2月23日説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月23日 説教「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

2020年2月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    フィリピの信徒への手紙3章1~11節

説教題:「主キリストを信じる信仰による義を与えられて」

 「喜びの書簡」と言われているフィリピの信徒への手紙3章1節で、わたしたちは何度目かの「喜びなさい」という勧めを聞きます。「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい」。すでに、2章18節で、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい」と勧められていました。このあとでは、4章4節で、「主において常に喜びなさい」と勧められています。勧められていると言いましたが、文法的には命令形です。喜ぶことが命じられています。

使徒パウロがここで「喜べ」と命じているのは、その人の性格が楽観的で、いつも人生を陽気に楽しんでいれるからとか、その人の状況が喜ばしいからとか、その人が他の人に比べて喜ばしい環境にあるからとか、そのような理由によるのではありません。たとえ今、あなたが悲しみや苦しみのただ中にあろうとも、恐れや不安があなたを覆っていようとも、それでもなおもあなたに命じる、「あなたは喜べ、喜んでよい、喜ぶことがゆるされている」という、喜びへの招きをパウロはここで語っているのです。

 それはどのような喜びでしょうか。「主において」がキーワードです。主イエス・キリストにある喜びです。主イエス・キリストにつながれているとき、主キルストとの交わりの中で、主キリストから与えられる喜びです。わたしたちはその喜びの内容をいくつもの表現で言い表すことができるでしょう。主キリストによって罪から救われている喜び。主キリストによって愛され、見いだされている喜び。主キリストによって神の子たちとされ、神の国の民の一人とされている喜び。主キリストによって生きる目標と希望とを与えられている喜び。主キリストによって、朽ち果てる命ではなく、枯れることもしぼむこともない永遠の命を約束されている喜び。それゆえに、貧しく弱く迷いやすいわたしが、神と隣人とに喜んで仕えていくことがゆるされている喜び。

それは何という、豊かな、大きな、深く、そして高価で尊く、永遠の喜びであることでしょうか。この世でわたしたちが経験するどんな喜びよりもはるかに高い天からくる喜び、この世の憂いや悲しみ、不安や恐れのすべてを追い払い、それらに勝利する喜び、唯一無比なる喜び、そのような喜びへとパウロはわたしたちを招いているのです。彼はこのあとで、彼自身が主キリストによって与えられたこの大きな喜びのゆえに、他のすべてのものを喜んで投げ捨てたということを語るのを、わたしたちは聞くことになります。そこで再びこの喜びについて考えることにしましょう。

2節から急に語調が変化します。【2節】。ここでまず問題となるのは、1節の後半の「同じことをもう一度書きますが……」はどの内容のことを言っているのかということです。「喜びなさい」ということを何度言っても、それは煩わしいことだとは言えないので、その内容は2節以下を指していると考えられます。「同じこと」が2節以下で語られているフィリピ教会の間違った信仰理解に対する警告を指しているとすれば、同じような内容がこの手紙には見当たりませんので、パウロはすぐ前にもフィリピ教会にあてて別の手紙を何度か書いており、その中で間違った信仰理解について注意するようにとすでに警告していたということになります。

パウロの宣教によって建てられ、またパウロと最も良い関係にあって、獄中のパウロのために祈り、支援物資を贈っていたフィリピ教会でしたが、教会の内外からの攻撃にさらされており、試練の中で厳しい信仰の戦いをしていたという現実を、わたしたちはここで知らされるのです。

パウロがここで「あの犬ども。よこしまな働き手たち」という、多少荒々しい言葉を用いて批判しているフィリピ教会の指導者たちはどのような間違った信仰理解をしていたのでしょうか。彼らは「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と言われています。つまり、彼らは割礼の儀式を重んじ、割礼を誇っている人たちでした。割礼はイスラエルの民ユダヤ人が神に選ばれた民であることをしるしづける儀式でした。創世記17章で神はアブラハムにお命じになりました。「イスラエルの家に生まれた男子はみな生後8日目に、男子の性器の皮の一部を切り取りなさい。これがわたしとイスラエルの民との間の永遠の契約のしるしとなる」と。

主イエスご自身も生まれて8日目に割礼を受けられたということを、わたしたちはルカによる福音書2章21節で聞きました。主イエスはイスラエルの律法の下にお生まれになり、契約の民の一人として生きられ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されました。それによって、律法の支配下にあったイスラエルの民を律法の奴隷から自由にしてくださいました。そして、イスラエルの民と異邦人である全世界のすべての人たちが、律法によらず、ただ主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によって救われる道を切り開いてくださったのです。

したがって、主イエス・キリストの福音を信じる信仰者にとっては、もはや律法は救いのためには役立たず、それゆえにまた、割礼も救いのためには何の役にも立ちません。すでに割礼を受けていたユダヤ人にとっては、それは単なる切り傷に過ぎないとパウロが言うのはそのためです。ユダヤ人はもはや割礼によって救われるのではなく、だれも割礼を誇ることはできません。そうであるのに、フィリピ教会の一部の指導者たちは自分たちの割礼を誇り、それだけでなく、ユダヤ人以外の異邦人からキリスト者になった人たちにも割礼を強要し、主キリストの福音を信じるだけでは足りず、割礼を受けなければ完全な救いを得られないと教え、教会に混乱を招いていたのです。彼らをユダヤ主義的・律法主義的キリスト者と名づけることができるでしょう。

