8月29日説教「裁きではなく、ゆるしを」

2021年8月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書61章1~3節

    ルカによる福音書6章37~42節

説教題:「裁きではなく、ゆるしを」

 ルカによる福音書6章20節以下で、主イエスが教えられた「平地の説教」を続けて学んでいます。27節~36節では、愛することについて、特に、わたしの敵をも全く無条件で愛する特別な愛について教えられていました。きょうの礼拝で朗読された37節からは、ゆるしについて、裁くのではなく、人をゆるし、人に与えることについて教えられています。愛とゆるし、この二つはキリスト教の教えの大きな特徴です。キリスト教は「愛の宗教である」とよく言われますが、より正確には、「愛とゆるしの宗教である」と言うべきでしょう。

 その際に、わたしたちが第一に確認しておくべきことは、聖書が語る愛とゆるしは、その起源、その土台、またその目標は、主イエス・キリストの十字架の福音によってわたしたちに示された神の愛とゆるしにあるということです。神の愛とゆるしこそがわたしたちの愛とゆるしの起源、土台、また目標であるということです。

 そのことを語るみ言葉が、前回読んだ35節後半~36節です。【35節c~36節】。いと高き天におられる父なる神が、すべての人に対して、神から離れていた罪びとにも、神に背いていた悪人にも、情け深く、憐れみ深く、愛に満ちたお方であり、すべての罪をおゆるしになる神であられるから、そしてわたしたち一人一人が、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって、その神の愛とゆるしにあずかっているのだから、さらにはまた、わたしたちも愛とゆるしへと招かれているのだから、主イエスはここで「あなたの敵を愛しなさい」と命じ、「人を裁くな、ゆるしなさい」と命じておられるのです。

 ここで確認しておくべきもう一つの重要な点は、神の憐れみを受けているわたしたちが、その神の憐れみを手本にして、それを真似て、わたしもまた憐れみ深くなることができるということではなくて、そこには神の憐れみによる人間の罪のゆるしと新しい人間の再創造があるということをとらえておくことが重要です。わたしたち人間はみな無慈悲で、自己中心的で、愛も思い遣りもない、罪多い者たちです。そうでありながら、神の大きな憐みによって神に愛されており、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされているのです。わたしたちはすでに神に愛されている者たちとして、すでに神によって罪ゆるされている者たちとして、「あなたの敵を愛しなさい」「人を裁くな。ゆるしなさい」という主イエスの戒めを聞いているのです。そのような新しい歩みへと招かれているのです。

 では、37節から読んでいきましょう。【37節】。「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」、この主イエスの命令の背後には、常に自分を主と考え、自分だけは正しいとする人間の傲慢と、他の人を簡単に裁くことによって自分を防御し、自己主張しようとする人間の罪の姿があります。また、そのような人間の罪によって深く病んでおり、傷ついている現実社会があります。主イエスの時代もそうでした。主イエスは当時の宗教的指導者たちを非難してこう言われました。「あなたがたファリサイ派・律法学者たちは不幸だ。会堂では上席につき、広場では挨拶されることを好んでいる。人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとはしない。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。そのような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と(ルカ福音書11章37節以下、20章46節以下参照)。他の人を裁き、その小さな悪をもゆるすことができず、互いに裁き合い、奪い合っている人間の罪の現実、深く病み、傷ついている社会の現実、それは主イエスの時代から2千年を経た今も変わりません。

 そのようなわたしたちに向かって、主イエスは「人を裁くな」「人を罪に定めるな」「ゆるしなさい」とお命じになります。そして、その命令のあとには、「そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」という約束を語っておられます。後半の約束の個所はすべて受動態です。「裁かれない」「罪びとだと決められない」「ゆるされる」。この受動態の文章の意味上の主語は神だと考えられます。聖書の中で、意味上の主語が隠されている受動態の文章は数多くありますが、そのほとんどは神が主語と考えられています。つまり、「あなたがたは神によって裁かれない」「あなたがたは神によって罪びとだと決められない」「あなたがたは神によってゆるされる」という主イエスの約束がここでは語られているのです。

 わたしたちはここからさらに深く主イエス・キリストの福音を聞き取ることができます。わたしたちに「人を裁くな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、父なる神によって裁かれ、それによってわたしたちが受けるべき神の裁きを取り去ってくださったのだということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも裁くべきではないし、裁く必要はないのです。

また、わたしたちに「人を罪びとだと決めるな」とお命じになった主イエスは、ご自身が罪なき聖なる方であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちに代わって、罪ありとされ、十字架につけられて神の呪いを受けてくださり、それによってわたしたちを呪いから解放してくださったということをわたしたちは知らされるのです。それゆえに、わたしたちはだれをも罪びとだと決めるべきではありません。

そしてまた、わたしたちに「ゆるしなさい」とお命じになった主イエスは、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちすべての罪びとたちの罪をおゆるしになるために、ご受難と十字架への道を進み行かれました。それゆえに、わたしたちはみな罪ゆるされ、罪の奴隷から解放されているのですから、すべての人をゆるすべきであり、ゆるすことができるということをわたしたちは知らされるのです。

 次の38節も同じ形式の文章ですが、「そうすれば」のあとに多くの約束が付け加えられています。【38節】。わたしたちはここでも、「そうすれば」以下の後半に注目したいと思います。神はわたしたち罪びとたちにご自身の最愛のみ子をすらお与えくださいました。わたしたちを罪から救うために、み子を十字架の死へと引き渡されました。わたしたちは何と大きな、豊かな、尊い恵みを与えられていることでしょうか。しかも、神はその恵みをわたしの体と心の隅の隅までもいっぱいにして、あふれるほどに与えてくださるというのです。わたしが他の人に惜しみなく与えれば与えるほどに、神はわたしにあふれるほどに豊かに与えてくださると言われる主イエスの約束は、わたしを感謝と喜びに満たし、わたしをすべての欲望と自我と傲慢から解放します。奪い取るのではなく、惜しみなく与える新しい人にわたしを再創造します。

