2月27日説教「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

2020年2月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編32篇1~11節

    ルカによる福音書7章36~50節

説教題:「罪をゆるす権威を持っておられる主イエス」

 きょう朗読されたルカ福音書7章36節以下には、一人の婦人が主イエスのお体に香油を注いだという、いわゆる油注ぎのことが書かれています。これとよく似通った油注ぎの出来事は、マタイ福音書26章、マルコ福音書14章、ヨハネ福音書12章にもあります。これら三つは、主イエスのご受難の直前にベタニア村であったという点で一致していますが、細かな点では違いもあり、またルカ福音書とは時期や場所、登場する人物などで大きな違いがみられます。一つの油注ぎの出来事が違ったかたちで伝えられたのか、あるいは二つの出来事だったのかについては分かっておりません。しかし、中心的なメッセージは共通しています。すなわち、主イエスはこの婦人の油注ぎを非常に喜ばれ、その奉仕を受け入れられたという点、それに対して周囲の人たちはこの婦人の行為を無駄遣いだ、不謹慎な行為だと非難したという点、そこで主イエスはこの婦人の油注ぎの真の意味を明らかにされ、主イエスの十字架の福音がそこで語られたという点、これらのことは四つの油注ぎの出来事に共通しています。

 きょうのテキストに入る前にもう一つ確認しておきたいことは、この罪ある婦人の油注ぎの出来事は、すぐ前の34節のみ言葉と関連しているということです。【34節】。これは当時のユダヤ人指導者たちが主イエスを非難する言葉としてここでは紹介されているのですが、この言葉はそのままで主イエスの福音そのものを言い表しているということが、36節以下で明らかにされるのです。すなわち、主イエスは食卓に招かれたら、だれとでも喜んで共に食事をされ、また「罪の女」と言われている婦人の油注ぎの奉仕を喜んでお受けになり、そのことによって、ご自身が旧約聖書で長く待ち望まれていたメシア・キリスト・救い主であられることをここで証しされるのです。主イエスはすべての人を喜びの食卓にお招きになっておられます。主イエスはすべての罪びとたちの仲間となってくださいます。それによって、すべての信じる人を到来する神の国での救いへと招いておられるのです。

 では、【36節】。このファリサイ派の人の名前はシモンであるということが40節で分かります。福音書ではほとんどの場合、ファリサイ派や律法学者は主イエスに反対するユダヤ教の一派として登場しますが、今回は必ずしもそうではありません。シモンは主イエスをユダヤ教の巡回説教者・教師として、ある種の尊敬をもって食事に招待しました。この章の16節に書かれてあったように、主イエスが旧約聖書に預言されていた大預言者ではないかと期待する気持ちもあったということが39節の彼の言葉から推測できます。当時のユダヤ教の教えでは預言者や巡回説教者を食卓に招くことは、特別に称賛される愛の行為、信仰深い奉仕だと言われていましたので、シモンにはそのような自分の行為を誇ろうとする思いもあったのでしょう。彼は最初から主イエスに敵対心を抱いていたのではありませんでしたが、かといって、主イエスから何か教えを乞うとか、主イエスを救い主と信じたいという願いがあったというのでもなかったようです。

 しかし、そうであったとしても、主イエスはシモンを拒否されませんでした。ファリサイ派のシモンと一緒に食事をされました。主イエスは罪びとたちや貧しい人たちと食事を共にされことが多くありましたが、たとえファリサイ派であっても一緒に食事をされることを嫌ったわけではありませんでした。主イエスはすべての人のための救い主であられ、すべての人を終わりの日の神の国での祝宴にお招きになります。貧しい人であれ、富む人であれ、学識のある人であれ、宗教家であれ、すべての人が主イエスの救いを必要としているからです。ファリサイ派シモンもその例外ではありません。

 ところがその食事の席に一人の婦人が入ってきました。【37~38節】。37節の冒頭には、日本語では訳されてはいませんが、「そして、見よ」という言葉があります。何か重要なことが起こる時とか、注意を促す時に、聖書ではしばしば用いられます。ここでは、全く驚くべきことが起こっているのです。当時の慣習によれば、ユダヤ教の教師たちが集まっている場所に婦人が出入りすることは、慎むべきことでした。ましてや、この婦人はこの町でも名の知れた罪深い婦人と言われていた娼婦でした。みんなに軽蔑され、人前に出るのも恥ずべき婦人でした。その婦人が、当時の常識を破って、ファリサイ派シモンの家に入ってきたのです。何のためでしょうか。なぜ、そのような驚くべき大胆な行動に出たのでしょうか。

 37節に、「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席についておられるのを知り」と書かれています。彼女はシモンに会うために彼の家に行ったのではありません。主イエスがその家におられるのを知ったからです。そして、その主イエスこそが、身も心も汚れている罪深い自分を受け入れてくださる方であり、わたしを罪と悲惨の中から救い出してくださる方であり、それゆえにわたしのすべてをささげてお仕えすべき、まことの救い主であることを信じたからです。その信仰が、彼女を常識外れの、驚くべき大胆な行動をとらせているのです。彼女のすべての恥や恐れを取り除いて、人々の冷たい目や非難の声にも妨げられることなく、主イエスに近づき、あのような行動をする勇気を与えたのです。

