9月29日(日)説教「主キリストにある生と死」

2019年9月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    フィリピの信徒への手紙1章19~26節

説教題:「主キリストにある生と死」

 パウロの「獄中書簡」また「喜びの書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいますが、1章18節に「喜ぶ」という言葉が2度用いられています。この二つの「喜ぶ」という動詞は日本語の翻訳でははっきりしませんが、文法的に言えば、前の喜ぶは現在形で、今喜んでいるという意味で、後の方は未来形で、これからもずっと喜び続けるであろうという意味です。4節で最初に出てきた「喜び」は名詞形ですが、「いつも喜びをもって祈っている」と言われています。

これらの3つの「喜ぶ、喜び」の言葉の用い方からも推測できるように、パウロがこの手紙で語っている喜びは、わたしたちが日常で感じる喜びとは何か違う、特別な喜びであるように思われます。パウロの喜びは、いつでも、どのようなときでも、変わることのない喜びであり、今がどのように困難であれ、これからどんな困難が予想されるとしても、それでもなおも決して変わらない喜びなのです。つまり、パウロの周囲を取り巻いている現実やパウロ自身の現実には全く左右されない喜びなのです。その喜びは、わたしたちがすでに聞いてきたように、この地上でわたしたちが経験したり見たり聞いたりしている喜びではなく、天から、天の父なる神から与えられる喜びなのであり、したがってその喜びは、地上のいかなるものによっても変化したり消えたりすることがない永遠の喜びなのです。

そのようなパウロの特別な喜びを、きょうの礼拝で朗読された19節以下のみ言葉からも、わたしたちは聞くことができます。18節の前の方の今喜んでいることの内容は、18節までに書かれていたことを指し、後の方のこれからも喜ぶであろうと言われていることの内容は19節以下で書かれていることを指すと考えられます。

そのような理解から、ある翻訳では、18節の最後の文章「これからも喜びます」、直訳すると「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」となりますが、ここから新しい段落にしているものがあります。ちなみに、今日の聖書につけられている章や節の区分、段落などは、最終的には宗教改革時代に定着しましたが、元来のヘブライ語とギリシャ語の原典にはそれらはありませんでした。日本語訳の口語訳聖書でも新共同訳聖書でも18節のところに段落はつけていませんが、英語やその他の翻訳では、「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう。というのは……」から新しい段落が始まるようにしているものがいくつかあります。

では、前の方の、今喜んでいることの内容を、前回学んだ箇所ですが、それをもう一度確認しておきましょう。一つは、パウロが迫害を受けて捕らえられ、公の裁判が開かれることになり、パウロが証言台に立つことによって、その町の役人たちや市民たちの多くが、主キリストの福音について聞く機会が与えられた、そのことをパウロは喜んでいるというのです。第二には、パウロが獄に拘束されるようになったために、他の伝道者の中には、自分たちの伝道の機会と範囲がより広げられるチャンスだと考え、パウロに対する競争心をより強くしている人もいるが、パウロはそのことをも喜ぶと言います。いずれの場合も、パウロ自身にとっては、とても喜びであるはずのないことが、しかしそれにもかかわらず、主キリストの福音の前進になっているのだから、わたしは喜んでいる、とパウロは言うのです。パウロの喜びは、彼自身が今経験している迫害、束縛、苦難、恐れ、不安、彼に対する妬みや敵対心、それらのすべてを超えて、それらのすべてを貫いて、彼を喜びで満たしています。それが、天の神から与えられている主イエス・キリストの福音からくる喜びなのです。

次に、後の方の「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」の内容は、19節の「というのは」以下によって説明されています。ここには、これから将来にわたってもパウロが喜び続けることの理由が書かれています。その理由は、「このことがわたしの救いになる」からです。このこととは、パウロの投獄が予想に反して福音の前進になったということ、それがパウロ自身の救いになるからだというのです。パウロの投獄と福音の前進、それが彼自身の救いになることとはどのように結びつくのでしょうか。

そのことを考えるうえで重要なポイントは、「あなたがたの祈り」です。フィリピ教会は獄中のパウロのために熱心に祈り、また支援の物資を送り届けるために教会員のエパフロディトを派遣しました。パウロもまたフィリピ教会のためにいつも祈っていることが4節と9節に書かれていました。パウロとフィリピ教会とは祈りによって固く結ばれています。そこには聖霊なる神が働くからです。キリスト者の祈りには聖霊なる神が執り成してくださり、祈りの霊と祈りの言葉とを授け、祈りが確かに聞かれるという確信をお与えくださり、さらには祈りによる交わりを与え、時と場所を超えて祈る群れを一つに結びつけてくださいます。獄中にあるパウロとフィリピの町にある教会とが祈りによって一つに結び合わされ、それによってフィリピ教会はパウロの福音宣教の働きに具体的に参加しているのです。福音宣教によって迫害され、獄につながれ、この世の悪しき勢力と信仰の戦いをしているパウロの戦いに、フィリピ教会も共に祈りによって参戦しているのです。ある人は、「祈りは、使徒パウロと教会との共同戦線である」と言っています。パウロは30節でこのように言います。【30節】。

そして、そのことこそが、パウロ自身の救いになるのだと彼は言うのです。この世の悪しき力や迫害や試練によっても、主キリストの福音は決して後退せず、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれず、それゆえに主キリストの教会もまた迫害や試練を乗り越えて前進していく希望が与えられている。そのことを、パウロとフィリピ教会との祈りによる共同の戦いによって証ししている。それによって、獄中のパウロの信仰はいよいよ強められ、救いの確信が与えられている。多くの教会とキリスト者にとっても、福音の前進のときとなり、福音宣教の機会となる。だから、わたしはこれからもずっと喜び続けるのだとパウロの言うのです。たとえ、この後の判決で死刑を言い渡されることになろうとも、わたしはそれを喜ぶであろうとパウロの言うのです。

【20節】。「恥をかかず」とは、神のみ前でという意味です。主キリストの僕として、証し人として、その務めを果たし得ないで、神からの恥を受け、神に裁かれ、見捨てられることが決してないようにというのが、パウロの切なる願いだというのです。もし、神のみ前で恥を受けるのならば、この世でどれほどの誉れを受けても、それが何になるでしょうか。しかしもし、人間から受ける恥を恐れて主の証し人であることをためらうならば、神からの恥を受けなければならないでしょう。わたしたちが神からの恥を受けないことを願うならば、すなわちどのようなときにも神のみ言葉の証人として語り続けるならば、人間のどのような辱めの中でも、固く立って倒れることなく、喜び続けることができるでしょう。