 39節と40節は、マタイ福音書では違った文脈に置かれています。39節は、マタイ福音書では15章1節以下のファリサイ派と律法学者の偽善的な信仰を主イエスが非難される文脈に置かれています。また40節は、マタイ福音書10章24~25節では、教師であられる主イエスがこの世から迫害を受けるならば、弟子である者もそれと同じ道を行くことになるであろうという文脈に置かれています。

ルカ福音書のこの個所でも、主イエスは当時のユダヤ教の偽善的な指導者たちに対する批判を含め、正しく人を導く指導者のあり方を教えておられると理解してよいと思います。わたしたちキリスト者にとっての唯一の正しい指導者は、わたしのためにご自身の命を投げ出しくださった主イエス・キリストですから、いついかなる時にも、主イエスの導きに従い、主イエスがお示しくださる道を進むことこそが、わたしにとっての救いの道であり、命の道です。主イエスに聞き従っているならば、わたしたちは滅びの穴に落ち込むことはありません。

 41節以下を読んでみましょう。【41~42節】。マタイ福音書7章1~2節では、「人を裁くな」という主イエスの戒めにすぐ続いて、3節から「目の中にある丸太とおが屑のたとえ」が語られています。つまり、ルカ福音書では7章39節と40節がその間に挿入されていることになります。

人を簡単に裁こうとし、人をゆるすことができないわたしたちは、他人の欠点や過ちにはすぐに気づき、過敏に反応しますが、自分の欠点や失敗には目をつぶろうとします。自分にはもっと大きな欠点や欠けがあるのに、それには気づかずに他の人を裁こうとします。目の中にある丸太とおが屑という、グロテスクな比喩によって、主イエスはわたしの中にある罪の大きさに気づかせようとしておられます。自分の罪に気づかず、それを認めようとしない人間の愚かさ、かたくなさを語っておられます。

 それと同時に、罪を知らず、罪を認めず、依然として罪の中にとどまり続けようとするわたしたちのために、ただお一人、罪と戦うために十字架への道を進み行かれた主イエスへとわたしたちの目を注がせます。主イエスはわたしたちの目の中にあった大きな丸太をご自身の十字架の死によって取り除いてくださいました。わたしたちが信仰の目をもってわたしの隣人を見ることができるように、そしてその隣人のためにも主イエスは死んでくださったのだということを証しするようにとわたしたちを導いておられるのです。主イエス・キリストの十字架の福音を聞いているわたしたちは、裁きではなくゆるしの道を、奪い合うのではなく与え合う道を、そして共に罪ゆるされているゆるしの共同体としての道を、共に進む者たちとされているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちに与えられているあなたの大きな恵みを信仰の目を開いて受け止め、それに心から感謝し、またそれをわたしの隣人に分け与えることができますように、わたしたちを導いてください。

〇天の神よ、この世界に戦いや奪い合いではなく、和解と分かち合いをお与えください。人々の心に裁きではなくゆるしをお与えください。

〇心や体に痛みを覚えている人たち、重荷を背負っている人たち、道に迷い、不安や恐れの中にある人たち、飢えと渇きの中で泣き叫んでいる子どもたち、その一人一人に、神よ、あなたが共にいてくださり、必要な助けを与え、慰めと励ましをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月22日説教「良いことばかりではないけれど」

