1月28日説教「旧・新約聖書は神の言葉である」

2024年1月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

    『日本キリスト教会信仰の告白』連続講解(29回)

聖 書:詩編119編105~112節

    テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「旧・新約聖書は神の言葉である」

 『日本キリスト教会信仰の告白』をテキストにして、わたしたちの教会の信仰の特色について学んでいます。印刷物の3段落目、「旧・新約聖書は神の言(ことば)であり、その中で語っておられる聖霊は、主イエス・キリストを顕(あき)らかに示し、信仰と生活との誤りのない審判者です」。この告白の冒頭の箇所、「旧・新約聖書は神の言(ことば)である」について、きょうから数回にわたり、聖書のみ言葉に聞きながら学んでいくことにします。

 最初に、『信仰告白』について学び始めたときにも触れましたが、聖書と信仰告白の関係について、一般にこのように言い表します。「聖書はすべてを規範づける規範であり、信仰告白は聖書によって規範づけられた規範である」。聖書は、キリスト教会とわたしたち信仰者のすべての信仰と生活を規範づける唯一の、最高の規範であることは言うまでもありません。この文章の最後で、「信仰と生活との誤りのない審判者です」と告白しているのは、そのことです。

 信仰告白は、『日本キリスト教会信仰の告白』はもちろん、すべての信仰告白、あるいは信条と呼ばれているものは、聖書によって規範づけられています。

聖書を唯一の規範としていない信仰告白、他の何かを手本にしたり、他の何かを基準にしている文章は、それがどんなに優れた魅力的な言葉や思想、文学、哲学、あるいは神学で表現されていても、それは教会の信仰告白とは言えません。それは、健全な、また正統的な教会を立てるためには役立ちませんし、わたしたちの信仰を生み出したり、養ったりすることもできません。

 信仰告白は、聖書を唯一最高の規範とし、聖書の教え、教理、神の救いの真理を的確で明快な表現で言い表し、神の言葉である聖書に対する正しい信仰の応答として、教会の同意を得て、まとめられたものでなければなりません。そのような聖書に対する応答として、初代教会時代から今日に至るまで、多くの信仰告白、信条と呼ばれる文書が作成されてきました。

 そのようにして作成された信仰告白が、わたしたちの信仰の在り方を正しく方向付け、教会を健全に成長させ、また教会の一致を堅くするのです。

 次に、「旧・新約聖書」という表現についてですが、1953年に制定された文語文では、「新・旧約聖書」となっていたのを記憶しておられると思います。1985年の「口語文」でその順序が入れ替わりましたが、1890年(明治23年)の『(旧)日本基督教会信仰の告白』ではこう告白されていました。「新旧両約の聖書のうちに語り給う聖霊は宗教上のことにつき誤謬(あやまり)なき最上の審判者なり」。1953年の『信仰の告白』はそれを受け継いでいることが分ります。

 それが、1985年の「口語文」で「旧・新約聖書」と変更する際に議論になったこと紹介しておきます。1890年の『旧日本基督教会信仰の告白』で「新旧両約」と、新約聖書を先にした理由は、旧約聖書を軽んじていたからでは決してなく、旧約聖書を読む際には新約聖書の光の下で読まなければ、その本来の意味が理解されないのであり、新約聖書で主イエス・キリストによって預言が成就されたからこそ旧約聖書の預言が意味を持つのであって、旧約聖書だけで完結するのではない。新約聖書の成就によってこそ旧約聖書もまた完結する。そのことを強調するために、あえて歴史的な順序を逆にして「新旧」としたのでした。それが、旧日本基督教会の信仰であったし、1953年の『信仰の告白』はその理解を継承しています。これが一方の意見でした。

 他方、世界の信仰告白の中で「新・旧訳聖書」と言い表しているものは一つもないので、一般的な言い方で、「旧・新」とするのがよいのではないかという意見があり、最終的にはその意見が通りました。でも、これまでの理解が否定されたのではありません。わたしたちは旧約聖書も新約聖書も同じ神の言葉と信じ、それに優劣をつけることはありませんが、それとともに、旧約聖書はそれだけで独立してあるのではなく、新約聖書と一緒になり、両者が一つの神の言葉である聖書として理解しなければなりません。そうでなければ、旧約聖書だけを正典とするユダヤ教と同じになるからです。旧約聖書は新約聖書の光の中で、主イエス・キリストの十字架の福音の光の中で読まれなければなりません。そうである時に、旧約聖書は神とイスエルの民との古い契約の書であり、その契約が、主イエス・キリストによって立てられた新しい契約によって成就されている預言の書としての重要な役割を果たすことになるのです。

 そこで、旧約聖書と新約聖書との関係について少し付け加えておきたいと思います。旧約聖書を預言の書、新約聖書を成就の書と言い、旧約聖書の時代は待望の時、新約聖書の時代は想起の時という言い方をする場合もあります。預言と成就、また待望と想起、それは言うまでもなく、全世界の唯一のメシア・救い主なる主イエス・キリストの預言とその到来による成就のことであり、主イエス・キリストの到来を待望する時と、その主イエス・キリストの十字架と復活によって全人類の救いが成就したことを想起する時を指しています。