しかし、パウロはそのようなユダヤ主義的・律法主義的キリスト者には断固として反対しています。それは、結局は主イエス・キリストによる救いの恵みを半減させる、否それどころか、主キリストの福音を否定し、それと対立するものだからです。それは、人間を誇り、肉を誇ることだからです。人間の肉はみな罪にけがれており、やがて朽ち果てるものに過ぎません。それは決して人間を救うことはできません。そのような教えは主キリストの教会を分裂させ、ついには破壊するほかありません。

そこで、パウロは3節でこのようにいます。【3節】。旧約聖書時代の古い肉による割礼はもはや必要なくなりました。なぜならば、主イエス・キリストによって新しい霊による割礼が与えられたからです。主キリストを信じる信仰によって、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神の民とされる新しい契約が結ばれたからです。キリスト者は主キリストによって結ばれた新しい契約に基づいて、エルサレムの神殿でささげられていた肉による礼拝ではなく、主キリストの教会でささげられる霊による礼拝に連なっています。それゆえに、キリスト者はもはや肉に頼ることも肉を誇ることも必要ありません。キリスト者はただ主イエス・キリストだけを頼みとし、主イエス・キリストだけを誇ります。

次に、4節からパウロは彼自身のことを語りだします。【4~6節】。パウロは生まれながらのユダヤ人でした。しかも、高度の宗教教育を受け、旧約聖書の律法を専門に学ぶファリサイ派に属し、律法の一つ一つを忠実に行うように心がけ、それゆえに、信仰によって救われると教えて律法を軽んじているように思われたキリスト者と教会とを激しく迫害していました。この点において、彼は肉にあるユダヤ人として誇るべき多くのものを持っていました。

けれども、パウロは自らの肉を誇るために自分自身について語ったのでは全くありませんでした。そうではなく、反対に、それらのすべてを投げ捨てるために、それらのすべてよりもはるかに勝った大きな恵み、絶大なる価値を見いだしたことを語るのです。【7~11節】。

パウロはここで、彼が主イエス・キリストと出会ったことによって与えられた大きな変化、、大いなる価値の転換、大逆転について、非常に印象的に、彼の全存在をかけて、語っています。ある人はこう言います。「パウロにとって、プラスであったものがゼロになったというのではなく、プラス自体がマイナスに変わったのだ」と。パウロ自身の言葉では、「有利であったもの」が「損失」となったのです。かつては誇りであったものが、今では塵あくたになったのです。主イエス・キリストと出会い、主キリストの福音を信じた信仰者は、それまでの人生観が少し変わったとか、今まで気づかなかったことが気づくようになったとか、少し明るい性格になり、気分が楽になったというだけではなく、それまでの自分とは全く違った新しい人として再創造されるのであり、それまで大事だと思っていたものすべてがもはや悪臭を放つ塵あくたになり、それまでに誇っていたもの、楽しみにしていたもののすべてが、むしろわたしを罪に誘うものであり、忌み嫌うべきものであり、わたしをまことの命へではなく、むしろ滅びへと導くものであったのだということを知らされるのです。8節のみ言葉によれば、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」が、このような大転換をキリスト者に与えるのです。

ここで、「わたしの主キリスト・イエス」という言葉について掘り下げてみましょう。ここには、「イエスはキリスト・救い主であり、わたしの主である」という短い信仰告白があります。この信仰告白はわたしたちの信仰の基本であり、中心です。わたしの罪のために十字架にかかり、死んで、三日目に復活された主イエスこそが、この方のみが、わたしの唯一の主であり、救い主である。この主以外にわたしの主はいない。わたしはわたしの主ではない。ほかのだれかがわたしの主ではない。ほかの何かがわたしの主ではない。わたしが生きる時にも、死ぬ時にも、主イエス・キリストがわたしの唯一の主として、わたしを導き、治め、わたしに必要な一切のものを備えてくださる。ここにこそ、わたしの最高の喜びがあるという信仰告白があるのです。

この喜びこそが、1節でパウロが語っていた「主において喜びなさい」と命じていた喜びです。自分の肉を誇ったり、自分が持っているものを喜んだり、あるいはこの世にあるものに喜びや楽しみを求めたりするのではなく、否むしろ、それらのすべてを投げ捨て、憎み、忌み嫌い、ただ「主にある喜び」だけをわが喜びとする。それほどに、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」をパウロはここで語っているのです。

9節では、「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と言われています。これが、宗教改革者たちが強調した「信仰義認」の教えです。パウロがローマの信徒への手紙やガラテヤの信徒への手紙で詳しく語るキリスト教信仰の中心です。「律法から生じる自分の義ではなく」という個所は、律法によって自分の義を得ることができるかのように誤解される恐れがありますが、より正確には、「わたしは律法による義を持っていない」と、はっきりと否定されている文章です。だれも、律法を行うことによっては神のみ心を完全に満足させることはできません。なぜなら、人間はみな生まれながらに罪に傾いており、神から離れており、神のみ心に背いているからです。

けれども、「信仰に基づいて神から与えられる義」は、文字どおり、それは神から与えられる義であり、すべて信じる信仰者に無償で神から提供される賜物としての義であり、主キリストを信じる信仰者は一方的な神の恵みによって、神との正しい関係へと導き入れられ、神との霊による豊かな交わりへと招き入れられ、救いと平安を与えられるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、何一つあなたのみ心に適うことができない弱い、罪多いわたしをも、主キリストのゆえに義と認めてくださり、救いと平安をお与えくださいます幸いを、心から感謝いたします。わたしが生涯、あなたから与えられている救いの恵みを喜び、あなたのご栄光をほめたたえる者とされますように。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月16日説教「神の家におられた少年イエス」

