4月24日説教「種をまく人」

2022年4月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書55章8~13節

    ルカによる福音書8章4~10節

説教題:「種をまく人」

 前回学んだルカ福音書8章1節には、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれていましたが、その際に主イエスは多くのたとえ、あるいはたとえ話を用いてお話になりました。共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つのの福音書では、主イエスがお語りになった説教のほぼ三分の一はたとえであり、その種類は40種以上あると言われています。

 ルカ福音書ではすでに5章36節に、「イエスはたとえを話された」とあり、古いものに新しいものをつなぎ合わせることはできない、新しいものは爆発的な力と命をもって、古いものを破壊してしまうから、ということを強調されました。また、6章39節にも、「イエスはまた、たとえを話された」とあり、新しく始まったゆるしの時代に生きる人は裁き合うのではなくゆるし合うべきことを教えておられます。

 きょうの礼拝で朗読された8章4節以下では、まずたとえが語られ、次に、例えで語ることの理由、目的について、そして11節以下では、先に語られたたとえの解説が主イエスご自身によってなされています。この個所は共観福音書にほぼ同じ形で記録されていますが、ルカ福音書はマタイ、マルコに比べて半分くらいに短縮されています。そこで、マタイ、マルコを参照にしながらこのたとえを学んでいくことにします。

 【4~5節a】。主イエスの説教を聞くために多くの人々が集まってきました。主イエスは彼らにお語りになりました。群衆は、聴衆として、主イエスの説教を聞くように招かれています。彼らの中には、主イエスによって病気をいやしていただくためとか、主イエスの奇跡を見るために集まってきた人たちも多くいたに違いありません。あるいは、主イエスをユダヤ教の異端者とみて、偵察活動のために来た人たちもいたでしょう。その他の目的をもって来た人たちをも含めて、すべての人たちは今、何よりもまず主イエスがお語りになる説教を聞かなければなりません。

 主イエスが説教をお語りになる、そして聴衆がそれを聞くとは、聖書の中ではどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちはここでそのことの特別な意味を理解しておかなければなりません。主イエスは興味本意に集まってきた群衆に、みんなの興味に合わせて、いわゆる大衆受けするような講演や講義をしておられるのではありません。集まってきているひとり一人に、その人が聞くべき神のみ言葉を、その人に向かって語っておられ、その人がその神のみ言葉によって生きていくようにと招いておられるのです。主イエスはわたしたち罪びと一人ひとりに語りかけてくださり、わたしたちを救いへとお招きになるために、お語りになります。聖書で「主イエスがお話になった」と書かれているのは、いつでも、どこでも、そういう意味です。

 「たとえを用いて」とありますが、先ほども紹介したように、主イエスの説教の多くはたとえを用いてのお話でした。主イエスがここでお話しになったたとえは、一般に「種まきのたとえ」と言われてきましたが、近年は「種を蒔く人のたとえ」と言われるようになり、少し強調点が移ってきました。『新共同訳』では小見出しに「種を蒔く人」のたとえとしているのは、その変化、強調点の違いを意識していると思われます。マタイ福音書13章18節には、「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい」と書かれてあり、主イエスご自身が「種を蒔く人のたとえ」と呼んでおられることからも明らかなように、このたとえは「種を蒔く人」に強調点があるのです。種をまく人がこのたとえの主人公なのです。わたしたちはまずこのことを確認しておきましょう。

 5節で「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という言葉でこのたとえは始まります。種をまく人が、種を携えて、町々村々を巡り歩き、この世界の至る所に、すべての場所、すべての人に、神のみ言葉の種を蒔くために出て行く、そのために種をまく人はこの世においでになった、しかり、主イエスこそが神のみ言葉の種を蒔く人ご自身なのだということをわたしたちはまず教えられるのです。主イエスは神のみ言葉の種を携えて、否、ご自身が神のみ言葉そのものであるお方として、天の父なる神のみもとから、この地に下って来られました。

 ヨハネ福音書1章では、主イエスの誕生を神の言葉が受肉したこととして表現しています。14節に、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と書かれてあるように、主イエスは旧約聖書で語られた神のみ言葉をすべて実現に至らせ、成就されるために、人間のお姿でこの世界においでになったのです。

 神のみ言葉の種をまくためにこの世界においでになられた主イエスご自身が種まきのたとえの主人公であるということから、このたとえを理解していくことが求められます。したがって、種がまかれた場所の違い、道端とか石地、いばらの中そして良い土地に注目して、それぞれの特徴について論じるとというのは本来の主題ではありませんし、それぞれの場所にまかれた種がその後にどうなったか、なぜそうなったのかを詳細に分析したり、その4種類に人々を区分けし、分類したりするということは、ここでは主題ではないということです。主イエスが全地に、全世界のすべての人に、神のみ言葉の種をまくために、人となってこの世においでになられたことこそが重要なのです。