 したがって、旧約聖書も新約聖書もそこで語られている中心的な内容は主イエス・キリストです。宗教改革者カルヴァンは、「わたしたちは聖書を読むとき、その中にキリストを見いだそうとする意図をもって読まなければならない」と言っています。聖書は、旧約聖書でも新約聖書でもその全ページにおいて主イエス‣キリストを証しているのです。主イエス・キリストを語っているのです。

 旧約聖書は全部で39巻、新約聖書は27巻、計66巻、これがプロテスタント教会が一致して認めている正典です。その数の覚え方ですが、3×9=27、合わせて66と覚えてください。できれば、その全巻の順序と名前も覚えてください。覚え方は「鉄道唱歌」の曲に合わせて覚える方法があります。詳しくは、日曜学校の教師にお尋ねください。

 正統的な教会はこの66巻を正典と呼び、これ以外に教会と信仰を規範づける神の言葉はありません。教会とわたしたちの信仰のすべてはこの聖書に起源を持ち、聖書からすべての命と恵みを受け取ります。わたしたちが神の真理、まことの救い、永遠の命を得ることができるのはこの聖書からだけです。また、この聖書だけで、わたしたちが聞くべき神の言葉は十分です。ほかの何かは必要ではありません。宗教改革者たちはこのことを「神の言葉のみ」と表現しました。

 今日のキリスト教の3大異端と言われるグループは、みな聖書のほかにも彼らが正典とする書物を持っています。統一教会は聖書以外に『原理講論』を持っています。ものみの塔は、創始者のラッセルという人が書いた『われらの主の再臨の目的と方法』、その他の書物があり、モルモン教は『モルモン経典』等を聖書のほかに信じています。彼ら異端的教派が聖書だけで不十分であると主張することは、そもそも聖書を神の言葉と信じていないからであり、聖書に書かれている神の言葉だけでは人間の救いには不十分であるということを認めていることにほかなりません。それはキリスト教ではありません。

 しかし、わたしたちの信仰は、聖書は神の言葉であり、神は聖書においてわたしたちの救いにとって必要なすべてのことを語っておられる。だから、この聖書からなにも何も差し引かず、この聖書に何も付け加えるべきではない。この聖書の中に神の救いと神の真理、神の命のすべてが書かれていると信じ、告白するのです。申命記4章2節で神はイスラエルの民にこのように命じておられます。「あなたたちはわたしが命じる言葉に何一つ付け加えることも、減らすこともしてはならない。わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」。神はイスラエルの民が信仰によって神の民として生きるために必要なすべての言葉を語ってくださるので、そのほかの人間の言葉や知恵に頼るべきではなく、頼る必要もないのです。

 このように、旧約聖書の民イスラエルは神がお語りになるみ言葉に聞くことによって生きる信仰の民でした。今日わたしたちが読んでいる旧約聖書が最終的に編集されたのは、バビロン捕囚期以後、紀元前5世紀以降と考えられていますが、それ以前からイスラエルの民はそれぞれの時代で、預言者や祭司たちをとおして語られる神の言葉を聞いて、生きてきました。そのことを証しする旧約聖書のみ言葉を2箇所だけ取り上げてみましょう。一つは申命記8章3節です。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」。

 エジプトの奴隷の家から神の強いみ手によって導き出されたイスラエルの民は、荒れ野の40年間の困難な旅で、他に頼るべきものが何もない砂漠の生活の中で、ただひたすらに主なる神のみ言葉に聞くことによって生きるべきであり、生きることができるということを学んだのでした。

 詩編119編105節にはこのように書かれています。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」。暗い闇の中を、光なしには一歩も進むことができないように、聖書で語られている神のみ言葉はわたしのたどたどしい歩みを力強く導きます。困難や迷いが多い道を、重荷を抱えて生きなければならないわたしたちの人生の歩みの中で、神のみ言葉はいつどのような時にも、わたしを導き、支え、励まし、希望を与える命のみ言葉です。神はわたしたち一人一人に聖書をとおして語ってくださいます。

 新約聖書からも2箇所読みましょう。【ペトロの手紙一1章23~25節】

(428ページ)。この世界にあるものすべては、やがて移り行き、朽ち果てていくしかありません。しかし、神はわたしたちを永遠に朽ちることなく、変わることのない生きたみ言葉によって日々養い育ててくださいます。ここに、わたしたちの本当の命があります。来るべき神の国に至る永遠の命があります。

次に、【テモテへの手紙二3章14~17節】(394ページ)。わたしたちを罪から救う信仰を与えるのは聖書のみ言葉しかありません。どんなにすぐれた文学であれ、芸術であれ、あるいは高度な技術や高価な宝石であっても、わたしたちを罪から救うことはありません。わたしたちの罪のために、罪なき神のみ子が十字架で死んでくださったという福音こそが、わたしたちを罪と死と滅びから救うのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの救いと命のみ言葉をわたしたちにお語りくださいましたことを感謝いたします。弱く、倒れやすく、愚かな者に、どうぞ常に必要なみ言葉をお与えください。そのみ言葉に耳を傾ける信仰をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月21日説教「神は万事を益としてくださった」