2020年2月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上3章1~9節

    ルカによる福音書2章39~52節

説教題:「神の家におられた少年イエス」

 主イエスが公の宣教活動を始められたのは、ルカによる福音書3章23節によれば、およそ30歳の時でした。主イエスが誕生されてから30歳になられるまでのことについては、聖書はほんのわずかしか伝えていません。マタイ福音書2章には、誕生されてすぐにエジプトに逃れ、その後ヘロデ大王が死んだのちにエジプトから戻られ、ガリラヤ地方のナザレという町に住まれたと書かれています。わたしたちが続けて読んでいるルカ福音書では、2章21節に生まれて8日目の割礼と命名の儀式、それから40日過ぎてからのエルサレム神殿での清めの儀式と初子奉献の儀式について書かれ、きょうの41節以下では、12歳の少年イエスが過越祭にエルサレムに上られた時のことがやや詳しく描かれています。実は、これが30歳になられるまでの主イエスの幼年時代、青年時代について語られている唯一の記録であり、もちろんルカ福音書にしか記されていません。聖書は主イエスが子どものころをどんなふうに過ごされたのか、どのような青年時代を送られたのかについては、ほとんど興味を示していないように思われます。

 では、なぜそうなのか、その理由は何か。また、ここに12歳の少年イエスについてだけ書かれているいるのはなぜか、これにはどういう意図があり、聖書はここでわたしたちに何を語ろうとしているのか。このようは問いかけを持ちながら、読んでいきたいと思います。

 まず、一つの疑問ですが、聖書はなぜ30歳になるまでの主イエスについてほとんど語っていないのかということです。その理由はおおよそ見当がつくでしょう。主イエスのご生涯にとって重要なことは神の国の福音を宣べ伝えることであり、神の国が近づいたしるしとして病める人を癒し、弟子たちに教え、神の国の説教をすること、そして最後には、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを罪の奴隷から救い出すために十字架で死なれ、三日目によみがえられることであって、福音書はそのことを中心に語っているのですから、その公のご生涯が始まるまでのことについては省略してもよいと考えられます。

 この点において、福音書は主イエスのご生涯を一人の人物の伝記という形態で描かれてはいますが、他の偉大な人物の伝記とは根本的に違っていると言えます。一般の伝記であれば、その人が子どものころから驚くほどの能力を発揮していたとか、苦学して、やがて立派な人物に成長したとか、その人の成長記録が語られますが、主イエスの場合はそうではありません。主イエスは少しずつ成長して神のみ子になられたのではありません。一生懸命に努力してメシア・キリストになられたのでもありません。わたしたちがすでにルカ福音書から学んできたように、主イエスは聖霊によって身ごもられた聖なる神のみ子として誕生され、その誕生の時から、神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・全人類の救い主であられました。

 では、主イエスにとって、30歳になって公のご生涯を始められるまでの期間は何の意味もなく、誕生されて一気に30歳になられてもよかったということになるのでしょうか。いや、そうではありません。主イエスは、ある時に突然に天から舞い降りてきた神ではありません。主イエスはわたしたち人間と同じように、母の胎から生まれ、乳児、幼児の時があり、両親の愛に包まれて成長し、少年、青年時代があり、両親に仕え、家のために働くという、すべての人間と同じ道を歩まれました。主イエスはまことの人間であられました。そのようにして、神のみ子はわたしたち人間のただ中においでくださり、わたしたち人間と同じ歩みをされ、わたしたち人間の歩みのすべてに伴ってくださり、わたしたち罪の中にある人間と連帯してくださったのです。

 そのことから、41節以下のきょうのみ言葉の意味を考えていかなければなりません。すなわち、12歳の主イエスはまことの神であられ、また同時に、まことの人間であられるということです。主イエスはまことの神であられ、わたしたちすべての人間のメシア・キリスト・救い主であられると同時に、まことの人間として、わたしたち人間の罪の世界に入って来られ、罪びとの一人となられたという、その両方のお姿を、わたしたちはここで読み取らなければならないということです。そのことをまず確認しておきましょう。12歳の主イエスの道はすでに、ご受難と十字架の死へと向かっているのです。

 そして、ここでもう一つ重要なことは、12歳の主イエスの記録を取り囲むようにして、40節と52節のみ言葉が語られているということです。【40節】。【52節】。この二つの節のみ言葉が、12歳になられるまでの主イエスの幼少年期の歩みと、12歳以後の主イエスの青年期の歩みのすべてを語っていると言ってよいでしょう。

 この二つの節に共通している一つのことは、体の成長と知恵の強調です。体の成長は、主イエスが人の子として、わたしたち人間と全く同じ成長過程をたどったことを言い表しています。知恵とは、聖書においては、神のみ心を尋ね求めることを言います。学問的能力とか知能指数のことではありません。旧約聖書に、「神を恐れることは知恵の初めである」(箴言1章7節他参照)と繰り返して教えられているように、天におられる主なる神の存在を知り、その神のみ前では朽ち果て、滅び去るほかない小さな、弱い存在である自らを悟り、神のみ心を尋ね求め、それに従って生きること、それが人間の本当の知恵です。主イエスのご生涯は、誕生から十字架の死に至るまで、神の知恵に生きる歩みであったと言えます。

