4月30日説教「ペトロの信仰告白」

2023年4月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:申命記26章5~11節

    ルカによる福音書9章18~20節

説教題:「ペトロの信仰告白」

ルカによる福音書9章18節から27節までを福音書前半のクライマックス、頂点と見ることができます。ここには、重要な3つのことが書かれています。

18~20節ではペトロの信仰告白、21~22節では主イエスの第1回目の受難予告、23~27節では十字架を背負って主イエスに従うというキリスト者の信仰生活。この3つのことは、それぞれが独立して語られているのではなく、互いに深く関連しあっているので、いつもこの3つを一緒に考えることが重要です。

 きょうは18~20節のペトロの信仰告白の箇所だけを読みましたが、この後で語られる主イエスの受難予告、また十字架を背負って主イエスに従って行くというわたしたちの信仰生活、この3つを関連付けながら学んでいくことが大切です。

 【18節】。わたしたちはここでも主イエスの祈りのお姿に出会います。主イエスの祈りの人であったということをこれまでも確認してきました。ルカ福音書は他の福音書よりも多く主イエスの祈りのお姿と祈りの言葉を伝えています。3章21節には、主イエスが洗礼をお受けになった時に祈っておられたと書かれていました。5章16節には、「イエスは人里離れたところに退いて祈っておられた」と書かれています。6章12節で、12弟子をお選びになった時には徹夜で祈られました。このあと、9章29節では、山に登って祈られた時に、主イエスのお姿が真っ白に輝いたという、山上の変貌が書かれています。11章1節では、主イエスが祈っておられるお姿を見た弟子たちが、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願い、そこで「主の祈り」を教えられてことが書かれています。22章39節以下では、オリーブ山での受難週の祈り、ここには苦しみもだえながら汗を血の滴りのように地面に落としての祈りのお姿と、祈りの言葉、そして23章46節では、十字架上での最後の祈り、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」があります。

 このように、主イエスは重要な場面では必ず祈っておられました。父なる神に徹底して服従され、神のみ心を伺いつつ、それに従われました。祈りはまことの神であられ、まことの人となられた主イエスの行動と説教の源であったということを知らされます。わたしたちもまたこのような主イエスの祈りの姿勢にならいたいと願います。

 「ひとりで祈っておられた」いう表現には、父なる神と、その神の独り子なる主イエスとの、特別な関係が暗示されています。主イエスの祈りは父なる神との一対一の対話であり、父なる神のみ心を知ることですから、主イエスと父なる神との間には他の何ものも介在しません。しかし、わたしたち人間の場合は、神とわたしとの間には罪があって、その罪が神とわたしとの間を隔てていますから、わたしは自分の方からは神に近づくことはできません。けれども、主イエス・キリストの十字架によって罪をゆるされることによって、わたしたちは主イエス・キリストのみ名をとおして神に祈ることが許されるようになりました。わたしたちが祈りの最後に、「この祈りを主イエス・キリストのみ名によってみ前におささげします」と祈るのはそのためです。

 18節には続けて、「弟子たちは共にいた」と書かれていますが、主イエスが一人で祈られたことと「弟子たちが共にいた」ということが矛盾しないのは、その理由によります。12人の弟子たちも主イエスと一緒に、同じ場所で祈っていたのかもしれません。でも、主イエスの祈りと弟子たちの祈りは根本的な違いがありました。主イエスの祈りは神の御独り子の祈りであり、弟子たちの祈りは罪ゆるされている罪びとの祈りなのです。主イエスはただお一人、神のみ子として、わたしたちすべての罪びとたちに先立って、父なる神に特別な祈りをしておられるのです。その祈りによって、主イエスはここで「あなたは神のメシアです」と弟子たちによって告白されるのです。また、父なる神の救いのご計画にしたがい、ご受難と十字架への道を歩まれるのです。そして、それによって、すべての信仰者たちが喜んで十字架を背負って主イエスに従って行くことができる道をわたしたちのために備えられたのです。

 主イエスが弟子たちに「群衆はわたしを何者だと言っているか」と問われたのは、ご自分の評判を気にしておられたからでは決してありません。あるいは,それによって、これまでの神の国についての説教がどれほどの成果をあげているかを測ろうとされたのでもありません。主イエスはこの世の人々の評判や群衆の目を気にして、それによって行動したり、道を選んだりなさることはありません。主イエスは徹底して父なる神のみ心だけに従い、最後には人々に侮られ、ののしられ、辱められながら、ただお一人で十字架への道を進んで行かれました。まだだれ一人として、自分の罪の大きさに気づかず、その罪と戦うこともしていなかったときに、主イエスはただお一人だけ、わたしたちの罪のためにご自身の血を流されるほどに、戦われ、そして勝利されました。

 ではなぜ、主イエスは弟子たちに、「群衆はわたしをだれと言っているか」と尋ねられたのでしょうか。それは、次の問いの準備のためです。すなわち、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。この弟子たちに対する質問を強めるためです。他の人がどう言っているかとか、この世の人々がどう見ているか、政治家や学者がどう評論しているかではなくて、あなたがたは、あなた自身はどう考えるのか、どう信じるのか、ということを主イエス問うておられるのです。弟子たち一人一人が、またわたしたち一人一人が、主イエスのこの問いの前に立たされているのです。主イエスのみ前で、わたしの全存在をかけて、主イエスをわたしの救い主であると告白する、その告白へと招かれているのです。

 その前に、当時のユダヤ人が主イエスをどう見ていたかが19節に報告されています。【19節】。一つは、「洗礼者ヨハネが生き返った」という評判です。第二には、「旧約聖書時代の預言者エリヤ」の再来だという見方、三つめは、「旧約聖書時代に活躍していたほかの有名な預言者の一人が生き返った」という説、これら三つの評判についてはすでに7~8節に書かれていた内容と一致します。ガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスがそれらの評判を耳にして戸惑い、恐れていた姿がそこでは描かれていました。

 当時のユダヤ人が主イエスをこのように見ていたことの背景には、メシア待望の機運のようなものがあったことと関係していると思われます。神の契約の民イスラエル・ユダヤ人は長く苦難と迫害の歴史を歩んできました。紀元前6世紀にイスラエル王国が滅び、民の多くが異国の地バビロンに捕虜として連れ去られました。その後、カナンの地に帰還してから、王国の再建を願ってきましたが、独立国家として立つことができず、預言者の活動も衰退し、政治的にも宗教的にも希望を見いだせないでいました。信仰熱心な人たちは、神がかつて約束された偉大なる預言者やメシア・救い主の到来を強く待ち望むようになっていました。また、実際に、「我こそはメシア」と名乗って、社会を驚かそうとした偽のメシアが何人にも登場していました。