さらに20節の後半では、より積極的に自分の生と死、生きることと死ぬこととを通して、主キリストが崇められることこそがわたしの唯一の願いであり、希望であると言います。パウロは今生と死の瀬戸際にいます。どんな人間にとっても、生きるか死ぬかという分岐点に立たされるということは、重大で深刻な事態であることは言うまでもありません。ある人は生きることをすべてに優先させて考えます。そして、自分が生きるために、かなりのことをすることができます。人はまたある時には、生きることよりも死ぬことに意味を見いだすこともあります。彼にとって死はおそらくは何の価値もないに違いないのに、それでも生きるよりは死ぬ方がまだましだと思えるから、彼は生きることを捨てて死ぬことを選びます。かつて、生と死とを真剣に考えた劇中の人物は「生きるべきか、それとも死ぬべきか、それが問題だ」と叫びました。

しかしながら、パウロにとっての生か死かは、彼自身のための選択なのではありません。彼自身の価値判断とか、彼自身の願いとか、彼自身の利益のための選択なのではありません。彼の生と死によって主キリストが崇められること、そのことだけがパウロの切なる願いであり希望なのです。パウロの生死は、もはやここでは重要ではありません。主キリストが崇められるということの中では、彼の生死の問題はどちらでも構わない小さなことになっています。パウロが死の判決を受けて死ぬことになろうとも、あるいは無罪放免になってさらに宣教活動を続けることになろうとも、そのどちらであっても、彼にとってはどちらでも構わない。そこで主キリストのみ名が崇められ、主キリストの福音が前進すること、それがパウロにとっての最大の関心事であり、目指すべき目標なのです。

人がもし自分の名誉を守ることとか自分の正義のためとかを第一に考えている場合には、彼の生死を天秤にかけて、どちらを選ぶべきか迷うでしょう。しかし、パウロにとっては、彼の生死の二つを一緒にしても、それよりもさらに重いものがあると告白しています。それが主キリストです。パウロの生死がそれよりもはるかに大きく重い主キリストの中に包み込まれていることを、彼は知っています。だから、パウロは生きることからも死ぬことからも自由にされています。生きることへの執着からくる人間の欲望から、生きるつらさや苦しみからも、そして死の恐怖からも、生きることに絶望して死を選ぶ誘惑からも、自由にされています。主キリストにある信仰者の生と死は、人間を本当の意味で自由にするのです。

ただし、主キリストにある生と死は、どちらも意味がないから、どちらでも構わないということではありません。その逆であって、人が主キリストにあって生きることと死ぬことから自由にされたときには、その両方が共に、それまでとは違った、より積極的で大きな意味をもってくるようになります。

【21~26節】。パウロはここで生と死の二つの道のどちらを選ぶべきか迷っています。しかしそれは、どちらが自分にとって好ましいか好ましくないかということを問題にしているのではなく、またどちらも意味がないからというのでもなく、そのどちらもが有益であり、望ましい道だからです。パウロのこの迷いは、生と死のはざまに立たされている人の不安や恐れや思い煩いによる迷いではなく、喜びながらの、主キリストにある信仰者の迷いです。このような両方が共に望ましい二つの道の板挟みや迷いならば、わたしたちもぜひとも経験したいものです。

パウロは23節で、わずかに彼自身の願いを言います。彼にとっての死は、最後の終わりでも敗北でもなく、主キリストと永遠に共にいることであり、その方を望んでいると言います。たとえ獄中で殉教の死を迎えることになっても、それは彼にとって少しも恐怖ではなく、むしろ望ましいと言います。死は彼を支配していません。死は主キリストの復活によって勝利に飲み込まれてしまったからです。主キリストによって死のとげは抜かれてしまったからです。主キリストにある死は、勝利への入り口だからです。

でも、24節以下でパウロは肉のうちにとどまり、生きながらえることもまた、あなたがたのためにはもっと必要だとも言います。24節以下では、「あなたがた」という言葉が繰り返されています。パウロが自分のためにこの道を選ぶのではありません。わたしのための生ではなく、わたしのために生きるのではなく、あなたがたのために生きる生、命がここにあるのです。

主キリストにある死を信じる信仰者には、そして死の恐れや不安から解放されている人には、新しい積極的な生の道が開かれます。「生きているのはもはやわたしではない。主キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)という生があります。主キリストがわたしたちのためにお生まれになり、わたしたちのために生きられ、わたしたちのために十字架で死なれ、そしてわたしたちのために復活されたゆえに、わたしはこのよみがえられた主キリストのために生き、主キリストによって生かされている他者のために生きるという、新しい生を与えられているのです。

(祈り)

9月22日(日)説教「第七日の安息」

2019年9月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章1~3節

    マタイによる福音書12章9~14節

説教題:「第七日の安息」

 神の天地創造のみわざは、第六日目の人間創造を最後に、完了しました。1章31節にこう書かれています。【31節】。これまでにも、一日の創造のみわざの終わりに、「神はこれを見て、良しとされた」と繰り返されてきましたが、ここでは「見よ、極めて良かった」と言われています。「見よ」とは、注意をうながしたり強調したりするときに用いられる言葉です。「極めて」も強調していますから、二重に強調されていることになります。

 神が創造されたすべてのものは、第一日目の光から第六日目の人間に至るまで、そのすべてが神のみ心に適い、神の良き創造のみわざであり、しかも創られたもの全体としても、構造や秩序、調和、互いの関係、あらゆる点において完璧であり、美しく、何一つとして欠点なく、不足もなく、汚れや歪み、悪もなく、「極めて良かった」と聖書は語っています。

 聖書がそのことを強調する理由は何でしょうか。また、わたしたちがそのことを信じる意義はどこにあるのでしょうか。それは、3章で人間の堕落、罪について語っている箇所でより明らかになるのですが、ここでいくつかのことを挙げておきましょう。第一に重要な点は、神は全能の神であられ、全く善であり完全であり、神には汚れとか悪とか欠点や不足というものが全くないということをわたしたちが信じるためです。したがって、神の創造のみわざはもちろん、神がなさるすべてのみわざは良きものであり、少しの欠点も不足もないということを、わたしたちが信じるためです。