 いや、それ以上にここで重要なことは、主イエスがこの罪深い婦人を受け入れられ、その奉仕のわざを喜ばれ、彼女の行動が神の大いなる愛と救いのみわざを証しするものであるとお語りになられたことです。この婦人の油注ぎの奉仕が、主イエスの十字架の福音を指し示していることが、ここで語られているのです。

 ファリサイ派の人はもちろん、ユダヤ教の教師や指導的立場にある人であれば、このようないかがわしい罪の婦人を寄せつけることはしないでしょうし、その婦人に自分の足を洗わせたりするはずはないでしょう。シモンはそう考えました。【39節】。位の高い宗教家であれば、このような罪や汚れから注意深く身を遠ざけるべきであると、彼が考えたのは当然でした。

 けれども、主イエスはそうではありませんでした。主イエスは罪ある婦人を受け入れ、その奉仕を喜ばれました。「彼は罪びとの仲間になった」(34節参照)と非難されるほどに、主イエスは罪びとと共に歩まれました。ここにすでに、主イエスの罪のゆるしがあります。罪びとを招き、受け入れるという主イエスのゆるしがあるゆえに、罪ある婦人の主イエスに対する信仰と奉仕があるのです。これが、きょうのみ言葉の最も中心的なメッセージであり、福音なのです。

 そこで、主イエスは一つのたとえを語られます。【41~43節】。このたとえ話には三つのポイントがあります。一つは、二人とも借金をしている負債者だということ、しかも、それを返済する能力がないということ。二つには、ところがその負債の全額を二人とも帳消しにされたということ、あるいは、二人の負債をすべて免除する人がいるということ。三つには、多くの借金を免除された人が多く愛するようになるということ、多くのゆるしが多くの愛を生み出すということ。この三つのポイントについてさらに深く考えていきましょう。

 主イエスが負債者とそれをゆるす人のたとえを語られる場合、マタイ福音書18章の一万タラントの負債をゆるされた人のたとえでもそうであるように、そこでは常に神と人間との関係が考えられています。つまり、人間はみな神に対して大きな負債を負っている罪びとである。神に背き、神との契約を破って、日々に神に対して罪を重ねている負債者である。しかも、だれもその負債を神に返済することができないということが、これらのたとえではまず最初に語られているのです。

 第二には、その人間の負債を神はすべて無条件で免除し、ゆるしてくださった。そのために、神はみ子主イエスをこの世にお遣わしになられた。主イエスの十字架の死によって、すべての負債を、罪を、無条件で、完全にゆるしてくださった。

 第三には、自分の罪を告白し、悔い改めて神に立ち返り、主イエスの十字架の福音を信じて罪ゆるされた信仰者は、自分がゆるされた罪の大きさを知らされ、罪ゆるされた感謝と喜びをもって神を愛し、神に仕える新しい歩みを始める。これが、主イエスが語られたたとえ話の意味なのです。

 44節にこう書かれています。「そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。この人を見ないか」。主イエスはシモンにこの罪深い婦人を見るように命じます。罪多く、だれからも顧みられず、見捨てられていたこの婦人、しかし今、主イエスと出会って、主イエスに迎え入れられ、すでに罪ゆるされた信仰者として主イエスに愛の奉仕をしているこの婦人を見るようにと促しておられます。ここにおいて、罪ある婦人の前に立たされているファリサイ派シモンの不信仰が浮き彫りにされます。主イエスを教師・預言者として尊敬し、食事に招待していながら、自らの罪を悔い改めることをせず、主イエスを救い主として受け入れることをしない彼の不信仰が明らかにされます。

 【48~50節】。44節でシモンに「この人を見ないか」と言われた主イエスは、48節ではこの婦人に対して「あなたの罪はゆるされた」と言われました。いずれも主イエスが主語であり、主イエスが語っておられます。主イエスはここではっきりと罪のゆるしの宣言をされました。この家の主人であるシモンではなく、この家に招かれた主イエスこそが、ここではシモンと罪ある婦人の主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる唯一の、まことの主なのです。

 いつの時点でこの婦人の罪がゆるされたのかという疑問は重要な意味を持ちません。主イエスがシモンの家におられることを彼女が知って、この家に入ってきた時か、主イエスのみ前に涙を流しながらひれ伏した時か、主イエスの足に香油を注いだ時か、あるいは「あなたの罪はゆるされた」と主イエスが宣言された時か、それらのいずれかを特定することは無意味ですし、するべきではありません。主イエスはいつの時点であっても、この婦人の救い主であられ、すべての人の罪をゆるす権威を持っておられる神のみ子だからです。主イエスがいます所にはいつでも罪のゆるしと救いがあるのです。

わたしたちがそのことを信じて、主イエスにすべてをお委ねする時、どのような状況にあっても、罪ゆるされ、救われた信仰者として、平安な道を進むことができるのです。「安心して行きなさい。あなたの道には主イエスが伴っておられます」。このみ言葉を聞きつつ、わたしたちも信仰の道を進むことがゆるされています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、迷いや罪の誘惑の中にあるわたしたちを憐れんでください。救ってください。主イエス・キリストと共に歩む平安へとお導きください。