 そのような時に、洗礼者ヨハネがユダの荒れ野で、近づきつつある神の国とメシア・救い主の到来を説教し、多くの信奉者を集めていましたので、もしかしたらこのヨハネこそが来るべきメシアではないかと考える人たちもいたようです。けれども、ヨハネ自身はそのことを否定し、わたしのあとにおいでになる方が待ち望まれていたメシアだと語りました。そのヨハネも領主ヘロデによって処刑されてしまい、人々のかすかなメシア待望の光も消えかけていたのでした。

 そのような状況の中で、主イエスは、「それでは、あなたがたはわたしを何者と言うのか」と問われました。20節の文章では、「あなたがたは」という言葉が文頭に置かれ、強調されています。ほかのだれかがどう言っているかではなく、あなたの家族や友人がどう思っているかでもなく、あなた自身は主イエスをどのような者だと言うのか、どのような方だと言い表すのか、と主イエスは問うておられます。それに対するわたしたちの答えが、信仰告白と言われるものです。

 ペトロはここで、「あなたは神からのメシアです」と答えます。ペトロは12弟子を代表して答えています。ペトロの信仰告白は弟子たちみんなの信仰告白です。

 「メシア」という言葉は、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味です。「キリスト」はそのギリシャ語訳です。旧約聖書時代にイスラエルでは,預言者、祭司、王がそれぞれの職に任命される際には、頭からオリーブ油を注ぐという儀式を行いました。神はご自身の救いを完成させてくださる最後の時に、まことの預言者であり、まことの祭司であり、まことの王である救い主をこの世界に派遣してくださるという信仰が次第に成長して、その救い主をメシア、「油注がれた者」、「キリスト」と呼ぶようになりました。

 ペトロはここで、主イエスこそが旧約聖書で神が約束された真実の、永遠の、そしてすべての人の、唯一のメシア・キリスト・救い主であると告白しました。マタイ福音書16章13節以下には、主イエスはこのペトロの信仰告白を天の父なる神から与えられた信仰告白だと言われたことが書かれています。のちのすべての教会の民は、この信仰告白によって生きるのだとも言われました。

 このペトロの信仰告白は正しい信仰告白でしたが、それにもかかわらずペトロハは十字架の主イエスにつまずき、十字架の主イエスを3度「知らない」と否認しました。この時のペトロの信仰告白は、いわば、まだ未完成でした。この信仰告白が真実なわたしたちの信仰告白となるためには、次に続く主イエスの受難予告と密接に結びつけることが重要なのです。

 説教の最初で確認しましたように、このメシア・キリストがどのような方であるのか、どのようにしてその救いのみわざを成し遂げられるのかを、続く21節以下で語っているからです。すなわち、このメシア・キリストは、多くのユダヤ人が予想していたように、力と権力によって外国の支配をうち破り、立派な軍馬にまたがって登場する偉大な王様として神の救いを成し遂げるメシアなのではなく、ユダヤ人指導者たちによって排斥され、人々に見捨てられ、ご自身が受難と十字架への道を進まれることによって、ご自身の命をすべての人の罪を贖う供え物としておささげくださることによって、わたしたちの救いを成就してくださるメシア・キリストなのです。

それゆえに、わたしたちは罪ゆるされ、救われている者たちとして、感謝と喜びとをもって、主キリストの十字架を背負って、自分自身を神と隣人のためにささげる信仰者として、主キリストに従っていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたち全人類の罪のために苦しまれ、十字架への道を進み行かれた主イエスを、わたしの唯一の救い主と信じる信仰を、わたしにも与えてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月23日説教「ヨセフが見た夢」

2023年4月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記37章1~11節

    ローマの信徒への手紙11章25~36節

説教題:「ヨセフが見た夢」

 創世記12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの3代にわたる族長物語と言われる箇所を続けて読んできましたが、37章からは族長ヤコブの12人の子どもたち、特にその中の一人ヨセフを主人公とするヨセフ物語が始まります。

 【1~2節】。1節に「ヤコブは」とあり、また2節でも「ヤコブの家族の由来は次のとおりである」と書かれています。これから実際に描かれる内容は、ヤコブの子ヨセフの生涯と歩みについてなのですが、ヤコブが49章33節で地上の命を終えるまでは、彼が一族の族長として、あるいは一家の長としての権威を持っていると考えられたので、ヨセフの物語も族長ヤコブの系図の中で語られています。

このことには重要な意味が含まれています。1節の後半に、「父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた」と付け加えられていることとも関連しているのですが、これから始まるヨセフ物語がアブラハム、イサク、ヤコブという族長たちに与えられた神の契約、神の約束のみ言葉を受け継いでいるのだということを、今一度ここで確認しているのです。すなわち、神は3人の族長たちに、アブラハムに、イサクに、そしてヤコブに、何度も繰り返してお語りになったように、「彼らの家系から生まれる子孫を星の数ほどに増し加える。また、カナンの地を彼らの子孫の相続地として与える」という契約が、ヤコブの子ヨセフにも受け継がれているということを、ヨセフ物語の初めで確認しているのです。

 このあとで、ヨセフやそのほかの子どもたちに対して、神がかつて族長たちに語られた約束が、直接に語られることはありません。また、しばしば指摘されることですが、ヨセフ物語の中には神という言葉はほとんど用いられていません。神について直接に語られることもほとんどありません。語られている出来事の多くはこの世界での人間たちの行動です。ヨセフとその兄弟たち、ヨセフとエジプトの指導者たちの人間模様が語られていて、そこに神のみ心があるということは、直接的には語られることはありません。けれども、そこには確かに主なる神のご計画があり、神の救いのみ心があるということ、ヨセフと彼の周辺の人間たちはみな神のご支配のもとにあって行動しているということ、そしてそれによって神の救いのご計画が着々と進められているということを、わたしたちはヨセフ物語から読み取ることができます。また、どのページを読むときでも、そのことを意識して読まなければなりません。