2024年1月21日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:創世記50章1~26節

    ローマの信徒への手紙8章26~30節

説教題:「神は万事を益としてくださった」

 2019年4月28日から、わたしたちは創世記を主の日の礼拝で読み始めました。それから5年近くをかけ、きょうは創世記の最後の章、50章を読みました。その中で、わたしたちは次のような非常に印象深いみ言葉を聞きました。【19~20節】。

 このみ言葉は37章から始まったヨセフ物語のまとめであり、結論であると言えます。それだけでなく、12章からの族長アブラハム・イサク・ヤコブの全生涯と、創世記全体のまとめでもあり、さらには旧約聖書と新約聖書全体を貫いている主題であり真理であり、聖書全体において神がご計画しておられる救いの歴史のすべてを語っているみ言葉であり、そしてまたこれこそがイスラエルとの民とわたしたち教会の民の信仰の中心であると言ってもよいでしょう。

 使徒パウロは、ローマの信徒への手紙8章28節以下で、この神の救いのご計画が最終的に主イエス・キリストによって、完全に成就したと語っています。【28節】(285ページ)。創世記50章でヨセフが語った言葉、「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民の命を救ってくださった」。そして、パウロが語った言葉、「神を愛する者たち、ご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように働くということを、わたしたちは知っている」。神はそのようにして、旧約聖書においても新約聖書においても、人間たちの罪の歴史の中で、神の永遠の救いのご計画を確実に進めておられます。

 それゆえに、パウロがローマの信徒への手紙で続けて語っているように、どのような艱難も苦しみも剣も、死ですらも、主キリストにあってわたしたちに注がれている神の強い愛から、わたしたちを引き離すことはできないし、したがって、それらを恐れる必要はなく、わたしたちはそれらすべてにおいて勝ち得て余りあるのだということを確信することができるのです。

 わたしたちが創世記を読み始めたとき、1章3、4節にこのように書かれていました。「神は言われた。『光あれ』。こうして光があった。神は光を見て、良しとされた」。そして、31節にはこうありました。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。神が創造されたすべてのものは、神のみ心にかなった良きものでした。人間アダムとエヴァはことさらに神に似せて、神と共に歩む者として創造されたのでした。

 けれども、わたしたちはすぐにも、創世記3章で人間の罪と堕落について聞くのです。罪を犯した人間は神から姿を隠して生きねばならず、神の裁きを受けて額に汗して働き、ついには土に帰る、死すべき者となったのでした。しかし神はそれでもなお、人間を求めてやまず、「アダムよ、どこのいるのか」呼びかけてくださると聖書は語ります。

 創世記4章のカインとアベルの兄弟殺しの物語、7章からのノアの大洪水の物語、そしてまた11章のバベルの塔の物語と、人間の罪の歴史は続きました。けれどもまた、神はそのような罪の人間とこの世界とを決してお見捨てになることなく、なおも愛と憐みとをもって救いのみわざをなし続けてこられたことを、わたしたちは読みました。

 創世記12章からのアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語では、神の救いのご計画はより一層明確な神の契約として族長たちに受け継がれていきました。時に、彼らが疑ったり、道をそれたり、失敗したり、悪意や欺きによって争い合ったりした時にも、神はそれらのすべてをお用いになって、そのすべてを益にしてくださって、永遠の祝福と救いへと彼らを導かれたということを、わたしたちは何度も確認してきました。ヨセフが創世記50章20節で告白しているとおりです。

 わたしたちはここから一気に約2千年のイスラエルの歴史を飛び越えて、新約聖書へと目を移すとき、まさに主イエス・キリストの十字架においてこそ、その救いの真理が最もよくあてはまるということに気づかされます。「あなたがたはわたしに悪を企んだが、神はそれを善に変えてくださり、多くの民を救ってくださった」という救いの真理が、主イエス・キリストの十字架においてこそ最終的に成就され、神の永遠の救いのご計画がその最終目的に達したのです。すなわち、罪のない神のみ子が罪びとたちの悪意によって十字架に引き渡されるという、人間の罪のわざの頂点を、神はその罪のわざをもお用いになり、全人類の罪を贖うという、救いのみわざの頂点に変えたもうたのです。神は確かに愛する信仰者のために万事を益としてくださいました。

 さて、創世記50章は父ヤコブの死のために泣くヨセフの場面に始まり、ヨセフ自身の死の場面で終わります。この章には、何度も人間の死と葬りについて、またそれを嘆き悲しむ人間の姿が語られています。人間についての一つの物語の終わりが死であり、葬りであり、嘆き悲しむことであるということは、いつの世も変わらず、わたしたちすべてにも当てはまります。

しかし、ここでもまたわたしたちはその中で語られている20節のみ言葉を思い起こすべきです。「神はそれを善に変え、多くの民の命を救ってくださった」。神は人間の死と悲しみを越えて、そこでもまた救いのみわざをなしてくださるにだということをわたしたちは信じてよいし、信じるべきです。そしてまた、わたしたちはここにおいても、主イエス・キリストにおいてこそ、そのことが成就され、完成されたということを知っています。わたしたちが『使徒信条』によって、「主は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死者のうちから復活し」と告白しているとおりです。

