8月18日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年8月18日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記18章1~15節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書1章には、洗礼者ヨハネの誕生予告に続いて、26節からは主イエスの誕生予告が描かれています。順序はヨハネの誕生予告が先にありますが、そのあとに続く主イエスの誕生予告を語ることがルカ福音書の中心的な目的であることは言うまでもありません。ヨハネは主イエスの先駆者として、いわば露払いの役割を果たします。誕生物語においてそうであるだけでなく、ヨハネの生涯全体が彼の後においでになる来るべきメシア・救い主なる主イエス・キリストのために道を整え、最も近いところで主イエスの到来を預言し、最も近いところで来たり給うた主イエスを指し示し、証しする務めを持っています。

 ヨハネの誕生予告と主イエスの誕生予告は互いに関連しあっており、また共通点が多くあります。きょうはその点に注目しながら主イエスの誕生予告のみ言葉を学んでいきます。

 26節に「六か月目に」とあります。ヨハネ誕生予告があってから6か月後ということです。ヨハネの父ザカリアがエルサレム神殿でヨハネ誕生を告げる天使ガブリエルの約束のみ言葉を聞き、妻エリサベトが身ごもってから6カ月が過ぎて、マリアに主イエスの誕生が告げられたということですから、ヨハネは主イエスよりも半年早く生まれたということになります。

 ヨハネ誕生を告げるみ言葉を語ったのは19節によれば天使ガブリエルでしたが、主イエスの誕生予告を告げるのも天使ガブリエルです。ガブリエルは6人の天使長の一人で、最も重要な神のみ言葉を告げる天使と考えられています。ヨハネ誕生予告も主イエス誕生予告も、いずれもそれをお語りになったのは神です。神がみ言葉をお語りになるとき、そこに奇跡が起こります。新しい命が誕生します。神がザカリアに「あなたの妻エリザベトは男の子を産む」とお語りになると、長い間子どもがいなかった年老いた夫婦に神の奇跡によって子どもが与えられます。神がマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」とお語りになると、まだ結婚していないおとめに神の奇跡によって子どもが与えられます。

 神の奇跡によって子どもが授けられるという例は、旧約聖書の中にいくつかあります。アブラハムとサラの子イサクの誕生がそうでした。創世記18章でわたしたちが聞いたように、百歳のアブラハムと90歳のサラに神の奇跡によって子どもが授けられるという約束が告げられました。14節に書かれているように、主なる神に不可能なことはありません。神は無から有を呼び出だし、死から命を生み出し、不可能を可能にします。また、イサクとリベカの子どもヤコブの誕生の場合もそうでした。預言者サムエルの誕生も神の奇跡でした。そして、洗礼者ヨハネと主イエスの誕生へと続きます。聖書に記されたこれらの神の奇跡による誕生は、わたしたちに何を語っているのでしょうか。

 第一には、人間の命はすべて神から与えられたものであるということを、これらの特別な例によって聖書は明らかにしているのです。人間の一つ一つの命の誕生はみな神の奇跡なのです。

 第二には、神の奇跡によって誕生したこれらの人物は、聖書において神からの特別な使命が与えられ、その生涯を神に仕えて歩むようにされるということです。その誕生が神によって与えられたように、その生涯も神のためにあるということを、聖書はこれらの人物たちによって強調しているのです。そして、そのようにして歩む人生にこそ、神の豊かな祝福があり、神の救いのみわざのために仕えるという大きな実りが与えられるのです。

 以上のことは、イサクから洗礼者ヨハネに至る誕生と次の主イエスの誕生にも共通していますが、しかし、主イエスの誕生の場合には決定的な違いがあることを見逃すことはできません。イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、彼らの両親が年老いていたり、人間的な可能性からみれば子どもが授かることが全く考えられなかったにもかかわらず、神の奇跡によって、神からの一方的な恵みと憐れみによって、新しい命が与えられたのですが、それでもそこには人間的な営みがまだ残っていました。