 神がアブラハム、イサク、ヤコブという族長たちによってお始めになった救いのみわざはその子ヨセフと彼の兄弟たちへと受け継がれ、その後のエジプトでの400年間の彼らの寄留の生活でも、神の約束のみ言葉は決して忘れ去られることはなく、出エジプトによって誕生した神の民イスラエルへと受け継がれ、さらにはイスラエルに約束されたメシア・救い主イエス・キリストによって、全世界のすべての教会の民へと継続されていくのです。

 では次に、ヨセフの誕生について振り返ってみましょう。彼の誕生の次第が、彼のこれからの人生に少なからず影響を与えることになるからです。ヨセフはヤコブと妻ラケルとの間に生まれた最初の子でした。ヨセフは長く待ち望まれた子でした。ヤコブともう一人の妻レアとの間には6人の子どもが次々と授けられましたが、ヤコブが愛していたラケルには、二人の熱心な祈りと願いにもかかわらず、神は長い間彼らに子どもをお授けにはなりませんでした。それは、彼らが神のみ心が成就される時を、信仰をもって、忍耐強く待ち望むための訓練のためだったのでした。神は人間の愛や願いや計画をはるかに超えて、み心を行ってくださることを、彼らは学ばなければなりません。そして、神のみ心が成就した時になって、ラケルは身ごもり、男の子を生みました。ラケルは、「神がわたしの恥をすすいでくださった。神がわたしにもう一人男の子を加えてくださるように」と言って、その子をヨセフと名付けたことが30章23、24節に書かれていました。

 ところが、そのようにして与えられた子ヨセフが、ヤコブの家族に新たなつまずきをもたらすことになったということを、わたしたちは次のみ言葉で聞きます。【3~4節】。1節でヤコブと言われていたのが、3節ではイスラエルに変わっていますが、これは1、2節と3節以下とのもとの資料が違っているからと説明されます。ヤコブからイスラエルに名前が変更されたことについては32章29節と35章10節とに2度書かれていました。

ヤコブ・イスラエルはヨセフが愛する妻ラケルに生まれた子であり、長い祈りの末に、年取ってから与えられた子であるので、ことさらにかわいがって育て、ほかの兄たちよりも贅沢な晴れ着を着せていました。裾の長い着物は労働には不向きです。父ヤコブはヨセフには働かなくてもよいように特別な配慮をしていたようです。それを見ていた兄たちは父を憎んでいました。父のヨセフに対する偏愛が、父親に対する兄たちの憎しみを生み出し、また兄弟同士の分裂を生んでいきます。親が特定の子だけを格別に愛する偏愛が、この家庭に新たな深刻な問題を生み出すことになります。

 顧みれば、ヤコブ自身も母リベカの偏愛を受けていました。母の提案によって、父イサクと兄エサウとを欺いて、ヤコブは長男としての特権を兄から奪い取りました。それがもとで、兄の怒りを買い、命を狙われたので、家を飛び出して遠いハランの地へ逃げ、そこで20年もの間、困難な逃亡生活を送らなければならなくなりました。おそらくは、その20年の間に母リベカは死に、母と子は再会することができませんでした。母と子の偏った愛は、ついには母と子の永遠の別離を生み出すほかになかったということを、わたしたちは知らされます。

 このような、破れた夫婦の愛、歪んだ親子の愛、欠陥だらけの兄弟の愛が繰り広げられる人間たちの歩みの中で、主なる神は永遠に変わらない真実の愛をもって、アブラハム、イサク、ヤコブという3代の族長たちの家庭を導かれ、その中で神の救いのみわざをなし続けられたのだということを、わたしたちは改めて教えられます。

 【5~10節】。ここにはヨセフが見た二つの夢について、またその夢のことを兄たちや両親に話したことが語られています。ヨセフが見た夢にはどのような意味があるのでしょうか。創世記の中にはこれまでにも夢のことが何度か語られていました。28章では、ヤコブがベテルで石を枕にして眠っていたときに、天から地にまで届く階段を神のみ使いたちが上り下りしている夢を見たことが書かれていました。また、31章11節には、ヤコブが夢の中で神のみ使いの呼びかけを聞いたことが書かれていました。これらの族長たちが見た夢は、明らかにそれが天におられる主なる神からの知らせ、啓示であると言えます。神の夢の中で、夢をとおして、ご自分のみ心やご計画を信仰者にお示しになります。

 ではヨセフが見た夢は何でしょうか。彼の空想だったというべきでしょうか。彼が見た二つの夢には神は全く登場していませんし、何か神の働きを暗示するものもありません。そこから、この夢はヨセフの独りよがりの空想だと考える注解者もいますが、わたしはそうではないと考えます。確かに、その夢を得意げに兄たちや両親に話しているように映るヨセフの態度には、傲慢な姿を読み取ることができるかもしれませんが、聖書ではどのような夢でも、そこには隠された神のみ心とご計画があるという点では一致していると見るべきですから、ヨセフの夢にも神のみ心が現れていると考えてよいと思います。ヨセフ自身は、この夢に神のみ心はあると気づいてはいなかったでしょうが、また神がどのようにして自分が見た夢を実現に至らせてくださるのかをも全く分かっていなかったのですが、神は確かにヨセフの夢を実現させてくださったということを、わたしたちのあとで読みます。ヨセフが見た夢の実現については42章6節と50章18節以下に書かれているからです。

 その個所に至るまでは、ヨセフの夢の実現については、主なる神以外には、まだだれにも知られていませんから、ヨセフが見た夢は神がのちに起こるべきことを、あらかじめこのようにしてお示しになられたのだと理解するほかにありません。

ヨセフの夢についてもう少し詳しく見ていきましょう。7節に、「畑でわたしたちが束を結わえていると」とあります。26章12節には、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった」と書かれています。これらの記述から、族長たちは最初は遊牧民として家畜を飼い、牧草を求めて土地を移動していましたが、のちの時代にはだんだんと一か所に定住するようになり、穀物の栽培を始めるように変わっていったという、族長たちの生活様式の変化に気づかされます。

ヨセフは父ヤコブから裾の長い着物を着せてもらい、仕事をしなくてもよい贅沢な身分だったはずなのに、この夢の中では自分が一生懸命に働いていることになっています。ここにも、親が年を取ってから生まれ、甘やかされて育った子どものわがままや独りよがりな性格が表れていると言えます。兄たちにはそのこともまた腹立たしく、憎らしく思えたに違いありません。