聖書:申命記28章1~8節

 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章6~10節

説教者:日本キリスト教会神学生 田中康尋

良いことばかりではないけれど 「祝福」。この言葉を、インターネットの画像検索で検索してみる。すると、「祝福」という言葉を題名に含む、たくさんの写真やイラストが出てくる。某宗教団体の合同結婚式の写真。そこに集まる数多くの新郎新婦の、皆同じ、明るい笑顔と、その異様な光景。 地上波のテレビでは見られることのない、アニメのヒロインたちの色鮮やかな画像。タイトルは、「この素晴らしい世界に祝福を」、「いっぱいの祝福」、「祝福のカンパネラ」。 野球の日本代表、侍ジャパンのその後についてのニュース。写真のタイトルは「練習前にナインから金メダル獲得を祝福された坂本」、「侍Jの強化本部長も祝福 教え子稲葉監督は『令和の監督の采配』」。 芸能ニュースを報じる、ネットニュース。コメントを求められた、芸能人たちの写真が並ぶ。有名な俳優どうしの電撃結婚を、共演者たちが祝福したらしい。 企業広告の画像。タイトルは「結婚祝いに祝福のメッセージを電報で NTT東日本」。 祝福に関連する、無数の写真や画像が、画面を埋め尽くす。そこに見られるのは、人々の満面の笑顔、白やパステル調の明るい色の花々。世界中で、新聞の1面やテレビのトップニュースが、毎日、感染症の深刻な話題で、埋め尽くされる、その傍らで、祝福は、これまでと変わらずに、人々の間で、生まれ続けている。 さて、そのことは、私たちの身の回りに目を移してみても、同じではないでしょうか。祝福の機会は、数多くあります。お子さんや、お孫さんが、新しい命として生まれた方、入学式や卒業式を迎えられた方、ご自分やご家族が結婚をされた方、病気が良くなった方、病院から退院された方、新しい生活のステージへ迎えられた方。そうした方々が、きっと皆さんの身の回りにも、いらっしゃることでしょうし、その方々に「おめでとう」と言葉をかけたことも、記憶にあるのではないでしょうか。秋田教会では、その週にお誕生日を迎えられる方をお祝いして、その方の好きな讃美歌を皆で歌うという習慣があります。この夏、私もそれをご一緒させていただいて、とても温かい、素晴らしい祝福の場であるなあと実感いたしました。そのように、教会の中であれ、外であれ、私たちの周りに、どれほど大きな苦労や、大きな悲しみがあろうとも、それは決して、祝福される機会や、また、祝福をする機会が減ったのではないのだ、ということを、忘れないようにしたいものです。 旧約聖書も、そのことを伝えようとしています。その言葉を聞いてみましょう。「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 「町にいても」、「野にいても」。私は、朝にジョギングをしていまして、この夏期伝道実習の間も、しばしば走りました。朝7時過ぎに、この教会を出て、そこの踏切を渡って、線路沿いに北へ、というか北西になりますか、その方向へ遊歩道がまっすぐ伸びています。そこをずーっと走っていって、泉外旭川の駅を超えて、さらに走って、JR貨物の駅を過ぎたあたりで遊歩道が終わります。そこからは、北へ向かって、高速道路の北インターに向かう幹線道路の歩道を走ります。今年の夏は、特に雲一つない晴れの暑い日が多かったですから、このあたりを走っているときが、一番過酷でしたね。そして、釣り具の上州屋と、グランマートの前を過ぎて、そして南部屋敷を通り越して、ガソリンスタンドのある大きな交差点に差し掛かります。その交差点では、いつも赤信号に引っかかってしまうんですが、信号が青になって走り出して、道路を渡ると、景色が一変するんですね。一面、だーっと田んぼが広がる。その中を走るのはとても気持ちがいいんです。交通量がぐんと減って、なんといっても、風が爽やか。ですから、何とか毎回、その景色、その風にたどり着けるように、頑張って走っていました。このように、市街地と田んぼの境目、町と野の境目には交差点とガソリンスタンドがあるだけですから、もし、ジョギングではなく、車で通るならば、この境目には、ほとんど気づくことなく、通り過ぎてしまうことでしょう。 「あなたは、町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、一説によれば、旧約聖書、申命記が記された時代よりも前から、人々の間で語り伝えられていた、いわば「民間伝承」のようなものではないか、と考えられています。その時代、「町」と「野」の境目は、もちろん、信号とガソリンスタンド1つを挟んで、のどかな田んぼが広がる、といったものではありませんでした。町、今でいうと小都市くらいの規模ですが、町と呼ばれるのは、城壁でぐるっと囲まれ、敵から守られた地域のことです。どうして、町の外に、そこまで警戒の目を向けるのか、と思われるかもしれません。それは、この時代にはそもそも国境の警備がされていないので、町の城壁の前まで外国の軍隊が攻め込んでくることが、普通にあったからです。旧約聖書の物語の中でも、例えば、イスラエルの軍隊がいわゆるカナン地方のある町を包囲したり、反対に、外国の軍隊がエルサレムを包囲したりする、というエピソードがあるのを、ご存じの方がいらっしゃるかと思います。そのように、町の城壁の手前までは、敵が簡単に来られてしまうのです。したがって、城壁の外側、「野」にあたる地域は、大変危険です。一歩でも町から野に出れば、身の安全は保障されません。町と、野では、城壁を隔てて、まったく別の世界が広がっているのです。城壁の中では、人々が日々、安心して、商売をしたり、買い物をしたり、あるいは、料理を作って、友人たちと語り合いながら食事をしたり、家族と楽しく過ごしたりする。一方、城壁の外では、人々が身の危険を感じつつ、荒涼とした土地で、僅かな作物が育てられる。時には、そこは、攻め込んできた敵たちに踏み荒らされる場となる。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 聖書のこの言葉は、そのように考えてみると、なかなか信じがたいことを言っている、ということが、感じられると思います。「町」と「野」という、全く違った2つの世界、2つの状況を目の当たりにしながら、それでも、聖書のこの言葉は、その両方の中に神の祝福があるのだ、と訴えています。町の中では、人々が路地を行き交い、そこには日々、素敵な出会いや、美味しい食事や、お酒や、大きな仕事の成功や、新しい子どもの命の誕生といった、多くの喜ばしい出来事があります。そのような出来事を経験した人は、周りの人たちから「おめでとう」と祝福の言葉をかけられ、誰の目にも明らかな祝福の雰囲気と、喜びの場が、そこに生まれることでしょう。一方、城壁の外、野で「おめでとう」という言葉を聞くことは、ほとんどないでしょう。そもそも、そこには、言葉を掛け合うほどたくさんの人はいませんし、ましてや、親戚や友人に会うことは、滅多にありません。畑の作物が多めに採れたり、家畜の子が生まれたりすることは、たしかにあるかもしれません。しかし、それらの、野で起きた出来事に対して言われる「おめでとう」という言葉の数は、町の中での、人間どうしの結婚や、赤ちゃんの誕生のときに言われる「おめでとう」という言葉の数よりも、はるかに少ないに違いありません。ですから、「おめでとう」という祝福の言葉に関して言うならば、町の城壁の外側、つまり、「野」と呼ばれる地域は、祝福の少ない地域、祝福の空白地帯であると言えるでしょう。 私が先月、7月の初めに夏期伝道に来た頃、駒井牧師の車に乗せてもらって秋田市の郊外に出ますと、田んぼが一面に広がっていて、まだ膝下ぐらいの長さの稲が、青々と茂っていました。それが、最近、また郊外に行くことがあって見てみましたら、稲がもう余裕で膝の高さを超えて、高く育っていて、そしてもう穂を出していて、濃い緑ではなくて、黄色がかった、黄緑色の景色に変わっていました。今年の夏は天気が良い日が多かったので、育つのが早いのかなあと思いつつ、そしてまた、秋にはたくさんのお米が獲れるんだろうなあと期待しつつ、その風景を眺めてきました。さて、もし今年、例年よりもたくさんの上質なお米が収穫されたとしたら、そのことはきっとニュースになると思います。そのニュース、その記事のタイトルには、どんな言葉が使われると思いますか?「収穫」、「豊作」、「品質」、「期待の新品種」、「価格」など、様々考えられますよね。しかし、「祝福」という言葉が、そのニュースや新聞記事の見出しに使われることは、おそらくないと思います。芸能人の結婚や、スポーツの優勝のニュースなどで、毎日のように生み出され、毎日のように目にされる「祝福」という言葉は、町の外の出来事、田んぼで確かに起こっている、稲の生長という出来事については、使われることはありません。城壁が町の中と外を分け隔てていた聖書の時代にも、そして、交差点1つで郊外の田んぼに繋がっている現代にも、どちらも同じように、祝福の言葉が多く聞かれる場所と、そうではない場所があるのです。 「あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。」 この言葉は、そう考えてみると、町の中にも、野にも、そのどちらにも神の祝福がある、ということを超えて、さらに、自分の置かれた場所にかかわらず、同じだけの祝福がそこにはあるのだという確信と、決意を含んだ言葉であるように思われます。自分の置かれた場にあって、一体何が祝福であるのか。そのことについて、聖書は具体的には語っていません。それは、祝福になりうる出来事は、どこにいても、私たちの周りに無限にあること、そして、それを自分自身で見つけ出して、神の「祝福」として捉えることが大切だ、ということを、教えているのではないでしょうか。聖書はその際、面白い言い方をしていまして、「籠もこね鉢も祝福される」と言っています。籠や鉢の中身ではなくて、入れ物自体が、もうすでに祝福されているというのです。その祝福された籠に、何が入ってきたとしても、丸ごと全部、祝福されることが決まっている。その籠に何を入れるか、それは自分自身で決めなければならないでしょう。さあ、あなたは今日、何をその籠に入れるでしょうか?