 第二には、しかしながら現実にわたしたちが見たり経験したりしている現実世界では、さまざまな混乱や破れ、悪や罪があふれているとするならば、それは神以外のところから出てきたのであり、まさに人間の罪に起因しているのだということをわたしたちが知り、認め、その罪を神のみ前に告白して、悔い改め、神のゆるしを願い求める者となるためです。

 第三には、すべての被造物の頭として創造され、神のかたちに似せて創造された人間が、神から託された他の被造物を治める務めを忠実に果たすためです。この被造世界、自然、地球、宇宙全体の混乱や破壊、破れに対して、責任を自覚しつつ、神が創造された良き世界を回復するために、世界の平和を創り出し、社会秩序を正しく維持し、自然環境を守るという務めを果たすことがわたしたち人間に求められています。

 そして第四に、神が創造された良き世界を、神は終わりの日に必ずや完成させてくださることを信じ、神の国を待ち望む信仰を持ち続けるためです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった」。

 2章1節からは、第七日目について語られます。【1~3節】。ここでまず確認しておくべきことは、第七日目にも神が主語となられ、ただ神だけが行動されるということです。2節に「神は」「神は」と2度繰り返され、3節でも「神は」「神は」とあり、すべて神が主語の文章です。被造物である人間も他の生き物も、ここではまだ全く姿を現していません。何の活動もしていません。これまでの六日間にも、すべて神が主語となって、神がみ言葉をお語りになってすべてのものを創造されましたが、この第七日目にも、神が主語となられ、神が創られたすべてのものを支配しておられます。このことは、このあとで安息日について考える際に重要な意味を持ってきます。

 もう一つここで確認しておくべきことは、神の創造のみわざは第七日目で完成されるということです。1節に「完成された」とあり、2節でも「神はご自分の仕事を完成された」と書かれています。神の創造のみわざは、第七日目に神が創造のみわざを終えて休まれたことによって、またこの日を祝福され、聖別されたことによって、完成されたのです。つまり、6日間にわたって創造されたものがすべてそろって、そこに存在していたとしても、それで終わりではなく、まだ完成ではなく、神が第七日目に創造のわざを終えて休息され、その日を神の特別な日として祝福され、聖別されることによって、そのようにして初めて神の創造のみわざは完成されるのだということです。このこともまた、わたしたちが安息日の意味を考える際に深い意味を持ってきます。

 さらにもう一つのことを確認しておきたいと思います。それは、神の創造のみわざは完成したということです。1節と2節に2度「完成された」と繰り返されているように、神の創造のみわざは未完成ではなく、途中で終わったのでもなく、神がご計画なさったように、その最終目的に達したということです。神の創造のみわざは他の何かによって補われなければならないのではありません。神の創造のみわざが未熟なために、この世界に欠けや不足や歪みがあるのでもありません。1章31節でも言われていたように、神の創造のみわざは第一日目の光から始まって第六日目の人間に至るまで、すべてが神のみ心に適い、神のご栄光を現すものとして完成されているのです。

 以上3つの点をあらかじめ確認したうえで、第七日目の中心的な意味について学んでいきましょう。神は第七日目に、すべての創造のわざを終えて休まれました。2節でも3節でも「安息された」と翻訳されているように、この言葉は単に疲れたから休むとか、仕事を終えて息抜きをするという意味ではありません。わたしたちがあらかじめ確認してきたように、神はこの日、第七日目に安息されることによって、ご自身の創造のみわざを完成されたのです。ある意味では、神はこの第七日目にこそ、最も力強くみわざをなさるのです。そのみわざは「祝福する」と「聖別する」です。

 「祝福する」という言葉は1章22節と28節にもありました。22節では、空と地と海の生き物たちの命の繁殖に対して神の祝福が与えられていました。28節では、人間の命が増え広がることに対して、神の祝福が与えられていました。いずれも、神から与えられた命が満ち溢れることが神の祝福です。そこには神の特別な喜びがあり、愛があり、神から与えられた力があり、満ち足りた平安があります。神によって創造された命は、この第七日目の安息日に、神の祝福を与えられて最終的に完成するのです。命あるものは、この神の祝福なしにはその命を長らえることはできませんし、命を次の世代に受け継ぐこともできません。安息日はこの神の祝福が特別に満ち溢れる日です。

 のちの時代に、イスラエルの民は家の長男が家督権とともにこの神の祝福を受け継ぐと考えました。族長アブラハムの祝福がその子イサクに受け継がれ、イサクの祝福がその子ヤコブに受け継がれ、ヤコブの祝福がイスラエルの民へと受け継がれていきました。そして、イスラエルの民の中からお生まれになった主イエス・キリストによって、今日のすべての教会の民へと神の祝福は受け継がれています。わたしたちは安息日ごとの礼拝でその祝福を受け取るのです。

 安息日の神のみわざのもう一つは「聖別する」です。聖別とは、他のものから区別して、神にささげられるために、神のために取り分けることを言います。この第七日目は、神のための日であり、神に属する日であり、神にささげられる日だということです。この第七日目の聖別によって、それまでに創造されたすべての被造物が、いま改めて神に属するもの、神にささげられたものとされました。すべての被造物は神のために存在し、すべての命は神のために生きるのです。これによって、神の創造のみわざは最終的に完成しました。

 のちの時代、紀元前13世紀ころ、エジプトの奴隷の家から神によって導き出されたイスラエルの民はシナイ山で神と契約を結び、神の民とされたとき、神はこの第七日目をイスラエルの安息日と定められました。出エジプト記20章8節以下に記されている十戒の第三戒で、神はこのように命じられました。【8~11節】(126ページ)。10節には「主の安息日であるから」と言われています。安息日はイスラエルの民のために定められたのですが、本来は主なる神の安息日であるということがここでも忘れられていません。主なる神がこの日に主語となられ、主なる神がこの日に創造のみわざを完成され、主なる神がこの日を祝福され、聖別されるのです。主なる神がこの日に造られたすべての被造物をみ手に治め、ご支配され、命をお与えになるのです。契約の民イスラエルはこの神の安息へと招かれています。