 もう一つここで確認しておくべきことは、種まきのたとえは神の国のたとえであるということです。主イエスは10節で弟子たちにこのように語っておられます。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることがゆるされているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ」。また、11節の解説の個所では、「種は神の言葉である」と説明しておられます。種まきのたとえは神の国について、神の国の福音についてのたとえということです。ルカ福音書の中でこれまでに語られた5章36節以下のたとえと6章39以下のたとえも神の国の福音に関するものであったということをわたしたちは読んできました。これら以外の主イエスのたとえも、そのほとんどは神の国のたとえです。主イエスの到来によって開始された神の国、神の新しいご支配、その隠された奥義、秘密を語り、解き明かすために、主イエスはたとえをお用いになったのです。このことについては、次回さらに深く学ぶことになるでしょう。

 では、以上のことを基本にしながら、種まきのたとえを読んでいきましょう。【5~8節】。このたとえは当時の農家の慣習を背景にしていると言われます。種まき機械などない時代ですから、農夫は種を入れた大きな袋を背負いながら、広い畑をくまなく歩いて種をまきます。その際に、一部の種は耕作されている畑を越えて道端や石地の所にも飛んでいきますが、農夫はいちいちそのことは気にしませんし、耕作地の外に飛んでいった種をわざわざ拾い集めるということもしません。そのような農夫の慣習を背景にしているという説明がよくなされます。けれども、種まきのたとえの種をまく人が主イエスご自身であり、そこで語られている内容が神の国の福音であるということからすれば、その説明は適切ではないことが分かります。

 もちろん、主イエスはそのような習慣をご存じであられ、当時のだれもが知っている日常的なことを用いてたとえを語られたのですが、それによって指し示されているのは神の国の福音ですから、主イエスがどの場所でも所かまわずに、無造作にみ言葉の種をまかれたとか、道端や石地にまかれた種については無関心であられたということを連想させる説明は適切ではありません。主イエスは一粒一粒の種に思いをこめられ、一人一人にふさわしく、その人が救いに導かれることを祈り、信じながらみ言葉の種をまかれた、神の国の福音をお語りになったということを忘れるべきではありません。

 そうであるとすれば、わたしたちはここでまず、主イエスが道端であれ、石地であれ、あるいは茨が生えている場所であれ、すべての場所に、すべての人に、神の国の福音の種をまかれたのだということを読み取らなければなりません。1節に、「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」と書かれあったとおりです。主イエスは故郷ガリラヤ地方から、異邦人と言われ、ユダヤ人からさげすまされていたサマリア地方にも、時には異教の地にも、そしてご自身を捕えるユダヤ人指導者たちが待ち構えているユダヤ地方、エルサレムに至るまで、あらゆる危険や困難の中を、ひたすらにみ言葉の種をまき続けられました。そして、わたしたちを罪から救い出すために、ご受難の道を進まれました。ついには、一粒の麦の種が地に落ちて死ぬように、十字架で死んでくださり、それによって多くの実りを結ばれたのです。

 主イエスがお語りになる神の国の福音はすべての人に届けられます。宗教には全く無関心で、この世の生活に明け暮れている人も、ローマ帝国の支配者やヘロデの王宮も、ユダヤ教の指導者、ファリサイ派、祭司たちも、そしてユダヤ人以外の異邦人も、すべての人が主イエスが語られる神の国の福音に招かれています。すべての人が神の国の福音を必要としているからです。すべての人が神の国の福音によって救われ、朽ちることのない永遠の命へと招かれています。主イエスが語られた種まく人のたとえでは、まず第一にこのことが強調されなければなりません。

 もう一つ、このたとえの中心点は、まかれた種が必ずや芽を出し、やがて豊かな実りをつけるということです。道端、石地、いばらの中という3種類の場所にまかれた種は実りをつけることができませんでした。もっといろんなケースを挙げることができるかもしれません。用水路に落ちて、流されてしまった種とか、隣の畑に落ちて、隣の人が収穫した場合とか、まかれた種が実りをつけずに失われてしまう例はたくさんあるでしょう。神のみ言葉の種が芽を出し、実りをつけるには、多くの障害があり、困難が待っています。わたしたちは時にその厳しい現実を見て、希望を失いかけることもないわけではありません。けれども、8節に、「また、ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と書かれています。主イエスはこの約束を与えてくださいます。イザヤ書55章11節にはこのように書かれています。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」。

 わたしたちもこの約束を信じながら、神のみ言葉の種をまき続ける使命を託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの命のみ言葉をわたしたちにも与えてください。あなたのみ言葉の力を信じさせてください。あなたのみ言葉が、死んでいる人を生き返らせ、病んでいる人をいやし、憎しみと殺戮を繰り返している国民(くにたみ)に和解と平和の道を備えることを信じさせてください。

〇主なる神よ、この世界を憐れみ、あなたの愛と正義で満たしてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月17日説教「主イエスは復活であり、命である」

2022年4月17日(日) 秋田教会復活日・教会建設記念日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ヨハネによる福音書11章17~27節