〇深く病み、痛み、混乱しているこの世界を、主よ、どうか憐れんでください。あなたからの平和と義をお与えください。いやしと平安をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月20日説教「人類の罪のために十字架にかかられた主イエス」

2022年2月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教・『日本キリスト教会信仰の告白』講解⑩ (駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    コリントの信徒への手紙一1章18~25節

説教題:「人類の罪のため十字架にかかられた主イエス」

 『日本キリスト教会信仰の告白』を続けて学んでいます。きょうは、「人類の罪のため十字架にかかり」の後半、「十字架にかかり」の箇所について学びます。「十字架」という言葉は、ここと後半の『使徒信条』の中で、「ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」の2箇所で用いられています。言うまでもなく、両方とも意味上の主語は主イエス・キリストです。

 十字架はキリスト教やキリスト教会を指し示す代表的なシンボル・象徴、目印になっています。建物の屋根に十字架がついていれば、そこが教会堂だとだれにも分かるほどに、十字架=キリスト教ということが一般にも知れ渡っています。形としての十字架がキリスト教のシンボルであるという以上に、十字架はキリスト教の内容、教え、信仰、神学にとって重要な意味を持っています。十字架なしにはキリスト教について語りえません。

 使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18節で次のように語っています。【18節】(300ページ)。また、22節以下では、【22~24節】。それゆえに、2章2節では、【2節】。パウロがコリントの教会で語った福音、コリントだけでなく、全世界の町々の教会で語った福音は、主イエス・キリストの十字架の言葉、十字架につけられた主イエス・キリストでした。それ以外のことは、何も語らなかったとさえパウロは言います。今日の教会が語るべき言葉も、そしてわたしたちが聞くべき言葉も、それ以外ではありません。十字架の福音はわたしたちの信仰の中心です。

 十字架という言葉は、主イエスの実際のご受難の場面、主イエスが十字架につけられる場面で用いられているだけでなく、ほかにもさまざまな文脈の中で、さまざまな意味が付加されて、深く広い意味で数多く用いられており、新約聖書全体では80回ほどになります。

 十字架は古代社会では、死刑を執行する道具として、アッシリア、ペルシャ、エジプトなどで広く用いられていましたが、それがローマ帝国でも採用されました。主イエスはローマ帝国のユダヤ地方を治める総督ポンティオ・ピラトのもとで、ローマの法律によって裁かれ、十字架刑に処せられました。ユダヤ人は旧約聖書の時代から死刑判決は石打の刑でした。使徒言行録7章に書かれているように、キリスト教会最初の殉教者ステファノも石打の刑を受けました。

十字架刑は犯罪者を木の上にくくりつけ、民衆の前でさらし者にしながら、何日間も放置するので、イスラエルの律法では申命記21章22節以下などに書かれているように、それは主なる神から賜った嗣業である聖なる地を汚すことであり、また木にかけられた者は神から呪われた者となるために、イスラエルにおいては十字架刑は行われませんでした。では、なぜ主イエスは神に呪われたものである十字架刑で処刑されたのでしょうか。

 そのことを考える前に、「主イエス・キリストは人類の罪のため十字架にかかり」という信仰告白の文章そのものを読んで気づくことは、主イエスが十字架につけられたのは、ご自身の罪とか犯罪のためではなかった、人類の罪のためであったということです。人類が、すなわちすべての時代のすべての人間が神に対して罪を犯しているために、本来は罪を犯した人間が自ら神の裁きを受けて死刑を宣告されなければならなかったのに、いわばその身代わりとなってくださって、主イエスが人間たちのすべての罪を背負われて、神の裁きをご自身に受けられ、死刑の宣告を受けられ、十字架につけられたのだと告白されていることが分かります。

 ここには、罪の支払う報酬は死であるという聖書の根本的な考えが背後にあります。最初に神によって創造された人間アダムは、神の戒めに背いて罪を犯したために、死すべき者となりました。人間の死は、人間の罪に対する神の裁きであると聖書は言います。人間は生まれながらにして罪に傾いており、日々に神に背き、神から離れているゆえに、人間は日々に神の裁きによって死を宣告されなければならず、事実、神のみ前では日々に死んでおり、死ぬべき存在であると聖書は言います。そこで、旧約聖書時代のイスラエルにおいては、毎日エルサレム神殿で、罪のあがないのための動物の血がささげられていました。それによって、神の民イスラエルは神から与えられる罪のゆるしによって生きることができたのです。

 主イエスは、イスラエルの民だけでなく、全人類が罪のゆえに受けるべき神の裁きを代わってお受けになり、わたしたちすべての罪のゆるしのために十字架でご自身の罪も汚れもない尊い血を流され、その血によって全人類の罪をあがなってくださったのです。主イエスの死がなぜ十字架の死でなければならなかったのかについて、ガラテヤの信徒への手紙3章13節にはこのように書かれています。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われる』と書いてあるからです」。主イエスの十字架の死は、わたしたち人間の罪がいかに大きいかということ、それゆえに神の怒りと呪いとを受けなければならないということを明らかにしているのです。それはまた、神のみ子がわたしたちに代わってお受けくださった父なる神の厳しい裁きと呪いの大きさ、深刻さをも明らかにしています。