 今日のわたしたちにとっての安息日も同様です。旧約の民イスラエルにとっての安息日は第七日目、土曜日でしたが、新しい契約の民、教会にとっての安息日は、主イエス・キリストが週の初めの日の日曜日に墓から復活されたことを記念して日曜日が新しい安息日となりましたが、この日が神ご自身の安息日であり、神のための日であり、神にささげられるべき日であるという意味はそのまま受け継がれています。日曜日はわたしたち人間が自由に用いてよい人間のための安息日なのではありません。週日に働いて、日曜日に疲れた体を休めるとか、自分の自由な時間として用いるということではありません。そこには造り主なる神はおられません。そこには祝福はありません。まことの命はありません。

 安息日は何よりの第一に主なる神のための安息日です。主なる神が安息日に人間をも含めたすべての被造物の主となられるのです。マタイによる福音書12章8節で、主イエスは「人の子は安息日の主である」と言われました。そして、続く9節以下では、主イエスは安息日の主として、病める人をいやされ、罪びとたちの罪をゆるされました。主イエスは安息日にこそわたしたち人間のために働かれます。人の子としてこの世においでになった神のみ子、主イエス・キリストこそが、安息日の主として、この日に礼拝に集められているわたしたち一人一人のために、救いのみわざと新しい創造のみわざをなしてくださいます。神の創造のみ心に背き、罪の中で死と滅びとに支配されていたわたしたちを、ご自身の汚れのない聖なる十字架の血によって罪から贖い、新しい復活の命を注ぎ込んでくださる主イエス・キリストが、わたしたちにとっての安息日の主です。

 初代教会は、十字架につけられた主イエスが週の初めの日、日曜日の朝に復活され、弟子たちに復活のお姿を現され、また次の日曜日にも弟子たちに現れてくださったという経験から、旧約聖書時代の安息日であった土曜日から日曜日に安息日を変更し、この日に礼拝をささげるようになりました。復活され、罪と死とに勝利された主イエスは、今もみ言葉と聖霊とによってわたしたちの安息日の礼拝で、わたしたちに出会ってくださいます。

 主の日ごとの安息日の礼拝は、さらに、終わりの日の永遠の安息日を目指しています。終わりの日には、わたしたちは何の妨げもなく、主なる神と永遠に共にいることがゆるされます。もはや、死もなく、悲しみも痛みも叫びもない新しい天と地とが創造されます。そのとき、永遠の安息がわたしたちに与えられるのです。

(祈り)

9月15日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネの誕生と救い主、主イエスの誕生とを互いに関連づけながら語っています。きょうもそのことに注目しながら、30節以下のみ言葉を学んでいきたいと思います。【30~31節】。これは、ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生予告の13節に対応しています。【13節】。いずれも、神の奇跡によって、神の大きな恵みによって、子どもが与えられるはずがない二人の婦人から、男の子が生まれると予告され、またその子の名前があらかじめ告げられます。

 当時の習慣によれば、生まれて8日目に、男子であれば割礼の儀式を行い、父親が名前を付けます。ところが、この二人の場合にはそうではありません。生まれる前に神によってすでにその名前が決められているのです。親は、この子が将来このような人間に成長してほしいという願いを込めて子どもに名をつけます。それと同じように、否それ以上に、ここには名づけ親であられる主なる神の強い意志と深いみ心が示されているのです。イエスという名は、「神は救いである」という意味です。神は、ご自身がイエス「神は救いである」と名づけられたご自身の独り子によって、実際に全人類を、わたしたちすべての人間を、罪と死と滅びから救い出されるというみわざを成就し、完成してくださるのです。わたしたちがこの救い主、主イエスのお名前を信じ告白するならば、この主こそがわたしの唯一の、永遠の救い主であると信じ告白するならば、わたしたち一人ひとりにも神の強い意志と深いみ心が働き、神の救いのみわざがわたしにとって現実となり、成就するのです。

 32、33節では、主イエスがどのような方であるのかが語られています。【32~33節】。この個所も15~17節と対応しています。洗礼者ヨハネの場合には、彼の先駆者としての役割、すなわち彼の後に来られるメシア・救い主のために道を整え、人々を救い主を迎えるために準備させるという役割でしたが、主イエスの場合は、彼こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就し、完成されるということが強調されています。

 「いと高き方」とは神のことです。つまり、主イエスが神のみ子であると言われています。洗礼者ヨハネは「神のみ前に偉大な人」となると15節にありましたが、主イエスは神のみ子です。ヨハネは最も近くで来るべきメシアを預言し、証ししているゆえに人間の中で最も偉大な人ですが、彼は人間です。メシア・救い主ではありません。ヨハネはただひたすらに来るべきメシア・救い主を証し、このメシアのためにお仕えすることによって、彼に神から託された尊い務めを果たすことができるのです。彼はのちに、3章16節でこのように告白しています。【3章15~16節】(106ページ)。

 主イエスは神のみ子であり、神の独り子であり、その務めは、父ダビデの王座を受け継ぎ、その王国を永遠に支配するであろうと言われています。これは、主イエスこそが旧約聖書全体が預言しているメシア・救い主であり、イスラエルの民が待ち望んでいた永遠なる神の国の王であるということです。地上の王国を支配する王は、どれほどに偉大であっても、永遠であることはできません。地上の王国には終わりがあります。けれども、神の国の王である主イエスのご支配は永遠に続きます。主イエスは罪と死とに勝利する王だからです。復活して永遠の命に生きておられる王だからです。主イエスは永遠なる神の国で、神の民のために愛と救いの恵みとをもってお仕えくださり、またその民を治められます。地上の王たちは権力や武力によって民を治め、支配し、民によって仕えられることを喜びとします。けれども、神の国の王であられる主イエスは、民のためにお仕えくださることを喜びとされ、民のためにご自身の命を十字架におささげくださるほどに、ご自身の民を愛される王です。権力や武力によって支配する王国はやがて倒れます。けれども、愛によって互いに仕え合う王国は豊かに祝福され、永遠に続きます。主イエスはこのような永遠なる神の国を完成される王としてこの世においでになったのです。

 「神は彼に父ダビデの王座をくださる」と書かれているのは、いわゆる「ダビデ契約」の成就です。サムエル記下7章12~13節を読んでみましょう。【12~13節】(旧約聖書490ページ)。これが預言者ナタンによって語られた「ダビデ契約」と言われる神の契約です。旧約聖書の民イスラエルはこの神の約束を信じて、やがてダビデ王家から永遠の王であるメシア・油注がれた王・キリストが出現することを待ち望んでいました。今や、その約束の成就のときが来たのです。