説教題:「主イエスは復活であり、命である」

 教会の暦ではきょうは主イエスの復活を記念するイースター礼拝です。また、きょうの礼拝は秋田教会建設記念日を覚える礼拝でもあります。(旧)日本基督教会秋田教会が自給独立の教会として秋田伝道教会から秋田教会として教会建設式を執行したのが1934年(昭和9年)4月15日(日)、紺野瀧一郎牧師が就職して2年目でした。当時の東北中会が「自給独立十年計画」を立て、外国ミッションからの経済的独立を目指す運動を始めて4年目でした。それまでの外国ミッションの支援に感謝しつつ、精神的にも経済的にもそれから独立して、教会員一人一人が自覚的に教会を支える自給独立の歩みを始めたのでした。今年は88年目になります。弱さや欠けを持つ教会ですが、主の憐みとお導きとを信じて、真実の教会を建てていくために、これからも共に仕えていきたいと願います。

 きょうのイースター礼拝では、ヨハネによる福音書11章17節以下のみ言葉をご一緒に聞きます。この個所は、ベタニア村のマリアとマルタの兄弟ラザロが死んで墓に葬られて4日目に主イエスによって生き返らされたという奇跡が記されていますが、その中でまず25節の主イエスのお言葉に注目しましょう。「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である』」。「わたしは○〇である」という言い方はヨハネ福音書に何度も書かれている特徴的な表現であり、主イエスの自己宣言、自己提示と言われます。たとえば、6章5節では「わたしは命のパンである」、8章12節では「わたしは世の光である」、10章11節では「わたしは良い羊飼いである」、14章6節「わたしは道であり、真理であり、命である」、15章1節「わたしはまことのぶどうの木である」などです。主イエスはこれらの表現によって、ご自身がほかのだれかとは全く違った特別な存在であり、特別な人間であり、天の父なる神が人間のお姿となってこの世に来られた、神のみ子であるということを語っておられます。

 「わたしは〇〇である」はギリシャ語では「エゴー エイミイ」と言います。エゴーは「わたし」という意味の名詞、「エイミイ」は「わたしは〇〇である」という意味の動詞です。つまり、「エイミイ」だけでその意味になるのに、さらにそれに「エゴー」「わたしは」という言葉を付け加え、強調している言い方なのです。その意味を汲んで日本語に翻訳するとすれば、「わたしこそは〇〇である。わたしだけが〇〇である。わたし以外には〇〇はいない」ということになります。

 つまり、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の命のパンである。天から下って来て、あなたがたに朽ちることがないまことの命を与え、罪の中で死んでいたあなた方をまことの命によって生かす命のパンである」と主イエスは言われます。「わたしこそは、主イエスこそが、すべての人を照らす世の光である。暗闇に閉ざされているこの世界を天からの光によって照らし、暗黒の地に住んでいるあなたがたをそこから導き出し、神のみ言葉の光に照らされて歩むようにする世の光である」。「わたしこそは、主イエスこそが、良い羊飼いである。迷える羊を探し出し、清い飲み水を与え、野のすべての獣(けもの)の攻撃から守り、羊のために命をも惜しまない唯一の良い羊飼いである」。「わたしこそは、主イエスこそが、道であり、真理であり、命である。父なる神に至る唯一の真理への道、唯一の命に至る道、だれも主イエスを通らなければ神のみもとに行くことができない」。「わたしこそは、主イエスこそが、唯一のまことのぶどうの木である。主イエスにつながっていれば、だれでも豊かな実りをつけることができる」。そのように、「わたしこそは、主イエスこそが、唯一の、まことの、そして永遠の、すべての人にとっての、復活であり、命である」と主イエスが言われるのです。

 では、この主イエスのみ言葉はどのような状況の中で言われたのか、またそれにはどのような意味が込められているのかを見ていきましょう。

 11章1節に、ラザロはべタニア村に住むマルタとマリアの兄弟であると紹介されています。ベタニアはエルサレムの東3キロメートルにあります。ラザロという名前には「神が助けた」という意味があります。ここでは象徴的な意味があるように思われます。彼が重い病気になりました。マルタとマリアは主イエスが急いできてくださってラザロの病気をいやしてくださることを願いました。その時、主イエスは4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われましたが、しかし主イエスはすぐにはベタニアには向かわれずに、なおも二日間もそこに滞在し、その間にラザロは息を引き取りました。主イエスは14、15節でこう言われます。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである」。そう言われてから、主イエスがマルタとマリアの家に着いた時には、ラザロが死んで墓に葬られてすでに4日もたってからであったと17節に書かれています。これはどういうことでしょうか。ここに主イエスのどのような意図があったのでしょうか。

 一つ明らかなことは、主イエスは意図的にラザロの所に行くのを遅らせておられるということです。もし、主イエスがすぐにラザロのもとへ向かっていたら、彼が息を引き取る前に到着していたでしょう。21節でマルタが言っているとおりです。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。32節ではマリアも同じことを言っています。彼女たちは主イエスが奇跡によってラザロの病気をいやすことがおできになると期待し、また信じていました。9章に書かれていたように、主イエスは生まれながらにして目が見えなかった人の目を開かれ、見えるようにされました。その他、多くの病をいやす奇跡を行っておられました。ラザロに対しても同じことが出来たはずです。でも、彼が死んでしまってからは、どうすることもできないだろうという思いが彼女たちにはあったのでしょう。彼女たちも、弔問に来たユダヤ人たちもラザロの死の前でただ泣き崩れるほかなかったことが33節に書かれています。