(執り成しの祈り) すべて良きものの源である神様、あなたによって形作られ、命を与えられたすべてものと共に、祈り求めます。あなたの祝福が、すべての人に及びますように。感染症の拡大に対応するために働く、医療関係者の方々や、様々な決断をしなければならない方々に、あなたからの祝福と助けが豊かに与えられますように。不安と期待の中で新学期を迎える子どもたちに、そして、家族や親戚、友人と会うことが困難な中で暮らす、高齢の方々に、あなたからの豊かな祝福が届きますように。私たちが、キリストの愛に倣って、互いに助け合い、仕え合う者とされますように、その道を示してください。イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン。

8月15日説教「アブラハムの執り成しの祈り」

2021年8月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記18章16~33節

    マタイよる福音書18章15~20節

説教題:「アブラハムの執り成しの祈り」

 アブラハムが故郷カルデアのウルを出発して神の約束の地カナンに旅立った時、彼は妻サラと甥のロトも一緒でした。ところが、カナンの地でアブラハムとロトの財産や家畜が余りにも増えたために一緒には住めなくなり、二人は別れることになったことが創世記13章に書かれていました。きょうの18章16節以下を学ぶにあたって、その時のことを今一度振り返ってみましょう。13章10節以下を読んでみましょう。【10~13節】(17ページ)。ここにすでに、ソドムとゴモラの滅びのことが予告されていました。そしてきょうの個所18章16節以下で、アブラハムはソドムとゴモラの罪が非常に重いので、神がその地をお裁きになるために調査をされるという神のご計画を知らされました。そこでアブラハムは23節から、ロトが住んでいるソドムのための執り成しの祈りをささげます。この執り成しの祈りは、ソドムの人々のためと言うよりは、その町に住んでいる甥のロトの救いのための執り成しの祈りであると考えてよいでしょう。いやそれだけでなく、アブラハムのこの執り成しの祈りは、わたしたちすべての人間たちのため、すなわち、罪びとであり、神の裁きを受けなければならないわたしたと一人一人の救いのための執り成しの祈りであるのだと言うべきでしょう。アブラハムはこの執り成しの祈りによっても、後の世のすべての信仰者たちの「信仰の父」としての役割を果たしているのです。  そこできょうは、アブラハムの執り成しの祈りの最後の個所から読んでいくことにしましょう。【32~33節】。神はアブラハムの執り成しの祈りに応えて、ソドムの町にわずか10人でも正しい人がいたら、その町を滅ぼさないと言われます。その10人の正しい人たちのゆえに、その町を憐れみ、その町をおゆるしになると言われます。当時、ソドムの町に何千人、何万人が住んでいたのかは分かりませんが、13章に書かれてあったように、カナンの地で最もよく潤っていた地域であったので、かなりの人が住んでいたと思われます。何千人、何万人の中のほんの10人の正しい人たちのゆえに、神は他の人々、とは言ってもそれがほとんどなのですが、その町の人々全部をゆるすと言われます。神は他の多くの悪しき人々、罪びとたちに目を留めることをなさらず、彼らをその罪のゆえに裁くことをなさらずに、わずか10人の正しい人たちに目をお留めになり、その10人の正しい人たち、神を信じる人たちのゆえに、その町全体をおゆるしになるのです。  神はまたきょうここに集められた小さな神を礼拝するわたしたちの群れにも目を留めてくださるに違いないと信じます。日本の1億2千万人の神を知らず、神無き人たちにではなく、また秋田県の94万人にではなく、わずか20人ばかりの神を礼拝する人たちに目を留めてくださるに違いないと信じます。そして、この20人の執り成しの祈りゆえに、この国を、この町をゆるしてくださるに違いないと信じます。  けれども、もしわたしたちの中で5人欠けたらどうでしょうか。神にすべてを委ねて神に従うことをせず、自分の欲望と傲慢な思いを捨てきれず、悔い改めることをせず、心かたくなにして罪の中にとどまっている人が5人いたらどうでしょうか。その欠けた5人のために、神はこの群を見捨て、この国を見捨てられるのでしょうか。いな、神は確かに残った15人のゆえに、なおもこの群を顧みてくださり、この国とこの町を滅ぼすことはなさらないと信じます。しかしもし、10人だけになったらどうでしょうか。「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と神は言われます。神は確かに10人の真実の礼拝者のゆえに、他のすべての人々をゆるしてくださるの違いないと信じます。  アブラハムは神への恐れのために正しい人の数を10人まで減らして、そこで神との対話を終えました。もしわたしたちがアブラハムよりも大胆にその数をさらに減らすとしたらどうでしょうか。もし、わたしたちの数が20人から10人減って10人だけしか残らなかったとしたら? 5人だけになったら? ただ一人だけになったら? それでも神はその一人のゆえに、他のすべての人々をおゆるしくださるのでしょうか。そしてさらに、神のお怒りを覚悟して,あえて問うとしたらどうでしょうか。もしここに、正しい人が一人もいないとしたらどうでしょうか。  ここまで数を減らしていくならば、わたしたちは絶望してしまわざるを得ません。いったい、わたしたちの中でだれが神のみ前に正しい10人に、そして一人に数えられることができるでしょうか。いったい、だれが神のみ前に正しく、罪のない義なる人として立つことができるでしょうか。使徒パウロはローマの信徒への手紙3章で詩編のみ言葉を引用しながらこう言っているではありませんか。「正しい者はいない。一人もいない。……、皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。……」(10~18節参照)。  