 主イエスがダビデ王家に連なるダビデの子孫であるということは、母親のマリアの側から確認することはできません。36節によれば、マリアは洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの妻エリサベトと親類関係にあったと書かれていますので、もしかしたらマリアも祭司家系に属していたということが考えられますが、ダビデの家系だとは言われていません。主イエスの父ヨセフは27節でダビデ家に属すると書かれていますし、3章23節以下の系図でもそうなっています。また、マタイ福音書1章の系図でもヨセフはダビデの家系に連なっています。主イエスは父ヨセフによってダビデ家に連なっているということは確認できますが、しかし、ヨセフは主イエスの誕生には人間として全く関与していませんから、つまり主イエスはマリアがまだヨセフと一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもったのですから、厳密に言えば、人間的な血縁関係としてはダビデの家系に連なっているとは言えないことになります。

 そうであるとしても、主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになったと聖書は告白しています。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」とパウロは書いています。神はこのようにして、ご自身の永遠の救いのみわざを、人間の思いや肉のつながりをはるかに超えて、しかもそれをお用いになって、不思議な仕方で、実現されたのです。

 神の救いのみわざの不思議さは、ダビデ契約の実現の過程にも見ることができます。神がダビデ王とこの契約を結ばれたのは紀元前10世紀の前半、主イエス誕生のおよそ1000年前でした。しかも、ダビデ王家は紀元前587年のエルサレム滅亡で完全に途絶えてしまいました。神は切り倒され、ほとんど死にかけていたダビデの木の切り株から、奇跡によって、新しい芽を生え出させるようにして、その契約を成就されました。主イエスの誕生には、いくつもの神の奇跡が重なっています。

 では次に、主イエス誕生の中での最も大きな奇跡である「おとめマリアからの誕生」についてみていきましょう。わたしたちが礼拝で告白している『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白していますが、この告白は主にルカ福音書のきょうの個所とマタイ福音書1章18節以下のみ言葉に基づいています。【ルカ福音書1章34~35節】。【マタイ福音書1章18節】(1ページ)。

いわゆる「処女降誕」という告白は主イエスの十字架の福音と密接に結びついているということを見落としてはなりません。「処女降誕」という奇跡だけを十字架の福音から切り離して取り上げても正しい理解を得ることはできません。その両者の関連を考えてみましょう。

 マリアは婚約していたヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもり、神の奇跡によって、神のみ子主イエスを生むであろうと35節に予告されています。そして次の36節では、マリアの親類エリサベトも神の奇跡によってすでに身重になり、6カ月になっていると言われています。この二つの神の奇跡による子どもの誕生は、旧約聖書に記されている神の奇跡による子どもの誕生、年老いたアブラハムとサラの子イサクの誕生や、イサクの子ヤコブの誕生、あるいは預言者サムエルの誕生と共通しています。それらの子どもの誕生は、人間的には子どもが授かる可能性が全くないときに、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによって、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神の奇跡のみ力による誕生でした。主イエスの誕生は、それらのイサク、ヤコブ、サムエル、そして洗礼者ヨハネという一連の神の奇跡による子どもの誕生の、いわば頂点にあるのです。

 しかも、イサクからヨハネに至る子どもの誕生は、人間の営みが全くなかったわけではありませんが、主イエスの誕生の場合には、マリアもヨセフも人間的なかかわりが全くなく、いわば100パーセント神の奇跡なのです。マリアは34節で、そのような神の奇跡に驚きをもって答えています。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そこには人間の関与は一切ありません。これは神の奇跡の中の奇跡です。神は命を生み出す可能性が全くないところに、新しい命を創造し、しかも最も尊く、光輝き、すべての命の源となる命を、創造されるのです。

 このような奇跡によって誕生した人は、その命の源をすべて神に由来しているゆえに、その人の生涯全体も神のものであり、神にささげられます。これが奇跡による誕生の意味であり、目的です。その人の命は神の恵みによって与えられたのですから、その人は与えられた命を神に感謝して、神に仕える生涯を歩む者となるのです。主イエスのご生涯は、この点においても、アブラハムの子イサクから洗礼者ヨハネに至るまでの奇跡によって誕生した人たちの頂点に立っています。主イエスはそのご生涯を父なる神にお仕えし、最後にはその尊い命そのものを、わたしたち罪びとの罪をあがなうための供え物として、与え主であられる父なる神におささげになりました。

 「処女(おとめ)マリアから生まれた」という信仰告白のもう一つの重要なポイントは、主イエスは、人間の営みが一切なく、聖霊なる神のみ力によって誕生された聖なる神のみ子であるということです。この点においては、洗礼者ヨハネやイサクとは全く違っています。彼らは神の奇跡によって誕生し、生涯神に仕えましたが、しかし彼らは罪びとたちの一人でした、。生涯を神にささげ、神の救いのみわざのために仕えましたが、自らは罪びとであり、他の人を罪から救う力をもってはいませんでした。

 しかし、主イエスは聖霊なる神のみ力によって誕生された神のみ子です。聖なる、罪なき方です。わたしたち人間のすべての弱さや貧しさを知っておられ、ご自身もすべての試練や苦難を経験され、わたしたち罪びとの一人となられましたが、罪なき神のみ子として、それらのすべてに勝利されました。そのような聖なる神のみ子だけが、わたしたち人間の罪を贖い、罪から救うことができます。

 最後に、主イエス誕生の予告を聞かされたマリアの反応についてみてみましょう。【38節】。マリアにとってこの奇跡は信じがたいことでした。あり得ないことでした。しかし、そうであるにもかかわらず、マリアは神のみ言葉を信じます。ただ信仰によって、神のみ前にひれ伏し、神のみ言葉の成就を待ち望む者となりました。ここに、マリアの祝福された道があります。神の約束のみ言葉を聞きつつ、その成就に向かって進み行くマリアの幸いな信仰の歩みがあります。

(祈り)

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教 説教題:「福音の前進のために」

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記26章5~11節

    フィリピの信徒への手紙1章12~18節

説教題:「福音の前進のために」

 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。そのことが、きょう朗読された箇所で明らかになります。【12~14節】。パウロは今主キリストのために監禁されています。「キリストのため」とは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために迫害を受けてという意味です。主イエス・キリストが全世界の唯一の救い主であり、だれでも主イエスの十字架の福音を信じるならば、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるという十字架の福音を宣べ伝えために、パウロは捕らえられ、獄につながれています。