9節の、「太陽と月と十一の星」が、ヨセフの両親、ヤコブとラケル、それに11人の兄たち(この中には弟のベニヤミンも含まれますが)を指していることは、すぐに兄たちと父ヤコブに理解できたでしょう。この夢もまた、何とも傲慢で、生意気なヨセフの性格を表していることを知って、兄たちも父親も激怒しました。ただし、厳密には、ヨセフの母ラケルはベニヤミンを生んですぐに亡くなっていますから、月は他の兄弟たちの母を象徴していると考えられます。

【11節】。兄たちは、ヨセフがいつか自分たちを攻撃し、自分たちを力で支配するつもりでいるらしいという、恐れと恐怖心を抱いたようです。その恐怖心が、この後でヨセフを殺そうとするたくらみへと発展していくことになります。しかし、父ヤコブは「このことを心に留めた」と書かれています。ヤコブはこの家の長として、アブラハムからの神の約束を受け継ぐ族長として、ヨセフの夢に神の救いのご計画が潜んでいることをわずかに悟っていました。わがままで生意気な子、ヨセフをもお用いになって、神がみ心を行ってくださることを信じました。

わたしたちもまた、主なる神が、この混乱した世界と罪の人間たちの過ちや愚かさをもお用いになって、隠れたかたちでご自身のみ心を行ってくださることを、信仰の目をもって見ぬいていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちにあなたのみ心をお示しください。あなたがこの世界の中で、永遠の救いのみわざを確かに進めておられることを信じさせてください。あなたがわたしたち一人一人の日々の歩みを終わりの日の完成に向けてお導きください。わたしたちからすべての恐れや不安や迷いを取り去って、感謝と喜びと希望で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月16日説教「神の子とされる」

2023年4月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

             『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(22)

聖 書:ホセア書11章1~4節

    ヨハネの手紙一3章1~10節

説教題:「神の子とされる」

 日本キリスト教会秋田教会は、1934年(昭和9年)4月15日(日)に教会建設式と教師紺野瀧一郎の牧師就職式を行いました。今年は教会建設から89年を迎えます。これまでの神のお導きに感謝いたします。当時の東北中会では、数年前から「自給十年計画」が実施され、外国ミッションからの経済的自立を目指して、自給独立の教会建設に励んでいました。

 その後、秋田教会は戦時中に日本基督教団に合同しましたが、1951年(昭和26年)5月20日(日)の秋田教会臨時総会で日本キリスト教会に加入することを決議しました。今わたしたちが学んでいる『日本キリスト教会信仰の告白』は1953年10月に開催された日本キリスト教会第3回大会で制定されました。

 『日本キリスト教会信仰の告白』の第二段落の最初の文章を読んでみましょう。「神に選ばれてこの救いの御業を信じる人はみな、キリストにあって義と認められ、功績なしに罪を赦され、神の子とされます」。ここでは、16世紀の宗教改革が明らかにした「信仰義認」の教理と、わたしたちの教会が属する改革教会の神学で強調される「選び」の教理が告白されています。この二つ、「信仰義認」と「選び」の教理に共通している重要なポイントは、わたしたちの信仰と救いの根拠、あるいは根源、土台、出発点は、わたしたち人間の側にあるのではなく、徹底して主なる神の側にあるということです。またそれゆえに、わたしたちの信仰と救いの確かさもまた徹底して神の側にあるということです。この文章の主語は「信じる人はみな」ですが、「信仰義認」と「選び」の主語は主なる神です。そのことを今一度確認しておくことが重要です。

 わたしがいくつかの宗教の中からキリスト教を選び、主イエス・キリストを信じる決断をして信仰の道に入ったというのではなく、わたしがそう決断するよりもはるか前に、神がこの取るに足りない罪びとであるわたしを、特別な愛をもって選んでくださり、捕らえてくださって、主イエス・キリストによる救いの道へと導いてくださったのだ。これがわたしたちの信仰です。また、そうであるゆえに、わたしの信仰の確かさ、わたしの救いの確かさもまた、わたし自身の中にあるのではなく、わたしを選び、愛してくださった神の側にあるのであって、わたしの信仰も救いも主なる神によって守られ、導かれているのだということです。

 わたしはその神の選びと信仰義認とを感謝をもって信じ、受け入れることによって、神がみ子主イエス・キリストの十字架と復活でなしてくださった救いのみわざが、わたしのための救いのみわざとなるのです。宗教改革者カルヴァンの表現によれば、主イエス・キリストの救いと義がわたしに分かち与えられ、わたしに転嫁され、あたかも罪びとであるわたしの上に主イエス・キリストの義という衣が着せられるようにして、わたしの罪がおおい隠され、主キリストの義と救いにわたし全体が包まれ、おおわれるのです。ここに、わたしの救いと義の確かさがあるのです。

 神の選びと信仰義認の教理の終わりに、その最終的な結果として、「神の子とされる」と告白されています。きょうはこの告白について詳しく学んでいきます。「神の子とされる」の「される」は文法的には受動態です。この文章の主語が、前にも確認しましたように、「信じる人はみな」ですから、「その人はみな神の子とされる」と受動態で表現されているわけです。意味上の主語はもちろん神です。神が信じる人をみな「神の子」としてくださるという意味です。つまり、わたしたち人間が「神の子」とされるということです。人間が「神の子」にされる、これはどういうことを意味するのでしょうか。

 まず、「神の子」という言葉が聖書の中でどのように用いられているかをみていきましょう。旧約聖書では、イスラエルの民や王、預言者を、あるいは人間を「神の子、神の長子、神の子たち」と表現している箇所は、実は、ほとんどありません。ただ1箇所、ホセア書2章1節に「彼らは……生ける神の子らと言われるようになる」と書かれているだけです。神がイスラエルを「わたしの子、わたしの長子、わたしの子どもたち」と呼ぶ箇所は多数あります。また、イスラエルの民や王、預言者を「神の僕(しもべ)」と表現している箇所もたくさんありますが、「神の子」という表現は、注意深く避けられているように思われます。