 【1~3節】。ヨセフの父ヤコブの葬りの準備は、ヤコブ一族が寄留していたエジプトの流儀で行われました。エジプトでは死者をミイラにして長く保存する習慣がありました。死者が同じ肉体をまとって墓から出てくると考えられていたからです。エジプトの王たちが自分の体をミイラにしてピラミッド型の大きな墓に葬らせた歴史的遺産を今日わたしたちは目にすることができます。

 しかし、ヤコブの体に薬を塗ったのは、ミイラにしてエジプトの墓に葬るためではありませんでした。4節以下に詳しく書かれているように、彼の体を神の約束の地カナンにあるアブラハムの墓に葬るために、それまで保存しておくための処置でした。ヤコブの体はエジプト流儀で処理され、彼の葬儀もエジプトの王と同じほどの国葬級の盛大な規模で行なわれましたが、それは彼がエジプト人になって、エジプトの墓に葬られるためではありませんでした。ヤコブは寄留の地エジプトで死んだのですが、しかし彼は神に選ばれた民の一人であり、神の約束のみ言葉を信じて生き、そして死んだ、信仰者であることを決してやめることはありません。ヤコブは、父祖アブラハム、イサクと同様に、神の契約の民の一人として、神の祝福を受け継ぎ、神の約束の地を受け継ぐ信仰者として、カナンの地に葬られました。ヤコブの死によっても、神の約束のみ言葉は決して効力を失うのではありません。ヤコブの死を越えて、神の契約はなおも成就へと向かっていきます。

 前の章、49章29節以下で、ヤコブは死の前にその信仰を告白し、息子たちに自分をカナンの地にあるアブラハムの墓に葬るように命じていました。ヨセフはその父の遺言をエジプト王ファラオに告げ、王の許可をもらって父を葬るためにカナンへの旅に出ます。50章4節から14節までに、その様子が詳しく描かれています。ヨセフはエジプトに来てから長くこの地に住み、エジプトではファラオに次ぐ最高の位についたとしても、彼もまた父ヤコブの信仰を受け継ぎ、父ヤコブの命令に従っています。否、それ以上に、神の約束のみ言葉に聞き従っているのです。そして、アブラハムがカナンの地で妻サラを葬るために購入したマムレの墓に父を葬りました。

 次に、【15~21節】。父ヤコブの死は彼の子どもたちに数十年前の弟ヤコブに対する罪を呼び起こしました。37章に書かれていたように、兄たちが父にかわいがられていた弟ヨセフをねたみ、彼をエジプトの商人たちに売りとばしたということが、ヤコブ物語の始まりでした。最後の章で、そのことがもう一度思い起こされています。父ヤコブが死んで、ヨセフが自分の権威を自由に発揮できるようになったら、ユセフは自分たちに復讐するかもしれないと兄たちは恐れました。

 16節以下で、兄たちがヨセフに、父が死ぬ前にこのように言っていたと告げていますが、それについてはこれまで何も書かれていませんでしたから、もしかしたら、何とかして弟ヨセフにゆるしてもらおうとする兄たちの作り話であったのではないかと想像する注解者もいます。そうであるとしても、17節後半の言葉は真実です。「どうか、あなたの父の神に仕える僕たちの咎を赦してください」と兄たちは言います。父の遺言だから赦してほしいと願っているだけではありません。互いに一人の神に仕える僕たちであるゆえに、互いにゆるし合わなければならないのであり、また事実ゆるし合うことができるのです。肉による父と子、兄弟たちというつながりによるだけではなく、それ以上に強い信仰によるつながりがあるゆえに、互いにゆるし合い、和解し、真に一つの信仰者の群れとされるのです。一人の主なる神ゆえに、その神を信じる信仰のゆえに、その神に共に仕える僕たちであり、一つの群れであるゆえに、わたしたちもまた互いにゆるし合う者たちとされているのです。主キリストがこの弱い兄弟のためにも死んでくださったゆえに、わたしたちは互いにゆるし合い、受け入れ合うことができるのであり、そうするように招かれているのです。

 ここにこそ、人間同士の真の和解が成立します。神が唯一の主なる神として信じられ、礼拝されるところに、すべての信仰者がこの神の僕として仕え、また互いに仕え合うところに、真の和解が与えられます。19節以下のヨセフの兄たちに対する寛容なゆるしの言葉も、その根底にあるのは主なる神への信仰です。主なる神がすべての人間たちの罪や悪や欺きや憎しみをも越えて、それらを貫いて、あるいはそれらをお用いになって、すべてを善に変え、すべてを益とされ、ご自身の救いのみわざをなしてくださるという信仰こそが、ゆるしの思いを生み出し、和解を生み出していくのです。

 22節からはヨセフの死と彼が最後に言い残した遺言が書かれています。【24~25節】。ヨセフの死によってヨセフ物語の主題が終わるのではありません。神と族長たちとの契約、神の約束のみ言葉が消えてしまうのではありません。神の救いのみわざ、神の救いの歴史はなおも続けられます。わたしたちは次回からは、創世記に続く出エジプト記を読んでいくことになります。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたの永遠なる救いのみわざは、人間たちの罪やつまずきや不信仰によっても、とどまることはありません。この世界のさまざまな争いや混乱、わざわいや困窮によっても、あなたの救いの恵みは失われることはありません。どうか、この苦悩する世界を顧み、救ってください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月14日説教「異邦人のペンテコステ」