おそらく、ソドム・ゴモラの町にも、わたしたちの礼拝の群れの中にも、神のみ前に正しく義なる人は一人もいないに違いありません。アブラハムが正しい人の数を10人まで絞って、それで終わりにしたのは、彼の謙虚さ、優しさなのかもしれませんし、神への恐れからだったのかもしれません。いずれにしても、たとえソドム・ゴモラの町に正しい人がただの一人もいないとしても、そしてまたわたしたちの中にもそうだとしても、それにもかかわらず、アブラハムは今ここで、ソドム・ゴモラのために執りなす人として立つことを許されている、神はそのアブラハムの執り成しの祈りをお聞きになっておられるということをわたしたちは大きな驚きをもって知らされるのです。それだけではありません。たとえ、わたしたちの中に正しい人がただの一人もいないとしても、わたしたちのすべてが倒れてしまわざるを得ないとしても、わたしたちの中にただお一人立ち続けてくださる方がおられる。わたしたちすべての罪びとたちのために、そのすべての罪をご自身の身に負われ、神の怒りと裁きを忍耐され、全き服従と全き献身によって、罪と死とに勝利された主イエス・キリストがおられ、その方が今も天においてわたしたちのために執り成しておられるということを、わたしたちは大きな驚きと感謝とをもって知らされるのです。ただお一人神のみ前に義なる方として、神のみ言葉をすべて成就された方として立っておられる主イエス・キリストが、今ここでわたしたちの礼拝の中心にも立っていてくださり、わたしたち一人一人を信仰によって義と認めてくださり、神の国の民として招きいれてくださるということを、わたしたちは大きな感謝と喜びとをもって知らされるのです。  では、アブラハムはどのようにしてソドムとゴモラのための、またわたしたちすべての信仰者たちのための執り成しの祈りへと導かれたのでしょうか。16節から見ていきましょう。【16節】。夏の暑い昼にアブラハムの天幕を訪れた3人の旅人たちは夕方涼しくなってからさらに旅を続けます。アブラハムは途中まで彼らを見送りました。これもまた旅人をあつくもてなす当時の習慣でした。しかしここではそれ以上の意味を持つことになりました。アブラハムはここで旅人たちのもう一つの目的を知らされます。  先に、アブラハムは旅人たちが彼の天幕を訪れた大切な目的を聞きました。それは、10節以下に書かれていたように、来年妻のサラに男の子が生まれるという神の約束についてでした。無から有を呼び出だし、死から命を創造される神が、年老いたアブラハムとサラに、奇跡によって、神の恵みによって、世継ぎとなる男の子が与えられるという知らせです。それに加えて、旅人たちのもう一つの目的は、17節以下に書かれているように、アブラハムが神に選ばれて、神が世界の歴史の中で行おうとしておられることの証人となり、世界のすべての民のための預言者としての務めを託されていることを彼に告げるということです。 【17~19節】を読んでみましょう。年老いたアブラハムとサラに男の子が生まれるという神の約束は、いわば彼らの家庭の中の出来事だと言えます。しかし、神の約束の成就は単に一つの家庭内のことにとどまらず、アブラハムに続く全世界の民、すなわち神の祝福を受け継ぐべきのちの世のすべての信仰者たちの信仰の歩みにかかわる出来事なのです。アブラハムの家庭内での出来事は、全世界の信仰の民と無関係ではありません。彼が神によって選ばれたのは、彼がのちの世の全世界の神の民に仕えるため、彼らに対して預言者としての務めを担うためでもあったということを、アブラハムはここで知らされます。 旅人は20節で続けて言います。【20~21節】。ここでは、旅人は「主」と呼ばれています。主なる神の使い、主なる神ご自身がアブラハムに預言者としての務めを与えます。彼はソドムとゴモラの滅亡という世界の出来事を傍観者として眺めていることはゆるされません。悪と罪に染まったソドムとゴモラの運命とその運命に神がどのようにかかわっておられるのかということの証人になるように、ここで召し出されているのです。アブラハムは一人の信仰者として、神に選ばれてすべて信じる人たちの信仰の父とされ、後の世の神の民の祝福の基となるように召し出されているアブラハムは、今新たに世界の出来事に対して、神がその出来事にどのようにかかわっておられるのかを知らされ、それゆえに彼自身がその出来事にどのようにどのように関与すべきなのかを悟るようにと招かれているのです。 そのアブラハムの務めが23節以下に書かれている、ソドムとゴモラのための執り成しの祈りなのです。アブラハムはすべて信じる信仰者たちの父として、世界のすべての罪びとたちのための執り成しの祈りの務めを授けられたのです。それによって、彼は世界の出来事に対して預言者としての、また祭司としての務めを果たしているのです。 そしてそれは、わたしたちキリスト者の務めでもあります。天におられる主イエス・キリストの執り成しによって、罪あるままで神の民とされ、この世界の出来事の証人となるべく召し出されているわたしたちキリスト者は、罪と死と滅びの中にあるこの世のために執り成しの祈りをする務めを託されていることを知らされます。神はわたしたちの執り成しの祈りを必ずやお聞きくださることを信じます。

(執り成しの祈り) 〇天の父なる神よ、あなたに選ばれ、召されて、すでに救いの恵みにあずかっているわたしたちが、その恵みに感謝して、あなたの救いのみわざの証人となり、すべての人たちの救いのために執り成しの祈りをささげる者となりますように。

〇天の神よ、どうぞこの世界を顧みてください。戦争や奪い合いのあるところに、和解と平和をお与えください。住む家を失い、貧困と混乱の中で不安におののく人々に、食料とテント、愛と分かち合いの心が届けられますように。感染症の拡大によって世界中の国々が大きな困難と試練の中にあります。神よ、どうぞあなたからのいやしと希望とが与えられますように。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

8月8日説教「平和を実現する人々は、幸いである」

2021年8月8日(日) 秋田教会主日礼拝(世界平和祈念礼拝)

説教(駒井 利則牧師)

聖 書:イザヤ書9章1~6節   

  マタイによる福音書5章1~11節

説教題:「平和を実現する人々は、幸いである」  

日本の諸教会では、終戦記念日にあたる8月15日前後の日曜日を平和祈念礼拝として守る習慣があります。76年前の夏、日本で唯一の地上戦で多くの住民の犠牲を強いた沖縄戦、一瞬のうちに何万人もの命を奪い、都市全体を瓦礫と化した広島・長崎の原爆、そして8月15日の終戦、わたしたちはこの戦争の悲惨さ、恐ろしさ、悲劇、残忍さ、そして人間の暴力と暴虐さを決して忘れてはならないと思います。それはまた、日本の国が受けた被害・犠牲であるとともに、日本がアジアと世界に与えた恐怖と侵略であったということも、忘れてはなりません。戦争は勝者にも敗者にも多くの不幸と禍と痛みとをもたらします。しかしなお、それでも戦争はこの地球上からなくなることはありません。わたしたちはこの時に、秋田教会の世界平和祈念礼拝に招かれている一人として、真の平和とは何か、その平和のためにわたしたちに託されている務めは何かということについて、聖書のみ言葉から聞き、世界の平和のための祈りをあつくしたいと願っています。  マタイによる福音書5章に書かれている「山上の説教」の中の9節で、主イエスはこのように言われました。【9節】。3節から11節まで、「幸いである」という言葉が9回繰り返されていますが、それらの文章には二つの共通した特徴があります。その一つは、聖書が書かれたいるギリシャ語原典では「幸いである」という言葉が文頭に置かれ、強調された形になっている点です。古い時代の『文語訳聖書』ではこの個所の翻訳はこのようになっています。「幸福(さいわい)なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称(とな)えられん」。これは原典の意味合いをよく反映した翻訳であると言えます。ここで「幸いである」という言葉が強調されている点に注目して、現代の言い方にするならば、「何と幸いであることか、いかに幸いなことか」となるでしょう(旧約聖書の詩篇1編1節などで、「幸い」が強調されているカ所ではそのように訳されている)。 この強調点にはどのような意味があるのでしょうか。まず、これは主イエスからの呼びかけであるということです。その人が実際に幸いな状態にあるかどうかということによるのではなく、主イエスが神の独り子としての権威と愛と恵みとをもって、「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださっておられるのです。ここで幸いだと呼びかけられている人を見てみると、3節では「心の貧しい人々」、4節では「悲しむ人々」、5節では「柔和な人々」、さらに10節では「義のために迫害されている人々」が幸いだと言われています。一般的に見れば、幸いだとは思えないような人たちに主イエスは「あなたがたは幸いだ」と呼びかけておられます。つまり、この世の価値基準による幸いではなく、あるいはまた人がこの世で手に入れることができる幸いでもなく、主イエスが天の父なる神からわたしたちに分かち与えてくださる天からの幸いのことなのです。 別の言葉を使えば、この幸いとは主イエスがわたしのために創り出してくださる幸いだと言ってよいでしょう。主イエスが幸いのないところにも新しい天からの幸いを創り出してくださるのです。それだけでなく、その幸いによって、禍や憂いや不幸をも幸いに変えてくださるのです。主イエスが「あなたがたは幸いだ」と呼びかけてくださるところ、そしてわたしたちがその呼びかけを聞くところに、主イエスはこのような幸いを創り出してくださるのです。 3節から11節までの幸いの呼びかけの文章でもう一つ特徴的なことは、日本語の翻訳では省略されることが多いのですが、後半の文章の初めに「なぜなら ば」という理由とか根拠を言い表す語が置かれているという点です。その点を強調して9節を訳してみると、「平和を実現する人たちは、何と幸いなことでしょう。というのは、その人たちは神の子と呼ばれるからです」となります。 3節~11節までの他のすべての文章でもそうですが、後半の理由づけ、根拠が大きな意味を持っていることに気づきます。3節後半「天の国はその人たちのものだから」、4節後半「その人たちは慰められるから」、9節後半「その人たちは神の子と呼ばれるから」、そして10節後半ではもう一度「天の国はその人たちのものだから」というように、幸いを根拠づけているのは天におられる神ご自身なのです。神がその人たちの味方でいてくださる、神がその人たちに最も必要なものを備えてくださる、神がその人たちのために働いてくださる、だから幸いだと呼びかけられているのです。  では、以上の二つの特徴的な点を考えながら、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われた主イエスのみ言葉の意味を更に深く読み取っていきましょう。  新約聖書が書かれている言語であるギリシャ語では、平和は「エイレーネー」と言います。旧約聖書のヘブライ語では「シャローム」です。この二つの言葉は今日でもギリシャ人やユダヤ人の日常のあいさつの言葉として用いられているそうです。日本語では「こんにちは」と言うところを「あなたに平和がありますように」とあいさつを交わすそうです。  聖書の中で用いられる「平和」という言葉には深い意味が込められています。平和とは、単に戦争がない状態をいうのではなく、また心の中の平安を指しているのでもなく、満ち足りていて欠けや破れがない状態、不安や恐れがなく、神と人間との関係また人間同士の関係が正しく保たれている状態を意味しています。 けれども、世界には真の平和はないと聖書は語っています。人間はいつも神のみ心に背き、神から離れて偽りの偶像の神々を礼拝し、神に対して罪を犯してきました。神との正しい関係が保たれなければ、人間同士の関係もおのずと壊れ、互いに欺きあい、奪い合い、分裂と戦いを繰り返すほかにありません。旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史、また世界の歴史は、そのような人間の罪と分裂と戦いの歴史であると言えましょう。  けれども、主なる神はそのような罪によって支配された暗黒の世界にやがて真の平和の君を派遣されると預言者イザヤは預言しました。イザヤ書9章にはこのように預言されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。……一人のみどりごがわたしたちのために生まれた。一人の男の子がわたしたちに与えられた。……その名は、「永遠の父、平和の君」と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない」(1~6節参照)と。  教会はこの預言が主イエス・キリストの到来によって成就されたと理解しました。主イエス・キリストは天の父なる神から遣わされたまことの平和の君として、この地に永遠の平和を打ち立てられると教会は信じ、告白しています。エフェソの信徒への手紙2章14節以下にはこのように書かれています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。……キリストは二つのものを一つにし、ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14~16節)。  主イエス・キリストは、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、それによってわたしたち人間の罪をゆるし、神と和解させてくださいました。神と人間との平和の関係を回復してくださったのです。主イエスの十字架の福音は和解と平和の福音です。ここから、わたしたち人間同士の平和が、この世界の平和が始まります。主イエス・キリストは真の平和とは何かをわたしたちにお示しくださり、その平和をお与えくださったのです。真の平和とは、人と人が、あるいは国と国が争わず、仲良くしているということだけではありません。武力や核兵器の均等によってかろうじて維持されるような平和でもありません。何よりもまず神と人との関係が正しくされていなければ、そこには真の、また永遠の平和はありません。なぜなら、人間の罪が新たな分裂と争いとを生み出していくからです。主イエス・キリストは十字架の死によって、人間の罪の力を打ち砕き、果てしなく続く人間の分裂と争いを終わらせ、神との和解を成し遂げてくださったのです。主イエス・キリストの十字架の福音を信じることにより、わたしたちは神によって罪をゆるされ、救われ、神の子どもたちとされるからです。 「平和を実現する人たち」とは、この平和の福音を信じ、その福音によって生きる人たちのことです。つまり、神からの罪のゆるしの恵みによって生きることを許されている人たちのことです。罪ゆるされている恵みに生きる人は、罪の力に抵抗します。主イエスがすでに罪に対して勝利されたことを知っているゆえに、また、主イエスによってすでに罪のとげが抜き取られ、その牙が折られていることを知っているゆえに、平和を脅かす罪の力に勇気をもって抵抗することができるのです。  「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。わたしたち一人一人もこの幸いへと招かれているのです。  

では、皆さんでご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。お渡ししているプリントをご覧ください。お立ちいただける方はお立ちください。

【世界の平和を願う祈り】

天におられる父なる神よ、 あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、 地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。 どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。 わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。 神よ、 わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。 憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、 分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、 絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、 悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。 主よ、 慰められるよりは慰めることを、 理解されるよりは理解することを、 愛されるよりは愛することを求めさせてください。 なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、 ゆるすことによってゆるされ、 自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。 主なる神よ、 わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。 深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。 あなたのみ心によっていやしてください。 わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。 (「聖フランシスコの平和の祈り」から)

8月1日説教「教会の大きな祈り」

2021年8月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教(牧師駒井利則)

聖 書:イザヤ書40章5~11節

    使徒言行録4章23~31節

説教題:「教会の大きな祈り」

 ペンテコステの日に誕生した世界最初の教会、エルサレム教会は、誕生してすぐにユダヤ人からの迫害を受けました。ペトロとヨハネは主イエス・キリストの福音を説教し、特に主イエスの復活を語ったために、新しい教えによって民衆を惑わした罪に問われ、逮捕され、ユダヤ最高議会での裁判を受けました。使徒言行録3章と4章に描かれている初代教会の宣教活動と最初の迫害の記録は、のちに全世界へと拡大されていくキリスト教会の本質、その基本的・典型的な姿であると言ってよいでしょう。ここには、教会とは何か、教会はどうあるべきかという、今日のわたしたちの教会にとっても共通する教会の本質が語られています。その点に注目しながら、4章23節以下のみ言葉を読んでいくことにしましょう。

 23節にこう書かれています。【23節】。二人とは、初代教会の指導者ペトロとヨハネのことです。彼らはエルサレム神殿の前で人々に施しを乞うていた生まれつき足が不自由な男の人に対して、「あなたが期待している金銀はわたしにはないが、わたしたちが持っているものをあなたにあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じると、彼はたちまち躍り上がって立ち上がり、神を賛美しながら神殿に入っていきました。主イエス・キリストのみ名によって、神の奇跡が起こったのです。神はユダヤ人たちによって棄てられ、十字架につけられた主イエスを、死者の中から復活させられた「死から命を創造される神」です。

3章12節以下のペトロの説教と、4章8節以下の裁判でのペトロの弁明、これも説教と言ってよいのですが、その説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活であったということを、わたしたちはすでに何度も確認をしました。も一度その個所を読んでみましょう。【3章13~15節】。また【4章10~12節】。これ以後の使徒言行録に書かれているペトロやパウロの説教もすべてその中心は主イエス・キリストの十字架の死と復活です。そして、これがのちのすべての教会の説教の中心でもあります。もちろん、わたしたちの教会の説教も同様です。

 ところが、キリスト教会が力を込めて説教した主イエスの十字架と復活の福音はユダヤ人からの迫害を招くことになりました。主イエスの十字架と復活の福音は、当時のユダヤ教指導者たちにとっては耳触りの良いものではなかったからです。ユダヤ教2大教派の一つサドカイ派は復活を否定していましたから、主イエスの復活の福音は彼らの教えに反するものでした。ファリサイ派や律法学者は、律法を守り行うことによって神の国の民とされ救われると教えていましたので、主イエスの十字架の福音を聞いて信じることによってすべての人が救われるという福音は自分たちの教えを根本から否定するものでした。そこで彼らはペトロとヨハネを捕え、裁こうとしました。

けれども、ユダヤ最高議会は彼らを釈放せざるを得ませんでした。21節には、議員たちは「民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかった」と書かれています。他方、ペトロとヨハネはユダヤ最高議会の裁判の席でも恐れることなく大胆に主イエスの十字架と復活の福音を語り続けました。二人は主なる神に従うことによって、この世の権力者をも恐れない力と勇気とを与えられたのでした。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれないことを、彼らは証ししたのです。教会にとって迫害の時は、また同時に力強い証しの機会となり、さらなる福音の前進の時となったのでした。

 「二人は仲間のところへ行った」と書かれています。「仲間」とは、エルサレム教会の教会員、信者たち、教会の群れのことです。のちに使徒パウロは「兄弟姉妹たち」とか「聖徒たち」と呼びました。彼らはどのような種類の仲間なのか、何のために、どのようにして仲間になり、一つの群れとされたのでしょうか。そのことを考えることは教会の本質を考えることです。この仲間は、この世の何らかの利益を求めて集まった人たちではありません。趣味のグループでもありません。彼らは主イエス・キリストの福音を聞いて、信じ、それによってこの世から、ユダヤ人の中から選び分かたれて、教会の民とされた人たちです。それゆえに、この世のもろもろのグループとは根本的に違っています。彼らは主イエスの十字架と復活の説教を聞き、信じ、罪を悔い改め、洗礼を受け、罪ゆるされた仲間です。それゆえに、彼らは神の救いの恵みによって生かされ、聖霊によって一つに結ばれ、共に神を礼拝し、共に祈り合い、そしてまた苦難をも共にする仲間です。

 ペトロとヨハネは仲間のところに帰って自分たちに身に起こったことを報告しました。24節以下には、この時のエルサレム教会の祈りが記されています。【24節】。多くの聖書注解者は24~30節の祈りを「教会の大きな祈り、新約聖書の中でもっと偉大な祈り」と名づけています。誕生して間もない若い教会、その最初の宣教活動の中で経験しなければならなかった最初の迫害、しかしその時教会は、少しも恐れることなく、たじろぐことなく、黙することなく、むしろより一層大胆に、力強く、勇気と希望とに満ちて、このような大きな祈りをささげている。ささげることができた、ささげることをゆるされている、ということを、わたしたちは驚きをもって知らされるのです。

 「これを聞いた人たちは心を一つにし」とあります。ここでは教会の一致が強調されています。ペトロとヨハネが経験したことは教会のみんなの共有の経験です。二人の宣教活動、二人が受けた迫害、そのすべてを教会の仲間みんなが共有し、共に一つの大きな祈りへと導かれていくのです。

 彼らの祈りは、まず天地万物を創造された神への強い信頼から始まっています。その神は今もなお、強いみ手をもって造られた世界のすべてを治め、支配しておられます。何ひとつとして神のみ心とは無関係なことは起こり得ないという信仰がここでは言い表されています。この世からの迫害を最初に経験した教会は、その迫害からどのようにして逃れようかとか、迫害に合わないためにどうすべきかということを語り合ったのではありませんでした。彼らがなしたことは共同の祈りでした。共に神に祈ることでした。祈りこそが、迫害や困難を乗り越えて、教会がなお前進し、主イエスの福音を語り続ける勇気と希望とを与えられるための最も確かな武器なのです。

 そして、その祈りは神のみ言葉に導かれた祈りでした。25~26節は詩編2編1~2節のみ言葉です。【25~28節】。神は主イエスの十字架と復活によって、この詩編のみ言葉を成就されただけでなく、教会の迫害を通してもこの預言を成就されたのだと彼らは祈っています。祈りは自分たちの願いを神に押しつけるためのものではなく、神のみ心を尋ね求め、そのみ心に従うためのものです。それによって、新たな命と力とを神からいただくのです。

 この祈りには、これまでペトロが語った3回の説教、ペンテコステの説教、エルサレムの神殿前での説教、そしてユダヤ最高議会での説教のいずれにも共通しているポイントが二つあります。一つは、ユダヤ人指導者と異邦人指導者とが結束して神がお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を偽りの裁判によって裁き、十字架につけて殺したという、彼らの罪を明らかにしています。人間はみなメシア・救い主を受け入れないという罪で一致します。しかし第二には、神は彼らの罪と反逆とをお用いになって、ご自身の救いのみわざを成就されたのだということです。彼らのこのような罪と反逆によっても、神の救いのご計画は変更されず中止されず、彼らの罪を貫いて、彼らの罪をはるかに超えて、神は主イエスの十字架の死と復活によって全人類のための救いを成就されたのです。彼らは自ら知らずして神の救いのみわざに仕えることになったのです。

 神の救いのご計画は今もなお罪びとたちのどのような攻撃や反逆にもかかわらず、神のみ心のままに、終わりの日の神の国の完成の時に向かって前進していくのだということを、わたしたちもまた信じるべきであり、信じてよいのです。

 29節からは、教会が直面した新しい事態、迫害という困難な事態について祈っています。【29~30節】。教会は初めて経験したこの迫害という困難な事態をどうとらえ、どう対応したのでしょうか。29節の「彼らの脅しに目を留め」とは、教会が不信仰なやからによって脅かされている現状を神がご覧くださるようにという意味です。彼らはここで教会の迫害と主イエスのご受難とを重ね合わせているのです。教会が経験している迫害は主イエスが経験されたお苦しみの続きなのです。主イエスが罪と戦われ、苦しまれたように、教会も今罪の世と戦い、苦しんでいるのです。神は教会のその苦しみを、困難な戦いを知っていてくださいます。そのことが教会の大きな励ましであり力です。

 それゆえに、教会は迫害の中にあっても、なおも「思い切って大胆に御言葉を語ることができる」のです。教会はそのような力を祈りによって与えられます。人間的な知恵や力によってではなく、経済力とか団結力とかによってでもなく、祈りによってこそ、教会は困難な事態を乗り越えていく希望と力を与えられるのです。祈りによって、主なる神にすべてをお委ねし、神の助けと導きを信じ、願い求めることによって、教会は困難を乗り越え、前進していくことができるのです。

 最後に31節を読んでみましょう。【31節】。これは教会の祈りに対する神の応答です。揺れ動いたとは地震のことです。地震は神のご臨在のしるしです。そこに力強い神が臨在しておられ、働いておられることの確かなしるしです。聖霊が注がれることは、その神の力強いお働きが教会を動かす力として具体的に作用することの保証です。神は教会の祈りに確かに答えてくださいました。24節以下の祈りが「教会の大いなる祈り」と呼ばれるのは、その祈りの内容によるというよりは、この神の応答が驚くべき偉大なものであったからです。神は、いわば大地を揺るがすほどの大きな力をもって教会の祈りに応えてくださったのです。神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはありません。それゆえに、わたしたちもまたどのような時代にあっても大胆に神のみ言葉を語ることができるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにも聖霊を注ぎ、あなたのみ言葉を大胆に語らせてください。全世界の教会を聖霊で満たし、主イエス・キリストの福音宣教の働きのために派遣してください。

○困難や試練の中にある教会、紛争や貧困、災害の中にあって苦しい戦いを強いられている教会を、あなたが特に顧みてくださり、勇気と希望と力をお与えください。

〇天の神よ、日本とアジアと世界の諸国が、いまなお新型コロナウイルス感染症の脅威にさらされ、恐れ、傷つき、病んでいます。どうぞこの地を憐れんでください。いやしと慰めとは励ましとをお与えくださいますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。