 その理由を、今日の研究者は、旧約聖書ではイスラエルの民や人間を「神の子」と表現することによって、人間が神と同じ位置に置かれることを警戒したからではないかと考えています。というのは、そもそも最初に創造された人間アダムとエヴァが神と同じ者になろうとしたことが罪の始まりであったからです。人間が神の戒めを聞き、神に服従して生きるべきであるのに、自らが善悪の判断をし、神のようにすべてを知ろうとして、禁じられていた木の実を食べたことが、人間の最初の罪、原罪であったからです。しかし、人間は決して神ではなく、神にはなれない。そうであるのに、人間はいつでも自ら神のようになろうとし、神のごとくにふるまおうとして罪を犯す。その罪の危険と誤解とを避けるために、「神の子」という表現を用いることに消極的だったのではないかと考えられています。

 「神の子」と言う表現は避けられていますが、神ご自身がイスラエルの民を「わたしの愛する子、わたしの大切な長子」と呼びかける例は、数多くあります。最も頻繁に出てくるのは出エジプト記です。神はエジプトの地で長く奴隷の民であったイスラエルを、「わたしの子どもたち」と呼びかけ、「わたしはわたしの愛する子どもたちを、エジプトの奴隷の家から贖いだし、解放し、わたしの民とする」と言われました。イスラエルはエジプトの王ファラオのものではなく、主なる神のものであり、神が選んだ、神の宝の民とされたのです。

 ここにおいても、イスラエルの民が最初から「神の子」だったのではなく、かつては奴隷の民であり、小さな弱い民であったにもかかわらず、神がイスラエルをお選びになり、神がこの民を愛されてご自身の契約の民とされたがゆえに、イスラエルは「神の子」とされたということが強調されているのです。

 きょうの礼拝で朗読されたホセア書11章1節では、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」と言われています。イスラエルが「わが子」すなわち「神の子」と呼ばれるのは、神の選びと大きな愛があったからです。それによって、イスラエルは「神の子」とされたのです。

 次に、新約聖書では、信仰者、キリスト者が「神の子」と呼ばれている箇所が少なからずあります。ヨハネの手紙一3章1節を読みましょう。【1節】。わたしたち人間はみなかつては罪びとでした。罪に支配されていた罪の子たちでした。それが今や「神の子と呼ばれるほどに」されているのです。それは、何という驚きでしょうか。そう呼ばれるようになるために、何という大きな愛を父なる神から賜ったことか、それをよく考えてほしいとヨハネの手紙は訴えているのです。その神の大きな愛とは、ヨハネによる福音書3章16節のみ言葉によれば、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と書かれているような神の愛であり、またローマの信徒への手紙8章32節によれば、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われている神の偉大な愛のことです。その神の愛によってこそ、わたしたちは「神の子」とされたのです。

 ヨハネの手紙一4章7節以下で、この神の愛についてさらにこのように語られています。【7~10節】。この神の愛によって、わたしたちは罪の子であった者たちが「神の子」とされているのです。

7節に、「神から生まれ」とあります。ヨハネ福音書とヨハネの手紙にはキリスト者が「神から生まれた」とか「神によって生まれた」という表現が何度か用いられています。でも、この表現には注意が必要です。というのは、神から生まれた神のみ子は主イエスただお一人だからです。正確に表現すれば、キリスト者は 神の愛によって生まれた者です。キリスト教教理では神の独り子なる主イエスがただお一人神からお生まれになった神のみ子であるのと区別して、キリスト者は神の養子とされたと言い表しました。あるいは、子たる身分を授けられたと表現しました。主イエスが神のみ子であることと、わたしたち信仰者が「神の子」とされることとは全く違ったことであることを確認しておくことが重要です。

ここでわたしたちは、先に旧約聖書を学んだ際に、イスラエルの民や人間を「神の子」と言うことを慎重に避けていたことを思い起こします。ところが、新約聖書では非常に大胆にも、多くの箇所でキリスト者を神から生まれた「神の子」と表現しているのです。それはなぜなのでしょうか。その理由は、神からただお一人お生まれになった神の御独り人子、主イエス・キリストにあります。神のみ子主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちは罪から贖われ、「神の子」とされているからです。神の選びによって滅ぶべき罪のこの世から選び分かたれ、み子を賜うほどの大きな愛によって、神によって買い取られ、神の所有、神のものとされ、神によって新たに生まれた者とされ、「神の子」とされているのです。

新約聖書の中で、わたしたちキリスト者が神のみ子主イエスと同じ「神の子」と呼ばれていることの積極的な意味について、ヨハネの手紙一3章2節ではさらにこのように言われています。【2節】。終わりの日、神の国が完成されるときには、「神の子」とされたわたしたちがみ子主イエス・キリストに似た者とされると言われています。また、ローマの信徒への手紙8章29節にはこうあります。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」。わたしたちは神の国において、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(ヨハネの黙示録21章4節)新しい国で、み子主イエスと同じ姿に変えられ、朽ちず汚れずしぼむことのない栄光の体に変えられるという約束を与えられているのです。「神の子とされる」という告白は、そのような驚くべき、偉大な神の真理と救いの恵みを言い表しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、罪の中にあって朽ち果てるほかになかったわたしたちを、み子の十字架の血によって罪から贖い、み子の復活によって新しい命に生きる希望をお与えくださいましたことを感謝いたします。願わくは主よ、あなたが日々に新たな命を注ぎ込んでくださり、命のみ言葉をもってわたしたちを導き、育て、訓練してくださり、終わりの日に備えさせてください。 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月9日説教「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

2023年4月9日(日) 秋田教会復活日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:詩編16編1~11節

    ルカによる福音書24章1~12節

説教題:「主イエスの復活の証人となった婦人たち」

 ルカによる福音書は主イエスという一人の人間の30数年の生涯を、伝記のような形式で描いています。誕生から始まり、12歳のころのエピソード、それからガリラヤ地方ナザレの家を出て、神の国の福音を宣べ伝えるためにイスラエルの各地を旅したこと、地上の最後の一週間をエルサレムで過ごし、十字架刑で死んだことへと筆が進められていきます。

 けれども、普通の伝記とは違った大きな特徴がいくつかあることに気づきます。まず、すぐに挙げることができる違いは、主イエスの伝記は彼の死のあとにも本文が続いているということです。一般の伝記は、その人の死で本文が終わり、あとは少しエピローグとして、死後のその人の影響や思い出について語られることがあります。