 主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、また父なる神に最も愛されている独り子であられたにもかかわらず、わたしたち人間のすべての罪をご自身が代わって背負ってくださり、わたしたちが受けるべき死の裁きをわたしたちに代わって受けてくださいました。しかも、神に呪われた者としての最も厳しい裁きを受けて十字架で死んでくださったのです。それは、イスラエルの民を律法の呪いからあがない出すためであり、すべての人間を罪の支配から解放するためであり、すべての人が主イエスを信じる信仰によって救われる道を切り開くためであったのです。これが、主イエス・キリストの十字架の死の第一の、中心的な意味です。

 ここでわたしたちは、きょうの説教の冒頭で少し触れたこと、『日本キリスト教会信仰の告白』の中で「十字架」という言葉が2回用いられているという点について改めて注意を向けて見たいと思います。そうすると、前文で告白されている「十字架にかかり」と後半の『使徒信条』の中の「十字架につけられ」には微妙な違いがあることに気づきます。「十字架にかかり」の主語は、「主は」と言われている主イエス・キリストであることはすぐに分かります。「十字架につけられ」の方は受動態ですから、十字架につけられたのは主イエス・キリストですが、だれがそれを行ったのかは、はっきりとは語られていません。「ポンティオ・ピラトのもとで」とその前にありますので、ピラトがローマ総督として、ローマの法律に従って裁き、判決を下したということなのか、けれども福音書の記述によれば、ピラト自身は主イエスに何の罪をも認めなかったので釈放しようとしたが、ユダヤ人民衆の「彼を十字架につけよ」との声に負けて、しぶしぶそれを許したということからすれば、主イエスを十字架につけたのは実質的にはユダヤ人、その指導者であった長老、祭司長、律法学者たちであったと言えるのかもしれません。

 しかし、聖書が意味上の主語を省略して受動態で表現するとき、その多くは神が隠された主語であるということを前にもお話ししましたが、この場合にも本来の主語は神であると考えるべきです。そうすると、『使徒信条』の方では、主イエス・キリストの十字架の死は本来神のみわざであり、神の救いのご計画の中にある神の行為であると告白されていることになります。それに対して、前文の方では、明らかに主イエスご自身が主語ですから、主イエスご自身が主導的に十字架への道を選ばれ、その道を進まれたということが告白されていることになります。

 実際に、聖書ではその両方が語られています。福音書によれば、主イエスは3度にわたって受難予告をされました。マルコによる福音書8章31節にはこのように書かれています。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」。主イエスの十字架の死はユダヤ人やローマ人、あるいはだれかの陰謀とか、誤った判断とかによって、人間の側の悪しき力が働いて起こったことなのではなく、もちろん人間のすべての罪と悪とがそこに集約されているのですが、それ以上に、そこには主イエスご自身の固い決意があるのです。主イエスは十字架の死への道をご自身で選び取られ、その道を進み行かれたのです。

 それはまた同時に、主イエスの父なる神への徹底的な服従の道でもありました。神は人間の罪を救うために、ご自身の最愛の独り子を十字架にささげられたのです。ヨハネによる福音書3章16節にあるように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この神の大いなる愛が、全人類を罪から救うのです。父なる神の救いのご計画とみ子主イエス・キリストの十字架への道は完全に一致して、わたしたちの救いを完成するのです。

 ペトロの手紙一2章22節以下にはこのように書かれています。「『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりませた。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなた方はいやされました。あなた方は羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。ここにも、義なる神の救いのみ心と、それに徹底して服従された主イエスのご受難と十字架の死ヘの道が、わたしたちの救いのためであったことが教えられています。

 ここにはまた、主イエスの十字架の死だけでなく、わたしたちの死についても語られています。わたしたちもまた主イエス・キリストと共に、十字架につけられ、罪に対して死ぬのだと言われています。主イエス・キリストの十字架の死は全人類の罪のため、全人類を罪から救うためであったとともに、否それ以上に、わたし自身のための十字架であり、わたし自身が十字架につけられて罪の自分に死ぬためのものであったと、ここでは教えられています。わたしもまた、信仰によって、主イエスと共に十字架につけられ、古い罪に支配されていたわたしが死ぬのです。それによって、罪の力はもはやわたしを支配することはなく、主イエスが十字架の死によって勝ち取ってくださった義が、信仰によってわたしの義となり、神は罪あるわたしを罪あるままで義と認めてくださり、わたしに無罪を宣告してくださるのです。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙6章で、主イエス・キリストの十字架の死と復活を、わたしたちが受ける洗礼との類比で語っています。最後に、ローマの信徒への手紙6章6節以下を読みましょう。【6~11節】(281ページ)。主イエス・キリストの十字架の福音を聞くことはわたしが死ぬことであり、またわたしが生きることでもあるのです。生きるにしても死ぬにしても、わたしは十字架の主イエス・キリストのものです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、またわたしたちが罪ゆるされた新しい命に生きるために三日目に復活された主イエス・キリストを常に仰ぎ見つつ、信仰の道を歩み続けることができますようにお導きください。あなたが終わりの日に授けてくださる勝利の冠を待ち望みつつ、喜びと希望をもって、信仰の道を前進させてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月13日説教「サラの死と埋葬」