ところが、主イエスの誕生の場合にはそうではありません。ルカ福音書1章27節には「いいなずけであるおとめマリア」と書かれています。また35節では「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と書かれています。主イエス誕生の奇跡は、百パーセント神の奇跡であり、人間的な営みが全くない、百パーセント聖霊なる神のお働き、そのみ力による誕生なのです。

イサクからヨハネに至る神の奇跡による誕生は、最終的にはこの主イエスの最も偉大な神の奇跡による誕生を預言し、指し示していると言えます。また、主イエスの奇跡による誕生によって完成しているとも言えます。神の奇跡によってその命を与えられた彼らが、その全生涯を神にささげて生きたように、否それ以上に、主イエスは父なる神から与えられたその命とご生涯を、神の救いのみわざのために、わたしたち罪びとを罪から救うために、ご自身の尊い命を十字架にささげつくされたのです。それによって、全人類のための救いを完成されたのです。

わたしたちが『使徒信条』の中で、「主は聖霊によってやどり、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白している意味がそこにあります。主イエスが聖霊によって、神の奇跡によって誕生されたということと、主イエスの十字架の死による救いの完成とは密接に結びついています。

では、主イエスの奇跡による誕生の予告について、さらに詳しく読んでいくことにしましょう。26節に「天使ガブリエルがナザレというガリラヤの町に神から遣わされた」と書かれています。主イエスの両親となるヨセフとマリアはこの町の出身でした。ガリラヤ地方はイスラエルの首都エルサレムから北へ100キロ以上も離れており、紀元前8世紀ころからたびたびアッシリア軍によって侵略され、外国人が多く移り住むようになったために、イザヤ書8章23節などでは、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれて、ユダヤ人からは軽蔑されていました。同じ神に選ばれた民でありながらも、見捨てられていたガリラヤの小さな町ナザレ、そして、その町に住む貧しいおとめマリアと大工の家に生まれたヨセフが、神のみ子、救い主イエス・キリストの両親となるように選ばれたのです。

ここには、神の不思議な選びがあります。神は小さなもの、貧しいもの、見捨てられているものをお選びになります。それによって、神の選びの偉大さ、豊かさ、そこに示されている神の大きな恵みと憐れみとをお示しになるためです。また、それによってイザヤ書9章に預言されているみ言葉が成就するためです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)。主イエスは、罪という闇に覆われていたこの世界を照らすために、そしてすべての人を照らすまことの光として、この世においでくださいました。

27節に「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリア」と書かれています。主イエスはダビデの子孫としてお生まれになったということはマタイ福音書でも、またパウロ書簡でも同じように証しされています。これは、主イエスが旧約聖書で預言され、イスラエルの民が待ち望んでいた神の約束のメシア・キリスト・救い主であるということ、またいわゆる「ダビデ契約」を神がこれによって成就されたということを示しています。

神は全世界の民の中からまずイスラエルをお選びになり、この民によって救いのみわざを始められました。紀元前10世紀の偉大な王であったダビデに神はこのように約束されました。「わたしはあなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を永遠に建てるであろう」。これが、サムエル記下7章に書かれているいわゆる「ダビデ契約」です。けれども、イスラエルは神に背き、神との契約を守らなかったために、その王国は滅び、民は異郷の地に散らされ、「ダビデ契約」も忘れ去られてしまったかに見えました。ところが、今や、切り倒され、枯れかけた木の根から若枝が芽生えるようにして、ダビデの遠い子孫であるヨセフの子として、神が約束されていた永遠のみ国の王として、神のみ子なる主イエスの誕生予告が告げられるのです。神の約束のみ言葉は決して忘れ去られることはありません。神は必ずや、その約束を成就されます。27節の「ダビデ家のヨセフ」という言葉には、そのことが暗示されています。

洗礼者ヨハネの家系との関連を見てみましょう。父ザカリアはエルサレム神殿で仕える祭司の家系でした。祭司は、神と民との間に立ち、罪ある民を主なる神のみ前に導く、いわば仲保者としての務めを託されていました。ザカリアが天使ガブリエルによって「あなたの家に子どもが与えられる」との約束のみ言葉を聞いたのは、まさに彼が祭司の務めをしていた時でした。ザカリアは天使が語る神の約束を信じられなかったために、20節によれば、口がきけなくなり、神と民との仲保者としても務めを果たすことができなくされました。