主イエスの場合には、死後にも復活の章と言われる、かなり長い24章が続いています。主イエスは死後に、葬られた墓から出て、復活されました。そして、多くの弟子たちに復活のお姿を現され、彼らと会話をされ、一緒に食事をもされました。これは、ほかのだれかの伝記では、決してあり得ません。

福音書のもう一つの特徴は、主イエスのご生涯はおよそ30数年でしたが、その最後の一週間についての記述が、福音書のかなりの部分を占めているということです。章で数えると、19章から24章まで、ルカ福音書全体の四分の一がエルサレムでの最後の一週間、特にその中心である十字架の死と復活のことが詳しく書かれているのです。

このことからも分かるように、主イエスの地上の30数年間のご生涯は最後の十字架の死と復活に向かっている、それを目指していると言えます。十字架の死と復活によって主イエスのご生涯は全うされる、完成されると言ってもよいでしょう。そしてさらに言うならば、そのような主イエスのご生涯のすべての歩みが、わたしたち罪びとのための歩みであり、わたしたちを罪から救い出すための歩みであり、主イエスの十字架の死と復活によって、わたしたちのための救いのみわざもまた全うされ、成就されたということを福音書は語っているのです。

そのことから分かるもう一つの特徴は、ルカ福音書は、ほかの3つの福音書の場合もすべてそうですが、主イエスの十字架と復活という事実から、その事実をもとにして、主イエスの伝記である福音書の記述が始まっているということです。極端に言えば、十字架と復活がなければ、福音書は書かれることはなかったであろうということです。主イエスの十字架の死と復活があり、その主イエスがそののちも、今日に至るまで生きておられる、ご自身の救いのみわざを続けておられる、その事実と信仰があって、福音書が書かれているのだということです。

では、「復活の章」と言われる24章のみ言葉を読んでいきましょう。【1節】。この文章の主語は、前の23章56節から続いている「婦人たち」です。『新共同訳聖書』は物語りの流れを考えて、23章56節から24章1節へと続けていますが、本質的には、というか、福音的に理解すれば、23章56節と24章1節の間には安息日という丸一日の時の経過があり、その安息日までの過去の一週間と、24章1節から始まる一週間とは、全く違った新しい時が始まるということをルカ福音書は強調しているのです。

つまり、ユダヤ教が重んじた安息日である土曜日は、この23章56節の安息日で終わった、24章1節からの週の初めの日、すなわち日曜日からは、全く新しい主イエス・キリストの復活から始まる、教会の新しい安息日である日曜日が始まるということなのです。

「初めの日」という言葉は、創世記1章1節の「初めに、神は天地を創造された」という言葉を思い起こさせます。神が天地万物と人間を創造されることによってお始めになった世界の歴史、人間の歴史が、今主イエス・キリストの復活によって新しい世界の歴史、人間の歴史として始められるのです。今聖書を読んでいるわたしたち一人一人が、この新しい歩みの中へと招き入れられているということをルカ福音書は告げているのです。

この時主イエスの墓に向かっている婦人たちは、まだそのことには気づいてはいません。彼女たちは主イエスの亡骸(なきがら)に香油を塗るために墓に行きました。ユダヤ人の習慣では、人が亡くなった場合、墓に葬る前に体に香油を塗るのですが、主イエスの場合には十字架上で息を引き取られたのが金曜日の午後3時過ぎであり、日没から安息日・土曜日になり、何の仕事もしてはならないことになっていましたから、日没前に急いでそのお体を十字架から降ろして墓に葬らなければならず、香油を塗る余裕がありませんでした。そこで、婦人たちは愛する主イエスに対する最後のご奉仕として、やり残しや最後のご奉仕をしようと、そのお体に香油を塗るために、安息日が終わってから墓へと急いだのでした。

ところが、彼女たちが墓についてみると、墓の石はすでにわきに転がしてあり、墓の中には主イエスのお体はありませんでした。【4~7節】。4節の「輝く衣を着た二人の人」とは、神から遣わされた天使たちのことです。天におられる神が地に住む人間にみ言葉をお語りになる際に、聖書ではしばしば天使の姿で現れます。したがって、5~7節は神がお語りになった神のみ言葉です。

主イエスの復活の知らせは、天の神から伝えられます。それが全能の父なる神のみわざだからです。天におられる神がご自身の永遠の救いのご計画を実行なさるために、ご自身の一人子を人の子としてこの世にお遣わしになり、その人の子なる主イエスの十字架と復活によって、わたしたちのための救いのみわざを成就されたのです。今、主イエスの復活によって空(から)にされた墓を見た婦人たちに対して、その神の救いのみ言葉が語られました。婦人たちは確かに主イエスをお納めした墓が空になっているという事実を目撃し、また主イエスは復活したという神のみ言葉を聞き、神の救いが成就したことを信じました。

神は墓を訪れた婦人たちに、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」と問いかけられました。婦人たちが主イエスの復活の知らせを信じ、神の救いのみわざの成就を信じるためには、彼女たちのこれまでの生き方や考え方が正されなければなりませんでした。彼女たちは亡くなった主イエスのお体に香油を塗るために墓にやってきました。しかし、それが死者のための奉仕であり、死に支配された世界での生き方であったことを、彼女たちは知らされます。彼女たちは死ぬべき人間のために仕えるのではなく、復活された方のために仕える者へと変えられていかなければなりません。死に支配されている朽ち果てるべき肉のパンのために生きるのではなく、復活の命に生きることへと招く神の命のみ言葉を信じて生きる者へと変えられていかなければなりません。死者に対する奉仕のために墓を訪れた婦人たちは、今や、主イエスの復活のメッセージを携えて、墓から帰って行くのです。彼女たちは全く新しい人へと造り変えられています。創世記1章で、初めに天地万物と人間とを創造された神が、今新しい週の初めの日、日曜日の朝に、主イエス・キリストの復活のメッセージを携えて、死の墓から出て、死から命へと向かう道へと急ぐ新しい人を再創造されたのです。

【8~12節】。主イエスの復活の最初の証人となった婦人たちの名前が10節に挙げられています。古代社会では一般に女性の社会的地位は高くなく、法廷での証言は取りあげられませんでした。ところが、聖書では、特にルカ福音書では女性の活躍が目立ち、重要な働きが託されている場面が多くあるのを確認することができます。しかもここでは、主イエスと長年行動を共にしていた12弟子たちと婦人たちとが対比されています。社会的地位が高く、証言能力も認められ、しかも主イエスと最も近くにいた弟子たちが、「たわ事のように思われ、信じることができなかった」のに対して、弱く、貧しく、能力のない婦人たちの方が男たちよりも先に復活の証人として選ばれ、その神のみ言葉を信じ、また主イエスの復活の証人として男たちに語り伝えているのです。