2022年2月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記23章1~20節

    ヨハネによる福音書19章38~42節

説教題:「サラの死と埋葬」

 創世記23章には、アブラハムの妻サラの死と、彼が妻を葬るためにヘブロンの地にあるマクペラの畑と洞穴を購入したことが描かれています。

 まず、1~2節を読みましょう。【1~2節】。創世記12章から始まる族長アブラハムの物語の中で、サラの127年の生涯を簡単に振り返ってみましょう。アブラハムが75歳、サラが65歳の時、二人は神の約束のみ言葉に導かれ、故郷を出て、カナンの地へとやって来ました。神の約束のみ言葉は直接にはアブラハムに語られていましたが、その約束を担うのはサラも一緒でした。彼らが一緒に旅立ったのは、夫婦であったからという理由によるだけではなく、共に神の約束を担っていくためでした。神の約束はこうです。「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたから生まれる子孫を星の数、砂の数ほどに増やす。あなたはこれらの国民の祝福の基となる。そしてまた、わたしはこのカナンの地をあなたとあなたの子孫に永遠の嗣業として受け継がせる」。この神の約束は二人が一緒でなければ成就されません。この時から、アブラハムとサラは共に神の約束の成就を待ち望む夫婦として、一緒に信仰の道を歩んできました。

 そして、アブラハムが100歳、サラが90歳の時、人間的には子どもが授かる可能性は全くなくなってから、神の奇跡によって長男イサクが与えられました。イサクが3歳ころになって乳離れしたあと、21章9節でサラについての言及があってからは、彼女はしばらくの間舞台から消えていました。きょう朗読された23章1節で、彼女が127歳で地上の歩みを終えるまでの30年以上の間、聖書は彼女について語りません。アブラハムの子イサクを産んで、神の約束のみ言葉が成就したことで、彼女の務めが終わったからでしょうか。彼女のその後の30数年間は、いわば御用済みの年月だったのでしょうか。

 いや、そうではありません。神は彼女に対する約束を成就された後にも、なおもその約束の成就を超えて、それに増し加えるようにして、祝福された30数年間を彼女にお与えになられたのだと、わたしたとは理解すべきです。なぜならば、その空白の30数年間ののちの彼女の死にもまた、神の尊いみ心があり、神の約束のみ言葉の成就があるということを、わたしたちはこの23章から読み取ることができるからです。神は彼女の死に至るまでの全生涯を導かれ、祝福されました。いや、彼女の死をも超えて、救いのご計画をお進めくださったのだということを、わたしたちはここから教えられるのです。

 そのことを学ぶ前に、わたしたちはサラの死そのものに目を向けたいと思います。死はその人にとって地上の歩みの終わりです。それだけでなく、サラの死はアブラハムにとって夫婦の関係の終わりでもあります。一緒に困難な地上の旅路を、文字どおりの旅人、寄留者として歩み続けてきた二人の共同生活の終わりでもあります。それはまた、二人で神の約束を担ってきた信仰共同体であるアブラハムとサラとの別離の時でもあります。アブラハムはサラの死の意味の大きさを思い、胸を打ち、嘆き悲しみました。

すべての信仰者にとっても、愛する者の死は大きな悲しみであり、痛みです。それは、創世記3章に書かれているように、罪を犯して神に背いたアダムとその子孫であるすべての人が神から受けなければならない厳しい裁きだからです。創世記3章19節にこのように書かれています。「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返る時まで。お前がそこから取れれた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」。すべての人はこの死という神の裁きから逃れることはできません。信仰の父アブラハムもまたこの厳粛な事実の前で、泣き崩れるほかにありません。

 けれども、彼はいつまでも泣き崩れているのではありません。3節に、「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり」と書かれています。ここには、何か象徴的なというか、深い意味が含まれているように思われます。アブラハムは死とその悲しみの中から立ち上がります。死がどんなに冷酷であり、神の厳しい裁きであるとしても、アブラハムはその前で希望を失って、いつまでの嘆き悲しんでいるのではありません。死を恐れ、死の前で敗北してしまうのではありません。そこから立ち上がります。

死から新しい命を生み出される神が、ここで働いておられるのではないでしょうか。神がアブラハムに死の中から立ち上がる力と希望とをお与えになったのだと、わたしたちは大胆にそのように言ってもよいのではないでしょうか。アブラハムは、神がサラの死を超えてさらに救いのみわざを前進させてくださることを信じたのだと、大胆に推測してもよいのでないでしょうか。

神の約束を共に担ってきたアブラハムとサラにとって、サラの死がどのような意味を持つのかを考えてみると、そのように推測することが間違ってはいないことがより確かになると思われます。サラはすべての信仰の民の母であると17章16節で言われていました。アブラハムがすべての信仰者の信仰の父と言われるように、サラはのちの世のすべての信仰者の母です。なぜならば、サラはアブラハムと共に神の約束のみ言葉を担い、サラとアブラハムによって神の約束が成就されたからです。そのサラとアブラハムから生まれた子孫に神の祝福が受け継がれているからです。そのサラが死にました。では、サラの死によって、神の約束は無効になるのでしょうか。いやそうではありません。サラの死を超えて、神の約束は彼女の子孫に永遠に受け継がれていきます。神の祝福は信じる信仰の民に永遠に受け継がれていくのです。神は確かに死から新しい命を生み出される神であられます。