2024年1月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書32章15~20節

    使徒言行録10章44~48節

説教題:「異邦人のペンテコステ」

 カイサリアに駐留するローマ軍の兵士コルネリウスとその一家が洗礼を受けてキリスト者となったという出来事が、使徒言行録10章1節から11章8節まで書かれています。これは一つの出来事としては使徒言行録では最も長い記述になっています。また、同じ場面が何度も繰り返して記録されています。この出来事が初代教会にとって非常に重要な意味を持っていたということを示しています。

旧約聖書では、神はイスラエルの民を選ばれ、この民をとおして救いのみわざをなさいましたが、新約聖書に至って、主イエスがこの世においでくださったことによって、神の救いのみわざは全世界のすべての民、すべての人々へと拡大されていったのですが、その大きな変革と言うか、転換と言うか、しかしそれは本来の神のご計画であったのですが、その大きな転換が初代教会の中でどのように行われていったのかということを、わたしたちはここから知ることができます。

 前回学んだ10章34節から43節までの、コルネリウスの家での使徒ペトロの説教を少し振り返ってみましょう。この説教は、使徒言行録に記されているいくつかのペトロの説教の中でユダヤ人以外の異邦人を対象にした唯一の説教です。ペトロの説教は、2章に書かれていたペンテコステの日の説教をはじめとして、すべてはユダヤ人を対象にしていましたが、ここでの異邦人を対象にした説教では、少しの変化が見られます。ペトロの説教の中心は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音であることは彼の説教のすべてに共通していましたが、42節からは、主イエスの救いのみわざが全世界のすべての人を対象にしていることが語られています。

 【42~43節】。まず42節では、ペトロをはじめとして主イエスに選ばれた12弟子たちは、主イエスの救いのみわざを宣べ伝える証し人として、この世へと派遣されているその使命について語られています。実は、これこそが神によって先に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人全体の使命なのです。イスラエルも12弟子も、何らかのすぐれた点があったから神に選ばれたのではありませんでした。小さな奴隷の民、貧しい一人一人であったにもかかわらず、神の愛と憐みによって先に選ばれ、神の救いにあずかる恵みを与えられているのです。それは、先に選ばればれた人たちが他の人々に神の救いの恵みの証し人となるためです。ここに集められているわたしたち一人一人にとっても、事情は同じです。

 42節で語られているもう一つのことは、ペトロたちが語るように命じられた内容は、主イエス・キリストが「生きている者と死んだ者との審判者」として父なる神によって定められているということです。わたしたちが『使徒信条』で告白しているように、主イエスは「十字架で死んで、三日目に復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。そこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます」。全世界のすべての人が、終わりの日の審判の前に立たされるのです。

 それとともに、43節では、主イエスを信じる人はだれでもみな主イエスのみ名によって罪をゆるされるという福音が、すでに旧約聖書の中で預言者たちによって預言されていたということが語られています。

 このようにして、ペトロの異邦人に対する説教は、主イエスの十字架と復活の福音が、今や全世界のすべての民、すべての人に宣べ伝えられているということが高らかに宣言されているのです。主イエスの十字架と復活の福音は、それを聞いて信じる人には罪のゆるしと救いを与え、信じない人には永遠の裁きと滅びをもたらすのです。そのことにおいては、ユダヤ人であるか異邦人であるかの区別はもはやなくなったのです。

 では、このペトロの説教を聞いて、コルネリウスとその一族はどのように応答したのかについて、44節以下を読んでいきましょう。

 【44~46節a】。この44節以下の出来事は、「異邦人のペンテコステ」と言われます。2章に書かれていた、エルサレムでの弟子たちとユダヤ人の上に聖霊が注がれ、最初の教会が誕生したのと同様に、ここでは異邦人の上に聖霊が注がれ、カイサリアに異邦人教会が誕生したからです。

 44節に「ペトロが……なおも話し続けていると」と書かれているのは、彼の説教が中断されたようにして、彼ら一同の上に聖霊が降ったことを表現しているように思われます。でも、ペトロの説教が中途半端で、未完成であったというのではありません。ペトロは語るべきことを語り、一同は聞くべきことを聞いたのですが、そのような人間の行為をはるかに超えた力をもって聖霊なる神が働かれたということをここでは強調していると思われます。「主イエスを信じる者はだれでもその名によって罪のゆるしが受けられる」との43節のペテロの説教がすぐに成就したのです。主イエスの福音が語られるところでは、その語られたみ言葉と共に聖霊が働き、人間の能力や願いをもはるかに越えて、聖霊が救いのみわざをなしてくださるからです。

 この時に起こった異邦人のペンテコステを、2章に書かれていたユダヤ人のペンテコステと比較しながらみていきましょう。最初に、ペンテコステが起こった場所ですが、2章ではエルサレム市内にある主イエスの弟子の一人の家でした。ここでは、エルサレムから北へ80キロほどの地中海沿岸の都市カイサリアにあるローマ軍の百人隊長コルネリウスの家です。聖霊は場所が変わり、時代が変化しても、常に変わらず、み言葉と共に働いてくださいます。

