエスの十字架と復活、そして聖霊降臨と教会誕生を、いわば先取りして、やがて主イエスの十字架の福音が全世界に宣べ伝えられることをあらかじめこの数字によって予告していると考えられます。

主イエス・キリストの十字架の福音は、全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられねばなりません。主イエスの救いの福音は、すべての人が聞かなければなりません。それが主なる神の救いのご計画だからです。すべての人は罪のゆえに神から離れており、神の裁きを受けて死すべき者と定められています。主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって罪ゆるされ、救われることによって、人はみなまことの命を生きる者とされるからです。のちに、復活された主イエスは、この福音書の24章41節で弟子たちにこのように言われました。「罪のゆるしを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。……あなたがたはこれらのことの証人となる」と。

「任命する」と「遣わす」という言葉を取り上げてみます。9章では、「12人を呼び集め」、「権能をお授けになり」、「遣わす」と書かれていました。いずれの場合も、主語は主イエスです。主イエスが72人を選び、任命し、派遣されます。ここに、宣教のために遣わされる弟子たちの基本があります。ここにはまた、教会に集められ、礼拝者とされているわたしたち信仰者の基本もあるのです。わたしたちが信仰者となり、キリスト者とされたことも、主イエスの選びによるのであり、また主イエスの派遣によってこの世へと遣わされていくのです。

 もし、わたしが自分の判断で選んだのであれば、それには誤りも失敗もあるかもしれません。迷ったり、疑ったり、たじろいだり、恐れたりすることがあるかもしれません。実際、そういうことを経験もするでしょう。けれども、その時にわたしたちは主イエスの弟子であることの、この基本を思い起こすべきです。わたしが選んだのではない。わたしが自分の足で立つのではない。主イエスがこのわたしをお選びになり、主イエスがこのわたしをお遣わしになられたのだということを。そこにこそ、弟子たることの、またこの世に派遣されることの基本と、確かさと、力と希望があるのだということを、わたしたちは思い起こすのです。

1節でもう一つ触れておきたいことは、「二人ずつ」ということについてです。主イエスは弟子たちが福音を述べ伝えるにあたって、二人一組にして派遣されました。初代教会でも多くがその例にならったことが、使徒言行録の記録から分かります。8章14節ではペテロとヨハネが、13章2節ではパウロとバルナバが、15章39節ではパウロとマルコが、二人一組になって宣教活動に行ったことが記録されています。二人だとお互い協力し合い、助け合い、励まし合うことができるという面もあるでしょうが、それ以上に大きな理由がここにはあります。それは旧約聖書の律法に、重要な証言は二人または三人の証人によらなければならないと定められていることに関連しています。弟子たちは神の国の福音の証人として、主イエスの十字架による罪のゆるしと救いのみ言葉の証人として遣わされるのでありますから、その証言が確かであり、真実であることが、それによって証明されるのです。

さて、2節からは72人の弟子たちを主イエスが派遣する具体的な目的について、また彼らがその務めを果たすにはどうすべきかについて語られています。【2~3節】。この二つの節は、9章の12弟子の派遣の箇所には書かれていませんでした。その時とは違った、新しい局面が迫っていることが暗示されています。

新しい局面の第一は、今は収穫の時だということです。そして、多くの収穫が約束されているということです。収穫とは、失われていた人間の魂を買い戻すことだと言ってよいでしょう。ヨハネ福音書4章35節で、主イエスはこのように言われました。「目を上げて畑を見よ。はや色づいて刈り入れを待っている。刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」(35、36節参照)と。主イエスの十字架による救いの時が今やってきた。罪のゆえに失われ、死んでいた人間の魂が神のみ子の尊い血によって買い戻された。その魂を集め、永遠のみ国へと招き入れるために、今は働き人を必要としている。その働き人として、わたしはあなたを遣わすのだ。そのように主イエスは言われます。