ここには、神の選びの不思議があります。神は主イエスの復活の証人という重要な役割を果たすために、社会的地位や人間的な知恵、能力を誇ることができる人をではなく、力弱く、貧しく小さな人をお用いになりました。それによって、いよいよ主イエスの復活の事実が、人間の側からではなく、神の側から、確かにされます。また、その出来事の偉大さがより強調されるのです。

婦人たちは主イエスの復活のメッセージを携えて墓から立ち去りました。このことは,象徴的な意味を持っています。これまでは、すべての人間の歩みは墓に向かっていました。死に向かっていました。けれども、主イエスの復活が起こったこの時からは、わたしたちの歩みは墓から出て、復活の命へと向かっていきます。わたしたちの罪のために十字架で死んでくださった主イエスによって、わたしたちの罪は完全に贖われ、救われています。そして、罪と死とに勝利され、復活された主イエスを信じる信仰によって、わたしたちは新しい復活の命へと向かう道へと歩みだすのです。もはや罪と死とに支配されることのない、自由と感謝と喜びをもって神と隣人とに仕えて生きる道へと歩みだすのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを罪と死と滅びから救い出してくださり、主イエスの復活の命に生きる道をお備えくださいましたことを心から感謝いたします。どうか、生涯を終えるまでこの道を歩ませてください。どのような困難や試練、苦しみの中でも、希望と喜びを失うことなく、復活の主イエスと共に歩ませてください。そして、終わりの日の神の国における救いの完成へとお導きください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

4月2日説教「主イエスと弟子たちとの最後の晩餐」

2023年4月2日(日) 主日礼拝(受難週)説教(駒井利則牧師)

聖 書:出エジプト記12章21~28節

    ルカによる福音書22章14~23節

説教題:「主イエスと弟子たちとの最後の晩餐」

 主イエスと12弟子たちの最後の晩餐が、ユダヤ人の最大の祭りである過ぎ越し祭の食事であったとルカによる福音書は伝えています。22章7節以下によれば、主イエスは過ぎ越しの子羊を屠るべき除酵祭の日に、弟子たちに過ぎ越しの食事の準備をするようにと命じておられます。そして、14節で「時刻になったので」とあるのは、過ぎ越しの食事を始める時刻のことで、それは出エジプト記12章などによれば、ユダヤの暦でニサンの月の14日の夕刻に子羊を屠り、日没後(ユダヤ人は日没から新しい一日が始まると考えましたから)、ニサンの月の15日が始まるのですが、家族ごとに集まって過ぎ越しの食事をするというのが習わしでした。その食事の席で、かつて神の強いみ腕によってエジプトの奴隷に家から解放され、神の民イスラエルが誕生したことを祝い、神に感謝したのでした。

 「時刻になったので」とは、その新しい一日が始まった、過ぎ越しの食事の時間が始まったという意味なのですが、このニサンの月の15日に、かつてのイスラエルの民の救いを喜び、神に感謝するその同じ日に、神のみ子主イエス・キリストが全人類を罪からお救いくださるために十字架につけられる日となり、その日に全世界のすべての人の救いが成就するであろう、そのようにして全人類の救いが成就される日、その時が今満ちたという意味をも含んでいます。それから、「イエスは食事の席に着かれた」というみ言葉は、十字架への道を進み行かれる主イエスの固い決意を表しているようにも感じられます。

 14節には、「使徒たちも一緒だった」と書かれていますが、ここで12弟子が使徒と呼ばれていることにも注目したいと思います。使徒という言葉は、一般には主イエスの復活と聖霊降臨後に教会が誕生してから、教会の宣教のために仕えるキリスト者を言う言葉ですが、それがこの最後の晩餐の場面ですでに用いられているのは、おそらくこの最後の晩餐、過ぎ越しの食事が、のちに教会の聖餐式として受け継がれていく、その継続性を強調しているからであろうと思われます。12弟子はここですでに初代教会の使徒の働きを受け継いでいるのです。

 ユダヤ人の過ぎ越し祭の食事と教会の聖餐式との連続性、継続性ということについてもう少し深く考えてみましょう。過ぎ越しの祭りの原点は出エジプト記12章に書かれているように、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から救い出される直前の夕食にあります。歴史的にはおそらく紀元前1300年前後のエジプト第19王朝、ラメセス二世のころであろうと推測されています。その夜の最初の過ぎ越しの食事から、イスラエルの民が荒れ野を旅した40年間にも毎年同じ日に過ぎ越しの祭りを祝い、約束の地カナンに定住してからの何百年もの間、さらにはイスラエル王国が滅亡し、民が諸国に離散したのちにも、それぞれの散らされた地で毎年過ぎ越しの食卓を囲み、主イエスの時代に至るまで、彼らは自分たちの祖先が主なる神の恵みにより、その強いみ腕によって、奴隷の家エジプトから救い出されたことを覚え、神に感謝し続けてきたのでした。過ぎ越しの祭りはイスラエル誕生の原点を祝う祭りです。神が全世界の民の中からイスラエルをお選びになり、ご自分の宝の民とされたというイスラエルの選びの原点、イスラエルの存在と命の原点、神の恵みと救いの原点を祝う祭りであったのです。

わたしたちの教会の聖餐式もまた同じような意味を持っています。同じようなと言うよりも、聖餐式は過ぎ越し祭の食事に新しい意味を加え、イスラエルの過ぎ越し祭の成就、完成であると言うのが正しいでしょう。福音書で主イエスが弟子たちと共に祝った過ぎ越しの食事は、ユダヤ人の過ぎ越しの食事の最後となりました。また、キリスト教会の新しい意味を持った聖餐式の最初となるのです。神がイスラエルの民をお選びになって始められた救いのみわざが、今主イエス・キリストによって全世界のすべての人のための救いのみわざとして成就し、その最終目標に達するのです。

ルカ福音書に書かれている過ぎ越しの食事は(これは共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書にほぼ共通していますが)、当時のユダヤ人の家庭で行われていた慣習に沿っているのですが、主イエスはそれに全く新しい意味と内容を付け加えています。出エジプト記12章などで定められている過ぎ越しの食事の進め方と比較しながら見ていくことにしましょう。

まず、15、16節で主イエスはこう言われます。【15~16節】。ユダヤ人の家庭ではその家の長、ふつうは父親ですが、過ぎ越しの食事の進行役を務めます。ここでは、主イエスが弟子たちの主人として、進行役を務めておられます。しかし、主イエスはただ進行役を務めておられるのではありません。実は、主イエスご自身がこの新しい過ぎ越しの食事、すなわち聖餐式の主人公として働いておられるのだということが分ります。15節でも16節でも、「わたし」すなわち主イエスが主語です。17節以下で、主イエスが新しい過ぎ越しの食事の意味を、すなわち聖餐式の意味を説明される文章でも、すべては主イエスが主語として語られており、主イエスが今なさる救いのみわざについて語っておられるということを第一に確認しておきましょう。神がイスラエルの民をお用いになって始められた救いのみわざを主イエス・キリストが今成就されるのです。

ユダヤ人の家庭では家長が過ぎ越し祭の食事の意味を家族と子どもたちに説明します。家長は言います。「かつて、神が自分たちの先祖をエジプトの奴隷の家から導き出された時、子羊の血を家の鴨井と門に塗ることによって、夜に滅ぼす者が来て、エジプトのすべての家の長男と家畜の初子とを撃つけれども、子羊の血が塗られたイスラエルの民の家の前は通り過ぎて行って、あなたがたの家には災いが及ぶことはない。その間に、あなたがたはエジプトを脱出しなさいと神は言われました。神はイスラエルの民を子羊の血によって贖ってくださり、エジプトの奴隷の家から救い出してくださったのです。その神の救いの恵みをいつまでも忘れないために、我が家でもこのようにして過ぎ越しの食事を共にしているのです」と説明します。

ところが、15、16節の主イエスの説明は全く違っています。15節の「苦しみを受ける前に」とは、主イエスがこれまでに何度も弟子たちに語られた主イエスの受難予告を思い起こさせます。主イエスはご自分がエルサレムで長老・祭司長たちによって殺され、三日目に復活されることを弟子たちに告げておられましたが、今やその時が来たのだと言われます。そして、迫りくるご自身の死と過ぎ越しの食事とを結び付けておられます。これによって、これから弟子たちと祝う過ぎ越しの食事に全く新しい意味が付け加えられたのです。

その新しい意味を三つにまとめてみましょう。一つには、主イエスは二度と過ぎ越しの食事をすることはないということ。すなわち、これが主イエスにとっての最後の過ぎ越しの食事になるということ、つまりは主イエスは地上から取り去られ、死ぬのだということがここでは語られているのです。主イエスの十字架の死の時が迫っているのです。弟子たちはまだだれもそのことに気づいてはいませんでしたが、主イエスははっきりとそのことを自覚しておられました。

二つ目は、イスラエルの民の出エジプトの救いの恵みを祝う過ぎ越しの食事はこれが最後になるということ。これからは、新しい神の民である教会によって、全世界のすべての人を罪から救う聖餐の食卓が始まるであろうということです。

三つ目には、終わりの日に神の国が完成されるとき、過ぎ越し祭で祝われてきた神の救いの恵みが最後の完成を見るであろうということ。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷の家から解放され、救われたことを祝う過ぎ越しの食事が、神の国が完成される日には、完全な形で成就され、その最終目的に達するのだ。すなわち、全世界のすべての人々が罪と死から解放され、罪ゆるされ、朽ちることのない永遠の命が与えられていることを喜び祝う神の国での大宴会、大祝宴が開かれる。教会の聖餐式はその時まで、その時を目指して続けられるであろうということです。

主イエスはご自分の死を自覚しておられますが、しかしこの場面には、悲しみも悲惨な様子も悲壮感も全くなく、むしろ希望と喜びに満ちています。主イエスはご自身の死をはるかに超えて、父なる神が定めておられるこの最後の目標にしっかりと目を据えておれら、その道を進んでおられます。

では次に、17~20節を読みましょう。【17~20節】。この場面の主イエスのみ言葉は、パウロがコリントの信徒への手紙一11章23節以下で、正しい聖餐式の執行を教えておられる箇所(これが今日のわたしたちの教会の聖餐式の制定語として読まれる箇所ですが)、それとほとんど一致します

旧約聖書の過ぎ越しの食卓では、家長である父親が子羊を屠ることとその血を塗ることの意味を語った後、苦菜を食べるのはエジプトでの苦しみを忘れないため、酵母が入っていない固いパンを食べるのは夜の間に急いでエジプトを出たので酵母を仕込む余裕がなかったから、などと説明するのですが、この日の主イエスの説明はそれとは全く違っています。

パンは「あなたがたのために与えられるわたしの体である」と言われ、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました。これは主イエスの十字架の死を言い表しています。主イエスが十字架上で裂かれた肉と流された血によって、ユダヤ人の過ぎ越しの祭りは全く新しい意味を与えられました。もはや、エジプトでのイスラエルの民の苦しみを象徴する苦菜を食べるのではなく、神のみ子ご自身がわたしたちの罪のために苦難の道を歩まれ、十字架の死を忍んでくださったのです。

また、もはや子羊の肉と血という、いわば代用品ではなく、罪なく、汚れなく、聖なる神のみ子のお体がささげられ、その血が注がれることによって、全人類の、すべての罪びとの贖いが完全に、永遠に成し遂げられたのです。それによって、主イエスを救い主と信じる人はみな、新しい神の民とされ、神の国での朽ちることのない永遠の命を約束されているのです。聖餐式はそのことの目に見える確かなしるしであり、またその恵みの保証であり、確証なのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたはわたしたちの救いのためにみ子をご受難と十字架の道へとお導きになられました。わたしたちがまだ自分の罪に気付かず、罪と戦うこともしていなかったときに、み子はわたしたちを罪から救うために苦しまれ、裁かれ、血のような汗を滴らせながら祈られ、そして、十字架におつきになられました。どうか、この受難週をみ子のお苦しみと十字架による救いの恵みとを覚えて過ごすことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、どうかこの世界があなたから離れて滅びへと向かうことがありませんように、あなたの義と真実によって支え、導いてください。

主イエス-キリストのみ名によって。アーメン。