そのことは何を語っているでしょうか。祭司の務めを果たすことができなかったヨハネの父ザカリア、しかしそのことは、ヨハネの後においでになる主イエスによってこそ、旧約聖書時代の祭司の務めが完全に果たされるようになるということを、あらかじめ暗示しているのです。主イエスこそが、神と全人類との間に立たれ、ご自身が十字架で流された尊い血によって、全人類の罪を洗い清め、すべての人が神のみ前に進み出ることができるようにするために、神と人との間に立たれる唯一の、完全な仲保者となられたのです。主イエスはまことの大祭司として、動物の血ではなく、ご自身の血を、すべての人の罪を永遠にあがなう清い血としてささげてくださったのです。主イエスはまことの祭司であれら、また永遠の王として神の国を支配され、さらに、ご自身が神のみ言葉そのものであられる真の預言者です。これが主キリストの3職、祭司、王、預言者職です。

28節で天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」とマリアに語りかけます。マリアはこの言葉に戸惑います。マリアの何が恵まれているというのか。マリアに何かすぐれた才能とか社会的な地位とか業績があったというのか。いやマリアに限らずとも、神から「あなたは恵まれている」と呼びかけられるならば、だれであれ戸惑い、恐れざるを得ません。わたしたちはみな神の恵みをいただくにふさわしくない、罪にけがれた者、不従順な者であるにすぎないからです。むしろ、神の裁きを受けて滅びざるを得ない者だからです。そうであるにもかかわらず、ここでマリアが「恵まれた人」と呼びかけられているのはなぜでしょうか。

その答えの一つはすでに28節の中に書かれています。すなわち、「主があなたと共におられる」からです。さらに、具体的には30、31節に書かれています。【30~31節】。マリアが祝福され、恵まれた人であるのは、彼女の胎内に宿った新しい命によるのだということがここからわかります。彼女が主イエスの母として選ばれたことにすべての祝福と恵みの源があるということです。彼女自身はまだそのことに気づいてはいませんが、彼女が祝福されているのは彼女の胎の実が祝福されているからです。彼女が主イエスの母として選ばれたから、ただそのことのゆえに彼女は恵まれた人であり、神に祝福された人なのです。

もしわたしたちが「わたしは恵まれた人である」とか「あなたは恵まれた人である」ということができるとすれば、それはどのような人のことなのかということを考えさせられます。大きな家に住み、高価な衣装を身にまとい、豪華な食卓を囲んでいる人のことでしょうか。立派な業績を上げ、社会地位があり、人々から称賛されている人のことでしょうか。必ずしもそうではありません。もちろんそういうこともすべては神の恵みであるのですが、しかしほとんどの人はそのことに気づかず、感謝もしません。本当に恵まれた人とは、神に顧みられている人、神がこんなわたしをもみ心にとめていてくださる、わたしと共にいてくださる、そして主イエスの救いにあずからせてくださっているということを知っている人、そのことを感謝している人、そういう人こそが恵まれた人、神に祝福された人なのです。

(祈り)

8月11日(日)説教「共に恵みにあずかる者たち」

2019年8月11日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編98編1~9節

    フィリピの信徒への手紙1章3~11節

説教題:「共に恵みにあずかる者たち」

 使徒パウロの「喜びの書簡」また「獄中書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいます。きょうは1章7節からです。【7節】。パウロは3節からの手紙の本文の冒頭で、神への感謝と喜びの祈りをささげています。その感謝と喜びの第一の理由は、5節に書かれているように、フィリピの教会が主イエス・キリストの福音にあずかっているからです。パウロがこの町に最初に福音を宣べ伝え、教会の基礎を築いてからこの時に至るまで、フィリピの教会は主キリストの福音によって生きてきました。これからも主キリストの福音を聞きつつ、生きていきます。主キリストの福音によって罪ゆるされている民として、来るべき神の国に招き入れられているとの約束を信じつつ生きていきます。神は必ずや、その約束を成就してくださるでしょう。そのことを感謝し、喜びつつ、パウロはフィリピ教会が終わりの日に完成される神の国を待ち望みつつ生きていくようにと、執り成しの祈りをささげているのです。