ただ、ここで重要なことは、弟子たちが自分の力や努力で実を刈り取り、収穫を増やすのではありません。「収穫の主に願いなさい」と命じられています。収穫の主は父なる神であり、み子主イエスです。収穫の主が、すでに多くの収穫を用意していてくださるのです。それは働き人たちにとっての確かな約束であり、希望であり、慰めです。弟子たちはそのことを信じて、収穫の主に祈り求めつつ、働き人としての務めを果たすことができます。

 もう一つは、収穫のために遣わされる働き人は困難な状況の中へ、危険が待っている世界へと派遣されるということです。狼は最も野蛮で、どう猛で、攻撃的な生き物の象徴であり、子羊は最も弱く、無防備で、無抵抗な生き物の象徴です。その両極端な生き物を例に挙げることによって、働き人が遣わされるこの世界がいかに罪深く、かたくなで、福音を聞く耳を持たないかが強調されているとともに、それゆえに働き人の務めがいかに困難であり、危険に満ち、抵抗や反撃、苦難と迫害に満ちているかが強調されていることになるのですが、しかしそれ以上にここで強調されていることは、そのような困難な世界へと派遣されていく働き人に対する、主イエスの固い約束であり、収穫の約束であり、収穫の主であられる主なる神の守りと導き、それが強調されているのです。

 次の4節からの命令は、9章との共通点が多くあります。いくつかのポイントにまとめてみましょう。

 一つは、持ち物に関してです。主イエスは普通の旅行者が持っていくような最低限の持ち物すらも持っていくなとお命じになりました。それらの持ち物を用意している余裕がないほどに、時が切迫している。今すぐにでも、何も持たずに、出発しなければならないからです。また、旅の途中で必要になるものは、主なる神が必ず備えてくださるという強い信仰を持つことが大切だからです。さらには、携えていくべきものは、主イエスの福音だけで十分だからです。主イエスの福音を携えていく福音宣教者の足は、いつどのような時にも、主なる神によって守られ、導かれるからです。

 第二点は、遣わされた町々村々で、福音宣教以外のことで、時間を無駄にしないようにすることです。4節では「途中でだれにもあいさつするな」と命じられていますが、これはあいさつすることを禁じているのではなく、急いで目的地に着き、託された務めを果たしなさいということだと考えられます。

 5節では、目的地に着いたならば、最初に「この家に平安があるように」と祈り、あいさつをするようにと命じられています。福音を宣教するために遣わされた働き人は、神からの平安を持ち運びます。この平安は、地上でわたしたちが手に入れることができるような平安ではありません。地上のどのような平安よりも、はるかにまさった天の神から与えられる平安です。神との豊かな交わりの中にある永遠の祝福です。イザヤ書52章7節にこのように書かれています。「いかに美しいことか。山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる……。地の果てまで、すべての人がわたしたちの神の救いを仰ぐ」(7節、10節参照)と。

 7節以下では、当時のユダヤ人の巡回伝道者に対する一般的なもてなしが背景になって語られています。巡回伝道者は非常に尊敬されていましたから、良いもてなしを期待して家々を渡り歩く伝道者も少なくなかったと言われています。しかし、主イエスの福音を持ち運ぶ働き人は、この世の評価や待遇に左右されることは全くありません。福音のための働き人は主なる神にお仕えする者だからです。主なる神からの報酬を約束されているからです。また、この世での成功を求めてなされるのではないからです。たとえ、その働きが人々に受け入れられず、人々が福音に耳を傾けないとしても、働き人自身がそれによって裁かれたり、不名誉になったりすることはありません。救いのみわざは主なる神がなさることであり、救われるか救われないかは、主なる神がお決めになることです。働き人は自ら神の国の福音に生かされている者として、感謝と喜びとをもって、主イエス・キリストの福音の証し人としての務めを果していくのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたはわたしたち一人一人をお選びくださり、あなたの救いにあずからせ、また福音の証し人として立たせてくださいます。感謝いたします。主イエスのみ言葉に支えられて、地の塩、世の光として歩ませてください。主がいつも共にいてくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。