 しかしながら、実はそこにこそ、主イエスの最終的な意図が、目的があったのだということにわたしたちは気づかされます。マルタにとっても、またこの時にラザロの死を悼みながら彼女たちを慰めるためにこの家を訪れていた弔問客も、そしてすべての人にとっても、人間にとって死が最後に行きつくところであり、死が最後に勝利し、人間はそれに対して何の抵抗もできず、全く無力で、死の前に屈服するほかないと、だれもが考えるのですが、しかし、主イエスはここでそれを根本から覆し、死が最後なのではない、死が最後に勝利するのではない、死から新しい命が生み出され、死ではなく命こそが最後に勝利するのだということを、お示しになるのです。病気をいやす奇跡よりもはるかに偉大なる死から命を生み出す復活の奇跡をマルタたちとユダヤ人たちと、そしてわたしたちに見せることが主イエスの最終目的だったのです。

 主イエスが4節で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われたのはこのことだったのです。また、14節で「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたがそれによって信じるようになるためである」と言われたのはこのためだったのです。そして、主イエスは事実ラザロを死から生き返らせたことが38節以下に書かれています。43節から読んでみましょう。【43~44節】。

 主イエスは死の力を打ち破られました。死に勝利されました。死から新しい命を生み出されました。これは神のみ子であられる主イエスにだけ与えられた神の力であり、主イエスだけがなされる神の奇跡です。主イエスはこれによって神の栄光を現わされました。しかしそれは、ラザロに身に起こった奇跡であり、「わたしこそが復活であり、命である」と言われた主イエスのみ言葉の意味がまだ十分に解明されているとは言えません。わたしたちはさらに深くこのみ言葉の意味をさぐっていかなければなりません。

 23節で主イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われた時、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と答えています。これが、この時代のユダヤ人が一般的に持っていた復活信仰でした。生涯神を信じ、神に従った信仰者は終わりの日に神の国が完成される時に復活させられるという信仰は、イスラエルの長い苦難の歴史をとおして、特に紀元前2世紀の大規模なユダヤ教迫害を経て、次第に強くなっていったと推測されています。というのは、苦難と試練の中でも神を信じ続け、神に全き服従をささげてその信仰を貫きとおした信仰者を神は決してお見捨てになることはない。地上の生涯では報われなかったとしても、神は最後には必ずや報いてくださる。そして、復活の命をお与えくださるに違いない。そこから、復活信仰が芽生えるようになったと推測されています。

 しかし、主イエスはここで、そのようなマルタや当時のユダヤ人の復活信仰に対して、終末の時の復活ではなく、今ここで主イエスのみ言葉を聞く信仰者に対して、「わたしこそが復活そのものであり、命そのものである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのです。主イエスを救い主と信じる信仰者は、今すでに復活そのものであられる主イエスの復活に与ることがゆるされている、命そのものであられる主イエスの命によって生きることがゆるされている。それゆえに、主イエスが死に勝利されたように、信仰者ももはや死の力に支配されることはない。死に勝利し、復活の命に生かされている。主イエスはそう言われるのです。

 主イエスのこのみ言葉は、主イエスご自身の十字架の死と3日目の復活というイースターの出来事を土台にして理解されなければなりません。主イエスは全人類の罪を贖うために十字架で死んでくださいました。そして、罪と死と滅びからわたしたちを救い出すために、死の墓から復活され、死に勝利されたのです。この主イエスを救い主と信じる信仰によって、わたしたちは死から命へと移されています(5章24節参照)。死のとげはすでに主イエスによって抜き取られているのです。復活の主イエスを信じる信仰者にとっては、その歩みは死に向かっているのではなく、すでに死から命へと移されています。主イエスの復活の命に向かっています。わたしたちはこの信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべきであったわたしたちを、あなたがみ子イエス・キリストの十字架と復活によって、まことの命に生きる者としてくださいましたことを、感謝いたします。どうか、わたしたちが朽ち果てるしかない地上の命のために生きるのではなく、天から与えられる永遠の命に生かされている者にふさわしく、復活であり命であられる主イエス・キリストにお仕えする信仰の歩みを続けさせてください。主イエスの復活の恵みと命が、全世界のすべての人にありますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月10日説教「完全な犠牲をささげ、贖いをなしとげられた主イエス」

2022年4月10日(日) 秋田教会主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書53章1~12節

    ペトロの手紙一1章13~21節

説教題:「完全な犠牲をささげ、贖いを成し遂げられた主イエス」

 教会の暦では、きょうは「棕櫚の主日」、今週は受難週です。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間です。主イエスは日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに入場されました。人々は棕櫚(しゅろ)の枝を手に主イエスを迎えたとヨハネ福音書12章13節に書かれています。主イエスはその日から毎日エルサレム神殿で神の国の福音を説教されました。木曜日の夕方には弟子たちとの最後の晩餐、それはユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭を祝う食事であったと共観福音書は伝えています。そして、金曜日にはユダヤ最高法院での裁判、十字架の死、日没前の墓への葬りと続きます。安息日の土曜日をはさんで三日目の日曜日の朝早く、主イエスは墓から復活されました。次週17日に、わたしたちはイースター礼拝をささげます。