 次に、聖霊が注がれた対象は、2章では主イエスの12弟子をはじめ、主イエスに従ってきた120人ほどの信者たちとペトロの説教を聞いた数千人のユダヤ人。彼らの多くは主イエスの十字架の死と復活を実際に見た人たちでした。この10章では、先に神に選ばれた民ユダヤ人ではなく、彼らからは異邦人と呼ばれていたコルネリウスと彼の家族、彼の親族や部下たち、正確な人数は分かりませんが、27節では「大勢の人が集まっていた」と書かれていました。

 ユダヤ人は、聖霊の賜物は神に選ばれた民ユダヤ人にだけ注がれると考えていました。しかし今、ユダヤ人以外の異邦人にも聖霊が注がれたのです。45節には、ペトロと一緒に来たユダヤ人たちがそのことを実際に目撃して、大いに驚いたと書かれています。主イエスの福音がユダヤ人と異邦人の区別を取り除いたのです。主イエスの福音が全世界のすべての人に語られ、すべての人に救いの道が開かれたのです。

 三つ目に、2章では、聖霊を受けた弟子たちはいろいろな他国の言葉で主イエスの救いの出来事について語り出したと書かれていました。ここでは、「異邦人が異言を話し、また神を賛美している」と書かれています。2章と10章で起こった現象が全く同じだったのかどうかについてはよくわかりませんが、2章4節で「ほかの国の言葉で話しだした」の「言葉」と10章48節の「異言を話し」の「異言」とは同じギリシャ語ですから、同じと考えてよいのではと思われます。いずれにしても、聖霊を受けた人は人間の知恵や知識では語りえない、神から直接に与えられた言葉を語り、主イエス・キリストによってなされた神の救いのみわざを大胆に、力強く語るということにおいては一致しています。

 聖霊なる神はわたしたちに主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る言葉を授けてくださいます。また、聖霊はその語られた説教を聞いて信じ、救われるという恵みを与えてくださいます。それらのすべては、聖霊のお働きです。神はわたしたちの欠けの多い言葉をもお用いになって、救いのみわざをなさいます。聖霊はまた、わたしたちのかたくなで悟るに鈍い魂に働きかけ、主イエスの福音を信じる信仰へと導いてくださり、わたしたちのすべての罪をゆるし、わたしたちを罪と死と滅びから救うという驚くべきみわざをなしてくださいます。聖霊はそのようにして、わたしたちとこの世にあって、神とわたしたちとを隔てていたすべての壁や溝を取り払い、わたしたちを神との豊かな交わりの内に導き、わたしたちを神の子どもたちとしてくださるのです。

 47節以下を読みましょう。【47~48節】。異邦人にも聖霊が注がれるのを見たペトロは、彼らもまたユダヤ人と同じように、洗礼を受けキリスト者となる道へと招かれていることを悟りました.ここにおいて、ユダヤ人と異邦人との間にあった壁は取り除かれ、異邦人もまた主イエス・キリストの福音によって救われる道が完全に開かれたのです。

 2章のユダヤ人のペンテコステにおいては、ペトロの説教を聞いたユダヤ人およそ3千人が悔い改めて、洗礼を受け、罪のゆるしの恵みを与えられ、そののちに聖霊の賜物が与えられると約束されていましたが、ここでは先に聖霊の賜物が異邦人に与えられ、そののちに洗礼を受けたという順序になっています。洗礼を受けることと聖霊の賜物が与えられることの順序が逆になっています。しかし、これには本質的な違いはありません。聖霊は主イエスの福音を聞いて信じる信仰を与え、洗礼を受ける決意を与え、また洗礼を受けた信仰者の信仰生活を導かれるからです。そのすべてが聖霊のお働きだからです。

 最後に、「イエス・キリストの名によって洗礼を受ける」ということについて考えてみましょう。2章38節のエルサレムでのペンテコステの時にも、ペトロはこのように言っています。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していだたきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」。また、8章16節でも、「人々は主イエスの名によって洗礼を受けていた」とあり、19章5節でも同じ表現が用いられています。初代教会では「主イエス・キリストの名による洗礼」が行われていたようです。のちになって、今日のように「父と子と聖霊のみ名によって」と、三位一体の神のみ名による洗礼が行なわれるようになっていきました。

 「主イエス・キリストのみ名による洗礼」の深い意味について、パウロはローマの信徒への手紙6章で、「主イエス・キリストに結ばれるための洗礼」と表現して語っています。その個所を読んでみましょう。【6章3~5節】(280ページ)。主イエス・キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活にあずかり、わたしが古い罪の自分に死に、新しい復活の命に生かされるのです。

 

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、罪の中にあって死んでいたわたしたちを、あなたは主イエス・キリストの十字架と復活の福音によって新たに生かしてくださり、あなたの民として神の国へとお招きくださいますことを感謝いたします。どうか、あなたが永遠にわたしたちと共にいてください。わたしたちを日々新しい聖霊の賜物によって満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