 続いて7節では、その感謝と喜びのもう一つの理由を語ります。それは、パウロとフィリピ教会の人たちが共に恵みにあずかる者たちであるということです。7節の翻訳で少し触れておきたい点があります。新共同訳では省略されていますが、7節後半には「わたしの」という言葉があります。これをどこにつなげるかで翻訳が違ってきます。。「共に」にかけると「わたしと共に」ということが強調されていることになります。「恵み」にかけると「わたしの恵み」ということが強調されます。いずれの理解も可能ですが、ここでパウロがあえて「わたしの」という言葉を付け加えた意図を確認しておくことが重要です。

 つまり、ここで強調されている「わたし」パウロはどういう人物なのか、今どのような状況にあるのかということを考えながら、そのパウロとフィリピ教会との密接な関係がここでは語られているのです。

 では、「わたしと共に」という点を強調して考えるとどうなるでしょうか。パウロは今獄にとらわれています。主キリストの福音に反対するユダヤ人の迫害か、あるいはローマ政府の権力による迫害かはわかりませんし、囚われている場所がどこかもはっきりしていませんが、パウロは今自由を奪われ、鎖でつながれています。フィリピ教会とは何百キロも離れています。けれども、そうであるにもかかわらず、パウロとフィリピ教会は共にいるのだということをパウロは強調するのです。しかも、獄にとらわれているこのわたしと、あなたがたは今共にいるのだというのです。

 ここではいくつかの内容が考えられます。一つには、キリスト者はどこにいても一つの主キリストの教会に聖霊によって連なっている聖徒たちの交わりの中にあるという信仰です。これは「使徒信条」でも告白されています。より具体的には、フィリピ教会が獄にとらわれているパウロのために日夜祈っている、パウロも彼らのために祈っている、共に祈りによって一つに結ばれている、互いに祈りによって、パウロとフィリピ教会が同じ体験、同じ時間を共有し合っているということです。あるいは、フィリピ教会がパウロを支援するために援助物資を集め、教会の代表を派遣して獄中のパウロに届けるということによって、信仰にある兄弟姉妹が一つに結ばれていることを実感するということです。実は、この手紙はその感謝を伝えるためにパウロが書いたのだということが4章10節以下から推測されるのですが。そのようにして、フィリピ教会は獄中の「わたし」パウロと共にいるということがここでは強調されているのです。

 「わたしの恵み」という点に強調点を置いてみたらどうでしょうか。パウロが神から、また主イエス・キリストからいただいている恵みにフィリピ教会の人たちも共にあずかっているというのです。ここでも、いくつかの内容が考えられます。一つには、パウロの使徒としての務めに与えられている恵みのことです。パウロは復活の主イエス・キリストに出会う以前は、熱心なユダヤ教徒ファリサイ派として、キリスト教会を迫害する急先鋒に立っていましたが、主キリストと出会ってからは主キリストの福音を宣べ伝える使徒とされました。それは、全く神からの一方的な恵みによる務めでした。パウロはこの神からの大きな恵みに応えるためには、あらゆる労苦と危険と戦いをいといませんでした。

 それゆえに、今彼が迫害を受け、牢につながれているとしても、それもまた神の恵みであることをやめないとパウロは言うのです。否それのみか、わたしに与えられているその大きな神の恵みに、あなたがたフィリピの教会も共にあずかっているのだとすら言うのです。これはどういうことでしょう。前にもふれたように、フィリピ教会が獄中のパウロに援助物資を送り、それによってパウロの使徒としての務めに共にあずかっている、共に主キリストの福音宣教の働きに参画しているということが考えられます。それだけではありません。フィリピの教会はパウロが受けている迫害の苦しみ、労苦、戦いを共にすることによってパウロの使徒としての恵みの務めに共にあずかっているのだと、パウロは言うのです。1章29~30節でははっきりとこう言っています。【29~30節】。このときに、フィリピの教会が実際に迫害を経験していたのかどうかは分かりませんが、それには関係なく、彼らは今このとき、牢獄にいるパウロと共に、主キリストの福音のために共に労苦し、共に戦っているのであり、パウロの使徒としての恵みに共にあずかっているのです。主キリストの福音に仕えるキリスト者には、苦難をも共にする恵みが与えられているのであり、これほどまでの連帯性、一体性、深い交わりが与えられているのです。彼らはみなすでに来るべき神の国の民として一つにされています。

 以上のことからも推測できるように、7節の「監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも」とは、別々の違った状況について語っているのではなく、今パウロが監禁されているこのときにこそ、福音を弁明し、立証する絶好の機会となったのだという意味に理解されます。そのことについては、12節以下で具体的に語られます。

パウロにとっては、あらゆるとき、あらゆる機会が、主キリストの福音を弁明するとき、それを立証するときでした。パウロは使徒言行録の記録によれば、計3回にわたって、世界伝道旅行に出かけましたが、その中で何度も迫害を受け、獄に捕らわれの身となりました。しかし、獄にとらわれたときには、宣教の自由、語る自由を奪われた沈黙のときでは決してありませんでした。むしろ、そのときにこそ、自分が何のために、なぜとらわれの身となっているのか、それにもかかわらず、なぜその主張と信仰とを捨てず、なぜ弱らず、くじけることをせず、より一層力を込めて、確信をもって、主キリストの福音を語ることができるのか、語るべきなのか、そのことを裁判を司っている国家の権威者たちの前で、また裁判を見ている多くの人々の前で、臆することなく、大胆に語り、証しすること、このときこそが最も力強く福音を弁明し立証する機会になるのだとパウロは考えていたのです。

使徒言行録の終わりの個所で、彼はローマ皇帝カイザルに上訴し、囚人としてローマに護送されていくことになったことが書かれています。彼がなぜローマ皇帝に上訴したのかについては使徒言行録にはっきりと書かれていませんが、わたしたちには容易に推測できます。当時の世界の中心都市であるローマ、そこに君臨していた全世界の頂点に立つカイザル、その町で、この世の王の前で、しかし世界の主はただおひとり、わたしたちのために十字架で死んでくださり、全人類の罪を永遠にゆるしてくださる、主イエス・キリスト、この方こそが唯一の主である、ローマ皇帝カイザルが主なのではない、十字架につけられた主イエス・キリストこそが全世界の唯一の主なのだということを証しするためでありました。

8節からもパウロの祈りは続きます。【8~11節】。この個所ではまず「愛」という言葉に注目したいと思います。8節の「愛の心」と9節の「愛」とはもともとは違う言葉ですが、ここでは区別する必要はないと思います。重要なことは、8節でパウロは「わたしが、キリスト・イエスの愛の心で」と言っている点です。「愛の心」とは本来はパウロ自身のフィリピ教会に対する愛の思いを言っているのですが、それを彼は「キリスト・イエスの愛の心」と言い換えているわけです。パウロがここで強調しようとしているのは、自分の愛はキリスト・イエスから出ている愛である、キリスト・イエスの愛と同じ愛であるということです。キリスト・イエスがフィリピの教会を、またパウロを、そしてすべての人を愛しておられる、そのためにご自身の尊い命を十字架におささげくださった、その愛と同じ愛をもってパウロはフィリピ教会を愛している、フィリピ教会のために祈っていると彼は言っているのです。

すべての人間の愛は主イエス・キリストの愛にその原型があり、その源があり、その手本があります。9節の「あなたがたの愛」もそうでなければなりません。9節の愛は、ギリシャ語でアガペーという言葉です。「神の愛、神は愛である」と言われるときに用いられるギリシャ語と同じです。すべての人間の愛は、この神の愛、アガペーにその源泉があります。神がその独り子であるみ子主イエス・キリストを、わたしたち罪びとたちに賜った、ここに愛がある、この神の愛によって、わたしたち人間にも愛の道が開かれたのです。それゆえに、聖書では神の愛の場合も人間の愛の場合でも同じアガペーというギリシャ語を用いています。

人間の愛は、いつでも、どれでも、不完全であり、破れており、傷ついています。そこにはどうしても人間の罪が付きまとっているからです。罪びとの愛だからです。それゆえに、わたしたちの愛は常に神の愛、主キリストの愛を出発点とし、その上に基礎づけられ、その愛を目標としていなければなりません。パウロがここで言ってるのも、そのような愛のことです。その愛の特徴を二つにまとめてみましょう。

一つは、「キリストの日に備えて」、すなわち主キリストが再び地に下って来られ、神の国を完成され、わたしたちの救いを完成される日に備えた愛、終末を目指した愛であるということです。真実の愛はこの世での完成はありませんし、それを望むこともありません。真実の愛はこの世での報いを望みませんし、この世での完成もありません。むしろ、この世では未完成であり、途中であるということを知っています。しかし、そうでありつつ、終わりの日の完成を目指しています。神の国での完成を約束されています。

もう一つのことは、真実の愛は「神の栄光と誉れ」とをたたえます。自らの満足を求めたり、他の人の称賛を求めたりすることはありません。「すべては神の栄光のために」、これがわたしたち改革教会の源泉である、宗教改革者カルヴァンのモットーでした。わたしたちの小さな愛の一つ一つも、「神の栄光と誉れ」のための愛であるようにと願います。

(祈り)

8月4日(日)説教「空と海と地の生き物の創造」

2019年8月4日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章20~25節

    使徒言行録10章9~16節

説教題:「空と海と地の生き物の創造」

 神は六日の間に天地万物とすべての生き物と人間とを創造され、七日目に休まれました。創世記1章に書かれている神の天地創造のみ言葉を19節まで、第4日目までを読んできました。わたしたちがこれまで何度も確認してきましたように、1章の天地創造の記録は1日1日が非常に整えられた形式で書かれ、しかも論理的で、よく考え抜かれた記述になっています。「神は言われた」という言葉で1日が始まり、神が「あれ」とお命じになるとそれが存在し、神がその存在したものに名前を付け、それぞれに役割を与え、「神はそれを見て、良しとされた」という言葉が最後にあり、「夕べがあり、朝があった。第何日である」という言葉で結ばれています。

1日1日が整えられた形式で書かれているだけでなく、六日間全体の構造も前半と後半で並行関係を持っています。それを見ていきましょう。第1日目に創造された3節の光に対して、後半の最初、第4日目には14~16節で、光を発する天体、太陽と月と星々が創造されました。第2日目、6~7節の大空と水に対して、第5日目、きょうの礼拝で朗読された20~21節の大空の鳥と水の中の生き物、そして第3日目、乾いた地とそこに芽生えた植物に対して、第6日目、24~27節、地の生き物、動物たちと人間、というように、前半の3日間と後半の3日間が対応しています。

このことは、神が一日一日の創造のみわざに、また一つ一つの造られたものに深い配慮と愛とをお示しになっておられるだけではなく、全体としても秩序と知恵をもって、神によって造られた被造世界全体の調和と関連性を十分に考慮されて創造のみわざをお進めになっておられることを明らかにしています。

神はまずすべての光の根源である光そのものを創造され、次に、発光体である太陽や月、星を創造されました。最初に創造された2節の光がどういうものであるのか、わたしたちには説明がつきませんが、第4日目に創造された発光体と深く関連していることは推測できます。光とは、聖書で光という言葉が用いられるときには常にそうなのですが、目で見て感じる明るさだけでなく、その中に神から与えられるもろもろの賜物、恵みが含まれているということを教えているのです。聖書が語る光は、すべての闇と言われるものを照らして、その闇を追い払う光であり、太陽や蛍光灯の明かりでは照らすことができないこの世の暗闇や人生の暗闇を、またわたしたちの魂を照らす光なのです。さらにこの光は、わたしたちの中に隠れ潜んでいる罪を明るみに出し、またその罪を追い払う光でもあります。主イエス・キリストはそのようなすべての人を照らすまことの光であると、ヨハネによる福音書1章で言われています。

第2日目に、神は大空を造り、大空の上の水と下の水とを分けられました。この二つの水は再び一緒になることはありません。どんなに雨が降っても、海の水が空の水に届くことはありません。そして、第5日目に神は空と海にそれぞれの場所にふさわしい生き物を創造されました。空の鳥が大空の上の水でおぼれて死ぬことはなく、海の魚は水が乾いて死ぬことはありません。彼らもまた神の創造の恵みにあずかり、神の愛と配慮によって守られているのです。

第3日目に、神は大空の下の水を集めて乾いた地を造り、またその地から植物を芽生えさせられました。第6日目には、乾いた地を自由に動き回る動物たちを創造されました。彼らは海の水に飲み込まれてしまうことはなく、また飢えて死ぬことがないために地の植物が食べ物として与えられました。神の創造の秩序に従うならば、地は植物に占領されることなく、動物たちが植物を食べつくしてそれを枯らしてしまうこともありません。今日、ある種の動物が絶滅の危機にあると言われるのは、人間がその貪欲のために神が創造された秩序を破壊しているからにほかなりません。

わたしたちはすでに、きょうのテキストである第5日目と第6日目の内容に入っていますが、第5日目の最初の20節と、第6日目の最初の24節はいずれも「神は言われた」という言葉で始まっています。第1日目から第4日目までもすべてそうでした。神はきのうもきょうも、そしてあすも、常に語り給う神です。わたしたちは神がお語りになられるみ言葉を常に新たに聞きつつ生きる者たちです。

神はいたずらに無駄なおしゃべりをなさるためにお語りになるのではありません。すでにわたしたちが何度も確認してきたように、神は最もふさわしいときに最もふさわしいみ言葉をお語りになります。神は上の水と下の水とを分けられ、下の水は海に集められ、上の水は大空の上に集められました。そして、こうお命じになります。【20~21節】。神はそれぞれにそれぞれの場所を備えてくださり、水の中と大空に、その場所にふさわしい命を創造され、そこに生きるべき使命を与えてくださいます。ここでもまた、「神はこれを見て、良しとされた」と書かれています。これは単なる決まり文句の繰り返しではありません。「神がなされることは皆その時にかなって美しい」とコヘレトの言葉3章11節(口語訳)にあるように、神はわたしたち一人一人に、その時その時にふさわしいみ言葉をもって、わたしたちを導いてくださいます。

21節に、水の中の大きな怪物が造られたと書かれていますが、これは古代近東諸国の神話が背景になっていると考えられています。古代の人々にとっては、海は人間の力では制御できない恐るべき魔力を持っていて、海の中には巨大な竜のような怪獣がいると考えられていました。けれども、聖書ではその巨大な竜もまた神によって造られた被造物であるとされています。神はこの世界のすべての神話的な力や魔力をもご支配しておられるということが強調されています。

同じ21節に「創造された」という言葉があります。この創造するという言葉については1節で説明しましたように、ヘブル語ではバーラーですが、神が主語の時以外には用いられない特別な言葉です。その特別な意味を持つ言葉が、第5日目の海と空の生き物の創造のときになって初めて用いられています。そしてこの後には、人間の創造のときに27節では3度続けて用いられます。

では、なぜここで特別な意味を持つバーラーという言葉が用いられているのかについて少し考えてみましょう。バーラーは神の創造のみわざの中で特別な深い意味を持つ言葉として用いられるのですが、それは、創造される神と創造された被造物との強く密接な関係を言い表しています。その一つは、神が命を創造され、その命を生き物にお与えになったということです。旧約聖書の民ユダヤ人は血の中に命があると考えました。その点で、第3日目に造られた植物と第5日目に創造された海と空の生き物、さらには第6日目の地上の生き物との間には大きな違いがあります。生き物には命があり、血が流れています。命である血は造り主なる神のものです。神がその命を生き物たちにお与えになり、またその命をご自身に取り上げられるのです。生き物たちの命は、彼ら自らのものではありません。神から与えられたもの、託されたものです。したがって、その命は神のために、神のご栄光のために用いられなければなりません。