神の祝福がサラの死を超えて、サラの子孫に永遠に受け継がれていくだけではなく、神の約束の地もまた、サラの死を超えて、サラの子孫に永遠に受け継がれていくということを、わたしたちは続けて聞くことになるでしょう。アブラハムがサラの死の中から立ち上がって、ヘブロンの地に住むヘトの人々から、サラを葬るための墓として、その地の一角を購入したことによって、「わたしはこの地をあなたとあなたの子孫とに永遠の嗣業として受け継がせる」との神のもう一つ約束がここで成就されるということを、わたしたちはこのあとで聞くことになるのです。まだ、カナンの全地ではありませんが、ほんの一角ですが、アブラハムは神の約束の地を所有するようになるのです。妻サラの死によって、そのことが実現していくのです。

アブラハムが妻サラの墓を購入するためのヘトの人々との交渉は4~15節まで続いています。ここには、当時の土地売買の慣習があると言われています。土地を持たない、外国からの放浪の民である族長アブラハムが土地を手に入れることは、そんなに容易ではありません。土地の所有者とその地方の部族全体の承認を得なければなりません。またここには、土地を売る側と買う側の商売上の駆け引きがあり、両者のやり取りが生き生きとした会話として描かれています。

土地の所有者であるヘトの人々とその土地を実際に所有していたエフロンは、できるだけ高値で売ろうとしています。土地を買う側のアブラハムは、寄留者である自分には土地を所有する権利は全くありませんので、できるだけ頭を低くして、相手の機嫌を損なわないように、礼儀を尽くしつつ、エフロンが土地を売ってもよいと申し出るように、またエフロンの側からなるべく安い値をつけてくるのを待っています。

11節で、エフロンが自分の土地はただで差し上げますと言っているのは、本気でそう言っているのではなく、気前の良さを見せることによって、かえって相手に恩義を押し付けようとする当時の商売上の手法だと考えられています。エフロンはそう言いながら、最終的には銀400シェケルというかなりの高値でアブラハムに買わせることに成功しました。この交渉では、エフロンの方がアブラハムよりも上手だったと言えます。

次に、【16~20節】。ここには、アブラハムが妻サラを葬るために購入した墓の場所が「マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑とその洞穴」であったことと、その場所が正式な商取引によって、確かな法的手続きによって「アブラハムの所有」となったこととが、繰り返して語られています。また、19節では、その土地が「カナン地方」の地であり、神の約束の地であることが暗示されています。わたしたちはここで、確かに神の約束のみ言葉が成就していることを確認するのです。「わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える」(17章8節)との神の約束のみ言葉が、今ここで、アブラハムがサラの墓としてカナンの地の一角を所有したことによって成就したのです。まだ、ほんの成就の初めにすぎないけれども、確かな成就であるのをわたしたちは見るのです。

そして、その墓には、後になって25章9節に書かれているように、アブラハムもまた葬られ、35章29節ではアブラハムの子イサクが葬られ、49章31節ではイサクの妻リベカとヤコブの妻レアが葬られ、50章13節ではヤコブが葬られることになったのでした。

宗教改革者カルヴァンはこう言っています。「族長たち自身は無言になってしまったが、彼らが葬られた墓は声高く叫んでいる。約束の地を手に入れるのに、死は少しも妨げにならない」。わたしたちはさらにこう言ってよいでしょう。サラの死によってこそ、族長たちの死によってこそ、あるいは彼らの死を超えて、神の約束のみ言葉は成就するのだと。

ここでわたしたちは一人の人の死によって神の救いの約束が成就したということを強調して語るべきでしょう。神の約束は死によっても無効になることはありません。否むしろ、死を通してこそ神の約束は成就されていくのです。アブラハムはサラの死によって神の約束の地を受け継ぐ者となりました。神の約束は死を超えていきます。「わたしはあなたとあなたの子孫を永遠に祝福する。わたしたあなたとあなたの子孫とに約束の地を永遠に受け継がせる」。この神の約束のみ言葉は、サラの死を超えて、またアブラハムや他の族長たちの死を超えて、実現されていくのです。

そして、わたしたちは一人の人、主イエス・キリストの死と復活によって、すべての人のための救いが実現されたということを、最後に言わざるを得ません。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、信じるすべての人たちに神の祝福が与えられ、罪のゆるしと、来るべき神の国の世継ぎとされるとの約束が与えられていのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはみ子主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、全世界のすべての人たちのための救いを成就してくださいました。あなたの救いの恵みは、時を超え、場所を超え、この世のすべての山や谷を超えて、前進していきます。どうか、全世界のすべての人々があなたの救いの恵みに目が開かれ、その恵みにあずかることができますように。

〇憐れみに満ちておられる天の父よ、この世界を顧みてください。深く病んでいるこの世界、傷つき、痛みと困窮の中にある多くの人々を、どうかあなたが憐れんでくださり、救いといやしを、慰めと平安をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