 もう一つ強調されていることは、神の恵みと愛です。人間イエスが成長される過程で、神の恵みと愛が最も重要であったということは言うまでもないことです。もちろん、両親であるヨセフとマリアの愛や配慮、家族とか地域社会の協力なども必要です。でも、それらのすべてが備わっていたとしても、神の恵みと愛がなければ、主イエスの歩みは祝福されません。わたしたち一人一人にとっても、またわたしたちの子どもにとってもそれは同じです。主イエスの誕生から十字架の死に至るまで、父なる神の恵みと愛は少しも欠けることはありませんでした。

 では次に、41節以下について学んでいきましょう。過越祭は神の民イスラエル誕生を祝う祭りであり、ユダヤ人最大の祭りでした。紀元前13世紀ころ、エジプトで長い間奴隷の民であったイスラエルが神の強いみ手によって解放されたことを祝い、感謝する祭りです。ユダヤ人の成人男子は過越祭には必ずエルサレムの神殿で礼拝することが旧約聖書の律法で定められていました。過越祭に続いて7日間は種入れぬパンの祭りがあり、ほとんどのユダヤ人は一週間をエルサレムで過ごすのが習慣でした。主イエスの両親は地域の仲間と連れ立って、ガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ余りの道のりを、おそらくは3、4日かけて、過越祭を祝うために出かけていきました。

 42節に、「イエスが12歳になったとき」とあります。当時のユダヤ人社会では宗教上13歳から成人の仲間入りをし、律法を守る義務が課せられました。12歳は親の監督の下に置かれる最後の年です。ですから、41節では両親が主語になっています。また、この個所全体でも、両親が主イエスの監督者であることが強調されています。ヨセフとマリアは律法に従い、長男である主イエスの信仰の訓練を忠実に果たし、来年からの独り立ちに備えているのです。主イエスは忠実な信仰の家庭で育てられていたことが分かります。ガラテヤの信徒への手紙4章4節以下にこのように書かれています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。このみ言葉こそが、きょうの個所のメッセージを聞き取るための鍵になります。12歳の主イエスはここでイスラエルの律法の下に置かれ、両親の監督の下に置かれ、そのもとで信仰の教育をお受けになっておられるのですが、しかし、主イエスはこの時にすでに神のみ子として、律法からも両親からも自由であられたということが、ここで暗示されているのです。そのことについてさらに理解を深めていきましょう。

 祭りが終わって一行が帰路に着いた時、主イエスが仲間からはぐれ、迷子になっておられることが分かり、両親は心配しながらエルサレムに引き返します。すると、両親は神殿におられた少年イエスを見つけます。【46~49節】。主イエスは両親の心配をよそに、エルサレム神殿の中で、大人の教師たちと対等に神や聖書に関して議論しておられました。主イエスは両親が心配したように、迷子になっておられたのではありません。三日以上の間、両親から引き離された子どものように、寂しさと不安の中で、道をさまよっておられたのでもありません。主イエスはいわば、ご自分の意志で、ご自身が神の契約の民イスラエルの一人として、その契約の民の礼拝の中心であり、神の家である神殿におられたのです。それは主イエスご自身の意志であり、また父なる神のみ心だったのです。

 それにしても、主イエスの賢さはどこから由来しているのでしょうか。当時のイスラエル宗教の指導者である祭司や律法学者は、だれか有名な教師の下で学び、専門的な教育を受けていましたが、12歳の少年イエスがそのような教育を受けておられたということは考えられません。では、どこからその知恵を得たのでしょうか。40節と52節で言われていたように、主イエスは神のみ子として、神の恵みと愛に育てられ、いわば直接に父なる神からその知恵を与えられていたと言うべきでしょう。けれどもより重要なことは、主イエスはその賢さや知恵をご自分のためには少しもお用いにならなかったということです。

 母マリアは「なぜこんなことをしてくれたのか」と主イエスに問い詰めます。親の庇護から離れて勝手な行動をしている子どもを叱っているように思われます。子どもに対して、親に服従する義務を求めるのは、親として当然のことです。しかし、主イエスのお答えは、逆に親を非難しているかのようです。主イエスはご自身が天の父なる神の子どもであり、その父なる神に対して服従の義務を果たす方が、肉にある地上の親に対する服従の義務よりもより大きく、優先すべきであると言われたのです。母マリアは地上の肉にある親と子の関係のことを考えていました。しかし、主イエスは天の父なる神との霊にある親と子の関係を主張しておられます。地上にある親が持つ権威は、天の父なる神の権威の前に服従しなければなりません。

 49節で、「当たり前だということ」と訳されているギリシャ語は、他の個所では「必ず」とか「べきである」と訳されています。この言葉は、神の強い意志、神の永遠のご計画を表しています。この言葉は、福音書の後半で、主イエスの受難予告の中で頻繁に用いられます。12歳の少年イエスが父なる神の家であり、父なる神を礼拝し、神と生ける出会いをする場である神殿におられたことが、神の強い意志であり永遠のご計画でした。そしてまた、主イエスがわたしたち罪びとを救うためにご受難の道を歩まれ、ついには十字架でご自身の命を贖いの供え物としておささげくださることも、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画であったのです。12歳の少年イエスは、まことの神として、また同時にまことの人間として、その道を進まれました。

(執り成しの祈り)

〇父なる神よ、あなたの永遠の救いのご計画の中に、わたしたち一人一人をもお

招きくださいますことを感謝いたします。この道を従順に歩ませてください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月9日説教「罪人を探し求める神」