この考え方は、特にイスラエルの神礼拝の中で、神に生き物の血をささげるという儀式の中で具体化されていきました。生き物の血は最も重要な神へのささげ物であり、礼拝者が自分自身の命を神にささげることを象徴的に言い表していました。そして、その頂点に、新約聖書の中で神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき血があります。主イエス・キリストの十字架の血は、すべての人の罪を贖う血であり、すべての罪から洗い清める聖なる血であり、すべての人の罪を永遠にゆるす力と命とを持っているのです。

バーラーという言葉が持つもう一つの特別な意味は、22節のみ言葉と関連しています。【22節】。ここで初めて、創造されたものへの神の祝福が語られます。この祝福の意味は「産めよ、増えよ」という神のみ言葉に関連しています。つまり、命あるものがその命を次の世代に受け継いでいくこと、そこに神の祝福があるということです。神の祝福のみ言葉が新しい命を生み出し、その命を保ち、存続させるということです。

わたしたちはここで二つのことを確認しておくことが大切です。その一つは、すべての命には神の祝福があるということです。神の祝福なしにこの世に誕生する命はありません。どのように小さな命であれ、小さな生き物であれ、あるいは傷ついた命であれ、すべての命には神の尊いみ心があり、祝福があるのです。神のみ心に背いてその命を自由に処理したり、奪い取ったりすることは許されません。ましてや、人間の命にこそ、そのことが当てはまります。

第二には、すべての命は神の祝福のうちにあって次の世代へと受け継がれ、増え、広がっていくということです。命の増殖や繁殖に神の祝福があります。生き物たちはこの神の祝福のうちにあって、自ら新しい命を生み出していくことをゆるされているのです。神の祝福を忘れ去った単なる細胞分裂を繰り返すだけの増殖や繁殖が神のみ心に沿っているかどうかをよく吟味してみることが大切です。それ以上に重要なことは、わたしたち人間には神の祝福を受け継ぐ次の世代へと信仰を継承していく使命が託されているということです。

創世記12章1節以下で、神はアブラハムを祝福してこのように言われました。【1~3節】(15ページ)。この神の祝福はアブラハムの子イサクへ、イサクの子ヤコブへ、そしてヤコブの12人の子どもたちであるイスラエルの民へと受け継がれていきました。さらには、わたしたちの救い主、主イエス・キリストによって、全世界の教会の民もまた、このアブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐようにと招かれています。

1章24節からは第6日目の創造のみわざが始まりますが、その前半では地の生き物たちが創造されます。【24~25節】。この第6日目の創造で特徴的なことは、地が、陸地が生き物たちを生み出すようにと言われていることです。これは第3日目の11、12節と共通しています。ここには、地が、大地が命の母であるという古代人の考えが反映されていると推測されます。いずれにしても、地上にある命はすべて神によって創造されたもの、神の祝福によって誕生し、増え広がっていくものであるという原則は変わりません。

25節には、まだ第6日目の途中であるのに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉が語られています。第6日目の終わりの31節ではもう一度「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と繰り返されています。つまり、第6日目には同じ言葉が2回繰り返されているのです。この日が天地創造の六日間で最も重要な日であることが、ここからもわかります。なぜならば、この日に、すべての被造物の冠としての人間が創造されるからです。その直前の25節で、この日の終わりを待たずに、「神はこれを見て、良しとされた」というみ言葉があらかじめ語られているのです。すなわち、最後の人間を創造するための舞台がすべて整ったということを、ここで確認しているのです。

最後に、わたしたちは主イエスのみ言葉のいくつかを思い起こします。主イエスはたびたび、神がお造りになった被造物に言及されました。ガリラヤ湖で魚を取っていた漁師のペトロたちに、「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師にするから」と言われました。「一粒の種が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶようになる」とも言われました。「空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らを養っておられる。ましてや、あなたがた人間をどれほどに気にかけ、愛しておられることか」と言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。事実、主イエスはわたしたち罪びとを罪から救うために十字架で死んでくださったのです。

(祈り)