2月6日「7人の食卓の奉仕者の選出」

2022年2月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:民数記27章15~23節

    使徒言行録6章1~7節

説教題:「7人の食卓の奉仕者の選出」

 紀元30年代、ペンテコステの日に誕生した初代エルサレム教会はユダヤ人からの2度の迫害を経験しながらも、むしろその迫害を教会のさらなる成長と発展の新しいエネルギーとしていきました。5章の終わりには驚くべきことが書かれていました。「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者とされたことを喜び」と41節に書かれています。彼らは迫害を喜んでさえいるのです。それゆえに、彼らは「イエスの名によって語ってはならない」(28節、40節参照)というユダヤ最高法院の命令に2度も逆らって、「毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせ」(42節)たのでした。

 6章からエルサレム教会の新しい展開が始まります。主イエス・キリストの福音がエルサレムのユダヤ人だけでなく、パレスチナ全域へ、さらにはユダヤ人以外の異邦人へと拡大されていく基礎ここでが築かれていきます。エルサレム教会内で起こった日々の分配の問題に対処するために選ばれた7人の奉仕者たちが、教会内の食卓の奉仕に当たるだけでなく、彼らの多くは教会の外へ出て、異邦人への宣教のための役割をも担うことになったということを、わたしたちはこれから知らされるのです。神は、教会の外からの迫害をもお用いになって、教会の成長・発展へとお導きくださいました。また、教会内の問題をもお用いになって、教会の福音宣教の働きをより拡大させてくださるということを、わたしたちは使徒言行録で何度も繰り返して教えられます。

 では、6章1節から読んでいきましょう。【1節】。エルサレム教会にはギリシャ語を話すユダヤ人とヘブライ語あるいはアラム語を話すユダヤ人とがいました。前者を一般にヘレニストと呼びます。彼らは離散していたユダヤ人・ディアスポラと言われ、世界各地に住み着き、当時の世界共通語であったギリシャ語を話していましたが、この時期にエルサレムに移住してきました。当時、ユダヤ人に間にメシア待望の信仰が強くなっていて、メシアがエルサレムに現れることを期待した人々が世界各地から移ってきました。それに対して、以前からエルサレムに住んでいたユダヤ人は、当時パレスチナで流通していたアラム語を話していました。その両者の間には多少の緊張感があったようでした。エルサレム教会ではもともとこの町に住んでいたユダヤ人が主流であったと思われますが、ギリシャ語を話すユダヤ人の側から、自分たちの未亡人が日々の分配で不利益を被っているとの申し出があったということです。

 前にも学びましたように、エルサレム教会では、教会員が所有していた財産を共有にして、必要に応じてそれを教会にささげ、みんなに分配するという財産共有生活をしていましたから、貧しい人たちや社会的立場の弱い人たちに対しては日々の食糧の分配など、特別の配慮が必要とされました。けれども、教会員の数が3千人から5千人、さらにそれ以上に増えていくにつれて、一人一人への食糧の配分が大変な労苦になり、不公平が生じるようになったと思われます。

 そこで、この問題を解決するために教会の指導者であった12使徒たちが、教会員のすべてを招集して教会の会議を開催することになりました。【2~4節】。ここには、のちの世界の教会が取り入れたいくつかの制度の手本があります。その一つは、これがエルサレム教会で開催された最初の教会会議であったということです。わたしたちの教会の制度から言えば、教会総会と言ってよいかもしれません。初代教会は、教会内の諸問題を解決するために、あるいは教会の宣教活動を進めていくために、会議を開き、教会の指導者と教会員との話し合いと合意を大切にしたということを、わたしたちはここから教えられます。一部の指導者たちが、上からの権威によって事を決めるのではなく、教会員みんなの話し合いと合意によって、教会会議によって、教会の運営を行っていくという形式は、今日のわたしたちの教会にも受け継がれていると言えます。

 ここから教えられる第二の点は、教会の会議で代表者が選ばれ、その人たちに教会の務めが委託されるということです。実は、すでに12人の弟子たち、使徒たちも、以前は主イエスによって選ばれ、1章ではユダに代わる使徒が選挙で選ばれています。教会会議で教会の務めに当たる代表者が選ばれ、そこで選出された人たちにその務めを委ねるという形式も、わたしたち長老主義教会の在り方とよく似ています。似ているというよりは、わたしたちの長老制度がエルサレム初代教会を手本にしていると言うべきですが、この点において、わたしたちの教会は監督制度の教会や会衆派の教会とは違って、より初代教会に近いと考えています。

 宗教改革の時代にはこれを万人祭司と呼びました。聖職者とか監督という一部の指導者だけで教会を運営するのではなく、すべての教会員、信徒たち一人一人が教会の頭なる主イエス・キリストにお仕えする祭司となって、主キリストの体なる教会を建てていくために自分自身をささげて奉仕をする、それが長老主義教会の特徴です。

 ここから教えられる第三の点は、教会の務めの多様性ということです。すでに選ばれていた12人の使徒たちは「祈りとみ言葉の奉仕」がその務めでした。今回選ばれた7人は「食卓の世話をする」のが務めです。教会員が増えるにつれて、教会内の務め、働きも増してくるとともに、多方面での奉仕、働きが求められ、また可能になってきます。しかしそれは、務めの違いであって、何らかの上下関係ではありません。教会内の多様な務めは、すべて主キリストの体である教会を建てていくために仕えるのです。主キリストの体の成長のためになくてならない大切な務めです。