1月7日説教「エルサレムに向かう主イエス」

2024年1月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:エレミヤ書1章4~10節

    ルカによる福音書9章49~56節

説教題:「エルサレムに向かう主イエス」

 わたしたちが続けて読んでいるルカによる福音書を含めた初めの3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカを「共観福音書」と言います。この3つの福音書は主イエスのご生涯を描いている記事の順序が同じだけなく、時には一字一句が同じ個所もたくさんあります。そこで、これら3つを4番目のヨハネ福音書と区別して「共観福音書」と呼ぶようになりました。

 今日の研究によれば、マルコ福音書が最も早く、紀元60年代に書かれ、マタイとルカはマルコを参考にしながら、他の資料をも加えて70年代に書かれたと推測されています。ちなみに、ヨハネ福音書は少し遅れて80年から90年代に書かれたとされています。

 きょう朗読されたルカ福音書9章50節までは、マルコ福音書とほとんど同じ順序で書かれていますが、51節からはマルコの順序からは離れ、またマタイとも違って、ルカ特有の記事が続くようになります。それが、9章51節から19章27節まで続きます。この長い箇所は「ルカの大挿入」と言われます。ルカ独自の資料がこの箇所に多数加えられています。また、この箇所は、主イエスのガリラヤ地方での伝道が終わり、エルサレムに向かって進んで行かれる途中の出来事が記されていますので、「主イエスのエルサレム旅行記」とも言われます。

 51節にこのように書かれています。【51節】。この文章からも分かるように、エルサレムへの旅行とはいっても、それは観光目的とかだれかに会う目的の旅行ではもちろんありません。主イエスが「エルサレムに向かう決意を固められた」のは、「天に上げられる時期が近づいた」からです。「天に上げられる」とは、主イエスの昇天を指していると思われますが、ここでは、主イエスがエルサレムで経験されるすべてのこと、つまり、受難週の初めの日に苦難の僕(しもべ)としてロバに乗ってエルサレムに入場され、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、偽りの裁判で裁きを受け、人々からの辱めと屈辱と嘲笑の叫びの中で十字架につけられ、死んで三日目に復活され、40日目に天に昇られるまでのすべての出来事を含んでいます。それはまた、主イエスがすでに2度ご自身の受難予告で語っておられたことです。父なる神がお定めになったこの受難への道を、主イエスは今、固い決意をもって進み行かれるのです。

 ルカ福音書がエルサレムでの主イエスのこれらのみわざを「天に上げられる」と表現しているのは、それによって神の救いのみわざが成就されるという意味を含んでいます。主イエスはユダヤ人指導者たちの悪意や憎しみに敗北してしまうのではありません。人々の罪や拒絶によって、神の救いのみわざが挫折してしまうのではありません。主イエスは罪に勝利されます。すべての人間たちの過ちや憎しみや拒絶に勝利されます。そして、神の救いのご計画を成し遂げられます。その勝利のしるしとして主イエスは天に上げられたのです。

 では次に、主イエスがエルサレムへの旅を開始される直前の49節以下と、その直後の52節以下に記されていることについて、今学んだ51節のみ言葉との関連性を考えながら学んでいくことにしましょう。

 【49~50節】。ヨハネは主イエスの12弟子の一人です。5章10節によれば、ガリラヤ湖の漁師で、ゼベダイの子ヤコブの兄弟です。この二人の兄弟の名前は54節にも出てきます。ヨハネはペトロとともに、12弟子の中での中心的な存在でした。でも、その中心的な存在であるヨハネが主イエスのみ心を正しく理解してはいなかったことが、ここと、また52節以下でも、明らかにされているのです。

 ヨハネの誤解がどこにあったのでしょうか。そのヒントが49節の「お名前を使って」という言葉にあります。お名前とは主イエスのお名前のことです。ここでは、主イエスのお名前が持っている大きな権威と力が重要な意味を持っています。それは、すぐ前の48節にも共通しています。「主イエスのみ名のために」一人の小さな子どもを受け入れることが、重要なのです。子どもそれ自体に何らかの価値があるからではなく、主イエスがその小さな子どもを愛され、その子どもを受け入れてくださるからこそ、その小さな者を受け入れる信仰者こそが、神の国では大きな者と認められるのです。主イエスのお名前が、48節でも49節でも、決定的に重要な意味を持っているのです。

ところがヨハネは、ある人が主イエスのお名前を使って、そのお名前の権威と力によって悪霊を追い出していたのを見、自分たち、すなわち12弟子たちの集団に加わって一緒に行動するようにその人に要求したが、その人はそれを断ったので、主イエスのお名前を使って悪霊を追い出すことをやめさせたというのです。それに対して主イエスは「やめさせてはならない」と言われました。

なぜならば、主イエスのお名前が持つ天からの権威と力が悪霊に勝利しているからです。悪霊に勝利できるのは、神のみ子である主イエスのほかにはだれもいません。その主イエスのお名前以外の何ものによってもそれはできません。主イエスのお名前が権威をもってその力を発揮しているところには、神のご支配が、神の国が始まっているからです。

ところが、ヨハネは自分たちの集団を大きくすることをより重要だと考えていたようです。あるいは、37節以下に書かれていたように、自分たちには悪霊を追い出すことができず、主イエスからお叱りを受けたことがあるのを覚えていたのかもしれません。でも、重要なことは主イエスのお名前です。主イエスのお名前のもとにすべての救われた人たちが集合するのです。主イエスのお名前を信じ、主イエスのお名前によって洗礼を受け、主イエスのお名前によって集められた教会に、すべての信仰者は結集するのです。

51節以下に書かれる主イエスのエルサレム行きは、そのことをよりはっきりさせます。主イエスの十字架のもとに、全世界のすべての民、すべての人々が、罪ゆるされ、救われた神の国の民として、結集するようになるのです。

52節以下を読んでみましょう。【52~56節】。主イエスはエルサレムに向かわれる時にサマリア地方を通って行かれました。当時、ガリラヤからエルサレムへのルートは二つありました。一つは、ガリラヤからまっすぐに南下してサマリアを通過するルート、この道だと100キロ余りを3日くらいかかります。もう一つは、いったんヨルダン川を渡って東へ迂回していくルート、この道ではさらに1日から2日が必要になります。

なぜこのようなう回路が必要になったのかと言えば、ユダヤ人とサマリア人との長い間の民族的・宗教的対立が原因していました。紀元前721年に北王国イスラエルとその首都サマリアはアッシリア帝国によって滅ぼされました。アッシリアは征服した地に外国人を移住させ、サマリアには多くの外国人が移り住むようになりました。そのために、サマリアのユダヤ人は異教の人々と混じり合い、民族的にも宗教的にもユダヤ人としての純粋さを失うことになったのです。南王国ユダはダビデ王家の王たちによって治められ、民族的・宗教的にユダヤ人としての純粋性を重んじてきましたから、サマリア人を異教徒に身を売り渡した軽蔑すべき異邦人とみなし、対立するようになったのです。両者の対立が決定的になったのは、紀元前4世紀ころ、サマリア人はエルサレムの神殿に対立してゲリジム山に独自の神殿を建ててからでした。

そのようなわけで、ユダヤ人はサマリア地方を通り抜けることを避けて、わざわざ遠回りをして、ヨルダン川東側のう回路を通るようになりました。けれども、主イエスはサマリアを通って行かれました。その理由は書かれていませんが、サマリアの町々村々でも神の国の福音を宣べ伝えるためであったことは明らかです。サマリアの人々も神の国の福音を聞き、信じて、救われるために、主イエスは信仰深いユダヤ人ならば避けて通るであろうサマリアへの道をお選びになったのです。そして、弟子のヤコブとヨハネとを先に派遣して、自分たちの宿や食事の手配などをさせました。

しかし、サマリアの人たちは主イエスの一行を歓迎せず、宿を提供することを拒みました。特に、主イエスの一行がエルサレム神殿に向かっていると知った彼らは、彼らが建てたゲリジム山の神殿が無視されていると感じて、敵対心をむき出しにしました。

そこで、主イエスと自分たちの道を邪魔されたヨハネとヤコブは、天からの裁きを求めてサマリア人を焼き滅ぼすことを主イエスに提案しました。この提案には、ユダヤ人のサマリア人に対する長い憎しみや敵対心が現れているのは明らかです。弟子たちは主イエスを迎え入れようとしないサマリア人に神の裁きが降るのは当然だと考えていました。けれども、主イエスは弟子たちの提案を拒否されました。主イエスが今エルサレムに向かっておられるのは、まさにそのような民族間の敵対心や対立を取り除くためであったからです。弟子たちにはまだそのことが理解されていませんでした。

最後に、主イエスがエルサレムに向かう決意を強くされ、その道を進み行かれたことが、この箇所でどのような意味を持つのかを2つのポイントにまとめてみたいと思います。一つには、弟子たちの信仰の無理解と誤解を取り除き、彼らが真実に主イエスの弟子として、福音宣教の使者として世界に遣わされていくため訓練のためであったということです。エルサレム行きの直前の48節以下では、彼らはだれが一番大きいかと論じ合っていました。49節以下では、主イエスのお名前の権威と力とを理解せず、自分たちのグループを大きくすることに関心を向けていました。エルサレム行き直後のきょうの箇所でも、彼らは主イエスのエルサレム行きが裁きのためではなく、すべての人の救いのためであることを理解していませんでした。主イエスの十字架の死と復活、そして昇天と聖霊降臨は、それらの弟子たちの無理解と誤解を取り払い、彼らを初代教会の使徒として固く立たせたのです。

第二には、主イエスの十字架と復活は、神とわたしたち人間との間の罪という深く大きな溝を取り除き、わたしたちを神のみ前で罪ゆるされ、救われた神の民として迎え入れる救いのみわざであるとともに、その十字架の福音によってすべての民族や人々の間にあった分裂や憎しみ、対立をも取り除き、主イエスの十字架のもとにすべての人を一つの神の民、一つの礼拝の民とする救いのみわざでもあるということです。主イエスは10章25節以下で、親切なサマリア人のたとえをお話になりました。ユダヤ人からは軽蔑され、救いから除外されていたサマリア人こそが、今や主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって救いへと招き入れられているのです。わたしたちもまた異教の民であり、小さな取るに足りない一人一人でしたが、主イエスの十字架によって救いへと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、あなたがこの罪の世を顧みてくださり、み子の十字架によって全人類をお救いくださったことを感謝いたします。どうか、この混乱と分断と試練の中にある世界にあなたからの和解と平和と希望とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。