パウロを訴えた人たち、迫害している人たちがだれであるのかは、この手紙からははっきりしませんが、使徒言行録やパウロの他の手紙から推測すれば、二つの勢力が考えられます。一つには、ユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ教では、罪びとである人間が救われるのは、神の律法に従い、律法の一つ一つを守り、神の要求に応えることによってであると教えます。けれども、パウロが語る主キリストの福音はこうです。「だれも律法をその一つをも完全に守ることはできない。ただ主キリストの十字架の福音を信じるなら、その信仰によってすべての人は救われる。なぜならば、主キリストが罪びとたちに代わって神の律法のすべてを完全に成就されたから。それによって、信じる人をすべての罪から解放してくださったから」。このパウロが語る主キリストの福音は、ユダヤ教からみれば律法を軽んじ、神を冒涜するものだと考えられました。それが、パウロが、また初代教会がユダヤ人から迫害を受けた理由でした。主イエスご自身も同じ理由からユダヤ人指導者たちによって十字架へと引き渡されました。

もう一つは、ローマ帝国の指導者たちです。パウロが宣べ伝えている新しい宗教は、ローマ皇帝の権威を傷つけるもの、国家に反逆するものだと考えられました。「ローマ皇帝カイザルだけが全世界の主であり、すべての民はこの主のもとにひれ伏さなければならない。けれども、キリスト教はカイザル以外に主がいると教えている。国家の秩序を乱す新しい宗教は禁止されねばならない」。それがもう一つのキリスト教迫害の理由でした。パウロの時代以後、紀元1世紀の終わりからは、ローマ帝国による国家的な迫害が初代教会を大いに苦しめるようになりました。

ところで、パウロがどこの町で監禁されていたのかについても、確かなことはわかっていません。13節に「兵営全体」と書かれていますが、この兵営という言葉は、ローマの都にある皇帝の親衛隊の兵舎を指す場合も、あるいは地方都市にある総督の官邸を指す場合もあり、パウロの監禁場所がローマであるのか、エフェソかカイサリアか、特定できません。

いずれにしても、パウロはここから「わたしの身に起こったこと」を語りだします。パウロは自分が今どのような状態にあるのかをフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいと願っています。というのは、フィリピ教会が獄中のパウロを心配して教会員のエパフロディトを派遣し、支援物資などの贈り物を届けてくれたので、それに対するお礼とともに、パウロの今の様子をフィリピ教会に伝える必要があると考えたからです。エパフロディトの派遣と贈り物については2章19節以下と4章10節以下に詳しく書かれています。

パウロはここで自分の身に起こったことを語っているのですが、しかしその内容は、パウロ自身のことというよりは、彼が宣べ伝えている主キリストの福音のことです。彼は主キリストの福音を宣べ伝えたために捕らえられ、獄につながれ、裁判を受けています。しかし、そのような彼自身の境遇のことを語ろうとしているのではなく、そのことが主キリストの福音の前進となったということ、そのことをこそパウロはフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいのだと語っているのです。

12節の「かえって」という言葉の内容について考えてみたいと思います。パウロが当初予想していたこと、つまり、自分が獄に捕らえられることによって、福音を語る機会が失われるのではないか、福音の停滞になるのではないかという彼自身の不安や恐れに反して、しかし実際にはそのことが彼の予想に反して福音の前進となったという意味に理解できます。二つには、フィリピ教会の人たちがパウロのことを心配し、投獄されたことによって彼自身の気力や体力が低下したり、彼の福音宣教の働きが妨害されることになるのではないかという不安に反して、あるいは、一般的に、迫害を受けて獄につながれれば、だれであってもそのように思うであろうという予想に反して、「かえって」パウロの投獄が福音の前進となったとパウロは言うのです。

どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。13~14節にその理由が書かれています。3つにまとめましょう。第一には、パウロが監禁されているのは主キリストのためであるということがローマ帝国の兵営に勤務するローマの官憲たち全員に知れ渡るようになったからです。彼らはローマ皇帝を主と崇め、ローマ皇帝に仕えている人たちです。しかしながら、今自分たちの管理下にあるこの男、パウロという人物は、ローマ皇帝以外にキリストと言われる方が全世界の主であると主張し、そのキリストのために自らの命を懸けて証しているではないか。彼らは今までに聞いたことがない、予想したこともない新しい教えに驚かざるを得ません。

第二には、兵営の外にいるこの町の人々も、パウロの裁判の席に連なり、パウロがなぜ捕らえられ、裁判を受けているのかを知ることとなったということです。エルサレムで十字架につけられ処刑された主キリストが、三日目に復活し、すべての人たちの罪の贖いとなってくださった、すべて信じる人たちに新しい永遠の命を約束していてくださるということを、この町の人々もパウロの裁判と証言によって聞くことができたのでした。

第三には、パウロが捕らえられている町の周辺に建てられている教会やその他の信仰の仲間たちが、パウロが法廷で力強く証している様子を知り、またそれによって主キリストの福音がローマ帝国の至る所で語られている事実を見て、主キリストの福音の力、広がり、豊かさを実感するようになった。そして、落胆したり、沈黙したりすることなく、以前よりももっと大胆に、勇敢に福音を語るようになったというのです。

神がなさる救いのみわざは人間の予想をくつがえし、それをはるかに超えて進みます。主キリストの福音は人間と世界のあらゆる妨害や抵抗にもかかわらず、前進していきます。神の言葉は決してつながれてはいません。

次に、15節からはもう一つの福音の前進のことが語られます。【15~18節】。この個所は前の14節と関連しています。14節で「兄弟たちの中で多くの者」と言われていたのは、「善意でキリストを宣べ伝える者」(15節)、また「愛の動機からそうする者」(16節)のことであり、数としてはその方が多いのですが、そうでない者たちもいくらかはいた。その人たちは「妬みと争いから」(15節)、「自分の利益を求めて、獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝えている者たち」(17節)である。しかし、たとえそうであっても、いずれの場合にも主キリストの福音が宣べ伝えられているのであるから、わたしはそれを喜んでいる、とパウロは語っています。パウロはここで、人間たちの不純な、悪意に満ちた行動からでも、主キリストの福音はなおも力強く前進していくのだという事実を見ています。

初代教会においては、使徒パウロが福音宣教の中心的な働き人でしたが、パウロとそのグループ以外にも、エルサレム教会の指導者であった12弟子のひとりペトロや雄弁な説教家として知られていたアポロといった伝道者たちが各地を巡り歩いて福音宣教のために仕えていました。その中の一部のグループはパウロに対抗意識を持ち、自分たちの伝道の範囲を拡張しようとする熱意のあまり、ときにはパウロを敵対視したりしていたのではないかと推測されます。彼らにとっては、パウロが獄に捕らえられたことは、自分たちの勢力を広げる良い機会と考えていたようです。

そのことは、獄に捕らわれているパウロにとっては、心を痛めることであり、彼の苦しみをより大きくすることであることは言うまでもありません。同じ伝道者として、パウロに同情したり、獄中のパウロを何らかの形で支援したりすることが求められているのにもかかわらず、彼らの福音宣教の動機は妬みや争いであり、不純で悪意すら感じられます。

けれどもパウロはそのことに対して腹を立てたり、怒ったりしてはいません。彼自身の個人的な感情によってそのことをとらえてはいません。パウロはひたすらに主キリストの福音そのものに目を向けています。主キリストの福音そのものの力、その中にある命、それが持っている豊かさを信じています。そして、悪意や嫉妬から福音を宣べ伝えている人たちがいるとしても、そこで主キリストの福音が宣べ伝えられているという事実にこそ注目するのです。

もちろん、パウロは偽りの福音が語られたり、福音の真理がゆがめられる場合には、決してこれに妥協することはありませんでした。厳しくその誤りを指摘します。たとえば、この手紙の中では、【3章2節】、また【18~19節】。パウロは他の手紙の中でも、繰り返して、偽りの福音との激しい戦いをしています。

けれども、この場合には、不純な動機からであっても、あるいはそこにパウロに対する嫉妬心や競争心、または敵対心があったとしても、パウロは「それが何であろう」と言います。パウロはそのような個人的な感情に捕らわれて、彼らを批判したり、その働きをやめさせようとはしません。いや、むしろ喜んでいるのです。自分に向けられている悪意や敵意をすらも主キリストの福音のゆえに受け入れ、そのことが福音の前進になっていることを喜ぶのです。ある人はこういいます。「主キリストはその使者たち、仕え人たちよりも偉大である」と。また「主キリストの福音はその宣教者たちを超えて、みずからが圧倒的な力を発揮する真理である」と。

わたしたちもまたそのことを信じるべきであり、信じてよいのです。わたしたちが主キリストの福音のために仕えるとき、神はわたしたちの小さな奉仕をも、あるいは時として欠けや破れの多い働きをも、豊かにお用いくださいます。そのことを信じて、どんな困難や険しい道があろうとも、主キリストの福音の力と豊かさを信じ、パウロと共に喜んで福音宣教のためにお仕えしていきましょう。

(祈り)

9月1日(日)説教「人間の創造」

2019年9月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

    コロサイの信徒への手紙1章9~20節

説教題:「人間の創造」

 神の天地創造の第6日目は、創世記1章24節から始まっています。この第6日目の前半では、地の生き物たち、すなわち「家畜、這うもの、地の獣」が創造されました。そして、まだこの日の神のみわざがすべて終わっていないのに、このあとに人間の創造がさらに続くはずであるのに、25節には、これまで一日の終わりに書かれていた「神はこれを見て良しとされた」というみ言葉がすでに書かれています。あたかも、この日の前半の地の生き物の創造によって、これまでの創造のみわざが一段落したかのように、「神はこれを見て良しとされた」と書かれている理由は、前回にも少し触れましたように、これによって最後の人間創造の準備がすべて整った、人間がこの世界に登場するにふさわしい舞台がすべて整ったということを強調しているのです。神の天地万物の創造は、最後の人間創造を目指していたのであり、それによって完成するのだということを聖書は語っているのです。

 26節に「神は言われた」と書かれています。すでに、第6日目の初めである24節に「神は言われた」と書かれていました。また、同じ第6日目に、28節でも「神は彼らを祝福して言われた」、29節でも「神は言われた」と繰り返されています。第6日目には、実に4度も「神は言われた」と書かれているのです。神はこの第6日目にこそ、最も多くのみ言葉をお語りになられます。何度も語ること、多くの言葉を語ることは、特別な感情のあらわれです。神はこの第6日目に、人間が創造されるこの日に、特別の関心を、情熱を、愛を傾けておられ、最も力を込めて、最も多く、最も重要な創造のみわざをなさるのです。

 そのことは、27節に「創造する」という言葉が3度用いられていることからも確認できます。【27節】。「創造する」という言葉は1章1節にありました。【1節】。そこでもお話ししましたように、聖書原典のヘブライ語「バーラー」という言葉は神が主語の時にしか用いられません。人間が何かを造るとか何かをなすという場合には、別のヘブライ語が用いられます。「バーラー」は神の特別な創造のみわざを言い表すための専門用語だと言えます。では、それがどのような意味を持つのかをいくつかのポイントにまとめてみますと、第一には、神はみ言葉を語ることによって、何もないところに、み言葉のままに、神のみ旨とご計画によって、あるものを存在せしめ、あることを起こさせ、あることをなされる、それは神のみ言葉のままに、何一つ欠陥なく、完全に、それを完成される、それが神の創造のみわざだということです。別の言葉で言うならば、無からの創造、無から有を呼び出だし、混沌から秩序を生み出し、闇から光を生み出すみわざであると言ってよいでしょう。

 第二には、無から有を呼び出すだけでなく、死から命を生み出す創造のみわざだということです。神のみ言葉は造られたものたちに命を与えます。生きる意味と喜びを与え、生きる目的と豊かな実りを与えます。神の創造のみわざは、繰り返し襲ってくる死の力と戦い、死に勝利し、絶えず新しい命を注ぎ込むのです。

 第三に、バーラーで言い表される神の創造のみわざは、終わりの日、神の国の完成を目指しているということです。神の創造のみわざは何一つ途中で未完のままで終わるものはありません。神は創造された被造物をそのまま放っておかれません。造られたすべてのものは神の永遠の救いのご計画の中に、神の摂理とご配慮の中に置かれ、終わりの日の完成を約束されているのです。

 これが、ヘブライ語のバーラーの意味する内容です。その言葉が、この第6日目の人間の創造の個所で連続して3回も用いられているのです。以上のことが、特別に人間の創造にあてはめられているということなのです。