 したがって、食卓の世話をする務めだから、信仰の質とかは問題にならないということではなく、3節に書かれているように、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」でなければなりません。教会の務めは、み言葉の奉仕者であれ食卓の奉仕者であれ、その他どんな務めであっても、すべては聖霊なる神から与えられる霊の賜物を用いてなされるのであり、聖霊なる神のお導きにより、天の神からの知恵によってなされる務めです。そしてまた、選ばれる人は、教会全体の中で信望が厚く、信頼されている人であることが求められます。すべての務めは主イエス・キリストのみ名のために、主のみ名によってなされる奉仕であるゆえに、だれも主のみ名を汚すようなことがあってはなりません。すべてが主のみ名の栄光のために、主のお体を建てるためになされる務めなのです。それゆえにまた、すべての務めは誉れあり、尊い務めなのです。

 もう一つここで注目すべきは、7人の奉仕者は選挙で選ばれたらしいということです。どのような選挙かははっきりと書かれていませんが、教会員全員の意志と賛同によって選ばれたことは確かです。指導者たちの親戚とか知り合いが選ばれたのでななく、経済力や社会的地位を基準にして選ばれたのでもありません。したがって、選ばれた人は何らかの権力を行使するとか、自分自身の誉れを求めてその務めに就くのでもありません。教会全体のために仕え、教会の頭である主イエス・キリストの栄光のために、仕えるのです。

 ところで、この時選ばれた7人が具体的にどのような働きをなしたのかについては、使徒言行録には書かれていません。教会の伝統的な理解では、ここで選ばれたのは今日の執事に当たると考えられてきましたが、実際には少し違っているように思われます。5節に挙げられている最初の人、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」は、8節以下に記されている内容から判断するならば、彼は使徒たちと同じようにみ言葉の説教者であり、伝道者として働いていたと思われます。7章には、彼が迫害を受け、ユダヤ最高法院で行った長い説教が記録されています。そして、彼は7章の終わりで、教会の最初の殉教者となりました。

 次のフィリポは8章5節以下に書かれているように、サマリア地方で主イエスの福音を宣べ伝えました。彼はまた21章8節以下では、「例の七人の一人である福音宣教者フィリポ」と呼ばれ、パレスチナの地中海沿岸の町カイザリアに移り住み、その町でパウロと一緒に宣教活動をしています。他の人についてはこの個所以外には記録が残っていませんが、彼らの名前はみなギリシャ名であり、いわゆるヘレニストであり、ギリシャ語を語るユダヤ人であったと思われ、ほかの人たちも、ステファノやフィリポと同じように、異邦人伝道のために仕えたという可能性が大いにあります。

 以上のことから推測すると、ここで選ばれた7人の務めは、エルサレム教会内で日々の配給や食卓の世話をする執事というよりは、説教者、伝道者であったと考えられます。8章1節に、エルサレム教会に対しての大迫害によって使徒たちのほか主だった人たちがエルサレムから追放されたことが報告されていますが、その時に、ここで選ばれた7人もパレスチナ全域に散らされたために、本来は執事として選出されたけれども、結果的に宣教活動へと変えられていったのかもしれません。

 いずれにしても、エルサレム教会の食卓の問題や大迫害という不幸ともいえる事件をきっかけにして、主イエスの福音がエルサレムの外へ、パレスチナ全域へ、そして異邦人へ、そして全世界へと拡大していくことになったのでした。わたしたちはここでも神がなせるみわざの不思議を思わざるを得ません。神のみ言葉、主イエス・キリストの福音の命と力の大きさを改めて教えられます。神のみ言葉はこの世の鎖によっては決して繋がれることはありません。

 そのことは7節にはっきりと語られています。【7節】。特にここでは、「祭司も大勢この信仰に入った」と書かれたいます。祭司の多くはユダヤ教サドカイ派に属し、彼らは復活を否定していました。最初の迫害がこのサドカイ派の訴えがきっかけだったことを4章の初めで聞きました。ペトロたちが主イエスの復活を語っていることに腹を立てて、彼らはペトロとヨハネを捕えて獄に入れました。その最初の迫害の先頭に立っていた彼らの多くが、今や主イエスを信じ、主イエスの十字架と復活による罪のゆるしと永遠の命を信じて、キリスト者となったというのです。それはまさに神の奇跡です。神のみ言葉の勝利です。

 わたしたちもまた、今日、多くの人たちがキリスト教に対して無関心であり、主イエス・キリストの十字架と復活を信じようとはせず、罪に支配されているこの時代にあって、しかし希望を失うことなく、神のみ言葉の勝利を信じて、福音宣教の務めを果たしていきたと、決意を新たにしたいと思います。神のみ言葉はいかなるものによっても決して繋がれることはないと信じて。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたのみ言葉は無から有を呼び出だし、死から命を生み出す全能の力を持っていることを信じます。どうか、あなたのみ言葉によって、暗い世界を明るく照らしてください。深く病み、傷ついている世界をいやしてください。争いのあるところに平和を与えてください。孤独と絶望があるところに愛と希望をお与えください。罪と死と滅びに支配されている人たちに主イエス・キリストにある罪のゆるしと朽ちることのない永遠の命をお与えください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメ