12月27日説教「エジプトでのアブラハム」

2020年12月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章10~20節

    マタイによる福音書2章13~23節

説教題:「エジプトでのアブラハム」

 アブラハムは神のみ言葉に導かれて、生まれ故郷カルデアのウルを出発し、ユーフラテス川を北上してハランに移り、そこから南下して神が約束された地カナンに移っていきました。カナンに入ってからの彼の足跡は彼が築いた祭壇によってたどることができます。創世記12章7節には、最初の地シケムで、「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」と書かれており、また8節には、ベテルに移ってからは、「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」とあります。アブラハムは生涯、定住の場所を持たず、地上では旅人、寄留者として歩みました。けれども、何の目的も持たずにさまよう旅人ではなく、気まぐれに旅を楽しむ旅行者でもありませんでした。彼の歩みは祭壇から祭壇へ、礼拝から礼拝への歩みだったのです。彼は信仰の旅人でした。彼は神を礼拝し、神のみ言葉を聞き、神に導かれた旅人でした。

 アブラハムを信仰の父とするわたしたちキリスト者もまた、祭壇から祭壇へ、神礼拝から神礼拝へ、主の日から主の日へと続く歩みを続けます。わたしたちもまた礼拝で語られる神のみ言葉を聞きながら、そのみ言葉に導かれながら、この一年を歩みました。また、来る年もそのようにして歩みます。そして、神の約束の地を目指して、神が終わりの日に完成される神の国を目指して、地上では旅人、寄留者として生きるのです。

 9節に、「アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」と書かれています。ネゲブは神の約束の地カナンの最南端にあります。その南は砂漠が広がる乾燥地です。アブラハムがなぜネゲブという、住むには適しない乾燥した高地へと移動したのか、その理由は書かれていません。それが神の導きだったのか、あるいはそこに住んでいたカナン人に追われたので、草原地帯の北部から砂漠に近い南部のネゲブへと追われてきたのかもしれません。いずれにしても、アブラハムにとって重要なことは、神の約束の地に留まることでした。神が7節で、「あなたの子孫にこの地を与える」と約束された神のみ言葉に留まり続けることでした。

 ところが、次の10節を読むと、アブラハムは約束の地の南端に当たるネゲブからさらに南下しようとしたことを知らされます。【10節】。これまでは神の導きに従って生きてきたアブラハムでしたが、ここで彼自身が、自分の判断で、新しい道を歩もうとしています。神の約束の地カナンを捨てて、はるかに遠い異国の地エジプトに移ろうとしています。これは、信仰の父アブラハムにとって、神の約束の地に生きるアブラハムにとって、大きな誘惑であり、試練なのではないでしょうか。彼の前に今、パンの問題が、生活の問題が大きく立ちふさがっているのです。彼はそれをどのように解決し、乗り越えていくべきでしょうか。

 わたしたちがこれまで見てきたように、アブラハムの歩みは神のみ言葉に導かれていました。それが今、飢饉という生活の問題のために、彼自身と家族を飢えから救うためという、パンの問題が彼の歩みを変えようとしているのです。このアブラハムの選択は、「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」という神のみ言葉に背く罪になるのではないか。それとともに、神が約束された地から去ることは、神の約束を捨てることになるのではないか。この選択は信仰の父アブラハムにとっては失敗になるのではないか。

 多くの信仰者はそのような疑問や不安を抱くでしょう。確かに、カナンの地での飢饉はひどかったと強調されていますが、またナイル川流域のエジプトにはたくさんの食糧があるというニュースがアブラハムの耳にも届いていたでしょうし、家族を飢饉から救うためにはこの選択以外には考えられないと言えるでしょう。しかしながら、わたしたちの信仰の父であるアブラハムはここで神の約束のみ言葉を捨てることはしてほしくないと、多くの人は願うに違いありません。でも、アブラハムは失敗します。エジプト行きを決断します。

聖書はアブラハムのエジプト行きの決断を失敗であるとか、神に背く罪であると、あからさまに語ってはいません。それが人間の当然の選択であるかのように、冷静に、淡々と語っています。しかし、そのあとに続く彼の失敗をわたしたちは見逃すことはできません。

【11~13節】。最初の失敗が、すぐに次の失敗を生みます。神のみ言葉から離れ、神の約束の地から離れたアブラハムの心に不安が襲ってきました。彼は自分の妻が美しいことが気がかりです。そのことが自分の命取りになることを恐れています。彼はエジプトで起こることを予想しています。エジプト人は彼の妻の美しさに注目するでしょう。そして、妻を自分のものにしようとし、邪魔になる夫である彼を殺すでしょう。美しいものを手に入れるために、古代から現代に至るまで、人間は多くの血を流してきました。アブラハムはそのことをよく知っています。

そこで、彼は一つの策を考えました。妻の美しさを自分の命と利益のために利用することです。そのためにうそをつくことを考えます。妻を自分の妹だと偽ることです。そうすれば、美しい妹のためにエジプト人から自分も優遇されるに違いないと考えたのです。このアブラハムの考えは賢いように思えました。そのことを提案された妻サライも同意したようです。

そして、エジプトでは事実アブラハムが考えた通りに事が運びました。サライはエジプトの王ファラオの宮廷に召し入れられました。アブラハムは王から厚くもてなされ、多くの財産を手に入れることができました。彼の計画は見事に成功したように見えます。彼自身の目にも、エジプト人の目にも。そしてわたしたちの目にもそのように見えます。アブラハムのエジプト行きは決して失敗などではなく、むしろ成功だったのではないでしょうか。大飢饉から逃れてやってきたこのエジプトで、彼はあり余るほどのパンを手に入れただけでなく、幸いを得て、裕福になり、大成功をおさめたかのように思えます。だれの目にもそのように映ります。人生の成功者アブラハム、知恵あるアブラハム、幸運なアブラハム。彼はもう信仰の父アブラハムと呼ばれなくてもよいほどの多くの恵みを手に入れたのでしょうか。しかし、ここに突然に神がお姿を現されるまでは、だれにもそのように思われました。

【17節】。ここで突然に主なる神の激しい怒りと裁きが下されました。そして、神なしで進められてきたアブラハムの計画が神によって中止させられることになったのです。12章10節以下のエジプトでのアブラハムの生涯の中でただ一度、この17節で「主」という言葉が出てきます。そして、この主なる神が、エジプトでのアブラハムの計画とその成功談に突然に「ストップ」をかけるのです。いや、それだけでなく、アブラハムのエジプト行きとその時に彼が考えた計画のすべてが、実は大きな失敗であったのだということが、ここで明らかにされるのです。

わたしたちはアブラハムのこの失敗からいくつかのことを学ぶことができます。その一つは、彼が飢饉と飢えから逃れるためにエジプト行きを選択したことはやはり大きな失敗だったということです。彼はそこのことを神なしで決断しました。たとえ家族を飢えから救うためだったとしても、だから神のみ言葉に聞き従わなくてもよいということにはなりません。飢えの問題、パンの問題もまた神に聞き従うことで解決すべきであり、また神は解決の道を備えてくださいます。 

 また、アブラハムが神なしで選択した道は、結果的に神の約束の地を失うことにもなりました。それに加え、彼は妻のサライをも失ったのです。彼は自分の命を救うために、妻を犠牲にしました。妻の人格と尊厳性を投げ捨てました。妻との夫婦の関係を破棄しました。それだけではありません。神がアブラハムにお与えくださったもう一つの約束、「あなたの子孫は大きな民となる」という約束は、妻サライなしには果たされません。アブラハムはその約束をも投げ捨てたのです。多くの民の母となるべく神に選ばれていた妻サライをアブラハムはエジプト王に売り渡したのです。それは妻への愛に背く行為であるだけではなく、のち時代のアブラハムを信仰の父と仰ぐすべての信仰者たちに対する背きであり、それ以上に神ご自身に対する背きであり、罪であったのです。

 実に、ここでは神の約束そのものが、神がお立てくださったアブラハム契約そのものが、危機に瀕しているのです。神が永遠の初めから計画しておられた救いのみわざが中断されるという危機にあるのです。神がアブラハムをお選びになり、すべての国民の信仰の父とされたこと、神がアブラハムの子孫を増やし、大きな民とすること、また神がアブラハムの子孫にカナンの地を受け継がせるということ、その神の約束と契約のすべてが、今危機にさらされているのです。それゆえに、ここで神が登場されます。神がアブラハムの失敗の道に終止符を打たれます。それによって、神はご自身の救いのご計画を前進させられます。

 その時、事態が大きく動きました。【18~20節】。ファラオがこのとき神のご計画を理解していたのか、神の裁きを恐れて、信仰的な判断をしてこのような行動をとったのかについては、分かりません。はっきりしていることは、ここでも確かに神が働いておられるということです。神がファラオにこのような行動をとらせておられるということです。そして、神はアブラハムとサライを取り戻されました。彼らを約束の地へと、神の約束の中へと、連れ戻されました。13章1節に書かれているように、二人は約束のカナンへと戻っていきました。

 わたしたちはここでもう一つのことを確認しておきましょう。アブラハムの神、イスラエルの神は、ここエジプトの地でも神であられ、この地にもアブラハムと共におられたということです。アブラハムは神を捨てました。アブラハムは神の約束の地を捨てました。けれども、神はアブラハムを決してお見捨てにはなりませんでした。神がアブラハムとの契約をお忘れにはなりませんでした。アブラハムが失敗とつまずきを繰り返し、神の道からそれていった時にも、それによって神の約束を失い、また共に神の約束を担っていくべき二人が引き裂かれた時にも、神は彼らをお見捨てにはならず、ご自身がお立てくださった契約をお忘れにはなりませんでした。

 信仰の父アブラハムもまた失敗します。つまずきます。神に背くことがあります。けれども、それによって彼がのちの時代のすべて信じる者たちの信仰の父であることをやめるのではありません。なぜなら、神がそのようなアブラハムと共にいてくださり、彼の罪をおゆるしくださるからです。神はアブラハムの失敗の時にも彼と共におられ、彼の罪をゆるされ、彼との約束をお守りになりました。それゆに、アブラハムは確かにわたしたちすべての信仰者たちの信仰の父であり続けるのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしたちのつまずきや不忠実や不信仰をもあなたはおゆるしくださり、この一年の一人一人の歩みをお恵みをもってお導きくださったことを、心から感謝いたします。どうぞ、わたしたちを終わりの日まであなたの契約の民としてお導きくださいますように。わたしたちに真実な悔い改めの心を与え、あなたへの信頼と服従を増し加え、あなたへの信仰を貫いていくことができますように。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、主キリストの福音が届けられますように。すべての人に天からの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月20日説教「インマヌエル、神は我々と共におられる」

2020年12月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(クリスマス礼拝)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    マタイによる福音書1章18~25節

説教題:「インマヌエル、神は我々と共におられる」

 マタイによる福音書はクリスマスの出来事をイザヤ書7章14節の預言の成就として伝えています。【21~23節】。

クリスマスの日に誕生された主イエスによって、旧約聖書に預言されていた神の救いのみわざが成就したとマタイ福音書は伝えています。「インマヌエル、神は我々と共におられる」。これがクリスマスの出来事の意味です。これが主イエス誕生の意味です。この日に、おとめマリアから聖霊によってお生まれになった神のみ子・主イエス・キリストによって、天におられる神が地に住むわたしたち人間と共にいてくださるということが現実となったのです。天にいます神が地に下って来られ、わたしたち人間と同じお姿となって、わたしたちの所を訪れてくださり、わたしたち人間と共に歩まれました。ここにわたしたちの救いがあります。旧約聖書の預言の成就があります。

これは、人類史上、あるいは神々の歴史の中で、驚くべきことです。人類は神を求めて、さまざまな努力を続けてきました。時に天に昇ろうとし、時に宇宙へと思いを馳せ、時には山々や自然をめぐり、あるいは生き物たちや地にある神々しいものに魂の安らぎを求めてきました。そのために、修行を積み、瞑想を重ねてきました。けれども、クリスマスの出来事はそのような人間が神を求める道に終止符を打ったのです。神ご自身の方から、人間を尋ね求めて、わたしたちの近くに来てくださったのです。「わたしだ。わたしはここにいる。あなたと共にいる」と呼びかけていてくださるのです。わたしたちが神を見いだすよりも前に、神がわたしを見いだしてくださったのです。わたしたちが神を愛すより前に、神がわたしたちを愛してくださったのです。そして、わたしたちを罪から救うためにみ子・主イエス・キリストをお遣わしになったのです。これがクリスマスの意味です。

きょうのクリスマス礼拝では、「インマヌエル、神は我々と共におられる」というみ言葉の深い意味をさぐりながら、クリスマスの大きな恵みを共に分かち合いたいと願います。これを、「神」「我々」「共にいます」の三つに分けて学んでいきましょう。

まず、「神」という言葉が冒頭にあります。神がこの文章の主語です。つまりそれは、神がクリスマスの出来事の主語であり、そこでは神がすべてのイニシャチブ・主導権をとっておられるということを意味します。神が全く登場しないクリスマス、神がイニシャチブを握っておられないクリスマスの祝い事は、本当のクリスマスではありませんし、そこにはクリスマスの恵みと祝福はありません。

きょうの聖書の個所でも、18節で母マリアと夫ヨセフが登場してきますが、彼らがクリスマスの出来事の主人公ではありません。彼らがまだ正式に結婚をするよりも前に、マリアは聖霊なる神によって新しい命を宿したと書かれています。また、20節、21節でも、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。その子をイエスと名付けなさい」という神の使いの言葉が書かれています。さらに、念押しをするように25節では、「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。クリスマスの日に誕生された主イエスの命は直接に父なる神から与えられた聖なる命であり、その誕生に人間は全く関与しておらず、人間の働きなしに、神の奇跡による誕生であったということが強調されています。

クリスマスの出来事の主語であり、そのイニシャチブをとられた神は、クリスマスから始まった人間の救いと罪のゆるしのみわざにおいても、主語であり続けます。神はご自身のみ子であられる主イエスを、わたしたち人間を罪の奴隷から贖い出すために、わたしたちを罪と死と滅びから救い出すために、十字架の死に引き渡されました。神はみ子・主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。わたしたちがまだ罪びとであり、神のみ心に背き、神なき世界に住んでいた時に、神がまずわたしたちを愛してくださり、暗闇の中に住んでいたわたしたちを見いだしてくださったのです。

わたしたちがクリスマスの福音を聞くということは、神こそがこの世界の歴史とわたしの人生の歩みにおいても、唯一の主であるということをわたしが知り、信じるということなのです。わたしの人生の主はわたしではありません。得体のしれない運命とか、他のだれかとか、他の何かとかが、わたしの人生を導く主なのではありません。わたしを愛し、わたしの罪のゆるしのためにご自身のみ子をすら十字架の死に引き渡された神が、わたしの生きるべき道を示してくださり、またわたしが生きるに必要なすべてのものを備えてくださるのです。そのことを信じて神の導きに従っていく、それがクリスマスの福音を聞くということです。神はわたしたちの人生、信仰生活のすべてにおいても、常に主語です。

神の次に「我々」という言葉が続きます。神が主語であり、神が第一である時に、我々が、すなわち人間が続きます。この順序が重要です。この順序を逆転させれば、神も人間も正しく存在することはできません。もし人間が主語になり、第一になれば、神は神であることをやめてしまうことになるでしょう。人間の次の位置に置かれた神は、人間の思いのままになる偶像に過ぎません。それは本当の意味で人間を救うことはできません。神を失い、神から離れた人間は、罪の奴隷となって罪に支配され、互いに奪い合い、憎しみ合い、破壊し合うほかにありません。

「神我らと共にいます」というクリスマスの出来事は、人間を第一にして生きてきた人類に大きな逆転が起こったということを告げています。そして、神が第一になり、神が主語になる時にこそ、人間が本当の意味で人間となり、生きた人間となるのだということを教えられるのです。その時、わたした次のことを教えられます。わたしは神に愛されている人間であり、神に見いだされている人間、神によって罪ゆるされている人間であるということ、一人一人が神のみ前では他の何ものによっても取り変えられない尊い存在であることを気づかされた人間、この弱く小さな一人の兄弟のためにも主キリストが死んでくださったのだということを知らされた人間。わたしもまたそのような人間なのだということを知らされるのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「我々」という複数であるということです。わたし一人ではありません。わたしたちという交わりの中に生きる人間のことです。クリスマスの福音を聞かされる時、だれも孤独ではありません。わたしは神によって罪ゆるされた人たちの交わりの中に、群れの中に招きいれられているのです。共に神の恵みをいただき、共に罪ゆるされ、共に主キリストから与えられる一つの命に生かされている神の家族とされているのです。

三つ目の「共にいます」とは何を語っているのでしょうか。神が人間と共にいるためには両者が同じ地平に立っていなければなりません。しかし、神は天におられ、人間は地に住んでいます。神は聖なる清い方であり、永遠なる存在ですが、人間は罪に汚れ、滅ぶべきものです。神と人間とは住む場所もその本質も全く違っており、両者が一緒になったり、共に並んでいるということは本来はあり得ません。そうであるのに、クリスマスの日に神が我々人間と共にいてくださるという奇跡が起こったのです。

その奇跡を起こしてくださったのが、この日に誕生された主イエスです。その奇跡はこのようにして起こされます。21節にこう書かれています。【21節】。イエスとは旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアと発音します。そのギリシャ語読みがイエスです。ヨシア、ヨシュアとは、「神は救いである、神はお救いくださる」という意味です。この名前はイスラエルでは一般的な名前であり、旧約聖書には何人もでてきます。

ところが、ここで違う点は、その名前は通常は親が名づけるのですが、ここでは天の使いが「その子をイエスと名づけなさい」と命じています。すなわちそれは神ご自身が名づけ親だということです。神はご自身が「イエス、神は救いである」と名づけられたご自身のみ子によって、イスラエルの民と全人類の罪をおゆるしになると、この時決意なさったということです。それによって、神はわたしたち罪びとたちと共におられることを決意なさったのです。

共にいるとは、いつも共にいることです。共にいないときはないということです。神はわたしたちと、わたしと永遠に共にいてくださいます。喜びの時にも、悲しみの時も、幸いな時にも、試練の時にも、健康な時にも、病む時にも、わたしが孤独である時にも、暗闇を歩む時にも、そしてわたしの死の時にも、いや、わたしの死の後にも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。神は終わりの日に神の国が完成される時まで、永遠にわたしと共にいてくださいます。そして、その時にはわたしたちはみ国の民として、共に一つの群れ、一つの教会、一つの民とされるのです。

(執り成しの祈り)

ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年12月20日

日本キリスト教会秋田教会 クリスマス礼拝

12月13日説教「主イエスの十字架と復活の証人」

2020年12月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録2章22~36節

説教題:「主イエスの十字架と復活の証人」

 使徒言行録2章22節にこのように書かれています。【22節】。ペトロはペンテコステの日の説教の途中で改めてエルサレムの住民に呼びかけています。しかも、エルサレム市民に対してだけでなく、イスラエルの国民全体に呼びかけています。神に選ばれて、神との契約の民とされ、神の救いの恵みを受け取ってきたイスラエルの民、預言者の預言のみ言葉を聞き、終わりの日の神の霊の注ぎと救いの完成の時を待ち望んできたイスラエルの民に対して、ペトロはここで一人の人物の名前を挙げています。それが「ナザレ人イエス」です。この主イエスこそが、実は、ペトロのペンテコステの説教の中心人物であり、主題であり、またイスラエルの民が長く待ち望んできた預言の成就なのです。この主イエスの十字架の死と復活こそが、彼の説教のテーマそのものであり、神の救いのみわざの頂点、完結なのであるということを彼はこれから語るのです。それはまた、聖霊を受けて多くの外国の言葉で語りだした他の弟子たちが語った内容でもあります。11節で「神の偉大な業」と言われていた内容なのです。

 ペトロはこのあと23節以下で、主イエスの十字架の死と復活について語りますが、わたしたちはここから、教会の最初の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということを確認することができます。使徒言行録に記されているペトロのこの説教と4つの福音書とパウロ書簡の3つを時間軸に並べてみるとこうなります。ペトロの説教なされたのは主イエスの死と復活から50日後、五旬節の祭りの時、紀元30年ころの5、6月です。パウロの書簡が書かれたのがその20年後の紀元50年代。最初の福音書が書かれたのがさらにその10年後の紀元60年代ということになります。そしてこの3つ、ペトロの説教とパウロ書簡と福音書の中心的なテーマはみな同じ、主イエスの十字架の死と復活であるということをわたしたちは確認できるのです。教会はその誕生の時から、今に至るまで、そしてこののちも終わりの日の神の国が完成される時まで、いつの時代にも、どこの国や地域にあっても、だれに対しても、教会が語るべき説教の内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音であり、それ以外ではないということをもわたしたちはきょうのみ言葉から確認するのです。

 教会とわたしたちキリスト者の信仰と救いの始まり、土台は主イエス・キリストの十字架の死と復活にあります。この世界の何か他の真理とか哲学とか教とかにあるのではなく、またわたし自身をも含めてだれかほかの人物とかにわたしの救いがあるのではない。わたしのために、また全人類のために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストにこそ、わたしの救いの源、根拠、土台があるということです。

 それゆえに、教会とわたしたちの信仰の歩みのすべては主イエス・キリストの十字架の死と復活から始まっています。そしてそれは、終わりの日の神の国の完成と永遠の命へと向かっています。この世にあるすべてのものは死と滅びへと向かっていくしかありません。しかし、主キリストの十字架の死と復活から始まっているわたしたちは、死から命へと向かっており、罪のゆるしと復活の命へと向かって進んでいます。

 では、22節以下のみ言葉から学んでいきましょう。22節から36節まで、ペトロはこの個所で主イエスのご生涯、十字架の死と復活について、特に復活については旧約聖書の預言の成就としての死に対する勝利を語り、さらに33節では主イエスの昇天と聖霊の注ぎについて語っていますが、ここで繰り返して強調されていることは、主イエスのそれらのすべての歩みにおいて、父なる神のお導きがあったということです。22節では、主イエスが「神から遣わされた方」であることと、主イエスのご生涯全体が神のお導きであったということが語られています。23節では、神がご自身のご計画によって主イエスを十字架の死に引き渡されたことが、24節では、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた」と語られ、32節でも、「神はこのイエスを復活させられた」、33節では、「それで、イエスは神の右に挙げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださった」、ここでも文章の主語は神です。36節後半では、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」。このように、主イエスのご生涯全体と十字架の死、復活、召天、聖霊の注ぎ、そのすべてが父なる神のご計画に基づいた神のお導きであるということが強調されています。それゆえに、主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であられ、わたしたちを罪と死と滅びから完全に救い出してくださるのだということをペトロは説教しています。これがキリスト教会の最初の説教であり、そののちの時代のすべての教会の説教の基本、模範です。

 この中から、いくつかの点についてさらに深く学んでいきましょう。23節をもう一度読んでみましょう。【23節】。ここで「引き渡す」という言葉が用いられていますが、この言葉は福音書の中で主イエスのご受難の場面で繰り返して用いられています。主イエスはまず12弟子の一人であるイスカリオテのユダによって祭司長たちに引き渡されました。【マタイ福音書26章14~16節】(52ページ)。次に、25節で「イエスを裏切ろうとしていたユダ」の「裏切る」と訳されている元の言葉は「引き渡す」という言葉と同じです。また、【27章1節】(56ページ)。ここの「渡す」も同じ言葉です。そして、【27章26節】。ここも同じです。

 このように見てくると、まずイスカリオテのユダが主イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡し、次に彼らは異邦人であるローマの総督ピラトに引き渡し、ピラトは十字架刑を言い渡して主イエスをユダヤ人に引き渡し、彼らが十字架につけるというように、主イエスは罪びとたちの手から手へと引き渡されていったことが分かります。

しかし、ペトロはその中に、罪びとたちの引き渡しよりもはるかに大きな、神ご自身の引き渡しがあったのだと語っているのです。神ご自身が、罪なきご自身のみ子を罪びとたちの救いのために、彼ら罪びとたちの手から手へと引き渡されることを、いわばおゆるしになったのです。いや、神は彼ら罪びとたちが、それが救いになるとは全く気づかずに行っていた引き渡しという罪の行為をお用いになって、彼らの引き渡しを神ご自身の救いのための引き渡しに変えてくださったと言うべきでしょう。人間たちの罪による引き渡しが最後に勝利するのではなく、神ご自身による神の引き渡しが勝利し、罪の救いを成し遂げるのです。

 同じ意味で、パウロはローマの信徒への手紙で、主イエスご自身と神の引き渡しについて書いています。【4章25節】(279ページ)。これは主イエスご自身の引き渡しです。次に、【8章32節】(285ページ)。この神ご自身の大いなる引き渡しによって、わたしたち罪びとたちに対する神の偉大な愛が示されました。そして、【39節】(286ページ)。神と主イエスご自身による引き渡しに示された神の偉大な愛が、人間の罪と死とに勝利するのです。

 ペトロのペンテコステの説教に戻りましょう。もう一つここで注目すべきは、主イエスの復活についてです。ペトロは主イエスの復活が旧約聖書・詩編16編に預言されていることの成就であると説教しています。【24~28節】。詩編16編はダビデが歌った詩編と考えられています。ダビデはいつどのような時でも、主なる神と共に歩みました。試練の時、苦しみや悲しみの時にも主なる神に救いと助けを求め、暗闇を行くときも、絶望の淵に立たされる時にも神に希望の光を見いだし、ただ神だけに従って歩みました。神はそのようにしてひたすらに神だけに服従する信仰者を決してお見捨てにはならないとダビデは確信しています。ダビデが地上の歩みを終える死の時にも、神は彼をお見捨てにはならず、必ずや死から命へと引き上げてくださるであろうと彼は信じていました。これがダビデの復活信仰でした。

 そして今、主イエスによってダビデが抱いていた復活信仰は、現実となりました。神は死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された主イエスを、三日目に復活させ、死の墓から引き上げてくださいました。主イエスは罪と死と滅びに勝利され、天の父なる神の右に座しておられます。そして、天から父なる神と共に約束の聖霊を信じる人たちに注いでくださいます。主イエスは終わりの日の神の国が完成される時まで、天におられ、全地をご支配しておられ、特に、信仰者たちに神の国での復活と永遠の命を約束してくださいます。わたしたち信仰者は天に勝利者主イエス・キリストを持っています。それゆえに、ヘブライ人への手紙12章2節に書かれているように、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、どのような暗い時代にも、かしらを天に上げつつ、信仰の馳せ場を走り抜くことができるのです。

 最後に、32節の「わたしたちは皆、そのことの証人です」というみ言葉に注目したいと思います。証人という言葉はこれまでにも何度か出てきました。【1章8節】(213ページ)。また、21、22節では、ユダに代わる弟子を選ぶ際には、「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と書かれていました。彼ら初代教会の弟子たち、使徒たちは実際に彼らの目で見、耳で聞き、体で体験した主イエスの十字架と復活の証人たちです。のちの教会は、そして今日の私たちは、彼ら目撃証人たちの証言を聞き、それを信じて信仰者とされました。彼らは見て信じた人たちでしたが、わたしたちは見ないで信じる人たちとされました。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。わたしたちはこの幸いな信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、み子の十字架と復活によって全人類の罪を贖い、救ってくださったことを感謝いたします。この福音が全世界のすべての人に届けられますように祈ります。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