2020年2月9日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙10章5~13節

説教題:「罪びとを探し求める神」

 神によって最初に創造された人間、アダムとエバは、神に禁じられていた善悪の知識の木からその実を取って食べ、神の戒めを破って罪を犯しました。これが、人間の最初の罪、原罪であり、アダム以後のすべての人間はこのアダムの罪に連なっており、人はみな生まれながらにして罪に支配されている罪びとである、これが、聖書が語る人間の罪、キリスト教教理で原罪(オリジナル・シン)と言われる教えです。この原罪について、使徒パウロはローマの信徒への手紙5章12節でこのように言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。そして、テモテへの手紙一1章15節では、「わたしは、その罪びとの中で最たる者です」と告白しています。この罪の認識と告白から、キリスト教信仰は始まると言ってよいでしょう。わたしたちは創世記3章のみ言葉から、人間の罪とは何かを正しく理解し、またその罪に対して神はどうなさったかを深く聞いて、救いの恵みにあずかる者になりたいと願います。

 蛇の誘惑によって、神に禁じられていた木から取って食べたアダムとエバは、蛇が言ったように、彼らの目が開け、神のように善悪を知るものとなったでしょうか。いや、そうはなりませんでした。彼らは神にはなりませんでした。神になるどころか、後で分かるように、神から遠ざかり、神を失った罪びととなるほかありませんでした。彼らの目が開け、彼らが見たのは自分たちの裸の姿であり、彼らが知ったことは自分たちが裸の恥をさらしていることだったということが7節に書かれています。神の戒めに背き、罪を犯した人間はこのようにならざるを得ません。

 ここで少し寄り道ですが、善悪を知る木とは、具体的に何であったのかについて、キリスト教の伝統ではリンゴの木とされていますが、聖書にはその名は書かれていません。ではなぜ中東地域ではあまりなじみのないリンゴと言われるようになったのかは、おそらくラテン語で悪という言葉はmalusであり、リンゴはmalumで、両者の発音が近いということから、malus悪からmalumリンゴが連想されたのであろうと推測されています。

 本題に戻って、自分たちが裸であることを知ったアダムとエバはいちじくの葉で裸を隠そうとします。人間が自分の罪の姿を何かで覆い隠そうとする、それは人間の本能と言ってよいかもしれません。でも、彼らはそれにとどまりません。裸の一部を隠そうとしただけでなく、自分の姿全体を、自分の存在そのものを神の前から隠そうとしたことが8節に書かれています。

 【8節】。神の戒めを破り、罪を犯したアダムとエバは、神が近づいてこられることを知った時、神の顔を避けて木の間に身を隠しました。神の存在を知った時、罪の人間は神から遠ざかろうとします。ここには、罪の本質が現れているように思われます。つまり、罪は神のみ前であらわになり、意識され、表面化するということです。蛇の誘惑によって禁じられていた木の実を食べた時点では、まだ罪は表に現れてはおらず、彼ら自身も自分の罪に気づいていなかったようです。しかし、神が近づいてこられ、神の存在を知った時に、彼らははっきりと自らの罪に気づかされます。自分たちが神の戒めに背いた罪びとであるということ、それゆえに神から身を隠し、神から遠ざかって生きなければならなくなったこと、もはや神と共に生きることができなくなったこと、そのことに気づかされたのです。罪はそのようにして次の段階に進みます。人間が自ら意識して、神から離れ、神を嫌い、神を拒絶するようになっていくのです。

 アダムとエバはエデンの園で造り主であられる神と共に生き、神から託された園を管理し、耕す務めを果たしながら、共にふさわしい助け手として、共に神に仕える連帯的人間として生きる時に、彼らの生活はエデンの園の名にふさわしく、つまり、喜びの園で喜びに満たされた生活となるはずでした。しかし今や、彼らはもはや神と共に生きる者たちではなくなりました。彼らから喜びは失われ、恥と恐れと不安が彼らを支配するようになりました。そしてまた、園を管理する務めを託されていた彼らは、園の木によって自分たちの身を隠してもらわなければならないという、みじめな立場に転落していることに気づかされます。もっとも、彼ら自身はそのことに気づいてはいないのですが。

 アダムとエバが神の接近を知って、神の存在を身近に感じた時に、自分たちの罪を自覚し、神から身を隠そうとしたということは、わたしたちが自分の罪を認識する際にも同じことが当てはまります。神がわたしの方に近づいてこられ、神のみ顔の前に立たされる時に、つまりわたしが神と出会う時に、本当の意味で自分の罪を知らされるのです。別の側面から言えば、神の存在を知らない人は自らの罪を知ることもありません。罪とは何かをどれほど深く学び研究しても、神との真実の出会いがなければ、本当の意味で罪を知ることも自覚することもできません。わたしが神と真実の出会いをする時に、わたしの罪がどのようなものであるのかを知らされます。しかし、もちろんその時には、わたしに罪を自覚させる神は、同時にわたしの罪をおゆるしになる神であることをも、わたしは知らされるのですが。

 続いて9、10節にはこのように書かれています。【9~10節】。9節の原典ヘブライ語を直訳するとこうなります。「そして、主なる神はアダムに呼びかけた。そして彼は(つまり神は)言った、あなたはどこにいるのか」。ここには「呼びかける」、あるいは「名前を呼ぶ」という言葉と「言う」という言葉とが重ねて用いられています。ここでは、神から身を隠し、神から逃れようとする罪びとアダムを、その罪の暗黒の中から呼び出そうとされる、神の呼びかけの強いみ声が響いているのです。「あなたはどこにいるのか」、これが、罪びとアダムに対して神が語りかけられた最初の言葉であるということを、わたしたちは印象深く心に留めたいと思います。なぜならば、「この木から取って食べたら必ず死ぬ」(2章17節)」と言われた神の戒めを破ったアダムに語られるべき言葉は、「お前は死ぬべきだ、お前に死を宣告する」となるはずだったからです。しかし、神が語られたみ言葉はそうではありませんでした。「アダムよ、お前はどこにいるのか」と呼びかけ、罪の中に身を隠そうとするアダムをご自身のみ前に呼び寄せる、招きのみ言葉だったのです。わたしたちはここに、罪びとに対する神の深いみ心を見るのです。

 その第一は、神は、戒めを破って罪を犯した人間アダムをそのまま見て見ぬふりをなさらないということです。神はいつも人間をみ心にとめておられます。神は人間無しで、ただ神だけであろうとはなさいません。神は人間が何をなそうが、どこへ行こうが、気に留めないような方ではありません。人間に無関心ではおられません。人間のすべての行動、人間の心の中のすべてをも見ておられます。人間が罪を犯すなら、その罪に見過ごしにはなさいません。罪の中にいる人間をも決して見過ごしになさいません。

 第二に、神は人間に自らの罪の姿を自覚させます。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間が今いる罪の存在を気づかせます。神の戒めに背いて罪を犯したために、神のみ顔をまともに見ることができず、神の前から身を隠さなければならなくなった自分たちの現実の姿を自覚させるのです。かつては、エデンの園で神と共に生きることを喜びとし、共に神に仕えることによって喜びを分かち合っていた連帯的人間であった自分たちが、罪に落ちた今は、神から遠ざかり、神を恐れなければならなくなった、その大きな変化、その大きな転落を自覚させるのです。罪とは神の恵みから落ちることです。神の恵みに気づかず、その恵みを投げ捨て、神の恵みに感謝をしない、神の恵みに応えない、それが罪なのです。

 第三に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、罪を犯したアダムとエバにとっては、神の裁きのみ言葉となります。彼らは神の裁きを恐れなければなりません。だれも神の裁きから逃れうる人はいません。神のみ前で罪を問われない人間は一人もいません。神は人間の罪を裁かれる義なる神であられます。神は人間の罪を裁かれる義なる神であることによって、なおも罪びとである人間と関係を持ち続けられるのです。

 そして、第四に、「アダムよ、お前はどこにいるのか」と言われる神の呼びかけの最も重要な意味をわたしたちは聞き取らなければなりません。「これを食べたら必ずお前は死ぬ」という神の戒めを破った人間アダムに語られるべき言葉は、「死」以外ではないということをわたしたちは前にも確認しましたが、神はその裁きを直ちに実行なさいません。神はなお少しの猶予の時間を人間にお与えになります。「アダムよ、お前はどこにいるのか」という神の呼びかけは、人間に罪を自覚させるみ言葉であり、また神の裁きのみ言葉であると同時に、罪の人間が悔い改めて、神に立ち帰る機会を備えるみ言葉でもあるのです。悔い改めへの神の招きのみ言葉なのです。

 神は罪びとをなおも呼び求めておられます。探し求めておられます。人間が罪の中で滅びていくのを神は望んでおられません。悔い改めと救いへと招いておられるのです。そのような神の救いへの招きのみ言葉、救いへの招きの場面を、わたしたちは旧約聖書と新約聖書のすべてのページに限りなく見いだすことができるでしょう。聖書全編は、罪びとを探し求め、救いへとお招きになる神の招きのみ言葉にあふれています。

 わたしたちはその場面をいくつも挙げることができるでしょう。創世記22章1節で、神はアブラハムの名を呼ばれました。「アブラハムよ」。彼は「はい、ここにおります」と答え、独り子イサクを燔祭の犠牲として神にささげるためにモリヤの地に旅立ちました。彼は神の呼びかけに従順に応答し、服従し、彼の独り子をすら惜しまず神にささげたゆえに、神に祝福された信仰者となりました。出エジプト記3章4節で、神は「モーセよ、モーセよ」と呼ばれました。モーセは「はい、ここにいます」と答え、イスラエルの民をエジプトの奴隷の家から導き出される神の偉大はみわざのために仕えました。サムエル記上3章10節で、神は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれました。サムエルは「僕(しもべ)は聞きます。主よ、お話しください」と答えました。そして、イザヤ書6章では、神は「わたしは誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろう」と問われました。その時イザヤは「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答しました。

 新約聖書では罪びとを探し求められる神の大きな愛はいよいよ増し加わります。主イエスは、100匹の羊のうちの迷い出た1匹を見つけるまで熱心に探し歩く羊飼いのたとえをお話になりました。家出をし、放蕩に身を持ち崩した息子を長く帰りを待ち望む父親と、その息子が帰ってきたときの父親の大きな喜びお語りになりました。罪びとが一人でも悔い改めて立ち返るなら、天に大きな喜びがあるであろうと言われました。

 罪の中に失われていた人間を見いだすために、神は今もなおみ子主イエス・キリストによって、わたしたち一人一人を呼び出だしてくださいます。わたしたちを罪から救い、新しい神のための働きとして召すために、わたしたちに呼びかけてくださいます。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちを呼び求めるあなたのみ声をさやかに聞き取ることができる信仰の耳をわたしたちにお与えください。

〇主イエス・キリストの福音が全世界のすべての人々に宣べ伝えられ、まことの救いと命とが、すべての悲しんでいる人たちや暗闇をさまよっている人たち、餓え乾いている人たち、孤独な人たち一人一人に与えられますように。

〇全世界のすべての民族、地域に主イエス・キリストにある和解と平和をお与えください。

 主のみ名によって祈ります。アーメン。

2月2日(日)説教「主キリストの福音に仕える同労者」

2020年2月2日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    フィリピの信徒への手紙2章19~30節

説教題:「主キリストの福音に仕える同労者」

 きょうの礼拝で朗読されたフィリピの信徒への手紙2章19節以下には二人の人物のことが書かれています。一人はテモテ、もう一人はエパフロディト、この二人は獄中のパウロの世話をしていました。当時は、犯罪人として投獄されても、最終の判決が下されるまでは、比較的自由な生活をゆるされていました。食物の差し入れや、その他生活に必要な物を支援してもらうこと、また面会や手紙を書くことだけでなく、投獄されている建物の中にいる他の囚人や兵隊たちに福音を語ることもゆるされていたということがこの手紙の1章12節以下などからも推測できます。使徒言行録28章23節以下には、ローマに護送されたパウロが自分の宿舎で定期的に人を集めて集会をしていたことが書かれています。パウロは主キリストの福音をのべ伝える宣教者として何度も迫害を受け、捕らえられ、鎖につながれましたが、囚人に与えられていた権利を最大限に用い、判決が下されるまでのあらゆる機会を活用して、福音宣教のために仕えました。神のみ言葉は、この世のどのような鎖によっても決してつながれていないということを証ししました。

 パウロはまた、獄中にあっても、福音宣教のための良き同労者である弟子を与えられていました。その二人がテモテとエパフロディトです。テモテについては、22節でパウロは「息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました」と言い、エパフロディトについては25節で「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言っています。共に神のみ言葉に仕える同労者の交わりを、この世のどのような鎖も鉄格子も引き裂くことは決してできないということを、ここでも言わなければなりません。

テモテとエパフロディトは獄中にあるパウロと共に神のみ言葉に仕え、主キリストの福音宣教のために働きました。パウロと彼ら2人の関係を友情と呼ぶにしろ、師弟愛、あるいは同労者と呼ぶにしろ、彼らを固く結びつけているのは主キリストの福音以外ではありません。彼らは共に主キリストの福音のために働く同労者として、固く結びあっています。もし、わたしたち人間をこの地上で固く結びつけるものがあるとするならば、それを友情とか愛、あるいは交わりと呼ぶとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。現在社会の中で、人が孤立し、個人主義的になり、だれもが自分のことを考えるのに精いっぱいであるような人間たちを、それでもなお、お互いを認め合い、他の人のために仕えることを喜びとし、他の人の弱さや痛み、重荷を自らに担っていき、使徒パウロと共に「おお、わが愛する兄弟姉妹よ、親愛なるわが同志よ。同労者よ」と呼び合うことができるとすれば、それはどこから、どのようにして与えられるのでしょうか。わたしたちはその答えを、きょうのみ言葉に見いだすことができるのです。それは、わたしたちが共に主キリストの福音ために働き、そのために共に汗を流し、時に労苦や試練をも共にする時にこそ、そこに真実の兄弟愛と言うべきものが、主にある交わりが、この世のどのような鎖や鉄格子によっても決して引き裂かれることがない信仰共同体の交わりが与えられるのです。

では、19節から読んでいきましょう。【19節】。テモテは1章1節で、この手紙の共同発信人としてその名が挙げられていました。使徒言行録16章には、パウロがキリスト者になって間もない若いテモテを連れてマケドニア州のフィリピ伝道に出かけたことが書かれています。それ以来、テモテはパウロの最も強力な同労者として共に福音宣教に仕えました。この時にも、投獄されていたパウロの近くでパウロをサポートしていたようです。そのテモテをフィリピ教会に遣わす予定であるとパウロは言います。テモテ派遣の目的は、「わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいから」と彼は言います。この19節は口語訳聖書では「あなたがたの様子を知って、わたしもまた力づけられたいからである」となっていて、この方が正確です。つまり、ここには「あなたがたも、そしてわたしも共に」という意味が込められているのです。フィリピ教会の人々は獄中にいるパウロのことが気がかりです。しかし、テモテが教会に遣わされて、パウロの現況を伝え、獄中にあっても主キリストの福音が力強く証しされていることを彼らが知って、彼らは大いに力づけられるでしょう。それとともに、テモテが再びパウロのもとへと遣わされて、フィリピ教会が迫害の中でも福音の信仰のために心を合わせて戦っていることを伝えられ、パウロもまた力づけられ、励まされることになるでしょう。パウロとフィリピ教会とは、派遣されたテモテによって、互いに固く結ばれ、共に主にある勇気と希望とを分かち合うことができるのです。「主イエスによって希望しています」とパウロが書いているのはそのことを含んでいるのです。主イエスがパウロとフィリピ教会、そして派遣されるテモテの3者を固く結びつけているのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「遣わす」と訳されている言葉です。実は、きょうの個所には同じギリシャ語が4回用いられています。翻訳はそれぞれ違っていますが、テモテに関しては、19節「遣わす」のほかに、23節「送る」、エパフロディトに関しては、25節「帰す」、28節「送る」。パウロはテモテに対してもエパフロディトに対しても、意識的に同じ言葉を用いていると推測されます。この言葉には、パウロのいわば教会論的な、あるいは宣教論的な考えが反映されていると考えられます。すなわち、テモテとエパフロディトが遣わされるのは、単にパウロの個人的な使い走りのためとか、パウロとフィリピ教会の便宜を図るためとかではなく、共に主キリストの教会を建てるための、また主キリストの福音を宣教するための、主キリストによって遣わされ、派遣された使徒としての働きをパウロはここで二人の弟子に見ているのです。19節の「主イエスによって希望しています」という言葉の中にはその意味も含まれています。

20~22節にはテモテのことが紹介されています。【20~22節】。これはフィリピ教会へのテモテの推薦状と言ってよいでしょう。ここには4つのことが語られています。第一には、テモテがフィリピ教会のことをだれよりも親身になって心にかけている。だから、あなたがたのところに派遣され、わたしパウロとあなたがたとの思いを一つに結びつけるのに最も適任であるということです。テモテはパウロと共にフィリピ教会を建てるために一緒に働きました。そのことをも彼らは知っています。教会設立当初のころに共に福音宣教のために熱心に仕えたことを思い起こさせるというねらいがパウロにはあったのかもしれません。

第二には、テモテは自分のことを求めず、主キリストのことを第一に考えているということです。どんなに能力があり技術が優れている人であっても、自分を第一に考え、主キリストのこと、教会のことを二の次に考える人は、本当の意味で主キリストに仕えていることにはならず、真実に教会を建てるために働くこともできません。テモテは自分のことは求めず、主キリストのことを第一に考え、それによって自我から解放され、自由と喜びとをもって主と隣人とに仕えていく人とされています。

第三に、テモテが確かな人であることをフィリピ教会の人たちもよく知っているということです。「確かな人」というギリシャ語の意味ははっきりしません。口語訳聖書では「練達した人」と訳されていました。おそらく、多くの試練や迫害を経験し、それでもなお忍耐強く、福音のために戦いぬき、それによっていよいよ信仰を確かにすることを言い表していると考えられます。

第四は、パウロと共に福音に仕えてきた同労者であるということです。パウロとテモテは年齢から言っても、また信仰の経歴から言っても父と子どもの関係でしたが、主キリストの福音に仕えることにおいては共に主キリストの僕(しもべ)であり、福音宣教の同労者です。教会に所属する一人一人も、互いに様々な違いがあり、賜物の違いがあるにしても、みな共に福音のために仕える同労者なのです。

以上のことを挙げて、パウロは弟子のテモテをフィリピ教会に推薦しています。それらは、テモテが何か優れたものを持っていたからとか、彼自身の能力とか知識とかを挙げているのではありません。むしろ、彼が自分が持っているものをすべて捨て去り、彼自身を主キリストに明け渡し、主キリストの福音によってのみ生きることに他なりません。わたしたち信仰者が主キリストから神の国への推薦状をいただくことができるとすれば、それはおそらく同じような内容になるのでしょう。主イエスは福音書の中で、「だれでも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない。自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従う人こそ神の国にふさわしい」と言われました(マルコによる福音書10章15節、同8章34節以下参照)。

23、24節ではパウロ自身の今後の計画のことが簡単に述べられています。間もなく彼には最終判決が下さるでしょう。その判決結果を携えてテモテがフィリピ教会に派遣されることになるでしょう。その判決が死刑になるか、それとも無罪解放となるかは全く予想が立ちません。2章16、17節では死刑を覚悟していたように感じられましたが、24節では解放されて、フィリピ教会を訪れることができるであろうとの希望が語られています。いずれにせよ、パウロの将来のすべては主によって定められているゆえに、彼はその道を確信をもって進んでいくことができます。

25節からはエパフロディトについて書かれています。彼は獄中のパウロへの援助物資を携えてフィリピ教会から派遣されました(そのことについては4章18節に書かれています)が、途中で重い病気になり、パウロへのサポートが十分にできずに、また望郷の念をつのらせ、重度のホームシックにかかっていたようです。しかも、彼が病気になり、パウロに対する支援の務めを十分に果たすことができなかったことがフィリピ教会に伝わり、非難を受けていたと思われます。このことがさらにエパフロディトを苦しめていました。

けれども、パウロはそのようなエパフロディトを擁護し、否、擁護するだけでなく、彼もまた主キリストの福音のために仕える同労者であることを強調するのです。先にも触れましたが、25節と28節で、「エパフロディトをフィリピ教会に派遣する」という言葉を2度用いています。彼が用済みになり、役に立たなくなったから送り返すというのではありません。彼もまた主キリストの福音に仕える使徒として、主キリストから派遣されているのです。

25節では彼のことを、「わたしの兄弟、協力者、戦友である」と言い、また「あなたがたの使者、わたしの奉仕者」とも言っています。27節では、「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と言っています。さらに30節でも、「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」とまで言うのです。エパフロディトは彼の弱さと病気とをもって、彼の死の危険をもってまで、主キリストの福音に仕えたのです。彼はその弱さと無力とによってこそ、最もよく主キリストのために仕えたのです。それゆえに、29節でパウロは「彼のような人こそが敬われなければならないと」と言うのです。主キリストのために仕えることにおいては、どのような弱さも欠けも破れも、すべてが主のみ心にかなって用いられるのです。主キリストの福音のために共に仕える同労者は何と幸いなことでしょう。

(祈り)