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいますが、きょうはちょうど十字架の贖いの個所を学ぶことなっておりますので、主イエスのご受難に思いを馳せながら、聖書のみ言葉から聞いていくことにします。

 『日本キリスト教会信仰の告白』をわたしたちが学ぶことの意義についてここで改めて確認しておきましょう。一つには、すでに洗礼を受けて教会員になった人はこの信仰告白を受け入れて洗礼を受け、秋田教会員になったのですから、自分の信仰をより確かにし、深めるためにこれを繰り返して学んでいく必要があります。二つには、求道中の人はこの信仰告白を自分の信仰として受け入れ、告白して、洗礼へと導かれるために、これを学ぶことが何よりも基本的で重要なことになります。

では、『信仰告白』の個所を読んでみましょう。「主は、神の永遠の計画に従い、人となって、人類の罪のため十字架にかかり、完全な犠牲をささげて、贖いをなしとげ、復活して永遠のいのちの保証を与え」と続いています。ここではキリスト教信仰の最も重要で中心的な内容が告白されています。きょうは、その「贖いをなしとげ」という告白について学びます。

「贖い」という言葉は一般にも用いられますが、聖書では特別な内容を含んでいます。旧約聖書からそれをさぐっていきましょう。贖いの一つの意味は、神から買い戻すということです。本来は神にささげられるべきものを、その代わりに別のものをささげる場合に贖うという言葉が用いられます。たとえば、家畜の中で最初に生まれた雄はすべて神にささげられねばならないと旧約聖書の律法に定められています。これを初子(ういご)の奉献と言います。ここには、命はすべて神から与えられたものであり、神に属するものであるので、神にお返しするという信仰があります。しかし、ロバの場合は宗教的に汚れた動物と考えられ、神にささげることができないので、ロバの初子の代わりに小羊をささげて贖わなければならないと定められています。

 人間の初子、最初に生まれた男子も、神のものであり、神にささげられねばなりませんが、人間の命そのもの神にささげることはできないので、動物の命や金銀で贖うように定められています。ルカによる福音書2章に書かれているように、主イエスの両親も生まれて40日を過ぎた幼子主イエスを神にささげるために、エルサレムの神殿で神を礼拝しました。贖うとは、本来神に属すべきもの、神の所有であるものを、贖いの動物や贖い金を神に支払うことによって、神から買い戻すという意味をもっています。しかし、その命が人間の自由になったというのではなく、あくまでもすべての命は神のものであることには変わりません。主イエスは、ご自身の命をその本来の所有者であられる父なる神におささげになりました。

 第二には、奴隷などを買い戻す際にもこの言葉が用いられます。貧しさのために、家族のだれかがを奴隷として売った場合や土地を売り渡した場合に、後になって近親者がその奴隷や土地を買い戻すことを贖うと言いました。その際に、だれでも奴隷や土地を自由に売買できるというのではなく、もとの所有者に最も近い肉親、近親者にだけ贖う権利がありました。したがって、奴隷や土地をだれでもが自由に売買することは、イスラエルでは固く禁じられていました。奴隷も土地も、すべては本来神のものであり、人間に貸し与えられたものであるという信仰がここにもあります。

 第三に、イスラエルの民が外国に支配され、奴隷状態であった時に、主なる神が彼らを外国の支配から解放されることを贖うと言いました。イスラエルのエジプト脱出は、神の贖いのみわざでした。出エジプト記6章6節には次のように書かれています。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である。わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。また、イザヤ書では、バビロンに捕囚になっているイスラエルの民を神が再び約束の地、聖なる神の都エルサレムに連れ戻されることを、神の贖いのみわざとして繰り返し預言されています。イザヤ書43章1節にはこうあります。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのものだ」。神の贖いのみわざは、イスラエルの民にとっては外国の支配からの解放であり、救いでした。イスラエルはもはや異教の王の支配下にあるのではありません。奴隷の民ではありません。主なる神によって解放された自由の民であり、贖い主であられる神の所有とされたのです。

 ここには、神の贖いのみわざの重要な特徴が含まれています。それは、神が奴隷の民、捕囚の民イスラエルを買い戻すために、彼らの近親者となってくださったということです。イスラエルの民は自らの罪のゆえに、主なる神を捨て、主なる神に背いて、自らを奴隷として異教の王に売り渡したのですが、それゆえに彼らを贖う近親者はイスラエルの側から要求されるのですが、しかし、彼らの中にはだれも彼らを奴隷から解放できる贖う者、その資格を持つ者もその能力を持つ者も、だれ一人いませんでした。その時に、主なる神が、そうする義務も責任も全くなかったにもかかわらず、むしろご自身に背き、敵対したイスラエルのために、彼ら奴隷の民の近親者、贖い主となってくださったのです。イスラエルが自らを贖うための贖い金を全く支払っていないにもかかわらず、神は全く無償で、神の側からの一方的なあわれみと恵みによって、彼らを奴隷の支配から救い出され、ご自身の民として買い戻してくださったのです。