 ここでわたしたちは、創世記が語っている人間創造について、最も重要な点二つをまとめておきたいと思います。一つには、人間はすべての被造物の頭として、冠として創造されたということです。第1日目の光の創造から、第2、第3、そして第6日目前半の地の生き物たちの創造に至るまでの神の創造のみわざは、最後の人間の創造を目指していたのだということ、人間の創造によって神の天地創造のみわざが完成するのだということです。ここには、多くの神のみ心とご計画、そして神の大きな愛が込められているということを、わたしたちは聖書の中から読み取ることができますが、きょうは主イエスの二つのみ言葉を思い起こしましょう。

 一つは、主イエスが山上の説教の中で教えられていることです。主イエスは弟子たちに「空の鳥をご覧なさい。野の花をご覧なさい」と言われました。「種をまくことも刈り入れもしないのに、神は空の鳥たちを養っていてくださるではないか。働きも紡ぎもしない野の花たちを神はあんなにも美しく装っていてくださるではないか。ましてや、神の特別なご配慮と大きな愛によって創造されたあなたがた人間に、神は必要なものを備えてくださらないことなどあり得ようか。だから、何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな。まず、神の国と神の義とを求めなさい」と主イエスは教えられました(マタイ福音書6章25節以下参照)。

 また、主イエスはこうも言われました。「わたしについて来たいと者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ福音書16章24~26節)。神が特別な愛とご配慮とをもって創造された人間の存在と命は、全世界のすべてのものよりも重たく、尊いのです。聖書は天地創造のみ言葉によって、わたしたちにそのことを教えるのです。

 二つには、実はこの方が第一に来るべきなのですが、人間は神によって創造された者であるということです。ここにも、多くの意味と内容が含まれます。人間が神によって創造された被造物であるということによって、聖書がわたしたちに語ろうとしている第一のことは、人間は神ではないし、神にはなり得ない、神以上のものではないということです。この信仰は旧約聖書の民イスラエルから新約聖書の民教会へと受け継がれてきた人間理解の根本、基本、原点です。この人間理解が他の諸宗教の人間理解とキリスト教の人間理解との決定的な違いであると言ってよいかもしれません。聖書では、天地万物を創造された主なる神だけが唯一の神であり、他のすべては、人間を含めて、神によって造られた被造物であり、いかなる意味でもそれらのすべては神ではありません。神としての地位も力も能力も持ちません。ただ、すべてのものの創造主であられる神のみ前にひれ伏し、礼拝し、服従することによって、それぞれの存在と命とを神から与えられているものたちなのです。

 聖書はまた言います。被造物が自らの被造物としての原点から離れたり、それから何らかの意味で超え出ようとしたりすることが、罪であり、神への反逆なのであると。この後、創世記2章で描かれる最初の人アダムとエヴァの罪、いわゆる原罪から始まって、聖書に描かれるすべての罪は、みなこれと同じです。人間が創造主なる神から離れ、自ら神になろうとすること、神と同じ地位や能力を持とうと欲すること、それが罪です。

 したがってまた、そのような被造物を神として崇めたり、礼拝することは、偶像礼拝の罪です。この世界にあるすべてのものは、太陽であれ月であれ、山、川、生き物、そして人間、すべては神によって造られた被造物であり、神ではなく、礼拝の対象ではありません。聖書の創造信仰に立ってみるならば、そのような偶像礼拝は全く愚かであり、神が人間をすべての被造物の頭、冠として創造されたという大きな神の愛とご配慮とを忘れ去った、それを自ら投げ捨ててしまう人間の愚かな忘恩の罪なのです。

 人間が神の被造物であるということは、26、27節で用いられている「人」という言葉にも言い表されています。ヘブライ語では「アーダーム」ですが、この言葉はここでは人間という集合名詞として用いられています。後には、3章では、最初に創造された男の個人名として用いられます。このアーダームというヘブライ語に込められている意味については、2章6節以下で具体的に語られますが、一言で説明するならば、アーダームとは、肉なる存在、土くれに過ぎず、やがて朽ち果てるほかにない弱い者という意味が込められています。

 そのような朽ち果てるほかない肉なる存在である人間は、創造主なる神から離れてはひと時も存在することができない、生きることができないという信仰が、このアーダームという言葉には込められているのです。

 では、次に26~27節のみ言葉を読んでみましょう。【26~27節】。人間が神の形に似せて創造されたということ、男と女とに創造されたということについては、別に時を改めて学ぶことにして、きょうは神がここで「我々」と言っておられることについて考えてみましょう。神はおひとりで、唯一の方ですから、ご自分のことを「我々」と言われることはあり得ないのですが、旧約聖書ではその例がいくつかあります。それを読んでみましょう。【創世記3章22節】(5ページ)。【11章7節】(14ページ)。【イザヤ書6章8節】(1070ページ)。

 これらの個所で神がご自身のことを「我々」と言われるのはなぜなのか、いくつかの理解がありますが、興味深いものを2、3挙げてみましょう。一つは、神の尊厳性、偉大さを表しているという理解です。神を意味するヘブライ語のエローヒームもエールの複数形であるということを以前にご紹介しましたが、神はご自身の偉大さ、尊厳性を強調するために、「わたしは」と言う場合、時に複数形で「我々は」と言われると考えられます。あるいは、これは神がいます天での会議の様子を言い表しているという理解もあります。神は天において、神に仕える天使たちや天の軍勢たちを従えていると考えられ、その天上での会議で神が厳かに「我々はこのように決定する」と言われているのだという理解です。さらには、これは三位一体の神を言い表しているという理解もあります。神は父なる神として、子なる神キリストとして、聖霊なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるので、このような言い方をするとも考えられます。

 いずれにしても、どれにも共通していることは、神は人間を創造されるにあたって、ご自身のすべてをもって、全体をもって、ご自身のすべての愛と、力と、知恵と、意志と、決断とをもって、この人間創造というみわざに取り組んでおられるのだということが、ここから理解されます。人間は神の最高の愛と知恵の結晶として創造されたのです。人間は神の最高の意志と決断とによって創造されたのです。神によって創造されている人間一人一人には、このような神の愛と知恵と意志と決断とがあるのだということを、わたしたちは忘れてはなりません。そうであればこそ、神はこの人間を罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されたのだということを、わたしたちは思い起こすのです。神の人間創造のみ心は、主イエス・キリストの十字架の死にまで貫かれています。

(祈り)