12月6日説教「人よ、あなたの罪はゆるされた」

2020年12月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編32編1~11節

    ルカによる福音書5章17~26節

説教題:「人よ、あなたの罪はゆるされた」

 ルカによる福音書は医者であるルカが書いたと考えられています。ルカ福音書の中には著者が医者であることを推測させる特徴的な表現がいくつかあります。きょう学ぶ5章17節以下の中風の人がいやされたという奇跡は他の共観福音書(マルコとマタイ)にもほとんど同じ内容で描かれていますが、一か所だけ大きく違います。それは、17節後半の「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」という言葉がマルコとマタイ福音書にはなく、ルカ福音書だけに書かれています。ルカは主イエスが病気をいやされたのは主なる神の力によるということを強調しているのです。主イエスが病気をいやされたということは、医者やその他の人がいやすのとは根本的に違う意味を持っていることをルカははっきりと語っているのです。医者は治療や薬によって病気をいやします。古代社会ではまじないや魔術、祈祷などによって病気をいやす人たちも多くいました。それを商売にして、時には詐欺まがいのことをしている人たちも少なからずいたようです。しかし、医者であるルカは、医者としての専門的な目と信仰の目とをもって、主イエスのいやしの奇跡が、人間や科学の働きによるのではなく、それらのすべてをはるかに超えた神の力による、神の奇跡のみわざであることを見ていました。ルカは主イエスこそが神から遣わされたまことのメシアであって、人間の体と魂の全体を神の力と命によって健康にされる救い主であるということをこの個所で語っているのです。

 きょうは主イエスが中風の人をいやされたというこの個所から、ここに登場してくる人物たちに焦点を当て、彼らが主イエスとどのようなかかわりを持ち、この奇跡をどのようにとらえたかということを考えながら、わたしたちが主イエスによって救われるとはどういうことなのかを学んでいきたいと思います。

 最初に登場してくるのが17節の「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」、次に18節の「男たち」と、彼らによってはこばれてきた「中風で寝たきりの人」、それに主イエスを取り巻いている「群衆」、これらの人たちを取り上げてみましょう。

 まずファリサイ派の人々と律法の教師たちですが、彼らは主イエスの説教を聞くためにこの家に集まって来たのではありませんでした。彼らはガリラヤ地方とユダヤ地方の町々の代表者として、当時のユダヤ教の代表者として、主イエスを監視し、調査するためにそこにいたということが17節に書かれています。【17節ab】。主イエスが自分たちの考えや習慣に反した行動を行うことがないかどうか、あるいはもしかしたら、主イエスによって自分たちの宗教家としての権威が失われることになりはしないかという恐れをもって、彼らは主イエスの教や行動を調査するために来たのでした。彼らは自分たちの立場や権威、利益を守るためにこの場に来ていました。

 その時、彼らは主イエスと同じ場所に座り、主イエスの話を聞いてはいましたが、そこでは主イエスとの真実な出会いは起こらず、主イエスのみ言葉によって養われるということもありません。逆に彼らは、21節に書かれているように、主イエスの罪のゆるしと救いのみわざを見ても、それを批判し、主イエスを神を冒涜した罪で告発しようとさえしています。そして、やがて彼らは数年後には実際に主イエスを捕え、偽りの裁判で裁き、死の判決を下すようになるのです。ここにはすでに、主イエスの十字架の影が差し込んでいます。

 わたしたちはファリサイ派の人々や律法の教師たちのようであっては救われることはできません。自分の立場を弁護したり、自らを義とするのではなく、神のみ前にへりくだり、自我が打ち砕かれて、ひたすらに主イエスの救いを願い求めるという謙遜な態度がなければ、主イエスとの真実な出会いは起こりません。

 次に群衆を取り上げてみましょう。彼らは主イエスを取り囲んでいます。家の中いっぱいに群がっています。熱心に主イエスの説教を聞いているように見えます。けれども、今のところ彼らには何事も起こりません。かえって、彼らは中風の人が主イエスのみ前に近づくの妨げているように思われます。19節の前半に「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった」と書かれているからです。福音書の中では、群衆はいつの場合にも、どちら側にもつく存在として描かれたいます。ある時には、主イエスの奇跡を見て、説教を聞いて、喜んで主イエスの周りに群がってくるけれども、ある時には、「十字架につけよ、十字架につけよ」と狂い叫ぶ群衆。ある時には主イエスに味方し、ある時には敵対する。どちらにも転びえる存在としての群衆。まだ自分の立場をはっきりと選択できておらず、信仰の決断をしていない、自分を完全に捨てきれていない、すべてをかけて主イエスに従っていくことをためらっている群衆。このような群衆も、主イエスと真実な出会いをすることはできません。本当の救いを与えられることはありません。

 わたしたちは群衆の一人であってはなりません。教会において、礼拝において、観衆や見物人であってはなりません。群衆の中に身を隠しておくのではなく、そこから一人飛び出して、主イエスのみ前に進み出なければなりません。主イエスのみ前に自分自身をさらけ出し、ありのままの自分を差し出さなければなりません。その時、主イエスは貧しいわたしをも受け入れてくださり、罪のゆるしの恵みをお与えくださいます。

 第三に、中風の人を運んできた人たち、彼らは寝たきりの病人を担架に乗せて主イエスの所へ連れてきました。病人の家族か、友人たちでしょう。長く寝たきりであった病人にとって、彼らは良き隣人たちでした。この病人は辛い病気との戦いの中でも、そのような良き隣人たちを持っていて、幸いでした。そして今、この病人は、最も幸いなことに、彼ら良き隣人たちに運ばれて、主イエスの所に連れられてきました。自分の足では主イエスのもとへ行くことができない病める人を、主イエスのもとへと運んでいく、これこそが良き隣人として彼らがなした最も良きわざであると言えるのではないでしょうか。

 ところが、彼らが主イエスがおられる家に着いた時には、すでに群衆がいっぱいで病人を主イエスの近くに連れていくことができませんでした。でも彼らは諦めませんでした。なんとかして、病人を主イエスのもとに連れて行こうとしました。病人に対する彼らの深い愛があったと思われます。それ以上に、主イエスがこの人をいやしてくださるに違いないという強い信頼がありました。

 それから彼らは思いがけない大胆な行動に出ました。その家の屋根に上り、屋根の瓦をはぎ取って、天上から担架と病人とを主イエスのみ前に釣り降ろそうと考えたのです。当時の家は、屋根に上る外階段があり、屋根は木やしゅろの枝などを組んで土で固め、その上に瓦を敷くという簡単なものであったので、数人の男たちで容易に屋根に大きな穴をあけることができました。

 それにしても、何と強引なやり方でしょうか。主イエスに近づくために、彼らは常識では考えられないようなことをしました。もしもこの行為が主イエスに会うためでなかったなら、この家の人からも周囲の人たちからも非難されたに違いありません。しかし、主イエスがこの病人をいやされ、彼の罪をゆるされた時、だれもそのことを非難することはできませんでした。すべての人が主イエスの救いのみわざを見て驚き、神をあがめたと26節に書かれています。【26節】。一人の病める人がいやされ救われるという大きな救いの恵みの前では、瓦をはいで屋根に穴が開けられたという損害は問題にはならなかったということでしょう。

 20節に「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれていますが、その人たちとは、病人のことではなく、彼を連れてきた人たちのことです。彼らは主イエスに神の力が働いて、不治の病と考えられていた重い病気をもいやすことができると信じて、熱心で大胆な行動によって、病人を主イエスのみ前に連れてきました。主イエスはその彼らの信仰をご覧になります。そして、驚くことに、彼らの信仰のゆえに、病人の罪をおゆるしになりました。

 わたしたちはここで、信仰者の執り成しの祈りについて教えられます。主イエスはわたしたちの執り成しの祈りと奉仕をご覧になっておられます。わたしの愛する家族や隣人のために、わたしが熱心に祈り、その人を主イエスのみもとへと連れていくための奉仕をする時、その人自身が信じるか信じないかにかかわらず、主イエスは信仰者の執り成しの祈りと奉仕とをご覧になり、その人を救いへとお招きくださるということを、わたしたちは信じてよいのです。

 第四に、中風の人を見ていきましょう。彼はきょうの個所では少しも積極的な行動はしていません。すべて受け身です。もっとも、彼は寝たきりですから、自分では何もなしえなかったのですから、当然と言えるのかもしれません。けれども、自分では何一つなしえないこの病める人が、ここで主イエスによって罪ゆるされ、その病がいやされるという大きな救いの恵みを受け取ることがゆるされているのです。

 彼がきょうの場面で始めに登場した時には、担架に乗せられ、男たちの手に担がれていました。けれども、終わりの場面では、25節にこのように書かれています。【25節】。何という大きな変化が彼の身に起こったことでしょうか。彼は主イエスによって全く別人のように変えられたのです。わたしたちが主の日ごとの礼拝で主イエス・キリストと出会い、主イエスのみ言葉を聞き、罪ゆるされる時にも、このように変えられていくのです。

 最後に、主イエスご自身に目を注ぎましょう。【20節】。そして【22~24節】。主イエスは神の権威によってわたしたちの罪をゆるされます。ファリサイ派や律法の教師たちが言うように、罪をゆるす権威を持つのは神以外にはいません。罪とは神に対する違反だからです。主イエスは人となられた神のみ子として、神から与えられた権威によってわたしたちのすべての罪をゆるされます。そして、その罪をゆるす権威を持っていることが分かるために、寝たきりの病人をみ言葉によって立ち上がらせます。「人よ、あなたの罪はゆるされた」。だから「起きて歩け」と主イエスが言われる時、そこに神の奇跡が起こり、救いといやしが起こります。

主イエスは神から与えられた権威をご自分を救うためには少しもお用いになりませんでした。ご自身を貧しく低くされ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されることによって、わたしたちのために、わたしたちに代わって裁きを受けられ、苦しまれ、死んでくださり、そのようにしてわたしたちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。ここにこそ真実の救いがあるのです。主イエスはわたしたち一人ひとりにも、「子よ、あなたの罪はゆるされた。信仰によって歩きなさい」と言ってくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。わたしたちの罪のゆるしはみ子主イエス・キリストにあります。主キリストを信じる信仰によって、わたしたちは救いとまことの命と平安を与えられます。どうか、生涯この信仰によって歩ませてください。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。