 贖うの第四の意味は、これが最も重要な意味ですが、人間の罪の贖いのために雄牛や雄山羊などの家畜を贖罪の犠牲として神にささげるという儀式です。これについては、旧約聖書のレビ記や申命記などに細かく規定されています。イスラエルの民が神の律法に背いて罪を犯した場合、その罪を神からゆるしていただくために、動物の命を自分たちの身代わりとして神にささげ、神の裁きを逃れ、神の怒りを和らげるという意味がありました。エルサレムの神殿では、毎日毎日人間の罪の贖いのために家畜が贖罪の犠牲としてささげられていました。それが、彼らの礼拝だったのです。イスラエルの民はこの罪からの贖いなしには、神の民として生きていくことができなかったのです。

 さて、主イエス・キリストの十字架の死が、わたしたちのための贖いの成就であったという『日本キリスト教会信仰の告白』は、以上のような旧約聖書の贖いの信仰を背景にしています。では次に、主イエス・キリストの贖いのみわざについて、更に深く学んでいきましょう。

 「贖いをなしとげ」は、1953年に制定されたら文語体の告白では、「贖いを成就し」となっていました。主イエスの十字架の死によって、旧約聖書に預言されていた神の贖いのみわざが成就したという意味が含まれています。先ほど挙げたイスラエルのエジプトの奴隷の家からの贖いと救い、バビロン捕囚からの帰還とエルサレムの再建、人間の罪からの贖いを願っての礼拝、それらのすべてが主イエス・キリストの十字架による贖いと救いを預言しているのであり、また主イエス・キリストの十字架の死によって旧約聖書で語られているそれらすべての神の贖いのみわざが、完全に成就したのだということです。神がイスラエルの民のためになされた贖いのみわざが、主イエス・キリストの十字架によって、全人類の贖いのみわざとして成就したのです。イスラエルの民が苦難の歴史の中で待ち望んでいた永遠の贖い主、奴隷からの解放者、罪と死と滅びからの救い主が、主イエス・キリストの到来によって成就したのだということです。主イエス・キリストこそがイスラエルと全人類のための真実の、永遠の贖い主であられ、わたしたちを罪の奴隷から贖い出し、すべての悪しき支配から解放してくださる救い主なのです。

 第二の重要な点は、主イエスはわたしたちの真実の贖い主となるために、わたしたち罪びとたちに最も近い近親者となってくださったということです。わたしたちは神を知らず、神から離れ、神に敵対していた罪びとでした。そのような罪びとたちの世に、神のみ子が人間のお姿となって天から降(くだ)って来られ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれました。主イエスは、マタイによる福音書20章28節でこのように言われました。「人の子が(主イエスご自身のことですが)、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金(これは贖い金という意味ですが)として自分の命をささげるために来た」。主イエスは、罪なき神のみ子であられましたが、徹底して罪びとたちの僕(しもべ)として仕えてくださり、最後にはご自身が罪びとの一人に数えられ、罪びとが受けるべき十字架の死の裁きを、わたしたちに代わって受けてくださるほどに、わたしたち罪びとたちの近親者となってくださり、そのようにしてわたしたちを罪の奴隷から贖ってくださったのです。

 わたしたち人間はだれも自分自身を贖うことも他の人を贖うこともできません。詩編49編の詩人はこのように告白しています。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く/とこしえに、払い終えることはない。しかし、神はわたしの魂を贖い/陰府の手から取り上げてくださる」(8~9節、16節)。神のみ子であられ、罪も汚れもない主イエス・キリストの尊い血だけが、すべての人を罪と死の支配から贖い、救い出すことができるのです。

 そのことについて、ヘブライ人への手紙9章11節以下では次のように教えられています。【9章11~14節】(411ページ)。また、【ペトロの手紙一1章18~19節】(429ページ)。

 主イエス・キリストが十字架でおささげくださった血は、動物などの代用品ではなく、神のみ子の血であり、地上のどれほどに価値あるものよりもはるかに尊く高価であり、完全であり、永遠であるゆえに、すべての人の罪を完全に、永遠に贖い、救うことができると、強調されています。主イエス・キリストの十字架によって罪ゆるされない人は、だれもいません。主イエス・キリストの十字架によってゆるされない罪は何もありません。すべての人のすべての罪が永遠に贖われ、ゆるされています。それが、『日本キリスト教会信仰の告白』で「贖いをなしとげ」と告白されている内容です。

 わたしたちはこの信仰告白を共に告白することによって、主イエス・キリストによって罪の奴隷から贖われ、主キリストのものとされている一人一人として、また罪のゆるしの恵みによって生かされてれている者たちの群れとして、ここに主イエス・キリストの体なる教会を建てていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中で滅ぶべき者であったわたしたちをあなたがみ子の尊い血によって贖い、救ってくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、わたしたちを永遠にあなたのものとしてください。

〇主なる神よ、あなたの義と平和をこの世界にお与えください。国々の為政者、指導者たちが、何よりもあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏す者としてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月3日説教「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

2022年4月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記12章1~9節

    使徒言行録7章1~8節

説教題:「ステファノの説教(一)アブラハムの選び」

 使徒言行録7章2節からステファノの長い説教が始まります。これは53節まで続きます。使徒言行録に記されている説教の中で最も長いものです。わたしたちがこれまで聞いてきた使徒ペトロの説教は2章29~39節、3章12~26節、4章9~12節、5章30~32節がありました。このあとには、10章36~43節、それから使徒パウロの説教が13章16~41節、14章15~17節、Ⅰ7章22~31節にあります。これらのどれよりもはるかに長い説教です。使徒言行録の著者であるルカがある意図をもってこれだけの長い説教を記録していることは明らかです。あらかじめその意図の一つを指摘しておきましょう。

 それは、ステファノがキリスト教会最初の殉教者となったということと関連しているように思われます。しかも、彼のこの一回の説教が直接的な理由となって、53節で彼の説教が終わるや否や、あるいは途中で中断させられたのかもしれませんが、すぐに58節で石打の刑によってステファノは殺されてしまいます。初代教会がこれから幾度も経験しなければならないユダヤ人とローマ人からの迫害とそれによって流すであろう殉教の血がここで初めて流されたのです。キリスト教会はステファノが語った説教によって、また同時にステファノが流した殉教の血によって、これからのちも生き続けていくのです。ここに、ステファノの説教の大きな意味があるのです。

 では1節から読んでいきましょう。【1節】。ユダヤ最高議会・最高裁判所の議長を務めている大祭司は裁判の正式な手続きを踏んで、最初に、訴えられている被告の罪状認否と弁明の機会を与えます。被告はここで、自分が無罪であることや情状酌量の余地があることなどを語るのが一般的です。けれども、これまでのペトロたちの裁判でもわたしたちが見てきたように、彼らはその席で主イエス・キリストの福音を語りました。彼らは主イエス・キリストの福音の証し人としてその裁判の席に立ち、そこに集まっているユダヤ人の指導者たちに主イエス・キリストの十字架の福音を語るのです。自分たちの減刑や命乞いの機会とするのではなく、福音宣教の機会として彼らは被告席に立っています。

 ステファノも同様です。もっとも、彼がはっきりと主イエスご自身について語るのは長い説教の終わりの個所、52、53節になってからですが、しかも直接主イエスのお名前を口に出してはいませんが、そこをまず読んでみましょう。【52~53節】。聞いていたユダヤ人指導者たちは、これが主イエスと自分たちのことであることを直ちに理解し、激しく怒ったと54節に書かれています。したがって、ステファノの長い説教はこの終わりの個所に向かっていたということがわたしたちにも分かってきます。彼がアブラハムから始まって、イサク、ヤコブの族長たちについて語っていること、9節からはヨセフとエジプト移住、23節以下ではモーセによるエジプト脱出とダビデ、ソロモンの時代のことを彼は旧約聖書に基づいて説教しているのですが、それらの旧約聖書に描かれているイスラエルの歴史はすべてが主イエス・キリストの福音に向かっていたということ、主イエスによって最後の目標に達したのだということ、それがステファノの説教の結論なのです。それと同時に、しかしユダヤ人はそれを受け入れず、信じなかったということ、この二つがステファノの説教の大きな柱なのです。そのことをあらかじめ確認して、2節からのステファノの説教を読んでいくことにしましょう。

2節から8節では、アブラハム、イサク、ヤコブの3人の族長の信仰について語っています。創世記12章以下に書かれている内容と大筋では一致していますが、細かな点では違いも見られます。きょうは細かな点の違いについては触れません。

 まず、ステファノの説教が族長アブラハムから始まっていることに注目したいと思います。イスラエルの歴史を語る場合、特に主イエス・キリストによってその頂点、最終目的に達するという意味でのイスラエルの信仰の歩みについて語るにあたって、出エジプト時代のモーセと彼に授かった律法から語るのではなく、アブラハムの召命と選びから語るということは、この文脈においては意義深いと言えます。おそらく、ユダヤ最高議会の主たるメンバーである律法学者やサドカイ派の人たちならば、モーセの律法やダビデ・ソロモン時代の礼拝や祭司の務めなどについて触れるに違いないのですが、ステファノはそれらについては一切触れていません。

 彼は説教の冒頭で、神の招きのみ言葉に聞き従った信仰の父アブラハムについて語ります。3節にあるように、「あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け」。アブラハムはこの神のみ言葉に聞き従いました。ここには、神の召命があります。神の招きと選びがあります。そしてまた、神の招きのみ言葉に従順に聞き従うアブラハムの信仰があります。これこそが神の民であるイスラエルの出発点なのだとステファノは語るのです。ヘブライ人への手紙11章8節に書かれているとおりです。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことをになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行く先も知らずに出発したのです」。

 ステファノはこのアブラハムの信仰と今のイスラエルとの関連性を強調するために、「兄弟であり父である皆さん」と呼びかけ、「わたしたちの父アブラハムが」と語りだしています。およそ千年も前の族長時代とステファノの時代とを結びつけています。イスラエルはこのようなアブラハムの信仰によって神の民としての歩みを始めたのです。神がアブラハムを選び、彼を召し、彼にみ言葉を語り、恵みと救いへの道へと彼をお招きになられた。アブラハムはその神のみ言葉を信じて服従した。この信仰こそが神の民イスラエルの原点なのです。そして、今この時も、同じようにしてすべてのユダヤ人も神の招きを受けているのです。神がメシア・救い主をイスラエルと全世界のためにお遣わしになったからです。そうであるのに、あなたがたはその神の招きに逆らったのではないか、とステファノは51節で言うのです。

 2節の終わりに「栄光の神が現れ」とあります。「栄光の神」とは、この世に存在するものとは思えないような、天からの圧倒的に大きな力と権威と威厳とをもって人間の進むべき道を照らされる神のことです。その栄光の神のみ前では、アブラハムはただ黙々と従うほかにありません。また、そうすることが彼が生きるべき幸いな道なのです。なぜならば、アブラハムには今はまだ何も分からなくても、神ご自身が彼のために最もよい道を備えてくださるからです。彼の行く先にどのような困難が待っていようとも、そこがどのような土地であり、いつそれが自分の所有になるのかも全く知らされていないにもかかわらず、アブラハムは神の招きに従って、故郷を捨て、親族を捨て、それまでのすべての生活を捨てて、行く先を知らずして旅立ちました。これが信仰の父アブラハムの信仰です。

 主イエス・キリストの福音を信じる信仰もこれと同様です。主イエスはわたしたちが罪と死と滅びから救われ、新しい命に生きるために必要なすべてのみわざを成し遂げてくださいました。その主イエス・キリストをわたしの救い主と信じる信仰によってすべての人が救われます。わたしには何一つ誇りえるものがなく、良きわざもなく、神の律法にことごとく背いているとしても、わたしの今あるがままで、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって、神はわたしを義と認めてくださり、罪なき者と見なしてくださるのです。ユダヤ人もまたこの信仰へと招かれています。けれども、彼らはその招きに応えなかったと、ステファノは言うのです。

 まだ見ていないことを信じるアブラハムの信仰はさらに続きます。5節では次のように言われています。【5節】。わたしたちは今並行して創世記を読んでいますから、ここで言われていることについては何度も聞いてきました。アブラハムが最初に神の約束のみ言葉を聞いたのは彼が75歳の時でした。それから彼が100歳になって長男イサクが与えられるまで、彼には子どもがなく、また約束の地の一角をも所有していませんでした。けれども、彼は神のみ言葉を信じ続けました。神の約束の成就を待ち続けました。

 神の約束のみ言葉は、さらには、アブラハムの生涯をも超えて、それのみか、その子イサク、その子ヤコブをも超えて、いやさらに、エジプトでの400年の奴隷と苦難の歴史をも超えて、その先に進みます。

【6~7節】。ここまでくると、アブラハムの信仰とか、イサク、ヤコブ、ヤコブの12人の子どもたちの信仰とかがここで問題にされているというよりは、彼らの信仰を超えて、神の約束のみ言葉の永遠性、神の救いのご計画の永遠性こそが重要なのだと言うべきでしょう。神はイスラエルのエジプトでの400年間の苦難の歴史を経て、そののちにようやくにして、アブラハムに対する約束を成就されたのです。神はイスラエルの苦難の歴史をとおして、彼らを真実の礼拝の民とされるのです。エジプト脱出は彼らが真実の礼拝の民となるためであったのです。

 わたしたちはここにも主イエスによって成就された真実の礼拝の原型を見るように思います。イスラエルの民は400年間のエジプトでの奴隷と苦難の歴史から解放されて、真実の礼拝の民とされるとここで預言されています。それと同じように、主イエス・キリストのご受難と十字架の死をとおして、「霊と真理とをもって礼拝する」(ヨハネ福音書4章24節)まことの礼拝がわたしたち教会の民のために成就されたのです。ユダヤ人もこのまことの礼拝へと招かれています。しかし、彼らは依然としてエルサレム神殿での古い礼拝にとどまり続けているとステファノは語ります。

 最後に8節を読みましょう。【8節】。割礼は神とイスラエルとの永遠の契約の目に見えるしるしです。神が最初にアブラハムと結ばれた契約は、彼の子孫によって永遠に受け継がれていきます。イスラエルの民は、エジプトで奴隷であった時も、約束のカナンに移り住んでからも、また約束の地を失い、異教の地バビロンで捕囚の民であった時にも、割礼のしるしによって、神との契約の民であることを忘れませんでした。そして今、主イエス・キリストを救い主と信じる教会の民は、洗礼という目に見えるしるしをもって、神との新しい契約に生きる民であることを覚え続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたの恵みと慈しみとは永遠に変わらず、あなたを信じる民に豊かに注がれます。あなたがお選びになった信仰の民と結ばれた契約も、永遠に変わることなく、み国の完成の時まで続きます。どうか、わたしたちがそのことを信じてあなたのみ前に従順に歩む者としてください。

〇主なる神よ、多くの困難な課題を抱えながら苦悩しているこの世界を顧みてください。その中で、傷つき傷んでいるひとり一人を顧みてください。どうか、あなたの真実と正義と平和をわたしたちにお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。